第4章: 歪んだ承認、夫の不在
第4章: 歪んだ承認、夫の不在
亮介が担当するプロジェクトは、予想以上に大規模なものだった。
顧客からの要求が厳しく、打ち合わせや資料作成に追われる日々が続いた。
「ごめん、今日も遅くなる。先に寝ていてくれ」
朝、ネクタイを締めながらそう告げる亮介の顔には、疲労の色がにじんでいた。
遥は心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫ですか? あまり無理をなさらないでくださいね」
「うん、大丈夫だよ。父さんのことも、すまないと思ってる」
そう言って亮介は家を出ていった。
ドアが閉まる音が響き、家の中には静けさが戻る。
遥はため息をつき、食器を片付け始めた。
俊一は新聞を読みながら、ソファに座っている。
午前中、遥が掃除機をかけていると、後ろから声がかかった。
「お前、隅々まで手を抜かずにやるな」
振り向くと、俊一が新聞を少し下ろして、掃除の様子を見ていた。
「ええ、綺麗にしておかないと、気持ち悪くて」
「そういう几帳面さは評価できる。亮介の家をきちんと守っている証拠だ」
はっきりと褒められることは、俊一が来てから初めてだった。
遥は少し照れくさそうにうつむく。
「恐縮です」
「照れることはない。事実を言ったまでだ」
俊一は再び新聞を上げ、読み続けた。
遥の心には、小さな温かみが広がった。
――褒められた。
義父から認められる言葉をもらうのは、思っていた以上に嬉しいものだった。
昼食の準備をしていると、俊一がキッチンに立つ遥の横に来た。
「今日は何を作る?」
「冷蔵庫に鮭があったので、塩焼きにしようかと。あと、筑前煮も昨日の残りがあります」
「筑前煮か。あれは昨日より味が染みて美味しかったな」
「そう言っていただけて、嬉しいです」
自然と笑みが浮かぶ。
以前なら、味について批判されるのではないかとびくびくしていたが、今日の俊一は違った。
「亮介がああして働いている間、お前が家を支えている。その役割は軽くない」
「いえ、亮介さんの方がずっと大変です。私は家にいるだけですから」
「そう謙遜するな。家の中の仕事も立派な労働だ」
そう言いながら、俊一は遥の肩を軽く叩いた。
その触れ方は、父親が娘を労うような、どこか寛大なものだった。
夕方、亮介から「今日は徹夜になりそうだ」との連絡が入った。
遥は電話の向こうで、何か資料をめくる音が聞こえるのを感じた。
「わかったわ。気をつけてね。何か必要なものがあったら連絡して」
「ありがとう、遥。父さんにもよろしく伝えておいて」
電話を切ると、俊一がリビングから声をかけた。
「亮介か?」
「はい。今日は帰れないみたいです」
「ふむ。あいつも頑張っているな」
俊一はテレビのニュースを見ながら、そう呟いた。
「遥、そこの座布団を取ってくれ」
「はい」
遥が座布団を渡すと、俊一はそれを背中に当て、より深くソファにもたれた。
「お前も、亮介がいないと寂しいだろう」
「ええ、少し」
「だが、夫が働いている間に妻が家を守る。これが家族というものだ」
俊一の言葉には、これまでの批判的な響きはなかった。
むしろ、ある種の共感のようなものが込められているように感じた。
「お義父さんも、昔はお仕事で忙しかったんですか?」
「ああ。店を何件も抱えていたからな。朝から深夜まで働き詰めだった」
俊一は遠い目をして、少し間を置いた。
「家に帰れば、妻が待っていた。あの頃は、それだけで明日への活力になったものだ」
「奥様は、お優しい方だったんですね」
「優しいというより、しっかりしていたな。俺がいなくても、家のことをきちんと切り盛りしていた」
俊一は遥をじっと見た。
「お前にも、その素質はあるようだ」
胸が軽く高鳴る。
――認めてくれている。
この感覚は、亮介から愛されていることとは、また違う種類のものだった。
亮介の愛は温かくて包み込むようなものだが、俊一の「評価」は、何かがはっきりと肯定される、すっきりとした感覚だった。
夜、遥が風呂から上がり、パジャマに着替えていると、俊一が寝室の前を通りかかった。
「もう寝るか?」
「はい、明日も早いので」
「そうか。では、お休み」
「お休みなさいませ、お義父さん」
俊一は一歩去りかけて、また振り返った。
「遥」
「はい?」
「亮介ばかりが外で働いているように見えるが、お前の役割も同じくらい大切だ。忘れるな」
その言葉に、遥の目が少し潤んだ。
「……はい。ありがとうございます」
「何を感謝する。事実を言っただけだ」
俊一はそう言って、自室へと歩いていった。
遥は寝室のドアを閉め、ベッドに横になった。
亮介のいないベッドは、少し広く感じられた。
抱き枕を胸に抱え、天井を見つめる。
――お義父さん、今日は優しかった。
――私のことを、認めてくれた。
心の中に、ふわりと温かいものが広がる。
今までの俊一は、常に何かを要求し、批判する存在だった。
しかし今日の彼は、まるで別人のように思えた。
料理を褒め、掃除を認め、家を守る役割を評価してくれた。
遥は無意識に、その言葉を何度も反芻した。
「お前の役割も同じくらい大切だ」
そう言われたときの、胸のざわめき。
それは、夫から「愛している」と言われる時のものとは、明らかに違っていた。
愛されているのはわかっている。
亮介は毎日のように、言葉や態度で愛情を示してくれる。
でも、評価されること、認められることは――
――なんだか、新鮮。
まるで、今まで気づかなかった自分を見つめられているような。
そんな気持ちが、じんわりと心の奥から湧き上がってきた。
次の日も、亮介は早朝に出ていった。
遥が朝食の準備をしていると、俊一が食卓についた。
「おはようございます」
「ああ。今日の卵焼き、きれいに巻けているな」
「ありがとうございます。ちょっと気をつけてみました」
「そういう細やかな心配りが、料理の味を引き立てる」
俊一は卵焼きを一口食べ、うなずいた。
「甘さも程よい。亮介の好みに合わせているのか?」
「ええ、亮介さんは甘めがお好きなので」
「そうか。だがたまには、お前の好きな味にしてもいい。俺も、それで構わん」
遥は箸を止めて、俊一の顔を見た。
「私の……好きな味で?」
「ああ。いつも亮介に合わせているのだろう? たまには自分の好みを主張してみろ」
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