清楚な恋人の秘部に残った別の男の開発痕を、大学生の俺が雨の夜に知り涙ながら指でなぞるまでの三ヶ月
あらすじ
大学二年の有村祐介は、サークルの後輩・柊百合香の清楚な横顔に焦がれ、指先が触れるたび鼓動を隠せない。交際三ヶ月、初めての夜に目にしたのは、彼女の外見とはかけ離れた、別の男が刻んだ身体の痕。過去を知るほど嫉妬と昂りが混ざり合う。
第1章 湯気の向こうの柊百合香

第1章: 湯気の向こうの柊百合香
銭湯の湯気はいつも、輪郭を甘やかす。湯船に肩まで浸かると、あの日の新歓で見た後ろ姿がまぶたの裏に滲んだ。安っぽいプラスチックの洗面器、白い壁、排水溝の匂い。四月のわりに冷えた空気が首の後ろを撫でて、俺は首まで湯に沈んだ。柊百合香。声に出すのもためらう名前を、口の中でだけ転がす。後ろ姿しか見ていない。長い髪が肩から背中へ流れる線だけ、焼き付いている。新歓の会場で、白いカーディガンの袖口を両手でつまみながら、先輩たちの輪の端で笑っていた。笑い声を聞いたわけじゃない。口元がほころぶのを、人の隙間越しに盗み見ただけだ。声をかける勇気なんて、最初からあるはずがなかった。湯面に浮かぶ自分の顔は顎のあたりで揺れ、湯気でぼやけ、鼻の輪郭だけが情けなく浮かぶ。俺は口元まで湯に沈めて、肺いっぱいに湿った空気を吸い込んだ。
隣で中年の男が洗面器の湯を背中へ流した。ちゃぷん、と音が跳ね、水滴が湯面にひろがった。少し離れたところで少年が父親の肩を揉んでいる。壁の高い位置にある曇りガラスから、夕方の穴みたいに青白い光が落ちている。時折、排水口の奥で空気が喉を鳴らすような低い唸りがした。風呂場特有の匂い、石鹸と汗とカルキの混ざった匂いが、湿った風に乗って頬へ貼りつく。俺は自分の腕を眺めた。力が入ると細い筋が見える。女の子の前に立つには、あまりにも説得力の薄い体だった。湯の中で軽く握った拳を開く。指の間に湯が割り込んで、手のひらの温度だけが自分のものになる。柊百合香に触れるということが、どうしても想像へ届かない。届かないのに、頭の中だけが妙に熱を持って、曇りガラスの向こうに彼女の後ろ姿を探す自分がいた。
そうやってどれくらい浸かっていたか、湯の温さが脂肪の下まで届き、頭の芯がふやけた頃、そろそろ出ようと腰を上げた。脱衣所の冷えた床に足を置くと、体の熱が剥がされていくように寒気が走る。木製のロッカー扉の安っぽい音、小さな鏡、壁に固定された扇風機が、首を振りながら生ぬるい空気を送ってくる。俺は籐の籠に脱ぎ捨てた服へ手を伸ばした。隣の籠がふと目に入る。年季の入った籐の底に、白いものがあった。目を離せなかった。女物の下着だった。白い、飾り気のない、淡い光沢のある布。それ自体が裸の一部みたいに見えて、心臓が後ろから拳で押されたように跳ねる。布の真ん中、縦に二本、縫い目が走り、その中心に、うっすらと黄色い染みが残っていた。俺は喉をごくりと鳴らした。誰のものかなど、わかるはずがない。けれど、その生々しさが、先ほどまで俺の頭の中でゆらめいていた清楚な輪郭へ不意に重なる。あの白いカーディガンの下に。俺は一度だけ強く目を閉じてから、手早く服を着た。ジーンズのウエストが汗ばんだ肌に吸いつく。早く外へ出たかった。なのに、籐の籠から視線が外せずにいる。俺は曇りガラスの方を向いた。まだ曇ったままの窓には、相変わらず頼りない男の輪郭がぼんやり映っていた。急に恥ずかしくなって、入り口の暖簾をくぐった。
数日後、新歓コンパ。俺は同じ卓になった柊百合香の左隣に座っていた。たまたまだった。席が最後まで空いていて、運営の先輩に押し込まれるように腰を下ろした先が、彼女の隣だったのだ。彼女はあの日よりずっと近くにいて、俺は手の置き場がわからない病人みたいになっていた。焼き鳥の脂の匂い、ビールの苦い炭酸、隣の席の男の耳障りな笑い声。渦巻く喧騒の中で、彼女の存在だけがやけに静かだった。身体は小柄で、白いブラウスの襟元から細い首が伸び、淡い桃色の唇が時折、小さく動いた。仕草がひとつひとつ、おそるおそる世界に触れているような慎重さを帯びている。ビールジョッキを受け取って、乾杯の号令で俺は、自分のグラスを彼女のグラスへ近づけすぎた。こつん、と響く音。彼女が一瞬、目を丸くして、それから恥ずかしそうに笑った。
俺はグラスに口をつけず、卓上に置いた。手に冷たい結露がまとわりつく。心臓の音が耳のすぐ裏で鳴り始める。少しすると、隣の男が腕を引く弾みで、俺のグラスが傾いた。薄茶色の烏龍茶が、紙ナプキンを敷いたテーブルへ波のように広がる。慌てて手で押さえようとして、余計に広げてしまった。卓上が一瞬、固まる。誰かの笑い声。俺は「すみません」と小さく詫びて、紙ナプキンを重ねた。吸い取りが追いつかない。
その時、彼女が少しだけ体をこちらへ傾けた。
「これ、使ってください」
声だった。柔らかくて、耳の内側へすべり込むような、低すぎない、息の含まれた声。彼女の白いハンカチが俺の手の前に差し出された。正方形の布はきれいに折り畳まれていたが、端っこに小さな花の刺繍があった。俺は一瞬ためらって、そして受け取る。その時、彼女の指先が俺の小指と薬指のあたりへ触れた。触れたのは本当に一瞬だった。ぬるま湯のようだった。指先だけが温かい。そんな、ほんの刹那の熱が、手のひら全体を貫いた。俺は息を呑む。胸の真ん中あたりで、何かが弾けて、湯船の湯気とは別の熱が背中を上がった。
「あ、ありがとう。助かる」
声が裏返りそうになった。ハンカチを握り締めたまま、彼女を見る。百合香はもう俯いていた。白い頬が、火を近づけたように染まって、耳の縁まできれいな紅色が差している。小さな手は膝の上で、スカートの生地をそっと摘んでいた。
「こちらこそ、ごめんなさい。私、飲み物が倒れそうになるの、見てたのに」
そう言って、彼女は顔を上げないまま、唇だけで微かに笑った。烏龍茶の水気を吸った紙ナプキンが、テーブルの上でぐずぐずになった。俺の手の中で、ハンカチが彼女の体温をこぼさないように握られていた。あとで返すつもりだった。返すという行為が、もう次の約束を呼ぶ予感を孕んでいた。
二次会を断って外へ出ると、春の夜風が生ぬるく服の内へ入ってきた。駅までの道を、並んで歩いた。会話は途切れがちで、人波が途切れるたび、二人の間が不自然に開く。閉じようとすると肩が近づきそうで、俺は左足の歩幅を極端に狭くしたり、広げたりしてしまう。彼女は駅前のロータリーで、手提げ袋を両手に持ち直した。
「今日はありがとう、柊百合香さん」
俺はハンカチを白い手のひらへ返した。
「私こそ。……また、サークルで」
彼女はちいさく手を振り、人の流れの中へ溶けていった。歌うように揺れる黒髪。あれが百合香だと、わかっていても、俺には彼女の背中を見送ることしかできなかった。
翌週、サークル合宿の資料作りを任された。新入生歓迎合宿のしおりと名簿、バス座席表、模造紙の予備。ミスできない仕事を、なぜか俺と百合香が分担することになった。深夜の部室。誰もいない。半分だけ回った長い蛍光灯が、細い針のような安い音を出し、机の上にプリントが散らばる。彼女は俺の斜向かいの椅子に座って、名簿の番号と名前を声に出しながら確認していた。声を出してもらうたび、場がなぞられていく気がした。
「次は、えっと……有村くん? いえ、これは……」
彼女が顔を上げて首をかしげる。
「有村で合ってる。座席表だよね。それ、俺の名前」
俺が笑うと、百合香は眉を下げて「ごめんなさい」と小さく呟いた。謝ってばかりの夜だった。彼女の指が書類をめくる音、蛍光灯の羽虫の影、床に落ちたホッチキスの芯。五感の端々がいつもより鋭くなっている。部室は六畳ほどの細長い空間で、棚には過去の合宿アルバムが斜めに倒れている。カビと紙と畳の乾いた匂いが混じる中へ、不意に彼女の髪から甘い匂いが流れた。汗の塩気と、花の萼を潰したような、密度の高い甘やかな香り。パソコンの隣で、彼女が髪を耳へかける。その一連の仕草で、空気が薄く剥がれるような、静かな波が立った。唾を飲んだ音が、自分の耳だけに大きく響く。
「有村くんって、作業、すごく丁寧だね。私ばかり間違えてる」
「間違えてないよ。君がいると、助かる」
俺がそう言うと、彼女は少しの間、こちらを見た。パソコンの光が横顔に当たって、睫毛の影が頬に落ちていた。彼女の瞳の色は、この部室の暗がりの中で、焦げ茶というより黒に近い深い色に見えた。けれど、光が入るたびに奥の茶色が浮いて、ゆらゆらと揺れる。俺は呼吸を忘れそうになり、パソコンのキーを打つ指を止めた。
「変なこと言った。気にしないで」
百合香は、小刻みに首を振った。耳の後ろに一筋だけ髪が張りついていて、そこだけ濡れている。部屋は決して暑くないのに、彼女のうなじが、ほんのり湿っている気がした。
外で、ざああ、という音がした。雨だ。閉めきった窓を、雨脚が叩いている。さっきまであんなに静かだった空が、音を孕んで降ってくる。二人して、窓の方を向いた。ガラスの向こうは真っ暗で、雨が街灯の光を粉々に散らしている。音が大きくなるたび、世界の輪郭がぼやけて、部室の中だけが残されるようだった。彼女が、小さく息を吐いた。
「雨、すごいですね」
「うん。やむまで、もう少し、ここにいる?」
俺は、自分でもずるい言い方だと思った。断れない言い方を、わざと選んだ気がする。百合香は時計を見るでもなく、膝の上のプリントを揃えた。プリントの白い角が机に当たって、とん、と小さな音を立てる。
「そうですね。……帰りのバス、終わってるかも」
彼女の声は、雨音にすこし溶けていた。部室の蛍光灯の下だけ、時間の進み方が違うみたいに、空気が流れるのをやめていた。閉室時間を告げに来る者もいない。建物のどこか遠くで、扉が閉まる低い音が響いて、それきり、静かになった。俺と百合香は、向かい合って座ったまま、それぞれの手元に目を落としている。外の雨はやむどころか、強くなっていた。窓を濡らす雫の影が、彼女の白い頬の上をゆっくり流れていく。それを見ていると、降り始めた頃よりずっと深い時間まで、彼女を帰せないような、雨に閉じ込められた場所にいるような心地がした。
彼女の髪から、甘い匂いが再び漂ってくる。花の匂いと、紙の匂いと、外の雨の匂い。どれもが溶け合って、口を開くのが怖くなる。何を言っても、この空気を壊す気がした。代わりに、俺はパソコンを閉じた。百合香が、閉じた画面に映った自分の輪郭を指先でなぞるように、机の端へ視線を落とす。部室の時計は、十一時を少し回ったまま、秒針だけが空回りしていた。窓の外の雨音を言い訳に、俺たちはまだ、席を立たないでいた。
第2章 雨の帰り道、肩の温み
第2章: 雨の帰り道、肩の温み
部室の蛍光灯を消すと、窓の外の雨音が急に輪郭を持って耳へ入ってきた。廊下側の扉に鍵をかけてから、俺は折りたたみ傘の留め具を外す。開いた傘は思ったより小さくて、二人で入るにはどちらかの肩がどうしても外へ出る。
「入る?」
「うん。……狭いね」
先に軒下へ出た百合香が、俺の手元を見てから一歩、傘の下へ体を滑らせた。雨はさっきよりも細かくなっていて、街灯の光に照らされた粒が斜めに落ちてくる。隣から石鹸と汗の混ざった匂いがふわりと揺れて、四月の夜の濡れた空気と一緒に、それが鼻の奥へ広がった。雨で洗われたアスファルトの匂いと、彼女の髪から立ちのぼる甘い香りが、呼吸のたびに交互に来る。部室にいた時はあんなに強く感じていたその匂いが、外へ出ると水の匂いに薄められて、むしろそれが悔しいような、もどかしいような気持ちになる。
舗道を歩き出してすぐ、彼女の肩が俺の二の腕に触れた。薄いカーディガン越しの体温が、素肌に触れているみたいに生っぽく流れ込んで、俺は意図的に腕を体から離す。また触れる。今度は彼女の方がほんの少し体を寄せてきて、肩から肘までがぴたりとくっついた。
「傘、小さいでしょ。私、濡れても平気だから」
「大丈夫。俺の方が濡れてる側なんだから、気にしなくていいよ」
「……そういうの、優しいっていうんだよ」
百合香が顔を上げた。上目遣いに俺の横顔を覗く形になって、コンビニの白い光が彼女の目に跳ねる。唇が薄く開いていて、湿った桃みたいな色をしている。その下唇の中央だけが店の明かりを受けて光っていて、俺は唾を飲むのも忘れて見てしまった。
「祐介くんは優しいね」
囁くような声だった。雨音に半ばかき消されて、吐息だけが耳へ届く。俺は何か返そうとして、でも言葉にならなくて、傘を持つ手の指へ力を込めた。胸の奥で心臓が変な跳ね方をして、それが彼女に聞こえているんじゃないかと焦る。濡れる側の右肩はもうシャツが腕に張り付いていて、冷たいのに、左半身は彼女と触れ合っているところだけ熱かった。
