第1章: 合格率という罠(続き 2/2)
私は机の上に置かれた名刺を見つめた。『野口優子』と印刷されたその小さな紙片が、なぜか異様な存在感を放っていた。部屋にはまだ彼女の香りが残っており、あの甘くスパイシーな香水と、あの体温の匂いが混ざり合い、私の思考をぼんやりとさせた。
――あの言葉は、明らかだった。
――『どんなことでも』やってくれると言った。
教室の片付けをしながら、廊下を歩きながら、その言葉とあの香りが頭から離れなかった。夕食を取る間も、風呂に入っている間も、ベッドに横たわって天井を見つめている間も。
手に取った名刺の端が、何度も触れているうちに少しめくれあがっていた。私はそれを指でなぞりながら、彼女の切れ長の目を思い出した。あの、奥に何か潜ませた瞳。あの、言葉の端々ににじませた含み。
そしてあの屈んだ時に漂ってきた香り。
それはもう、明確に性を想起させる匂いだった。洗い清めたはずの身体が、また熱を持ち始めるのを感じた。股間のあたりがじっとりと湿り、心臓の鼓動が早くなっていく。
――だめだ。これはまずい。
――彼女は保護者だ。生徒の母親だ。
理性はそう叫ぶが、身体は違う反応を示していた。あのワンピースの襟元から覗いた膨らみ。あの屈んだ時に揺れた黒髪。あの低く絡みつくような声の調子。
三日後の夜、携帯が鳴った。
見知らぬ番号だったが、どこかで見覚えがある。思い当たる節があり、嫌な予感がした。震える指で通話ボタンを押す。
「もしもし、足立先生でしょうか?」
その声を聞いた瞬間、背筋に電流が走った。
野口優子さんだった。
「こちらこそ、夜分遅くにすみません。実は……面談の時にはお話しきれなかったことがありまして」
彼女の声は電話越しにも甘く、しかしどこか緊迫した響きを帯びていた。
「ぜひ、詳しくお話を伺いたいのですが……塾ではなく、少し場所を変えて、というのはおかしな願いでしょうか?」
私は声が出なかった。喉がカラカラに渇いていた。
「……場所を、変えて?」
「はい。明日の午後、駅前の『ホテルグランドシティ』のロビーで……いかがでしょう?」
ホテルという言葉が、耳の中で大きく反響した。ロビーと言っても、それは単なる前哨戦に過ぎない。その先にあるものは、火を見るより明らかだった。
「野口さん、それは……少し」
「お願いします」
彼女の声が、突然切実なものに変わった。電話の向こうで、彼女が息を詰まらせているのがわかった。
「翔太のためなんです。先生なら……わかってくださると思って」
沈黙が流れた。私は受話器を握りしめ、自分の鼓動が耳元で鳴っているのを聞いた。断るべきだ。今すぐに、きっぱりと断るべきだ。
しかし口から出た言葉は、違った。
「……何時にお伺いすれば?」
自分で自分の声が、信じられなかった。優子さんはほっとしたように息を吐き、時間を伝えた。そして最後に、こう付け加えた。
「よろしくお願いします、足立先生」
電話が切れた後も、私はしばらく受話器を耳に当てたままだった。窓ガラスに映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。頬がほてり、目つきが変わり、唇が乾いていた。
あの香りをもう一度、確かめたい。
そう思っている自分がいた。彼女の肌の温もり、あの甘酸っぱい匂い、あの低く絡みつく声を、もう一度この身で感じたい。
ベッドに倒れ込み、天井を見つめた。明日の午後、ホテルのロビーで彼女と会う。それだけで、股間が熱く疼き始めた。私はズボンのファスナーを下ろし、すでに硬くなっている自身の男根を握った。
――これでいいのか?
――教師として、人間として、堕ちていくのか。
だがその疑問さえも、快感の波に吞み込まれていった。目を閉じれば、優子さんの顔が浮かぶ。あの切れ長の目が、じっと私を見下ろしている。あの唇が、今にも何かを囁きそうに開いている。
私はうめき声を漏らし、激しく自慰を始めた。彼女の想像上の肌触り、あの香り、あの声が、私を深みへと引きずり込んでいく。
合格率という数字が、いつしか私自身をも縛る罠となっていた。
そしてその罠は、明日の午後、確かな現実として私を捕らえることになる――そういう予感だけが、熱く湿った夜の闇の中に、濃く漂っていた。
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