初担任の夏、欝を装う生徒に相談に乗る彼女が俺の知らぬ間に陥落し、小川沿いのアパートの窓越しに情交を覗くまでの一ヶ月
あらすじ
付き合って一年の彼女は初担任に燃えていた。欝を装う生徒の相談に乗るうち、連絡は彼の話題ばかりになり、夏休みには彼女の部屋へ通い詰める。小川沿いのアパートの窓越しに、俺は知ってしまった。
第1章 初担任の夏、彼女のメールから生徒の名前が増えていく七月

第1章: 初担任の夏、彼女のメールから生徒の名前が増えていく七月
梅雨が明けたばかりの土曜日だった。営業車のエアコンは壊れかけていて、吹き出し口から生温い風が顔に当たる。俺はハザードを焚いて路肩に停め、ワイシャツの襟元に指を差し込んだ。汗で張り付いた布地が皮膚から剥がれるとき、ひやりと冷たい感触があった。まだ午後二時だというのに、車内は蒸し風呂のように澱んでいる。外に出ればアスファルトの照り返しが容赦なく、けれど車内に留まれば汗が止まらない。窓を開けるか、エアコンを我慢するか。結局、窓を全開にして、俺はスマートフォンを手に取った。
「来週あたり、久々にどっか行かない?」
真美へのメールは、いつもこうだ。短くて、用件だけ。付き合って一年になる彼女とは、四月の新学期が始まってからというもの、会う頻度がめっきり減っていた。高校教師三年目で初めての担任を持った真美は、毎日のように遅くまで学校に残っているらしい。メールの返信も夜の十一時を回ることが多く、短文が並ぶ。「今日も疲れた」「ごめん、また今度」。
それでも、夏が来れば少しは余裕ができると思っていた。夏休みが始まれば、部活の引率や補習があるにせよ、いくらかは時間が取れるはずだ。そう信じて、俺は指先で送信ボタンを押した。途端、蝉の声が窓から流れ込んでくる。まだ経験したばかりの夏の音だった。耳の奥に張り付くような、あの無遠慮な鳴き声。しばらくすると、助手席の上に放り出したスマホが短く震えた。
「あー、それがね、来週もちょっと難しいかも。うちのクラスで欝っぽい男子がいて、付き添ってあげないといけないんだ」
欝っぽい男子。その単語は、汗ばんだ車内の空気に妙な輪郭を持って浮かんだ。俺はすぐに返信を打てず、開いた窓から外を眺める。道路沿いの草むらが、陽炎の奥で揺れている。真美の声が、文字越しに聞こえるような気がした。いつもの柔らかい口調で、申し訳なさそうに、けれどどこか嬉しそうに話す声。
「そうか。じゃあ落ち着いたらまた行こう」
打ち終えてから、もう少し何か書くべきか迷った。けれど、適当な言葉が見つからない。結局、それだけ送って、スマホをダッシュボードに放る。営業車の中は、開けた窓から入る風のおかげで少しだけ呼吸がしやすくなっていた。匂いが変わった。さっきまでは汗と制汗スプレーの混ざった不快な臭いだったが、今は草の匂いがする。青臭くて、濡れた土の気配を含んだ、夏の夕立の後のような匂いだ。
真美と付き合い始めたのは、去年の初夏だった。知り合ったきっかけは、俺が担当した賃貸物件の契約だった。当時、講師として働いていた真美は、新しいアパートを探していた。実家が地元なのに、あえて一人暮らしを選んだのは、通勤の便と、兄夫婦が実家に戻ってきて手狭になったからだと、契約のときに照れくさそうに話していた。丸メガネの奥で、茶色い瞳が落ち着きなく動く。細くて小柄な身体に、リネンのブラウスがふわりと余っている。その姿を初めて見たとき、俺は正直、高校生のアルバイトだろうと思った。それくらい、彼女の立ち居振る舞いには幼さがあった。
「あの、ここってお風呂、追い焚きできますか?」
契約書にサインする直前、真美はペンを握ったまま首を傾げた。前髪がさらりと頬に落ちて、彼女はそれを耳にかける。その指先の白さと、紙の上の文字を見比べながら、俺は思った。この人は、たぶん人に頼られるのが好きなんだろう、と。その後、何度か物件のやり取りをするうちに連絡先を交換し、気づけば小川沿いの道を二人で歩くようになっていた。
真美のアパートは、川沿いの静かな場所にあった。人通りがほとんどなく、夜になると街灯の数も心細い。けれど、そのぶん空気が澄んでいて、草いきれの匂いが濃い。裏手には小さな土手が続いていて、そこから彼女の部屋の窓が見えた。薄いベージュのカーテンが、夜になると室内の灯りで淡く浮かび上がる。最初に部屋へ上がった日、真美は「ここ、静かでしょ」と笑った。俺は、静かすぎて不安にならないかと訊こうとして、やめた。彼女の細い肩が、カーテンの影の中で小さく揺れていたから。
七月に入ってからの真美のメールには、少しずつ生徒の話が増えていった。最初は、クラスの空気や、進路指導の難しさといった漠然とした話題ばかりだった。五月の連休明け、彼女は「生徒からマミちゃんって呼ばれ始めた」と嬉しそうに報告してきた。親しみを込めた渾名だろうと、俺も笑って返した。その数日後、今度は「夏になったら海行こうって、男子に言われた」というメールが来た。冗談だと分かっていても、胸の奥がざわりとした。それから程なく、「一回やらせて」という下品な冗談も耳にしたらしい。
「さすがにそれは怒った。きちんと断ったよ」
真美は笑いながら話していたが、その声には妙な明るさがあった。生徒との距離が近いことを、無邪気に喜んでいるような響き。電話の向こうで、彼女がくすくすと笑うたび、俺の手元の缶コーヒーが生温くなっていくのが分かった。
六月になると、特定の生徒の話が頻繁に出るようになった。名前は亮と言った。真美は「りょう君」と、まるで弟のように呼んでいた。
「今日はりょう君が学校来た。よかった。三時間も話し込んじゃった」
そのメールを見たとき、俺は営業の合間にコンビニの駐車場でアイスを食べていた。三時間も話し込んじゃった、という無邪気な一文。俺はワイシャツの襟を引き、コンビニの冷房を背中に当てながら、夏の匂いを吸い込んだ。ガソリンと、焼けたタイヤと、汗に似た自分の体臭。この時点では、まだ薄い不安の影が胸を横切るだけだった。真美は真面目すぎるだけで、初担任の責任感が空回りしているだけ。そう思い込もうとしていた。
月曜日の朝、出社してすぐに佐藤に声をかけられた。白髪交じりの短い髪を無造作に掻いた、物腰の柔らかい上司だ。開襟シャツの襟元がよれていて、それが妙に優しげに見える。
「真鍋、どうかした? 眉、変なことになってるぞ」
俺はパソコンの画面から顔を上げ、半分だけ笑った。
「え、そうすか。寝不足ですかね」
「なんか嫌なことあった? 今日暇だし定時いいぞ」
佐藤はそれ以上追及せず、手に持った書類を軽く持ち上げて自分の席へ戻っていった。俺はその背中を目で追いかけてから、画面の上で線状に並ぶ物件情報へ意識を引き戻した。眉が変なことになっている自覚はなかった。けれど、確かに口の中がずっと乾いていた。真美とのメールを開いては閉じ、返信を待つ時間が細く長く延びている。あの「三時間も話し込んじゃった」という文章のあと、彼女からは「ごめん、返信遅れた」以外の何かが来るまでに二日かかった。
その二日のあいだ、俺は営業車の中で何度もスマホを確かめた。走行中は見ないようにしているのに、信号待ちのたび画面を点ける。ダッシュボードの上で、光がちかちかと明滅する。梅雨が明けたばかりの街は湿度が高く、フロントガラスの向こうの景色が滲んで見えた。歩道を歩く人々の輪郭が、湿気の膜に覆われている。俺もまた、膜の内側で息を詰めているようだった。
七月の初めの週末、俺は真美の家へ向かう途中で、小川沿いの道を歩いた。まだ空は明るかったが、土手の草むらからは甘いような青臭いような匂いが立ち上っていた。足許の草を踏むたび、じわりと自分の影が揺れる。川の表面が夕方の光を反射して、銀色の魚のように光っていた。真美のアパートの窓は、この日はまだ灯りがついていなかった。薄いベージュのカーテンが閉まっていて、部屋の奥は暗い。俺は少しだけ立ち止まり、その窓を見上げた。彼女が今いないこと、どこかで誰かと話しているかもしれないこと、生徒なんかじゃなく俺の顔を見て笑ってほしいこと。考えても仕方ないことを、次々に頭の中で転がしていた。
夜になってから、真美からメールが来た。
「りょう君、家に帰りたくないって言い出して、学校の近くを一緒に歩いてた。本当は今日会いたかったんだけど、ごめん」
俺は風呂にも入らず、冷房の効いた部屋でボタンダウンのシャツを脱ぐところだった。指が止まり、汗の染みた生地が手の中で布のように重い。洗濯機へ放り込む前に、俺は自分のワイシャツへ顔を近づけて匂いを嗅いだ。汗と、制汗スプレーの残り香と、昼間の土手でまとわりついた草の匂い。混ざり合った雑多な臭いが、鼻腔の奥を軽く刺す。俺はその日、それ以上返信を返せなかった。
月曜、佐藤に「お前なんか水分足りてない顔してるぞ」と言われ、経口補水液を一本渡された。気遣いの塊のような男で、余計なことを訊かず、必要な物をぽんと机に置いていく。
「これ、あれか。彼女と喧嘩でもしたか」
「してないす。っていうか、喧嘩になるほど会えてないんで」
「会えてないのか。教師って大変なんだな」
冷蔵ケースで冷やしたのか、渡されたペットボトルは手のひらで汗をかいていた。その水滴が袖口に染み込んで、やがて乾いていく。俺はキャップを捻って、冷たい液体を一気に喉へ流し込んだ。生温い胃の奥が、急速に冷えていく。その冷たさが、今の俺の状態を無理やり輪郭づけた。会えていない。真美に会えていない。ただそれは特殊なことではなく、仕事が忙しいからという理由で飲み込んでしまえたはずなのに、胸のどこかが小さくざわついている。
七月の中旬が近づくにつれ、真美のメールは時々、子供のようなテンションになった。絵文字を使う頻度も増えた。びっくりマークと可愛らしい顔文字が、文章の端でぴょこぴょこと跳ねる。
「夏休みになったらマミちゃんって呼ばれてる写真をどうしても撮られそうになるんだけど、りょう君が守ってくれるようになったんだよ! ほんと可愛いの。でも、他の子がまた『一回やらせて』って言ってきたから、それはちゃんと断った」
「一回やらせて」という言葉を、何度断ったところで、彼女の周りから消えない苛立ち。俺はワイシャツの汗染みを鏡で眺めながら、おいおいやめてよ、と乾いた声で呟いた。あの冗談は、真美にとって笑い話で、俺にとっては舌の裏に小骨が刺さったようなざわめきだった。