「あんまり、じろじろ見ないで」と、百合香が小さく笑った。
「見てないよ」
「嘘。ずっと見てた」
「そっちこそ、よく見てるじゃん」
「祐介くんの横顔、真剣で、見るのやめられないの。作業してる時も、ずっとそう」
足を止めそうになって、踏みとどまった。水たまりを避けるように彼女の歩幅が小刻みになって、そのたび体が揺れて肩が離れたり触れたりする。路面に映った街灯の橙色が、雨粒に割れてぼやけていた。交差点の向こう側、ドラッグストアの青い看板が濡れた空気に滲んでいる。あともう少しで彼女のアパートだと意識した瞬間、歩く速度をもっと落としたくなった。彼女も同じことを考えているみたいで、踏み出す歩幅がわざとらしいほど大人しくなる。
階段の手前まで来ると、屋根のあるところへ入ったのに、百合香は傘から出なかった。俺の指が柄を握り締めたままでいるから、傘が傾いたままだった。彼女の爪先が内側へ向いて、つま先が何かを待つみたいに浮きかけている。
「あの、これ」
百合香の右手が伸びてきて、傘を握る俺の指の上に重なった。細い指が、骨に沿ってそっと位置を確かめる。体温が指先から伝わって、傘の骨が震えた。
「濡れちゃった」
「大丈夫」
でも百合香は手を離さなかった。親指だけが俺の親指の脇を控えめに撫でてから、ようやく離れた名残が、雨上がりの空気の中で熱いまま残った。
「また、サークルで」と俺は言った。
「うん。今日、楽しかった。……おやすみ」
彼女はもう一度だけ振り返って、口元を緩ませた。俺は歩き出せないで、階段の下に立ち尽くしていた。右肩から滴り落ちた雨水が、スニーカーの甲を伝う。それさえも惜しくて、しばらく空になった手の指を開いたまま見ていた。
交際に進むまで、そこからさらに一ヶ月かかった。自分の気持ちに名前をつけるのは簡単なはずだったのに、言葉にしようとするたび、四月の雨の夜にまとわりついた彼女の体温と、指に残った細い感覚が、頭の中で発火する。五月に入り、連休を挟み、俺は生まれて初めて映画の予告編を見ながら誘い文句を三晩も練習した。
「あのさ、映画、観に行かない?」
「映画?」
「ああ、これが、いいかなって」
スマホの画面を差し出す手が汗で滑った。百合香はしばらく画面を見つめてから、俺の顔と手元を交互に眺めた。
「デート?」
「も、もし、そういうことでいいなら」
「ふふ、祐介くん、顔赤い」
劇場は空いていた。一番後ろの席で、肘掛けの下に置いた互いの腕が、暗闇の中で何度も触れた。スクリーンの光が彼女の睫毛を浮かび上がらせるたび、開きかけの唇の薄い輪郭が見える。映画の音が遠く聞こえた。彼女の隣で、こうして平成の恋愛映画みたいなことをしている自分が信じられなかった。何度目かの接触で、彼女の小指が俺の小指に引っかかって、そのまま指と指が絡んだ。汗ばんだ手の内側で、互いの脈が打っている。俺は彼女の手を握り返せないまま、スクリーンの色が変わるたび、彼女の横顔だけを盗み見ていた。
六月に入って、土曜日の夜、俺は自分の部屋へ彼女を招いた。狭いワンルームに、彼女が来る前から何度も掃除機をかけた。窓を開けて空気を入れ替え、ベッドのシーツを換えて、机の上のノート類を押し入れへ突っ込む。インターフォンが鳴った時、自分の心臓が口から出るかと思った。扉の前で照れている百合香は、白いニットに淡いブルーのロングスカートという、夜に遊びに行くには真面目すぎる格好だった。それが逆に、この部屋へ入ることを自分なりに詰めた服装なんだと思って、俺の方が息を詰めた。
水の匂いが部屋に満ちていた。どこか遠くで、風呂の残り香がして、二人でベッドの端に腰掛けると、それ以上の匂いが全部近くなった。彼女の髪から、四月の夜と同じ、汗と花の混ざった甘い香りがする。映画館で嗅いだ時より濃い。ポップコーンの香りのしない、剥き出しの彼女の匂いだった。
「緊張するね」
「うん、俺も」
「祐介くんも?」
「当たり前だろ。こういうの、慣れてないし」
「……私もだよ」
「嘘つけ」
俺が笑うと、百合香は膝の上で指を組み、組み直して、俯いた。
「嘘じゃないもん」
それからしばらく、冷蔵庫の音だけが部屋に唸っていた。彼女は膝の上で組んだ指をまたほどいて、スカートの裾を直した。俺は立ち上がって、窓のカーテンをさらに閉めた。外の街灯の光が、細く真ん中から漏れていたのをそのままにした。部屋が暗くなりすぎないくらいの、ちょうどいい薄暗さだった。
「脱がせても、いいか」
声が掠れて情けなかった。彼女は何度か瞬きをして、それからゆっくりカーディガンに手をかけた。
「自分で、脱ぐね」
「いや、俺が」
一歩近づいて、その手を止める。カーディガンのボタンを外す手は、俺の手が見間違えるほど震えていた。白いシャツの下から、靄のような肌が覗いて、指先が胸の上を通るたびに彼女の肩が小さく跳ねた。後ろを向いて、スカート越しに背中のホックを外した。両手で軽く抱えるみたいにして、布の上からその位置を確かめる。顕微鏡でも触っているみたいにゆっくり外した。細い息が漏れて、彼女の背中がふっと縮んだ。
「……面白くないよ、こんなの」
「面白くないんじゃない。そのままにしてるんだ」
俺は下着の腰布に手を添えた。太腿の外側まで下ろしていくと、彼女が咄嗟に手で押さえた。
「あの、ね、一回、電気、消してもいい?」
「つけたままで。ずっと見てたい」
「いやだ」
「百合香」
名を呼ぶと、押さえていた手から力が抜けた。本当は俺だって心臓がどきどきして、まともに息ができていない。それでも手を止められなかった。下着を膝まで下ろす。白い布の股の部分、縦に走る折り目の中心に、薄い黄ばみが滲んでいるのが見えた。水色がかった白い下着に、汗と下りものが重なった、くぐもった色。俺は手を一瞬止めた。彼女がこの下着を履いて、部屋に来るまでの間、既に身体が反応していた。関係ないはずのその痕に、自分の熱が浮かぶのが分かった。でも口には出さなかった。彼女はそれどころじゃない顔で、両手でスカートの裾を握り締めている。
「足、開ける?」と俺は聞いた。
彼女は返事の代わりに、ほんのちょっとだけ膝を外へ開いた。薄暗がりの中で、私は彼女の脚の付け根に目を這わせた。暗がりに現れた秘部は、俺の予想を裏切る熟れた形をしていた。脱がせる前の想像とはまるで違った。決して汚いとか、そういうのじゃなく、見たことのない造形がそこにあった。クリトリスは、女の子の小さい蕾みたいな形なんかじゃなく、皮の間から頭をもたげるように膨らんでいた。左右の襞は、絡むわけでもなく、ただ長く伸びて熟れた果肉みたいに垂れ下がっている。右の襞の一部に、痕があった。刺さっていたらしい。穴の縁のごく小さい影。ピアスの通っていた場所。鼓膜の奥で、心臓が何度も殴り音を立てている。唾液を飲み込めないまま喉が動いて、首の筋が痙攣した。
「見ないで、お願い」
百合香が両手で顔を覆った。肘がぶつかって、膝が閉じかける。
「……ごめん。こういう体で。ごめん」
声が震えて、彼女の背骨のあたりまで小刻みに揺れる。俺は返事をできなかった。代わりに、その開きかけた膝の間に手を置いた。驚いた彼女が、顔を覆った手の隙間から俺を見る。泣く直前の目だった。
何かを言い出そうと、唇を噛んでいる。また「ごめん」が来る。俺はその唇へ、何でもない風を装って、自分の親指を押し当てた。
第3章 指先に暴かれる二年間

第3章 指先に暴かれる二年間
唇の真ん中に押し当てた親指を、百合香は噛まなかった。噛む力さえ失くしてしまったみたいに、ただ熱い吐息を指の腹へ何度も吹きかけている。目は閉じたままで、睫毛だけが蝶の羽のように細かく震えていて、声を出そうとするたび喉の奥で息が潰れていた。
「言いたいことが、あるなら」
俺が先に口を開くと、百合香の肩が小さく跳ねた。覆っていた手をそっと退けて、彼女の指を一本ずつほどくように外させる。彼女は為すがまま、俺の手の中で右手を開いた。指先は汗ばんでいて、まるで雨に濡れた花びらみたいにしっとりと熱い。
「……知って、ほしいの」
「聞くよ」
「引くよ。きっと、引く」
「引かない」
即答すると、百合香はやっと目を開けた。涙の膜が張っていて、焦げ茶色の瞳の奥が街灯の光を受けて揺れている。下着を太腿まで下ろしたままの格好が恥ずかしいのか、閉じた膝を浮かせようとして、でも俺の両手が彼女の膝の内側に置いてあるせいで動けずにいる。白い太腿が、暗い部屋の中でぼんやり浮かび上がって見えた。
「高校の時、私ね」
百合香は唇を湿らせて、声を途切れさせながら話し始めた。言葉の合間に、彼女の腹が何度も波打つ。息をうまく吸えないで、首の筋が汗で光っていた。部屋の空気が、彼女の吐息で少しずつ湿っていくのが分かる。
「校門の前で、よく待ってる人がいたの」
「仁って人か」
その名を口にしたのは、記憶のどこかで聞いたことがあったからじゃない。今、彼女の口から出る前から、その男の存在がこの部屋の空気に溶けている気がしていた。百合香は僅かに頷いた。前髪が頬に落ちて、その白い顔の半分を隠している。
「二十歳って言ってた。たぶん、もっと上。大学生じゃなくて、昼からお店の前で煙草吸ってるような人で。私ね、最初、こわかったの。でも、毎日、笑って立ってて、雨の日も傘を差してて……ある日、ファミレスで同じテーブルになって」
「優しかった?」
「ん……半分は。でも、すぐ、わかったの。私に優しくする手つきが、他の人とは全部違うって」
百合香の言葉が、時々、声から抜け落ちそうになる。下を向いて話すものだから、前髪が頬に張り付いて表情が見えない。俺は彼女の膝の上、まだ何も触れていない場所に指を置いた。逃げないように。そこにいる、と言うように。彼女の肌はひんやりとしていて、その奥で血管がかすかに脈打っていた。
「部屋、連れてかれたのは、付き合って二週間くらい。私、制服のまま。仁さんね、脱がしたりしないの。最初に、カバンから出したの。すごく太い、ピンクの」
声が一度、完全に消えた。百合香は右手で左の肘をぎゅっと掴んでいる。細い指の先が、自分の肌に食い込むほど強く。
「……おもちゃ?」
俺が確認すると、彼女は首を縦に振った。頬が赤い。耳のふちまで血が上っていて、部屋の街灯の光がその赤を青白く浮き立たせる。
「表面に、ぷつぷつ、粒がついてて。先の方は、丸まってて。普通の人のとか、そういう大きさじゃないの。シリコンで、持ったら手が重くて。それを見せられた時、私、声が出なくて」
彼女が膝を擦り合わせた。太腿の内側がかすかに濡れている。咄嗟に隠そうと下着を引き上げようとした手を、俺は上から握って止めた。百合香は弱々しく「あ……」と息を漏らし、身を竦ませる。その手首の細さが、俺の手の中で骨ばって感じられた。
「続けて」
「……まだ、全然はじまりじゃないよ?」
「いいから、続けて」
「後ろ、から、なの」
「アナルってことか」
俺が先に言ってしまうと、彼女は火でも吹きかけられたみたいに肩を竦めた。口を閉じて、しばらく呼吸を整えている。胸の奥の鼓動が、手のひら越しに膝へ伝わってくるみたいだった。外では雨がまた降り出したのか、窓ガラスを叩く音が、部屋の沈黙の裏側で細かく響いていた。
「そう……私、普通の、そういうの、まだ全然してなくて。仁さん、笑いながら、『壊さないから、こっちから覚えさせてやる』って。私を四つん這いにさせて、後ろだけ、全部見えるようにさせて」
「痛かっただろ」
「痛かった。初めの数回は、毎回、痛くて。入り口にね、ローションを、指でぐりぐり、何分も、押し込むの。ボトルの口を直接、付けられて、中まで垂らされる感覚……冷たいのを、先に、奥へ流し込んで……それから、指。細い方から、順番に。締まって、入らないって、私が泣いてると、何も言わずに……背中を、とんとん、叩くの」
百合香の声が、ところどころで途切れる。かと思えば、思い出したように早口になる。そのたび、彼女の身体が今ここで過去の時間をやり直しているみたいに見えた。肩が内側へ巻き込み、背中が丸まって、顔を膝に埋めようとする。
「いつの間にか、指が三本まで入るようになって。お尻の穴が、仁さんの指を、勝手に、くわえるの。入ってくる、ってわかると、奥の方が、じん、て、溶けるみたいに熱くなって……自分で、嫌なのに、腰が揺れて。そうなると、今度はこっちの穴も、って、仁さんが」
「待って」
俺は自分の声が低くなっているのに気づいた。腹の下が熱い。スウェットの上からでも分かるくらい、はっきりと硬く張りつめている。彼女の語る光景が、音になって耳へ流れ込むたび、身体の芯が痺れるような疼き方をした。指の先が、彼女の膝の上でじっとりと汗をかいていた。
