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三回忌を終えた60代元報道カメラマンが合同撮影会で出会った20代初心者女子と公園レッスンを重ねて涙のフェラから肉体関係に至るまで

シニア官能 全8章 約92分で読了(45,753字) 2026年10月27日

あらすじ

妻の三回忌を終えた元報道カメラマン・祐一郎。被写体を失った彼の前に、カメラ初心者の麻衣子と18歳のコスプレイヤー・奈々が現れる。ファインダー越しに交わる視線、シャンプーの香り、肌の温もり。枯れていた男の身体が、若い二人の女に再び熱を取り戻していく。

第1章 レンズの匂いだけが知っている

第1章のシーン

第1章: レンズの匂いだけが知っている

十月の平日、午後の光が窓辺に溜まっている。俺は作業机の前に座り、レンズを磨いていた。指先に伝わるガラスの冷たさと、クロスの織り目のざらつき。磨き終えた一〇五ミリの単焦点レンズを翳すと、窓からの日差しがレンズの奥で屈折して、部屋の壁に淡い光の輪を投げた。何度も繰り返してきた動作だ。手が覚えている。覚えているから、頭の中は別の場所を漂う。

妻の三回忌から二週間が過ぎた。命日には墓前に花を供え、線香の煙が秋の空へ細く昇っていくのを眺めた。あの煙の匂いが、まだ鼻の奥にこびりついているような気がする。あるいは、それは線香の香りではなく、この部屋に染みついた古いフィルムとレンズの匂いかもしれない。金属の冷えた匂い。油の匂い。硝子が空気に触れて放つ、かすかに甘いような、埃っぽいような匂い。

俺はレンズを机の上に置き、カメラを手に取った。ずっしりと重い。新聞社を辞めてから七年になるが、この重さだけは身体の一部のように馴染んでいる。電源を入れ、シャッターを一度切ってみる。ミラーが跳ね上がり、幕が走る。カシャン、という乾いた音が部屋に落ちて、壁に吸われ、消えた。誰もいない部屋の静けさだけが、その後を引き継ぐ。

机の隅に置いたスマートフォンを手に取る。カメラサークルのオープンチャットを開くと、若い女の子たちの投稿写真が次々に流れてくる。秋の公園で写したのだろう、金木犀の下で笑う二十代の女の子。逆光で髪が透けていて、白いブラウスの襟元が光を集めていた。俺はその写真を指先で拡大する。笑っている。えくぼが見える。目の前に彼女がいるわけでもないのに、なぜか指先が熱を持つ。書き込もうとして、指が止まった。何を書くというのか。六十を過ぎた男が、若い女の子の投稿に反応するなど、滑稽でしかない。俺はアプリを閉じて、深く息を吐いた。

しかし、このままではいけないと、ずっと思っていた。毎朝カメラを手に取るのに、被写体がいない。レンズの匂いだけが虚しく部屋に漂い、シャッター音だけが空回りする。妻が生きていた頃は、時々彼女の横顔や庭の花を撮っていた。それだけで満たされていた。今はもう、その営みすら失われている。

俺はもう一度スマートフォンを手に取り、オープンチャットの告知を開いた。今週末に合同撮影会があるという。場所は郊外の公園。集合時間は昼過ぎ。参加費は無料。主宰者は岸田という男で、ベテランらしい。俺は長いことチャットを眺めるだけで、一度も参加したことがなかった。だが、天気もいい。秋の空気を吸うだけでも、家でレンズを磨いているよりはましだろう。そう思いながら、参加ボタンを押すのは、少し照れくさいような衝動だった。

撮影会当日、少し早めに公園へ着いた。木々が色づき始めていて、銀杏の黄と桜の赤が午後の陽に透けている。家族連れや犬を散歩させる人の姿がまばらにあり、空気には土と落ち葉の匂いが混ざっていた。集合場所の噴水広場に歩いていく。カメラを手に持った男女が十人ほど集まっていて、中心に恰幅のいい男が立っていた。短い黒髪に脂ぎった肌、短い髭を蓄えた五十代の男。首から二台も三台も高価なカメラをぶら下げていて、いかにもベテラン風の装いだった。岸田という男だろう。

俺が近づいていくと、岸田が声を張り上げているところだった。

「だからね、逆光ではプラス補正が基本だよ。露出を上げないと顔が真っ黒になるだろう?」

岸田は若い女性たちに囲まれながら、自信たっぷりに説明していた。その言葉に、俺は思わず足を止める。逆光でプラス補正。確かに間違いではない。だが、彼の言い方では、絞り優先オートのことなのか、露出補正の方向なのか、言葉が曖昧だった。何より、逆光の場合は補正を上げるよりも、レフ板を使うか、スポット測光で被写体の顔に合わせる方が実用的だ。補正だけで飛ばすと、背景が白く潰れる。

「あの、少し宜しいですか」

自分でも驚くほど滑らかに声が出た。岸田が振り返る。若い女の子たちの視線が一斉にこちらへ集まる。きらきらした目。化粧気の少ない素朴な顔。スマートフォンばかりで写真に興味が薄い世代かと思っていたが、皆カメラを首に下げていて、目の奥が真剣だった。

「逆光でお顔を明るくしたいときは、プラス補正もひとつの手ですが、できればレフ板かスポット測光を使うと、背景まで綺麗に残りますよ。補正だけですと、空が白く飛ぶことがあります」

岸田の顔が一瞬こわばった。唇が動いて、何か言おうとしたが、出てきたのは鼻で笑うような短い息だった。

「ふん。まあ、ケースバイケースだよ」

そう言って、岸田は別の参加者へ話題を振った。女の子たちの何人かが、まだこちらを見ている。一人、肩までの黒髪の女の子が、熱心にスマートフォンへ何か打ち込んでいた。俺の説明をメモでもしているのだろうか。俯いた襟元が白く光っている。ブラウスのフリルが風に震えていた。俺は急に気恥ずかしくなって、持参したカメラの設定を弄るふりをして視線を外す。

モデル撮影の時間になった。女性参加者が順番に花壇の前でポーズをとり、男性陣がシャッターを切る。俺も何枚か撮ったが、他の若い連中の勢いに押されて、後ろの方から静かに撮るだけだった。ファインダーを覗くと、秋の花と、若い肌と、光。それらが一枚のフレームに収まる。シャッター音があちこちで鳴り、フィルムの頃と違う電子音が混ざる。俺のカメラだけが、ミラーを跳ね上げる重い音を放った。

ひとしきり撮影が終わり、参加者たちが解散の準備を始めた頃、背後から声がした。

「あの、すみません、ちょっとお時間いいですか?」

振り返ると、いた。先ほどメモを取っていた、肩までの黒髪で色白の丸顔、黒い目が印象的な女の子が立っていた。フリルのついた白いブラウスに、ふわりと広がるスカート。首には初心者らしい小さなミラーレスカメラ。歳は二十代前半だろうか。隣に並ぶと、すうっとシャンプーのような、花のような、清潔で甘い匂いが鼻先を掠めた。

「あたし、麻衣子っていいます。まだカメラ始めたばかりで、機材の選び方が全然わからなくて。先ほどのお話、すごくわかりやすくて」

俺は一歩下がり、彼女と距離を保つ。心臓が妙に速い。

「それはどうも。機材の選び方というと、予算はどのくらい考えてるのかな」

「えー、あのね、十万円くらいまでは出せるかなって。でも何から揃えたらいいのか、絞りとかもまだよくわからなくて。あ、でもシャッター速度と露出の関係は少し勉強しました!」

早口で「えー」「あのね」を重ね、目を輝かせて身振りを交えながら話す。俺は彼女の勢いに押されながらも、機材の基本を噛み砕いて説明した。最初はレンズキットの標準ズームでいい。慣れてきたら単焦点の明るいレンズを足す。ボディは手に持ってしっくりくる重さのものを選ぶ。彼女は俺の言葉のひとつひとつに、小さなノートを取り出して何かを書き留めた。長い睫毛が影を落とし、白い指先がボールペンを握っている。時折、顔を上げて「すごい!なるほど!」と声を弾ませた。そのたびに右の頬にえくぼが浮かぶ。俺は説明を続けながら、自分が彼女のえくぼばかり見ていることに気づいて、慌ててカメラのバッグへ手をやった。

そこへ、岸田が割り込んだ。無言で俺の背中に近づき、半歩横から麻衣子の前に立った。

「麻衣子ちゃん、まだカメラの持ち方もぎこちないね。ちょっと貸してごらん、ポーズを教えてあげるから」

岸田はそう言うと、麻衣子の背中に手を当て、腰と腕をつかむようにしてポーズを指示し始めた。花壇を背に、顎を引いて、目線をこっちに。彼の口元が麻衣子の耳の近くに寄るたび、女の子の小さな鼻がひくりと動いた。息を詰めているのが見て取れる。岸田は自分の匂いをまき散らしながら、何度も彼女の二の腕や肩に触れた。

麻衣子は困った顔で俺を見た。黒い眼が、おずおずと助けを求めて揺れている。俺は気づくと、彼女と岸田の間に体を滑り込ませていた。

「岸田さん、すみません。ポートレートの場合、モデルさんの利き目とレンズの軸を少しずらすと、視線が柔らかくなりますよ。真正面から覗き込むより、光の入り方も綺麗です」

岸田は俺を無視しようとした。が、俺は彼の体と麻衣子の体の間に立ったまま、続けて言う。

「それと、先ほどの八五ミリの選択、被写界深度を活かすなら背景の距離をあと一メートル取りたいところです。今の絞りですと、奥の木がうるさく入りますから」

岸田の顔がぐっと紅潮する。反論したそうだったが、口元に浮かんだ笑みは引きつっていて、声は出ない。代わりに「ふん」と短く息を吐くと、麻衣子から手を離した。

「なら、君が教えてやればいいだろう」

岸田はそう言い捨てて、別の参加者の方へずんずん歩いていった。麻衣子が、ほっと息を吐いたのが聞こえた。

「あ、あの、ありがとうございます。あたし、岸田さんに触られるの、ちょっと苦手で」

上目遣いで俺を見上げる彼女の瞳が、午後の光をいっぱいに含んで透明に揺れていた。心の臓が、その透明さを受け止めきれずに跳ねる。俺は何でもないという顔を作って、カメラを担ぎ直した。

「気にしないで。ここはみんな好きで集まってる場所だから、嫌なときはちゃんと言っていいんだよ」

俺の声が、思っていた以上に優しく出た。面倒見がいい、と妻からも言われていた。麻衣子は一瞬俯き、それから思い切ったように微笑んだ。白いフリルの襟が、ひらりと風に揺れた。鎖骨の上に薄い影が落ちて、首筋が真珠色に光ったような気がした。俺はファインダーを覗くでもなく、手の中のカメラの重さだけを確かめるように胸の前に構えた。

帰宅したのは夕暮れ近く、空が茜色から薄紫に変わる頃だった。撮影会での女の子たちの声や、秋の公園の空気をまだ身体にまとわりつかせたまま、俺は自宅の脱ぎ散らかしたスリッパを揃えて廊下を上がった。窓を開けると、夕風が薄いカーテンを膨らませる。部屋の中に、朝磨いたレンズの匂いがまだ残っている。それだけのはずなのに、鼻腔の奥で途切れず揺れているのは、麻衣子のシャンプーのような甘い残り香だった。

作業机に座り、古いレンズキャップを手に取る。表面の塗装が剥げて、端が銀色に擦り減った、プラスチックの円。磨いても磨いても、傷と、黄ばみと、こびりついた思い出は落ちない。それでも俺はクロスでゆっくり拭いた。普段なら無心で続けられるその作業に、今日は心が入らない。指が止まる。あの女の子の笑ったときのえくぼが、瞼の裏にぽっかりと浮かんでいた。

妻の三回忌以来、若い女の身体の一部を、あんなに近くで見たのは初めてだった。白い襟元だとか、指先だとか、笑ったときにできるくぼみだとか。そういう断片が、なぜ俺の胸をこうまで締め付けるのか、上手く言葉にできない。言葉にしようとすると、年代の違う湿った息が喉の奥に貼りついて、苦しくなる。

俺はレンズキャップをぎゅっと握りしめ、目を閉じた。風がカーテンを揺らし、どこか遠くでシャッター音が聞こえた気がした。いや、たぶん、自分の心臓の音だ。夕闇が部屋に浸入し、手の中のレンズキャップは冷えて、まるで古い記憶そのもののように重くなる。眼を開けると、机の上には昼間より濃くなった影が落ちていた。まだ、指は震えていた。

第2章 夕暮れの公園は、昼間の温もりをどこか遠くへ置き去りにして、ひっそりと冷たい息を吐きはじめていた。銀杏並木の黄葉が、傾いた陽に照らされて紅鮭色に滲み、その一枚一枚が風のたびに居心地悪そうに身を寄せ合う。ベンチの端に置いた缶コーヒーはとうにぬるくなっていて、二人の指が触れた午後の熱を、ただ生温かな名残としてとどめているだけだった。

第2章のシーン

夕暮れの公園は、昼間の温もりをどこか遠くへ置き去りにして、ひっそりと冷たい息を吐きはじめていた。銀杏並木の黄葉が、傾いた陽に照らされて紅鮭色に滲み、その一枚一枚が風のたびに居心地悪そうに身を寄せ合う。ベンチの端に置いた缶コーヒーはとうにぬるくなっていて、二人の指が触れた午後の熱を、ただ生温かな名残としてとどめているだけだった。

三回目のレッスンは、最初からどこか空気が違っていた。麻衣子はベンチに浅く腰掛けたまま、撮影した写真を一枚、また一枚と小さな指でなぞっていく。その指先はかすかに震えていて、液晶画面に映る銀杏の黄が、ぷるぷると細かく揺れた。祐一郎は隣で、自分の膝の上に置いた手を見つめていた。夕日と風が、彼女の黒髪の表面を撫でては通り過ぎていく。いつもより口数が少ない、と気づいたのは、三枚目の写真を彼女が何も言わずに飛ばしたときだった。

「あのね、先生」

その声が、秋の空気を裂くように、けれどひどく小さく祐一郎の耳へ届いた。麻衣子は顔を上げない。うつむいたまま、ネックストラップを両手でぎゅっと握りしめている。白い指が白皮と見まごうほど色を失って、関節がこわばっていた。

「あたし、彼氏に浮気されてて。どうしたらいいかわからなくて、ここ数日ずっと頭ん中ぐるぐるで」

彼女の唇から零れた言葉は、涙を含んだように震えていた。軽やかなはずの声の端々が、湿って重たく沈んでいく。祐一郎は何か言わなければと思うのに、舌が張りついたみたいに動かなかった。写真のことならいくらでも話せる。シャッター速度と絞りの関係を、光の読み方を、風の待ち方を。けれど人の痛みを受け止める言葉だけが、どうしてこんなにも喉の奥で乾いてしまうのか。

「写真撮ってる間だけは、忘れられるんです。でも家に帰ると、またあいつの顔が浮かんで」

その瞬間、彼女の細い肩がふわりと傾いだ。まるで糸の切れた花が倒れかかるみたいに、麻衣子は祐一郎の胸へ体ごともたれかかってくる。涙で濡れた頬が、彼の首筋に熱い体温を押し当てた。べったりというほどではなく、じわりと湿り気を帯びた肌が、心臓の鼓動ごと彼の鎖骨へ吸いついてくるようだ。

