第8章: 「萌芽する生命と、崩れる均衡」
第8章: 「萌芽する生命と、崩れる均衡」
朝のキッチンで、沙織が突然立ち止まった。
「うっ……」
彼女は流し台に手をつき、眉をひそめた。
ゆで卵をむいていた手が、少し震えているように見えた。
「ママ、どうしたの?」
ぼくは食卓から声をかけた。
「ん……大丈夫。なんだか、卵の匂いが気持ち悪くって」
沙織はそう言うと、シンクの水を口に含み、ゆっくり飲み込んだ。
その横顔を見て、ぼくは胸の奥で嫌な予感が膨らむのを感じた。
――もしかして……
それから数日、沙織の変化は少しずつ目に見えるようになっていった。
朝食を作っている時、いつもは気にならない鰹節の香りに顔を背けたり。
お風呂上がりに、鏡の前で自分の乳房をじっと眺め、そっと触れていたり。
ある夜、ぼくがリビングでテレビを見ていると、沙織が洗面所から出てきた。
彼女の手には、小さな箱が握られていた。
薬局で見かける、あの……妊娠検査薬の箱だ。
「ママ、それ……」
沙織はびくっと体を震わせ、箱を背後に隠した。
でも、もう遅かった。
「見てたの?」
彼女の声は、冷たいようでいて、どこか期待に震えていた。
「……うん」
「ごめんね。でも……もしかしたら、って思って」
沙織の目が、ぱっと輝いた。
その表情は、何かを恐れているというより、むしろ嬉しそうに見えた。
「たけるくんの赤ちゃんが、お腹にいるかもしれないんだ」
その言葉が、ぼくの胸を貫いた。
呼吸が苦しくなり、目が熱くなっていくのを感じた。
「なんで……そんなこと……」
「だって、生理が遅れてるの。それに、胸が張って……匂いにも敏感になって」
沙織は自分の下腹部に手を当て、そっと撫でた。
その仕草が、ぼくにはすごく残酷に感じられた。
「くうちゃんも、弟か妹ができたら嬉しいでしょ?」
嬉しいわけがない。
だって、その赤ちゃんは、ママと健流の子供なんだ。
パパの子供じゃない。
「……うん」
でも、ぼくはそう答えるしかなかった。
もう何もかも、決まってしまっているみたいだった。
その日から、沙織の健流への執着は、さらに強くなっていった。
寝室では、ほとんどぼくの存在を忘れられているようだった。
沙織は健流の巨根に貪りつき、喘ぎ声を上げながら繰り返し腰を求めている。
「たける……たける……もっと、奥まで……赤ちゃん、作って……」
彼女のその言葉に、健流の動きはさらに激しくなる。
ベッドがきしみ、肉と肉が打ち合う音が、ぼくの鼓膜を打ちつづけた。
ぼくの小さなペニスは、沙織の口に入れられることも少なくなった。
たまにフェラをされても、彼女の意識は完全に健流に向いている。
舌の動きは惰性的で、まるで義務を果たしているだけのようだった。
ある朝、ぼくが目を覚ますと、隣に沙織の姿はなかった。
寝室からかすかな声が聞こえてくる。
「ん……たける……朝から、えっち……」
ぼくは布団の中で体を硬くした。
もう、朝も昼も夜も関係ない。
沙織はいつでも健流を求めている。
――これじゃ、ぼくは完全にいらないんだ。
その思いが、胸の中で渦巻いた。
そして、ある決意が固まっていく。
もし沙織が本当に妊娠したら、健流はこの家に居座り続ける。
そして、ぼくは完全に忘れられてしまう。
だから……健流を追い出さなければ。
今のうちに。
翌日、健流がシャワーを浴びている時、ぼくはこっそりと彼のスマートフォンに近づいた。
学校の友達に、緊急の用事があるからすぐに帰ってきてほしいと、メッセージを送ろうと思ったんだ。
でも、指が震えてうまく操作できない。
パスコードもわからない。
「なにしてるの、久遠くん?」
背後から声がかかり、ぼくはぎくりとした。
振り向くと、髪をタオルで拭きながら、健流が立っていた。
「そ、その……スマホ、借りようと思って」
「嘘だね」
健流の目は、冷たく鋭かった。
いつもの礼儀正しい表情はどこにもなく、大人びた侮蔑の色が浮かんでいる。
「僕を追い出そうとしてたんでしょ?」
ぼくは言葉を失った。
見透かされていた。
「ば、ばか……そんなこと……」
「沙織さんには言わないよ。でも、やめておいた方がいい」
健流はぼくの肩に手を置き、力を込めた。
痛いくらいの握力だった。
「だって、沙織さんは僕の赤ちゃんが欲しいって言ってる。もう、君の出る幕じゃないんだ」
その言葉が、ぼくの中の何かを壊した。
「違う! ママはぼくのママだ!」
叫び声が、思わず口から飛び出した。
涙が溢れ、頬を伝っていく。
「なにしてるの、二人とも?」
沙織がリビングに現れた。
彼女は薄いパジャマを着て、まだ寝ぼけ眼だった。
「ママ……! 健流くんが……!」
ぼくは沙織に駆け寄ろうとした。
でも、沙織の目はまず健流に向けられた。
「たけるくん、大丈夫? 何かあった?」
「大丈夫です。ただ、久遠くんがちょっと興奮してるみたいで」
健流はさっきまでの冷たさを消し、平静な表情を浮かべた。
その変わりように、ぼくはさらに怒りがこみ上げた。
「嘘つき! さっき、ぼくのことバカにしてたじゃないか!」
「久遠くん、落ち着いて」
沙織がぼくの腕をつかんだ。
その手の力は強く、痛かった。
「ママ、ぼくの話を聞いて……!」
「もう十分聞いたわ。たけるくんに意地悪するのはやめなさい」
沙織の声には、いらだちがにじんでいた。
彼女の目はぼくを見ているのに、まるで他人を見るような冷たさがあった。
「だって……だってママ、このままじゃぼく……!」
言葉が喉で詰まった。
嗚咽がこみ上げ、うまく話せない。
「くうちゃん、ママ疲れてるの。また後で話そうね」
沙織はそう言うと、健流の方に向き直った。
そして、そっと彼の手を握ると、寝室へと歩き始めた。
「たけるくん、朝ごはん作るから、少し待っててね」
「うん。ありがとう、沙織さん」
二人の背中を見つめながら、ぼくは立ち尽くした。
リビングには、朝の光が差し込んでいた。
でも、ぼくの体の中は、真っ暗な闇に包まれているようだった。
――ダメだ。
もう、どうしようもない。
その夜、全てが爆発した。
沙織が妊娠検査薬を使い、陽性反応が出たのを、ぼくはドアの隙間から見てしまったのだ。
彼女は検査薬を手に、嬉しそうに健流に抱きついた。
「たける……見て……陽性だよ……!」
「本当……? すごい……沙織さん……」
コメント