「真美、その亮君って、なんかお前に懐いてるみたいだけど」
「うん、まあ、そうみたい。お姉ちゃんみたいだって言われた。私も一人っ子っぽいって言われるけど、兄いるからね。なんか、弟ができた気分」
弟ができた気分、という柔らかな言葉を、俺は薄暗い部屋の中で何度も噛み締めた。子犬を拾ったと言われた方がまだましだった。真美の声は明るく、迷いが欠片もなく、そのくせ俺には彼女の本当の気持ちが文字の奥に隠れているように思えた。見ようとしなければ見えない小さな揺らぎ。彼女の人差し指は、きっと今、生徒の手を握っているのだろうか。
手を繋ぐという行為。俺の中で、その映像が不安定に波打つ。真美の細くしなやかな手が、見知らぬ十六歳の男の手に触れている。頼られる意味と、触れる意味が溶け合って境目が消えていく。そういう光景は、想像しなければいいのに、いやでも瞼の裏に浮かんだ。俺は手のひらを強く握ってから、ゆっくり開く。冷房の乾いた空気が指の間を通り抜けた。
七月下旬まで、俺たちは結局一度も会えなかった。何度か連絡を取り合い、深夜に電話で話すこともあったが、真美の声は以前より掠れていて、時折、小学生のように語尾が跳ねた。担任の話になると、彼女は饒舌になった。教室の後ろの黒板に描かれた落書き、補習のときに生徒がこっそり買ってきた炭酸飲料、夕方の廊下に響く野球部の金属バットの音。
「ねえ、知ってる? うちのクラスの子、文化祭で何やるかまだ決めてなくて、私ばっかり焦ってるの。本当みんな暢気なんだから」
「真美らしくていいんじゃない?」
「それ褒めてないでしょ」
彼女が笑うと、受話器から小さく衣擦れの音がした。布団の上にでも横たわっているのだろう。そういえば、真美の部屋には掛け時計がなかった。細い音もなく、夜が静かに過ぎていく。小川の流れる音が、電話の向こうでうっすらと聞こえることもあった。水音は涼しげで、真美の声をますます遠いものにした。
七月の終わりの週末、俺は耐えかねて、真美のアパートへの道を営業車で走った。空は濁った白さで、入道雲が水平線のあたりでむくむくと形を変えている。夕方の風には、草いきれが濃く混ざっていた。土手の草むらの匂い。これを嗅ぐと、真美の部屋で飲んだ麦茶の味を思い出す。氷の溶ける音と、彼女の細い喉がこくりと動く様子。けれど、この日の俺は、彼女が帰宅する姿を待つ勇気まで持ち合わせていなかった。ただ、彼女の部屋のある窓を遠くから見上げ、カーテンがほんの少し揺れたのを確認して、車を発進させた。
七月の湿気は、ワイシャツの背中をじっとりと濡らした。営業車に戻る頃には、汗でワイシャツが背中に張り付いて冷たい。その感触だけが、指先のように俺の皮膚へ残った。
章末の夜、真美からメッセージが届いたのは、日付が変わる少し前だった。
「今日はね、りょう君が『一回やらせてって言うやつ、殴ってきてやる』って言い出して、慌てて止めた。笑っちゃった。私のこと、本当に大事に思ってくれてるみたい」
俺はその画面を見つめながら、心のどこかで「亮」という文字の輪郭を親指でなぞった。いっそ、消してしまおうか。そう思う自分と、そんなことをしても何も変わらないと笑う自分がいる。部屋の中は薄暗く、カーテンを閉めた窓の外から、虫の声が湿った膜を震わせて届いていた。遠い雹のような声が、断片的に夜を刺す。俺はしばらくスマホを握りしめ、彼女への返信を考えた。だが、言葉は一度もそこに落ちてこなかった。
土手の草の匂いが消えない。鼻の奥に残った青臭さは、汗で湿ったワイシャツの冷たさと重なって、寝苦しい熱帯夜の中でずっと俺を苛んだ。まだ何も起きていない。むしろ何かが起きようとしている。その二つの間で、窓の外の夜がだらだらと明けるのを待った。
第2章 七月下旬、彼女の口から「結構可愛い系でタイプ」と出た夜、俺の中の影が濃くなる

第2章: 七月下旬、彼女の口から「結構可愛い系でタイプ」と出た夜、俺の中の影が濃くなる
夏休みを目前にした平日の夜、俺は真美のアパートへ車を走らせていた。前の週に断られた埋め合わせというほど大層な話ではなく、ただ、彼女の顔を見ておきたかった。仕事帰りの夕方が、梅雨明け特有のぬかるんだ空気に押し潰されそうで、ハンドルを握る指先までじっとりと汗ばんでいた。小川沿いの道に入ると、生い茂った草むらから青臭い湯気のような匂いが立ち上り、窓を開けているとむせそうになる。土手の斜面には雑草が絡み合い、淡い夕闇の中で黒々とした塊に変わりつつあった。エアコンを止めて半開きの窓から風を入れると、水温んだ匂いと一緒に、どこかで蛙の鳴く声が聞こえた。
アパートの前に着いたのは、もう七時を回った頃だった。駐車場に車を停め、部屋の灯りが見える二階の窓を見上げたまま、俺は一度深く息を吸った。彼女の部屋のカーテンは薄い水色で、縁のレースが時折風に揺れるのを、以前ここへ来た時に何度も眺めたことを思い出す。人通りの少ない立地で、舗装された小道の向こうには小川が細く光っていた。
玄関へ向かう足を止めたのは、真美の声がドア越しに聞こえたからではなかった。正確には、閉ざされたドアの前で、俺は呼び鈴を押せなかった。足音を立てずに、階段の手前で立ち尽くしたまま、磨りガラスの向こうで彼女と誰かの影が動くのを、俺はただ見ていた。
「……外、行く? 少し涼しくなってきたし」
真美の声は少し弾んでいた。返事の代わりに、男の低い声が短く何かを呟く。まだ少年と呼んで差し支えない、湿った声だった。
俺は自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。扉をノックする代わりに、体を建物の陰へ寄せ、窓の位置を確かめる。土手の草むらがざわざわと風に煽られ、汗で額に張りついた前髪を払う。あの時、俺の頭の中には、真美が言っていた「付き添い」という言葉が何度も反芻されていた。だが、夜に生徒のいる彼女の部屋へ、こんな形で足を運んだことを、俺は知られてはいけない気がした。泥棒猫じみた心臓の騒ぎ方をしながら、俺は小川沿いの草むらの匂いに包まれていた。
どれくらいそうしていただろう。玄関が開く音がして、真美が先に出てきた。その後に、暗がりでも分かる背の低い影が続く。彼女は俺に気づかず、階段を小走りに下りて、男の子の袖を軽く引いた。
「りょう君、大丈夫。急がなくていいから」
その声は、耳の奥にぴったりと吸いついた。胸の辺りが冷えていくのが分かる。亮という一文字が、彼女の唇から放たれる時だけ特別な音に聞こえるのは、何かの錯覚だと思いたかった。真美は、細い肩を薄いカーディガンに包み、足元はサンダルだった。白いタンクトップから鎖骨のくっきりした線が伸び、リネン地のスカートが風に揺れる度、心許ない足首が見えた。隣に並ぶ少年は、黒い半袖シャツの前をはだけさせ、下ろし加減の前髪の下から目だけを光らせていた。
二人は小川沿いの道をゆっくり歩き始めた。俺は車の影から出られないまま、暑い汗がシャツの背中を伝っていくのを感じていた。指先がバカみたいに冷たい。逃げ場のない夕暮れの中で、彼女と男の子の肩が触れ合う距離まで、目を凝らしていた。
二人はやがて立ち止まり、真美がくるりと体を反転させた。
「ほら、虫の声、聞こえるでしょ。鈴虫みたい」
「……うん」
「夏、本番だね。あんたの心も、ちょっとくらい軽くなってくれるといいんだけど」
真美の声は優しかった。それは営業車の中で聞く、俺へのメールの文面よりも柔らかく、温度があった。地面に目を落とした少年は、草むらの先で止まったまま、何かを我慢するように両手をズボンのポケットへ突っ込んでいる。
俺は、ああ、こいつなのか、と思った。あの欝っぽい男子生徒。真美が毎日のように話題に出す、亮。部屋の前まで来ておきながら、俺は二人の後を追うこともできず、駐車場の車のドアに手を突いて、まるで酸素の薄い場所にいるみたいに息を吐いた。土手の草いきれは湿って、嗅ぐほどに舌の奥へ苦みを残した。
次の日、俺は昼休みに営業車の中で、真美へメッセージを送った。
「昨日、アパートの前まで行ったんだけど、出かけるとこだったみたいで帰った」
嘘ではなかったが、全部ではなかった。しばらくして、既読がついた。
「え、本当? 来てくれたんだ。ごめんね、ちょうどりょう君を連れて散歩してたの」
「夜の散歩って、また大変だな」
「家に一人でいるのが辛いらしくて、どこかに連れて行かないといけないんだ。私が側にいる間は落ち着くみたいで」
「それって精神科に連れて行った方がいいよ。夜中まで若い男と連れ歩くとか、普通の教師の仕事じゃなくなるぞ」
「うーん、そうなんだけど、親には言わないでほしいって本人が凄く怖がってるの。それに、親の同意がないと精神病院には行けないし。今は私が支えるしかないんだ」
俺はハンドルに額を押し付けるような格好で、文字を目で追った。「支える」という言葉が、妙に耳障りだった。昼の日差しを受けたフロントガラスの向こう、アスファルトから陽炎が揺れていた。窓を開けても、入ってくるのは熱風と排ガスの匂いだけだった。
「真美、さすがに甘やかしすぎじゃないか。生徒を一人で夜遅くまで連れ歩くとか、周りに見られたら何言われるか分かんないぞ」
返信はすぐには来なかった。俺はコンビニで買った冷たいお茶を飲み、染みた汗で透けたワイシャツの胸元をつまんで仰いだ。冷房の風が生ぬるい。しばらくして、画面に彼女の言葉が浮かび上がった。
「うーん、本当言うと結構可愛い系でちょっとタイプな感じで……」
メールの最後に、困ったような顔文字がついていた。俺はその一文をもう一度読み、それから車のエンジンをかけた。頭の中で、高い音みたいなものが響いていた。
「私が高校生だったら絶対好きになってると思うw」
続けて届いた文字に、俺は返信の指を止めた。奥歯を噛み締めて、背もたれに頭を預ける。喉の奥がからからに渇いていた。
「なんでそんな肩入れすんの?」
「だって、不安らしいからずっと手を繋いであげてるんだもん。手を握ってると、落ち着くって言われたの」
手を繋ぐ。その四文字が、昨日の土手の情景と重なって、脳味噌の奥にしみるように居座った。俺は返信欄を開いたまま、文字を打ち込んでは消した。「おいおいやめてよ」と打てば、冗談にしてしまえる気もした。だが、実際に送ったのはずっと短い一文だった。