「先生、ごめんなさい。あたし、こんな、急に」

くぐもった声だった。涙が鼻に回っているのだろう、語尾が甘ったるくこもって、言葉の輪郭をなくしている。彼女の両手は迷うように祐一郎の背中を探り、腰のあたりでしがみつくかどうか逡巡していた。指先がベストの上から背骨をなぞる湿っぽい圧力。祐一郎は思わず、その背中を支えるように抱いた。拒む理由を探すよりも先に、彼女の華奢なからだが彼の腕の中へすっぽり収まってしまったからだ。

ふわり、と香った。涙と汗に混じって立ち昇る、柔らかな石鹸の匂い。白いフリルの襟元から、日なたに干した布団を思わせる温かい清潔な匂いが、少しずつ祐一郎の肺へ染み込んでくる。ああ、誰かにすがりたい夜は俺にもあった。その匂いを知っている。これは、安心する匂いだ。お父さんの匂いだ。彼女がそう感じてくれたのなら、年の離れた男の胸も満更ではない。

そのとき、麻衣子の腰がかすかに動いた。泣きやむために深く息を吸おうとしたのか、細いからだがぴくりと震え、ベスト越しに若い胸の膨らみが押し当てられる。柔らかな肉の圧力と、かすかな温もり。それから胸の上の方から、くん、と鼻をすする幼い音がして、祐一郎の腕の中の女がひとつ、深く息を吐いた。

とたんに、下腹の奥がずくんと疼いた。

若い女の体温と泣き濡れた吐息が、男の身体に火をつけたのだ。年甲斐もなく、と頭の隅で誰かが囁く。心臓が早鐘のように打って、血が一気に下へ降りていく感覚がはっきりとわかる。スラックスの前が窮屈だった。だが、こういう恥ずかしい不始末は、若い頃から何度も妻に笑われてきた。あんたほんと立派ね。あのひとの呆れたような声が、甘い記憶として耳の奥で反響する。妻に褒められた、いにしえの剛直が、空気を含んだ夜の草花みたいにむっくり起き上がろうとしていた。

麻衣子はまだ、祐一郎の胸に額を押し当てたまま静かに泣いていた。しゃくりあげるたびに、前髪が鎖骨のあたりをくすぐり、涙の温もりがベストの奥へじんわり広がる。彼女を支えるように抱いた両腕が、背中から腰へ、そしてその細い輪郭を確かめるように這いかけたとき、彼女の指先が不意に、祐一郎の下腹の膨らみへ触れた。

痛いほどの沈黙が落ちた。

自分の人差し指の先が、布越しに硬く張り詰めたものへ触れている。麻衣子の指が、弾かれたように少し浮いて、それから恐る恐る、熱を測るようにそっと這った。彼女の背中が、息を詰めるようにこわばる。心臓の音が、二人の間で別々に、いや、同じ速さで鳴っていた。夕日はもう銀杏の向こうへ沈みかけて、非常灯の白い光がくたびれたアスファルトを染めようとしている。

「あたしのせい、ですよね」

ようやく顔を上げた麻衣子の黒い瞳には、涙の膜が張っていた。その下に揺れる感情の色を、祐一郎は正視できずにいる。くしゃくしゃになった前髪の先から、一粒だけ涙が零れて、白いあごの先からぽたりと落ちた。

彼女の指が、祐一郎のベルトに触れた。

金具が外れる冷たい音が、誰もいない公園の夕闇に、妙に鮮やかに響き渡った。チャックの歯が下りていく。金属の音と布のこすれが、あまりに静かな空間では淫らな予告のように耳へまとわりついた。麻衣子の白い手は迷いなく下着へかかり、熱を逃すように押しのけると、大きなものがひときわ空気を震わせて顔を出す。

その瞬間、麻衣子の指がびくりと止まった。目の前に現れたものの大きさに、彼女の呼吸が一瞬、完全に途切れる。まだ触れてもいないのに、夕闇の中に屹立する其の輪郭は、彼女の細い掌には余りにも雄々しく、太く、そして長い。麻衣子はごくりと唾を飲み、その両眼を見開いたまま、ほんの数秒、まばたきさえ忘れて見入っていた。彼氏のものとは違う。それがあたしの知っていた男の形……。彼氏より、全然大きい……。その事実が、彼女の胸の奥でくすぶっていた何かに、そっと油を注いだ。指先が触れる前から、下腹の奥がきゅうっと縮み、太腿の内側にじんわりと湿りが滲む。恐ろしいと思う気持ちと、触れて確かめたい気持ちとが、涙の残る彼女の瞳の底で、細かく火花を散らしていた。

「あたし、こんなことでしかお礼ができなくて」

夕闇の中で、麻衣子の吐息と一緒にそんな言葉が転がった。細い指先が恐る恐る先端に触れる。布の焦れた痛みから解放された肉の熱を、彼女の指が冷たく包む。いや、冷たいと思ったのはこちらの皮膚が燃えているからだ。夕暮れの外気と、生ぬるい唾液の間。彼女の手の内側はしっとり汗ばんでいて、その湿りが、触れた場所からゆっくりと男を溶かしていく。

「先生が、抱いてくれて、私の話を聞いてくれたから。だから、あたし……」

言葉の続きは、夕風にさらわれた。彼女は白いフリルに包まれた小さな体を、祐一郎の腰のあたりへ沈めるように顔を近づけた。揺れる黒髪のつむじから、花を乾かしたみたいな甘い香りがふわりと届く。あたたかい。それから、唇が触れた。

若い口内のやわらかさに、声が出そうになった。唇は涙でしめっていて、舌は思いのほか熱い。だが、それだけではなかった。麻衣子はまず、こわごわと唇の先だけで亀頭の先端を食み、それから舌全体を這わせるように、傘の張り出した縁を、丁寧に、まるで飴玉を転がすみたいに舐め回した。ちゅる、ちゅ、ちゅ……と、閉じた唇のあいだから洩れる水音。彼氏に教え込まれたのか、はたまた若い肌の女が自ずと持ち得た性の知恵なのか。唇を窄めて吸引する力、亀頭の窪みに舌先を突き入れて抉る角度、どれをとっても、不慣れな所作ではなかった。祐一郎は思わず、腰の筋肉が凍りつくのを感じる。こんな風に、男の急所を咽喉で愛撫してくれる女は初めてだった。妻は、こういう奉仕を好まなかった。恥じらいの前に、形だけ口に含んで済ませてしまう人だった。それなのに、自分は今、娘ほども年の離れた若い女に、性器の先を唇で食まれている。その事実が、暑苦しいほど掌を汗ばませた。

ちゅる、ちゅぷ、と唇の音が夕闇に溶けては消え、消えてはまた生まれる。ぺたりと頬の内側が押し当てられ、口腔のぬめりが全体を包み込む深さに変わっていく。喉の奥で細い舌が先端をくすぐる感覚。若い女の口というより、知り尽くした者の所作だった。麻衣子の首がゆるやかに前後へ動き、黒い髪が揺れるたびに海草のような陰影をつくる。彼女は祐一郎の腰を両手でつかむ。暴れだしそうな肉を、細い掌が支える。どんな初々しさもここでは意味を持たない。彼女の口はただ、この男を落ち着かせるための熱とぬめりで一杯になっていた。

さらに、麻衣子は根元を片手で支えながら、耐えきれずに反り返るようになった先端を、ゆっくりと唇で咥え込み直した。舌先が、先端の尖りから溢れた滑液を薄く伸ばしながら、幹の裏側をつう、つう、と辿っていく。裏筋。あの細い血管が走る、男の一番敏感な場所を、彼女の温かな舌裏が啄むように、じわりじわりと煽りはじめた。舌先の微細な凹凸がすり上がる感触に、腰の奥から込み上げてくるものがある。祐一郎の履いた靴の先が、地面を蛞蝓みたいに踏みしめる。姿勢が保てなくなり、顎が夜空へと仰け反った。こんな若い子に、こんな風に丁寧に咥えられて、俺はどうすればいい。喰われるような快楽の渦中で、ただ途方に暮れていた。

「ん……っ、ふぅ……」

漏れる吐息が、時折り涙の余韻を含んで震える。鼻が詰まった声が抜けるたび、快楽と切なさが背中を同時に走る。祐一郎は片手で近くの幹を握りしめ、そのざらついた樹皮の感触を、まだ生きている証みたいに感じていた。もう片方の手は、いつの間にか麻衣子の髪に埋まっている。細くてやわらかい、絹ものを裂いたような黒髪が指を滑る。

「先生……あたし、これしかできないかも。でも、したいんです」

唇が浮き上がる。唾液と涙と、夕闇の湿りに光るあごから、糸が一本、とろりと垂れた。それから、また彼女は口を開いた。中は熱い。噛みつくようではなく、咥える、這わせる、吸い上げる。三つの動きが重なりながら、こちらの限界を計るように丁寧に、そして厭らしく。

背丈の低い雑木の向こうで、誰かが足早に遊歩道を行く気配があった。非常灯の白いあかりが、青すぎる光で落ち床を照らしはじめている。気配は遠ざかる。残ったのは風と、唾液がぬめる音と、死に場所をみつけられない男の吐息だけだった。

麻衣子の指が根元を軽く握り、くびれた先端を唇でむしるように吸う。その瞬間、少女じみた鼻声が、甘く切なく湿っていた。

「もう、イっていただいていいですから」

小さな囁きが、まるで命令のように腹の底へ突き刺さった。静かな舌と、ぬめる粘膜と、涙の温度と。それらが一つの絡まり合いになって、耐えるという行為の根を食い荒らしはじめる。

視界が、白んだ。

どく、どく、と己の心臓が背骨を通って股間まで届く。腰の筋肉が縮み、全身から力が抜けていく。麻衣子の黒い瞳が、散りかけた光の中で祐一郎を見上げていた。熱い飛沫を飲み込もうとする喉の動き、行き場を失ったものが唇の端を白く濡らす。ごくん。若い女の、嚥下する微かな音が、静寂をさらった。

「……先生、あたし、うまくできた、かな」

彼女はそう訊いて、泣いたのかもしれない。祐一郎を求めるでもなく、誰かを求めるでもなく、ただ空っぽになるまで尽くしたいと思った女が、公園の夕闇で細い腕を傍らへ下ろした。その手の先で、乾いた風が秋の落ち葉を一つ、くすんだ音を立てて転がしていく。祐一郎は返事を失くした。ただ彼女の髪に触れた手を、そこから離せないまま、じっと歪んだ夕映えを見ていた。

第3章 涙の跡ごと現像して

第3章のシーン

第3章: 涙の跡ごと現像して

玄関のチャイムが鳴るより先に、俺はカメラバッグの留め金を二度開け閉めしていた。十一月の午後、陽はすでに傾きはじめ、磨き込んだ仕事部屋のガラス戸に西日がさして、空気の塵まで金色に縁取っている。その光のなかに、薄いベージュのカーディガンを羽織った麻衣子さんが立った。白いワンピースの裾が、ためらいの分だけ揺れている。

「こんにちは。あの、お邪魔します」

彼女の声は、連絡してきたときの文面よりずっと小さかった。俺は「どうぞ」とだけ言って、撮影用のソファに手で示した。腰かけるとき、黒髪の先が肩から滑り落ち、洗いたてらしいシャンプーの香りが、埃っぽい部屋の角まで押しやるように広がった。

「連絡、短くてごめんなさい。でも、どうしても先生と……続きが、したいって思って」

窓の外では、欅の枝が午後の淵に震えている。俺は向かいに腰を下ろすと、膝の上でぎこちなく組んだ指を見つめた。節くれ立った指はレンズを拭くには慣れているのに、こういうときばかり無骨だった。

「無理にとは言わないが、本当にいいのか。俺は六十を過ぎてるし、君の時間を──」

「違うんです。先生が年上とか、そういうのを考えたことなんて、もう何日もありません」

遮られて、俺は黙る。彼女の黒い瞳が、潤んだまま俺の手の甲を追っていた。それから麻衣子さんは、鞄から小さなミラーレスカメラを取り出し、机の上に大事そうに置く。レンズには、サークルのときと同じ新品の保護フィルター。まるで彼女自身の剥き出しの神経を隠すように、ただそこで西日を受けて光っていた。

「彼、浮気してた相手……同じ職場の後輩だったんです。あたし、昨日やっと確かめられたんですけど、二人があたしのいない休憩室で、手を握ったまま笑ってる写真を見てしまって」

声が震える。彼女は右手の甲で口元を押さえたまま、肩を小さく上下させる。涙は流れていない。泣くのを食いしばるように、まぶたの裏へ全部ため込んでいる。

「情けないです。あたし、写真で見ただけなのに、シャッターを押し返すことすらできなかった。あの二人を撮った誰かの写真を、消せなかった」

彼女はそう言って、絞り出すように息を吐いた。俺のファインダー越しの経験則なら、誰かが泣き出す寸前というのは、こういう空気の「だが折れそう」な娘を十何人も見てきたような気がしたが、個々ではいつも勝手が違う。

「消せないのが、それでもいいんだよ」

俺は静かに言った。

「写真は無理に消すもんじゃない。時間が経てば、あの写真は“記録”から“昔のこと”に変わる。変わるまで、カメラは置いておけばいい」

彼女が顔を上げる。涙の膜の薄い表面に、窓の光が一枚分だけ映り込んでいた。それから麻衣子さんは立ち上がり、ソファから一歩、床に降りる。細い指が、自分でワンピースの右肩を押し下げた。布がずれ、白い肌の広さが白い服からあふれるように現れる。

「消したいんじゃなくて……上書きしたいんです。こんなあたしでも、撮る人がちゃんといて、見てくれてるって」

彼女の声は、悔しさと祈りが半々に溶けた調子だった。俺が何か言うより早く、麻衣子さんは左の肩も落とし、ワンピースの前を全部、指で解いていく。カーディガンが床に落ちる音は衣擦れほどのもので、白い生地が胸元から腰へ、腰から足首へ、音もなく流れて倒れた。下着は、薄い色の簡単な形のものだけだった。上も下も、あまり飾りのない品。彼女の臆病な性格をそのまま布に写したような選択が、夕日の中でくっきりと浮かびあがる。

麻衣子さんは両腕を胸の前で組まなかった。隠さない。その代わり、唇を噛みしめて俺の顔をじっと見ていた。視線が汗ばむほどに真剣だった。夕日は彼女の鎖骨から内腿にかけて、アーモンドピンクの温みを注いでいる。ソファの背には、さっきまで彼女の背中があった分の体温が残っているだろうと思うと、息のし方まで場違いになった。

「麻衣子さん。もし君の気持ちが、その人の代わりを急いでるんなら」

「先生は、あたしをあたしの代わりだと思ってますか」

彼女の声は、ゆっくりで、はっきりしていた。俺は首を横に振る。

「思ってない。この数週間、シャッター越しにおまえを見てきただけの人間の言う台詞じゃないが」

「いいえ。見てくれたのは、シャッター越しの奴だけだった人が、今日はこうして真正面から見ようとしてる。あたしには、それで十分です」

近づいてくる。足音が、畳でもない仕事部屋の床を素足で踏む。音楽にすれば無音に近い足音の中に、彼女の体重のすべてがあった。俺の膝の前まで来ると、麻衣子さんは両手でワンピースの脱ぎ殻を跨ぎ、俺の手を取って、自分の胸の膨らみに導いた。手のひらに触れた肌は布地の温みをまだ含んでいた。みちょ、と手の中で柔らかな重みが溢れる。乳房というより、そこには小さな重力があった。指の腹に応える弾力。彼女の口から、吐息がろうそくの火のように細く漏れる。

