第1章: 稽古場の一言
第1章: 稽古場の一言
放課後の校庭は、夏の日差しをたっぷりと浴びて、土の匂いを熱く膨らませていた。
グラウンドの隅にこしらえた簡素な土俵は、子どもたちの足で踏み固められ、表面がつやつやと光っている。その真ん中で、眞鍋美佳は息を弾ませながら、がっしりとした体格の高橋茂と四つに組んでいた。彼女の細い腕は、茂の太い二の腕に絡みつき、踏ん張る足の裏には砂がくっついてざらつく。
「うっ……!」
歯を食いしばる声が、熱い空気の中に漏れた。
美佳の額には、大粒の汗がにじみ出て、頬を伝い落ちる。半袖の白いTシャツは、背中全体が汗で深く濡れ、薄い綿地が肌に張り付いていた。肩にかかった黒髪もびっしょりと湿り、首筋にへばりつく感触が、いらだたしいほどだった。
「まだまだだな、美佳!」
茂が嗤った。彼の声は、変わりかけの嗓音で少しざらついていた。
美佳は黙って、更に力を込める。スレンダーだが、相撲の稽古で鍛えられた柔らかな筋肉が、細い腕に浮かび上がる。それでも、茂のがっしりとした肩幅と、がたいの良さには敵わない。じわじわと押し戻され、土俵の縁が足の裏に近づくのを感じた。
――くそっ。
負けず嫌いの心が、焦りの炎を燃え上がらせる。
男の子たちに混じって相撲を取るようになって、もう何年になるだろう。小さい頃から、近所の男の子たちと取り組んでは転がされ、泣きながらまた立ち上がってきた。五年生になった今では、同じクラスの男子の中でも、そう簡単に負けることはなくなっていた。つもりだった。
でも、高橋茂だけは別だ。
彼は群を抜いて力が強く、何より相撲がうまい。美佳が必死に技をかけようとしても、軽くいなされてしまう。そんな歯がゆさが、今日も胸の奥をじんわりと焦がしていた。
「ほら、もうだめだろ!」
茂が一気に押し込んだ。
美佳の足が土俵の縁を踏み外し、砂の上にずりっと滑る。がくんと腰を落とし、転びそうになるのを、ぎりぎりで踏みとどまった。
「ちぇっ……また負けかよ」
ぽつりと呟くと、茂は満足そうに胸を張った。
「当たり前だろ。お前、女の子なんだからさ」
その言葉に、美佳はぷいと頬を膨らませた。
「女の子だからって関係ないよ! 練習すればできるようになるんだもん!」
「でもさ」
茂は、汗で透けた美佳のTシャツの胸元に、ちらりと目をやった。ほんのりと膨らみ始めたそのあたりは、薄い白地の下に、小さな影を落としている。
「女の子とは所詮、Tシャツ着て本当の相撲取りじゃないよね」
ふいと放たれた言葉に、美佳の動きが止まった。
茂は続けた。無造作に、しかし確かに意味を込めて。
「体と体がぶつかり合う感じが違うんだよね。まわし締めて、肌と肌が直接ぶつかるのとは、全然違うって」
空気が、ほんの少し重くなった。
美佳は、自分の胸がチクリと疼くのを感じた。それは、今まで感じたことのない種類の痛みだった。悔しさとも、恥ずかしさともつかない、熱い塊が喉の奥にこみ上げてくる。
「……な、何言ってるのよ」
声が、思ったより小さく震えているのが、自分でもわかった。
土俵の脇で見ていた佐藤拓也が、いたずらっぽく口元を歪めた。
「おっ、茂、それなんか深いこと言い出したな」
「だろ? だって本当のことだもん」
茂は涼しい顔をしている。彼には、悪気はないのだろう。単純に、思ったことを口にしただけなのかもしれない。でも、その無造作さが、美佳の胸を更に締め付けた。
――違う。
――私だって、本当に相撲がしたいんだ。
――Tシャツを着てたって、本気なんだよ。
唇を噛みしめながら、美佳はそっと自分の胸に手を当てた。Tシャツの下で、ほんのりと温かい膨らみが、掌に触れる。最近、急に気になり始めたあの感触が、今、妙に生々しく感じられた。
小林寛は、相変わらず無口で、土俵の端に座っていた。だが、彼の目が美佳の体をじっと見つめているのを、美佳は感じた。そばかすのある顔から、灰色がかった瞳が、汗で濡れたTシャツの布地に張り付いているのを、はっきりと見て取れた。
その視線が、何故か肌に刺さるように疼いた。
「……違うよ」
美佳は、ゆっくりと顔を上げた。
茂と拓也と寛。三人の男子の顔を、順番に見渡す。茂は相変わらず勝ち誇った表情、拓也は興味津々な目、寛は熱く静かな視線。
歯を食いしばると、口の中に鉄のような味が広がった。
「そんなことない。私だって本当の相撲取りだもん」
声は、少しだけ力強くなっていた。
茂は眉を上げた。
「へえ、そういうこと?」
「そういうことよ!」
美佳は踏み出した一步を、土俵の中心に刻み込む。砂がはねて、裸足の甲にかかる。
「明日も稽古するからね! 絶対に、茂を負かしてやるから!」
「おう、面白くなってきたじゃん」
拓也が手を叩いた。
寛は、微かに息を吸い込む音を立てた。それだけだったが、美佳には、その小さな音がなぜか耳に残った。
その日は、いつもより早く稽古が終わった。
夕日が校庭をオレンジ色に染め始める中、美佳はランドセルを背負い、ひとりで歩道を歩いていた。茂の言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けている。
――体と体がぶつかり合う感じが違う。
――本当の相撲取りじゃない。
くちゅんと、道端の小石を蹴飛ばした。
「そんなことないのに……」
呟きは、熱い風に消えてしまった。
家に着き、風呂に入り、晩ごはんを食べても、胸の奥にこびりついたもやもやは消えない。お母さんが「どうしたの、元気ないね」と心配そうに声をかけてきても、美佳は「なんでもないよ」と笑ってごまかした。
布団に入ると、天井の木目がぼんやりと見えた。
部屋は暗く、窓の外からは虫の声が聞こえている。もうすぐ夏休みだというのに、なんだか胸が苦しい。
茂の言葉が、もう一度、頭の中をよぎった。
――女の子とは所詮。
――肌と肌が直接ぶつかるのとは、全然違うって。
……肌と肌。
そっと、自分の腕を撫でてみる。Tシャツの袖越しに、柔らかく温かい肌の感触が伝わる。相撲でぶつかり合う時、茂たち男子は、まわし一枚で肌を露出している。あのぎらぎらとした汗の光り方、筋肉の動きが直接見えるあの感触。
美佳は、いつも半袖のTシャツに短パンだった。

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