第3章: 侵食される日常、義父の基準(続き 2/2)
「お前、その口の色はなんだ」
「え……」
「ふしだらだ。良家の妻が、そんな派手な色を塗ってどうする」
遥の顔から血の気が引いた。
亮介も驚いて父を見た。
「父さん、そんなこと言わなくてもいいだろう。別に……」
「だめだ。家の中にいる分にはともかく、外でそんな格好をしていたら、どんな目で見られるか。すぐに拭け」
俊一の声には、議論の余地のない命令が込められていた。
遥は震える手でポケットからティッシュを取り出し、唇を拭い始めた。
ピンクの色がティッシュに滲み、だんだん薄くなっていく。
彼女の目には、理由もわからない涙がにじんでいた。
「すみません。もうしません」
「そうだな。これからは、そういう軽はずみなことは慎むように」
俊一は満足そうにうなずき、自分の席に座った。
亮介は遥の肩に手を置き、小声で言った。
「大丈夫? 父さん、ちょっとうるさいだけだから、気にしなくていいよ」
「うん……平気。亮介さん、行ってらっしゃい。気をつけてね」
遥は無理やり笑顔を作り、亮介を玄関まで見送った。
ドアが閉まると、彼女はその場にしゃがみ込み、涙をこらえきれなくなった。
――なんで泣いてるんだろう。
彼女自身もわからなかった。
ただ、俊一の言葉に逆らえなかった自分の無力さと、なぜか彼の評価を気にしてしまっている自分が、情けなくてたまらなかった。
リビングから俊一が新聞を読む音が聞こえる。
遥はゆっくり立ち上がり、顔を洗いに行った。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、リップを拭き取った後で少し色が悪く見えた。
彼女はそっと自分の唇に触れた。
――もう、二度と塗らない。
そう心に決めると、台所の片付けに向かった。
今日も一日、家事が待っていた。
そして彼女の心には、知らぬ間に、義父の基準という新しい物差しが浸透し始めていた。
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