「あたし、続きがしたいのは、して欲しいからじゃなくて、先生と繋がった先まで行きたかったから」

彼女はそう言うと、下着の上から俺の下半身に触れてきた。布の向こうで熱くなっているものの存在を確かめるように、指をすべらせる。それから彼女は、俺のベルトを外し、作業イスの上に俺を座らせたまま、震える指で前を開かせる。俺の肺の奥の空気まで重くなっていく。

曝け出したそれが、ガラス戸越しの西日に照らされて影を落とした。麻衣子さんは一口、息を呑む。それから指を重ねて、そっと根元から先へ持ち上げた。冷たい指先と陰茎の表面の熱がぶつかって、彼女の指が止まる。

「熱い、です。生きてるものみたい」

彼女が呟いて、見上げる。下から見上げる目は、黒目が大きくて、涙がまぶたを周回していた。するり、と先端を指でなぞられ、先走りの透明な糸が彼女の指の腹に絡んだ。麻衣子さんはそれを確かめてから、また下着を脱いだ。ゆっくりと、腰を落とす。陰毛の薄い茂みは絹糸のような柔らかさで、その下の割れ目は既に湿っていて、西日でつやつやと光を照り返している。花弁が濡れて開いている。彼女は自分の指で浅く起点を揉みながら、くすぐったそうに肩を揺らした。

「先生……ここ、触って。お願いします」

俺の指を取って、男が想像するよりずっと熱い湿りの中へ導く。ぬかるむ粘膜が指を食み、内側からどくどくと脈打っている。麻衣子さんは軽く膝を折り、俺の指を咥えたまま、下腹を細かく震わせた。背筋を反らし、肛門のあたりまで夕日に晒しながら、吐息の奥で「あうぅ」と力なく喘ぐ。

「いいよ、麻衣子さん。無理はしなくていい」

「無理じゃない、です。あたしがしたいんです」

指を抜くと、彼女の愛液が糸を引いた。彼女はその糸が途切れるのを待たず、俺の上に乗り上げてきた。片膝をソファのように俺の腰の横に立て、もう片方の足を床につけたまま、一番熱い場所を肉茎の先端に押し当てる。入口だけが先に、小さな口を開けて、食らいついた。

「見ていて、ください」

麻衣子さんが腰を落とす。先端が、狭い入り口をゆっくりと割って通っていく。襞が内側で何枚もめくれて、きつさが万力のように輪を作る。空気の抵抗まで感じる圧迫に、俺の喉から低い声が漏れた。彼女の上体が折れた。腰を突き出し、結合部を二人の間から見下ろしながら、ぜえ、と口腔の空気を搾り出す。半ばまで沈んだこともわかる。肉茎の中央を通過するたび、内壁が休みなく波打って、まだ届かない奥が浅い痙攣を起こしていた。

「あ、あ……先生の、先、あたる……」

奥の入口らしき場所に、先端が、こん、と行き止まりのように触れた。麻衣子さんは何か短い悲鳴みたいな音を喉に詰まらせ、首を傾けて、半開きの唇を震わせる。それと同時に、彼女の膣は一番深い所まで硬いものを飲み込んで、唯一の肉茎から外へ漏れ出た蜜が根元をぐっしょりと濡らした。彼女が完全に腰を落とした。二人の下腹部が密着する。お互いの陰毛が濡れそぼって、押すたびにグニュと粘る音を立てる。

「動いて、いいか」

答える代わりに、彼女が腰を小さく前後させた。まだ、馴染んでいない。動くたびに、中のひだが内側から裏返され、彼女の痙攣が俺の腹に伝わる。ゆっくりと持ち上げると、肉茎の表面に若い肉壁が吸いついて、抜けまいとするように締めつけた。麻衣子さんの髪が前へ崩れ、シャンプーの香りが汗に混ざって、眩暈の縁で匂い立った。薄い甘みのする汗。彼女の丸い頬は赤く、えくぼの場所まで上気の色に沈んでいた。

「あ、ああ、ん……あたし、まだ、なか、いっぱいで……」

「大丈夫、急かさない。君のしたい速さで」

「でも、ずりゅ、って……音が、身体の中で聞こえる……」

ずにゅ、と湿りきった抽送の音が、二人の間で粘っこく弾ける。麻衣子さんが「ひあっ」と短く鳴き、弾みで俺の肩に縋りつく。指に力が入ったせいで、その部分の感覚だけがやけに鮮明になった。汗で滑る手のひら、乳房が腕に押し潰される重み、腰を支えるだけで濡れる太ももの内側。彼女の肉壺は、挿入するたびに内側からキュッ、と窄まり、浅い場所では物欲しそうに入口が肉茎の根元をしゃぶった。深く穿たれているのに、もっと深くまで食いしめようとするから、結合部の内部で肉襞が千切れそうなほどの摩擦に変わる。それがたまらなく若い。若さというより、この身体だけが持つ性急な正直さに、俺の腰が吸い寄せられていく。

「アアッ……す、すごくいい……」

彼女の喘ぎが本物に変わってきた。自分から腰を打ちつけるたび、声門の奥で言葉が溶け、頬にも瞼にも、たまらないものを隠しきれない表情が浮かぶ。ファインダー越しに見るよりいやらしい。いや、ファインダーで切り取るべき光が、いま俺の目の前に全量で流れ込んでいる。

「もう少し奥……いや、いい。そう、すごく、締まってる」

囁くように言うと、彼女の内腿がふるりと跳ねた。耳元の産毛が逆立つのがわかるほど、俺の声が彼女のどこかを撫でたらしい。彼女は深く項垂れ、前髪が張りついた額から、一滴、汗と涙の混合液が落ちて、俺の胸に叩きつけられた。その熱さで、もう抑えが利かなくなりかける。

「先生……先生、あたし、変になりそう。奥のほうが、痺れて、切なくて……」

涙声の告白だった。俺は彼女の尻を両手で掴み、下から穿つように抽送の角度を変えた。麻衣子さんの身体が弓なりにしなる。白い腹の中心が引き絞られ、乳房の先端が夕日を二粒ぶん、ちかりと反射した。結合部から愛液の泡が溢れ、とろみを増した露が肉茎を伝って睾丸まで滴る。匂いが、部屋のガラスのように透明なのに、どろりとしていた。女の切羽詰まった匂いに変わる。

「や、あ、あ……先生、も、むり、イク、り……」

声が途切れ途切れになる。膣が絶頂の前触れのように痙攣を連続させ、肉茎を根元まで引きちぎらんばかりに締めた。そのまま深い摩擦の音が、ぬちゃぬちゃと卑猥に広がって、俺の腰を貫く。麻衣子さんは首を振って、髪を振り乱し、半狂乱で俺の肩を抱いた。

「いっ、イク……う、んうぅ! ひ、くあぁ……イク、イクうぅんーっ、んんーっ!」

膣が、最深部の口を開けて精を強請るように食いしめる。麻衣子さんは、もう俺のものでも彼氏のものでもない、自分の快楽だけを追う雌の顔をしていた。俺は彼女の背を抱き寄せ、逃さないように腰を突き上げる。背骨が握れるほど浮き出る。彼女の内側が、幾重もの襞で肉茎を嚙み、うねり、溢れた蜜を音に変えた。視界の端で、ソファの背に彼女の手が縋って、布地に小さく爪の跡を刻んでいる。

「……あ、ああ、麻衣子さん」

一気に射精欲が背筋を駆け上がった。どくどくと先端が膨らみ、彼女の最奥に熱が叩きつけられる。麻衣子さんの口が半開きになって、喉の奥で「ひぁ」と鳴った。一発ごとに子宮口の窪みが口を吸い、まだ出し切っていない精まで搾られるようで、腰が震えた。そこから何度も途切れ途切れの吐精が続く。彼女の膣内に、確かな重さで放たれていく。彼女も小さく、何度か果てて声をなくし、最後にはぐったりと俺の胸によりかかった。汗で貼りついた太もものぬくもりが、ゆっくりと冷めていく気がした。

数分、シャッターを切る気配もない静けさが部屋を満たした。外では、欅の枝に夕日が傾き、ガラス戸越しに影が長くのびている。麻衣子さんはまだ俺の上から降りず、切れた息を整えながら、俺の鎖骨に額を押しつけていた。膣が時折、名残のようにひくつき、抜かずにいる性器を啜った。二人の結合部は濡れた花弁の形に開き、ソファには光沢のある染みができはじめている。

「……先生」

声が掠れて、それだけだった。俺は掠れた声に、なんと返していいかわからなかった。彼女の背中を、汗の膜ごしに、ゆっくり上下に撫でる。

「してくれて、ありがとうございました」

耳の裏で、麻衣子さんが小さく泣いた。さっきまでとは全然ちがう、楔の抜けたような泣き方だった。俺の肩を抱く指は、まだ微かに震えて熱かった。年寄りくさいことを言うつもりはなかったが、誰かの涙の熱を身体で受けるのが、どれだけ久しぶりかもわからなかった。

初めて見た、薄い夜のヴェールが部屋の隅から寄せてくるまでそうしていた。

夕食のあと、麻衣子さんはシャワーを借りて、それから撮影用のソファに腰かけ、見えるところで携帯を弄っていた。送信音が一つ、やけに明瞭に響く。彼女は、こちらを振り向いて言った。

「別れの連絡、しました。未読のまま、ブロックして……あと、スマホに入ってた写真、全部消しました」

彼女が泣き笑いのまま振り返る。その笑みは、重い決断を下した夜の清々しさを張りつけた、ガラスのように脆い弧だった。この部屋には、撮影用の小さなライトしかない。俺は無言のまま、カメラを手に取った。一発だけ、今日の彼女を記録せずにいられなかった。景色でない人間を撮るなら、シャッターは一回でいい。一瞬に全神経をつぎ込む。汗の光る肩越しに、彼女が笑っている。えくぼの窪みまでくっきりと、暗がりの中で淡く発光している。

「先生、あたし、脱いだままでしたよ、それ現像したら大変なやつじゃないですか」

「大丈夫、撮ったのは笑顔だけだから」

本当は、汗まみれの肩と裸身の輪郭も画面の中にいた。だから、どのみち現像はこの家の暗室でしかしない。

カチン。

乾いたシャッター音が、夜の水に落ちる小石のように響いた。

それからの記憶は、均一な暗室の赤色に同一化している。麻衣子さんを家まで送り、戻ってから、一枚を現像液に沈めた。ゆらり、と光の中から像が浮かびあがる。縁に彼女の笑顔。中央に、汗で玉のようになった肩の光沢。現像液の匂いが鼻の奥に貼りつく。俺の指先からは、まだ若い彼女の体温が抜けない。ぬるい熱が、指の腹、手のひら、腹の奥、ぜんぶの記憶の古傷に居座りつづけている。古い現像液の匂いはレンズの匂いと似ている。似ているのに、麻衣子さんの肌に触れた後の指では、まるで別の化学薬品みたいに甘かった。

ファインダー越しの視線の先で、妻が最後に笑った顔。あれも、こういう赤い灯りの中で、俺一人が現像した。妻のえくぼは、麻衣子さんのえくぼに重なる。重ねて、重ねて、透けた影が一枚の印画紙の中で二人ぶん笑っていた。俺は目を逸らさなかった。心配になるほど長く、現像液に浮かぶ女の笑顔を眺めていた。

第4章 サキュバスの跨るフレーム

第4章のシーン

第4章: サキュバスの跨るフレーム

麻衣子の唇の感触がまだ手の甲に残っているような、そんな錯覚を抱えたまま十日が過ぎた。俺はいつもの癖で、夜明け前に起きてカメラバッグを開け、レンズを一本ずつ取り出しては息を吹きかけ、柔らかな布で拭く。十一月の空気は乾いていて、機材にはちょうどいい。部屋の片隅では、麻衣子が置いていった小さなヘアゴムが、朝日を受けてまるで捨てられた花のように転がっていた。それを見ないように、俺はカメラの電源を入れる。こうして指先が機材に触れている時間だけが、六十を過ぎた男の呼吸を静かに整えてくれる。

スマートフォンが短く震えたのは、朝食の白湯が冷めかけた頃だった。開いてみると、サークルのオープンチャットではなく、奈々さんから直接のDMが一通。

「せんせー、今度コスプレの撮影お願いできますか? サキュバス衣装、新しく作ったんです。スタジオ、あたしが押さえるので!」

文面の端に、ラメ入りの小さなスタンプがいくつも並んでいる。スタジオの名前と日時は具体的で、抜かりがない。俺は既読をつけてから、しばらく指を止めた。麻衣子さんとの関係が始まったばかりで、他の若い女と密室に二人になるのは気が咎める。けれど同時に、シャッターボタンを押すことに飢えている自分もいる。あの麻衣子さんの涙の跡を撮った時から、ファインダー越しの肌というものが、まったく別の厚みを持って俺の眼球に貼りついて離れなくなっていた。俺は短く「わかった。時間は合わせる」と返す。送信ボタンを押す指先が、どうしても少しばかり温かくなっているのに気づかないふりをした。

スタジオは都心から少し外れた雑居ビルの三階にあった。壁一面の白いバック紙と、天井を走る照明の黒いバンク。奈々さんは俺が到着した時にはすでに着替えを済ませていて、黒いレザー風の衣装で全身を包んでいた。角が左右に突き出したヘッドドレス。尻尾の先がハートの形をした、艶のある黒い飾り紐。なにより目を引いたのは、胸元を強く縛り上げているビスチェで、肉が食い込む度に小さな乳房がふたつの果実のように持ち上がり、白い谷間が照明を反射して浮かび上がっていた。薄い布の下からは、腰のラインに沿って食いこんだ紐が覗いている。俺は視線をわずかに外して、照明の位置を確認した。

「先生ぇ、今日はよろしくお願いしますっ」

奈々さんは両手を背中で組んで、わずかに首を傾げる。その仕草のせいで、黒い下着の縁がわずかに衣装の切れ目から見えた。彼女は俺の視線を確かに感じ取って、唇の端を少しだけ上げる。ツインテールがふわっと動いて、甘いシトラス系の香りが漂った。妻が好んで使っていた化粧水の匂いとは違う、もっと尖った甘さ。俺は無言でカメラを構え、露出計を読む。

「では、最初は立ち位置から。窓際の光が回ってるから、半身でこちらを振り向いてみて」

「はいはーい。こうでしょ、こう?」

彼女は腰をくねらせて、片脚をわずかに前に滑らせる。ファインダーの中の彼女は、白い背景のまえで異様なまでに輪郭がくっきりとしていた。角と尻尾が影を落とし、甘い顔立ちが浮き上がる。俺は絞りを一段開けて、瞳の光を拾う。シャッター音が乾いた空気を裂く。カシャ、カシャという響きが、壁に吸い込まれて消える。その連続が、たまらなく肌に馴染んだ。

