第5章: 偽りの朝

第5章: 偽りの朝
カーテンの隙間から射し込む朝日は、あまりに眩しく、視界を焼くようだ。
光の筋に舞う無数の埃のダンス。そして、昨夜のリビングに染みついた、甘酸っぱい女の匂いと、別の男の精液の生々しい匂いが混じり合った、あの忌まわしい残り香が、私の意識を強引に引きずり起こした。
眠っていたわけではない。薄い意識の膜を張り巡らせ、その膜の向こう側で繰り広げられた淫らな光景を、一晩中、何度も何度も再生し続けていただけだ。
ソファに横たわる妻、詩織の肢体。ぱっくりと開かれた、濡れたアソコから垂れ落ちる愛液の糸。十七個のキスマーク。そして、私自身の白濁した欲望が、彼女の肌に降り注いだ瞬間の、あの獣的な陶酔。
すべてが、脳の奥底に焼き付いたフィルムのように、今も明滅しているのだ。
私は静かにベッドから身を起こし、寝室のドアを開けた。廊下を歩く自分の足音が、異様に大きく、虚しく響く。
リビングのドアを少しだけ開けると、そこはもはや、昨夜の祝祭の跡地とは思えぬほどの、死んだような静寂に包まれていた。
ソファの上では、私がかけた毛布が、ぬくもりを完全に失い、かろうじて詩織の身体の形を残しているだけだ。
まだ眠っているのか。彼女の息遣いを確かめようと、一歩、部屋に踏み込んだ瞬間。
「…んん…頭が…」
毛布の下から、小さく、苦しげな声が漏れた。
その声に、私の心臓が不意に跳ね上がる。起きたのか。
私は反射的に、キッチンのカウンターの陰に身を潜めた。息を殺し、彼女の次の動きを待つ。
すると、毛布がゆっくりとずり落ち、亜麻色の髪が乱れた姿で、詩織が上半身を起こした。
彼女は目を細め、眩しそうに部屋を見回した後、自分の裸体に気づいたように、ガウンに手を伸ばした。
その時、彼女の首筋から、白い胸元にかけて、昨夜見たのとは違う、新たな赤紫色の痣が、ちらりと覗いた。
あの男、藤井が、最後に自分の所有印を押した場所か。
その光景に、去りゆくはずの興奮が、またしても股間に鈍い熱としてこみ上げてくるのを感じた。
詩織はぼんやりと立ち上がると、よろよろと浴室へ向かった。
やがて、シャワーの音が響いてくる。私はその音を聞きながら、冷たい水でコーヒーを淹れた。
湯呑みを手に取ると、その手が、微かに震えていることに気づく。
昨日、この手で、彼女の身体を検分し、そして、自分の欲望をぶつけたのだ。その感触が、今も手のひらに焼き付いているようだった。
「……おはよう」
浴室から出てきた詩織の声は、酷くかすれていた。
彼女は私の目を決して合わせようとせず、キッチンのカウンターの反対側に立ち、自分用のコーヒーを淹れ始めた。
その様子は、いつもの朝の風景と、一見、何も変わらない。
だが、私の目には、すべてが歪んで見えた。少し浮腫んだ顔、艶を失った唇。そして、何よりも、彼女の身体から立ち上る湯気に混じった、あのほのかな生々しい匂い。
それは、彼女自身の体臭と、あの男の精液が混じり合った、二度と忘れられない匂いだった。
「……徹夜したのか?顔色が悪いぞ」
私の声は、自分でも驚くほどに、冷静に響いた。
「うん…。昨日、ちょっと飲みすぎちゃったみたい…。頭が、ずきずきするの」
そう言って、彼女はコーヒーを一口飲む。
その時、娘の美緒が、元気よく部屋を飛び出してきた。
「お母さん、おはよう!あれ、顔、赤いよ。風邪ひいた?」
美緒の無邪気な心配が、この偽りの朝に、鋭い棘のように突き刺さる。
詩織はあわてて、視線を逸らしながら言った。
「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから。美緒は、ちゃんと朝ごはん食べていってね」
そのごまかす様子が、私には、昨日の夜の出来事を隠しているように、痛いほどに映った。
私は黙って、自分のコーヒーを飲み干した。苦い液が喉を通過していく。その苦さが、今の私の心に、ぴったりと合致していた。
詩織がトーストを焼き始め、バターを塗る音が、キッチンに響く。
その何気ない日常の音が、昨夜の「ぐちゅっ」という、愛液の濡れる音や、「ぴゅるっ」という射精の音と、私の頭の中で重なり合い、奇妙な不協和音を奏でていた。
「ねえ、誠。今日の夕飯、何がいい?」
詩織が、ふと振り返って尋ねた。
その瞳は、まだ昨日の酔いと眠気で、少し曇っていた。その曇った瞳の奥に、何かを隠しているような、怯えたような色が見えた瞬間、私の中の何かが、ぷつりと切れた。
怒りでも、悲しみでもない。それは、もっと底深く、冷たい感情だった。
彼女は、私に嘘をついている。そして、その嘘を、私は見抜いている。この二人の間に横たわる、見えない、しかし確実な亀裂。
その亀裂を覗き込むことこそが、私に新たな、そしてこれまで感じたことのないほどの快楽を与えているのだ。
「……なんでもいい。お前の作ったものが食べたい」
私がそう答えると、詩織の顔に、ほんの少しだけ、安堵のような表情が浮かんだ。
その表情を見た時、私は確信した。もう、戻ることはできない。
田中誠という夫は、もう、この家にはいない。
ここにいるのは、妻の不貞という名の劇を、ただただ観察し、その陰惨で美しい光景に、自らの欲望を重ね合わせる、一人の観客だけだ。
私は、テーブルに向かう美緒の無邪気な背中と、キッチンで忙しく動く詩織の横顔を、交互に見つめた。
明るい朝の光の中で、私の家族は、何も知らずに日常を織りなしている。だが、私の目には、その光景が、歪み、歪み、まるで壊れた絵画のように見えていた。
詩織の身体は、もう私だけのものではない。
その事実が、私に屈辱を与えると同時に、これから始まる、彼女を「観察」し続けるという、永遠に続くであろう新たな欲望の祝祭へと、私を静かに誘っていた。
この偽りの朝は、私にとっての、真実の夜の始まりだったのだ。
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