第1章: 幸せの絶頂、バスローブの裾(続き 2/2)
確かに、その通りだと思った。でも、彼の言葉の裏に、何か別の意味が隠れているような気がして、私は曖昧に微笑むだけだった。
数日後、ビリーはスイートルームのソファに深く腰掛けながら、アメリカの結婚文化について面白おかしく語ってくれた。バチェロレッテ・パーティー、つまり結婚前の独身最後のお祭り騒ぎのことだ。友人たちが集まって、ストリッパーを呼んだり、時にはカジュアルセックスを楽しむこともあるのだと、彼は軽妙な口調で話す。
「もちろん、全員がそうするわけじゃないけどね。でも、独身最後の思い出に、普段できない経験をするのは悪くないと思うよ。日本では違うのかい?」
「日本では……そんな話、あまり聞かないです。少なくとも私の周りでは」
「そうか。でも、『独身時代にしかできないこと』って、考えてみれば色々あるよね」
まただ。その言葉が、また私の中でこだまする。留学経験のない私にとって、アメリカのそんな習慣は遠い異国の話に過ぎないはずなのに、なぜか頭の片隅から離れなくなっていた。
その夜、私は自宅のアパートで、貴文からのメッセージを読み返していた。
『式場の最終打ち合わせ、来週の土曜日で大丈夫? 楽しみだね、桃香』
私は『うん、大丈夫。私も楽しみ』と返信しながら、窓の外のネオンを見つめる。幸せなはずなのに、心のどこかに小さな隙間風が吹いているような感覚。その正体を確かめることもできず、私はそっと目を閉じた。
運命の瞬間は、何気ない業務の合間に訪れた。
「モモカ、部屋に換えのバスタオルを持ってきてくれないか? さっきプールで使った分がまだ届いてなくて」
インカム越しに届いたビリーの声は、いつも通り穏やかだった。私は在庫確認をし、真っ白なバスタオルを三枚抱えて、ジュニアスイートへと向かった。
コンコン、と軽くノックをしてから呼び鈴を押す。
「どうぞ、開いてるよ」
室内に入ると、バスルームから出てきたばかりのビリーが、ホテルの白いバスローブ姿で立っていた。広い肩幅にバスローブが窮屈そうにかかっていて、胸元はだらりと開いている。黒光りする厚い胸板がのぞき、湯気の余韻か、ムスク系のコロンの香りがふわりと漂ってきた。
「タオル、こちらに置きますね」
私は平静を装いながら、リビングのチェストの上にタオルを置こうとした。その時だ。
ビリーが一歩前に踏み出した拍子に、バスローブの裾がふわりとはだけた。
視界の端で、何かが揺れる。
太く、長く、赤黒く。黒人の肌とはまた違う、粘膜を思わせる独特の色合い。それはだらりと垂れ下がりながらも、半ば勃起しているのか、質量と存在感が常軌を逸している。
二十五センチ。
言葉が、数字が、感覚が、脳内を駆け巡る。いや、もっとあるかもしれない。日本人の、少なくとも私が知っている貴文のものとは、比較すること自体が馬鹿げているほどに、それは巨大だった。太さも、長さも、血管の浮き出た表面の生々しさも、すべてが別次元の生き物のようで。
私は目を逸らせなかった。金縛りにあったように、その場に立ち尽くす。
「おっと、失礼」
ビリーは軽く笑いながら、何事もなかったかのように裾を直した。けれど、私にははっきりと見えていた。黒光りする巨大なペニスの、その圧倒的な質量が、網膜に焼き付いて離れない。
「黒人って、本当にあんなにデカいんだ……」
心の中で、そんな呟きがこぼれ落ちる。同時に、信じられないことに、私の下腹部の奥が、じゅん、と微かに熱を持つのを感じた。違う、これは違う。恐怖と好奇心が混ざり合った、自分でも説明できない感覚。顔がひきつりそうになるのを必死で抑えながら、私は引きつった笑顔でタオルを差し出した。
「も、申し訳ございません、こちらでよろしいでしょうか」
「ああ、ありがとう、モモカ。あ、そうだ」
ビリーはタオルを受け取りながら、ふと思い出したように言った。
「明日の夜、予定は空いてるかい? ホテルの近くで、美味しいヤキトリ屋を紹介してほしいんだ。もし良ければ、一緒にどう?」
焼き鳥屋。二人きりで。結婚式を控えた婚約者が、宿泊客の男性と、しかもこんな夜に。
断るべきだ。脳裏で貴文の顔が浮かぶ。誠実で優しい婚約者を裏切るような真似、できるはずがない。
でも。
「独身時代にしかできないこと」
ビリーの言葉が、まるで呪いのように頭の中でリフレインする。
結婚したら、夫以外の異性と二人で食事に行くなんて、もう二度とできないかもしれない。今だけ、今だけなら……。
私は震える声で、こう答えていた。
「はい、嬉しいです。お店、チョイスしますね」
その瞬間、私の中で何かが、ほんの少しだけ軋んだ音を立てた。幸福で満たされていた世界に、小さな亀裂が走るような、そんな予感。
でも、もう引き返せない。自分の口から出た「はい」という言葉が、すべての歯車を回し始めてしまった。
ビリーは嬉しそうに白い歯を見せて笑い、私はバスルームから立ち込める彼のムスクコロンと獣のようなフェロモンの残り香に包まれながら、ジュニアスイートを後にした。廊下を歩く足が、少しだけ震えている。左手の薬指にある婚約指輪が、蛍光灯の下で冷たく光っていた。
あと一ヶ月。その響きだけが、私の心の中で、静かに、しかし確実に膨らみ続けていた。
—
コメント