「それ、彼氏としては面白くないな」
真美からの返信は既読になったまま、それ以上は来なかった。
七月下旬、真美が夏休み前の最後の出勤日を終えた夜、俺は電話をかけた。何か確かめたいことがあるわけではなかった。ただ、声が聞きたくて、昨日より温かい会話をして、それで胸のつかえを飲み直したかったのだ。彼女は三コール目で出て、少し掠れた声をしていた。
「もしもし。今帰ってきたとこ。外、暗くてさ。りょう君、すっごくしんどそうだったの」
「またか。今日も学校で会ってたんだろ?」
「うん。今日は、私がいないとダメだって言われて、三時間ぐらい校庭のベンチで話してたの。そしたらあの子、小学生みたいに私の指を握ってきてね、それで離してくれなくて」
真美の口調は少し照れていて、それでいて嬉しい秘密を打ち明ける子供のように浮ついていた。俺は営業先の駐車場に停めた車の中、フロントガラスに溜まる夜露を見た。
「真美、その亮ってさ、ほんとに欝なの?」
電話の向こうで、間があった。彼女はゆっくりと呼吸して、小さく言った。
「うん。本当に辛いんだと思う。でも、私が笑いかけると、すぐ笑うんだよ。それで、すごく可愛いの」
「お前さっきから可愛い可愛いって、それ、生徒だぞ」
「分かってるよ。でも、私が高校生だったら絶対好きになってると思うw」
「さっきメールで同じこと書いてきた」
「だって本当なんだもん。彼氏に言うのも変だけど、妬いちゃう?」
軽い口調で、そう言った。妬いている。鶏の胸肉を引き裂くみたいに、胸の真ん中が白く裂ける感覚がある。俺は何も言えず、ワイシャツの第二ボタンを外し、剥き出した喉のあたりを擦った。湿った手のひらは冷えていて、声に出すと情けないことだけが分かっていた。
八月に入って、真美は夏休みの補習と亮君の家庭訪問でますます多忙になった。彼女からのメールは、朝の「今日は学校」から始まり、昼を過ぎると徐々に亮の話題で満ちていく。俺はそれでも毎晩、返信を打った。気の利いた言葉を並べれば、この黒い澱のようなものは薄まるかもしれないと思っていたからだ。
「今日、りょう君に綺麗って言われた」
「へえ。高校生に言われて喜ぶ先生がいるか」
「だって、綺麗って言われたの初めてだからね! 彼女とかいない子なのに、真っ直ぐ言うんだよ」
「真美は可愛いし、綺麗だろ。言われたことなかったのかよ」
「なんか、しみじみ言われるとドキドキするの。ほっぺにチューしちゃいそうになったw」
俺はそのメッセージを見た夜、台所の流しで飲みかけの水を捨てた。蛇口の先から細く落ちる水が、銀色のシンクに跳ねて、暗い窓へ飛び散る。自分の顔が窓の向こうにぼんやり浮かんでいて、情けないほど薄っぺらい男の輪郭をしていた。
八月上旬のある日、俺は強引に時間を作って、真美と会った。久しぶりのデートで、夕方近くの駅前で落ち合い、食事をしてから、ホテルへ入った。彼女のワンピース姿を見た瞬間、胸の奥がきゅうと鳴った。白い麻のワンピースは肩のあたりが大きく開いていて、薄い日焼けをした肌と、細い鎖骨の窪みが痛々しいまでに白く見えた。風に鼻を近づけると、彼女の髪から、制汗剤と汗の混じった甘い匂いがした。
ホテルの部屋へ入ると、真美はすぐに荷物を置いて、ベッドの端に腰かけた。
「久しぶりだね。なんか、緊張する」
「お前が言うと、マジでそれっぽいな」
「だって、最近ずっとりょう君のことばかり考えてたから。悪かったね」
俺は真美の隣に座り、彼女の肩を抱いた。触れた肌の滑らかさに、心臓が絞られる。首元へ顔を寄せると、髪の下から蒸れた汗の匂いと、彼女の柔らかい体臭が混ざって、海の底へ沈むような錯覚に囚われた。細い肩が強張っている。俺は彼女の耳の後ろに唇を寄せ、小さな声で言った。
「今日は、俺だけのこと見てろよ」
真美は微かに笑って、頷いた。
服を脱いでいく。ワンピースのファスナーを下ろす音が部屋に響くと、彼女は下着姿のまま両腕を胸の前で組んだ。淡いクリーム色のブラとショーツは、汗で薄く湿っていた。Bカップほどの慎ましい膨らみを包むレースの縁が、白い肌に食い込み、そこから零れた横乳が柔らかく光る。真美はうつむき、膝の上で指を絡めた。
「あんまり、見ないで」
「なんで」
「分かんない。でも、今日はいつもより恥ずかしい」
俺は彼女をベッドに横たえ、花の匂いのする洗い立てのシーツに沈み込む体を、覆いかぶさるように見下ろした。小さめの乳房の頂点は、薄暗い間接照明の中でも、ほんのり赤く熟れているのが分かった。顔が、つじあやのに似ていると初めて思った日のことを、頭の隅で思い出していた。黒縁の丸メガネを外させた素顔は、丸くて小作りで、唇の横にうっすらと陰影がついている。首から胸へ伝う汗が、光って内側へ流れ込んだ。
「好きだ」
俺の声は掠れていた。真美は潤んだ黒い瞳をこちらへ向けて、微かに笑った。
「……うん」
何度も確認した。好きだと口にして、可愛いと繰り返して、その度に彼女の体を丁寧に撫でた。指先で胸の輪郭をなぞり、脇腹をくすぐるように下り、下着の上から茂みの形を確かめる。柔らかく膨らんだ布地の中心は、しっとりと熱を持ち始めていた。彼女は息を吐き、腰をわずかに浮かせた。吐息の音が、指先の下の布地を濡らすように聞こえた。
「隆、触って……」
真美が初めて、俺の名を呼んだ。俺は下着を脱がせ、脚を割り開いた。薄い陰毛の下、桃色の粘膜がうっすら開いて、空気に触れる度に、ひくひくと小さく口を動かしていた。陰唇の際から滴りかけている透明な液が、太腿の内側に筋を作る。俺はそこへ指を埋め、ぬちゃりと音を立てた。彼女の腰が跳ね、鼻から抜ける甘い声が漏れた。
「あ……っ、それ、きもちい」
「ここか? それとも、もっと奥に触って欲しい?」
「奥……隆の指、中で広げて……」
俺は彼女の中をゆっくりと掻き回した。ぬかるんだ肉襞が指に絡みつき、締め付ける。真美は首を反らし、小さな胸を何度も震わせた。汗と彼女の性器の匂いが、空気に重く棚引く。酸味の混じった甘い匂い。それが鼻腔の奥へ届くたび、俺の下半身は張り詰めていく。
「好きだ、大好きだ。お前のここ、可愛いよ」
「やだ、そんなこと言わないで」
彼女の声は泣きぼくろの下で震え、頬が熟れた桃のように紅潮した。俺は指の動きを速める。くちゅくちゅと、粘膜が指に吸いついて、部屋の静けさを犯すような音を零した。真美は細い指でシーツを掴み、喘ぎに押し上げられた喉を晒しながら、足を開いていく。
「い、いぃ……隆、隆……きもちいの、すごい……」
「イけよ。俺の指でイってみせて」
「はやく、指、抜かないで……あぁっ、や、もっと……!」
彼女は嫌々をするように首を振り、それから大きく身を跳ねさせた。中で何かが痙攣する。俺はそれを意図的に追い詰めるように、最奥の浅い窪みへ指先をこすりつけた。溢れる粘液が手のひらまで濡らし、肌が触れ合うたびにぴちゃぴちゃと湿った音が生まれる。
「──────っ! あぁ、や……来る、来るぅ……!」
真美は、内側を絞りながら俺の指を食い締めて、何度もイった。体が小刻みに跳ね、腹が吸い付くように波打つ。彼女の汗の匂いが、ホテルの乾いた空気に沁み込み、男としての獣を呼び覚ます。
一回目の後、俺は彼女を抱き寄せて、胸に顔を埋めた。心臓の音がまだ速い。小さな乳房の感触は、俺の胸を甘く焦がす。真美はぼんやりと天井を見つめながら、片足を俺の足へ絡めてきた。
「……隆は、私が亮君と会ってる間、不安にならない?」
「なるよ。すごく」
「ごめんね。でも、私、ちゃんと線引きはするから。彼氏は隆だから」
俺は何も言えず、彼女の背中を抱く腕に力を込めた。骨の浮いた背中。この細さが、他人に守られている場面を、俺は知っていた。汗の匂いと、俺たちの体液の匂いが、薄い胸板と彼女の顔を包んでいる。その中で、俺はもう一度、無理に明るい声を作った。
「好きだ。お前が俺のこと好きなら、何も要らないよ」
二回戦は、もっと丁寧だった。彼女の足を左右へ大きく開かせ、太腿の付け根へ唇を落とす。膝の裏から内腿へ舌を這わせると、真美は眉をひそめて、口を半開きにした。汗の塩気と、先ほど分泌された愛液が乾いた後の芳醇な匂い。彼女の性器は赤くほぐれ、皮を剥かれた果実の断面を思わせた。ここへ舌先を沈ませると、ちゅぷ、と小さな音がして、彼女の胎内が蠢くのが分かった。
「あっ、なめ……ちゃ、隆、やだ、また変になる……」
「いいよ、お前のここ、すごく柔らかい。俺の舌、覚えてるだろ」
舌で陰核を転がし、唇で陰唇を吸う。くちゃくちゃという下品な水音を立てながら、柔らかな襞を何度も押し広げていく。真美の喘ぎ声は途切れ途切れの泣き声に変わり、腰が浮きそうになるのを両手で押さえる。俺の鼻梁が、彼女の濡れた入り口に埋まる。彼女は「きて、きてぇ」と高い声で叫び、二度目の絶頂に崩れ落ちた。粘液が口許を汚すのも構わず、俺は彼女の中から零れる蜜を飲み下す。ほんの少しすっぱくて、溶けた鉄のような味が喉に残った。
そのまま彼女の中へ淺く入った。ぐちゅ、と粘液を突くような音がして、縮こまった膣が俺のものを締め上げた。越えていくたび、彼女は背をしならせ、首を左右に振って、白い喉を震わせた。
「あ、あ……おく、奥、きてる……こわい……」
「怖くないよ。俺がすぐ傍にいるだろ」
「隆……隆、好き、好きなの……あん、激しくしないで……ゆっくり、中、擦って……」
彼女の性器はまるで体温を全部集めてしまったみたいに熱く、肉茎そのものが融けてしまいそうだった。俺は彼女の手を握り締め、指と指を絡め合った。手を繋ぐ。あの土手で、彼女が亮としていた行為。俺は、彼女と手を繋ぐたび、指の一本一本に何かが染み込んでくるのを感じた。祈るように握り返される掌の温もり。その中心で、俺が信じたいものがぎゅっと音を立てている。
「好き、好き、可愛い。真美……」
彼女の胎内が答えようにひくついて、何か熱いものが溢れ出た。ずにゅっ、と奥まで届く快感に、俺はあやうく自分の腰を止めたくなる。射精の予感が睾丸の奥でのたくった。だが、それ以上に、彼女を倒錯した妄想から引き戻したくて、俺は何度も唇を重ねた。
「も、イく……隆、中で……あ、あッ……いっぱいいっぱい、出してぇ……」
「好きだ。どこの誰より可愛いよ」
「ああんっ、ちゅ、チューして……口、ふさいで……」