「おまえのせいで、こんな」
百合香が俺の股間の方を見ないように、首ごと横へ逸らす。両足の間、閉じた腿の付け根には小さな汗の粒が浮いていて、暗い部屋の中でもそれがはっきり見えた。彼女の下着のクロッチ部分が、まだ剥き出しのままなのを思い出して、俺はその白い布の縁へ指を這わせる。湿った空気が、指先にまとわりつくようだった。
「……仁さん、すごく、我慢強い人で。前は最後まで触ってくれなかった。毎晩、後ろだけで。玩具を、くちゅ、て音がするまで、浅いところで出し入れして、私がどうなったか、ずっと後ろから見てるの。声もかけないで、ただ、息を荒くして」
「君は、その時、何を考えてた」
「何も。考えられない。ただ……あの、私、これ以上、話すと、変になる」
「変になってるんだろ」
言いながら、俺は彼女の腿の内側へ手のひらを押し当てた。びくりと腰が浮く。下着の縁から滲み出た蜜が、指先へわずかに触れた。粘り気のある、生温かい感覚がする。それは彼女の羞恥の温度そのもののように思えた。
「お願い、聞かないで……そんな風に、触りながら、聞くの、いや」
「触ってない」
「嘘。触ってる」
百合香の声が水を含んだように濡れていた。彼女は息を荒らげて、両手で俺の手首を掴もうとする。でも力が入らないのか、指が手首を滑って、脚を開いたまま体勢を崩した。街灯の細い光が、彼女の腹から腿にかけて落ちる。閉じていた膝が、わずかに外側へ開いていた。その奥の陰りが、まるで見てほしいとねだっているみたいに湿って見えた。
「シリコンボール入りの、あれ、でしょ」
俺は彼女の言葉を先取りするように言った。百合香が喘ぐ。短い息を何度か繰り返して、首を振った。
「あれ、仁さん、一回入れたら、動かさないの。先っぽの粒が、中で、私が動くたびに、ころ、ころ、当たるの。お尻の中で、転がってる、感触がするの。私、それ、すごく、こわくて」
「でも、腰は止まらないんだ」
「止まるわけ、ない……あ、あっ、だめ、そこ、触らないで。祐介くんの指、なんで、そんなに、優しいの……仁さんの指は、もっと、乱暴で、痛くて。私、痛いのに、感じてる自分が、こわくて……祐介くんにまで、こうやって、変な身体見せるの、嫌なのに、気持ちよすぎて、どうしたらいいか、分かんない」
俺の指が、彼女の襞の外側をゆっくりと上下に滑っていた。まだ中へは入れていない。入り口の周りを、薄い皮の上からなぞっているだけ。それなのに、彼女のそこはもうぐちゅぐちゅと音を立てる寸前で、触れるたびに腿がひくひくと跳ねた。彼女の言葉が途切れた後の沈黙が、部屋の空気をさらに重く湿らせていく。
「それから」
「裏、返され、て……仁さんね、アナルに玩具、入れたまま、私の足を、肩に、かけさせて……お腹の上から、ずっと、その膨らみを見るの。私、お腹の、奥の方で、ずっと、丸いのが、いきてる、みたいで」
「前は、その時に」
「あ、やっ……やめて、そういう、聞き方」
俺の指が、クリトリスの根元を掠めた。皮の上からでも分かる。仁に開発されたそれは、そこだけ体温が高い。触れた瞬間、百合香の喉から潰れた悲鳴が漏れて、腰がシーツの上を跳ねた。
「後ろからも、前からも、同時にされたんだろ」
「され、て……されたの……でも、私が、自分から、望んだんじゃ……」
「どうだった。二人だったのか」
百合香が、泣きそうに首を振った。振りながら、彼女の右手が俺の左手を握っている。その指の力が、気がつくと強くなっていた。俺は指先を彼女の濡れた窪みに当てたまま、彼女の答えを待った。雨音が一瞬強まって、また弱まる。部屋の中の時間だけが、外の世界から切り離されていくようだった。
「友達、なのかな……仁さんが、連れてくるの。最初は、隣で、私のことを見てるだけ、だった。私、それで、恥ずかしくて、何度も、帰りたいって」
「帰りたいって、言えたのか」
「言えなかった……役に立てる、ことが、嬉しく、て……仁さん、他の人には、見せない、するでしょ。二人で、私の、前と、後ろ……お腹の下に、手を入れ、られて、腰を、浮かせられて……胸も、後ろから、手を、入れられて、支えるように、揉まれて」
「それで、同時に挿れたんだ」
「あ、ああ……ぁ、やっ、指、入ってるっ。待って、お願い……私ね、祐介くんに触られると、仁さんのこと、思い出すのに、頭の中が、ぜんぶ、祐介くんの指に上書きされてくみたいで……そんな自分が、いちばん、怖い」
俺の中指が、彼女の膣の入り口をくぐっていた。第一関節まで。ぬかるみのように熱い内側が、指を包んで、彼女の呼吸と同時にきゅっと締めつけてくる。中の肉が、指先を奥へ奥へと誘い込むみたいにうねっていた。
「続きを言って。二人に、何をされた」
「……二人に、あの、一人が、先に、後ろで、私を貫いて……仁さんが、前から。私の顔、手で、上向かせて、舌、入れられて。三人、重なって。下から、お腹の中、二本、別々の男のが、形を押し付け合ってる、感覚、するの……私、その時、何より、先に、身体が、絞まって……」
百合香の内側が、指を締め上げながら痙攣した。言葉の途中で、彼女の膝ががくんと開き、肩がシーツへ沈む。白いニットが濡れて肌に張り付き、鎖骨のあたりに汗が光っている。俺は彼女の襞に食い込ませた指を、深くは進めず、浅い場所で何度も折り曲げた。ぐちゅ、ぐちゅ。中の肉が指に絡みついて、押し返してもすぐに吸い上げてくる。
「……こんな、私で、ごめん、ね」
「謝らなくていい」
「ごめん……私、最低だもん。あんな、されかたして、身体が、今も、まだ……あっ、やぁ、そこ、指、曲げないでっ。私ね……私ね、二人にされてる時、いちばん感じてたの、仁さんの、じゃなくて、もう一人の、見てるだけの人の、視線、なの。見られてる、って思うだけで、お腹の、奥が、ぎゅって……こんな話、祐介くんに、したく、ないのに……ああ、ちが、今は、祐介くんに、見られて、指、入れられて、それで、私、もう……」
ぐちゅぷちゅと音を立てて、彼女の襞が俺の指を啜る。百合香は片手で顔を覆い、もう片方の手でシーツを握り締めていた。爪先が何度も浮いては、力なく落ちる。腰が揺れ、白い腹が暗い中で弓なりに反る。彼女の吐露する言葉が、部屋の空気に溶けて、俺の指の動きをいっそう性急にさせる。
「仁は、今、どうしてる」
「分かんな、い……別れて、から、電話も……全部、着信拒否で……」
「会いたい?」
「会いたくない……会いたく……ない、です。でもね、祐介くん……私の、ここ、まだ、あの人の形が、残ってる。指、入れるたびに、思い出すの。いやなのに、その、いやだった痕ごと、祐介くんの指が、塗り替えてくみたいで……私、それ、期待してる……自分が、こわい」
語尾が敬語になって、彼女は息を殺した。俺はもう一本、薬指を添えて、それを浅い場所で彼女の熱に馴染ませた。仁が開いたという、その後ろの蕾までは、まだ触らない。触れたい。今すぐ、そこを知りたい。でも、今はまだ、彼女の口から続く記憶が、俺の指の形を決めていた。指先に絡む彼女の蜜が、粘度を増して、白い太腿を伝い落ちる。
「毎晩、って言ったな」
「……高校、二年間。学校が終わると、まっすぐ、仁さんの部屋。夜中に、帰されるの。朝までいる日も、あって。……ねえ、祐介くん」
百合香が、俺の手首に爪を立てた。彼女の目は潤んでいて、でも、泣いてるのか、快感なのか、もう自分でも分からない顔をしている。
「私ね、汚い、よ。後ろも、前も、あの人の形になってて。祐介くんの、これから先の時間を、私に使っちゃ、だめ」
「ダメだ」
俺は短く返した。人差し指まで加えて、三本をまとめて彼女の入り口で浅く抽送する。ぐぽ、と濁った水音が布団に落ちた。百合香が「ひあっ」と上ずった声を上げて、脚を閉じようとした腿を、俺が片手で押し戻す。
「私は、本気なのに」
「俺も本気だから、触ってる」
「んぁっ、あっ、はっ、んん……やだ、おかしく、なる。待って、お願い、三本は……仁さんのより、祐介くんの指のほうが、まっすぐで、奥まで、届く……私、それ、知って、どうしたらいいか、分かんなくなってるの」
百合香の膣が、三本の指を奥へ招くように波打った。先端を曲げて、ざらついた前壁を引っ掻くように撫でると、中の襞が指を締め上げ、彼女の腰が何度も突き上がった。尻の下のシーツが湿って、擦れるたび、ぴちゃぴちゃという粘ついた音がする。雨の匂いが、部屋の空気の底で、彼女の汗の匂いと混ざっていた。
「……後ろと前、同時に挿れたら、身体が先に絞まった、って、今、言ったよな」
「言った、けど……」
「今、同じくらい、締まってる。俺の指に、すごく、食いついてる」
「や……言わないで……そういう、こと、言わないで、お願い。だって、私、もう、自分の身体が、どこが、気持ちいいとか、そんなの、仁さんに、教えられたまま、なのに。祐介くんに、されるたび、ぜんぶ、新しい、快感に、書き換えられてる。頭、おかしくなりそう」
彼女は首を左右に振った。振るほど、汗が飛んで、湿った前髪が張り付いた額の白さが目に焼ける。唇が半開きになって、荒い息の合間に舌が覗いた。部屋の暗がりで、白い歯と舌だけがやけに生々しい。汗と、せっけんの残り香と、甘酸っぱい、花の腐りかけのような匂いが鼻を満たした。
「仁の指より、どっちが深い」
「そん、なの、比べられ……」
「祐介くんの、あっ、分かん、ない、も、ん……ああっ」
俺は指を根元まで一息に沈めた。彼女の奥の肉が、暴力的なほど熱くて、ぬるぬると蠢いていた。中で薄い壁を隔てて、あの男が開発したという場所へ、指先がかすかに届く。百合香が仰け反り、喉を晒した。その細い首を汗が一筋、流れて、鎖のない白い胸元へ消えた。彼女の右手が俺の手首を掴んだまま、爪が皮膚へ食い込む。
「……私が、私が、あの人に、された、一番、いやなこと」
百合香の声が、呼吸の合間を縫って漏れた。涙で濡れた睫毛が、暗闇の中で銀色に光っている。
「言わされるの。今、どこが気持ちいいか。どうして欲しいか。仁さん、私が答えないと、やめてくれるの。でも、答えたら、もっと、ひどくする。私、言葉にするたび、身体が、おかしくなって」
「今、どこが気持ちいい」
「え?」
「私に教えて。百合香の口から、言わせて」
百合香が、は、と息を呑んだ。瞳いっぱいに涙を溜めて、何度も首を振る。振りながら、腰が俺の指を追って浮いた。彼女の入り口が、指の根元をくわえ込んで離さない。中の襞が、意思を持っているみたいにうねうねと動く。
「やだ、そんなの、祐介くんに、言えない」
「言って」
「ん、んぅ……分かんない。分かんない、の。いやなのに、気持ちよくて、胸も、はや……あ、あ、はや……こわ、いの……後ろ、触って、欲しい、れも……違うの、でも、前、も、奥、指……ああっ、祐介くんの、指、好き……仁さんの、じゃなくて、今、ここに、いるあなたの、指が……ああ、いや、言っちゃった、ごめん、ね、こんなの、ほんとは、言いたく、なかったの。でも、気持ちよくて、頭の中、ぜんぶ、祐介くんに、なってる。ねえ、私、どうしたら、いいか、分かんない。お願い、助けて」
呂律が回っていない。彼女の言葉は、もう拒否と懇願の境目で溶けていて、語尾だけがはっきり残る。俺の指が引き抜かれそうになるたび、百合香の膝が内側へ倒れ、次の動きを待って震えた。
「後ろも、して欲しいんだな」
「ちが……ちが、っ、う……」
言葉と裏腹に、彼女の腰が分かりやすいまでに揺れていた。肩で息をして、何度も首を振り、でも手は、俺の手首を離さない。彼女の中はぐちゃぐちゃに濡れて、ザラついた前壁の一点を擦るたび、下腹がくっと窪んだ。
「仁は、ここも、舐めたのか」
「あ、ん……しらない。やめて。おねがい、もう、ゆるして……あぁっ、だめ、いっ、ちか、い。ねえ、祐介くん、私、あなたの指で、仁さんの、二年間を、全部、洗い流して、欲しいの。あなたの、指で、最後まで、して欲しい。……そんなこと、自分から、お願いできる、私じゃ、なかったのに。ああ、もう、ほんとに、いきそう。助けて、止まらない」
百合香の内腿が、小刻みに跳ねた。爪先がシーツを蹴って、片方の下着が足首までずり落ちる。俺は指を浅く戻し、彼女のいちばん敏感な、膨らみきった蕊の付け根を親指で押し上げた。ぐちゅぐちゅという音が、もう、耳を疑うほど下品に部屋へ響く。雨の音と、粘液の音と、彼女の喘ぎが、暗い部屋の中でひとつに混ざっていく。
「はっ、あ、ひぁ……っ」