しばらくは順調だった。彼女はこちらの指示によく反応し、ポーズの意味を本能的に掴んでいく。しかし、流れが変わったのは撮影を始めて四十分ほど経った頃だった。

「先生、ちょっと休憩しましょ。あたし、羽織るもの持ってくるの忘れて」

そう言うが早いか、奈々さんは肩ひもの片方をずるりと落とした。露わになった肩と、黒い紐で辛うじて支えられた胸の膨らみ。彼女はそのまま床に片膝をついて、見上げるようにこちらを向く。ビスチェの下から、こぼれそうな白い肌が、呼吸に合わせてふるふると揺れた。そして彼女は、ためらいのない指先で、太ももの付け根を覆っていた小さな黒い布を横にずらした。割れ目が、白い柔らかな丘から浮き出るようにして、照明の下でまばゆく光っている。薄い産毛までが見えるほどの距離に、ファインダー越しの視線が吸い寄せられた。

「奈々さん、それは……」

「先生にだけ見せてるのに、ダメ?」

彼女は口を尖らせ、腰を少しつき出す。黒い衣装が剥かれたそこだけが、異様に生々しい湿り気を帯びているのがわかった。小さな花弁の輪郭が、熱を持つように赤みを帯びている。俺はシャッターを半押しした指を、ゆっくりと離した。

「公開範囲を考えなさい。こういうのは、あとで控除や公開設定で困ることになる」

「えー、公開とかしないってば。ねえ、もっと撮ってほしいの。せっかく気持ちよく撮ってくれてたんだから、ここもちゃんと写してよぉ」

彼女は片手で割れ目を隠すように押さえ、指のあいだから中の色を覗かせた。まるでサキュバスというより、獲物を焦らす小さな悪魔だ。その指先が、黒い衣装のあいだで小さく動いて、てらてらとした光を伸ばす。空調の匂いに、わずかに少女の汗と甘いボディクリームが混ざっている。俺は目を細め、一つだけ大きく息を吐いた。情けないことに、ズボンの下に熱が溜まっている。六十の男が、十八の娘の尻尾付き衣装にここまで揺さぶられるとは。

「そこまでは、スタジオの規約で撮れないこともないが、データを渡すとなると慎重にならざるを得ない。それは、おまえを困らせないための手順だ」

「んー、じゃあスタジオじゃなくて、別の場所ならいい? あたし、先生ともっと深いところまで撮ってほしいな。ね、この後ヒマでしょ?」

奈々さんは立ち上がると、ずらしたクロッチをそのままにして、俺の腕に小さな手を這わせた。指先は冷たく、肌の表面だけをなぞるような触れ方。彼女の呼吸が、すぐ下から聞こえた。黒い衣装の胸元が、俺の二の腕にむにゅりと当たる。やわらかいのに、中はびくりと脈打っている。ファインダーを揺らした俺の手が、もう単純に機材の重みだけを支えているのではなかった。

結局、俺は奈々さんに連れられる形で、スタジオから徒歩五分のビジネスホテルへ入った。情けないことだが、頭では麻衣子さんの顔が何度も浮かんだ。それなのに、足は彼女の厚底靴の後ろを追っていた。そういう男の業を、俺はカメラマンとして何度も他人の顔に写してきたはずなのに。廊下の蛍光灯がやけに眩しく、部屋のドアが閉まる音だけが妙に大きく響いた。

部屋は狭く、空調の匂いと消毒液の残り香が肌に貼りつく。奈々さんは迷うことなくブラインドを半分だけ下げ、翳った光のなかで振り返った。尻尾のハートが揺れて、壁に映る。彼女は黒い衣装の上から自分の乳房を寄せて、ズボンの前をまっすぐに見つめた。口紅の赤が薄暗がりのなかで濡れている。

「ね、さっきから気づいてたでしょ。先生、ここ膨らんでるよ」

彼女の小さな手が、俺のベルトの金具に触れる。しゃら、という硬質な音。俺は彼女の手首を掴もうとして、その手首の細さに指を止めた。掴めば折れそうに細い。そのくせ、指先は迷いなく俺の布を割って、熱を引き出そうとする。ツインテールの黒い髪の匂い、一度嗅いだら頭から離れない、圧縮された甘さが鼻の奥を刺激した。

「先生ぇ、あたし、撮影の時から脚のあいだ、ずっとちら見されてるのわかってたよ。ファインダー越しの顔、なんか獣みたいな気配してたもん」

「奈々さん、俺は……」

「いいの、あたしが見せたくて見せたの。カメラの前で濡れるの、気持ちいいもん。それに、先生みたいにちゃんと機材を持ってる人に撮ってもらえると、すごく興奮するし」

彼女は俺のジーンズの釦を引き抜くと、下着の上から指を這わせた。下腹部の熱が、彼女の指の輪郭をなぞって浮き上がる。俺は壁に手をついて、体重を支えた。頭のどこかで妻の写真が、麻衣子さんのえくぼが、古いレンズキャップの匂いが、ぽつぽつと光っている。しかし、それらは次の瞬間、奈々さんの唇が下着越しに押しつけられた熱で、無理やりに遠ざけられた。

彼女は床に膝をつき、下着をゆっくりと下ろしていく。熱を帯びた肉茎が、乾いた空調の風に触れて、ひくりと持ち上がる。奈々さんは目をまんまるにして、一瞬だけ言葉を失った。そして、おそるおそる指で先端を摘み、その熱を顔に近づけた。赤い舌がちろりと伸びて、先端の浅い窪みをなぞる。ぬる、と濡れた音が、静かな部屋のなかで妙に大きく響いた。

「あっつ……すごい、汗ばんだ匂いします。ちょっと苦いけど、舌に乗せると重いですね」

彼女は俺の反応を楽しむように見上げながら、今度は開いた口のなかに、ずるずると先端を食ませた。うら若い唾液が、肉茎の皺を伸ばすようにまとわりつく。俺は壁を掴む指に力を込め、視線を天井へ逃がす。それなのに、口腔の入口で舌が裏側を辿る感覚だけが、やけに輪郭を持って頭の芯をぬめぬめと這った。奈々さんは角度を変え、根元を両手でしごきながら、唇を窄めて引き抜く。ぬちゅ、ぬちゅ、と唾液が糸を引き、彼女の小さな顎にもう一筋流れ落ちる。黒いビスチェの谷間に光る、だらしない銀の線。

「先生、もっと奥で、あたしの口がびっくりしてるのわかる? 上あごに押しつけて……ひ、く、って震えてるでしょ」

確かに、先端が狭い喉の入り口を押し上げるたび、彼女の口蓋が小さく痙攣している。唾液が白く泡立って、唇の縁から粘り気のある音を立てた。じゅぷ、じゅぷ、という水音が、彼女自身の耳に聴こえるようにわざとらしく響く。俺の腰が、自然に前へ突き出される。奈々さんは喉を開くように息を零し、目尻にうっすら涙を浮かべたまま、根元まで飲み込もうと首を沈めてくる。鼻の頭が俺の下腹に埋まり、吐息が茂みを蒸らした。

「やめなくていいのか。一度出てしまうと、まだ済ませる気はないぞ」

俺は搾り出すように言った。声が低く掠れている。奈々さんは口を離すと、糸を引く唾液を舌で絡めとり、赤い唇をてらてらと光らせて笑った。

「やめてほしい顔に見えなかったよ。もっと、触っていい?」

彼女は立ち上がり、黒い衣装の胸元をぐいと下に引いた。こぼれ出た乳房は小ぶりで、柔らかく、先端は化粧のように赤い。その粒を、彼女は自らの指でつまみ上げ、俺の口元へ押し当てた。甘いボディクリームの味が舌に乗る。俺はその粒を唇で挟み、そっと吸い上げた。奈々さんの背中が、見えなくてもわかるほど、びんと反り返る。

その後の挿入は、それまでのあどけないやりとりから一転して、獣じみた性急さをもって俺の体力を削っていった。ベッドに寝かせた彼女の太ももを開く。あの時ファインダーのなかで見た割れ目が、薄暗がりのなかでいっそう濃い桜貝の色に熟れていた。指で確かめると、中はぬるりとしていて、外の空気との温度差に胸の奥が震えた。奈々さんは自分の奥を俺の指に擦りつけてきて、浅い息を吐く。ぬむん、と濡れた粘膜が吸い込むように指を食んだ。

麻衣子さんが俺を受け入れてくれた時の、あの切なく張り詰めた締めつけとは違う。奈々さんの場所は、もっと性急に、それでいて飽きることを知らないように、男の形そのものを食い締めて、すぐに奥へと導こうとする。十八歳の、まだ若い雌の肉壺は、俺の先端を飲み込むなり搾り上げ、それでいて子宮口のあたりに当たると、杭が抜けるように震えた。ぷあ、と彼女の唇から空気が漏れて、黒いツインテールがシーツの上で乱れる。

「ああ、ああーッ……きもち、い……先生のが、お腹ん中で、どくどくしてるように見える……」

「見えるんじゃなくて、そうなってるんだ。おまえの奥が、うねって押し返してくる」

「んんっ、それ言われたら、もっと締めていい? あたし、中の肉で、先生の形を確かめたいの」

彼女は両脚を俺の腰に回し、尻を浮かせた。ぬちゃ、ずちゅ、という濡れた音が、結合の深さをそのまま量るように膨れ上がる。俺は腰を引き、もう一度、根元まで沈める。奥の狭い窪みが先端を吸い、奈々さんが喉を仰け反らせた。声が跳ねる。黒いビスチェは胸の上まで這い上がり、揺れる白い果実が、打ちつけるたびに跳ねた。その先端を俺の親指が潰すと、彼女のなかが不意に何倍にも熱を帯び、ひくひくと引き攣れた。

二晩続いた撮影と、ほとんど寝ていない夜の応酬。部屋のカーテンを閉め切ったまま、俺は奈々さんの尻尾を引っ張り、後ろから貝合わせのような深さで何度も果てた。小さな死が、背骨の奥をどろりと満たすたび、年齢のことを忘れそうになった。そして同時に、決して無視できない疲れが、太ももの付け根、膝、腰骨、そのぜんぶに沈殿していく。二晩目が明ける頃、俺は横になった奈々さんの腹に手を当て、自分の指が若い頃のように熱を持っていることに気づいた。乾いていた掌が、血の巡りを取り戻している。肉体の芯は確かに若返っている。その自覚が、情死のような甘い疲労のなかで、ひどく切なかった。

奈々さんは裸の胸のままで、俺の腰に縋りついてきた。尻尾つきの衣装が、首から半ば脱げた状態で汗に貼りついている。紅の移った俺の鎖骨に顔を寄せて、彼女は言った。

「先生、あたし専属のハメ撮りカメラマンになってよぉ。他の子には撮らせないし、あたしも先生にだけしか裸を見せないから」

「奈々さん。おまえの将来の画像を、年寄りの俺が管理するというのは、考えものでしかない」

「先生、あたしのこと、年寄りだからってはぐらかしてるでしょ。撮られながらされたの、忘れたの? あれ、すっごく気持ちよかったんだから。カメラ越しの先生の指、震えてたくせに」

彼女の手が、俺の尻を軽く抓る。その口元は、甘えるような、それでいて獲物を離さない表情をしていた。俺は返す言葉を、うまく見つけられなかった。だが、ゆっくりとシーツに沈む奈々さんの背中を、何の気なしにカメラへ収める自分の指先があった。それは確かに、麻衣子さんとは違う種類の熱を、この古い機材に宿らせようとしている。

都心の空が白み始めた頃、スマートフォンの通知が途切れなく鳴った。最初はサークルの連絡かと思った。画面を開くと、聞いたことのない冷たい文面。会員相互監視の荒事めいた、岸田さんからの一方的な通告がそこにあった。要約すると、俺はサークルを出て行けということらしい。

俺は奈々さんの寝息を背に、声を出さずに、何度も通知欄を更新した。麻衣子さんの名前を探している自分がいる。岸田さんからの文面には、個人的な恨みというよりも、主宰としての立振る舞いを守ろうとする、どこか芝居がかった尊大さがあった。きっと彼なりの正義で、俺を追い出すことが集団を守ることだと信じているのだろう。

自宅へ帰ると、部屋の空気が秋から冬へ変わりはじめていた。鏡を見ると、見知らぬ赤い色が俺の鎖骨に残っている。奈々さんの唇だ。俺は洗わずに、もう一度だけそれを指でなぞった。馬鹿げている。だが確かに、乾いた手が血で温かく戻るこの感覚は、俺の身体を何年ぶりかで男の形に戻している。それに麻衣子さんとの、あの泣き濡れた出来事も、決して消えてはいない。

スマートフォンを握り直す。SNSを開くと、予想もしない動きがあった。麻衣子さんが退会コメントを出している。奈々さんも、その流れに続いている。若い会員がぽつぽつと同じように動き始めて、その先に、麻衣子さんから届いたDMの題名が浮かんでいた。

「先生、あたし、新しいサークル作りたいです」

一文めを読んだ瞬間、俺の鼓動が妙に速くなった。破門の報せを告げられた十一月の深夜、唇の赤い痕が鏡の向こうで熱を帯びている。シャッター音の残響が、まだ鼓膜の奥で鳴っていた。

第5章 新しいファインダー

第5章のシーン

第5章 新しいファインダー

破門の通知から一夜明けて、祐一郎は明け方の台所で白湯を啜っていた。窓の外はどんよりと曇っていて、十二月らしい灰色の光が、シンクの縁に積もった水滴を鈍く光らせている。昨夜はほとんど眠れなかった。いや、眠る気がなかったのだ。麻衣子からのDMを読み返すうちに、古いカメラバッグを引っ張り出して、レンズを一本一本拭いていた。絞り環に残った油の匂い、金属の冷たさ、それらが指先に触れている間だけ、岸田に投げつけられた破門の文面が、すうっと輪郭を失っていく気がした。

「先生、あたし、新しいサークルを作りたいです」

あの一文の下には、具体的な日付と場所が書かれていた。麻衣子らしい、小さなスタンプが三つ。奈々からは別のDMが何通も届いていて、最後の一通には「コスプレ仲間、みんな先生に撮ってもらいたがってるよぉ」と、ねだるような語尾が並んでいた。壁の古い時計が、音もなく八時を回る。祐一郎は白湯を置き、スマートフォンを手に取って、麻衣子に短い返信を打った。

「わかった。顔合わせには行く。俺に何ができるかは、みんなの顔を見てから決めさせてくれ」

送信してから、手のひらを見る。節くれ立った指が、昨日よりも温かい。奈々と過ごした二晩の熱が、まだ骨の芯に残っている。その感覚を振り払うように、ベストを羽織り、古いキャップを目深に被った。

顔合わせの場所は、駅前から少し奥まった通りに面した、小さなカフェだった。ガラス張りの入り口から中を覗くと、奥の長テーブルに若い男女が七人、八人と座っている。みな二十代前半だろう。麻衣子がその中央で、ノートと色分けされた付箋を手に、何か説明をしている。大きな瞳をきらめかせて、白いブラウスの襟が動くたび、首もとの細い鎖骨がちらりと光を拾う。隣には奈々がいて、黒いミニスカートから伸びた素足を所在なげに組み替え、時おり「それでそれで?」と身を乗り出している。トーンの明るい声が、ガラス越しにも聞こえた。