俺たちは舌を絡め合い、唾液を交換しながら、わずかに濡れた西日を受け継いだ薄闇の中で、熱い粘膜と筋肉の律動に沈んでいった。真美は細い足を俺の背へ回し、深く奥を差し入らせる。ぐちゅん、と深みで鳴る音は、今夜一番下品に響いた。
「あぁ──────っ」
彼女の背が弓なりになり、内部がぎゅうと搾り取るように痙攣した。声にならない喘ぎが、唾液でぬめる唇から漏れていく。俺も限界だった。最奥を一度、二度、突いて、彼女の中へどくどくと注ぎ込んだ。灼けつく粘液が彼女の内壁を満たしていく感覚に、腰が砕けそうになる。
「好きだ……真美、好きだ……」
喘ぐ声でそう繰り返しながら、俺は崩れ落ちる彼女を抱きしめた。一瞬、彼女の黒い瞳が、天井の一点を見つめていることに気づいた。あの光の消えた瞳は、とても遠くを見ていた。誰を見ているのか、聞かない。聞く勇気がなかった。俺は彼女の汗ばんだ額を拭い、また口づけた。彼女の顔には疲れた微笑が浮かび、小さい声で、ただ応えた。
「うん……私も、好きだよ」
俺はそれ以上何も言えず、彼女を抱き締め返した。汗に濡れた肌と肌の間を、冷房の風が冷たく流れていく。土手の草むらの匂いが、鼻の奥でふいに蘇った。夏の夜の、黒々と茂った草の匂い。手を繋ぐ、という柔らかい地獄が、俺の頭から離れない。彼女の指は、まだ俺の掌の中で、ほんの少し痙攣していた。
第3章 八月二十三日の夜、営業をサボった俺が見た窓の中の情交と「成功した」という声

第3章: 八月二十三日の夜、営業をサボった俺が見た窓の中の情交と「成功した」という声
八月二十三日、午後七時を少し回った頃だった。日中に溜め込んだ熱気がアスファルトから立ち昇り、小川沿いの細い道には人影がなかった。俺は営業先へ向かう途中でハンドルを切り、いつの間にか真美のアパートへ続く県道へ入っていた。胸のつかえは二週間前からずっと取れないままで、息苦しさだけが日増しに濃くなる。佐藤には「今日は外回りに出ます」とだけ伝えて、あとは連絡を入れていなかった。
川沿いに車を停め、エンジンを切る。窓の向こうで、蚊柱のような小さな虫が夕闇の中を乱舞していた。土手の草いきれが、むっと鼻の奥に絡む。夏の匂いだった。真美の部屋は二階の角部屋で、駐車場から見上げる位置にちょうど窓がひとつ、ぽつんと灯りを浮かべている。水色のカーテンが閉まっていて、部屋の中の様子は分からない。俺は車を降り、汗ばんだ手のひらでワイシャツの胸元を軽く引っ張った。
アパートの裏手へ回り込むと、土手の斜面に膝の高さまで雑草が繁っていた。小川の水音が、思ったより近くで、さらさらと夜の空気を削っている。草を踏む度に、青臭い汁の匂いが靴底から立ち昇った。自分の心臓がせわしなく鳴っているのが分かった。馬鹿だ。訪ねるなら玄関から正面切って行けばいいのに、身体は勝手に、彼女の部屋が見える位置を探していた。
部屋の窓から一筋、カーテンの継ぎ目が開いているのが見えた。そこから漏れるオレンジ色の照明が、手前の草むらに細く差し込んでいた。見ようと決めたわけではない。音がしたのだ。女の声が。湿度の高い夜気を突いて、くぐもった甘い声が風と一緒に流れてくる。ひ、とか、あ、とか、そんなくだけた吐息の粒が、決して大きくはないけれど、確かに俺の鼓膜へ届いた。
草むらに身を沈めると、土と汗の混じった匂いに包まれた。視界の先、カーテンの隙間から、彼女の白い肌が薄暗い室内に浮かんでいる。真美だった。黒縁の丸メガネを外した素顔が、いつもより幼く、赤く火照って見えた。肩までの栗色の髪は額に張りつき、開いた白いブラウスの前は左右に乱れ、胸のあたりが影と光にまだらに縁取られている。下着はどこにも見当たらなかった。小さめの乳房が、呼吸に合わせてこころもとなげに上下する。その頂点は、暗い室内でも見紛いようのない桃色に色づいていた。
真美の下に、背の低い少年が横たわっている。亮だ。黒いTシャツを着たまま、細い腰を彼女の中へ向けて、痩せた腹を波打たせている。真美はその少年の上に跨って、両膝をシーツの上に立てていた。白い太腿が、振動を伝えるように細かく震え、汗でてらてらと光っていた。俺は喉の奥まで苦い唾を呑み込み、それでも目を離せなかった。彼女の腰が、少年の体温でよく解れた粘土みたいにしなだれて、ゆっくりと前後に揺れている。
声が聞こえる。窓を閉めているはずなのに、網戸の目を通して、二人の声は理科の実験みたいに鮮明だった。
「りょう君、気持ちいい……?」
真美の掠れた問いかけに、少年が笑った気配があった。まだ変声期の名残を引いた湿っぽい声で、彼は輝かしく答えた。
「マミちゃん凄いよ。中、ぎゅうってしてくる」
「んんっ、あ……そう、ほんと……?」
彼女の黒い瞳が、とろりと溶けて、下の少年を覗き込む。汗ばんだ頬が薄闇の中でも熟れた桃の皮のように照り光って、口许はだらしなく半開きだった。鼻にかかった吐息が風に乗り、草むらに隠れた俺の前を素通りして小川の水面へ落ちていく。
「もう、やばい。俺、またイきそう……」
「いいよ、来て……私も、あっ、私も一緒に……!」
腰の動きが速まった。ぬぐ、と音がしたように感じたのは、たぶん湿った肉襞を若い肉が掻き回す気配だった。実際には、虫の声と水音がうるさいだけなのに、耳の奥では粘液が泡立つ微細な音が、ずっとこびりついて離れない。彼女の背中が大きく仰け反った。あのホテルでも見た、弓なりの白い華奢な曲線。手を突いて、腹を突き出し、骨ばった肩甲骨がくっきり浮く。その姿勢のまま、彼女は叫び声を噛み殺して、首を大きく後ろへ振った。
「ひ、あ───ッ……だめ、奥、奥に、来てるぅ……!」
腰を支えられ、内側から突き上げられている。カーテンの隙間から見える真美の横顔は苦痛にも似た快楽に歪み、舌が赤く覗いた。Bカップの乳房が揺れるというより、発作のように弾けて、薄い汗の幕を散らした。ああ、と思った。知っている。俺はあの顔を知っている。七月のホテルでも、何度も、何度も、そうして果てる彼女を抱いた。俺の下では触れただけで壊れそうだった女が、十六の柔らかな腰に跨り、教師の仮面を剥いで腰を打つ。
不意に、少年の身体が下から突き上がった。真美の喉が仰向いたまま、ひぃ、と悲鳴にもならない音を絞り出す。尻の肉が少年の腹に押し潰され、彼女の最も深い場所へ何か灼けるものが流し込まれているのが、この距離でも分かった。二人の足先が、窓の光の中で同時に伸びて、それから痙攣した。
草むらで、俺の身体も一緒に震えていた。怒りの代わりに、情けなくも下半身が熱を帯びている。スラックスの中が窮屈で、指先は土を掴んだまま動かなかった。心臓は、すぐ近くを流れる小川の音なんかより、ずっと大きな音で全身を叩いていた。
五分とも経たずに、アパートの前から別の声がした。低い、若い男たちの声。三つ。笑いを噛み殺すような、夜の獣染みた湿った話し声が、壁伝いに上がってきた。
「なー、マジでやってんの?」
「マジだって。成功したって言ってたじゃん」
「うわ、まじだw 窓のとこ、映ってる?」
「おおすげー亮の奴w あれマミちゃん下で、マグロになってんじゃん」
駐車場の車の影から、三人の若者が窓を見上げていた。短い金髪に剃り込みを入れた男、茶髪のセンター分けの男、手足の長い無造作髪の男。声質と体格から、二十歳くらいだろう。俺は草むらに伏せたまま、彼らの会話を聞いているしかなかった。汗で張りついたワイシャツの背中が、夜風に撫でられて急に冷える。
「ホントにセックスしてるし。あのクソガキ、最初っからやる気満々だったろ」
「あれ、声聞こえんの? やらしーなーw」
「マミちゃん、オッパイちっちゃいのな。でも腰の使い方エロくね?」
「っしょ、亮が上がったら、やることやろうぜ」
「明日あたりやるか? 俺、休みだし金もないからよ」
「とりあえず、動画撮ってけよ。マミちゃんのチッパイ♡」
「いや、今日の夜中でもよくね。あのマミちゃん、ほぼ堕ちてるじゃんw」
心臓が硬い音を立てた。ぐっ、と草を握り潰す。土が指の間で潰れて、湿った感触と青臭さだけが鼻を刺す。世界が、ぐらりと溶けて傾いていく。欝なんてものはなかった。なかったのか。真美は、壊れやすい教え子の手を握って、夜の川辺を歩いて、そして今、その少年の性器を自分の奥でしごいている。それを、全部知っている男たちが、外で笑っている。
賭けだ。成功した。たったそれだけの言葉で、あの夏の手の温もりも、相談に乗る必死な真美の声も、全部音を立てて塵になっていく。
立ち上がって、あの若者たちを殴りつけられる勇気はなかった。真美の部屋の扉を蹴破って、Aの首を掴む胆力もなかった。土手の草むらに、俺は埋もれるように座り込み、震える指で、自分のズボンの中で熱く張り詰めたものに触れていた。認めたくなかった。俺の中の一番浅ましい場所が、ぬるり、と動いて、真美の喘ぎ声を身体の底へ運んでいく。
剛というのだろう、あの金髪の一人が、低く笑い声を零した。
「つかさ、亮があの女と寝ただけで三万勝ちって、俺らガメられた側じゃね。次こそ俺らも回させろって」
「大丈夫だろ。約束してあるし」
「おい、あれ見ろよ。マミちゃん、抱きついてテぇるw マジでガキに骨抜きにされてんじゃん」
下卑た笑いが土手の斜面に跳ねて、小川の音と混ざりながら消えた。虫の羽音が近くを掠め、草の切っ先が頬を引っ掻く。彼女の扇情的な呼吸だけが、いつまでも、切れ切れに風に乗って俺の耳へ届いた。
「……明日あたり、みんなで行くか。マミちゃんのアソコで、おれらもシゴいてもらおうぜ」
「俺、後ろからやらせてよ。背えろいの、超そそるわ」
「お前それ、先に俺が言ったからなw」
若者たちは、ひそひそと計画を囁き合いながら、駐車場の車の方へ戻っていく。ドアの閉まる音が聞こえ、しばらくすると、重い排気音が遠ざかった。部屋の窓には、まだオレンジ色の灯りがある。真美が、あの少年の胸に顔を伏せて、ゆっくり背中を上下させているのが見えた。彼女の肩甲骨の窪みに光が溜まり、喘ぎの余韻でちいさく波打っていた。
俺は立ち上がり、よろけながら車へ戻った。運転席に座って、汚れた手を何度もスラックスで拭った。靴底には踏みつぶした草の汁が、青い匂いを残している。エンジンをかけると、正面の窓の奥で、真美が裸の腕を伸ばして少年の首に抱きつく瞬間がはっきり見えた。指先が、あの子の背中を撫でる。手を繋ぐ、という行為のずっと先にあるものを、彼女は今夜確かめてしまっている。