彼女の背が、弓のように反った。声にならない吐息が喉を震わせ、膣が指を絞りながら何度も痙攣する。絶頂の瞬間、百合香は片腕で顔を覆ったまま、もう片方の手をシーツから離して、虚空を掴んだ。指先が、空気を掴もうと震えている。
「くはぁ……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を、暗がりで見る。彼女の中から指を抜くと、糸を引く蜜が手の甲まで伝った。百合香は脚を閉じ、横向きに倒れるようにして、肩で息を繰り返している。開いた唇から、か細い呼吸が漏れ続ける。部屋の中はしんとして、窓の外の車の音が、耳の奥で鈍く砕けた。
俺は動けなかった。自分の腹の下が、痛いくらい張りつめて、立ち上がることすら億劫だった。百合香が、震える右手を伸ばしてきて、俺の指を握る。指先が濡れているのも構わず、ごく弱い力で絡ませてきた。彼女の指はひんやりとしていて、けれど内側にまだ快楽の余熱を隠しているようだった。
「……ごめん、ね。今日は、ここまでに、させて」
声は涙でくぐもっていた。俺は返事の代わりに、その手を握り返した。
「仁さんの、こと、聞いて……私……何も変わらないって、思わない?」
「分からない」
正直だった。他にどう答えられるのか、分からなかった。
「でも、離したくない」
俺がそう言うと、百合香は少しだけ指に力を込めた。明かりの消えた天井を、二人で仰いでいる。彼女の髪から、汗と花の混ざった甘い香りが、沈黙の中でゆっくり濃くなる。雨がまだ窓を叩いていて、その音だけが、濡れた夜の続きを静かに刻んでいた。
俺は繋いだ手を胸の上へ乗せて、夜が終わるのを待った。彼女の呼吸が、いつしか規則正しくなって、闇の中に溶けていく。窓ガラスを滑る水滴が、街灯の光を受けて銀色に光っては、次の雨に流されていった。
第4章 元彼の形をした身体

七月最初の土曜日、祐介は百合香と駅前のカフェで待ち合わせた。空は朝から厚い雲に覆われ、雨が降り出すのも時間の問題という湿った空気が、アスファルトの上に溜まっていた。待ち合わせの五分前に着いた彼は、白い日よけの下のテラス席でもなく、冷房の効きすぎた店内の奥でもない、窓際の二人掛けに席を取り、百合香の姿を探した。ガラスの向こうは遠くの歩道橋あたりから湯気のように白く滲みはじめ、傘を持たない買い物客が小走りに通り過ぎていく。祐介は自分の太腿の上で右手を軽く握り、開き、また握った。あの雨の夜から、指先に残っているのは百合香の熱ばかりで、なのにそこへ触れるたび、別の男の指先と重ねられているような痺れが、関節の奥へこびりついて離れなかった。
電車を降りてきた百合香は、改札を抜けるとすぐに祐介を見つけ、少しだけ首を傾げるように笑った。淡い藤色のカーディガンを肩に掛け、白いブラウスの襟元には細い銀のネックレスが揺れている。紺色のロングスカートは歩くたびに足首のあたりで波打って、光沢のないタイツが雨に濡れた空気の中で、肌色を控えめに透かしていた。彼女は人混みを横切る時、誰にも触れないよう胸の前で小さく鞄を抱え、時々立ち止まっては先を歩く他人の傘の先を目で追った。その姿はどこからどう見ても清潔で、穏やかで、男の影なんてひとかけらも纏っていないのに、祐介の鼻孔の奥にはもう、あの夜嗅いだ下着の染みの匂いが蘇る。汗と、尿の匂いともつかない酸っぱさと、熟れた果実の腐りかけのような甘さが舌の付け根へ滲んで、彼は自分の浅ましさを飲み込むように、冷めかけたカフェオレを一口含んだ。
「ごめんね、少し並んじゃって」
百合香は席に着くなり、申し訳なさそうに眉を下げた。彼女の声はかすれてもいなければ、震えてもいない。それなのに祐介の耳は、その輪郭の奥に四畳半で聞いた切羽詰まった吐息を探してしまい、返事が一拍遅れる。
「別に、俺も今来たから。外、降りそうだし、むしろ早く入れて良かったよ」
「ほんと、空が重いね。朝、家を出るとき、傘にするか折り畳みにするか迷ったの」
「どっち持ってきたの」
「折り畳み。鞄の中で場所取らないから」
そう言って百合香は小さく笑った。口元が緩む瞬間、祐介の胸の裏側を、くろぐろとしたものが這い上がる。仁の部屋ではどんな風に笑っていたのか。胸を揉み上げられながら、下着一枚のまま、どんな声で「ん」とか「いいよ」とか返していたのか。カフェの軽やかなジャズと、スプーンの食器に触れる音の中で、祐介はテーブルの節くれだった木目を見つめ、彼女の見えないもう一人の男を、喉の渇きのように意識した。
「祐介くん、今日、あんまり寝てないでしょ」
顔を覗き込むようにして百合香が言う。甘く温度のある視線が、鼻の頭から頬へゆっくり落ちてくるのを感じる。彼女の焦げ茶色の瞳が、薄暗い照明を受けて蜜のように揺れていて、祐介はすこし背筋を伸ばした。
「睡眠時間が短いんじゃなくて、夢見が悪いだけ」
「変な夢?」
「まあ、変な夢。百合香はあんまり気にしなくていいやつだから」
「私が出てくるの?」
「秘密」
祐介は笑おうとして、口元だけを持ち上げた。百合香は「なにそれ」と呟いて、運ばれてきたレモネードのストローを唇へ近づける。薄い桜色の唇が、透明な管をそっと挟んだ。吸い上げられる氷の音が、どこかで広がる彼女の腟内の、ぬめる音と二重写しになって、祐介の耳の奥をくすぐる。彼は自分が今、カフェで向かい合っている相手を、その下着の中の黄ばみにまで思いを溶かしていることを知っていた。知っていて、なお目をそらせない。彼女の唇が濡れ、白い喉が飲み下すために小さく動く。その喉仏の真下に浮かぶ汗、その汗が流れ着く鎖骨の窪み、ブラウスの下の、申し訳なさそうに寄り添う二つの乳房。外の雨はまだ降り出さないままで、ガラス越しの街路樹が、湿った風に葉裏を見せて騒いでいた。
その日のデートは、映画を観て、駅ビルの安いイタリアンを食べて、キッチン用品の店を冷やかして、それからどちらからともなく祐介の部屋へ向かう流れになった。雨は夕方からぽつぽつと落ちはじめ、本降りになる前に、と早足で並ぶ。傘を差した百合香の歩幅が小さく、二人の肩が何度も触れて、そのたびに彼女の髪からシャンプーと雨の匂いが混ざった香りが立ちのぼった。西日を隠した空の色は暗い水底のように沈み、街灯や車の尾灯が、濡れた道へ滲んで長く伸びている。改札を抜ける頃には雨脚が強まっていて、祐介は自分のパーカーの袖を、百合香の鞄の上へ、さりげなく置いた。
部屋の鍵を開けると、雨の湿気と、閉め切った一週間分の生活の匂いが、もやっと押し寄せてきた。祐介は先に窓を数センチ開け、カーテンの結び目を直し、床に散らばったティッシュボックスを蹴り寄せてから、百合香を中へ招き入れる。彼女は玄関で傘の水滴を三度振り、くるりと帯状に畳んで、決して上がり框の外から足を浮かべようとしない。律義な仕草だった。そして室内に入る時だけ、彼女は少し緊張したように膝を揃えて、上がり框の木の冷たさを足裏で確かめた。佑介は、その一瞬のためらいすらも、彼女がこれから自分を男の前で裸にする前の、いや、すでにさせられてきた者特有の、小さな儀式のように見えてしまう。
部屋の四畳半は、雨の夜だというのにまだ暑く、二人分の体温と呼吸ですぐにガラスが曇っていく。百合香は「ちょっとだけシャワー借りていいかな」と断りを入れて、持参したタオルを立膝の上で開いた。淡いクリーム色のタオルは新品らしく、糊の硬い匂いが微かに立っている。彼女の指先が白く細く、そのタオルの縁を摘む様を、祐介はしばらく背中越しに見ていた。汗ばんだ八月近くの空気の中、彼女の首筋はすでにうっすらとしっとり濡れて、後れ毛が一筋、白い肌へ張り付いている。たったそれだけの光景で、彼の腹の底がこもった音を立てて熱を持ち、短く息を吐いた。
シャワーの音が狭い浴室で跳ねる。タイルやプラスチックの洗面器に当たる水の飛沫が、不規則なリズムで壁を叩いている。チリチリと鼻を刺激する湯気の匂い。百合香は多分、石鹸を二度泡立てて、耳の後ろからうなじを流している。仁に教わった洗い方の順番が、あの浴室のどこかに染み付いているのではないか。いや、染み付いている場所は浴室なんかじゃなく、彼女の身体の記憶そのものなのだ。祐介は押し入れの前の畳に座り、腕組みを解いて、自分の膝へ目を落とした。じっとりと掌に汗を掻いている。それは欲望の汗ではなく、彼女の体へ触れる前から、もう別の男の形を探してしまう自分への嫌悪と、その嫌悪を突き破って彼女を暴きたいという衝動とが、混ざって滲んだものだった。
百合香が風呂から上がると、部屋の空気が一転して甘く湿った石鹸の匂いに包まれる。濡れた髪を肩の片側へ垂らし、白い下着の上に祐介の黒いTシャツを借りた姿で、彼女は畳のへりに膝を付いた。申し訳なさそうに肩をすぼめて、それでも視線だけはまっすぐに、祐介の目を見ようとする。Tシャツの袖口から伸びる腕は線のように細く、湿った内腿からは湯冷めしない肌の温度が、仄かに湯気のように匂っている。胸元には小さな乳房が、布の下で遠慮がちに重なり合い、その頂きが薄く布を持ち上げて、下着の白さを通してかすかに翳っているようだった。
「こんな格好でごめんね。でも、自分の着替え、カバンで皺になってたから」
「いいよ、後でハンガーに掛ければ済むし。それ、よく似合ってる」
「ほんと? なんだか、借り物の体みたい」
百合香が手のひらをTシャツの裾へ滑らせ、笑った瞬間、祐介は彼女の膝裏を抱えて、畳の上へ横たえた。自分の腕の中へではなく、まるで雨の夜に落ちた洗濯物を拾い集めるように、やや乱暴に。彼女は小さく「あ」と息を漏らし、背中を畳へ打つ前に、彼の手が後頭部を支えていた。
「今日、映画のあたりからずっと、百合香の下着のこと考えてた」
「なっ……映画の間、私、真面目に観てたのに」
「俺は半分しか観てない。最初から、触りたかった」
「祐介くん、変。……そういうの、急に言わないで」
百合香が両手で顔を覆う。指の隙間から覗く唇は、濡れたように赤く開いて、言葉とは裏腹に、身体がすでに男の手を受け入れる態勢を整えているのが分かった。彼女の太腿が、ほんの少しだけ内側にこすり合わされ、熱が布越しに時刻を告げる。外は雨が本格的に窓を叩きはじめ、濡れた木々の匂いが、遠くに雷鳴を含んだ風の音とともに、部屋の中へ流れ込んでくる。
襖の奥から、汗と雨と石鹸の匂いが静かに冷めて、二人の呼吸だけが浅く重なった。あの夜から、百合香の体に触れるたび、祐介は自分の指先が仁の手と比べられているような気がしてならなかった。彼女の肌は相変わらず吸い付くように柔らかく、耳の後ろからは湯上りの汗と花の混ざった甘い香りが立ちのぼる。それなのに、指を沈めた先の熱だけが、どこか遠い場所で渦を巻いている。彼が触れているのは百合香のはずなのに、彼女の中にはもう一人、別の男の形が住み着いていて、そいつが彼の指を品定めしている。カフェの木目の上で散らばっていたあの黒い塊が、今度ははっきりと輪郭を得て、百合香の下腹部のあたりへ降りていくのを、祐介は感じていた。
七月に入ってから百合香が部屋を訪れるようになって、もう幾度となく肌を重ねてきたのに、今夜の彼女はいつにも増して、指へ追いつこうとする肉体と追いつきたくない心が剥き出しになっていた。触ってほしいという合図なのか、ただ安心したいだけなのか、その判断はいつも付かない。でも、彼女の指が祐介の手の甲を這うと、こっちの身体が先に熱を持つ。ゆっくりとスカートを脱がせ、借り物のTシャツを胸元までたくし上げると、白い下着の中央、縦に折り目の付いた部分が、うっすらと黄ばんでいた。尿の匂いとも、おりものの匂いともつかない、彼女の体の奥から滲み出た色だった。指先でそこを押すと、布が湿ってくたりと凹み、押し返した指へ熱が伝わる。雨音はますます強くなり、窓ガラスを滑り落ちる水滴が、百合香の背後の壁へ絶え間なく影を走らせていた。
「……見ないで」
百合香が後退り、床に擦れる踵の音が恥ずかしかった。彼女の声は、あの初めての夜よりずっと掠れていて、尻すぼみに消えていく。
「見てるんじゃなくて、触ってるだけだろ」
「同じだもん。祐介くんの目、すごく、そういう目してる」
「そういう目って、どんな目だよ」
「分かんないけど……えっちなの」
彼女が下着の縁を引っ張り上げようとする。でも、雨と湯上りの汗で太腿に張り付いたそれを、祐介の手が遮って、逆に少しだけ下へずらす。露れた腹の下、恥毛の薄い茂みの中央、白い布が食い込んでいた。その食い込みが示す輪郭は、仁に毎晩こじ開けられていた場所とは違うのに、彼の目はどうしても、その隣の窄まりを探してしまう。カフェで笑っていた百合香と、四畳半で脚を割る百合香と、どちらの奥にも仁の影が同じ濃さで沈んでいる。
「や……」
