第1章: 空白の時間、優しいマスターの手(続き 2/2)
「それは自然な気持ちですよ。長く連れ添うと、どうしても生活のパートナーとしての顔が前面に出てきちゃいますからね。でも聡実さん――」
彼は包丁を置き、ゆっくりと聡実の方へ一歩近づいた。
エプロンの上からも感じられる肉付きの良い腕、厨房の熱気で微かに湿ったシャツの胸元。
聡実は思わず息をのんだ。
「もっと、自分を大切にしてもいいんですよ」
その声は、低く、温かく、聡実の鼓膜を優しく撫でるように響いた。
「あなたはまだ四十歳です。これからもっともっと、美しく、輝ける時期なんです。それを、ただ『母親』『妻』という役割の中に閉じ込めておくのは、もったいないと思いませんか?」
「マスター……」
「私は、美沙が妊娠してから、あの子を大切に思う気持ちは変わらないけど……」
康之の目が一瞬、遠くを見るようになった。
「やっぱり男ですから、欲求不満な部分はあります。妻の身体を気遣って、無理はさせられない。でも、そういうのは置いといて――」
彼はまた一歩近づいた。
二人の距離は、もう互いの体温が感じられるほど近い。
聡実の背中は流し台に軽く触れ、逃げ場がない。
康之の身体からは、オリーブオイルとハーブ、それに男の汗が微かに混じった、厨房特有の匂いが立ち上っていた。
その匂いは、聡実の鼻腔をくすぐり、なぜか胸の奥をざわつかせた。
「聡実さん自身が、自分の身体や心の声に、もっと耳を傾けていいんだと思います」
康之は最後まで笑顔を崩さなかった。
だが、その瞳の奥には、紛れもない「男」の色がちらりと光っているように見えた。
聡実はドキドキと鼓動が早まり、手に持ったじゃがいもを握りしめる。
股間のあたりが、微かに熱を帯びるような、そんな気がした。
「……はい」
かすかに震える声で、聡実はそう答えるしかなかった。
康之の言葉は、まるで長い間眠っていた自分の中の何かを、優しく揺り起こした。
危うさと甘美が入り混じったその感覚は、確かに聡実の胸の内にじんわりと染み渡り、小さな澱のようなものを溶かし始めていた。
彼は再び包丁を手に取り、何事もなかったように野菜を切り始めた。
しかし、その背中はさっきまでよりも少し大きく、聡実にとってはもう、単なる「雇い主」以上の存在に見えてしまっていた。
――もっと、自分を大切に。
その言葉を胸の中で反芻しながら、聡実は窓の外に目をやった。
春の陽射しは柔らかく、道路を行き交う人々の姿はのんびりとしていた。
すべてが平穏な日常の中で、ただ彼女の心の中だけが、静かに、確かに揺れ動き始めているのを感じた。
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