第3章: 一度きりの契約と、蠢く欲望

第3章: 一度きりの契約と、蠢く欲望
翌朝の空気は、湿った鉛のように重く、淀んでいた。
昨夜のアルコールが吐き出す酸っぱい匂い。
そして、それとは全く異なる、より生々しく、動物的な粘つきを帯びた匂いが、部屋のカーペットの繊維一本一本に絡みつき、雅恵の鼻腔を執拗に刺激する。
台所では、裕二がおずおずとコーヒーを淹れているだけだった。
マグカップがカウンターに当たる、カチン、という小さな乾いた音だけが、不気味な静寂を破るが、その音さえも虚しく響いて消えていく。
雅恵は夫の痩せた背中を見つめた。
何も言わない。謝罪も、慰めの言葉も、この状況をどうしようという意志も、その背中からは一切感じ取れなかった。
ただ、逃げ腰な姿勢が、昨日の屈辱を何度も何度も再生させるかのようだった。
雅恵の唇には、まだあの男の精液の匂いが幻のようにこびりついている気がした。
くちゅっ、という下品な音と、喉の奥を伝う粘つく感触。
そして、夫の二倍はあろうかという、あの異様なほどに太く、長く、熱を帯びた肉塊の記憶。
指で触れたときの、あの驚くほどの硬さと、生きているかのように脈打つ生命力。
拒絶し、嫌悪すべきその感覚が、なぜか頭の中で繰り返し再生され、体の芯からじんわりと嫌らしい熱を煽っていた。
--自分は、おかしいのではないか。
夫の目の前で辱められながら、体が反応してしまったのではないか。
その罪悪感と、認めたくない好奇心が、内側でぐるぐると黒い渦を巻いていた。
昼過ぎ、インターホンの音が鋭く、その沈黙を切り裂いた。
ピピピッ、という甲高い電子音は、まるで警告のようだ。
裕二はびくっと肩をすくめ、顔色を変えて雅恵の方を見る。
その表情は、まるで犯行現場で警察の扉を叩かれた子供のように、恐怖で青ざめていた。
雅恵は何も言わずに立ち上がり、モニターに映る顔を見た。
やはり、剛力刀也だった。
昨日の乱暴な酒癖とはうって変わって、今日は潔いまでに研ぎ澄まされた表情で、少しもためらうことなく、こちらを見下ろしているような、侮蔑的な目つきだった。
「…誰、だろう…」
裕二の震える声が、まるで他人事のように遠く聞こえる。
雅恵は答えずに、チャイムを鳴らしたままのインターホンのボタンを押した。
黙って開けさせるという、無言の意思表示だった。
扉が開き、剛力が入ってくる。
高級なシャツに、その鍛え上げられた体格を際立たせるタイトなパンツ。
昨日の酒の匂いはなく、清潔で、しかし男の匂いをより強く主張するような、刺激的な香水の香りが一瞬で部屋の空気を支配した。
彼は裕二には目もくれず、まっすぐに雅恵に歩み寄る。
「よう、おはよう。…それにしても、二日酔いの顔じゃないな。俺のことは、どうだ?」
その声は、からかい半分、しかし底には冷たい確信があった。
雅恵は意を決して彼の目を見返した。
その瞳の奥には、自分の内面の欲望を暴き立てるような、侮辱的な好奇心が燃えていた。
「昨日の件、謝っておく。俺が少し乗り過ぎたようだ。だがな、奥さん…」
剛力は一歩近づき、雅恵の耳元で囁いた。
その温かい息が、敏感になった首筋にぞくっと電流を走らせる。
「お前の目は、正直だったぞ。アレを初めて見た時の、あの驚き…。あれは、ただの嫌悪じゃない。女として、本能で反応したんだろ?」
「…違います」
雅恵はかろうじて声を絞り出したが、それは自分自身に言い聞かせるための、あまりにも弱い抵抗にすぎなかった。
剛力は低く笑い、その手で雅恵の顎を優しく、しかし力強く掴み、顔を上げさせた。
「嘘をつくな。俺は女を知ってる。お前みたいに、体が正直な女ほど面白いもんはない。だから、頼む。たった一度でいい。俺のモノを、お前の体で味わわせてくれ。そうすれば、お前もすっきりするだろ。そして、俺も納得できる」
その言葉は、要求であり、同時に宣告だった。
雅恵の視線は、無意識に部屋の隅に立つ裕二へと移った。
相変わらず、青ざめた顔で唇をガタガタ震わせているだけで、妻が目の前で他の男に体を要求されているのに、一言も発することができない。
その情けなく、無力な姿を見た瞬間、雅恵の中で何かがぷつりと切れた。
怒り。失望。そして、どうせなら、この男にすべてを壊してほしいという、自暴自棄な衝動がこみ上げてくる。
雅恵は剛力の手を振り払い、一歩引いて彼の真っ直ぐに見つめた。
瞳の奥に涙を浮かべながらも、その声は、自分でも驚くほど冷たく澄んでいた。
「一回だけです」
その言葉に、裕二の肩ががくりと動くのが見えた。
剛力の口元に、勝利を確信したような、ゆがんだ笑みが浮かぶ。
「そして、これで、もうこの家には来ないでください。約束してください」
「ああ、約束しよう」
剛力は満足げに頷いた。
その瞬間、雅恵は自分が夫を見捨てたことを、はっきりと理解した。
これは、夫への復讐であり、同時に、自らの蠢く欲望に蓋をするための、最後の、そして最も危険な契約だった。
部屋の空気は、もはや夫婦のものではなく、新たな主と、その所有物となる女の間で張り詰めた、甘く、そして毒々しい空気へと変わっていた。
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