「ちょっと確かめるだけだから」
確かめる、という言葉が誰に向けた言い訳なのかは、自分でも分からなかった。彼は百合香の下着の股間部分に口を寄せて、黄ばんだ染みの上から舌を這わせた。鼻の奥へ、むわっとした匂いが届く。汗の塩気と、熟れた果実の腐りかけのような甘さが舌の上に残って、織り目の粗い生地が、ざらりと舌先を引っ掻く。百合香の全身がびくりと跳ね、彼女の呼吸が、喉の奥で折れる。
「あっ、やだ……舐めないで」
「匂いがする。下着の上からでも分かるくらい」
「言わないで……恥ずかしい……」
両脚を寄せて逃げようとする彼女の腰を、片手で畳に縫い止める。四畳半の畳の匂いと、百合香の髪が畳に触れて立てる音が、妙に淫らに耳へ入ってくる。外では雨が飽きることなく屋根を叩き、排水管を伝う水の音が、ときおり彼女の嬌声を先取りするように高く鳴った。彼女は首を横に振って、でも脚のつけ根がぴくぴくと脈打っている。彼は下着を太腿の半ばまで下ろして、指先を地肌へ直接当てた。肉襞はくちゃりと音を立てて、蜜が指を包む。
ドロリ、と重たい雫が人差し指の第二関節を濡らし、落ちた先で畳を小さく染めた。外側の襞を軽く押し開くと、桜貝を思わせたあの薄い肉弁が、今は充血して桜色から紅鮭色へと変わっている。膨らんだクリトリスの皮を上へ引っ張ると、ぬらぬらと光る鈴口の天辺が、祐介の目を真っ直ぐ見ているようだった。空いた方の手で、彼は彼女の下着をぐっしょりと重いまま持ち上げ、鼻先へ近づける。嗅がずにいられなかった。あの瑞々しくも生臭い分泌液が布へしみ込んだ匂いが、頭の奥をかき混ぜる。自分の中にある夫婦の営みを汚すような背徳と、仁には許されていた領域へ、ようやく足を踏み入れるような優越感が、腹の底でどす黒く溶け合っていく。
「……今日、いける?」と百合香が呟いた。
「まだ動いてないだろ」
「そうじゃなくて、最後まですれば、祐介くんも楽になれるかなって」
その言い草に、腹の奥で何かが静かに逆剥けた。楽になれる。仁の二年間が染み付いた身体を抱いて、自分だけが吐き出して終わる。彼女の口振りは、まるで身体を使わせれば彼の欲が収まると知っている年上の女みたいだった。いや、実際、百合香はこの行為において、彼よりずっと年上だった。仁が彼女に教え込んだ年月が、身体のリアクションのひとつひとつに張り付いている。窓の外で雨がさらに強まり、大粒の水がガラスを叩くたび、部屋の中の空気が細かく震えた。
彼は彼女の脚を開かせて、膝から下を畳へ投げ出させた。勃ち上がった陰茎を自分の手で扱く。膨張しきった亀頭の先から溢れた先走りが、手のひらを濡らした。百合香は背を仰け反らせるようにして、腕だけで体を支えながら、彼へ腰を差し出してくる。既にその姿勢が、どこかの誰かの前で躾けられた色を纏っている。彼の心は、欲情と嫉妬で同じくらい焼けていた。夜の湿気が肌に膜を張り、二人の汗がまたたく間に混じっていく。
挿入する時も、彼女はうまかった。彼女というより、彼女の膣が、受け入れる角度を先に知っていて、浅い場所で亀頭をくわえ込み、それから奥へ誘うように蠕動する。挿れた瞬間、中の肉が男根の濡れた先端へ吸い付いて、奥まで引き摺り込む。ぐちゅ、と濡れた粘膜が鳴り、ぬくいだけでない、女の内臓の生々しい蠕動が、男根全体を包んだ。たまらなかった。でも、気持ちよすぎて、動きたくないのに動かされてしまう。仁に開発された女体が、彼の拙い動きを先回りして追い越していく。奥へ進むほど内壁がゆるく開いたまま、自分の気持ちいい角度を探す間もなく、背筋から頭の芯まで快感が駆け上がって、数分も保たなかった。ドプッ、と濁った先走り混じりの汁が、彼女の内襞へ注ぎ込まれ、結合部から膜になって溢れる。
「……ごめん」
祐介は百合香の首元に顔を埋めたまま、そう言った。彼女の髪の甘い香りが、汗の匂いに変わっている。百合香は何も言わず、彼の背中をとんとんと二回叩いた。仁が、泣く彼女の背中をそうやって叩いていたという。その所作すら、彼女の指先には染みついている。背骨のわずかな窪みを、ためらうでもなく染み込ませた指の腹が、破裂しそうな彼の胸を静かに押してくれている。なのに、その優しさの形までが、別の男の模造品だった。
「私の方こそ、ごめん。……体、全然まだなのに。でも、無理しなくていいの。慣れるから」
その言葉が、どんな顔で言われるより胸を刺した。彼女の膣は、普通に挿れて出すだけでは満足しない。芯の部分は、もっと乱暴に、もっと深く、もっと待ってから与えられなければ、本当の震えを返さない。彼女の喘ぎ声の中に、彼の知らない快楽の残骸が混じっている。雨はなおも降り続いていて、生温い空気が、汗冷えしてきた二人の肌を包んでいた。
その後も、サークルの昼休みになるたび、その影は付きまとった。百合香が他の男子部員と話して笑うたび、その笑い声の奥に仁の輪郭を探してしまう。彼女の口元が緩む瞬間、高校時代の放課後、あの男の部屋でどんな風に笑っていたのか。胸を揉まれながら、下を履かされていない状態で、笑っていたんじゃないか。想像が、勝手に肉を持って腹の奥を灼く。彼女の羞恥の震えを覚えているのは、自分の指だけじゃない。その事実が、昼間の陽射しの下では毒のように甘く滲んだ。彼はレジ袋を提げたまま、百合香が菓子パンを頬張る横顔を盗み見て、噛みちぎられる白いパン生地に、あの下着の黄ばみを重ねた。
二週間ぶりに雨の夜、部屋へ来た百合香を、風呂上がりの湯気が畳に残る中、彼は押し入れの前で抱いた。汗と蒸気と、彼女の甘い香り。彼女が脱ぎ捨てた下着が、足元に白く丸まっている。彼はそれに目を留めて、拾い上げる。中央の薄黄ばみ。押すと、湿りが指先へ染みる。もう布一枚がぐっしょりと重くて、汗とおりものと尿の混じった、匂いが濃い。顔を近づけると鼻がひくついて、舌の奥から唾液がせり上がってくる。百合香の入り口から滲んだ汁で、足の付根が光っていた。ズズズッと音を立てて、彼は黄ばみへ唇を吸いつかせた。生ぬるく、アルカリ性に似た苦い塩が、舌先を刺す。彼女の下半身から立ちのぼる、魚介類と栗の花を混ぜ合わせたような生々しい匂いに、頭の芯がくらくらした。
「……それ、置いて。きたないから」
「きたなくなんかないだろ」
匂いの染み付いた布を顔へ押し付けたい衝動と戦いながら、彼は彼女へ這い寄る。四つん這いの格好から、胸を畳へ押し付けて、尻だけを突き出す姿勢。百合香の太腿が、己の重みで潰れて白く広がる。その中央の縦割れが、唾液を垂らした虫の口みたいにひくひくと開閉している。背中から見える後ろの蕾までは、まだ指一本分の隙間もないように見えた。でも仁は、毎晩そこをこじ開けていた。彼の知らない器官が、今、目の前で彼女の体に繋がっている。
百合香の腰を支える指が、勝手に彼女の後孔へ触れる。痙攣するみたいに引き締まった穴の皺に沿って、指先を置いた。彼女は息を詰め、腰を引こうとした。でも逃げ切れない。壁際まで下がった畳のへりが、脚の甲に当たって、体が止まる。雨は小降りになってはまた叩き付け、部屋のうす暗さが雷のたびに、二人の影を畳の上でのたうち回らせた。
「ここ、まだ仁の形してる?」
「……わかんない」
「ゆりか」
「やめて。……私、祐介くんに、されたいけど、でも、ここだけは、まだ」
「まだ?」
百合香は答えない。顔を背けて、唇を噛んでいる。拒絶なのか逡巡なのか分からないまま、彼は彼女の膣口へ人差し指を這わせた。まだ戻りきっていない陰茎の代わりに、今度は指を三点ほど折り曲げて、浅い場所で内壁をぐいぐいと引っ掻く。ぐちゅん、と大きく水音がして、百合香が首を反らした。ぬちゃ、と指のまたが愛液を噛み、濡れた肉襞が内側から吸い付いてくる。
「あっ、ぁ……そこ、やだ……」
「やだ、だろうな。ここ、指が吸い付いて離さない」
「お願い、意地悪、しないで……」
「意地悪なんじゃない。君の中が、何を欲しがってるか、ちゃんと見てるから」
指が内襞の一点を擦るたび、百合香の足指が畳を掻いた。腰がゆらゆら揺れて、それまで見たことのない角度で彼の指へ寝そべるように押し付けられる。彼女の中で、もうひとつの生き物がうごめいている。それは仁が育て上げたもので、彼の指先が触れると、嬉しそうに粘膜を啜りつける。音が、下品に、ぐぷ、ぐちゅ、と部屋に散布される。ゴリッ、と関節まで奥へめり込む感触が、指の骨を伝って彼の股間を締め上げた。
「あっ、なに、それ、なに……指、なのに」
「指だよ。俺の指が、百合香の中を、こうやって覚えてる」
「ん、ぅあ、だめ、おかしくなる……奥、きゅんきゅんするの、下腹の、奥が……」
百合香の呼吸が細かく乱れて、汗が背骨に沿って流れ落ちる。彼は空いた方の親指で、後ろの蕾の周りに溜まった汗を拭うように撫でた。する、と指が滑る。彼女の体は、前も後ろも関係なく、触れられることを熱として受け取っていく。入り口に爪を立てないよう、指の腹で蕾の縁をゆっくり押す。百合香が「ひ、」と短く震え、首を仰け反らせた。その時、自分の本命が勢いよく勃ち直っているのに気づいた。血の巡りが痛いほどで、先端から先走りがぽたりぽたりと畳を濡らした。ドピュルッ、と一筋こぼれた乳白の滴が、彼女の白い尻へ飛んで、汗と混じって落ちていく。
「祐介くん、だめ……前、もう、いれて……おねがい……」
彼女が腰を振った。振りながら、入れ墨のように刻まれた先客の手順を、体が勝手になぞっていく。仁にされた時と同じ、男の欲しいものを差し出す体勢。浮いた腰、後ろへ突き出された尻、半開きの口。それを見るたび、彼の中に「仁」が現れて、指を仁の指みたいに動かさせる。
「挿れるよ。……動いたら、すぐ出るから、動くな」
「うん、……動かない。挿れて」
彼は百合香の中へ一息に沈める。熱い。溶けた飴を膣内に流し込んだみたいに、内側がどろりと陰茎へ絡む。奥の襞が、迎えるように浅く波打った。ぬぷッ、と濡れた隘路が亀頭を咥え込み、すぐにぎゅう、と搾り取る。彼女はこらえ切れず、短く鼻を鳴らす。動きたくないのに腰が揺れて、奥の入り口が亀頭を吸い込もうと蠢く。彼の身体はまた先に果てかけて、計算なんかゼロの、動物的な衝動だけで彼女を突き上げた。くなり、くなり、と情けない音が結合部から立つ。百合香の中が、待っていた快楽へ叱咤するように痙攣した。
「あ、あ、ああっ……そこ、もっと、もっと」
「もっと、どうするの」
「分かんな、い……でも、欲しい、の……もっともっと、中で、グーってして、ほし……」
彼女の声が単語から崩れて、息を継ぐたびに舌がもつれる。彼は何も考えないよう努めた。彼女の痴態を網膜に焼き付けることだけに、必死になる。百合香は崩れ落ちた両肘で畳にしがみついて、乳房を擦りつけていた。四畳半の畳の格子が、彼女の小さな乳首を線で赤く刻んでいく。二人分の汗と先走りが混じった液体が、繋がった場所から泡立って流れ出した。塩素のプールを思わせる匂いに、栗の花の甘ったるさが混ざる。彼は彼女の後頭部を掴まず、両肩を掴んで、穿つたびに腰を沈めた。ずぶっ、ずぶっ、と泥のような音が奥へ吸い込まれ、部屋の空気そのものを粘つかせていく。
「おく、ぁ、おく、くる、……いっしょに、いきたい、の……」
百合香の肩が跳ねた。その瞬間、彼は腹の下で何かが灼けるのを感じて、彼女の一番深い場所へ射精した。長い、粘りのある吐精が彼女の奥壁にぶつかり、内側が何度も搾り取るように波打つ。腰が揺れて、膜を張った蜜が泡になって零れた。二人の呼吸だけが部屋に満ちて、外の雨はもう、夜の降下をやめて静かな霧雨へ変わっている。時おり窓枠を伝う雫が、二人の抱き合った影の縁をなぞるように光った。
しばらくして、百合香が横向きに倒れた。まだ繋がったまま、彼女の脚が彼の腿に乗っている。汗が冷えて、互いの肌に膜を張った。畳の匂い、湿ったシーツの匂い、それから射精の後の、魚介類にも似た生臭さ。彼女の腰を抱いたまま、祐介は天井を見た。彼女も天井を見ている。初めて会話のない性交だった。余計な言葉を持たないまま、彼女の汗と、背中が、冷めていく。彼女の指先だけが、まだ彼の前腕に触れていて、それが仁に刻まれた女の、唯一の「今」の手応えだった。曇った窓ガラスに、裸の二人の輪郭だけが、街灯の光を受けて眠そうに映っている。そこには四月の銭湯で見た情けない一人きりの顔はなく、汗冷えする女の肩を抱いたまま動けずにいる、別の男の顔があった。外では終わらない雨が、ただ等しく、傷口を浸していた。
第5章 それでも君を抱く

第5章: それでも君を抱く