車を発進させながら、俺は気づいていた。あの三つの声を、俺はこのまま誰にも告げることができない。真美にも、佐藤にも、もちろん警察にも。決定的な問いを、声にして叩きつける勇気が、どこにもないのだ。胸の底に、鉄の味みたいな苦さだけが広がって、夜道を見えにくくしていた。
ワイパーも出していないのに、視界が時折にじむ。涙ではなかった。きっと、草むらで吹き出た汗だった。
第4章 翌日の土手、三人に囲まれた彼女が口と両手と下半身で同時に奉仕し、俺は草を握り潰す

第4章: 翌日の土手、三人に囲まれた彼女が口と両手と下半身で同時に奉仕し、俺は草を握り潰す
翌日、八月二十四日の午後、俺は佐藤に「ちょっと外回りを」とだけ言って、営業車ごと県道を逸れた。日はまだ傾ききっておらず、田んぼを渡る風には煮えた草の匂いが混じっていた。車のエアコンは昨夜から調子が悪く、生ぬるい空気が額の汗を舐めていく。小川沿いの路肩に車を停めると、心臓が昨日とは別の生き物みたいに騒ぎ始めた。昨日のこの時間、俺はまだ何も知らなかった。いや、知っていたんだ。真美の声も、亮の影も、賭けという言葉も、全部知っていて、それでも俺はこうしてまた同じ土手へ足を運んでいる。
土手の草は昨日よりいっそう青臭く、蚊柱が耳元でぼうと唸っていた。小川の音は昨日より低く、泥を運ぶ濁流が石を擦る響きに変わっている。ユニフォームのワイシャツが背中に張りついて、脇から汗が一筋、肋骨を伝ってベルトのあたりに吸い込まれていった。俺は昨日と同じ場所、アパートの二階が見渡せる草むらの窪みに身を沈めた。日陰の地面は湿っていて、膝を突くと染みが広がった。
十分もしないうちに、軽自動車の排気音が近づいてくる。駐車場でドアを閉める音が続けざまに三つ。俺は草を掴み、喉を詰めた。昨日の連中だ。金髪に剃り込みを入れた剛が真っ先に階段へ向かい、茶髪の健がその後に続く。無造作な黒髪の亮太は、スマホを弄りながら、思わせぶりな笑いを浮かべていた。三人とも、昨日の会話の通り、何かを企んでいる足取りだった。迷いがない。約束された獲物を回収に来た、あの種類の気安さがあった。
階段を上る足音がして、玄関のチャイムが湿った空気を裂いた。俺の頭の中では何か叫んでいる。行くな。行って、扉を開けるな。だが、唇は革靴の泥を噛んでいるだけで、言葉にならない。実際には、俺は草むらの上で膝を抱え込み、呼吸だけを何とか殺していた。視線の先、水色のカーテンが微かに揺れて、部屋の奥から真美の声が漏れる。
「……あんたら、どうしたの?」
間の抜けた問いかけだった。ドアの向こうで、剛の笑いを含んだ返事がする。
「やっほー、マミちゃん。暑いからオアシス求めて来ちゃった」
「なにそれ、りょう君なら今日まだ来てないよ。ていうか、何で名前知ってんの」
「亮から聞いたんだよ。昨日、亮が世話になったんで、俺らも挨拶しとこうと思ってさ。中、入れてくんない?」
真美は少しの間黙った。俺は草むらから窓を見つめ、彼女の影が玄関先で迷い、片足のつま先を内側に向けているのを想像した。真美は勝手知ったる相手には弱い。拒絶の仕方を、他人との間に引く線を、根っこから見失う。
「りょう君が来るまでなら、ちょっとだけだよ」
「それでいいって。お邪魔しまーす」
三人分の靴が脱がれる音が聞こえた。玄関の扉が閉まる。俺は唇の内側を噛みながら、窓の明かりを見上げていた。昨日までこの部屋には、俺しか上がらないはずだった。俺だけが座っていい場所だった。真美は「彼氏は隆だから」と、あのホテルで確かに口にした。なのに今、あいつらは土足で、いや、脱いだ靴をしっかり揃えて、彼女の生活へ踏み込んでいる。
夕暮れの光がカーテンの隙間を橙色に染める。部屋の中で、健の声がした。
「マミちゃんって、家では結構ラフな格好してるんだ。学校と違って、すごい色っぽい」
「そう? 普通の部屋着だけど……」
「それ、亮にだけ見せてたわけじゃないんだ?」
「どういう意味? 別に、そういうのじゃないし」
湿度を帯びた会話が、網戸越しに風と一緒に届く。窓は閉まっているようだったが、ベランダ側の小窓が少し開いていた。話し声だけでなく、衣擦れの音や、冷蔵庫からペットボトルを出す音まで、嫌に鮮明に聞こえる。
俺はごくりと唾を飲んだ。もう帰れ。帰って、佐藤に「やっぱり体調悪いです」と電話しろ。頭の中ではそう命令する声がする。けれど足首は土に縫い付けられたように動かず、身体はさらに前のめりになっていく。草の切っ先が頬を刺す。土手の匂いが、舌の根に青い苦みを残した。
真美の笑い声がした。短い、照れたような声。
「だから、何でそんなこと聞くの。高校生っぽくないってば」
「いいじゃん、夏休みだし。あんま堅く考えないでよ。俺ら、亮の友達っつーか仲間だし」
「仲間って……りょう君ってあんたたちとつるんでたの?」
「まあ、最近ちょっとね。マミちゃんと会うようになってから、俺らとも遊ぶようになったんだ」
その声に、亮が現れる気配はまだない。俺は時計を確かめた。六時を回っている。約束の時間が近い。おそらく、これは昨日の打ち合わせ通り、亮が少し遅れて来る筋書きだ。俺はあの深夜の駐車場で、三人が笑いながら「明日あたりやるか」なんて囁いているのを聞いた。その「やる」の意味が、今まさに部屋の中で形になりつつある。
しばらく雑談が続いた。学校の話、花火の話、真美が炭酸水を注ぐ音。剛の声が一際はっきりと、笑いの尾を引いて窓から流れ出た。
「なー、マミちゃん。俺もさ、マミちゃんのこと結構前から好きなわけよ。一回だけでいいからさ、近くでじっくり見させてくんない?」
「あなた、急に何言い出すの。全然笑えないんだけど」
「笑えなくてもいいよ。俺、真面目だから。亮みたいにめんどくせーこと言わないし、一回っきりでちゃんと終わりにするからさ」
窓の中の空気が変わった。真美の肌が強張り、笑い声が途切れたのが、草むらに伏せた俺の耳にも分かる。女の防衛本能が、静かに上の空へ逃げて、足先を出口へ向けようとしている。だめだ、真美。今すぐ追い返せ。怒って、不機嫌になって、教師の顔になれ。今日はもう帰って。
俺の祈りはいつも空回りする。部屋の中で、健が甘えた声を重ね、亮太が「先生、俺らと話してるのバレたらやばいんすかね」なんて笑う。圧が、三人分、少しずつ彼女の座る位置へ近づいていく。カーテン越しの影が、じり、と動いた。
真美の声がした。うわずった、今にも掠れてしまいそうな声。
「あなたたち、りょう君がいるから入れてあげたんだよ。意味分かんないことしないで。帰るなら、今帰った方が……」
「亮が来るまで待ってるって。それに、帰んのは亮が来てからでもいーじゃん。ほら、マミちゃん、手ぇ握ってみたいなーって思ってさ」
「や、ちょっと……」
俺は、窓の下部、カーテンの切れ間から、真美の白い腕が見えたのを一生忘れない。ピンクがかった爪が、剛の黒い手首によって引き寄せられ、指の一本一本を割り開かれる。細い指だ。あの指。俺は駅のホームで、海沿いの道で、ホテルのシーツの上で、その指を握った。眠る前まで俺の体温を覚えていたはずの、あの手が、今、断りきれずに他人の掌の中で固まっている。
不意に、網戸の外まで、くちゃ、と唾液の絡む極小の音が走った。キスされた。剛が。彼女の口を。窓の外で、風が止まった気がした。土手の草もしんと沈み、小川の音だけが無遠慮に、俺とあの部屋の間を流れていく。
「ん……っ、やだ、やめて……男の子たちが三人も、何考えて……」
「だから、思ってることを素直にしただけだって。先生の口、柔らけーし、甘い匂いする」
俺は草むらに突っ伏したまま、茂みの先から部屋の中を凝視した。真美の肩が小刻みに震え、抵抗の言葉が喉の奥で溶けるのが見える気がする。剛の背中が窓枠を隠し、その向こうで健がスマホを縦に向けた。画面の光が、彼女の乱れはじめた栗色の髪を舐めて、白い輪郭を青く浮かび上がらせる。撮影している。健のスマホが、今まさに彼女の唇と背中を、後ろから滑らかに狙っている。
「なに、動画? やだ、それ、回さないで……あんたら頭おかしいよ、警察呼ぶからね、警察」
「呼べるなら呼んでみれば? マミちゃん、高校生の亮とヤッてたの知られてもいいならさ」
低い、意地悪な声が返った。真美の身体から血の気が引いていく。ああ、もう、手遅れかもしれない。反抗の言葉は唇の内側で水泡になって、彼女は息を詰めた。足を組んだまま、膝の上で指を絡め、彼女は逃げるタイミングを失って、じっと目を泳がせる。その顔が、つじあやのを可愛くしたみたいな小作りな輪郭を汗で光らせ、黒い瞳をうるうると揺らしている様子まで、俺には全部見えていた。
「りょう君……りょう君、まだなの。あんたたち、ほんとにりょう君の友達なんでしょ。だったら、こんなこと……」
「亮は分かってくれてるって。マミちゃんが俺らとイチャイチャしても、あいつニヤニヤすんだろ」
「ありえない……」
剛の手が、真美のTシャツの裾に潜る。深呼吸する背中が、窓の枠の内側で弓なりに反り返った。小さな乳房の膨らみを、ブラの上からゆっくり掌で割って、頂きの粒を親指で潰す。彼女の口が開き、形のいい顎が天を仰いで、太腿が苛立ったように震えた。抵抗の指が剛の腕を掴み、爪を食い込ませるが、その力は心底弱い。
「ちょっと、や、そこ、つまらないで……ンンッ、んぁっ」
「乳首、もう立ててるし。先生のからだ、正直でエロいなー」
「んひッ、あ……違う、ちがう……どうして、やだ、何で感じちゃうの、私……」
ショーツの上から、誰かの手が股間を覆った。健だ。健が後ろから手を伸ばして、彼女の太腿の付け根を、布地ごとくちゅ、と押し潰す。淫蕩な水音までは聞こえない。陰極の布が熟れた湿り気をにじませて、肌色の内腿を濡らしているらしい。彼女は首を振り、涙の浮いた目で天井を見た。
「……やめ、あ、それ、押さないで……あんたら、ほんとに、変だよ……あぅッ、だめ、ひいいぃ……」
縋るような声が、窓を抜けて土手に落ちていく。昨日の夜、真美はこの部屋で亮に跨り、同じような声を出していた。あの時の声は嬉しそうで、ねだるように低く溶けていた。今は、もっと剥き出しの、自分の肉体に踏み込まれる戸惑いと、弱い快感とがない交ぜになっている。
