第2章: 招かざる客、父の影(続き 2/2)
俊一の視線の記憶が、皮膚の上を再び這う。
あの鋭い、評価するような目。
触れた腕の、乾いた熱。
窓の外では、夕日がマンション群を赤く染めていた。
今日まで二人だけだったこの空間に、もう一人の人間の気配が、確かに混ざり始めている。
遥は深呼吸を一つ。
――大丈夫。
――家族なんだから。
彼女は自分に言い聞かせ、キッチンへと向かった。
そろそろ夕食の支度を始めなければ。
今日は、俊一の好みも聞いておかないと。
彼女が冷蔵庫を開け、中身を確認していると、背後から再び俊一の声がした。
「遥」
遥はびくりと肩を震わせ、振り返った。
俊一はリビングの入口に立っていた。
彼は腕組みをし、遥を見下ろすような位置にいる。
「今日の夕食は何だ?」
「あ、はい……鯖の味噌煮と、ほうれん草のお浸し、豆腐とわかめのお味噌汁を考えていました。お義父さん、お魚はお好きですか?」
遥は早口になってしまった。
俊一の視線が、キッチン全体、そして遥のエプロン姿をゆっくりと見渡す。
「鯖か。いいだろう」
彼は一歩、遥に近づいた。
「味は濃いめにな。俺は薄味が苦手だ」
そう言いながら、彼の目が遥の手元に止まる。
冷蔵庫から取り出された鯖のパック。
まだ、何も手を加えられていない状態。
「……亮介は、薄味を好むようだがな」
その言葉に、遥ははっとした。
――そういえば、亮介さんは確かに……
彼女はうつむき、鯖のパックを握りしめる。
「了解しました。濃いめに味付けしますね」
「ああ」
俊一は満足そうにうなずくと、今度は遥の顔をまっすぐ見た。
「お前、しっかりしてるな。亮介の嫁として、及第点だ」
褒め言葉なのか。
けれど、その言い方が、どこか上から目線で。
遥は複雑な気持ちになりながらも、笑顔を作った。
「ありがとうございます」
俊一は何も言わず、リビングへと引き返していった。
彼の背中を見送りながら、遥は再び胸に手を当てた。
――なんだか、ずっと見られているような気がする。
――気のせい、かな。
彼女は振り返り、調理を始めた。
包丁を握る手に、ほんのわずかな震えがあった。
亮介が客間から出てきて、キッチンに入ろうとした時、遥はさっきよりも少し強く微笑んだ。
「もうすぐできますから、少し待っていてくださいね」
「ああ、手伝おうか?」
「大丈夫です。今日は、お義父さんをお迎えする日ですから」
亮介は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
彼はリビングのソファに座り、テレビのリモコンを手に取る。
遥は背中を向けたまま、野菜を刻み続けた。
ナイフがまな板を打つ音。
ガスの火が燃える音。
そして、リビングから聞こえる、俊一がソファに座る時の革のきしむ音。
三つ目の音が、この空間の新しい日常の始まりを告げていた。
遥はふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。
――大丈夫。
――きっと、上手くやれる。
彼女は自分に言い聞かせ、また包丁を動かした。
けれど、なぜか背中の一点が、じんわりと熱く感じられた。
まるで、誰かの視線がずっとそこに留まっているかのように。
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