汗が乾いた肌の上で、冷房の風がやけに冷たく流れていく。四畳半の畳に投げ出した俺の腕に、百合香の指先が触れたまま、どちらからともなく、ぴくりとも動けないでいた。さっきまで二人の腰を濡らしていた体液も、空気に晒されてぬるりと温度を失っていく。彼女の背中が、街灯の消えかけた部屋の中で薄青く浮いていた。七月の夜はまだ蒸し暑いはずなのに、汗をかいた肌には、この部屋の空気が異様に冷たく貼り付く。
百合香が、細い息を吸って、ゆっくりと体を横たえた。背中を丸めて、膝を抱えるみたいにして、俺に背を向ける。その動きひとつで、彼女の胸の内が、言葉にできない何かで固まっているのが伝わってくる。ただ、拒絶ではない。逃げるでもない。手を伸ばせば届くそこにいながら、しばらく顔を見られたくないという風に、彼女は自分の爪先を見つめていた。
「……祐介くん」
呼ばれて、俺は半身を起こした。彼女から一尺ほどの距離を置いたまま、返す言葉を探すでもなく、その背中を見る。薄い肩胛骨が呼吸のたび持ち上がって、その下にくっきりと影が沈む。肌の上に貼り付いた髪が、うなじから背骨へかけて黒く蛇行していて、汗を含んだ甘い匂いが、まだそこから立ちのぼっていた。
「何か、飲むか」
飲み物を取ろうと腰を浮かしかけた俺の手首を、彼女が振り返りもせずに掴んだ。
「……このまま。お願いだから、後ろから、抱いて」
迷った顔を、しようとした。でも彼女の声があまりに薄くて、俺は手首を掴ませたまま、横たわる百合香の背後へ体を滑らせた。畳が小さく鳴る。俺の胸が彼女の背中に触れると、汗ばんだ肌と肌が静かに吸いついて、離れるとき、互いの体温が惜しむみたいに少しだけ粘った。
「寒い?」と聞くと、彼女は首を振った。
「……じゃあ、心が寒いの」
「違う。なんか、胸のあたり、ずっと、寒いの。祐介くんを感じてると、温かいのに、まだ、奥の方が、かたまったまま、溶けない」
「俺も、あんな、したくせに、多分、寒いよ」
自分の口から出た言葉が、畳に染みていく。偽らなかった。彼女の体をあのように乱暴に求め、二人で痙攣を残した後でも、胸の一番深い部分には、埋まらない隙間が横たわっている。抱きしめても、繋がっても、仁という男の形が彼女の中にある限り、俺はいつも裸足で氷の上を歩いている。でも、その手首を離すわけにはいかない。これ以上近くにいたら、薄氷は音を立てて割れる。それでも、百合香の体をここから遠ざけることは、彼女を失うよりも先に、自分が自分でなくなる気がした。
「私、あのね」
百合香が背中を押し付けてきた。俺の鎖骨の下に、彼女の後頭部がうずくまって、髪の匂いが鼻先へ溢れてくる。花の腐りかけみたいな甘さと、汗の塩気。彼女の髪は、いつだって彼女自身の淫らな熱を隠しているみたいだった。
「今から言うこと、一度だけ、聞いてくれる」
「うん」
「私の過去、嫌になった?」
部屋の空気が、音を失ったみたいに沈んだ。冷房の室外機の音だけが、壁の向こうで鈍く叫んでいる。俺は答えられなかった。嫌になったのか、などと聞かれても、俺は最初から、そんな選択をしていない。嫌だと思う前から、体が彼女を知っていて、心が彼女を追っていて、過去も現在もごちゃ混ぜのまま、俺の指はあのピアスの痕を撫でていた。それなのに、なぜ、たった一言の答えが喉へ出てこないのだろう。四畳半の隅、空になったペットボトルが、冷房の風を受けて微かに鳴った。
「黙ってると、こわい」
百合香が、俺の前腕に頬を寄せた。泣き出しそうな声ではない。本当に、彼女の心臓が、今この部屋の中に落ちる音を待っているような、張り詰めた声だった。
「答えを、持ってないんだ」
ようやく開いた口から、それが出た。彼女の肩が、小さく跳ねる。
「持ってないって……どういうこと」
「嫌になる、ならない、のどっちかを先に決められないんだよ。俺は多分、お前の過去を丸ごと知らないと、しぼりきれない。知った上で俺がどうするか、それもまだ、これから作る」
「……作り直すってこと?」
「百合香ごと」
彼女が黙った。息を詰めてから、ふっと細く、鼻で笑ったような音がした。笑ったのではない。泣き出す一歩手前の、空気の抜ける微かな震えだ。
「私ね、祐介くんに知られたら、怖くて、終わるって決めてた。でも、終わってほしくないから、先に、自分から壊そうとした」
「そういうの、やめろよ」
「……知ってる。ごめん」
俺は彼女の腰へ腕を回して、背中ごと胸へ抱え込んだ。汗が冷えて、二人の肌の間でじわりと温かい膜が生まれる。百合香が、小さく息をつき、俺の腕の中で丸まった。心臓の音が、彼女の背骨を通して、俺の胸の真ん中まで響いてくる。速くもなく、遅くもなく、泣き出す前の一定の鼓動だった。
「ねえ、……薄着で、出かけない?」
不意に百合香が呟いた。俺は腕を抱えたまま、天井を見る。カーテンの奥、窓ガラスに白い月光が薄く刷かれていて、部屋の闇を正面から押し下げている。
「今から?」
「外、歩きたいの。このまま、あったかい飲み物だけ買って、夜が明けるまで、そこらへんを」
「風邪引くんじゃないか」
「平気。ね、行こ。私、この部屋に居たら、また、祐介くんを自分から欲しがる」
それは、甘えなのか、懇願なのか、判別のつかない口ぶりだった。夜の一時をまわって、二人でシャワーを浴びて、服を着て、鍵をかけて、住宅街を抜けた先のコンビニまで歩く。七月の空気は生ぬるく、眠らない車道の音が遠くで柔らかに唸っていた。
自販機で買った微糖の缶コーヒーと、百合香が選んだホットのミルクティー。夜気の中で、湯気が街灯の輪へ溶けていく。二人は並んで歩道橋の真ん中で立ち止まった。下を行く車のヘッドライトが、規則正しくアスファルトを舐めては消える。彼女の長袖のカーディガンは、さっき部屋で着ていたものより薄い水色のもので、小さな手首が袖口から覗いていた。俺は何の気なしに、その手を取る。指先は、冷えていた。
「手、冷たい」
「血が、まだ下りてるの。だって、……いやらしいこと考えてるから」
彼女は俯いて、缶の両側を掌で包んだ。耳の縁が赤い。夜の暗がりでも分かるほど、白い肌の端に血が滲んでいた。街灯の光が、濡れた唇へ斜めに当たって、口元だけを不自然に浮かび上がらせる。
「今、君と歩いてる道で、そういうこと考えてるの、俺だけかと思ってた」
「……祐介くんは、どうして、そういうの、普通に言うの」
「言ったら、いけないか」
「違う。……安心するの。仁さんは、何も言わないで、手だけ先に来たから」
仁の名が、夜の歩道橋の上に消えずに残った。俺は握った指を一度離して、組み直す。指と指の間へ彼女の細い指を交互に這わせると、百合香が咎めるように目を上げた。でも、手は引かれない。
「もし、お前が望むなら、手からにする。全部、一から。できなかったことは、やり直して、……できないことは、別の俺のやり方で、君を作り直す」
「しても、いいの」
「答えは出てないけど、今、この指は、お前の手を握ってる。今はまだ、それで、俺は進める」
「……ふふ」
百合香が、泣きそうに笑った。一度、するりと抜けた指を、今度は自分から、俺の指へ絡め直した。骨ばった男の手に、覚えるみたいに、ぎこちなく指を這わせる。彼女の指先は、まだ冷たい。でも、絡むたび、指の股が熱を分け合っているのが分かった。
「エッチなこと、いっぱい、教えてくれたのは、仁さんだけど」と百合香が、缶を見つめたまま言った。
「……それを聞くと、今でも、腹が立つよ」
「分かってる。でも、あの人がいたから、私、祐介くんに会えた。それだけは、救い」
「回り道すぎるだろ」
「そうだね」
彼女はうつむいて、小さく肩を揺らした。歩道橋の欄干、銀色の塗装が剥げた継ぎ目に、彼女の指が触れる。風のない夜の匂い、排気ガスと、彼女の髪の甘い香りが交互に、肺の中へ入ってくる。都会の夜の底で、二人分の靴音だけが、奇妙に明瞭に、薄暗い道へ響いていく。
アパートへ戻ったのは二時半ごろだった。部屋の鍵を開けると、冷房の冷えた空気が、汗ばんだ肌を一気に刺して、二人して笑い混じりのため息を漏らした。さっきまでの性交の匂いが、むっと澱んで残っている。汗、精液、下りもの、畳。窓を細く開け、空気を入れ替えてから、俺は部屋の照明を点けたまま百合香を正面に座らせた。
「脱がせて、もらうな」と俺は言った。
彼女の手が一度、カーディガンの襟に伸びて、自分の首元を隠すように掴んだ。指先が白んでいる。彼女は俺の目をまっすぐ見て、それから、まるで観念したように、ゆっくりと頷いた。
「……明るいの、すごく、いや。でも、今から、全部見て」
「逃げんなよ。俺も、怖いのを我慢してるんだから」
「祐介くん、こんなことで私に嘘つくんだ」
「嘘じゃない。お前が正座してるところ見るのだって、心臓がおかしくなる」
百合香が、スカートの裾を直して、ちょこんと正座した。白いブラウスの上に、薄い水色のカーディガン、紺のフレアスカート。七月の夜に来たとは思えないきっちりした姿。初めてこの部屋へ来た日と同じ、遊びに来るには真面目すぎる格好。それが逆に、彼女の中の背伸びと、必死さを炙り出すようで、下腹の奥が熱を宿す。
俺は膝でにじり寄って、まずカーディガンの前を開いた。ボタンがぷつぷつと外れていく。彼女は呼吸を乱さなかった。鼻から細く息を吸って、目だけが、じわりと潤んでいた。ブラウスの袖口から先の二の腕が、蛍光灯の白い光の下、うす桃色に透けている。ブラウスの胸元へ手を伸ばす。背中のホックを外してから、前をはだけさせると、白い下着に包まれた乳房が、重力に従って形を変えながら露になった。
「今日も白か」
「……祐介くん、私の、白い下着、好きでしょ。脱がせたときの、匂いまで、嗅いでるし」
「好きだよ。お前の中の、いやらしいところが、隠し切れずに滲んでるのが、たまらない」
「や、そんな、言い方、されると、……濡れちゃう」
「もう濡れてるだろ。スカートの上からでも、わかる」
「意地悪。……あんまり、見ないで」
「見るために、電気つけたまんまにしたんだ」
百合香の膝頭が、内側にちょこんとぶつかって、擦れる。スカートの裾から伸びた内腿は、白くむっちりと柔らかく、太腿のつけ根だけが、布の影で淡く翳っている。俺は彼女の膝を、開かせた。閉じようとする力に逆らわない。ただ、掌を太腿の内側へ這わせ、汗ばんだ肌を撫で上げていく。内腿の、薄い肉がひくひくと震え、腿の間、生地の奥から、むわりと匂いが立った。
「ん、……ぅあ」
指がスカートの上から股の膨らみへ触れると、彼女の腰が浮いた。下着ごしに、ぬるついた熱さが指先へ滲む。布を押すたび、ぐちゅ、と微かな粘着音が、二人の耳に湿って届いた。指先を下着の縁へ掛けて、腿を伝って脱がせていく。白い布の中心は、さっき風呂上がりから時間が経っているのに、じっとりと黄ばんで光っていた。百合香が、下着を覗き込む俺の視線に気づいて、小さく首を振る。腿に掛かったままの布を、恥ずかしがって、引き上げようとはしない。代わりに、スカートの裾を握りしめた指が、真っ白になっている。
「この染み、君の体中で、一番素直だよな」
「……そんな、きたないとこ、やだ」
「きたなくない」
俺は顔を寄せて、脱がせたばかりの下着を、鼻先へ押し当てた。むわっと、生温かい匂い。川底の泥と、魚の内臓を、甘く茹でた湯気で薄めたような、生々しい淫臭。唾液が舌の下へ滲む。布に顔を埋めたまま、指先で彼女の秘部をそっと割った。薄桃色の襞の奥、とろりと溢れた蜜が、指を伝い、手首まで光っている。クリトリスが皮を破るように頭を覗かせていて、その根元に刺さっていた穴の痕。ピアスを失った皮膚は、ほんの少しだけ色が褪せて、無理やり貫かれた記憶を、今も静かに残している。
「今から、俺の指で、ここ、可愛がるな」
「ん……」
「痛かったら言って。でも、やめるとは限らない」
「……うん」
俺は人差し指と中指を、彼女のとろけた襞の間へ滑らせた。ぬちゃ、と音がして、陰唇が指を迎え入れる。細い肉の襞が指の腹へ巻きつくように絡みつき、内側の熱が指を根元まで招き込もうとする。仁の形が残ったその場所は、もう俺の形を知っていた。挿れた表情が違う。初めての夜みたいに、指を異物として締め付けるのではなく、女の奥で息づく生き物みたいに、入ってきた冷たさを溶かして、喉を鳴らして、啜っている。
「く……ぅん」
百合香が顎を引いて、自分の太腿を掴んだ。声を抑えようと唇を噛む。小さな犬歯が下唇を押して、そこへ薄っすら血の気が上っている。俺は指を折り曲げ、濡れそぼった内壁を、時間をかけて擦り上げた。浅い部分は、もはや肉襞が粗く寄っていて、男の指をくわえるために成熟しきっていた。仁が彼女の中で覚えさせた場所。俺の指では届かない最奥の、さらに奥。子宮口の縁をかすめるほど押し込むと、百合香の背が、しなりと仰け反った。