あっけなくイかされた。剛の指がびちゅびちゅと音を立てはじめ、健が陰唇の割れ目を布の上から小刻みに引っ掻くと、真美は大きく背中を仰け反らせて、足先を爪立てながら虚空を蹴った。腰が数回跳ね、喉の奥から悲鳴とも泣き声ともつかない細い呼気が漏れる。瞳を限界まで見開いて、言葉にならない濁った叫びを、舌の先に絡めたまま果てていく。たぶん、また宿した。この女は、恐怖と快楽の境を手探りで越える時、必ず、あのホテルで見せたのと同じ顔をする。
「すげ、先生、イったんじゃん」
「人の家で、声我慢しないとかエッロ」
「あー、も、むりむり。俺らも付き合わせてもらお」
剛が彼女の短いパンツのホックに指をかける。真美が両手で抵抗する間に、亮太が後ろからワンピースのような部屋着を肩からずらし、ブラのホックを片手で外した。真美は「や、ねえ、あんたたち、正気なの?」と掠れ声で繰り返した。怒りよりも、泣き出しそうな困惑が先に立って、声が荒れない。
「正気だよ。マミちゃんが先生として見てくれないなら、女として見ればいいだけだからさ」
「俺だって、ほんとはすげー好きなんだって。先生になったら、尚更エロく見える」
会話の端々が、思ったより真剣な響きを帯びていて、下品な野心が熱に変わる瞬間が、土手からでも手に取るように分かった。彼女の抵抗は、肩を捻り体を丸める程度で、三人の手を遅らせるのが精一杯だった。
「あんたたち、高校辞める気? 私の立場、考えたことあるの?」
「知るかよ。マミちゃんの事は欲しいし」
「俺、亮と違って、マミちゃんの一番深いとこまで抱きたい」
低い若い声。自分の体を守るよりも、相手の熱量に呑み込まれてしまう。真美は、あの子、亮の手を信じて「相談に乗る」と決めた時から、この流れを止められない。亮という柔らかい橋を渡して、彼らは教師の部屋まで来てしまっている。
ついに彼女は、上半身の布と下半身の布を無惨にずらされ、窓辺のカーペットの上で三人がかりの玩具にされた。剛は彼女の口に、行き場のない自分の陰茎を押し込もうとしている。真美は嫌がって首を捻るが、亮太が後ろから頬を掴み、無理やり口をこじ開けた。剛の陰茎は若く、怒張した血管が夕暮れに照らされて浮き上がっていた。彼女の唇へ先端が触れる。湿った肉の熱。俺は草むらの中で、自分のスラックスが窮屈に膨らんでいるのを感じていた。泣きそうだった。情けなくて、悔しくて、それでいて目の奥がカッと熱くなる。
「んぐ……っ、う、ぐ……」
「歯を当てんなよ、マミちゃん。あー……口ん中、やっばい何これ。オンナの先生とかほんと最高だな」
ぐちゃ、ぐちゅ、と唾液が泡立つ。彼女の口許は貼りつく唾液で濡れ、白い泡が唇の端からこぼれ落ちる。嫌悪で首を引きながらも、楽にして飲み込もうと喉が動き、鼻から苦しげな呼気が噴き出た。健が彼女の右手を、亮太が左手を掴み、それぞれ熱く反り立ったものを握らせる。細い指が言うことを聞かないまま、しごく形だけの摩擦を生む。その度に二人が甘い声を上げ、真美の頬に精液や恥辱を吹きかける準備を整えていく。
「マミちゃん、手の力抜いて。そうそう、爪立てないようにさ。あー、柔らけえ……」
「奥の手、もっと絡めて。先生、俺のでかいのどう?」
「や……あ、むり……こんなの……」
じゅぷ、じゅぷ、と手淫の音。ぶちゅ、ぐぽ、と口枷になった肉が奥を突く。息継ぎの隙に、真美は顎を痙攣させながら、口いっぱいの陰茎をしゃぶらされた。涙と唾液と先走りが混ざり合い、彼女の小作りな顔面をてらてらの膜が覆っていく。
俺はこの状況を、少し離れた土手の上から、文字通り見下ろしている。夕暮れの空が血の色に沈み、部屋の中の乱れがカーテンの切れ目から断片的に洩れる。二人の男に手を握らせたまま、彼女は床に膝を着き、顎を突き出して、剛の下肢を啜った。健はその横でスマホを固定していた。胸の谷間から乳首を撮り、股を開かれた場所も映す。白い下腹部が薄闇に浮き、黒い陰毛の三角形がぬらぬらと光った。真美の内腿に、粘つく愛液の糸が、まるで水飴みたいに伸びていた。
下半身には、健が背後から這い入っていた。彼女が喉に陰茎を咥えこんだまま、後ろから臀部を持ち上げられ、肛門と女陰が布の隙間から剥き出しになる。健は息を乱し、彼女の濡れた入り口を指先で開いた。薄桃色の粘膜が、夕日と部屋の灯りに照らされ、熟れた果肉のようにてらていた。挿入を焦った腰が、ついに彼女の中へずるり、と沈む。想像よりもずっと容易に、真美は男のものを呑み込んだ。
「────っ……ふぐ、ぅぅ……」
「んっ、なにこれ、マミちゃんの中、めちゃくちゃ締まる。昨日の今日で、よくこんなきついな……」
「それ、亮が中出しした証拠じゃん。奥、溶けてんじゃん」
「あー、犯してる。俺、今マミちゃんのこと犯してるわ」
ずぶずぶと前後に動き、肉と肉の打ち合わさる音が窓を突いて外に跳ねる。パンパンパン、と若い臀部が彼女の白い尻を叩くたび、真美は口いっぱいの肉を吐き出して、情けない声を外へ落とした。涙で化粧どころか素肌まで崩れて、それでも快感を拒めない首を、左右に力なく振る。陰唇が外側へめくれ、絡みつく粘液が白く泡立つ。三人分の手と唇と性器が、教師という鎧を溶かしていく。
「マミちゃん、おっぱい小さくても、こうして見るとよだれ出るわ」
「んああっ、や、やめて、奥、突かない……で……ひッ、ああぅ……」
「奥がいいんだろ。亮が散々開いたとこ集合してんだよ、男が兄弟みたいに入ってやってんのに」
「ああっ、あ゙、だめ、だめぇ……ひいいぃッ」
彼女の背中が弓なりに仰け反り、今度は泣き声と一緒に、喉の奥を突かれた快感が漏れた。健は容赦なく腰を使い、膣の中を掻き回す。ぐぽ、ぐぽ、と凄まじい水音がして、溢れた愛液が太腿を伝ってカーペットに落ちているはずだった。窓の角度からは見えない。だが、耳元に音だけが、昨日の小川より生々しく届く。俺はそれを、土手の上でどくどくと鳴る男根の熱と一緒に聞いていた。聞きたくなんてなかった。今すぐ耳を塞ぎたいのに、両手はなぜかズボンの前を握っていて、瞳は窓から剥がれない。
剛が、彼女の正面に回り、喘ぎで開きっぱなしの口を塞ぐ。動物的な、食い合うようなキス。唾液が二人の唇を繋ぎ、真美の顎を伝って胸の谷へ流れる。その間も、右手と左手は性器を握らされたまま、機械みたいに上下へ動かされている。彼女の両脇で、亮太が荒い息を漏らす。
「先生の手、やらか。指細いのにぎゅってしてさ」
「おれ、そろそろ出るかも。口ほしい。口に出したい」
「じゃあ代わるどんどん。俺は後ろから挿れてえし」
交代の相談を、彼女が聞いている。涙で赤い真美が、首を横に振っても、男たちの腰の位置は入れ替わっていく。俺は草を握り潰した。土が指の間で潰れ、青い繊維が爪の裏へ食い込む。あの時、Aと手を繋いでいた真実を知った日、俺はまだ「手を繋ぐ」という行為に嫉妬だけを覚えていた。だが今夜は違う。彼女の手は全部を他人に握られて、俺が触れたかった指の間に、若い男たちの性器が埋まっている。手の温もりの全部が、俺の手の記憶から、音を立ててひっくり返っていく。
本物の悲鳴が上がった。後ろから入った亮太が、体重をかけて彼女の背を折るみたいに挿入したからだ。
「あぐぅっ! や、らめ、きつ……、あんた、それ、あんたの、大き……ひぃぃッ」
「俺バックがいいって言ったじゃん? マミちゃんのおしり、やわらかー。中、ぬるぬるだし、きゅんきゅん締めてくる」
「ちが……違う、勝手に……あぁんっ、あっ、んっ、ンンッ!」
背後から畳みかけるように突き上げられ、真美は四つん這いで額を床へ押し付けた。栗色の前髪が乱れて、泣き腫らした顔が隠れる。垂れた胸が揺れ、腰が雷に打たれたみたいに跳ねる。男たちの股間と彼女の胎の打音が、小川のせせらぎを食い破って、土手に伏せた俺の腹の奥まで響く。
不意に、スマホのアプリの音がして、健が笑った。
「ねえマミちゃん、おしっこ我慢してるんでしょ? 飲みすぎたんじゃないの」
「……ぅ、しらな……、あ、ああ、も……」
「撮ってやるから、ここで出しちゃいなよ。こんな話、学校の先生がしてるとこ、超映えするっしょ」
彼女は首を強く振った。膨満感が膀胱だけでなく、突き上げられる子宮の奥から込み上げている。羞恥に潰れそうな顔が、それでも半開きの唇からは浅い呼吸を落とす。俺は耳を塞げなかった。彼女が、照明を反射する細い太腿をがくがくと震わせて、耐え切れずに放ってしまうまでの、あの長い秒針を、俺は確かに聞いていた。ぶるっ、と肉体が痙攣し、尿の放たれる際どい音が、カーペットの上でしとしとと広がっていく。温かい異臭が窓から逃げて、土手の草いきれに混じる。嗅いだ覚えのない芳香。真美の一番深い場所が、他人の手で晒され、記録されている。
「あはは、マジ出した。先生、腰震わせてヤバ」
「動画バッチリ。ほら、ユキちゃん、カメラ目線してって」
「……んぅ……見ないで、もう、消して……あ、あぁっ、突い、ちゃ、やぁああッ!」
開脚した彼女の前に健が回り、まだ抜けない背後からの抽送に合わせて、こぼれる尿道へ指を絡める。敏感な突起を捏ねられ、彼女はまた呆気なく達した。浅い絶頂を繰り返し、その度に膣が白く泡を散らしながら男の肉茎をきつく咥え込む。
10分ごとに体位と相手が変わった。剛が正面から股を開かせて挿入し、その間、亮太と健が左右の腕や舌を独占する。仰向けの真美の小さな胸は、揉まれて赤く色づき、乳首は指で捻られて可哀想なほど硬く立ち上がった。テーブルの上で仰け反らされ、ぶら下がる姿勢で下品に突き上げられもした。泣き疲れた声が、次第に「あ、あ、あ」と、規則的な音になっていった。やめて、という拒絶は消滅し、延々と続く三人の動きを受け止めるだけになりかけている。
あれからどれほど経っただろう。空はすっかり藍色に沈み、星も出ない薄闇が、部屋の灯りをいっそう淫らに切り抜いていた。土手では、蚊が俺の首筋に吸い付いていた。叩く気力もない。ワイシャツは汗と草の汁でぐっしょりで、夜風が吹くたびに、冷たさが骨まで染みる。
中の物音が、ようやく静かになっていった。男たちは交代で二度、三度と果て、彼女にごっくんを強いた。口内や尻へぶちまけられた精液が、垂れてきて床に溜まっているはずだ。ぐったりした真美が、あの見慣れた水色のカーテンの裾を握っているのが見えた。あんなに綺麗だった指が、泥と唾液と精液にまみれて、ひくひくと震えている。何か言った。掠れすぎて、土手までは届かない。どうか、俺の名前を呼んでいませんように。いや、呼ぶなら、今のうちに呼べ。怒鳴り込む口実を、早く俺に寄越してくれ。
