第1章: 絶望のラーメン屋と無邪気な救世主
第1章: 絶望のラーメン屋と無邪気な救世主
鴨川翼(かもがわ つばさ)は、カウンター越しの客席を見渡しながら、腹の底で渦巻く焦燥をスープの湯気に紛らわせていた。時刻はまだ昼の十二時を少し回ったばかりだというのに、店内に人影はまばらで、空いた椅子たちが無言の重圧を背中に突きつけてくる。翼は無意識のうちに、よれついたバンダナの下から額の汗をぐいと拭い、寸胴の縁にこびりついた豚骨の脂が放つ獣じみた匂いを、肺の奥で噛みしめるように吸い込んだ。
「味は悪くない……むしろ、自信はあるんだ」
その呟きは、まるで自分自身への言い訳めいて、濁った換気扇のうなり声に吸い込まれていった。翼は脱サラして、このラーメン屋「翼屋(つばさや)」を開いてから一年と少し、親戚の醤油屋から取り寄せた丸大豆の芳醇な香りが、豚骨と鶏ガラの白濁スープに奥行きを与え、口に含めば誰もが「これはうまい」と言ってくれる。それなのに、この客足のなさはどうだ。小麦の高騰が仕入れを圧迫し、ここ一か月はまさに火の車で、夜になればカウンターの木目のひとつひとつが、迫りくる閉店の影を刻んでいるように思えてならなかった。
そのとき、店の引き戸ががらがらと音を立て、ひょっこりと顔を覗かせたのは、再従妹にあたる菱川ひまりだった。彼女は腰まで届く黒髪を無造作に揺らしながら、まるで仔犬のようにきょろきょろと店内を見回し、翼の姿を認めると、ぱあっと大輪の花が咲くような笑顔を見せた。
「おじさん、こんにちは! 今日、学校早く終わったから、遊びに来ちゃった」
彼女の声は、カウンターの隅に積まれた薄暗い雰囲気を一瞬で払拭するほどに澄んでいた。翼は、この幼かった娘がいつしか十五歳の女子高生になっていたという事実を、そのむっちりとした太ももがホットパンツから無防備に飛び出している様を見て、改めて突きつけられる思いがした。まだぺったんこの胸のあたりは、白いTシャツがかすかな膨らみを控えめに押し上げているだけだが、露わになった肌は白くてきめ細かく、陽の光を浴びて淡く輝いているようだ。
「おう、ひまりか。珍しいな、こんな時間に。まあ、座れよ。でも、見ての通り暇でな」
翼が苦笑いを浮かべながらそう言うと、ひまりは小首をかしげて店内をぐるりと見渡し、それから突然、両手をぽんと打ち鳴らした。
「ねえ、おじさん。私、なにかお手伝いしようか? お客さんがあんまりいないみたいだし、私がいたらちょっとは賑やかになるかなって」
無邪気な申し出に、翼は最初こそ「いいよいいよ」と手を振って断ろうとしたが、ひまりの押しの強さというか、まっすぐな好意を前にすると、その手もいつのまにか止まっていた。彼女の天使爛漫な気前のよさは、幼いころから少しも変わっていない。押しには弱いが積極性のある彼女自身の性格も相まって、一度言い出すとこちらが折れるまで引き下がらないのだ。
その日から、ひまりは放課後になるとふらりと「翼屋」に顔を出すようになった。Tシャツにホットパンツという、ほとんど夏の部屋着のような格好でカウンターに立つ彼女の姿は、それだけで店の空気をがらりと変えた。最初はただの偶然かと思われたのだが、ひまりがいる日は明らかに客足が違う。それも、背広姿の中年男性や、一人暮らしの学生らしき若者たちが、なぜか遠慮がちに、けれど確かな熱を帯びた視線を、彼女の太ももやうなじに這わせながらラーメンをすするのだ。
翼はその様子を、カウンターの奥からじっと観察していた。ひまりはといえば、自分が男性客たちの視線を集めていることにまるで気づいていない。いや、むしろ、気づかないふりをしているのかもしれない。ときおり、スープを運ぶ際に、ふと腰をかがめた拍子に太ももの付け根がぎゅっと食い込むと、客たちは一様に息を呑み、どんぶりを持つ手をわずかに震わせるのだ。その瞬間、翼の鼻腔をくすぐったのは、ラーメンの豚骨臭ではなく、少女の汗ばんだ肌から立ちのぼる、甘やかでいて、どこか鼻の奥にまとわりつくような淫臭だった。

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