「あ、は、あぁ……っ、まって、おく、今から、へん、になる」
「変でいい。お前が作ってきたものを、俺の指で、薄く上書きしてるだけだ」
「おねがい、意地悪、しないで、……普通に、やさしく、ほしい」
「優しくしてるよ。見て分かるだろ。触り方、他の時と、違う」
「違う、から、こわい、の。あ、や……ぁん、そんな、こちょこちょ、されると、いっぱい、出そう」
意味を、私の頭は咄嗟に理解しなかった。百合香の内方がきゅうぅと掴まり、透明な蜜が泡だって溢れ出る。奥の襞が、産み落とす前みたいに、指を絞りながら蠢いていた。彼女の白いももが、ぶるぶると痙攣して、スカートの山がくしゃりと畳の上で乱れる。指を引き戻し、浅い襞の襞を丁寧にほぐすように、ぐちゅ、ぐちゅ、と違う角度で抽送した。これまでの焦りは無い。たっぷりと、長く、仁の形が消えるはずもないことを、俺の形で何度も塗り続けた。
「んぁっ、ああ、……はっ、好き、……祐介、くん、聞いてる……?」
「聞こえてる。俺も、好きだ」
「あ、いま、……いま、じぶんで、いった……ぁっ、私……すきって……」
彼女の声が、泣き声に近づく。涙が、青白い頬を一筋、零れて首筋を伝う。俺は彼女の小さな乳房へ唇を寄せ、乳輪の縁を舌先で、くるりと舐めた。しこり立った乳首を、唇で柔く含み、吸いながら、下の指は中を、円を描くように捏ね回す。ぐぽ、ぐちゅ、ちゅ、と、暗がりから聞こえてはいけない水音が、蛍光灯の下で淫らに弾ける。
「おく、ひっかくの、だめ……で、も、それ、すき……わたしの、ぶぶん、全部、ゆーすけくん、の……」
「そうだ。今、俺が触れてる場所は、全部、俺のものだ。仁の残りも、お前の悲しみも、今は俺が抱えてる」
百合香が、声を殺して泣いた。おえつが、喉の奥で潰れて、呼吸のたび涙が背に落ちる。彼女の足先が壁に当たって、何度も畳を蹴った。太腿が開き、閉じ、開いたままガクガク震えて、結合部から溢れる蜜が、彼女の尻の下をじっとりと汚す。俺は、片方の手で彼女の両太腿を押し広げ、もう片方の指を奥まで沈めた。膨らんだクリトリスの根元、ピアスの抜けたあの場所を、唇で塞いだ。舌で、舐め上げる。傷痕の窪みに舌先を差し込み、こりこりと舐め、吸い上げる。瞬間、彼女が、喉から獣みたいな悲鳴を吐き出した。
「ひ、ぁ、あ、ああぁ……」
百合香の首がのけぞり、背骨が弓いだ。白い下着で辛うじて隠れた乳が、ブラの上からもわかるほど尖り、腹が、痙攣する。膣が、指を引きちぎる勢いで締まり、奥の襞が断末魔のように蠕動した。潮か、愛液ともつかない、濁りきった水が、陰茎も入れていないそこから溢れ、俺の掌をぐっしょりと洗った。彼女の体は、まだ続いていた。幾度となく、死ぬ、とだけ裏返った声で。俺は指を抜かず、弱くなった抽送を、赤ん坊をあやすみたいに、とぷん、とぷんと静かに繰り返した。
「……しぬ」
百合香が、掠れ声で言った。薄目を開けて、焦点の合わないまま天井を見ている。汗と涙と涎で、顔中が濡れて、太腿も、尻の下も、畳から滲んだ染みまで、溶ろけていた。
「まだ終わってないぞ」
「むり、……もう、……こし、立たない」
「立てなくて、いい。俺が抱えて育てる」
「なに、それ……どういう、意味」
「俺が、お前の全部を、知って、選んで、触り直す。それだけだ」
百合香が、笑った。今度こそ、はっきりと。
「すき。……祐介くん、ほんとに、すき」
夜が、更けて、また更けて、空がようやく白み始める頃には、終電を逃した百合香が、俺のTシャツを借りて眠っていた。Tシャツの襟元から肩がずれ落ち、汗で湿った髪が鎖骨へ張り付いている。冷房の音は低く、絶えず、部屋の北側をゆっくり耕していた。彼女の穏やかな寝息だけが、夜明けの静寂を、すん、すんと優しく切り開いていく。
俺は壁にもたれて、彼女の寝顔を見ていた。シャツから伸びた脚は、まだ外気に湿っていて、そこだけが、夜の続きを仄かに覚えている。気づけば右手で、彼女の抜けたピアスの痕を、彼女のものと知りながら、自分の指の腹で、何度も思い返すようになぞっていた。カーテンの外、遮光布の端から、白い朝の光が、部屋の畳を一列だけ焼いている。冷めた空気、彼女の甘い汗の匂い、漂白されて褪せた欲望。全部を、この部屋は待っていた。秘密ごと、朝に変わっていく。
俺は、彼女にブランケットを掛けて、冷房の風向を壁側へ向けた。指先、彼女の髪の一房に触れて、畳へ横たえる。百合香の口元が、一瞬、何かを囁いたように動いて、それきり、また、寝息だけがこぼれた。
第6章 曇りガラスの向こう側

第6章: 曇りガラスの向こう側
八月の光は、街全体を一枚の白い布で覆うみたいに強くて、駅から出た瞬間、百合香は「暑い」とも「まぶしい」ともつかない声を漏らして、俺の二の腕のあたりをそっと掴んだ。掴む、というより、指の腹で確かめるみたいな触れ方だった。彼女は白いパーカーの袖口から伸びた手を、日差しから目を守るように額へかざして、それでも隣にいる男が誰なのかを確かめるために、ちゃんと横を向いた。
「海、断っちゃってよかったの」
「誘われてたのは先輩たちで、別に俺がいなくても大丈夫だから」
「でも、夏だよ。大学生の夏って、そういうの、大事なんじゃないの」
「君と行く方が、百倍大事だろ」
俺がそう言うと、百合香は一瞬だけ口を開けて、それから何か言い返す代わりに、耳のあたりを染めて前を向いた。人通りの少ない駅裏の道を、日傘も差さずに歩いていく。彼女の白いスニーカーが、乾いたアスファルトの上で小さな音を立てた。肩にかけたバッグの金具が、歩くたびにちゃり、と鳴る。八月上旬の空は高くて、雲がひとつ、遠い山の上で溶けかけていた。
市民プールに着くと、もう子供たちの悲鳴と水音が、色の褪せた緑の鉄棒の向こうから鈍く響いていた。平日の昼下がりだから空いているだろうという予想は半分だけ当たっていて、更衣室の前のベンチには、老夫婦と小さな女の子連れの親子が二組だけいた。百合香は水着に着替えた自分の体を、バスタオルで前から隠すようにして、歩くたびに後ろを気にした。
「変じゃない」
「十分かわいい。それ、去年買ったやつか」
「違う、今年のだけど……あんまり、しげしげ見ないでくれる」
百合香が着てきたのは、紺色の地に白い水玉の散った、肩ひもの太いセパレートだった。胸の前は二枚重ねの布とフリルで覆われていて、下は短いスカート付き。それでも、後ろの布は彼女の小さな尻の盛り上がりには足りていないようで、太腿のつけ根との際目に、食い込みを直す仕草がやけに生々しかった。彼女の細い首筋に、去年までなかった堤防の影が落ちる。日焼け止めを塗り込んでも塗り込んでも、そこだけ薄く炙られたみたいに赤みが差す。俺はペットボトルの水を渡しながら、その赤い線を目で追った。
「ここ、後でちゃんと塗ってやるから」
「平気。あんまり人前で触んないで」
「人前だから、何もするかよ」
芝生のような人工芝の上に敷いたレジャーシートに座り、空いた浅いプールで泳いだり、流れるプールに二人で浮いたりした。陽射しが水を叩いて砕ける。百合香は時々、浮き輪に掴まった小さな子どもに手を振って、すぐに俺の隣へ戻ってきた。肩が触れる。冷えた肌の下に、火照った彼女の中身がぎゅっと詰まっている。七月の夜に何度も触れた肌が、今はもう、こうして青い遮蔽物の外に曝されている。誰かに見られているかもしれない、という場所で、彼女の体の隅々までを知っている事実が、水面の揺らめき越しに腹の底を甘く痺れさせた。
夕方近くになって、二人で並んで着替えて、プールを出た。空は西の方を橙色に染めて、昼間の厳しい白さはもうどこにもない。肌がひりひりした。百合香の首筋の堤防は、さっきより濃い色になっていて、彼女は「お風呂で染みるかも」と笑った。
「そうだ。ここの帰り、あの銭湯、通らないか」
「あの、春に祐介くんが行ってたとこ?」
「よく通る道だし、今日は汗もかいたし、浴びて帰りたければ」
「入るの。二人で」
「銭湯なんて、みんな裸で入るとこだろ。何を照れることあるんだ」
百合香は俯いて、ビニールの手提げから覗くタオルをぎゅっと握った。それから、ためらいながら「うん」と小さく言った。初めて二人で入った部室の夜も、彼女はこうやって一度、返事を言葉の奥へ引っ込めた。日が長い夏の道を、影が伸びる方角へ歩く。彼女の髪から、汗と、プールの塩素と、朝つけた日焼け止めの花っぽい甘さが混じって、呼吸のたびに胸の奥へ流れ込んできた。
銭湯の前を通りかかると、あの頃と同じ、煙突から立つ白い湯気が、暮れかけた空気に溶けていた。入り口の風除け硝子が、中から湿って全面曇っている。俺は彼女と肩を並べたまま、しばらくその硝子を見つめていた。四月の終わり、独りでここへ来た夜、つめたく曇った硝子に映った自分の顔を思い出す。あの時は、百合香のうしろ姿を湯船の中で追って、こんな風に隣で歩ける日を想像さえできなかった。情けなく歪んだ一つの輪郭だけが、湯気の奥に立ちすくんでいた。
硝子に映る影は、もう一人分多くある。隣に立つ女の肩へ倒れるように、男の形が重なっている。それは、あの夜の俺と同一人物のはずなのに、まるで知らない男が、知らない女の肩を抱いて立っている絵みたいだ。あの日、脱衣所の籐の籠に脱ぎ捨てられていた女物の白い下着。布の中央にうっすら残った黄ばみ。今は、その秘密が誰のもので、どんな形であの夜の自身を熱くさせたかを、俺だけが知っている。硝子の向こうで、俺と百合香の影が、蒸気の中でゆっくり揺れていた。
「……入るの、私、やっぱり恥ずかしい」
彼女が、俺のTシャツの裾を引いた。声は小さかった。
「大丈夫。今日は女湯、空いてる頃だし」
「そういう話じゃないの。……わかってて、言うでしょ」
「わかってるよ。君の体を、俺とべつの湯気の中で、誰かに見られないかって、つい小さいことを考えた」
彼女の指が、裾を強く握る。怒るでもなく、逃げるでもなく、怒りの寸前の甘えみたいな力だった。
「ばかみたい」
「ばかだよ」
俺が軽く肩を竦めると、百合香が吐息を漏らして、ようやく笑った。結局、銭湯へは入らずに、二人で遅めの夕飯を駅前の蕎麦屋で食べてから、俺の部屋へ戻った。あの四月の夜、雨に濡れたまま二人で入ったアパートへの道を、今度は夏の乾いた風の中を歩く。空気はまとわりつくみたいに生ぬるく、彼女の首筋の日焼けが、薄闇の中でひどく艶めいて見えた。
それから一週間と少し後の土曜日、近所の神社で夏祭りがあった。百合香は白地に淡い桔梗柄の浴衣を着て、髪を後ろでひとつに結っていた。うなじの産毛が、夕方の湿った空気を受けて、首を覗かせるたびに俺の眼球を灼いた。焼けた肌には白い浴衣がよく映えた。彼女は人混みの中では必ず半歩後ろを歩き、俺の浴衣地の袖口を、指先だけで摘まんだ。
「ねえ、祐介くん」
屋台の灯りと、金魚鉢の赤が、彼女の頬をひとつ柔らかな朱に溶かしている。百合香が、袖ではなく、固く握り直した指を俺の小指へ絡めて、額のあたりまで上目遣いをした。湿った瞳が、揺れる裸電球を映して銀色に光っていた。
「……今晚、してもいい」
「何をだ」
「決まってるのに、聞かないで。ずるい」
「君が言い出したんだ。ほしい」
「……仁にされたことを、ひとつずつ、消えるまで、してほしい。私が、祐介くんの指と、したりで、いっぱいになるまで、してほしい」
祭囃子が、遠い太鼓と笛の重なりになって夜空へ昇っていく。隣で子供が走り抜けた。ひらりと無防備に開いた百合香の浴衣の裾から、爪先とか細い足首が零れていた。下駄の音が、駆け足の呼吸に混じっている。赤い提灯の影の下で、彼女は泣き出すのを堪える時と同じ顔をして、俺の言葉を待っていた。
「そういう風に、人前で、そういう顔をして言うな」
「だって、人前だから、今日、私、勇気出せたの」
「変な理屈だな」
俺は繋いだ手に力を入れて、人混みの隅、綿菓子の屋台の裏手、神楽殿の陰へ彼女を引いた。誰かの素足が土を擦る。祭りの喧騒が、一列だけ遠くなる。百合香が壁際で顎を上げた。汗が首筋を一筋、なぞって浴衣の襟へ消えていく。彼女の目は、もう全てを了承していた。
「帰ろう」
俺が言うと、彼女は深く、一度だけ、黙って頷いた。
部屋へ着くと、窓を開けた。八月の夜の獣じみた熱が、蝉の声と一緒に寝室へ流れ込んでくる。シャワーを浴びた後の百合香は、浴衣を半ば脱いだ格好のまま、俺のベッドに膝を立てて座っていた。白い肌着が汗でうすく透けて、鎖骨と胸の谷が、部屋の薄灯に浮かんでいる。冷房の代わりに扇風機だけを弱く回すと、首元の短い後れ毛が、頬へ張り付いたり離れたりした。
「これ、脱がす前から、わかるな」