俺は立てなかった。立ち上がって、あの階段を駆け上がって、扉を叩く力が、膝から下に残っていない。それ以上に、草むらに隠れた俺の下半身は、昨日と同じようにスラックスを押し上げて、ひどく正直だった。悲鳴を聞いて、涙を見て、誰かに開かれる彼女を見て、俺は確かに昂ぶっていた。もう片足が憎悪へ沈んでも、もう片足が欲情に立っている。どうすることもできない。
剛の声が、切れ切れに聞こえた。
「終わったな。マミちゃん、シャワー行ったかな。おーい亮、次どうすんの」
「明日も時間あんなら、また連絡すっから。しばらくはこのままキープでいいだろ」
「なんか、すげー柔らかくなってたな。マミちゃんの中、戻らなくなってんじゃん」
会話は楽しげに、次第に遠ざかる。彼らは笑い合い、階段を下り、駐車場の車のドアを煩く閉めた。排気音が闇に吸われていく。それでも俺は、草むらから動けなかった。虫の羽音と、小川の水音が、俺の耳を埋めて、彼女のすすり泣く気配を上書きしていく。
気がつくと、泣いていた。俺は土まみれの片手で顔を拭い、乱れた前髪から冷えた汗を振り払った。ズボンの前は、情けないほど湿っていた。恥ずかしい、悔しい、悲しい、欲しい。ぜんぶ同時に、胃の奥で渦を巻いている。俺は真美の部屋を出る三人を引き留めなかった。窓の中の、あの壊れた彼女を助けなかった。代わりに、もう一度だけ、光る窓を見つめた。
一時間半。それが、彼女が他人へ開かれていた時間だった。俺は草を握り潰した。手のひらに残る青い匂いが、朝まで消えそうになかった。
第5章 八月の終わり、彼女は足腰立たず、俺は日常のメールを送り続ける

第5章: 八月の終わり、彼女は足腰立たず、俺は日常のメールを送り続ける
八月二十九日、日曜の午後だった。窓の外は薄曇りで、日差しが柔らかく部屋の隅まで届いていた。エアコンをつけずにいると、じわじわと汗が滲む。俺はベッドの上に寝転がったまま、スマホの画面を開いた。真美へのメッセージを、何度も入力しては消す。
「今日、そっち行ってもいいかな」
その文字を打って、送らずにしばらく眺めた。送信ボタンに親指を置く。押せない。押したら、あの土手での夜が、すべて現実のものとして形を持ってしまう。そんな気がしていた。結局、俺は「暑いな。そっちはどう?」という、何の意味もない一文だけを送った。
十分ほどして、返信が来た。
「今日は家でアイス食べた。ドラマも見てたよ」
他愛のない返事だった。あの夜のことを、少しでも匂わせる言葉はない。俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。返信の文字は、いつもの真美のものだった。明るくて、軽くて、どこか抜けている。汗で湿ったワイシャツを脱ぎ捨て、床に置いた扇風機の風を背中に受ける。汗ばんだ肌が冷えて、首の後ろがひりついた。
「そうか。ちゃんと休めてるならいいけど」
小さく脈打っている。目が冴えて、眠れそうにない。俺は薄い空気を吸った。部屋のカーテン越しに、薄い光が揺れている。真美の部屋の水色のカーテンも、夕暮れの風でこんなふうに揺れていた。目を閉じると、あの窓の明かりが浮かんだ。網戸の外から、彼女の切れ切れの喘ぎが、土手の草むらを伝ってくるあの距離。俺は頭を振り、扇風機の音だけを聞くようにする。
しばらくして、もう一度だけスマホを見た。真美からの返信は「うん、大丈夫だよ」だけだった。それ以上はない。俺は画面を伏せて、枕に顔を埋めた。
翌週から、九月が始まった。街の空気はまだ夏の匂いを残していたが、吹く風には時折、乾いた草のにおいが混ざるようになっていた。営業先の駐車場に車を停めると、切れたエアコンの代わりに窓を開けて、熱っぽい外気を入れる。ワイシャツの背中が汗で張りつき、ハンドルを握る手に力が入らなかった。
真美からのメールは、それでも毎日届いていた。朝の「今日も学校」という短い連絡。昼の「お昼食べた」という報告。それらを、俺はどうしていいのか分からないまま眺めていた。彼女の生活が続いていることが、胸の奥を鈍く締め付ける。遠い。指先が触れたら、壊れてしまいそうだ。
火曜日、会社に戻ると、佐藤が声をかけてきた。
「お前、最近顔色よくないな。ちゃんとメシ食えてんのか?」
「食ってます。大丈夫です」
「そうか。夏バテか? 無理するなよ」
佐藤は机の上の書類をめくりながら、それ以上は何も言わなかった。空調の効いた事務所の中で、冷えた空気が俺の汗ばんだ首に張りつく。営業成績は先月から目に見えて落ちていた。数字が並んだ表を見るたびに、先延ばしにしてきた現実が、少しずつ重くなっていくのが分かった。
「今日は暇だから、早く帰っていいぞ」
佐藤が、閉じた手帳を脇に置きながら言った。俺は頭を下げて、事務所を出た。車に戻ると、ハンドルに額を押し付けた。しばらく動けない。土手の草むらの匂いが、鼻の奥で蘇る瞬間があった。青臭くて、湿っていて、夏の終わりの雨の名残を帯びた土の匂い。息を深く吸うと、胸の奥までその匂いが入り込んで、胃のあたりが冷えた。
その夜、真美からメールが来た。
「最近、忙しい? 学校も始まって、少し落ち着いたら会いたいな」
指が止まった。文字を追う。会いたい。彼女のその言葉を、俺はどう受け止めればいいのか分からなかった。今、目の前のスマホに映っているのは、あの夜、三人の若者に囲まれ、腰を砕いて、声を詰まらせていた彼女だ。それでも毎日、真美は変わらない調子で連絡をくれる。そのことが、かえって俺の輪郭を溶かしていく。
「ああ、落ち着いたらな」
そう打って、送った。それしかできなかった。
金曜日の午後、外回りの合間に小川沿いの道を通った。車を走らせながら、遠くの土手を一瞬だけ見た。草むらは夏の盛りよりも色が褪せ、天に向かっていた葉先がわずかに垂れはじめている。あの場所だけ、時間が止まったまま、草の匂いだけが色あせずに残っている。ハンドルを握る手のひらが汗で湿った。俺はアクセルを緩め、路肩に一時停止した。アパートの窓が、薄曇りの空の下で、灰色の光を反射している。
あの部屋には、今、真美がいるかどうかも分からない。カーテンは閉まっていた。明かりはついていなかった。ただ、あの窓を見上げた瞬間、心臓の奥が氷を呑み込んだみたいに冷たくなった。土手へ車を降りようとは思わなかった。もうあの場所に入る勇気は欠片もない。それなのに、通りかかるたび、視線はあの窓の位置を探してしまう。
「手を繋ぐという行為を、もう隆は信じられない」
夕方、営業車の中で、スマホのメモ帳を開いた。打ちかけて、やめた。何かを書いても、何かを消しても、結局俺は彼女に何も伝えられない。指の間を、熱い汗が伝っていく。七月のあの夜、真美はあの土手で、亮と手を繋いでいた。俺は、それを知っていながら、何も言えなかった。その事実が、今になって全身を冷やす。
夜、アパートに帰ると、エアコンをつけ、スーツを脱いで、シャワーを浴びた。熱い湯を頭から浴びても、ワイシャツに染み込んだ記憶の匂いが消えない。土手の草、真美の汗、窓越しの咽ぶような声。洗ったはずの指先から、青い汁の匂いが立ち昇る。俺は片手を壁に突き、目を閉じた。あの時、俺の下半身は確かに反応していた。悲しみと、怒りと、どうしようもなく昏い欲が、同じ場所で脈を打っていた。
ベッドに倒れ込むと、スマホの画面が小さく光った。真美からの新着だった。
「今日も、アイス食べた。涼しい夜だったから、部屋の窓開けてみたよ」
何の変哲もない。あの夜のことは、彼女の中で、もう形を変えて溶けてしまったのかもしれない。それとも、毎日の何気ない連絡で、俺を繋ぎ留めているだけなのか。どちらでもいい。どちらにせよ、俺は返信を打つ。
「そうか。ちゃんとカーテン締めて寝ろよ」
それだけ送ると、俺は枕に顔を埋めた。スマホの明かりが消え、真っ暗な部屋に、窓の外の虫の音が満ちてくる。手のひらを目の前にかざすと、暗闇の中に白く浮かんだ。この指で彼女に触れた記憶が、腐った果実の甘さのように喉へ絡む。
九月に入ってからも、真美のメールは一日に一度か二度、途切れずに続いた。けれど、亮や不良たちの名前が、少しずつ出なくなっていた。それ以上に、彼女は何も語らない。俺もまた、何も問えない。あの一件以来、腹の底に溜まったまま膿んでいる塊が、どの言葉を選んでも外へ出てこない。
仕事中、エアコンの風に当たりながら、汗で濡れたワイシャツの背中を机に押し付ける。冷えた空気が、肌に張りついた布をひやりと固める。その感触が、思わせるのだ。あの土手の草むらで、三人の男が彼女を抱くのを覗きながら、俺のワイシャツは冷たい汗でぐっしょり濡れていた。あの時の、張りつく感触。皮膚の上を、真夏の夜風が撫でていく。
昼休み、給湯室で水を飲んでいると、佐藤が入ってきた。
「真鍋、お前、最近やつれてきてるぞ。なんかあったなら言えよ」
「……夏バテ、ですかね」
「だったらいいがな」
佐藤は紙コップに水を注いで、一口飲んだ。しばらく沈黙があった。テレビの音が、薄い壁越しに聞こえる。俺は紙コップを握りつぶし、ゴミ箱に捨てた。
「仕事はいいから、体調を戻せ。営業は元気が一番だぞ」
「はい」
頭を下げると、首の後ろがまた冷えた。
九月の中旬、夕方に一時土砂降りになった日があった。営業先の軒先で雨をやり過ごしていた。アスファルトを打つ雨の匂いと、土から蒸せ返る湿った空気が混ざって、夏の終わり特有の生温い風が吹いた。俺は空を見上げ、この雨が土手の草を濡らすのだと思った。あの場所の草むらは、きっともう、乾き切ってはいない。八月末のあの夜と同じように、湿り、重く、青い匂いを放っている。
ポケットでスマホが震えた。真美からだった。
「雨、すごいね。今、家に帰るとこ」
「俺も外回り。車だから平気」
「気をつけてね」
三点リーダーも、絵文字も、いつもの調子だった。でも、あの時のように「好き」とも「可愛い」とも書かれていない。彼女からの言葉は、まるで事務的な挨拶の羅列みたいに、静かだ。それとも、こういう距離が、元々俺たちの正体だったのか。
雨宿りの軒先で、ふと、あのホテルの記憶が胸を過った。汗ばんだ真美の肩、小さな胸の真珠のような膚、指で割り開いた桜色の粘膜。俺はたしかに、彼女を全身で感じていた。あの時、天井の一点を見つめていた彼女の黒い瞳。あれが何を見ていたのかを、俺は知っている。知りながら、何度も抱いた。