祐一郎がドアを押すと、鈴の音が軽く鳴った。いちばん手前の男が一瞬こちらを振り向き、会釈をしてくる。麻衣子がぱっと顔を上げ、手を振った。

「先生、こっちです。あ、みんな、こちらがお話してた元報道カメラマンの先生です」

若い参加者たちの視線が、一斉にこちらを向いた。大学を出たばかりのような男が二人、華奢な女の子が三人、それに高校を出たばかりの男の子と女の子が一人ずつ。好奇心と、ほんの少しの遠慮が混ざった目。その視線にさらされて、古い報道の現場で幾度もくぐってきたはずの緊張が、思いがけず背筋を走る。祐一郎はキャップの鍔に指を触れて、ゆっくり頭を下げた。

「初めまして。先生と呼ばれるほどの者じゃないが、機材と光のことならいくらでも。今日はざっくばらんに話そうか」

「えー、先生、今日はよろしくお願いします。あたし、人の写ってる写真が撮れるようになりたくて!」

「私も動いてる人をうまく止めたいです。あと背景のぼかし方とか」

「あたしは次のコスプレイベントまでに、会場の雰囲気が伝わる写真を……」

声が、一気に弾む。麻衣子が「はい、あとで一人ずつ自己紹介しますからね」と手を叩いた。その手際のよさに、祐一郎はわずかに安堵する。

それから、改めて参加者たちの顔を、一人ずつゆっくりと見回した。ついさっきまで名前も知らなかった若者たちが、いま、この小さなカフェの空気を変えている。彼らが発する熱のようなものが、テーブルの木目を伝って、こちらの指先まで届いてくるようだった。ユニクロのパーカーを着た男の子は、カメラのストラップを指に巻きつけながら、遠慮がちに質問のきっかけを探している。その隣で、マフラーを膝に置いた女の子が、自分のスマートフォンに保存した写真を、隣の友人に見せては、小さく歓声を上げていた。華奢な身体つきの娘の一人は、祐一郎の古びたカメラバッグをじっと見つめていて、視線が合うと、慌てて目を伏せ、耳の先だけを赤くする。その初々しさや、隠しきれない憧憬の色が、かつて若い同僚たちと駆け回っていた報道部の空気を、不意に連れてきた。空気は違うのに、貪欲に何かを知ろうとする目の力だけは、あの頃と少しも変わらない。

なにより驚いたのは、彼らが一様に、カメラの数値よりも「その場の空気」を撮りたがっていることだった。絞りだのシャッタースピードだのという言葉に、怯えない。むしろ、それを使って何を残せるかを、最初から肌で知ろうとしている。祐一郎は、小さく息を吐いた。若いというのは、こういうことだ。技術の壁を、当たり前のように素通りして、心で撮ろうとする。眩しくて、少し胸が痛んだ。

その眩しさの中心で、麻衣子が皆の机をまわっている。ペットボトルの水を配り、緊張で手元の震えている女の子には「大丈夫、みんな最初はそうなんだよ」と声をかけ、質問が重なって混乱しかけた空気を「ひとつずつね」と、やわらかく整えていく。彼女はもう、あの夜、公園のベンチで涙をぬぐいながらカメラの握り方を覚えた娘ではない。人の呼吸に耳を澄ませて、集まりを一つの流れに変えられる。祐一郎は、胸の奥のほうから、熱いものが込み上げそうになるのを感じた。それは誇らしさというより、もっと昏い、手放しがたい感情に似ていた。

「それじゃあ、まず先生に、構図と光の基礎をざっと教えてもらおうかなって思います。みんな、質問があったらどんどんしてね」

麻衣子はそう言って、こちらを見上げて笑った。えくぼが浮かび、陰りのない顔が、この小さなカフェの隅まで明るくする。祐一郎は彼女の隣に立ち、壁際の黒板を借りて、光の向きと構図の基本を語り始めた。主役を三分割の交点に置くこと、逆光では髪の縁が光を集めること、背景の色が人物の肌の明るさに流れ込むこと。参加者たちは熱心にうなずき、スマートフォンに打ち込んだり、手元のノートに丸を書いたりした。

「先生、絞りを開けて撮る時、ピントの位置はどこに置くのが理想ですか」

「いい質問だな。まず、その人の利き目だ。ポートレートなら迷わず利き目に合わせる。そこが外れると、どんなに空気が良くても写真が嘘っぽくなる。ほら、あそこの窓の明かりを背にして撮るだけでも、光のまわり方が変わって見えるだろう」

「あ、本当だ。光が後ろにまわると、髪が透けて見えます」

「それをエッジライトと言って、人物の輪郭を浮かせる昔からの手法だ。君たちの年齢だと、髪の細い光がすごく綺麗に出るから、うちの撮影会では積極的に使ってみるといい」

参加者たちの顔が、ぱあっと華やいだ。その一瞬、古いシャッター音が、頭の奥から聞こえた気がした。現場で何千回も切ってきた、あの硬質な音。いつの間にか、右手の指先が、空のシャッターボタンを探している。ここには被写体がいる。それも、息をしている若い笑顔が、目の前にこれだけ溢れている。ひどく遠い場所にいたはずの自分が、ようやく地面に立っている気がした。

顔合わせが終わる頃、麻衣子はノートを閉じて、祐一郎の顔を見上げた。白いブラウスの襟に、小さな銀のペンダントが揺れている。俯いた拍子に、胸もとの布がわずかに開いて、薄い汗の光る肌がちらと覗いた。祐一郎は視線を窓の外へ逃がす。十二月の曇り空が、いつのまにか厚い灰色の雲を巻いていた。

二週間後、新サークルの第一回撮影会が、都心から少し離れたスタジオで開かれた。麻衣子の入念な段取りのおかげで、機材の置き場所、タイムテーブル、見学用の椅子まで整っていた。参加者たちは思い思いにカメラを構え、祐一郎は一人ずつ声をかけながら、視線の置き方やアングルの低さを教えた。

「あ、先生、この写真、自分でも驚くくらい明るく撮れたんですけど、なんででしょう」

「いい感覚してるよ。ここは白い壁の反射がすごいから、光が上からだけじゃなく横からも回ってるんだ。露出を下げたくなるけど、逆にプラスに振らないと陰が濁る。ほら、この位置で絞りを二段戻して撮ってみるといい」

「なるほど、あれ……本当だ、肌の色が自然になりました!」

若い男が笑い、その隣の女の子がカメラを持ち上げて被写体の顔を狙う。フレーミングが少しだけ斜めになっていたが、あえて直すまいと思った。構図の歪みは、撮る人間の呼吸そのものだ。それを消しては、写真が死んでしまう。そんなことを考えながら、祐一郎は参加者同士の撮影の合間に、自分のカメラで、光の角度だけを確認するように何枚か切った。シャッター音が、静かな白い部屋に吸い込まれる。ファインダー越しの視線が、半年前と少しも変わらない重さで、網膜の奥を圧した。

スタジオの奥の白い布をバックに、奈々が突然、口を開いた。

「先生ぇ、あたしも撮ってほしい。みんなの前でモデルするの、けっこう慣れてるから」

「あら、それならあとでまとめて、ライティングのデモンストレーションを兼ねて撮ろうか。ほかのみんなの勉強にもなる」

「えー、あたし、先生にだけ撮ってもらいたいんだもん」

唇を尖らせる奈々の声に、参加者たちがくすくす笑う。麻衣子だけが、黙って手元のノートを捲った。横顔が、白い布からの反射で青白く照らされている。長い黒髪の毛先が、少しだけ乱れて肩にかかっていた。祐一郎は、その横顔をあえてファインダーに収めなかった。失礼になる気がしたが、それ以上に、彼女の顔を待つ一瞬を逃すまいと思ったのかもしれない。

それから十日と経たないうちに、奈々がスタジオの別室で、祐一郎にだけ見せる特別な衣装があると、荷物を抱えて現れた。

「ねえねえ、今日はすごいの持ってきた。これ、あたしの新作。先生だけに見せるんだよぉ」

彼女はカーテンの閉まった小部屋で、手早く撮影用の衣装に着替えた。出てきた瞬間、空調の空気が変わったように思った。布という布が、細い紐にまで削ぎ落とされた、超マイクロ水着。黒い革紐が、胸の頂点をかろうじて隠し、股布は縦に細く食い込んで、白い肌のあいだに沈んでいる。腰まわりからは、銀の金具が小さく光り、背中はほとんど剥き出しだ。まるで水着というより、身体を縛るためだけの呪具だった。

「奈々さん。これは……外では到底無理だな」

「だから、先生だけに特別に見せてるんじゃん。あたしの脚、今日はむっちり感がすごく綺麗に出てるでしょ?」

「脚というより、帯の締め跡が……」

言いかけて、祐一郎は唾を飲んだ。黒い紐が食い込んだ太ももの付け根に、白い肉がむにゅりと盛り上がり、その奥の狭い布地に、薄い谷間が陰を描いている。彼女が体をひねるたびに、胸元の紐がずれて、小さな水蜜色の先端が、硬い輪郭を覗かせようとした。照明機材を動かすふりをして、一度だけ深く息を吸った。

「今日のライティング、もう決めたのか」

「ん、決まってない。先生が好きな光でいいよ。あたしは脚を開いてるだけで、モデルは本職だし」

「その本職ってのは、あんまり安く使っちゃいけない。そういう気持ちの問題なんだが」

「やー、講釈は終わった? なら撮ろ。あたし、先生の前で大胆でいたいの。どうせ誰にも見せない写真でしょ」

挑発的な口調のくせに、目は少しだけ潤んでいる。黒いツインテールが、空調の風に揺れて、細い首筋をなぞる。祐一郎は仕方なくカメラを構えた。ズームリングを回し、白い布の位置を肩で押して、光が乳房の下から回るようにする。彼女の白い肌と黒い紐のコントラストが、ファインダーの中央で、異様なまでに強く燃えた。数枚切り、彼女が片脚を台に乗せた瞬間に、レリーズを押した。カシャ。それから、もう一度。カシャ。小さな挙動のすべてを、身体が覚えている。

「先生のシャッター音、すっごい硬い。あたし、あの音で毎回ゾクゾクする」

「それは、シャッターというよりミラーの音だろうな。音の粒が濃いのは、昔の報道機材の癖だ」

「そうじゃないの。あたし、耳の後ろまで、先生のカメラとひとつになるの」

奈々は、自分の太ももに手を這わせ、狭い股布を、指先でわずかに引き上げた。陰唇の外縁が、布を押して、その形を扇のかたちに透かしている。それを、どうしても目が追ってしまう。祐一郎は撮影の合間に、自分の手が機材としての冷たさを失っていることに、うっすらと気づいていた。

「……奈々さん。おまえ、少し眩暈がするんじゃないか。空調を強くしたから、肌が出すぎてる」

「ちら、って見られたら、そのほうが熱いんだもん。撮られてるあいだ、あたし、中のほう、ずっととろとろしてるの。これ、撮影中に感じてる女の子の証拠」

彼女は自分の布の端に、ちいさな湿りが染みているのを、ためらいなく指さした。薄い生地の真ん中に、液体というより、蜜を溶かしたような曇りがにじんでいる。空気が、甘い果実の潰れた匂いに近くなっていく。祐一郎はシャッターを切るのをやめ、深く一息ついた。だが、奈々はかまわず腰を落とし、狭い布の上から、割れ目にそって指を一本、ゆっくりと押し当てた。くちゅ、と布越しの湿った音が、スタジオの沈黙を塗り替える。

撮影会が終わり、機材を片づけていると、麻衣子がそっと近づいてきた。白いブラウスの襟が、汗で首に張りつき、手には半分だけ閉じたノート。ネックストラップにぶら下げたカメラが、胸の前で左右に揺れている。声をかけられるまで、祐一郎は彼女の気配に気づかなかった。

「先生、お疲れさまです。今日は……あの、奈々ちゃんの撮影、大変でしたね」

「大変というか、モデルとしては文句ないよ。少し肌の露出が多かったが、あの子の世界観を撮るなら、あのくらいの合意があって不思議ではない」

「そう、ですね……えー、あのね。あたしも頑張らないとって。新サークル、動き始めたばかりだし。それで、今日はこのあと……あの、家までついていきます。先生の、お宅に」

麻衣子は俯いたまま、祐一郎のコートの袖を、小さな手で、控えめに握った。十二月初旬の空気が、彼女の白い頬をほんのり赤く染めている。息が、薄く白い。白い襟の奥に、微かな熱が宿っていて、それが夜の入り口でゆらゆらと光っているように見えた。

旧サークルは、あっという間に縮小した。岸田が破門を宣言してから一か月も経たないうちに、若い会員が退会し、撮影会の参加者も、老人ばかりの座談会のようになってしまったらしい。話を聞いた時は、哀しさより、やりきれなさが先に立った。岸田なりの情熱は、祐一郎を追い出すほど真剣だった。それなのに、その情熱の形が、人を繫ぐことから外れていた。年下の彼が、何かを見誤っているのは、遠くから見ていると、痛いほどはっきり分かった。

新サークルは三回目の撮影会を終え、次の冬のイベントに向けて動き始めていた。祐一郎は毎週のように、構成やら補足資料を送り、ライティングの実作を見てやった。時に、麻衣子の手料理を、彼女の家の近くで分けてもらったこともある。奈々からは、夜遅くに機材の質問という名の、息の弾んだ電話がかかってきて、そのたびに「今度は何を撮るつもりなんだ」と困らされた。

ある夜、麻衣子が教えてくれた。

「岸田さん、新しいサークルに入会希望を送ってきたんです。それで……あたしと奈々ちゃんで話したんですけど」

「ああ、そうか。もう既に結論が出てるのか」

「はい。なしですね、って」

麻衣子は、静かな声で言った。迷いを残さない口調だった。奈々は別の日、もっと端的に、人懐っこい笑顔で言った。

「あのオジサン、うちのサークルに入りたいんだって? ないない。あたし、キモいのやだ。先生、ちゃんと断ってよぉ」

そうして岸田の入会は、二人の判断で即座に出禁となった。祐一郎は一応、麻衣子に「理由は外に出すな。角を立てず、静かに受け取っておけばいい」とだけ伝えた。彼女は、処置が遅れたことを申し訳なさそうに、細い眉を下げた。

祐一郎はとっくに、後戻りのできない場所へ来ていた。動かなくなった旧サークルの看板を背に、新しく狭いながらもあたたかい、日なたの場所を歩き始めている。朝の白湯が、最近はうまい。それは、若い連中の笑い声を思い出しながら飲むからだろう。古いレンズキャップは、作業机の引き出しに、まだ磨かれたまま眠らせてある。

年が明け、季節が陽射しの芯を少しずつ柔らかく変えていく。夏の大きなイベントを控えたある日、祐一郎は麻衣子に、昔使っていた古いレンズキャップを渡した。彼女はしばらくそれを両手で握りしめてから、笑って自分のカメラに嵌めた。首のネックストラップには、むき出しのレンズを守る実用品としてではなく、小さな光るペンダントのようにそれを揺らしていた。夏のイベント当日、幕張の会場で再び岸田の背中を見かけるが、祐一郎はただ露出の忠告を穏やかに告げただけで、あとに残るものは何もなかった。岸田は何も言わず、疲れたようにうなずいて、人波のなかへ消えていく。麻衣子が誇らしそうに祐一郎の腕を抱き、奈々が反対側から手を引いた。真夏のシャッター音が、幾千もの拍手のように背中を押してくる。

その翌朝、忘れ物を取りに会場へ戻った二人は、白い床と木の台座のあいだに、小さな黒い円盤を見つけた。朝日を受けて、まるで昨日の時間が凝固したみたいに、ひっそりと光っている。

