第2章: 窓の外の饗宴

第2章: 窓の外の饗宴
夜気は肌を刺すように冷たく、柱時計が不気味に時を刻む音だけが、虚ろに響き渡っていた。午前零時を過ぎたリビングには、月の光だけが幻のように差し込み、家具の影は怪物のように長く伸びている。
僕は、とっくに夢の中にいるべきだった。だが、今夜は理由の知らない焦燥感に心を抉られ、ベッドの中でただ時の流れを聴いていた。詩織の帰りを待つわけでもない。ただ、この静寂が、少しだけ重すぎたのだ。
その時だった。玄関の外で、獣のような低い唸り声を上げてエンジンが響いた。それは、決してこの静かな住宅街に馴染む音ではなかった。僕の体は、無意識にこわばり、背筋に冷たい汗がにじむ。
いつもなら、優しく静かにエンジンを切り、こっそりと鍵を開ける詩織の帰宅とは、あまりにも違いすぎた。エンジンは止まらない。誰かが、車の中に留まっているのだ。
--誰だ? そして、なぜだ?
疑問が蜘蛛の巣のように心に張り巡らされ、息が苦しくなる。僕はベッドから静かに上半身を起こし、床に足をついた。凍えるような冷たさが、足の裏からじんわりと伝わる。
廊下を息を殺し、足音を立てずに滑るように進み、玄関へと続く階段の途中へ。そこには、外を覗くための小さな四角い窓があった。
窓の錠をゆっくりと回す。カチリッ、という乾いた音が、世界で最も大きな音のように僕の鼓膜を打った。
窓を少しだけ開け、冷たい外気と共に、下の光景を目に焼き付けた。そこに停まっていたのは、見慣れた白いワゴン車。藤井樹の車だ。街灯のオレンジ色の光が、濡れたボンネットを妖しく照らし出している。
運転席には、確かに藤井が座っていた。シートを深く倒し、悦楽に蕩けきった、獣じみた表情で天井を見上げている。そして、その股間に、黒い影がもぞもぞと動いていた。
亜麻色の髪。あの、詩織の髪だった。
僕の脳天を、殴り抜かれるような衝撃が走る。理解を拒絶し、目から入ってくる情報をデタラメだと叫びたい。だが、その髪は間違いなく詩織のもので、今、上下に、リズミカルに、けだるく揺れている。
--あれは…フェラチオだ。
信じられない。信じたくない。あの詩織が。あの、セックスレスになる前から、フェラチオなど生理前で自分から求めるとき以外、ほとんどしてくれなかった、控えめで奥手な詩織が。他人の男の、それもあの藤井という若造の股間に、愛する妻が顔をうずめ、その汚らわしい性根をしゃぶり尽くしている。
街灯の光が、詩織の頬を伝う汗と涎が混じり合った光沢を照らし出し、その光景はあまりに生々しく、卑猥で、そして、なぜか美しくさえ見えた。藤井の巨根が、詩織の唇を引き裂かんばかりに押し広げ、喉奥までえぐり込んでいるのだろう。
そのたびに、詩織の喉がむせ返るように痙攣するのが、窓の上からでも分かった気がした。じゅるじゅる、ねちょねちょ、といった粘つく音が、かすかに脳裏に焼き付く。僕の体は、完全に拒絶していた。
胃の腑が逆流するような嫌悪感が喉まで込み上げてくる。だが、同時に、背筋を、嫌悪と興奮が入り混じった熱い電流が駆け上るのを、はっきりと感じた。
自分の妻が、目の前で、他の男に犯されている。その事実が、屈辱であると同時に、抗いがたい好奇心を煽り立てる。僕の股間が、じわじわと熱を帯び、嫌なほどに、無様に硬くなっていくのを自覚した。
詩織の頭の動きが、急に速くなる。藤井の体が、弓なりに激しく反る。
「詩織ちゃん、イクよ」
その声は、愛玩動物を可愛がるような、それでいて見下しているような甘美な響きを持っていた。僕が決して詩織に向けたことのない、絶対的な支配者の声だった。
次の瞬間、上下に激しくうごめいていた亜麻色の頭が、まるで操り人形の糸が切れたように、ぴたりと動きを止まる。彼女は、藤井のすべてを、その口で受け止めているのだ。
僕が一度も味わったことのない、他人の熱い濁流を。むろん、詩織が僕の精液を口にしてくれたことは、過去に一度もなかった。それが、彼女だけが守っていた、絶対の掟だった。
その掟が、今、この瞬間、別の男によって蹂躙されている。しばらくの間、二人は動かない。時が止まったようだった。やがて、詩織がゆっくりと顔を上げる。
その唇は、少し腫れ上がり、他人の液で艶めかしく光っていた。彼女はティッシュを取り出し、そっと口の中のものを吐き出す。その仕草が、あまりに日常的で、だからこそ、この状況の異常さと、僕の心の引き裂かれようを際立たせていた。
僕は、慌てて窓を閉じ、足がもつれそうになるのをこらえ、静かに元の位置に戻った。車のエンジンがかかり、少しして、ワゴン車は静かに去っていった。
再び、家に静寂が戻る。だが、それはもう、あの冷たいだけの静寂ではない。僕の耳には、まだねっとりとした音が残り、鼻腔には、想像上の、愛液と精液が混じり合った、生々しくて甘ったるい匂いがこびりついている。
ベッドに戻っても、眠れるはずがなかった。僕の体は、震えていた。怒りでも、悲しみでもない。それは、禁断の園の実を盗み食いした男だけが知る、汚らわしく、甘美な罪悪感の震えだった。
愛する妻が、自分の知らない顔で、他の男によって悦びに蕩けている。その光景が、僕の心の奥底に焼き付かれ、決して消えることのない火種となって、僕の内側で、黒々と燻り始めていた。
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