第1章: 空白の時間、優しいマスターの手
第1章: 空白の時間、優しいマスターの手
午後二時を回ると、イタリアンカフェ「アンティカ」はいつもの静けさに包まれた。
ランチタイムの賑わいが去った後の店内は、陽の光が床に長く伸び、テーブルには使いかけのナプキンがほんの少しだけ乱れている。
そんな景色が、三沢聡実にはどこか心地よく映った。
「今日もお疲れ様です、聡実さん。ゆっくり片付けましょうか」
戸田康之――皆がマスターと呼ぶ店の主人が、厨房から優しい声をかけてきた。
白髪交じりの黒髪を短く整え、アロハシャツの上にエプロンをかけている。
がっしりとした体格だが、動きは無駄がなく、厨房で長年働いてきた男の落ち着きがにじみ出ていた。
「はい。食器はこのままオートワッシャーへ入れればいいんですよね」
聡実は少し緊張した口調で答えた。
主婦業以外で人に雇われるのは、学生時代のアルバイト以来だ。
息子の新(あらた)が中学に上がり、昼間の時間がぽっかり空いたのは事実だった。
夫の敏明は「好きなことをしたら」と優しく言ってくれたが、いざとなると何をしていいかわからない。
そんな時、常連だったこの店のマスターから、「妻の美沙が妊娠で手伝えなくなり、困っている」と打ち明けられ、つい手を挙げてしまったのだ。
「そうですよ。ただし、ナイフとフォークは別にしてくださいね。刃物は傷みやすいから」
康之は聡実の隣に立ち、流し台を共に仕切るように動いた。
彼の手元は早くて正確だ。
聡実が一つ食器を拭いている間に、彼は三つも四つも片付けてしまう。
「マスター、本当に早いですね」
「何十年もやってると、体が覚えちゃうんですよ」
康之はふっと笑った。
その笑顔には、年齢よりもどこか若々しい活気があった。
聡実はふと、このマスターがバツイチで、今の妻・美沙とは年の差夫婦だと聞いたことを思い出した。
美沙は二十八歳、今は妊娠中期で自宅で静養中だ。
聡実自身が四十歳だから、マスターとは十歳差になる。
――年の差って、案外気にならないものなのかな。
そんなことをぼんやり考えていると、康之が声をかけた。
「聡実さんは、お子さんが中学生になって、少し時間ができたんですよね」
「はい。新が小さい時は目が離せなくて、一日中あたふたしていたんですけど……」
聡実は拭いていた皿を手に止め、少し遠い目をした。
「いざ、昼間に一人になると、何だか虚しいというか。夫は仕事だし、息子は学校だし。自分の時間ができたのは嬉しいはずなのに、なんだかぽっかり穴が空いたみたいで」
「それはよくわかりますよ」
康之は深くうなずき、手を休めずに話し続けた。
「子育てって、ある意味で自分のすべてを注ぎ込む仕事ですからね。それが一段落すると、自分というものがふわふわ浮いてしまう。私も、前の結婚で子供はいませんでしたが、店を守ることに全てを注いでいた時期があって。ふと気づくと、自分が何をしたいのかわからなくなっていたことがありました」
その言葉に、聡実は胸を軽く衝かれた。
まるで自分の心の内を覗かれているようで、少し恥ずかしい。
しかし同時に、初めて誰かに理解されたような、ほんのりとした安堵も感じた。
「そう……なんですか」
「ええ。ですから、聡実さん、今は焦らなくていいんですよ」
康之は振り返り、聡実の目をまっすぐ見つめた。
その瞳は黒く、深く、優しさの底に何か強い芯のようなものが光っている。
「空いた時間を、ゆっくりと自分で埋めていけばいい。まずは、こうして外に出て、誰かと関わってみる。それだけでも、ずいぶん世界が変わると思いますよ」
「……はい」
聡実は思わずうつむいた。
なぜか胸の奥が熱くなり、目の隅が少し潤んでしまいそうだった。
夫の敏明にも、ママ友たちにも、こんなふうに深く共感されたことはなかった。
敏明は優しいが、仕事で疲れているせいか、妻の細かい心情の変化にはなかなか気づいてくれない。
「子育てが一段落して良かったね」とは言ってくれるが、その先の空虚さまでは見えていない。
「あ、すみません。余計なことを言ってしまいましたか?」
「いえ、そんなことありません」
聡実は慌てて顔を上げ、必死に笑顔を作った。
「むしろ……とても、救われました。ありがとうございます、マスター」
「よかった。それより、聡実さん、これからもっとここの仕事に慣れていただかないといけないので、よろしくお願いしますね」
康之は再び笑顔で、そう言って厨房の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、聡実は自分の胸に手を当てた。
心臓が、少しだけ速く打っていた。
――久しぶりに、誰かに心の底から認められた気がする。
その感覚は、どこか甘く、そして危うい予感をほんのりと伴っていた。
午後三時を過ぎると、アルバイトの女子学生も帰り、店内は完全に二人きりになった。
ランチの後片付けはほぼ終わり、次は夜の仕込みの準備が始まる。
康之は野菜を切る音を規則的に響かせながら、時折、聡実に話しかけてきた。
「聡実さんは、よくご主人とここにいらっしゃってましたよね。仲良さそうで、いいご夫婦だなって、いつも思ってました」
「あら、そうですか?」
聡実はじゃがいもの皮を剥きながら、照れくさそうに微笑んだ。
「夫は確かに優しい人です。仕事も頑張ってくれるし、家族思いで……私、恵まれてる方だとは思ってます」
「でも?」
康之の言葉に、聡実ははっとした。
彼は包丁を止めず、ただ自然にそう聞く。
「……でも、最近は、なんていうか……子どもを一緒に育てる同士、みたいな感じなんです」
言葉が零れるように出てきた。
自分でも驚いた。
こんなこと、誰にも話したことがないのに。
「もちろん、それは悪いことじゃないんです。夫婦って、そういう側面もあるでしょうし。でも、たまに……昔みたいに、ただ男女として見つめ合う時間が欲しいな、って思うときが、あるんです」
言ってしまった後で、聡実は顔が火照るのを感じた。
何を言ってしまったのだろう。
相手は雇い主の男性だ。しかも、たった数時間前までほとんど他人同士だった。
しかし康之は、深刻な顔もせず、むしろ穏やかにうなずいた。

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