「あ、ほんとだ……よかった。これ、先生がくれたキャップ、たぶん今日の朝に、ストラップから外れちゃったんです。あたし、気づかなくて」

麻衣子は、祐一郎の手から古いレンズキャップを受け取ると、指で表面の埃を拭って、もう一度、それを自分のカメラに嵌めた。小さな爪の音が、朝の静けさのなかで、控えめに鳴る。

「先生、ありがとう。あたし、これ、ずっと大切にします。なくしたら、また拾ってくださいね」

「……拾うのは、できれば勘弁してほしいが、まあ、それで縁が続くなら、悪くない」

夏の朝の光が、彼女の白い襟を透かして、小さなレンズキャップの縁に、新しい銀色の輪郭をつけていた。ファインダー越しの視線が、いま一番新しい被写体を、静かに待っている。

第6章 教え子の濡れた告白

第6章のシーン

第6章: 教え子の濡れた告白

「先生、あの、ちょっとだけ……ついてきてもらってもいいですか」

俺は彼女の背中を追うように、アスファルトの縁を歩いていた。十二月半ばの夕暮れは、空気の芯を刺すほど冷たい。吐く息が白く溶けて、街の輪郭をわずかに暈す。麻衣子さんは、胸の前に小さなカメラバッグを抱えたまま、背筋をぴんと伸ばした。肩までの黒髪が、風のたびにふわりと跳ねて、細い首を隠したり晒したりする。白いダッフルコートの下に、例のフリルのブラウスがのぞき、襟元のリボンが、彼女の脈に合わせるように震えているように見えた。

川沿いの土手へ出ると、街の音が急に遠くなった。鈍色の水面が、西の空の薄い明かりを細かに砕きながら流れている。遠くの橋を、等間隔で車が渡ってゆく。その音と、俺たちの革靴とブーツが枯れ草を踏む音だけが、妙に輪郭を持って鼓膜に残った。麻衣子さんは、ゆっくりとした足取りで、スロープの途中に立つ。草木の湿った匂いと、川の持つ鉄っぽい匂いが、冷たい風に混ざって肺の奥まで届く。

「今日、新サークルの第一回、無事に終わりましたね」

彼女は暮れかけた空を見上げた。長い睫毛の先が、白い息に濡れている。黒目が、水面の光を写して、じっと俺の輪郭を探るように動いた。何かを言いたげな、けれど笑い方だけはいつも通り、えくぼがかすかに刻まれる。俺は、彼女の斜め後ろに立っていた。息を吸うと、夕風に乗って、彼女の髪からシャンプーの香りが、かすかに鼻腔をくすぐる。甘すぎず、肌の熱に溶けたような、馴染みのある匂いだった。

「ああ。だが、始まりとしては上々だ。問題は続けられるかどうか……いや、続けることのほうが、始めるよりずっと難しい」

「あたし、続けたいんです。続けるっていうか、うまくなりたいし、何より……」

麻衣子さんは振り向いた。黒い瞳が、薄暗がりのなかで濡れたように光っている。その眼差しが、まっすぐこちらへ来る。彼女の胸元のリボンが、風で持ち上がり、白い喉のふくらみに貼りついた。俺は、その視線を、ファインダー越しではなく、生の網膜で受け止めている。シャッターを切るべきか、切らざるべきか。指先が、無意識にカメラのストラップを探って、冷えた革の感触を握りしめた。

「先生は……あたしにとって、もう先生じゃなくて、ステディな男性に見えてるんです」

彼女の声は、やけに小さく、しかし真っ直ぐに、冷たい空気へ溶けていった。俺は言葉を探す。六十を過ぎた男の口から出かかったのは、言い訳じみた年齢の話。けれど、彼女の目は、そんなものを必要とはしていなかった。麻衣子さんは、俺の胸に手のひらを当てる。ダッフルコートの厚い布越しに、彼女の指の冷たさと、かすかな震えが伝わってくる。吐息が、白く浮かんで、二人のあいだで溶けた。

「先生の心臓、すごい。ゆっくりだけど、すごく力強い。あたし、こうやってると、いろいろ忘れられるんです」

「麻衣子さん……」

「あのね、あたし、わかってるんです。先生にあたしみたいな若い子と、そういう先のことまで望むのが、迷惑だって。でも……」

彼女は、涙まじりの声で言った。その涙が、こぼれる前に、きらりと光って、睫毛の先に溜まる。俺の胸の手が、ゆっくりと、下へ動く。彼女の指が、俺の左手首を探り当て、その硬い手首を、細い指ごと包んだ。

「先生の手、硬くて、あたたかい」

彼女は、俺の手のひらを、自分の太ももへ導いた。冷たい風のなか、彼女の体温だけが、手のひらに点って、皮膚をじりじりと焼くように届く。ダッフルコートの裾の下、ストッキング越しの太ももは、しっとりと張りがあって、押さえた指の形をそのまま返してくる。麻衣子さんの顔が、夕闇のなかで、泣き笑いのような、あどけない表情に緩んだ。

「先生、あたし、今日、どうしても言わなきゃいけないこと。聞いてくれますか」

麻衣子さんは、首から下げていた小さなカメラを、片手で胸の横へ流した。空いたその手が、俺のジャケットの前を開き、内側へ差し入れられる。冷たい指先が、シャツ越しに腹の熱を確かめて、ベルトの金具に触れるのを、俺は呆然と見つめていた。金属の硬質な音が、静かな土手に、しゃら、と小さく走る。

「先生の、撮ってください。あたしの、泣いてるとこ」

「麻衣子さん、カメラは、目で撮るものだ。レンズを向けると、君の涙が、余計に……」

俺は言いかけて、彼女のシャンプーの匂いが、一際つよく鼻の奥へ届くのに気づいた。昼間の撮影会の、あの弾ける笑い声の主と、いま俺の腕のなかで震えている生き物が、同じ人間だとは思えないほど、夜の空気は彼女を別のものに変えている。麻衣子さんは、俺の肩へ額を押しつけて、何度もゆっくりと瞬きをする。そのたび、涙がまつげを濡らして、黒目を濃く光らせた。

「先生の、カメラ。あたし、先生に見られるのが、どうしてだか一番、素直になれる。だから、ファインダー越しでも、あたしの今の顔、ちゃんと見てて」

彼女は、俺のカメラバッグのほうへ目をやる。その瞬間、腰を下ろした拍子に、バッグのサイドポケットが緩んで、中から小さな物が転がり落ちた。枯れ草のあいだに、古いレンズキャップ。黒い樹脂に、使い込まれた擦り傷と、銀の縁がかすかに光っている。麻衣子さんが、それをそっと拾い上げた。

「これ……奥さんの?」

彼女は、キャップの裏側の、埃を払うように指でなぞった。節のある俺の指とは違う、まっすぐで細い指が、円のかたちをたどる。

「大切にしてきたんですね。すごく、しっくりきます。先生の手に、ずっと触られてたんだろうなって」

俺は、うなずくことしかできなかった。言葉にすれば、古い傷が開く気がした。けれど、その気まずさを、麻衣子さんは決して暴かなかった。彼女は、キャップをしばらく揉むように握って、それから、俺の手のひらへ返した。

「なくしたら、また拾ってくださいね」

その言葉が、胸の奥の、乾いた蔦に沁みていく。俺は、キャップを内ポケットへしまい込み、代わりにカメラを取り出した。電源を入れる。冷えたズームリングが、指先に抵抗を返す。ファインダーを覗くと、暗い川面の上に、麻衣子の白い顔が浮かんでいる。彼女の涙の跡が、夕闇の残り光で、細い銀の線となって頬に走っていた。ファインダー越しの視線が、補助線のように、涙の道筋と、コートの襟から覗く鎖骨の線をなぞる。

「……今の顔、あとで現像しなくていいように、一生懸命撮るから、笑わなくてもいい。そのままでいろ」

「うん。先生にだけは、笑わないでいても、隠さないでいられる気がするの」

シャッターが、硬い音を一つ、土手の静けさに砕いた。麻衣子さんは目を閉じない。彼女は涙の残った顔を、まっすぐレンズへ向け、小さく、まるで秘密を囁くように、えくぼを浮かべた。

「先生の、あの、さっきの……続き。あたし、先生に触ってて、自分の心臓も早くなったの。ねえ、今度はあたしの番。先生の、触っていい?」

彼女の手が、俺の腕をたどり、胸の前へ戻る。黒いコートの前を開かれたジャケットの内側を、細く冷たい指が探る。その手つきは、ぎこちなく、まるで初めて機材を触る初心者のようでいて、指先だけは驚くほど正確に、熱の篭った場所を目指していた。ベルトの金具を、外そうとして、でも上手くいかない。指が震えて、爪が金具をかすかに叩く。俺は、彼女の手首を、軽く上から重ねた。

「急がなくていい。寒いのが先だろう、それだけ外したら、身体が芯から冷えてしまう」

「平気です。あたし、いま、熱いの。身体の中のほうが、すごく……」

彼女は俺を見上げる。その瞳の奥に、昼間の新サークルの面々が「先生」と呼ぶ声とは違う、個人的な熱が、ちろちろと灯っている。俺は、麻衣子さんのコートの襟を、胸の前で合わせてやり、金属の小さな音をさせて、ベルトの留め金を元の位置へ戻した。すると彼女は、名残惜しそうに、俺の指を握ったまま、その関節へ唇を、そっと触れさせた。ほんの一瞬、湿った熱。跡が、冷たい風に当たって、ひりひりと残る。

「今日は、送ります。続きは、玄関の前で考える。君を冷たい土手に座らせて、何かをするような真似は、この歳になると、どうも無粋でな」

「先生、あたし、お酒みたいに、大人の言い訳に流されるの、苦手なんです」

「はは。そうだな。だが、君のその黒い目が、とびきり綺麗なのは、この薄暗がりでは、ファインダーでしか拾いきれない。土手でなくても、光が足りないんだ」

俺がそう言うと、麻衣子さんは、泣き笑いの顔のまま、俺の二の腕にしがみついた。小さな体から、石鹸とシャンプーと、女の皮膚のあたたかい匂いが立ちのぼる。川の向こうの街灯が、ひとつ、またひとつと灯りはじめ、俺たちの足下を、細い二つの影に分けてゆく。

帰り道、繁華街のざわめきが戻ってくるにつれて、彼女の体の線を、昼の明るさへ返してやらねば、と思う。手は、いつの間にか、彼女の肩を抱いていた。麻衣子さんは、何度か、俺の顔を盗み見ては、えくぼを浮かべる。その唇が、柔らかく動いて、何かを言いかける。けれど声にはならず、白い吐息だけが、確実に、夜へ近づく二人の輪郭を結んでいた。

亮太寺の鐘どころか、もっと速い、内側の律動。俺の左胸に、古いレンズキャップを拾い上げた、彼女の細い指の感触が、何度も蘇る。心臓の音を、数えるように、彼女の家までの道のりを歩いた。街灯の下で、肩を寄せる二人の影が、アスファルトの上で、ひとつに溶けては離れる。離れるたびに、また、近づく。

アパートの玄関先は、冷えた鉄の手すりが月のように白く光っている。麻衣子さんは、鍵を取り出して、ドアの前に立った。振り返った顔が、薄明かりに、涙の跡ごと照らし出される。彼女の黒い瞳の奥で、熱が、まだ静かに燃えているのを、俺は、見ないふりをできないまま見ていた。

麻衣子さんが、つま先立ちになった。小さなブーツの底が、コンクリートを離れる。右手が俺のコートの袖をつかんでいる。彼女の顔が、ゆっくりと近づいて、吐息の白い温度が、先に唇へ届く。俺は、彼女の背中へ、腕をまわした。ダッフルコートの厚みごと、華奢な肩甲骨を抱く。彼女の唇は、冷えて、少しだけ震えていた。そのまま、ふたつの輪郭が重なる。軽い、磁器のような接触。キスをする時、俺の左手が、彼女の後頭部に触れた。黒髪が指に絡み、シャンプーの匂いが、最後にもう一度、冷えた夜の空気へゆっくりとほどけた。

「いい子だ。今日は、よく頑張ったな」

麻衣子さんは、俺の胸に顔を埋めたきり、しばらく動かなかった。それから、小さなくぐもった声で、こう言った。

「先生、あたし、今日の河川敷、忘れません。次の撮影会のあとも……また、二人で会ってください」

「ああ。計画を立てような。冬の光の具合は、意外と悪くない。寒さに負けない、といいんだが」

「寒くても、あたし、先生がいれば、大丈夫ですから」

彼女は、えくぼを深くして笑い、ドアを開けた。部屋のあたたかい匂いが、わずかに外へ漏れて、甘い蜜のようだった。俺は、ドアが完全に閉まるのを、息を、数えながら待った。心臓の音は、もう、亮太寺の鐘なんかよりずっと速い。土手の上で撮った、彼女の涙の跡と、玄関先の柔い口づけだけが、この夜を、現像液の中でじわじわと、浮かび上がらせていた。

第7章 夜の現像液と二人の体温

第7章のシーン

第7章: 夜の現像液と二人の体温

インターホンが鳴ったのは、俺が暗室の換気扇を止めて、現像液の温度を計り直していたところだった。十二月下旬の夜は、窓ガラスを冷たい膜で覆い、部屋のなかの赤い灯りを外へ漏らすまいとしている。あの河川敷の口づけから十日が過ぎていた。麻衣子さんとは毎日のように短いメッセージを交わし、奈々さんからは機材の質問と、いつもの甘えた声が夜更けに届く。俺は二人の若い女の気配を、それぞれの距離感のまま受け止めていた。だが、今夜は違う。インターホンの小さな目を通して見えたのは、揃ってこちらを見上げる二つの影だった。

玄関を開けると、冷えた外気と一緒に、ふわりと甘い匂いが流れ込んできた。麻衣子さんは、首に小さなマフラーを巻き、白いダウンジャケットの襟に鼻先を埋めている。前髪が風で乱れて、黒い瞳が赤い照明のなかで、驚くほどはっきりと光った。奈々さんは、厚底ブーツで数センチ余分に背を伸ばし、黒いボアのついたコートの前を開けて、わざとらしく白い鎖骨を覗かせている。ツインテールの毛先が、風に溶けたシトラスの匂いを帯びていた。

「先生、現像の手伝いに来ました」

麻衣子さんが、弾んだ声で言った。その口元から白い息が溢れて、夜の空気にほどける。

「あたしは、お手伝いっていうか、今日の写真がどうしても見たくって、ついてきちゃったんだぁ」

奈々さんは、そう言いながら靴を脱ぐと、ウサギの刺繍が入ったスリッパに足を通した。俺は、二人の訪問を、うまく整理できないまま、仕事部屋のドアを開けてやった。もともと狭い部屋に、女の体温が二人分増える。それだけで、空気の粘度が変わるようだった。

仕事部屋は、壁一面にプリント写真が無造作に並び、所々に古い機材が詰め込まれている。部屋の奥には簡易の暗室を作っていて、真ん中の作業台に赤いセーフライトがひとつ、くすんだ光を落としていた。現像液の満ちたバットが四つ、まだ微かな薬品の苦い匂いを放っている。その匂いと、二人が持ち込んだシャンプーの香りが、静かに混ざり合う。妻の写真が、まだ薄暗がりの棚の上から、この部屋全体を見下ろしているようでもあった。

