第5章: 発表の後、繋がれた糸
第5章: 発表の後、繋がれた糸
発表の日、私は塾の講師室で、スマホの画面を眺め続けていた。
午前九時。志望校のウェブサイトには、まだ「発表準備中」の文字がちらつく。窓の外は曇り空で、鉛色の雲がゆっくりと流れていた。自分の心拍が、耳の奥で不必要に大きく鳴っている。机の上のコーヒーカップには、手の震えで微かに波紋が立った。
――来るのか。それとも、来ないのか。
昨日の夜、優子さんと別れた時の、あの甘く鋭い脅しが、まだ皮膚の下に刺さったままだった。合格すれば終わりにしてもいい――その言葉の裏に潜む、「終わらせない選択肢も私にある」という意味が、骨の髄まで染み込んでいた。
十時を過ぎた頃、講師室のドアが開いた。
「足立先生、おはようございます」
振り向くと、美咲がニコニコと入ってきていた。彼女は今日も明るい色のニットを着て、髪を小さな三つ編みにしている。
「あ、おはよう」
私はできるだけ平静な声を出そうとしたが、喉がひりついた。
「どうしたんですか? 顔色、あまり良くないですよ。まさか、受験生の親御さんみたいに緊張してるわけじゃないですよね?」
彼女はからかうように笑った。その無邪気な笑顔が、私の胸をぎゅっと締め付けた。彼女は何も知らない。この汚れた取引のこと、あのベッドの上で交わした唾液と精液の匂いのこと、何一つ。
「……いや、ただの寝不足だよ」
「やっぱり! ちゃんと寝なきゃダメですよ。先生が倒れちゃったら、生徒たちが困りますから」
彼女はそう言いながら、自分の机へと向かった。その背中を見ながら、私は思った。――彼女には、絶対に知られてはいけない。この腐った部分を。
正午。
スマホはまだ沈黙を保っていた。胃がきりきりと疼く。私はトイレに立ったが、鏡に映る自分の顔は、確かにどこか鋭く、そして疲れ切っていた。美咲の言う通りだった。
再び講師室に戻り、午後の授業の準備をしていると、机の上のスマホが微かに震えた。
一瞬、呼吸が止まった。
画面を覗き込む。差出人は「野口優子」。本文は、たった二文字。
「合格」
それだけだった。
……ああ。
私は椅子に深く沈み込んだ。全身の力が、一気に抜けていくのを感じた。安堵が、まず最初に押し寄せた。次に、虚脱感。そして、その奥底から湧き上がってくるのは、激しい喪失感だった。
――これで、終わる。
彼女とのあの熱く、湿り、背徳に満ちた時間が、終わる。彼女の口、彼女の膣、彼女の舌、あのすべてが、もう私のものではなくなる。
その思いが、予想外に胸をえぐった。手の平に汗がにじむ。私はスマホを握りしめ、その冷たいガラス面をじっと見つめた。
「……よかった」
声に出して呟いた。だが、その言葉には、まったく喜びが乗っていなかった。
その日の授業は、ろくに頭に入らなかった。合格発表を終えた生徒たちの、喜びの声や悔しそうな顔が、すべて遠く霞んで見えた。ただ一つだけ、意識の隅で繰り返されていたのは、あの二文字のメールと、彼女の最後の囁きだけだった。
夕方、塾を出るとき、美咲が声をかけてきた。
「あの……足立先生、もしよかったら、今日一緒にご飯でもどうですか? 最近、ずっと忙しそうだったから……」
彼女は照れくさそうにうつむきながら、そう言った。その純粋な好意が、胸に刺さる。
「……ごめん、今日はちょっと。また今度、誘ってよ」
私はできるだけ柔らかい口調で返した。美咲は少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「はい! それじゃあ、また今度!」
彼女が去る後姿を見送りながら、私は思った。――もう、彼女のような女の子と、普通に食事を楽しむことすら、できなくなっているのだと。
夜、八時。
自室でぼんやりとテレビを見ていたとき、携帯が鳴った。着信表示には、もちろんあの名前があった。指が震える。深呼吸を一度して、受話ボタンを押す。
「……もしもし」
「こんばんは、先生」
あの甘く絡みつくような声が、耳の奥に直接流れ込んできた。昨日の、あの緊迫した調子はどこへやら、いつもの、ゆるやかに欲望を漂わせるトーンに戻っていた。
「おめでとうございます。翔太君、本当によかったですね」
「ええ……ありがとうございます。先生のおかげです」
「ふふ。そんなことありませんよ。彼が頑張ったんです」
少し間が空く。彼女の呼吸の音が、受話器を通じて微かに聞こえる。
「でも……せっかくの嬉しい報告ですから、直接お祝いしたいですね。今、空いてらっしゃいます?」
来た。やはり、来たのだ。
「優子さん、それは……もう、合格したんだし、これで――」
「これで終わり?」
彼女が私の言葉を軽く遮った。その口調には、ほんのりとした嘲笑が滲んでいる。
「そんな簡単にお別れなんて、できないでしょう? だって、私たち……ずいぶん深い関係になったじゃないですか。先生も、そう思っていらっしゃるでしょう?」
言葉が喉に詰まる。否定できない。彼女の言う通りだった。私はもう、彼女の肉体なしではいられないのだ。
「駅前の『ホテルシティービュー』、203号室。三十分後にお待ちしてます。翔太は、合格祝いで友達の家に泊まりですから」
そう言うと、彼女は何の確認も待たずに、電話を切った。
呆然と受話器を耳から離し、私は天井を見上げた。――逃げるべきだ。今ならまだ、引き返せるかもしれない。
しかし、足は自室のドアに向かって動き始めていた。体が、彼女を求めて悲鳴を上げている。あの甘い香水の匂い、あの熱く湿った粘膜の感触、あのビラビラに熟れた陰唇が陰茎を啜り上げる快感を、全身の細胞が思い出し、疼いていた。
三十分後、私はホテルの部屋の前に立っていた。
ドアを開けると、優子さんは薄いピンクのカーディガンと黒いスラックスという、少しカジュアルな姿で立っていた。手には、志望校の合格通知のコピーを持っている。
「いらっしゃい。ほら、見てください。本当に合格してくれたんです」
彼女は嬉しそうに通知を私の目の前に差し出した。そこには確かに、翔太の名前と「合格」の文字が印刷されていた。しかし彼女の目は、通知ではなく、私の股間をじっと見つめている。
「……よかったです」
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