第1章: 日常の亀裂

第1章: 日常の亀裂
四年半という歳月は、乾いたスポンジが水を一滴も吸い込まないように、田中誠と妻の詩織との間から、愛情という名の湿気をじわじわと奪い去っていった。
毎朝、目覚めるのは同じ時刻、同じ向き。隣にいる詩織の寝息は、まるで隣の部屋から漏れ聞こえるかのように遠く、無個性な音だった。
彼女の亜麻色の髪が枕に柔らかく広がる様子を、誠はもう何年も見ていない。ただ、背中を向けられたまま、冷たい空気が二人の間を隔てているのを肌で感じるだけ。
居間に立ち込める静寂は、彼の心の欠落を具現化したかのように重く、湯気の立たないコーヒーの苦味だけが、空虚な時間を埋めるための錠剤のように舌の上で溶けていく。
娘の美緒が元気に学校へ行く姿を玄関で見送り、彼もまた、気の抜けたネクタイを締め直す。昨日と同じように、今日もまた、この灰色の日常を繰り返すために家を出る。
それはもう、苦痛ではなく、ただの無だった。痛みも喜びもない、ただ呼吸をするだけの、長く続く息継ぎのような時間。
そんな淀んだ空気に、最初の風が吹き込んだのは、ある雨の降る火曜日の夕暮れのことだった。
美緒が部活で遅くなり、二人きりの食卓。シレンと音を立てる箸の先で、詩織がおずおずと口を開いた。
いつもなら無言で箸を動かすだけの彼女が、視線を落としながら、それでも何かを切り出そうとする意志が、その震える唇に宿っていた。
「ねえ、誠。ちょっと、お願いがあるんだけど…」
その声は、四年半ぶりに、誠の鼓膜を優しく震わせ、心の膜を撫でた。彼はコーヒーカップを置き、カチャリと音を立ててゆっくりと彼女の方を向いた。
何年も見ていなかった、彼女の横顔。柔らかな茶色の瞳が、照明に反射して不安げに揺れている。
「…なんだ?」
「美緒のクラスメートの、お母さん…。体調が良くなくてね、妊娠四ヶ月だっていうから…。その人がやっていた、近所のスナックのパートを、代わりにやってみないかっていう話が…」
スナック。その言葉に、誠は一瞬、時代錯誤な響きを感じた。タバコの煙と甘ったるいリキュールの匂いが、脳裏をよぎる。
だが、詩織の顔には、かすかな期待の色が浮かんでいるのを見逃さなかった。この家で、この沈黙の中で、彼女の内側にある何かが、音を立てて腐っていくのを、彼はずっと知っていた。
気分転換だ。良いことだ。彼は自分に言い聞かせるように、静かに頷いた。
「いいんじゃないか。詩織も、少しは外に出た方がいいだろう。美緒も大きくなったことだし」
「…本当?」
詩織の顔に、久々に、はっきりとした感情の色が広がった。それは安堵であり、そして、小さな喜びだった。
その瞬間、誠は自分の心の中に、何か小さな棘が刺さったのを感じた。それは嫉妬というにはあまりに鈍く、不安というにはあまりに形がはっきりしない、ただの「ざわつき」だった。
そのスナックのマスターは、藤井樹という三十歳の男だった。
美緒の話では、ナイトスクールを経営していて、クールだけど面白い、と娘は言っていた。誠はその名前を、まるで外国の地名でも聞くように、一度だけ耳にして、すぐに記憶の隅に追いやった。
詩織は金曜と土曜の午後五時から十一時まで働くことになった。初めて仕事に行く日の朝、彼女は普段着ないような、淡いアーモンド色のワンピースを選び、鏡の前で何度も髪型を直していた。
微かな香水の匂い。それまでこの家にはなかった、甘くて少し成熟した香りが、彼の鼻をつく。
その懸命な姿を、誠は何も言わずに、ただ遠くから見ていた。まるで、別の男のために身を飾る女を、黙って見送る夫のように。
働き始めて一週間、詩織は少しずつ変わっていった。
最初は疲れた顔で帰ってきて、一言「ただいま」と言って自分の部屋に籠もっていた。だが、二週間が過ぎた頃から、彼女の口から、仕事場での出来事がぽつりぽつりと聞こえるようになった。
「マスターの藤井さんは、面白い人だって。常連のおじさんは、昔の歌手に似ているって」
そんな話をしながら、彼女は食事の支度をする。その手つきが、以前よりずっと軽やかに見えた。
時折、彼女はふと、何かを思い出したように、口元に笑みを浮かべる。その笑みは、誠の知らない誰かのために咲いている花のようで、見る者に甘い毒を注入するかのようだった。
「お父さん、お母さん、最近よく笑うよね」
ある夕食の時、美緒がそんなことを言った。無邪気な一言が、凍りついた空気にひびを入れる。
詩織は「まあね」とだけ答えて、少し顔を赤らめた。その横顔が、誠には突き刺さるように見えた。
彼女が笑う理由を、彼は知らない。その笑いの背景にある、男の声や、酒の匂いや、他の男たちの視線を、彼は想像するしかなかった。
そして、その想像は、彼の心の奥底で、醜い苔のように静かに広がり始めていた。
彼は詩織が帰宅する時間を、無意識に気にするようになった。
十一時過ぎに玄関のチャイムが鳴る音。それが、かつてはただの合図だったのが、今では彼の神経を逆なでする不快な音に変わっていた。
彼女が持ち帰る、スナックの煙と香水の混じった匂い。その匂いが、彼女の体から、彼の知らない世界の記憶を運んできているように感じて、胸が苦しくなった。
「お疲れ様」
「ただいま…」
そんな短いやり取りしか交わさない二人の間に、今や見えない壁が、以前よりもさらに厚く、高くなっていた。
詩織は輝き始めていた。まるで、長い冬眠から目覚めた動物が、全身の毛並みを輝かせるように。
その輝きは、誠自身の色褪めた日常を、いっそう陰鬱に照らし出していた。
彼は自分の部屋で、一人、タバコに火をつけた。青白い煙が、窓の外の闇に溶けていく。
詩織が今、何を思い、誰と話し、何を笑っているのか。その想像は、彼を苛み、同時に、彼の内に眠っていた、歪んだ好奇心を静かに刺激していた。
--これはただの気分転換じゃない。何かが、始まっている。
そう直感した時、誠の心にあった最後の穏やかさが、まるで脆いガラスのように、ひび割れる音を立てた。

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