「相変わらず、先生の部屋は変な匂いがしますね」

奈々さんは、鼻をひくつかせて、赤い灯りの下へ入ってきた。黒いコートを脱ぐと、中から、薄いニットが現れる。身体の線をあからさまに拾う、真っ赤なタートルネック。小柄な身体の尻から胸へかけての隆起が、赤い照明に溶けるほど艶めいていた。

「現像液の匂いだよ。今度から換気をマメにする」

「や、あたし、この匂い、きらいじゃないです。先生の肌に染みてる感じがして」

隣で、麻衣子さんがマフラーを外した。白いニットの下から、細い首と、フリルで縁取られた形のいい胸元が、ほんのりと押し出されて見える。彼女は、俺が物干しざおから下ろしたダウンジャケットの置き場に迷い、しばらく立ったまま、部屋の隅へ目を泳がせた。

「先生、あの、今日はあたし、現像の手順を覚えたいんです。去年の冬は教えてくださいって言い出せなくて……それに、年末の、暗室って、なんだか特別な感じがして」

「麻衣子ちゃん、あたしもそう思ってた。ねぇ先生、今日はいっぱい遅くまでいていい? 明日休みだし」

奈々さんが、作業台の縁に腰を預けて、首を傾げる。厚底靴の先が、タイルの床をとん、と叩いた。俺は答える代わりに、現像タンクの蓋を開け、リールに巻かれたフィルムの端を確かめる。指先だけが、妙に落ち着いていた。二人に見られながら、機械的な手順を踏むことで、胸の奥の騒つきを覆い隠しているのだと、自分でもわかっていた。

「あの、先生、これ、引き伸ばし機ですよね。光が赤いのって、フィルムが感光しないようにするためですか」

「ああ。印画紙が感光しないだけの波長の光だ。暗いけど、目が慣れれば、充分に手元は見える。今日は、35ミリの白黒一本を現像して、ベタで見るところまでやってみるか」

「見たいです」

麻衣子さんの声に、熱が宿っている。俺は、現像タンクへ現像液を注ぐと、液温を指で確かめてから、ゆっくりと撹拌を始めた。部屋のなかに、フィルムの乳剤が薬品に溶ける、かすかな匂いが立ちのぼる。赤い灯りが、三人の影を壁に長く伸ばしていて、時折その影が、狭い部屋のなかで互いに重なる。奈々さんが、俺のすぐ後ろに立って、撹拌の動きを覗き込んでいた。

「先生、現像液って肌に塗っても大丈夫かなあ」

彼女は突然、そんなことを言って、俺の露わになった腕に、つるりと舌を這わせた。赤い照明の下で、唾液の銀色が、濡れた傷のように光る。腕の内側を、ぬるん、と舐められる。俺の肩が、わずかに跳ねた。

「なにを」

「ちょっと、舐めてみただけ。ね、薬品の味がするよ」

「奈々ちゃん、ずるい」

振り返った麻衣子さんが、おでこのあたりまで赤くして、俺を見上げた。黒い瞳が、泣きそうなほど潤んでいる。彼女は、細い指で、俺の手首をつかんだ。現像タンクを置かせたのは、ほとんど無意識の動きだった。

麻衣子さんが、ゆっくりと、俺の唇へ自分の唇を押し付けてきた。現場で何度も撮った、冬の空気のようなキス。けれど、今度は違った。彼女の唇は熱く、わずかに開いて、合わせ目から小さく息が漏れる。私は、と、言いかけた声を飲み込み、彼女の細い腰へ、そっと手を回していた。

「あーあ、取られちゃった」

奈々さんが、甘く拗ねる声を出して、俺の背中へ正面から抱きついてくる。二つの体温に挟まれて、背中から腹へ、じんわりと汗が滲んだ。赤いセーフライトだけが、三人の吐息の白い境界を、ゆらゆらと揺らめかせている。シャッターの音は、しない。しない代わりに、心臓の音が、暗室の静けさを細かく震わせる。現像タンクの液体が、置き台の上で、ゆるりと傾いた。

「先生、あたし、ソファに座ります。……奈々ちゃんも、一緒に」

麻衣子さんが、俺の腕を引いた。薄暗い部屋の隅にある、撮影用の黒い革のソファ。三脚とレフ板を避けて、三人はそこへ雪崩れ込むように座り込んだ。左には、麻衣子さんの白いニット。右には、奈々さんの赤いタートルネック。二人の女の熱が、太ももの外側から、個別の温度で押し寄せてくる。俺の腕の上に、麻衣子さんの掌が乗り、奈々さんの指先が、太ももの内側を、かるく掻くように動いた。

「先生。あの、してほしいこと、自分で言うと、あたし、すごく恥ずかしいです」

「うちらが撮られたい気持ちは、いつもと同じだよぉ。先生、わかってるくせに、知らん顔ばっかりするんだから」

奈々さんが、俺の耳元へ、尖った吐息を吹き込む。耳殻の内側を、彼女の舌が一瞬だけくすぐって、それから、耳たぶを甘く食んだ。じゅぷ、と水音にも満たない音が、耳の裏側から直接、頭蓋の奥へ沁みた。同時に、麻衣子さんが、俺の左手を、自分の胸の上へ導く。白いニット越しに、彼女の乳房の弾力が、掌の形を返してくる。私は、残った右手で、奈々さんの太ももを、やわく揉んだ。ストッキングの網目が、指先にざらつくほど細い。

「あ、んん……先生の手、すごく、あったかい」

麻衣子さんが、首をそらせて、鼻歌のように呟いた。本当に、小さな歌を口ずさむような、掠れた甘い声。俺の手の下で、彼女の乳首が、布越しに硬く尖ってくる。指先で、その粒を、厚みごと転がす。く、と声が途切れて、彼女の両脚が、もじもじと擦り合わされた。隣から、奈々さんの小さな掌が、俺のベルトを探り当てて、金具を引き出す。しゃらしゃらと、硬質な音が、三人の沈黙を転がった。

「先生の、ここ、もう、すごく熱い」

彼女の指が、ズボンの上から、怒張の形をなぞる。ゆっくりと、先端から根元に向かって、押し潰すように擦る。俺は壁に手をつきたくなった。腰の奥から、背骨を駆け上がるような甘い痺れ。ソファの背もたれに体重を預け、首を仰け反らせると、天井に映る赤い灯りの残光が、水面のように揺れていた。妻の写真の気配が、棚の上から、俺を見おろしている。今、この瞬間も。

「先生、あたし、下から触るね」

麻衣子さんがソファからずり落ちるように膝をつき、俺の脚のあいだへ体を滑り込ませてきた。白いニットの袖から、細い指が伸びて、ジーンズの釦を外す。彼女の髪が、吐息のたびに揺れて、シャンプーの香りが、現像液の匂いに重なった。麻衣子さんの白い喉が、赤い照明を浴びて、白磁器の欠片のように光っている。彼女は、下着の上から、熱で持ち上がった場所を、頬を寄せるようにして確かめた。湿った息が、布を透かして、皮膚に届く。

「先生、濡れてる……」

「寒い部屋で、二人に触られて、乾いていられる男がいると思うか」

俺の声は、低く掠れていた。それを聞いた麻衣子さんが、下着のウエストへ指を掛け、ずり下ろしていく。剥き出しの怒張が、暗室の空気に触れて、ひくりと震えた。根元から先端にかけて、浮き出た血管が、赤い灯りを筋として取り込んでいる。麻衣子さんは、しばらくそれを、まじまじと見つめていた。それから、大きく開いた口に、先端を、ぬるりと含ませた。

「んっ……んむ……」

温かい唾液が、鈴口を覆って、すぐに下へ流れていく。彼女の唇が、雁首の裏側を、ちゅう、と吸い上げた。その音を皮切りに、奈々さんが、ソファの上で、俺の耳と首筋を、ねちっこく舐め始めた。首の後ろから、小さな歯が、肉を軽く噛む。吐息と唾液の音が、左右で重なり合って、体液の匂いごと、鼻腔の奥を犯す。現像液の入ったトレイが、作業台の上で、またひとつ、静かに揺れた。

その揺れを見た奈々さんが、口を離して、くすりと笑った。

「ねぇ、先生。あたし、前から思ってたんだけど、うしろのほうも、してみたい。大人の人は、みんな、そういうの平気でしょ?」

「……どうして、そんなことを、ここで言うんだ」

「だって、先生と麻衣子ちゃんと、三人で、もっとぐちゃぐちゃになりたいもん」

彼女は、赤いタートルネックの襟をたくし上げて、小さな胸の下のあばらを、自分で撫でた。現像液の匂いと、白い肌の匂い。奈々さんは、迷うことなく、俺のベルトとジーンズを、さらに膝まで下ろさせると、麻衣子さんの隣へ滑り降りて、怒張の根元に、鼻先を埋めた。温かい息が、恥毛をくすぐる。

「あたしが下から舐めてるあいだ、麻衣子ちゃん、先生の脚のあいだ、いっぱいに開いてて。先生、麻衣子ちゃんの白いニット、汚してもいいですか?」

奈々さんの問いに、麻衣子さんが、口を一杯にしながら、こくりと頷いた。彼女の黒い目が、泣き出しそうな熱を宿して、俺を見上げる。上目遣いの、潤んだ視線。ファインダー越しの視線では、決して済まない、生々しい熱が、網膜を舐める。俺は、自分の指で、麻衣子さんの前髪を掻き上げてやった。額に浮かんだ汗が、赤い照明を帯びて、小さな宝石のように光った。

「……麻衣子さん。無理はしなくていい。君のペースで、いいから」

「先生、あたし、無理なんかじゃないです。今日、やっと言えたことだから。……あたし、先生に触れられてると、変に、お腹の奥がきゅうってするんです」

彼女は、泣き笑いの顔で言うと、改めて怒張の先端を、唾液で濡らした。赤い唇が、ぬらぬらと光っている。音を立てないように、唇だけを窄めて、先端の窪みを浅く吸う。奈々さんが、根元から竿を握り、縦にしごきながら、その裏筋へ、舌の先を這わせてきた。れろ、れろ、と二つの舌が、ひとつの肉茎の上で、熱を分け合う。俺の腰は、自然に浮き上がり、ソファの革が、ぎしりと軋んだ。

「……先生、お願いです。あたしも、下、触ってください」

麻衣子さんが言い、彼女の手が、スカートのウエストのホックを外している。こちらを見上げる顔には、汗で髪が貼りつき、息はもう、ふはあぁッ、と浅い。俺は、彼女のその手に自分の手を重ね、下着の上から、薄い布を裂くほど湿らせた場所を、ゆっくりと指で圧した。彼女の背中が、びくぅ、と仰け反る。指の先に、熱い液が布越しに滲み、現像液とも汗とも違う、女の匂いが、三人の息を埋めた。

夜の暗室で、赤い光だけが、三人の輪郭をたしかめるように、下着と皮膚と汗の境界をなぞっている。俺のペニスは、麻衣子と奈々の二枚の唇に挟まれ、同じ速さで、ねばつく舌にしごかれていた。じゅぷ、ちゅちゅ、びちぴち、と、水音が部屋の静寂を食い破り、ソファの下で、濡れた指と布の摩擦の音が、まるで現像液が撹拌される時のように粘りを帯びていく。私は片手で麻衣子さんの下着の布を横へずらすと、ぬるついた二本の指を、膣口の浅い場所へ、ゆっくり沈めた。

「あっ、ああ、先生の指、ゆび、入ってます……」

彼女の声が泣き声になり、内壁が指を咥えて、最初はきゅうきゅうと窄まり、次に、にゅるにゅると蠢く。俺の指が動くたび、彼女の中の熱い襞が、ちりちりと形を変えて絡みつく。

「麻衣子ちゃん、下、すごい音なってるよ。あたしの股も、もう、重たくて……先生ぇ、いい? あたし、自分で脱いで、上に乗りたい」

奈々さんはそう言いながら、早くも赤いタートルネックを胸の上までたくし上げて、片方の乳房を、こぼれさせた。黒いハーフカップの下着は、細い肩紐が肩から落ち、先端はすでに、布の中で硬く膨らんでいる。俺は空いた手を奈々さんの尻へ伸ばして、ストッキングごと、ふにゃりと柔い肉を掴んだ。彼女が、あとずさるようにして、俺の腰の上へ膝を上げる。下着のクロッチが、太ももの付け根でよれていた。

「先生、あたし、自分で入れちゃうから、まだ、麻衣子ちゃんのこと、舐めてて」

彼女は、片手で、俺の粘液に濡れたペニスを根元から抱えるように持ち上げ、その先端に、ぬめる入口を擦り当てた。まるで聖餐のように、彼女の陰唇が、赤い灯りのなかで、ぐちゅ、と小さく鳴きながら、亀頭を啄む。麻衣子さんは、その光景を間近で見ながら、俺の指の出し入れに、はあ、はあ、と息を乱していた。腰を浮かせた奈々さんが、自分の体重を、ゆっくり、怒張の先へ沈めていく。

「あっ……は、あ、あ、せんせぇ……」

奈々さんの細い身体が、赤い光を背負って、咽喉を晒した。彼女の中は、ぬるく、そして急に狭い。膣口の締めつけが、亀頭を呑み込み、やがて竿の半ばで、ぎゅるりと撫で上げる。奈々さんは、自分の太ももを両手で掴み、ゆっくりと腰を落としてきた。ずりゅ、ぬちゃ、と音がして、彼女の内側で、肉の襞が押し広げられ、俺の形を縁取っていく。

「う、ああ……せんせぇの、あつい……仰向けのると、奥、すぐ届いちゃうぅ」

奈々さんが、泣きそうな声で言った。俺は、麻衣子さんの中をえぐっていた指を、浅く抜いてやり、親指で陰核をくるくる捏ねる。彼女の白い喉が、そり返り、唇がうわごとのように開く。

「そう、だな……奈々さん、もう少し、腰をゆっくり。麻衣子さん、辛くないか、指、二本にするぞ」

「……っ、はい、先生。して、ください。あたし、おなかの、奥まで……」

三人の声と、喘息のような音が、密やかに混ざり合う。暗室にシャッター音はいらない。フィルムの乳剤よりも、この部屋の熱と湿りと、汗の匂いのほうが、よほど濃く現像されていく。天井の赤い灯りと、二つの若い心音と、六十を過ぎた男の、捨てる場所もなく満ちていく律動。麻衣子さんの鼻歌は、もう、ほとんど泣き声に近くて、奈々さんの突き上げる腰は、ゆっくりと、また苛烈に、俺の背骨の芯を鳴らしていた。

「あ、だめ、もう、背中、あつい……あたし、いきそう……せんせぇ、ひどい、突き上げるの、あとで……」

奈々さんが、腰を前後に揺らすたび、結合部から、粘液の泡立つ音がした。ドクッ、ドクッと、二人の奥が、脈を打つように蠕動する。麻衣子さんは、俺の指へ、小さな死のような震えを返しながら、奈々さんのよがる声へ、自分の舌を、いつのまにか、そっと伸ばしていた。奈々さんが、首を傾け、二人の唇が重なる。唾液の糸が、赤い灯りに銀色へ変わる。俺は腰を突き上げる。馬鹿になっている。そう思いながら、腰は止まらなかった。妻の写真が、暗がりに沈み、俺の目の奥で、過去の光と思い出と、今のめくるめく熱とが、どろりと溶け合う。

