第1章: 白い奨学金、黒い誘い

第1章: 白い奨学金、黒い誘い
合格通知の紙は、真っ白だった。
目の前で、母がそっとため息をつく音がした。四月から始まる大学生活。その学費の明細を見つめながら、目黒智美は唇を噛みしめた。母子家庭。母は夜遅くまでスーパーのレジで立ちっぱなしだ。奨学金は借りた。でも生活費が、教科書代が、通学費が、重くのしかかる。
――どうしよう。
スマホの画面を何度もスクロールする。学業と両立できる、効率的な高収入アルバイト。そんな都合のいい仕事があるわけがないと、頭ではわかっている。それでも指は動く。「高時給」「経験不問」「給仕」「シフト相談可」。そんな言葉に、目が釘付けになる。
一つの投稿が目に留まった。
『ヴェール』での軽い給仕業務。時給三千円。服装貸与。経験不問。面接即日可。
時給三千円。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。普通の飲食店のほぼ倍だ。危ないんじゃないか、という疑念が頭をよぎる。でも、頭をよぎるだけだった。母の、夕食の支度をしながらこめかみを押さえる仕草が、目の裏に焼き付いている。
――大丈夫。給仕だけなんだから。
そう自分に言い聞かせて、応募ボタンを押した。
面接はその日の夜、七時だった。
場所は、駅から少し離れた路地裏。看板も目立たない、黒を基調とした落ち着いた外観のバーらしき店の前に立つ。『VEIL』と、控えめなネオンが浮かんでいる。智美は学生服の上に着たコートの裾を整え、深く息を吸い込んだ。
中は思ったより広く、暗かった。低い天井に埋め込まれた間接照明が、黒光りのカウンターと、無機質な白いソファを浮かび上がらせる。酒の匂いではなく、どこか甘く重い香水の香りが漂っている。
「面接の方ですね」
声は、低く、濁りがない。
振り向くと、スラリと背の高い男が立っていた。銀髪がきちんと整えられ、灰色の瞳が智美をまっすぐ見つめる。スーツの上着を脱いで、黒いシャツの袖をまくっている。筋肉の隆起が、生地の下からうっすらと見える。
「はい、目黒智美(めぐろ ともみ)と申します。お忙しいところ申し訳ありません」
智美はできるだけ丁寧にお辞儀をした。
男――霧島涼は、ちらりと彼女の学生服に視線を走らせ、それからわずかに頷いた。
「中で話そう。こちらへ」
奥の、ガラス張りの小さい個室に通される。涼がソファに腰を下ろし、智美の面接用の書類を広げる。
「十八歳。大学合格。母子家庭」
涼が一つ一つ、淡々と読み上げる。その声に感情はない。
「給仕の経験はない。でも、高時給の仕事が必要だと」
智美はうつむき、こくっと頷いた。
「はい。学費と生活費を、自分でなんとかしなければならなくて……」
「母親には、ここがどんな店か、言うつもりか」
涼の問いは、鋭く直球だった。
智美は息をのんだ。言えるわけがない。母は心配するだけだ。反対するに決まっている。
「……言いません」
「そう」
涼は書類を閉じた。その目が、智美の顔を、そして制服の下の華奢な身体を、商品を見るような視線でなぞる。
「採用する。初日は明後日からでいい。時間は夜七時から深夜零時まで。休憩は一時間。時給は三千円。交通費別途。問題あるか」
あまりにあっさりした採用手続きに、智美はかえって戸惑った。
「あ、はい……ありがとうございます。一生懸命働きます」
「いいだろう。じゃあ、初日に詳細を伝える。遅刻と無断欠勤は認めない。それだけ守れれば、お前には必要な金はやる」
涼は立ち上がり、ドアの方へ歩き出した。振り返りもせずに、言い添える。
「ここは、普通のバーじゃない。客の求めに応じて、さまざまな『もてなし』をする店だ。給仕は最初の一歩に過ぎん。それでいいなら、明後日来い」
智美の背筋に、冷たいものが走った。さまざまなもてなし。その言葉の裏にあるものを、彼女はまだ想像できなかった。でも、頭の中をよぎったのは、時給三千円という数字だけだった。
「……わかりました。明後日、伺います」
二日後、智美は再び『ヴェール』の前に立った。
学生服ではなく、私服の質素なセーターとスカートだ。中に入ると、前回とは違って、スピーカーからゆったりとしたジャズが流れ、数組の客がソファに腰を下ろしていた。男たちだ。スーツ姿の者もいれば、ラフな格好の者もいる。どの顔も、智美が入ってくると同時に、彼女の方へ向いた。
視線が、肌を刺す。
「あら、来たわね。智美ちゃん、でしょ?」
甘く嗄れた声が響く。視界の端から、くびれたウエストと豊かな胸のラインが、ゆらりと近づいてくる。ウェーブのかかった栗色のロングヘアを揺らしながら、女性がにっこり笑って手を差し出した。
「藤堂紫織(とうどう しおり)よ。ここでは先輩ってことになるわ。よろしくね」
「は、はい……よろしくお願いします、藤堂さ――」
「紫織でいいよ。堅苦しいのはここの雰囲気に合わないから」
紫織はくすっと笑うと、智美の腕を軽くつかみ、奥の準備室へと引っ張っていく。その手の爪は、真紅に染められていた。
準備室は狭く、鏡と衣装掛けが並んでいる。紫織はハンガーにかかった一つのドレスを取ると、智美に手渡した。
「ほら、これが制服。着替えてみて」
智美がそれを受け取ると、手にした瞬間、その薄さと軽さに驚いた。黒い光沢のある素材。それはドレスというより、ランジェリーのようにも見える。
胸元は深くVにカットされ、脇は大きく開いている。背中はほとんど布がなく、腰のあたりでかろうじてつながっているだけ。スカート部分は腿の付け根までしかなく、動けばすぐにまたが覗きそうな短さだ。
「こ、これを……着るんですか?」
声が上ずる。
「そうよ。ここではみんなこういうのを着てるの。客の目を引くのが仕事のうちだからね」
紫織はいたって平然としている。彼女自身、極小の赤いビキニの上に透ける黒いローブを羽織っている。へそには小さなピアスが光り、胸の谷間もあからさまに見えている。
智美の顔が火照る。こんなものを着て、男たちの前に出るなんて。
「嫌なら辞めてもいいよ? でも、時給三千円の給仕なんて、他にないでしょ」

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