第1章: 不速の客と、歪む日常

第1章: 不速の客と、歪む日常
夕暮れの光が、リビングの窓から粘つくようなオレンジ色の帯を引き、浮遊する埃の踊る空間を甘く照らし出していた。食卓の上では、私、雅恵が心を込めて作った煮物が湯気を立ち上らせ、濃厚な醤油と出汁の甘い香りが部屋の隅々にまで染み渡っている。いつもの、穏やかな時間。夫の裕二との静かな食事は、何気ない日常の喜びそのものだった。彼は新聞の広告をめくりながら、時折「美味しいな」と呟くだけ。その沈黙が、私たちにとっては何より心地よい絆の証だった。けれど今日、その沈黙は違う重さを帯びていた。嵐の前の仄かな空気のように、張り詰めて、どこか胸の奥でじっとりと不安を孕んでいた。
ピンポンという、甲高い電子音がその緊張を鋭く切り裂いた。湯呑みを手にしたまま、私はふっと息を呑んだ。裕二は新聞から顔を上げ、その一瞬だけ、彼の瞳に明らかな狼狽が走ったのを見逃さなかった。立ち上がるのもためらうように、ソファに深く身を沈めたまま、小さく頷くしかない。誰か来るの?と私が尋ねる前に、もう一度、今度は少し強引に、チャイムが鳴らされた。その執拗さに、胸の奥で嫌な予感がこみ上げてくるのを感じた。
裕二はおどおどと玄関へ向かい、間もなく、部屋の空気がごっそりと入れ替わるような感覚に襲われた。「どうも、久しぶりな!」と、低く、それでいて天井を響くような威圧的な声が響く。大学の先輩、剛力刀也だった。彼は部屋に一歩足を踏み入れるなり、まるでこの家の主人であるかのように、上着を脱ぎ捨ててソファにどさりと投げ出した。高級なシャツからは、私の知らない、攻撃的ですらあるようなスパイシーなコロンが強く香り、煮物の優しい香気を一瞬でかき消してしまった。
その鋭い眼光が、すぐさま私の豊満な身体をなめるように舐め上げ、品定めするような、侮蔑的な色を浮かべていた。視線が針のように柔らかいニットの上から突き刺さり、肌の内側をじりじりと熱い痛みで苛む。
「ほう、これが木下の奥さんか。噂に聞いていたより、ずっと…なかなかのモンじゃないか」
剛力は不敵に笑い、私に近づいてくる。その大きな影が私を覆い、ただ立っているだけで、彼の視線が衣服を剥ぎ取っていくような感覚があった。裕二は「あ、あの、先輩…」と何か言おうとするが、その声は蚊の鳴くように小さく、すぐに剛力の気迫に飲み込まれてしまった。私は作り笑いを浮かべ、おもてなしのために立ち上がった。この男が苦手なのだと、裕二の表情からすぐに察した。けれど、この家の女として、無下にはできない。
「さっそくだが、一杯ごちそうになろうじゃないか。木下、俺が大学時代にどれだけ面倒を見てやったか、忘れたんじゃないだろうな?今日くらいは、奥さんにも手酌くらいさせてくれてもいいだろう?」
剛力は勝手に食卓に着き、自分の前に湯呑みを叩きつけるように置いた。その態度は、私を単なる酌婦でもあるかのように見なしているかのようだった。私は唇を噛みしめながらも、徳利を手に取り、彼の隣に立った。注ぐ酒のしずくが、テーブルの上に小さな染みを作る。その時、剛力のざらついた大きな手が、私が持つ徳利の手を覆った。ぎゅっと、と力が込められ、思わず「くっ」と息が漏れた。その指は太く、私の細い腕を容易く包み込んでいた。
「ああ、いい手つきだ…奥さんはそういうところも上品だな」
その声は耳元で囁かれ、吐息が首筋に触れて、私はゾッとした。彼は素早く手を引き抜き、一歩下がった。裕二はその光景を見ていたのに、ただ俯いて、自分の指先をいじるだけだった。何も言わない。何もできない。その無力な姿が、私の心に冷たい刃となって突き刺さった。食事は気まずい沈黙の中で進み、剛力の滔々と続く自慢話と、裕二の時折相槌を打つだけの小さな声だけが響いていた。私は箸を運ぶ手が震えるのを抑えるのに必死だった。
「そういえば、奥さん、そのスカート、似合ってるな。体の線がよく出ていて、見ていてこっちまで嬉しくなるよ」
食事も終わりに近づいた頃、剛力はそう言って立ち上がった。彼はトイレに行くと称して、私の背後を回り込んだ。そして、その瞬間。私の柔らかく、弾力ある尻肉を、ずしりと重量感のある手で掴んだ。生々しい熱と、男の掌の圧力が、薄いスカートの布地を通して伝わってきて、私の身体は凍りついた。息が詰まる。意識が白く溶けていく。
「やめてください!」
その声は、私自身でも驚くほど、鋭く、澄んでいた。私は振り返り、助けを求めるように裕二を見た。夫よ、私を守って。その瞳がそう訴えていた。しかし、裕二は青ざめた顔で、剛力と私の間を交互に見つめるだけで、唇を震わせることしかできなかった。まるで見知らぬ場所で起きた出来事を、茫然と眺めている観客のように。
「…あ…」
剛力は、あっけにとられた顔で裕二を見て、からからと笑い出した。
「おいおい、木下。何だその顔は。大学時代、俺がどれだけお前の面倒を見てやったか。このくらい、奥さんが少し我慢してくれてもいいんじゃないか?それに、俺はただ褒めてやっただけだ」
そう言い放ち、剛力は再び自分の席に戻った。まるで何もなかったかのように。けれど、私の臀部には、あの男の手の感触が焼き付いていて、消えない。裕二は、いつまでも俯いたままだった。その無防備で、情けなく、愛おしくさえある夫の姿に、私の心に何かがぽつりと落ちた。それは、これまで抱いていた温かい感情とは全く違う、冷たくて、硬い、失望のかけらだった。部屋の空気はもう、戻ることはできないほどに歪んでしまっていた。

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