第2章: 招かざる客、父の影
第2章: 招かざる客、父の影
夕食を終え、食器を片づけていると、亮介のスマートフォンがリビングのテーブルで震えた。
彼が手を伸ばし、画面を見つめる。
――あれ?
遥は洗い物の手を緩め、ふと夫の顔に目をやった。
亮介の眉が、かすかに寄っている。
「……お父さんからだ」
そう呟く声に、どこかためらいが混じっていた。
「ご無沙汰していますって。最近、体調がすぐれないらしくて……」
亮介は携帯を握りしめ、視線を遥に向けた。
彼の口元は、笑おうとしているのだが、どこかぎこちない。
「心臓に、ちょっとした不調があるみたいなんだ。一人暮らしが不安だって」
リビングの柔らかな照明が、亮介の頬に影を落とす。
遥は泡立った手を拭い、ゆっくりと夫の元へ歩み寄った。
「それは……心配ですね」
「ああ。それで……」
亮介は言葉を切った。
彼は目を伏せ、テーブルの木目を指でなぞり始める。
「……同居してくれないか、って相談なんだ」
一瞬、空気が止まった。
遥は息を飲む。
――お義父さんが?
頭の中で、初めて会った時のことを思い出す。
神谷俊一。
背筋が伸びた、がっしりとした体格の男性。
亮介に似た面影はあるが、目つきは鋭く、無意識に周囲を測っているような印象を受けた。
あの時、遥は一礼しながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。
俊一は軽くうなずいたきり、じっと遥を見つめていた。
その視線が、肌の上を這うように感じて、思わず背筋が震えたのを覚えている。
「亮介さんは……どうお考えですか?」
遥はそっと尋ねた。
亮介は深く息を吐いた。
「迷っている。正直なところ」
彼は顔を上げ、遥の目を真っ直ぐに見つめる。
「お父さんは……強い人なんだ。自分の考えを絶対だと思っているところがある」
そう言いながら、亮介は小さく肩をすくめた。
「子供の頃から、いつも彼のペースで物事が進んでいた。それが……今の俺の家庭にまで及ぶのかと思うと」
言葉の端々に、幼少期から刷り込まれた遠慮のようなものがにじんでいる。
遥は胸が少し痛んだ。
「でも、体調が悪いんでしょう? 家族なんだから、お世話するのは当然だと思います」
彼女は自然に、そう口にした。
良き妻であること。
家族を思いやること。
それが、遥にとっての当然だった。
亮介の目がかすかに揺れた。
「……本当に、それでいいのか?」
彼の声は優しく、遥の意志を確かめるように響く。
「お父さんは、結構うるさいところがあるって言っただろう? 遥の生活にも、いろいろ口を出すかもしれない」
「大丈夫です」
遥は微笑んだ。
「家族が増えるのは、嬉しいことですよ。亮介さんのお父さんですもの」
その言葉に、亮介の表情がほんの少し緩んだ。
彼は遥の手を握り、そっと握り返した。
「……ありがとう。じゃあ、返事をしようか」
*****************
一週間後、神谷俊一は最小限の荷物と共に、マンションのドアを叩いた。
ドアを開けた亮介の背後から、遥が顔を覗かせる。
俊一は真っ先に、息子ではなく遥の方を一瞥した。
「お邪魔する」
低く響く声。
遥は思わず背筋を伸ばす。
「いえ、どうぞ。お疲れでしょう、早くお上がりください」
彼女は丁寧に頭を下げた。
俊一は軽くうなずき、靴を脱ぎながらリビングへと足を踏み入れた。
彼の視線が、部屋全体をゆっくりと見渡す。
ソファ、テーブル、テレビ台。
窓から差し込む午後の光。
整理整頓された空間。
「……まあ、きちんとしているな」
俊一は満足げに頷いた。
「亮介の家らしく、整っている」
亮介が荷物を運びながら、苦笑する。
「いや、ほとんど遥がやってるんだ。掃除も片付けも」
「そうか」
俊一は振り返り、再び遥を見た。
その目は、評価するように遥の全身を一瞬で掃った。
頭のてっぺんから足先まで。
まるで、品定めをするかのように。
遥はわずかにたじろいだ。
――なんだろう、この視線。
俊一の灰色の瞳は、亮介の優しい茶色の目とはまったく違っていた。
透き通るような、冷たさを感じさせる色。
それが、遥の顔、首筋、胸元、腰へと流れていく。
「……これから、よろしくお願いします、お義父さん」
遥はもう一度、深く頭を下げた。
髪が肩から滑り落ち、首筋が露わになる。
「ああ」
俊一は短く応じた。
「お前も、無理するなよ。体調が悪いのはこっちなんだからな」
そう言いながら、彼の口元がほんの少し歪んだ。
笑おうとしているのか、それとも別の感情なのか。
遥には判別できなかった。
「お父さん、荷物はこの部屋に。南向きで日当たりがいいから」
亮介が、客間兼書斎となる部屋のドアを開けた。
俊一はうなずき、そちらへ歩き出す。
遥のすぐ脇を通り過ぎるとき、ほんの一瞬、彼の腕が遥の上腕に触れた。
ごく軽い接触。
けれど、遥ははっきりとその体温を感じた。
亮介より少し高い、乾いた熱。
そして、古い革と、どこか薬品のようなかすかな匂い。
遥は息を止めた。
彼女は動かず、俊一が部屋に入るのを見送る。
背中は広く、肩幅が亮介よりずっとがっしりとしている。
白髪混じりの短い髪が、首筋の筋肉の隆起を強調していた。
「遥?」
亮介の声に、はっと我に返る。
「あ、ごめんなさい。何かお手伝いしましょうか?」
「いや、大丈夫。お父さんの荷物は少ないから」
亮介は笑ったが、その目は遥の顔を探るように見つめていた。
「どうした? なんか、緊張してるみたいだけど」
「……ええ、少し」
遥はうつむき、自分の手のひらを見つめた。
「お義父さんと、長く一緒に住むのは初めてですから。ちゃんとやれるか、ちょっと不安で」
「大丈夫だよ」
亮介は遥に近づき、そっと肩に手を置いた。
「お父さんも、初めは戸惑うかもしれないけど、きっと打ち解けられるさ。遥がいてくれるから、俺は安心してる」
その優しい言葉に、遥は胸が温かくなった。
――そうだ。
――亮介さんがいる。
彼女は顔を上げ、夫に微笑みかける。
「ありがとう。頑張ります」
その時、客間から俊一の声が聞こえた。
「亮介。この机、位置を変えたいんだが、手を貸してくれ」
「はい、今行くよ」
亮介は遥にウィンクし、部屋へと向かった。
遥は一人、リビングに残された。
彼女はそっと胸に手を当てる。
心臓が、なぜか早く打っている。
――気のせいかしら。
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