第2章: 逆恨みと、待ち伏せ
第2章: 逆恨みと、待ち伏せ
学校から続く細い路地は、夕日にオレンジ色に染まり、いつもより長い影を落としていた。板谷健次郎は、コンクリートブロックの上にしゃがみ込み、何度も携帯ゲーム機のボタンを押しては、苛立ったように舌打ちをしていた。今日もまた、あの椎名美鈴のせいで、柏木大輝をいじめることが中途半端に終わってしまった。教科書を投げつけ、からかってやろうとした瞬間に、サッと現れたあのショートカットの女が、空手の構えなんて見せやがって。手下の連中はみんな逃げ出し、結局自分だけが恥をかく羽目になった。
――くそっ。あの女め。
思い出すだけで腹が立つ。クラスでは自分が一番力が強く、誰も逆らわなかった。なのに、あの転校してきたばかりの女だけは、わけもわからずにいじめを止めに入ってくる。しかも空手なんて習ってやがる。男のくせに女に守られてる柏木もむかつく。あいつ、顔が女みたいに可愛いから、余計にいじめたくなるんだ。
「にいちゃん、まだ来ねえのかよ」
ぶつくさと呟くと、路地の向こうから大きな足音が近づいてきた。見上げると、学ランをだらしなく着崩した、背の高い中学生の一団が現れる。先頭に立つのは、金髪をリーゼントのように逆立てた、目つきの鋭い兄・貫太郎だ。
「おう、健次郎。待たせたな」
貫太郎ががっしりとした肩をすくめて笑う。その背後には、三人ほどの手下がついている。皆、小学生を見下すような、遊び半分の笑みを浮かべていた。
「にいちゃん、頼むよ! あの女、ほんっとにむかつくんだ!」
健次郎はブロックから飛び降り、兄の前に立ちはだかるように訴えた。
「柏木っていう奴をいじめてると、必ず現れやがるんだ。で、空手のマネなんかしやがって、オレたちを脅すんだよ! この前なんか、こっちに向かって蹴りの真似までしやがった!」
「へえ」
貫太郎は興味深そうに顎に手をやった。細い目が、さらに細くされる。
「女が空手か。面白えじゃねえか。で、その女ってやつ、どんなガキだ?」
「椎名美鈴って言うんだ。ショートカットで、いつも半ズボンはいてて、男みてえに動き回ってる。でも、顔は結構整ってる……っていうか、可愛いんだよ、あれ。だから余計にむかつく!」
「可愛いのに男っぽいか。そりゃまた変な組み合わせだな」
手下の一人がげらげらと笑った。
「貫太郎の兄貴、そいつ、ちょっと躾けてやんないか? 小学生のくせに生意気だって話だし」
「ああ、そうしようぜ」
貫太郎の口元が、ゆっくりと歪んだ。それは、弟の健次郎がよく知る、何かいたずらか悪戯を思いついた時の、残忍でわいせつな笑みだった。
「女の子なら、もっとおしとやかにしてなきゃな。よし、お前たちがよく通る道、教えろ。ちょっと『お・も・て・な・し』してやるよ」
その言葉に、健次郎の胸の中に、熱い期待がふくらんだ。今度こそ、あの女に思い知らせてやれる。にいちゃんたちなら、空手なんて屁とも思わないはずだ。
「あそこの角を曲がった先の、ちょっと広くなってる空き地だよ。いつも二人でそこを通って帰るんだ」
「二人?」
「あ、柏木も一緒な。いじめてる時にいつも女が助けに来るからさ」
「ふーん、じゃあちょうどいい。両方とも、ちゃんと『ごあいさつ』しなきゃな」
貫太郎は手下たちに目配せし、路地の奥、健次郎が指さした空き地の方へとゆっくり歩き出した。その背中は、小学生である弟を大きく覆い隠すほどに広かった。
***
その頃、美鈴と大輝は、校門を並んで出ていた。ランドセルを背負った大輝は、今日学校で読んだ本の話を、少し早口で、でも目を輝かせて話していた。
「それでね、主人公が洞窟に入っていくんだけど、そこに昔の王国の壁画が残ってて……その壁画には、魔法の呪文みたいなものが書いてあったんだ。それを読み解くのがすごく難しくて……」
「ふーん、それで? その呪文で何か起こったの?」
美鈴は、肩にかけたジャンパーのフードをひらひらさせながら、楽しそうに聞いていた。彼女のランドセルは大輝が持っており、自分の手は自由にぶらぶらさせている。
「うん、実はその呪文が、洞窟に隠されてた宝箱を開ける鍵だったんだ。でも、間違えて読んじゃうと、罠が作動するらしくて……」
「わあ、ドキドキするね。大輝くん、そういうの好きだもんね。冒険もの」
「えっと……美鈴ちゃんは、そういうのより、実際に体を動かすほうが好きだよね」
大輝は少し照れくさそうに、自分の本の話ばかりしていることを気にして、美鈴のほうを見た。夕日に照らされて、彼女の茶色の短い髪が黄金色に光っている。汗ばんだ額に、ほんのりと貼りついた前髪が、何故かとても可愛らしく見えた。
――美鈴ちゃん、ほんとに男の子みたいに強いな。でも、こうやって顔を近くで見ると……女の子だよな。
その考えが頭をよぎると、大輝は急にどきっとし、慌てて目をそらした。なんでそんなこと考えちゃうんだろう。美鈴ちゃんは、いつも自分のヒーローなのに。
「うん、私は体を動かすの大好き! 特に、あの人たちをやっつける時は、すっごく気持ちいいんだ」
美鈴はこぶしを握りしめ、虚空に向かって軽くパンチを飛ばしてみせた。
「板谷くんたちには、何度言ってもわかんないみたいだけどね。いじめは絶対ダメなんだから」
「……ごめんね、美鈴ちゃん。いつも僕のことで、戦わなきゃいけなくて」
「え? なんで大輝くんが謝るの? いじめてるのが悪いんだよ。それにね」
美鈴は歩調を合わせて、大輝のすぐ横に寄った。
「大輝くんは、本を読んでる時の顔がすごくいいんだよ。真剣で、キラキラしてて。だから、そんな顔が悲しそうになるのを見るのは、私、嫌なんだ」
「……美鈴ちゃん」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。でも同時に、その温かさの裏側で、もっと別の、ごちゃごちゃとした気持ちがもぞもぞと動き始めているのを、大輝は感じていた。美鈴ちゃんが近い。汗の匂いと、少し甘いようなシャンプーの香りが混ざった、彼女だけの匂いがする。なんだか、落ち着かない。
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