第2章: 水曜日のワインと吐息の行方

第2章: 水曜日のワインと吐息の行方
水曜日の夜、聡実は一度家に戻り夕飯の支度を済ませてから、再び「アンティカ」のドアを開けた。
店内には既に柔らかな照明が灯り、中央の大きな木製テーブルには白いリネンのクロスがかけられていた。テーブルの上には、カンパリ・オレンジのグラスが並び、康之が厨房でフライパンを振るう音が軽やかに響いている。
「あら、聡実さん!お待ちしてました」
腰まで届く長い黒髪を緩く結んだマスターの妻・美沙が、ふっくらとしたお腹を抱えながら笑顔で迎えてくれた。彼女の横には、ランチタイムに働いている女子大生のアルバイト、渚も立っていた。
「こんばんは。遅くなってすみません」
聡実は手に持ってきた小さな箱を差し出した。
「気持ちばかりの、マカロンです。みなさんでどうぞ」
「わあ、ありがとうございます!すごく可愛い」
渚が箱を受け取り、中を覗いて歓声を上げた。
厨房から康之が顔を出した。彼は普段のシェフジャケットではなく、ダークグレーのタートルネックにスラックスという、くつろいだ姿だった。
「おや、聡実さん。いらっしゃい。ちょうどいいタイミングですよ」
康之の声は、いつもの仕事中の凛としたトーンとは少し違い、柔らかく温かい響きを帯びていた。
聡実は胸のあたりが少し熱くなるのを感じた。
三人でテーブルにつき、康之が次々と料理を運んできた。前菜は新鮮なモッツァレラとトマトのカプレーゼ、それに自家製のパンネッタを乗せた温かいブリュッスケッタ。メインは、ホタテとアサリがたっぷりのトマトソースパスタ、そしてオーブンでじっくり焼かれた仔羊のロースト。
「マスター、すごい……これ全部、今日のうちに準備したんですか?」
聡実が目を見張ると、康之は謙遜そうに肩をすくめた。
「いやいや、昼の営業が終わってから少しずつね。でも、聡実さんに喜んでいただけたら、作り甲斐がありますよ」
その言葉に、聡実の頬がほんのり赤らんだ。
ワインは、康之がイタリア旅行の際に直接仕入れてきたという、トスカーナ産の赤。樽香のしっかりとした、深みのある味わいだった。
「では、聡実さんのお手伝い、本当にありがとうございます。乾杯」
康之がグラスを掲げると、美沙と渚も続いた。
「乾杯!」
グラスが触れ合う澄んだ音が、店内に響いた。
最初は少し緊張気味だった聡実だったが、美味しい料理とワイン、そして和やかな会話に、次第に肩の力が抜けていった。美沙が妊娠中のエピソードを話したり、渚が大学での出来事を面白おかしく語ったり。
康之はそんな二人の話を優しく聞きながら、時折聡実に目を向け、うなずいた。
「聡実さんも、最近はお店の仕事にずいぶん慣れてきましたね。最初はおぼつかないところもありましたけど、今では立派な戦力ですよ」
「そんな……まだまだ至らないところばかりです」
聡実は照れくさそうにグラスを傾けた。
ワインの瓶は一本、また一本と空いていった。聡実は普段なら控えるところだが、今夜はなぜかグラスが空くたびに康之が注いでくれるのを、つい受け入れてしまった。
身体の芯から温かくなり、頬も耳も熱を帯びているのがわかった。視界の端が少し柔らかくぼやけ、世界が甘く緩やかに回転しているような感覚。
――ああ、ちょっと飲みすぎたかな。
理性の片隅でそう思いつつも、もう一つの自分はこの浮遊感を楽しんでいた。子育てが一段落し、夫との関係が安定しすぎて……何かが足りないと感じていた空虚な部分が、今、この瞬間だけは温かい液体で満たされているような気がした。
「そろそろ、私……帰らないと」
美沙が時計を見て、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、まだまだ話足りないけど、お腹の子が私を早く寝かせろって言ってるみたいで」
「あ、私も明日の授業が早いので」
渚も立ち上がった。
聡実は慌ててグラスを置き、自分も帰ろうとした。
「いえいえ、聡実さんはもう少しゆっくりしていってくださいよ。せっかくの歓迎会ですから」
康之が優しく、しかししっかりとした口調で言った。
「でも、片付けが……」
「そんなの、後でゆっくりやればいいんです。せっかく楽しい時間ですから、台無しにしないで」
康之の言葉に、美沙も渚も頷いた。
「そうですよ、聡実さん。旦那さんにも了承もらってるんでしょう?ゆっくりしてってください」
「うん、マスターが送ってくれるって言ってるから、大丈夫だよ」
二人にそう言われ、聡実は再び席に腰を下ろした。
美沙と渚が「お疲れ様でした」「ありがとうございました」と声をかけながら店を出ていく。ドアが閉まる音がして、店内には突然、深い静けさが訪れた。
今まで賑やかだった空間が、一気に空虚になったように感じた。
「さてと……」
康之がため息をつき、残ったグラスや皿を集め始めた。
「あ、私も手伝います」
聡実が立ち上がろうとした瞬間、ふらりと足元が揺らいだ。
「おっとっと」
康之が素早く彼女の腕を支えた。彼の手のひらは大きく、暖かく、厨房仕事で少し硬くなった皮膚が聡実の肌に触れた。
「大丈夫ですか?かなり酔ってますね」
「すみません……つい、楽しくて」
聡実は顔を上げ、康之の目を見た。彼の黒い瞳が、柔らかい照明の中ではるかに深く、優しく見えた。
「いいんですよ。久しぶりに羽目を外すのも、健康には必要ですから」
康之はそっと手を離し、テーブルの片付けを続けた。
聡実もそばについて、ナイフやフォークをまとめ、グラスを重ねた。二人の動きは自然に調和し、無駄がない。一緒に働いてきた数週間で、お互いのリズムを感じ取っていた。
シンクに食器を運び、康之が洗い始めると、聡実はふきんを手に拭き上げの役割を買って出た。
湯気が立ちのぼる厨房は温かく、ワインの酔いがさらに回っていくようだった。
「ねえ、マスター」
聡実がふと口を開いた。自分でもなぜその質問をしたのか、よくわからなかった。口が先に動いた。
「はい?」
康之は振り向かず、手を動かしながら応えた。
「マスターと美沙さんって、どうやって……うまくやってるんですか?」
言葉にした後で、聡実は自分の唐突さに恥ずかしくなった。しかし康之は驚いた様子もなく、静かに答えた。
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