第1章: 小林健輔のキスは、いつもこうだった。

小林健輔のキスは、いつもこうだった。
朝の柔らかな光が、部屋の空気中の塵を金色に照らし出す。その光の中で、彼の唇は洗い立てばかりのタオルのように清潔で、そして少しだけ物足りない控えめな温かさを宿している。僅かに乾燥した彼の唇が優しく重なるたび、安心するような心地よさが朋美の全身を包み込む。
でも、そのどこか寂しげな温かさに、胸の奥がふっと空しくなることもあった。
健輔の細い腕が彼女の腰を抱きしめる。その力加減は、壊れやすい硝子細工を扱うかのように繊細で、優しすぎた。
二人の間には、幼い頃から積み重ねた時間という名の、温かくて少しごつごつした絨毯が敷き詰められている。
その上を歩くのは安全で、当たり前で、でも時々、その下に隠された未知の何かを想像しては、胸がざわつき、疼くのだった。
「おっはよ。今日も一日、がんばれよ」
健輔はそう言って、朋美の髪をくしゃりと強く撫でる。
その仕草にも、彼らしい誠実さが滲み出ていて、朋美は「うん」と小さく頷き、彼の黒い瞳を見つめ返した。
この瞳の中には、自分だけが、今も昔も、丸ごと映っている。
そう信じていた。
大学に入って、彼女の世界が少しずつ形を変え始めても、この健輔との関係だけは、変わらない家のようにそこにあると思い込んでいた。
キャンパスへ向かう電車に揺られながら、彼女は窓ガラスに映る自分の顔を無意識に眺めた。
長めの栗色の髪は、健輔が気に入ってくれたという内巻きのカールがかかっている。
濡れたような黒い瞳は、今日も少し緊張で潤い、艶めいている。
何のために、と自問した。
テニスサークルの、新しい世界のためだった。
テニスコートに立つと、五月の陽光が肌を刺すように眩しく、緑の芝生と白いラインが強烈なコントラストを描いていた。
硬式ボールが打ち合われる鋭い音、女子たちの甲高い笑い声、汗の匂いと太陽の匂いが混ざり合った、活気と欲望に満ちた空気。
それは、高校までの通学路とは全く違う、もう一つの世界だった。
そして、その中心にいつもいるのが、不和道夫先輩だった。
明るい茶色に染められた髪を無造作にくしゃっとさせ、ブランド物のラフなウェアを着こなした姿は、まさに雑誌から抜け出てきたような「チャラ男」そのもの。
周りを取り巻く女子たちの笑い声は、いつも彼を中心に熱く渦巻いていた。
朋美は、そんな彼を遠くから見つめるのが精一杯だった。
自分とは住む世界が違う、そう思っていた。
「お、浅香さんか。フォーム、なかなか良くなってきたじゃん。まじめにやってるんだな」
その声が、背後から突然響いた。
振り返ると、そこには不和先輩が、汗で濡れた髪をかき上げながら立っていた。
太陽の光を浴びて、彼の鋭い目元が、笑うと優しさに変わる瞬間をまざまざと見せていた。
一見、軽そうな見た目とは裏腹に、彼の言葉遣いは驚くほど丁寧で、そのギャップが不意に胸を深く突いた。
健輔にはない、大人の男性の雰囲気。
それは、洗練された香水のようにはっきりと存在感を放ちながらも、決して押しつけることがない、そんな軽やかと危うさを秘めた魅力だった。
「え、あ、はい……ありがとうございます」
朋美は自分でも驚くほど、狼狽した声で返事をしてしまった。
頬がじりじりと熱くなるのを感じ、どうしようもなく視線を泳がせる。
すると、不和先輩はニッと笑い、テニスラケットを軽く振った。
「その素振り、いい感じだよ。もっと腰の回転を意識したら、ボールに力が伝わるはず。よかったら、俺がちょっと見てやろうか」
「えっ、ほ、本当ですか!?」
嬉しさと戸惑いが入り混じった声が、思わずこぼれた。
健輔が教えてくれるフォームは、優しくて安全で、でもどこか教科書的で退屈だった。
でも、不和先輩の言葉は、体の奥から響くような、人を惹きつける説得力があった。
彼が近づいてくるにつれて、汗と、ほんのり高級そうな石鹸の匂いが混ざった、野性的な男の匂いが鼻をついた。
それは健輔の、柔軟剤の優しい香りとは全く違う、刺激的で、少し危険な匂いだった。
彼が朋美の背後に回り込み、その大きな手で朋美の手首を優しく掴んだ時、彼女はハッと息を呑んだ。
彼の体温が、薄いウェアの生地越しにじんわりと伝わってきて、背筋にびりりとような電流が走る。
「こう、ラケットを引く時に、体をねじるんだ。そう、その感じ。いいね、浅香さん」
その丁寧な声が、耳元で低く響く。
温かい吐息が、首筋に触れたような気がして、朋美は体をこわばらせた。
何が起きているのか分からない。
ただ、自分の心臓が、健輔とキスをした時とは全く違うリズムで、高鳴っていることに気づく。
それは、小鳥が胸の中で暴れているような、乱暴で、でもどこか甘く疼きを伴う鼓動だった。
彼の指が、無意識に彼女の腰に触れる。
テニスウェアの柔らかい生地の上から、その熱と力強さを感じた瞬間、朋美は自分の性器が、ほんのわずかに濡れていることに気づいて、顔から血が引いていくのを感じた。
恥ずかしい。
健輔の彼女が、他の男にこんなことを感じてしまうなんて。
練習が終わり、更衣室で一人になると、朋美は鏡の前の自分を見つめた。
頬はまだ赤く、瞳はうっすらと潤んでいる。
何かが変わってしまった。
確実に。
健輔の優しさは、温かいスープのように体を芯から温めてくれる。
でも、不和先輩との接触は、唐辛子のように舌を痺れさせるような刺激だった。
どちらも必要なものかもしれない。
でも、その唐辛子の痺れるような味を忘れられない自分がいた。
家路を急ぐ健輔との待ち合わせの時間を、彼女は少しだけ遅らせてしまった。
一人でベンチに座り、まだコートに残る不和先輩の姿を、誰にも見られないように、じっと見つめていた。
彼の笑顔、彼の動き、彼の声。
そのすべてが、もう一つの秘密として、朋美の心の中に、静かに、しかし確かに刻み込まれていくのを感じていた。

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