俺は彼女の浴衣の帯元、足首のあたりを開いた。白い足袋を脱がせ、細い脚を露にする。浴衣の裾から、淡い桜色の素肌が露出する。百合香の下着は、今日も白かった。綿のシンプルな腰布の真ん中、縦の折り目に沿って、うっすらと黄ばんだ線がにじんでいる。プールの夜から、帰りの電車、祭りの会場、そしてこの部屋で。彼女の身体はずっと、布を裏切って湿りを育てていた。
「あぁ……や、見てるだけで、すごい顔してる」
「してない」
「してるよ。それに、下、もう……」
百合香が、浴衣の前を乱したまま、両手を太腿の間へ置いた。でも自分では脱がせない。もじ、と腿をこすり合わせ、布の染みの場所へ指を這わせる。内腿が、薄い布越しにも分かるほど潤んで光っていた。
俺は彼女の足首を持って、そっと両脚を左右へ開かせた。浴衣の布が畳に広がり、白百合の花みたいに彼女を受け容れる。下着の腰ゴムへ指を掛けて、脱がせず、横へ避けた。濡れた布に張りついたまま露わになる彼女のそこは、昼間のプールの塩素も、祭りの甘い熱も、何もかもを吸い込んで熟れていた。太腿のつけ根の、汗で光る肉の谷から、クレゾールにも似た女淫の匂いが立つ。むわり、と扇風機の風に煽られて、椅子に座る俺の鼻先へ届いた。
「相変わらず、匂いが濃い」
「……今日、ずっと汗かいてたから、余計、だめだよ。そんなとこ、匂い嗅がないで」
「嗅ぐなって方が無理だ」
俺が身を屈めると、百合香は逃げる代わりに、両手で浴衣の襟をぎゅっと握って、目を閉じた。厚みのある下唇だけが、清潔な唾液でつるりと色を変えている。彼女の下着の黄ばんだ部分を指先で押し上げ、そこから覗く膣口の襞を、そっと左右へ押し開いた。陰唇は赤く充血し、中はとろとろの液で飴みたいに照っていた。クリトリスの頭は、薄い皮を破ってふっくらと膨らみ、右の小陰唇の縁に残る小さな痕。あれが、仁の残したピアスの忘れがたみだった。
「ここに、一つ、傷がある。元の穴」
指の腹でその窪みを撫でると、彼女の腰が浮いて、ぷくりと蜜が溢れた。
「……や、そこ、いや、……おもいだす」
「思い出してるのは、君だけじゃない。俺だって、今日の風呂の前、硝子の中で、全部まとめて見てた」
「意味、わかんない……」
「いいんだ。今から、一個ずつ消していく。君の中の仁のことを」
そう言って、俺は彼女の染み付いた白い下着へ、ゆっくり顔を寄せた。鼻先を縦の染みに当て、息を吸い込む。汗と、わずかな尿と、おりものと、花の腐る手前の甘さ。舌を出して、布の上からたっぷりと舐め上げる。ざらり、と布が舌に引っかかり、塩だけが口の端に残った。
「あう……ん、ぅ……」
百合香の内腿が、腋の下みたいに火照っていた。下着の上から、親指を広げて、布越しに陰裂をなぞる。ぐちゅ、と音がしたのは、彼女の中から溢れた愛液が、薄い布をびしゃびしゃに濡らしていたからだ。そこまで穿ったまま、俺は彼女の一番敏感な粒の上を指で転がした。下着の布目の擦れが、彼女の声を溶けさせる。
「や、それ、だめ、……あっ、あっ、あっ、……した、せんざい、じゃ足りない、の、わたし、……」
「洗剤の話なんかしてない。全部体液だろ」
「ちが、……わかんない、けど、ゆーすけくんの前だと、私、すぐ、こうなる」
「いい子だ」
俺は彼女の下着を片足から抜き、畳へ放り投げた。くるぶしの白い脚を、肩に担ぐ形で割り開く。百合香の恥裂が、俺の目の前で、呼吸に合わせてはくはくと開いたり窄んだりしていた。膣口の周りの襞は、もうヒダヒダと熟れきっていて、入り口から透明の蜜がぷくりと玉になって、会陰を伝って肛門の窄まりまで細い筋を作っている。その筋を、敢えて人差し指でなぞって拾い、そのまま彼女の後孔の窪みへ、とぷんと押し込むように塗った。
「ひぁっ……!」
百合香が首をのけぞらせ、両手でシーツを掴んだ。肛門は微かに引き締まり、拒むみたいに窄まって、それでいて俺の指を弾こうとはしない。仁に毎晩油を垂らされ、四つん這いで開かされていた場所。二年間の記憶が、皺の一本一本に刻まれている。
「ここも、今日、してやろうか」
「……おねがい、しなくても、もう……私、祐介くんになら……」
「素直だ」
「……だって、消して、ほし」
百合香の頬を涙が一筋、流れた。汗が、白い浴衣の襟をじわりと染めている。彼女の膣口へ、指を二本、ゆっくり沈めた。中はよく熱れて、肉襞がうねうねと俺の指を巻き込んでくる。くちゅ、くちゅ、と卑猥な水音が、扇風機のうなりに紛れて部屋を這った。外では、一際大きなセミが、ジリジリ、ジリ、と間のびした塊を放っている。
「おく、……とどいてる……きょうは、ゆーすけくんの、かたち、おぼえさせて」
「覚えさせるんじゃない。君の方が、俺の指を、奥へ引っ張ってる」
「そんな、ことは……」
「その、奥の、すごい締め付け。ああ、ほら、指、咥えて動かなくなった」
百合香の膣が、奥の、少しザラついた面を境に大きくうねった。子宮口のくぼみへ指先がすっぽり吸い付き、女が本当に快楽へ沈む時の、あの不規則な締まり方が来る。俺は彼女のクリトリスの根元を親指で押し上げ、人差し指と中指を揃えて、下から突き上げるように掻き回した。奥のくびれ、入り口の肉襞、外の粒。全部を同時に責められ、百合香は腰を跳ねさせ、片足が肩から滑り落ちた。
「あぅっ、あ、あぁ……だめ、いっ、ちゃ……いっぱい、いっちゃぅ……」
「いけ。消えるまで、いけ」
「こ、え、出ちゃ、そんな、おく、……ひぁ、あ、はぁん、……いく、いっちゃ、……あぁああっ」
百合香の身体が、ばちん、と音を立てそうなほど仰け反った。首が枕へ沈み、白い浴衣の襟が崩れて、汗で光る小さな乳房が、布の隙間からこぼれかけた。結合部から、びゅる、と熱い液が溢れ、俺の指をびしょびしょに濡らす。彼女の膣が、指を砕く勢いで何度も震えた。喘ぎ声は、外のセミしぐれに紛れて、アパートの湿った夜へ流れていく。
「……ゆーすけくんの、ゆび、……仁さん、じゃない」
百合香が、濡れた唇を半開きに、ぼそりと言った。
「当たり前だろ。俺だ」
「……ね、だいじな、こと、聞いて。心は、……心だけは、確かに、ゆーすけくんで、いっぱいなの。身体は、まだ、あの人の好きだった角度と深さ、残ってる。でも、……私の、ここ、……胸の、奥の、この場所、ずっと、ゆーすけくん」
「それ以上は、言わなくていい」
「言った方が、いい。聞いて」
百合香が、濡れた両手で俺の頬を包んだ。俺の指はまだ彼女の中で埋もれたまま、彼女の指は、俺の顎と頬骨を確かめるみたいに這いずる。部屋の天井が、青白い闇の中で、暑さに溶けて曲がっているように見えた。浴衣ごと彼女を抱き起こして、白い布の前をだらしなくはだけさせる。細い肩、汗ばんだ首筋、水着の跡の堤防が、夜の下でも赤黒く浮いていた。
「抱くぞ」
「うん」
「仁の形が残ってても、俺が、君の形ごと、今夜埋める」
「埋めて。いっぱい、いっぱい」
俺は浴衣を剥ぐようにして百合香の太腿を開かせ、自分の浴衣地の袷から、昂った陰茎を取り出した。先端はわななき、すでにどろりと先走りで濡れている。彼女の膣口、濡れそぼった入り口へ、ぐっ、と亀頭を沈めると、熱い女陰が吸い付いて、一息に奥まで咥えた。中の襞がさざ波を打ち、俺の先端を搾るように蠢く。あらかじめ俺の指で開かれたのは浅い場所まで。奥の、仁の形が残るはずのくびれは、まだ彼女の肉襞の記憶のままだったが、今日はそれでも良かった。ここから、俺のもので埋め尽くす。そう思った瞬間、腰を引いて、固い床を蹴るように彼女の最奥を突いた。
「ひっ……あ、ああ、……ちがう、これ、ゆーすけくんの、……もっと、して、……おく、おく、……ゆーすけくん、ゆーすけくん……」
彼女が連続して名前を呼んだ。俺の耳の奥へ、それ以上の甘い言葉は要らない。汗が、眉を伝って眼球へ入りそうになるのを瞬きで逃して、彼女の汗ばんだ乳房を掴み、持ち上げるように寄せた。頂きの尖りを、指で押すと、大粒の涙をいっぱいに溜めた百合香が、こくこくと何度も首を振った。
「も、そこ、おく、だめ、……さっきの、残って、……ひ、ぅぁ、また、くる、来る、から……」
「何度でも、来い」
「あ、あぁ、ん、あ、……いや、……は、あ、ああぁ……」
大きく順繰りに搾られる膣を、俺は欲望のまま追い立てた。腰の動きが、みちん、みちん、と畳を湿らせていく。悦楽の奥歯から、恥じらいの皮が剥がれ、彼女の喉がしなり、白い首に汗と涙が幾筋も流れた。浴衣はとうに乱れて、俺の肩口へしがみつく百合香の爪先が、浮いたり畳を掻いたりするたび、外のセミが更にひときわ高く鳴いた。
「すき、ゆーすけくん、すき……あ、あ、……もう、だめ……ゆーすけくん、ゆーすけくん、名前、呼んで、私、ゆりか、って……」
「ゆりか」
「あ、は、ぁ、……そこ、いい、……大好き……」
中が、更に熱く柔らかくなって、俺の屹立を芯ごと吸い込んでいく。猛り狂うのは、最早、性欲の箍を失った獣じみた本能だった。どくどくと腹の底から何かが溢れてきて、俺は彼女の耳元で「もう帰さない」と囁いた。百合香の白い耳殻、産毛、銀色のイヤリングの触れた跡も、何もかもが熱かった。
「うん。かえさないで」
彼女は目を閉じ、ぼろぼろと泣きながら笑った。
俺は最奥まで引きつけて、熱い液を注ぎ込みながら、彼女の笑った口を、歯が当たるくらい乱暴に塞いだ。理解の及ばない甘い息が、喉の奥でくぐもった。全身の力が、波が引くように消え、二人して倒れこんだ。
生温い風、微かに香る線香花火の焦げる匂い、近所の祭りの太鼓の残響が、体の芯をくすぐった。百合香が私の腕の中で時折、小さく跳ねる。潮の吹き過ぎで脚が攣ったのだ。遠慮したように、爪先をぴく、ぴくと動かす。しばらくして、低い声で「ぎゅーってして」と彼女が言った。
「してるじゃないか」
「もっと」
汗で貼り付く髪と、言葉にならない小さな泣き言を胸に、俺は腕を回す。彼女の呼吸が、深く沈んで、そうして浅くなる。
「私、多分、この先も、いっぱい、仁さんの色を、ゆーすけくんに洗われる」
「洗えるまで、何度でもだ」
「……ずるい。そういうの、大人の男の言い方だよ」
「お前が言わせたんだろ」
「……しあわせすぎて、こわい」
俺が背中をとん、とん、と二回、軽く叩くと、百合香は鼻で笑って、それから静かに寝息を立て始めた。窓の外、ようやくセミが黙り、湿った夜空に、星が一粒、泣き腫らしたみたいにかすかに光っていた。
夏が終わり、大学の廊下に昼下がりの光が斜めに差すようになると、俺と百合香は、付き合い始めた頃よりよほど自然に手を繋いで歩けるようになっていた。部室では肩を寄せて講義のノートを写し、サークルの誰かが振り返っても、彼女は照れながら手を離さない。誰にも言えない秘密を、腹の底に沈めたまま、百合香は今日も清楚な白いスカートを穿いている。俺はその布の内側に自分が触れて上書きした熱を知っている。指でなぞり、舌で這い、奥へ注いだ所有の痕。駅前の改札、ゆっくりと前へ進む彼女の爪先が、同じ速度で床を離れる音を、俺は聞いている。四月の独りぼっちの銭湯、あの曇りガラスに映っていた男は、今、この秘密ごと彼女を抱えて、日常を歩き続けている。
登場人物
-
有村祐介 ありむら ゆうすけ男性 ・ 20
外見: 黒髪、短髪、深い茶色の目、皮膚は色白、細身で猫背。服装: 大きめのパーカー、チノパン、スニーカー。性格・特徴: 優しく丁寧な性格、口数は多くないが観察力が鋭い。他人には穏やかに接し、己の中に生まれる執着や嫉妬を静かに飲み込む癖がある。恋愛経験は乏しく、性的な知識とは無縁に育ったが、百合香に対しては庇護欲と独占欲が同時に絡むことを自覚していく。
-
柊百合香 ひいらぎ ゆりか女性 ・ 20
外見: やや茶色みのある黒髪、ゆるやかなロング、潤んだ焦げ茶色の目、華奢で細い体格。服装: 白や淡い色味のゆったりしたニット、ロングスカート、光沢のないタイツ。性格・特徴: 声は柔らかく、人に触れることを極端に怖がる一方で、安心できる相手には一瞬で近い距離を許す。羞恥が深いが、快感への感受性は体に染みついており、心と身体の反応が解離する場面が多い。告白した過去の後も、祐介の「今の君」を取る言葉を何度も確かめるような仕草が残る。
-
仁 じん男性 ・ 25
外見: 金色がかった短髪、眉は太く目は細めの黒、日焼けした肌、肩幅の広い骨太な体格。服装: 黒いジャケット、深い色のアンダーウェア、ダメージジーンズ。性格・特徴: 言葉より先に手が出る、大雑把で面倒見がいい元半グレ。若い百合香に対して一方的に教え込みながら、あとで髪を洗って拭いてやるような奇妙な気遣いをする。場を支配する声の大きさと、急に黙る時の静けさに落差がある。