「ああ……先生、あたし、また、しぬ……! せんせぇ、なかで、いちばん、あつい……」

奈々さんが、細い背を反らせて、びくん、びくん、と全身を跳ねさせた。中が、きゅうきゅうと何度も窄まって、竿全体を絞り上げる。同時に麻衣子さんが、俺の親指の腹を受け入れながら、だらりと口を開けて、弱い声で、いくつもの小さな音をこぼした。

「あう、感じる。もっと、いっぱい……」

その、甘い声の断片が、私の腹の奥で、火花を散らした。奈々さんの最奥で、男の欲望が、耐え切れず、服をはだけた臓器の熱として、どろどろと溢れようとしている。現像液の満ちたトレイが、ついに作業台の端から、こぼれる。液体が、タイルの床へ、緩慢な音をたてて広がった。暗室の空気が、薬品と、愛液と、汗と、二人の肌の甘い匂いで、呼吸そのものを濡らしていく。

「奈々さん、俺の中へ……く、ああ、きつい……」

「いい、せんせぇ、中でイッて……! あたしも、まだ、いけるのに、せんせぇが先に……あっ、出して、いっぱい……」

彼女の声が、命令でも懇願でもなく、欲望そのもののように震えた。俺は、彼女の尻を、両手で割り開くようにして、最後の深い場所を探る。麻衣子さんが、横から頬を寄せて、俺の胸へ、小さく噛みついた。二つの心音と、一人の古い呼吸が、暗闇のなかで、びちぴち、という、結合する肉の音に絡んで、一つの不規則な拍動を作っていった。低い獣じみた声と、柔らかな悲鳴が、夜明けまで続く、長い現像の始まりのように、暗室の壁へ、何度も、何度も、塗り込められていった。

夜が、いつのまにか深くなっている。部屋の灯りは、赤だけ。年末の街の音も、換気扇が吐く低い唸りも、遠い。後片付けの濡れた布と、ずれたソファ、二つの若い四肢、溢れたトレイの痕。麻衣子と奈々は、裸の肩を寄せて、額をくっつけ、くすくすと笑いを分け合った。

「来年もよろしく、ですね。先生、来年はあたしも、もっと早く現像できるようになりますから」

彼女たちの声は、まるで、壊れた風呂の蛇口から落ちる、熱い粒のように、俺の頬を伝った。悲しみではない、と、思う。ただ、溢れるもの。六十代のんだくれの身体の、どこかに詰まった古い水が、あたたかい二人の前で、ゆっくりと栓を抜かれただけだ。

第8章 幕張でシャッターを切る

第8章のシーン

夕方の海辺は、昼間の熱をまだ砂のなかに閉じ込めていて、歩くたびに、湿った空気が踝のあたりへ、ねっとりと絡みついてきた。幕張の喧騒は、波の音が近づくにつれてうしろへ遠ざかり、打ち上げだと決めた小さな食事処の灯りが、青褪めた空の縁に、ぽつぽつと滲みはじめる。機材を肩に掛けた若い参加者たちは、思い思いの疲れを笑い声へ溶かしながら、店の暖簾をくぐっていった。

俺は、入り口の前で一度立ち止まり、首に下げたカメラを、そっと掌で包むようにして支えた。真夏の陽に焼かれた外装は、まだ、しっとりと熱を帯びていて、その重さが手のひらの肉へ、とくり、と馴染んでくる。麻衣子さんが、三歩ほど先で振り返り、白いブラウスの袖を、海風にふくらませながら、俺の顔をじっと見つめていた。古いレンズキャップが、店内から漏れる橙色の光を受けて、鎖骨のうえで、きらり、と瞬く。

「先生、入りましょう。みんな待ってますよ」

「ああ、今行く」

俺は、彼女の声を、まるで目の前を通りすぎる風のように感じながら、また一歩、踏みだした。店内は、潮の匂いと、焼けた醤油の香ばしさと、若い肌の汗ばみが、天井の低い空間に、もわ、と層をなしている。座敷の一角に、サークルの連中が、幾つものグループに分かれて、今日撮った写真をスマートフォン越しにせせら笑い、褒め合っていた。

俺は、その輪の、ほんの少し外れに腰を下ろす。長年の癖で、壁際の、出入り口が見える位置を、身体が自然に選んでしまう。麻衣子さんは、俺と若い連中のあいだに、するりと座り、奈々さんは、反対側から、ためらいもなく、俺の膝に、自分の膝を、とん、と押し当ててきた。

「ねえ、先生、今日いちばん、何枚くらい撮ったの?」

奈々さんが、黒い衣装の胸もとを、テーブルへ近づけるように身を乗り出す。汗の乾いた首筋に、白い塩の筋が、うっすら浮いて、呼吸のたびに、深く刻まれた鎖骨のくぼみが開いたり窄まったりする。

「さあな、数えたこともない。フィルムの頃から、何枚でも惜しむたちじゃないんだ」

「あたしの、あの背中向きのやつ、かっこよく撮れてる?」

「それは、焼き上がりを見てからのお楽しみだな」

「ぶぅ、先生、いつもそうやって、焦らす」

奈々さんは、拗ねた声でそう言いながら、俺の肘に、汗で湿った指先を、つい、と這わせてくる。悪戯というには少し熱い、確かめるような触れ方だった。麻衣子さんは、そんな二人のやりとりを、コップに注がれた麦茶の氷を、から、と鳴らしながら、穏やかな横顔で聞いている。白い喉が、ちいさく嚥下するたび、青い影が、ひくり、と動いた。

打ち上げの席は、ゆるやかに続いた。若者たちは、撮った写真の細部に一喜一憂し、機材の話になり、次のロケ地の話になり、時おり、潮騒のような笑い声が、座敷の隅まで溢れかえる。俺は、そんな声を聞きながら、それでも、ほんの少しだけ、自分の内側へ沈んでいくのを感じていた。老人の感傷というには、まだ胸の奥が、うすく、ひりついている。あの火葬場の青い煙。骨壺の重み。畳に涙が染みを作るのを、膝をついたまま見ていた朝。そういう記憶が、賑やかな酒の場の、ほんの一瞬の静けさに、するりと割り込んでくる。

「先生、空、見ていいですか」

不意に、麻衣子さんが、耳もとへ顔を寄せて、低い声で言った。息に、ほんのりと甘い酒の香りが混じっていて、俺の項に、彼女の前髪が、ちくり、と触れる。

「空、って、海のほうか?」

「はい。なんか、今、すごく、きれいで」

彼女は、そう言って、座敷の窓の外を、小さな顎で示した。俺は、麻衣子さんの促しに、かすかに頷き、席を立った。奈々さんは、若いカメラマン二人に、今日いちばん足が長く見えたのは、どの画角か、という話を、珍しく真剣な顔で聞いている。俺たちが抜けることに、気づきもしないようだった。

店の裏手にまわると、浜へ続く、錆びた手すりの階段があった。麻衣子さんは、白いスニーカーを、ぺたぺたと慎重に音を立てながら、先に降りていく。風が、海の匂いを、ぐっ、と濃くして、俺たちの身体を、ひとかたまりに包んだ。空は、西の果てで、もう、燃え残りというよりも、果物が腐る一歩手前のような、あやしい赤に焦げている。その下で、海が、薄黒く、ぶるり、と身震いしていた。

「先生、きれいです」

麻衣子さんが、波打ち際すれすれに立って、後ろ手を組んだ。白いブラウスが、海からの湿った突風に、ぱん、と張られ、細い背骨の浮き沈みまで、布を透かして見えるような気がした。俺は、黙って彼女の斜め後ろに立ち、同じ方角を、ただ、目だけで追った。

「ああ、ずっと、この南房総の空気に似てる。死んだ妻と、昔、犬吠埼あたりで、こんな空を見たことがある。ずいぶん昔の話だけどな」

「先生の奥さん……ですか」

彼女は、そっと、肩越しに、俺の顔を盗み見た。黒い瞳が、燃える空を映して、潤んでいる。

「あれは、まだ俺も若くて、仕事ばかり気にしていた。妻の方が、先に、空の色に気づいて、俺の袖を引いたんだ。今、お前がしたみたいにな」

俺は、声が、思ったより低く、掠れて出た。麻衣子さんは、何か言いたそうに、唇を薄く開き、それから、ゆっくり、白い指先で、風に乱れた黒髪を耳へ掛けた。砂が、二人のあいだを、走るように流れていく。

「あたし、あのキャップを見ると、ときどき、先生的確だなって思うんです。奥さんがいた時間も、こうやって、つながってるんだなって」

「古道具に、そんな御利益があるかな」

「あります。ないんだったら、あたし、とっくに、お店に置いてます」

麻衣子さんが、えくぼを深くして笑った。その笑い方が、浜に打ち寄せる波の、退き際の、白い泡の残像みたいに、一瞬、ふっと消えて、また現れる。俺は、胸の奥を、誰かの手に、ぎゅ、と掴まれた気がした。かつては、すべてが、死者の後追いでしかなかった。それが、今は、こうして、若い女の、たった一言に、背中を軽く叩かれて、前を向いている。

「先生、来月の由比ヶ浜、あたし、朝から行って、光の場所、全部メモしますね」

「やめとけ。海辺は、昼前と夜明け前で、光の落ち方がまるで違う。本番の夕方、自分の足で歩いて、いちばん肌が眠らない場所を見つけるんだ。そのほうが、いい写真になる」

「はい、そうします。先生の言う通り、自分の足で……、えっと、あの、でも」

麻衣子さんは、急に口ごもり、うつむいて、砂の上を、つま先で、くる、と円を描いた。波が、すぐ近くまで寄せて、生温かい水が、二人の靴の、真横を濡らす。

「先生が、隣で、シャッターを切ってくれないと、たぶん、あたし、光の場所まで、迷子になります」

「迷子になったら、迎えに行くよ。海の近くは、いくらでも道を知ってる」

「……ずるい。そういう、すぐ優しいこと言うの」

彼女は、真っ赤になった耳を隠すように、首のキャップへ手をやって、それから、ふい、と海のほうを向いた。風が、俺のキャップの鍔を、こつん、と鳴らす。心臓が、波音と同調して、胸の内側を、重くしずかに叩いていた。

気がつくと、店のほうから、奈々さんが、厚底の音を、砂利へがつがつと響かせて、こちらへ駆けてきていた。

「せんせぇ、麻衣子ちゃん、なに二人で抜け駆けしてるのぉ」

彼女は、石段の上から、両手を口にあてがって、その声を、浜いっぱいに放り投げる。裾の短い衣装の黒が、橙色の残光を呑んで、艶やかに浮かんでいる。

「抜け駆けって、空を見に来ただけだ」

「空なら、海よりあたしのほうが、よっぽどいい景色だかんね。明日、証明してあげる」

そう言って、奈々さんは、靴底が砂に取られるのも構わず、階段を、ぴょんぴょんと飛び降りてきた。俺は、思わず、両腕を、受け止めるかたちでわずかに広げる。けれど彼女は、俺の胸へ飛びこむ手前で、くる、と回り、麻衣子さんの肩へ、遠慮なく抱きついた。

「海、やっぱ、夜景になったら、もっと、やばいよ。三人で、写真撮ろ」

奈々さんが、そう言いながら、ミニスカートのポケットから、スマートフォンを取り出す。画面の光が、三人の顔を、白く照らした。麻衣子さんは、困ったように笑いながらも、奈々さんの背中へ、そっと手を添える。俺は、その横から、二人の、夏の終わりの、汗ばんだ素肌の距離を、ファインダーを介さずに、牡蠣殻のような月の出待つ海の景色ごと、ゆっくり記憶のなかへ焼きつけていた。

帰りの車内は、ひどく静かだった。窓を半分ほど開けると、京葉線の高架をくぐるたび、海の匂いと、乾いたアスファルトの熱が、かわるがわる流れ込んでくる。助手席では、麻衣子さんが、眠っている。細い首が、シートベルトに押されて、すこし窮屈そうに傾ぎ、そのうえに、あの古いキャップが、脱落しないように、自分の両手で、だいじそうに抱えられていた。彼女の、閉じた目蓋に、対向車の灯りが、一瞬ごと、すう、と影を落としては流れ去る。

後部座席からは、奈々さんの、浅い寝息が聞こえていた。ミラーの端に、派手なツインテールが、窓ガラスへ押しあてられて、罪のない横顔が、街灯の明滅に、ねぎり、と照らし出される。あれだけ喋っていた十八歳が、こうなると、ほんとうに小さく、幼い顔をしている。俺は、運転席の背もたれに、背中をゆっくり預けながら、アクセルを、ほとんど一定に保って、夜の道を走った。

指先が、ハンドルの革の感触を、つめたく、ねばつく。あの焼けつく幕張の熱が、ようやく皮膚の下から抜けていく。代わりに、胸のあたりへ、しん、と冷たい膜が張る。俺は、レンズを通して、何を撮ってきたのか。誰の死を、数秒後の無残へ、シャッターで閉じ込めてきたのか。そういう問いが、暗い車線の、白い破線のように、途切れ、また浮かび、途切れても、消えてはくれない。

それでも。今、俺の車の中には、春に知り合った二人の女が、汗と疲れを、無防備にさらして眠っている。その寝息は、写真のない場所、時間に裂け目のない、生きもの特有の、あたたかい音で、夜の車内を、ゆっくり満たしていた。助手席の麻衣子さんが、寝返りを打とうとして、腕のなかのキャップを、胸もとへ、ぎゅ、と抱きしめた。白い指が、銀の縁を、爪の先で、かるくなぞる。

俺は、速度を落とし、窓の外を、一瞬だけ見た。遠くの高層ビル群の裾から、細い月が、雲を透かして、青白くのぼっている。亡くなった妻が、あれを見ていたら、なんと言うだろう。多分、つまんない男ね、鼻で笑う程度のことしか返してこない。だが、それでいい。笑われながら、もう一度、被写体のまんなかで、光に押し潰されるような感覚を、俺は味わいはじめている。老いた指が、ピントを合わせる前から、もう、明日の薄明かりを、ちゃんと見つけていた。それだけで、今は、泣けるくらいに、物足りなく、そして、しずかに、正しい。

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読み終えたあとの余韻に。

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登場人物
  • 祐一郎 ゆういちろう
    男性 ・ 62

    外見: 白髪混じりの短髪、焦げ茶の瞳、頑丈な体躯。服装: ベージュのベストにジーンズ、古いキャップ。寡黙だが面倒見がよく、照れ屋で押しに弱い。

  • 麻衣子 まいこ
    女性 ・ 24

    外見: 肩までの黒髪、黒い瞳、色白で丸顔の細身。服装: フリルブラウスにスカート、小さなミラーレスカメラ。素直で好奇心旺盛、恋愛に傷つきやすいが決断は早い。

  • 奈々 なな
    女性 ・ 18

    外見: ツインテールの黒髪、茶色の瞳、小柄でグラマー。服装: ミニスカートに厚底靴、派手なメイク。奔放で欲望に忠実、根は明るく人懐っこい。

  • 岸田 きしだ
    男性 ・ 54

    外見: 短い黒髪に脂ぎった肌、短い髭、恰幅のいい体型。服装: 高価なカメラを複数ぶら下げたベテラン風の装い。自信家で独占欲が強いが知識は中途半端。

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