第5章: 喪失の黄昏、誰のものでもない孤独

アパートの重い鉄扉が、ゴトン、という絶望的な音を立てて背後で閉ざされた。その乾いた金属音は、健輔の世界から全ての色彩と音を奪い去り、真っ暗な虚無へと叩き落とした。
密室のように閉ざされたエレベーター。下降する階数を示す赤い光は、嘲笑う悪魔の瞳のようにも見え、壁の鏡に映る自分の顔は、血の気を失い、見知らぬ他人のそれのように醜悪に歪んでいた。冷たい鏡面に触れた指先が、震えている。
ロビーへ出ると、夕暮れの街の喧騒が肌を刺す。車の耳障りなクラクション、人々の甲高い笑い声、商店から漏れ出す官能的なサックスのメロディー。そうした生きた営みの全てが、歪んで遠い異国の出来事のように、耳に届いては消えていく。
足は地面に着いているのに、魂が抜け出てふわふわと浮遊しているような、気怠い脱力感。彼はただ、流れる人波に身を任せ、意味もなく歩き続けた。ネオンの灯りが目に眩しく、焦げた肉脂の匂いが鼻孔を突くが、どれもこれも自分とは無縁の刺激で、胸の奥に穿たれた冷たい穴を埋めることはできなかった。
気がつけば、彼はよく通った公園のベンチに座っていた。かつて朋美と二人で分け合ったアイスクリームが溶け、甘いしずくが彼女の指先を伝った、あのベンチ。
西の空が燃え上がるような茜色に染まり始め、やがて深い藍色へと沈んでいく。その光の移ろいが、健輔の心が無情に削り取られていく速さを、そのまま映し出しているかのようだった。
俯いた視界の隅に、自分の握りしめた拳が、白くカッと見える。指の関節が、力を入れすぎて内側から突き上げそうなほどに、痙攣するように震えている。
何もかもが、どうでもよくなった。愛も、青春も、明日も。全てが、あのドアの隙間から覗いた、あまりにも淫靡で、生々しい光景によって、粉々に打ち砕かれたのだ。
「……っ」
嗚咽が、喉の奥を焼くように無理やり絞り出される。それは最初、小さな震えだった。だが、一度堰を切れた感情の奔流は、もう誰にも止められなかった。
健輔は顔を両手で覆い、そのままベンチの上に崩れ落ちるようにうなだれた。嗚咽はやがて、抑えきれない泣き声へと変わる。肩が激しく揺れ、熱い塩辛い涙が汚れた指の隙間から伝わり、ジーンズの膝の上をじっとりと濡らしていく。
なぜ、なぜだ。自分の何が、いけなかったんだ。優しさだけでは、足りなかったのか。
彼女を抱いた時、いつも彼女の反応が乏しいことは感じていた。もっと、もっと激しく彼女を貪るべきだったのか。でも、そんなことをしたら、彼女を壊してしまう気がして、怖かったんだ。
大切に、大切にと思っていたのに。その愚かな優しさが、彼女を他の男の元へ追いやってしまったのだ。
「うわあああああっ……!」
声にならない叫びが、夕暮れの静寂に溶けていく。泣き叫ぶたびに、あの光景が鮮明に蘇る。
不和先輩の、穏やかで聖人のような微笑み。その笑みと裏腹な、獣のような腰つき。自分には決して真似のできない、鍛え上げられたたくましい肉体。
そして、あの信じがたいほどに太く、長く、醜悪なまでに雄々しい性器。あの黒々とした肉塊が、自分が愛した朋美の、あの温かくて柔らかい膣の中に、ずぶずぶと沈んでいく。
ぬちゃっ、ぐちゅぐちゅ、という粘膜をこすり合わせる下劣な音。朋美の、知らない顔。快楽に蕩けきり、他の男を貪る雌のような、あっと言わせる顔。
その記憶が、熱いナイフのように健輔の脳を抉り、何度も何度も彼の心を引き裂く。
一方、その頃、朋美の部屋は情事の濃厚な余韻に満たされていた。不和はもう寝息を立てていたが、朋美はまだ眠れずにいた。
体中が、先輩に弄ばれた快感の記憶で疼き、腰の奥には、激しい交合の鈍い痛みと、何かに満たされたような重い感覚が、まだ残っている。
部屋には、二人の汗と愛液、そして先輩が膣内に放った熱い濃い精液が混じり合った、粘膜と生々しい匂いが漂っている。それは健輔との間では決して生まれることのなかった、獣的な、征服者の匂いだった。
彼女はそっとベッドから起き上がり、窓の外を見た。街の灯りがきらめいているが、どれも自分とは関係ないように感じられた。先輩の優しい声と、圧倒的な肉体の記憶だけが、頭の中を埋め尽くしている。
健輔のことは、もう考えられない。彼の優しさは、もはや遠い昔の記憶にすぎない。だが、この満たされた感覚の先に、本当の幸せがあるのか、分からないという漠然とした不安が、胸の片隅で静かに疼いていた。
健輔の泣き声が、いつしか途絶えた。涙が枯れ、ただ虚脱感だけが残る。彼はゆっくりと顔を上げた。
公園はすっかり暗くなり、街灯がぼんやりと周囲を照らしている。誰もいない。誰も、自分のことを気にかけてくれる人はいない。
全てを失った。愛する人も、信じていた未来も、自分自身の尊厳さえも。彼はもう、誰のものでもない。
ただ、この公園の片隅で、一人、孤独に朽ちていくだけの存在だ。青春は、こんなにも痛々しく、あっけなく終わってしまったのだ。
彼はただ、空っぽの瞳で、何も映らない夜空を見つめていた。
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