第1章: 合格率という罠
第1章: 合格率という罠
春の訪れを告げる夕暮れ時、私は面談室で一人、今日最後の保護者を待っていた。
窓の外には桜のつぼみがほんのりピンクに染まり始め、塾の前の通りを帰宅する中学生たちの声が遠くから聞こえてくる。机の上には野口翔太君の成績表と模試の結果が広げられ、平均よりやや下回る数値が並んでいる。志望校のボーダーには、現状では届かない。
ドアが軽くノックされた。
「失礼します」
その声は、上品に磨かれた女性のものだった。
扉が開き、彼女が入ってくる。野口優子さん――翔太君の母親だ。初めて対面するのに、なぜか胸の奥で何かが微かに動いた。彼女は淡いベージュのワンピースを着ており、腰まで届く黒髪はきちんとまとめられ、耳元にほんの少しだけ揺れるシルバーのピアスが光っていた。切れ長の目が私の顔を一瞥すると、すぐに礼儀正しく伏せられた。
「足立先生、お忙しいところ申し訳ありません。わざわざ時間を取っていただいて」
物腰は柔らかく、言葉遣いは丁寧そのものだった。しかしその声の奥に、どこか張り詰めた緊張を感じた。いや、私自身の感覚が過敏になっているだけかもしれない。彼女は椅子に腰を下ろし、ハンドバッグを膝の上に丁寧に置いた。
面談はありふれたものから始まった。
翔太君の勉強への取り組み、家庭での様子、志望校に込める思い。優子さんは熱心に質問を重ね、私の説明にうなずきながらメモを取る。香水の香りがほのかに漂ってきた。フローラル系の甘さの中に、ほんのりスパイシーなアクセントが混じる、大人の女性らしい香りだ。
「……そうなのです。翔太は内気なところがありまして、集団塾ではなかなか質問ができなくて」
彼女がそう言って顔を上げた時、私たちの視線が初めてきちんと合った。その瞳は濃い褐色で、長いまつ毛が印象的だった。四十歳とは思えないほど肌に張りがあり、口元のほんのりとしたピンクが、清楚な印象をより強くしていた。
「ご安心ください。当塾は少人数制ですので、一人ひとりの様子をしっかり見られます。翔太君も、もう少し積極的に……」
「でも」
彼女の声が、突然沈んだ。
そのトーンの変化に、私は言葉を切った。優子さんはメモ帳を見つめたまま、指先で紙の端を軽くこすっていた。ほんの数秒の沈黙が、空気の密度を変えた。
「実は……」
彼女がゆっくりと顔を上げた。その目つきが、さっきまでとは微妙に変わっている。まだ上品さは保っているが、奥に潜む何かが表面ににじみ出てきたような、そんな気がした。
「他のご家庭の方から、伺った話があるんです」
私は無意識に背筋を伸ばした。
「……と、いうと?」
「この塾を卒業されたお子さんで、あの……成績がボーダーラインぎりぎりだったのに、第一志望に合格された方がいらっしゃると」
優子さんの声はさらに低くなり、ほとんど囁くような調子だった。彼女は前のめりになり、机の上に置かれた自分の手を見つめながら、言葉を選ぶように続けた。
「もちろん、お子さんご自身の努力が第一だとは思うんです。でも、巷では……いろんな噂もあって」
胸のあたりが、じんと熱くなった。これはもう、婉曲表現ですらない。彼女ははっきりと、裏口入学の斡旋があるかもしれないと仄めかしている。私たちの塾がここ数年、難関私立中学への合格率を上げていることが、そんな誤解を生んでいたのか。
「野口さん、それは誤解です。当塾はあくまで学習指導を……」
「わかっています」
彼女が素早く言葉を挟んだ。その目が再び私を見上げ、今度は逃げずに真正面から視線を結んできた。
「先生方が優秀で、熱心に指導してくださるからこその実績だということは、よくわかっています。でも……」
彼女の唇が微かに震えた。ふと、彼女の首筋にほんのりと汗が光っているのに気づいた。ワンピースの襟元が、深く息を吸ったせいか、ほんの少し広がっている。その隙間から、鎖骨の窪みと、その先の柔らかな膨らみの始まりが覗いた。
「母親として、できることは全てやりたいんです。翔太のためなら……どんなことでも」
『どんなことでも』という言葉が、部屋の中に重く落ちた。私はそれを無視するふりをして、翔太君の成績表を指さした。
「現状の学力と志望校とのギャップは、まずは夏休みまでの基礎固めで……」
「特別なご厚意は、必要ないでしょうか?」
彼女の声は、もう完全に仕事モードの保護者から、別の何かに変質していた。甘く、そして危険に絡みつくような響きが含まれている。私は喉が渇いたのを感じ、唾を飲み込んだ。
「その……『特別なご厚意』とは、具体的にどういう?」
問い返す私の声には、思わぬ震えが混じっていた。自分でそれを自覚して、腹立たしささえ覚えた。
優子さんは少し間を置き、ゆっくりと微笑んだ。それは最初に見せた礼儀正しい笑顔とは違う、どこか達観したような、そして何かを承知の上での笑みだった。
「先生は、まだ若いですものね。いろんな事情に、詳しくないかもしれませんね」
彼女は立ち上がり、書類をバッグにしまい始めた。ワンピースの裾がゆらりと揺れ、ふくらはぎの滑らかな曲線が一瞬見えた。そして、書類をしまうために屈んだ時――
その瞬間、甘い香水の奥から、もっとプリミティブな香りが漂ってきた。
汗でもなく、化粧品でもない。成熟した女性の肌そのものが発する、ほんのり温もりを帯びた、どこか甘酸っぱいような香りだ。それは彼女の胸の谷間から、あるいは腋の下から、もしかしたらもっと深い場所から立ち上ってくる体温そのものの匂いだった。
私は息を詰まらせた。
彼女は何も気づいていないふりで書類を整理し、ゆっくりと立ち上がった。そして名刺入れから小さな名刺を取り出し、机の上にそっと置いた。
「今日はありがとうございました。ぜひ、翔太をよろしくお願いします」
そう言って彼女は軽く会釈すると、優雅に踵を返し、面談室を出ていった。ドアが閉まる音がして、やがて彼女のヒールの音が廊下で遠ざかっていく。

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