第1章: 静かな放課後の誘い
第1章: 静かな放課後の誘い
放課後の糸守高校は、夕焼けに染まる前に、一瞬だけ深い静けさに包まれる時間があった。
校舎の窓からは、緑濃い山々の稜線と、その麓にへばりつくようにして広がる町並みが見えた。宮水三葉は放送室の窓辺に立ち、そっと息を吐いた。今日も一日、無事に終わろうとしている。明日の朝の放送原稿を手に、赤い組紐が結ばれた黒髪が、窓から入る微風に揺れた。
「三葉、ちょっとコンビニまで買い出し行ってくるね!ポテチとジュースでいい?」
名取早耶香の明るい声が、狭い放送室に響いた。
彼女はふんわりとした茶髪を揺らしながら、小さな財布を手に持って、もうドアの前に立っていた。制服用のセーラー服の胸元が、その動作で少しばかり揺れるのが、三葉の視界の隅に入った。
「うん。お願い、さやか。あ、レシート忘れずに取っといてね。生徒会費で精算するから」
三葉は振り返り、優しく笑った。早耶香は「了解!」と元気よく手を振り、廊下に駆け出す足音が遠ざかっていった。
再び静けさが訪れる。
三葉は机に向かい、原稿用紙を広げた。ペンの先を走らせようとするが、何故か今日は集中できない。体が、どこかむずむずとしている。立花瀧くんとの、あの不可思議な体の入れ替わり――あれ以来、自分の体の感覚が、時折、他人のように鋭く、時に曖昧に感じられることがあった。
窓の外で、重機の音が遠くから聞こえる。町の端で進められている、あの土建工事の音だろう。
――瀧くん、今日も東京で、ぼくは…って、ああ、もう。考えても仕方ないのに。
彼女はそっと自分の頬を手の平で押さえた。熱い。理由もなく、胸の奥がざわめくような感覚。
その時、放送室のドアが勢いよく開いた。
「おう、三葉。一人か?」
ざっくばらんな、しかし低く響く男の声。
振り向くと、そこには勅使河原克彦が立っていた。がっしりとした肩幅を強調する作業用のジャケットを肩にひっかけ、白いTシャツの下からは、土建仕事で鍛え上げられた腕の筋肉が浮き上がっている。短く刈り込んだ茶髪の下、鋭い茶色の瞳が、三葉をじっと見下ろしていた。
「て、てっしー…どうしたの?放送委員会の仕事、今日はないよ?」
三葉は思わず背筋を伸ばした。克彦は生徒会役員ではない。ふざけて放送機器をいじりに来たこともある、少し手のかかる同級生だ。
「別に用はねぇよ。ちょうど用事で校舎に戻ってきたら、放送室の明かりがついてたからな」
克彦はすたすたと中へ入り、三葉の隣の椅子に腰を下ろした。彼が動くたびに、微かに埃と汗、そして何か――油のような、男の仕事の匂いが漂ってくる。三葉はその匂いを無意識に吸い込み、胸のざわめきが少し強くなった。
「そっか…早耶香は買い出しに行ったから、もう少しで戻ると思うよ」
「ああ、さやかか。いいや、別にさやかに用があるわけじゃねぇ」
克彦はそう言うと、三葉が書いている原稿に視線を落とした。その距離、彼の腕が、ほんの数センチ、三葉の肩に近づいている。制服のブラウスの薄い生地の上から、彼の体から発せられる熱気が、じんわりと伝わってくるような気がした。
三葉は息を吞んだ。
――近い…。
「で、何書いてんだ?真面目だなあ、三葉は」
克彦はいたずらっぽく笑い、その大きな手が、机の上を指先でトントンと叩いた。その手は、日焼けした頑丈な指、爪の縁には少し土か何かがこびりついているように見えた。乱暴で、男性的なその手が、なぜか三葉の目から離れない。
「明日の、天気予報と連絡事項の原稿…」
「ふーん。三葉の声で聞く朝の放送か。なんか、落ち着くよな」
彼はそう言って、ゆっくりと体を三葉の方に向けた。椅子がきしむ音。二人の膝が、ほんの少し、触れそうな距離まで近づいた。
三葉の心臓が、どきん、と強く跳ねた。
「てっしー…ちょっと…」
彼女は声に出した。しかし、その声は自分でも驚くほど、か細く、甘ったるく震えていた。なぜ? こんな風に声が掠れるなんて。克彦はただ近づいてきただけだ。いつもの調子で、からかっているだけなのに。
「ん?何がちょっとだ?」
克彦は首をかしげた。その顔が、大きく三葉の視界に迫る。彼の目は、鋭さの奥に、何かじっとりとした好奇心のようなものが光っている。彼の吐息が、ほんのりとタバコの匂いを帯びて、三葉の頬にかすめた。
「近すぎるよ…」
三葉は下を向いた。自分の膝の上に置かれた手が、微かに震えている。制服のスカートの下、太ももの内側に、じんわりと嫌な汗――いや、違う、何か別の熱いものが滲み出てくるような、あのむずむずとした感覚が再び疼き始めた。
――ああ、嫌だ。なんで、てっしーが近づくだけで、こんなに…。
瀧くんの顔が、一瞬、脳裏をよぎる。整った顔立ち、優しい目。あの東京の少年との、不思議な絆。それなのに、今、この瞬間、この土臭い同級生の男の匂いと熱に、体の中心がぐらりと揺さぶられるような感覚。
「なんだよ、恥ずかしがってんの?三葉も、もう十七だろ?」
克彦の声が、低く、耳元に近づいた。彼はさらに体を傾け、今や三葉の耳朶のすぐ傍まで口を持ってきている。その熱い息が、耳の奥にくすぐったく染み込む。
「だ、だから…やめてよ…」
三葉はうつむいたまま、必死に抵抗するように言った。しかし、それはまるで引き金となった。克彦の大きな手が、ゆっくりと、三葉の肩に載せられた。
「っ…!」
その掌の厚み、熱さ、そして確かな力強さ。制服の生地越しに、彼の指の圧力が、三葉の細い肩の骨を包み込む。まるで、彼の手だけが、世界で唯一確かなもののように感じられた。
「ほら、震えてるじゃねぇか。寒いのか?」
克彦の声には、からかうような笑みが滲んでいる。しかし、その手は三葉の肩から離れず、むしろゆっくりと、背中へ、そして腰のあたりへと滑り落ちていく軌道を暗示するように、ほんのりと圧をかけている。
「違う…寒くない…」
三葉は、かすかに首を振った。目を閉じる。視界を遮ると、他の感覚がさらに鋭くなる。克彦の匂い。彼の呼吸の音。彼の手の熱。そして、自分自身の体の内側から湧き上がってくる、あの未知の熱。

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