雨が上がる頃、空の端が茜色に滲んだ。水たまりが光り、遠くで踏切の音が聞こえた。俺はスマホの画面をじっと見つめた。彼女のアパートの窓明かりが、ふと、目蓋の裏に灯った。
夜に光る、あの小さな窓。土手の草むらから見上げた、彼岸花のような、爛れた夏の灯。
俺は車に戻り、エンジンをかけた。フロントガラスを雫が滑り、歪む景色をワイパーが掻き消す。街の灯りが次第に増えていく中、助手席のスマホに、真美からの最後の言葉が静かに浮かんでいた。
「気をつけてね」
返信はしない。いや、できない。バカみたいだ。たった五文字に、喉が塞がる。俺は胸ポケットのタバコを探して、ないことに気づいた。車の窓を少し開けると、湿った夜風が流れ込み、ワイシャツの襟に雨の名残を滲ませた。
家に帰ると、何もする気になれず、スーツのままベッドに腰かけた。立ち上がるたび、足の裏に残っている気がした。土手の草の感触。ぬかるんだ土の、冷たい弾力。あの場所へ通った二日間の、足裏の記憶が剥がれない。
「手を繋ぐって、なんだったんだろうな」
声に出していた。部屋の暗がりに、その問いだけが浮かんで、消えた。真美が、俺の隣で笑っていた。俺の指に細い指を絡めて、何かを嬉しそうに話していた。駅への道、ホテルの前、海沿いの防波堤。どこでも手を繋いだ。その温かさを、俺は本気で信じていた。
もう、あの指が誰の手を握り、どんな熱を弄んでも、俺にはどうもできない。
カーテンの隙間から夜の光が細く入り、畳の上を横切っていた。俺はその線を避けるように、ベッドの端へ座った。扇風機を回すと、むんとした部屋の空気が揺れる。時の流れが、水の中みたいに鈍い。
夜、日付が変わる頃、真美からまたメッセージが来た。
「今日の夜、ちょっと肌寒いかも。窓、閉めてる」
何かが、ぷつり、と切れた気がした。この女は、俺の知らない夜を、積み重ねていく。閉じた窓の向こうで、彼女が肌を震わせる夜も、彼女があの男たちの手を払えずに喘いだ夜も、ぜんぶ、彼女の日常として沈殿していく。
俺はただ、風呂にも入らず、汗と雨と草の匂いが混ざったワイシャツを、暗がりの中で静かに脱いだ。冷え切った肌が、夜の空気に晒される。胸の辺りが、ひどく軽くて、深い。
スマホを握ったまま、俺は目を閉じた。返信をしなくても、朝になれば、彼女からの「おはよう」が来るのだろう。けれど、それに応える声を、俺はもう持っていなかった。手を繋ぐという記憶だけが、細く、熱を持って、指のあいだに居座っていた。
第6章 連絡を絶ち、自然消滅した夏の記憶だけが残る

第6章: 連絡を絶ち、自然消滅した夏の記憶だけが残る
九月も半ばを過ぎると、夜の空気はようやく夏の芯を手放して、窓を開けて眠れるくらいに変わっていた。俺はそれでもエアコンをつけたまま、薄い毛布を腰まで引き上げて、スマホの画面が光るのを待つような時間を繰り返していた。真美からのメッセージは来たり来なかったりで、来たとしても「今日、職員会議長かった」とか「スーパーで梨が出てた」とか、輪郭だけ抜き取ったような文面だった。俺も負けていない。返信は一日に一度、二行か三行。会話と呼べるかどうかも危ういやりとりが、ぬるい洗濯水のように日々を満たしていく。
「もう、夜になると半袖じゃ寒いかも」
真美からのそんな言葉に、俺は長袖のシャツを出したかどうかという事務的なことを考えた。彼女が肌寒さを口にするたび、あの土手の湿った草いきれや、窓の向こうの汗ばんだ白い肌が、頭の裏でちりちりと音を立てる。喉まで出かかった「会いたい」は形を失い、代わりに「そうだな」とか「風邪引くなよ」とか、紙切れみたいな平坦な文字だけを送る。送信するたびに、胸の内側の水面が一枚ずつ凍っていく気がした。
九月最後の金曜日、真美から少し長いメッセージが届いた。
「今度、会える? 前に話したみたいに、ご飯でも行けたら嬉しいな。私、そろそろ落ち着いてきたし」
俺はその文面を三回読んで、しばらく液晶を指でなぞっていた。以前の俺なら、すぐにでも車のキーを掴んで、小川沿いの道を走り出していただろう。今の俺には、その道を通ることが何よりも怖い。そこが彼女の部屋へ続いている限り、道の先にはいつもあの窓が見えている気がする。
結局、返した言葉は薄っぺらかった。
「今月はちょっと忙しくて。仕事が落ち着いたら連絡する」
私にはそれが精一杯だった。正直な心臓は、「まだお前の顔を見られる気がしない」と濁った血を送っている。指先が勝手に嘘をついて、体温だけが妙に冷たい。真美からはしばらくして、既読よりもずっと軽い調子の返信が届いた。
「そっか。無理しないでね。仕事、大変なんだ」
その労わりの言葉が、俺には薄いガラスの板みたいに思えた。向こう側の温度はもう分からない。こちらの震えも、たぶん届いてはいない。カーテンを閉め切った部屋で、俺はスーツのまま床へ座り込み、ネクタイを緩めた。喉元が冷える。息を吸うと、アイロンの糊の匂いと、ほんの微かに残った土手の草の匂いが、肺の奥でかち合った。
十月に入ると、真美からのメッセージは数日おきになり、やがて一週間まるごと空くようになった。それが不自然なことだとは、もう思わなかった。人の気配というものは、こうやって一度静まってしまえば、泡が消えるように淡く散っていくのだと、自分へ言い聞かせる夜もあった。俺も自分から彼女へ文字を送るのをやめた。いや、やめたというより、送れなくなっていた。送りたい言葉の底には、いつもあの八月の窓が張りついていて、何を打っても上澄みだけが浮かんでしまう。
十月十日、月曜の夕方。営業車で外回りを終えて事務所へ戻ると、佐藤が自分の机で眼鏡を外し、書類を揃えていた。俺が汗の乾いたスーツの襟を直しながら通りかかると、彼は顔を上げて、少し間を置いてから口を開いた。
「真鍋、来月いっぱいで、お前、青葉台の営業所に異動だってよ」
心臓が、一瞬だけ変な音を立てた。異動。青葉台。隣の市まで車で四十分の、もっと静かな住宅地を抱えた支所だった。
「そうなんですか」
「正式には来週発表。俺も今日聞いた。で、どうする? 嫌ならまだ何か言えるかもしれないぞ。家庭の事情とか」
「いえ、大丈夫です。行きます」
自分でも驚くほど、すとんと返事が出た。体の内側で、逃げ道を探していた何かが、ようやく見つかった戸口へ体を向けた。青葉台へ行けば、小川沿いの道を通らなくなる。土手の草の匂いも、夜に光るあの窓も、車の移動ルートから外れる。真美の暮らしが地図の上から少しずつ薄れていく。それは俺にとって、切実な救いのように思えた。
「そうか。お前がいいなら止めないけどな。また飲みに行こうや」
佐藤はそう言って、俺の肩を一度だけ軽く叩いた。その手の温かさが、薄いワイシャツを通して骨にしみる。俺は曖昧に黙礼して、自分のデスクへ向かった。パソコンの画面を見ながら、指がうまく動かない。マウスのカーソルが小さく震えていた。
十一月の初め、異動の内示が出て、俺は引き継ぎの書類に忙殺された。日が暮れるのが早くなり、事務所を出る頃には空が深い藍色に沈んでいる。駐車場のアスファルトの上を、落ち葉が乾いた音を立てて走っていく。季節がすっかり移ろったことを、肌で感じる。去年の夏のことを思うと、すべてが遠い夢のようにぼやけて、それでいて土手の記憶だけは変に輪郭が濃い。
異動を来週に控えた水曜日、久しぶりに真美からメッセージが届いた。表示された名前を見た瞬間、胃のあたりが痛いほど縮こまる。
「知らなかったんだけど、引っ越すんだってね。佐藤さんから聞いたよ」
指が止まった。佐藤。彼は彼女とどこかで繋がっていただろうか。いや、あの気の回る上司なら、俺の異動のことを真美へ伝えるくらい簡単にやりかねない。文字を見つめたまま、胸の真ん中にほどよい温度の火が灯る。怒り? それとも安堵? どちらでもない不定形の熱だった。
「ああ。青葉台の営業所に行くことになった」
「そうなんだ。急だね。会えなくなっちゃうね」
「まあ、仕事だから」
薄暗い更新速度で、会話が続かない。俺たちは互いに、水面の上だけで相手を探っている。向こうは俺が知っていることを知らない。俺は向こうが知らないことを知っている。その差が、深い溝になって、真ん中を冷たい水が音もなく流れている。
「引っ越す前に、一回だけでも会えないかな」
真美からのその言葉に、俺は応えなかった。未読のまま一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、部屋の隅でスマホが明滅する。返信しなかったことで傷つける。それでも返信に充てる言葉が、どこにも落ちていない。何かを告げるなら、あの八月の土手の真実を、声にしなければならない。だが、そんな勇気は、最初から俺の中に一滴もない。真美の「こっちの方がいい」という言葉が、網膜の裏で何度も再生されて、心を削り取っていく。
十一月九日、水曜日。リクシルの営業所へ寄った帰り、俺はその用事を片付けなければならなかった。本当は避ければよかったのだ。少し遠回りをすれば十分だった。それでも、カーナビの案内が切れる手前で、なぜだか俺はハンドルを左へ切っていた。タイヤが路上の銀杏の落葉を潰し、鼻の奥に苦い匂いが届く。小川沿いの細い道。あの道。もう何ヶ月も通っていないのに、カーブの位置まで体が覚えていた。
日はとっくに暮れていた。小川の音が、窓を閉めた車内へも低く沁みてくる。冷たい水がやかましく石を噛む音。あの夏は、この水音が喘ぎ声を隠していたが、今はもう、ただの十一月の音だ。土手の草は所々茶色く萎れ、ナイロン袋が風にはためく。道の先、あの二階の角部屋にだけ、小さく暖色の明かりが見えた。真美の窓。水色のカーテンの端が、人工の光を細く外へ漏らしている。
俺はアクセルを緩め、路肩へ車を寄せた。エンジンを切る。世界が急に静まり、小川の流れだけが、呼吸の代わりに耳を塞いだ。心臓の音がまた大きい。こんなにも月日が経っているのに、あの部屋を目にした途端、八月の湿度を着たままの自分が、運転席に座っている気がした。ワイシャツの襟が草の匂いを呼び、背中が冷や汗で湿りはじめる。懐かしい、と言ってしまえば、この感情は腐る。腐臭をごまかすために、俺はハンドルへ額を押し付けた。
カーテンの向こうで、人の影が動く。女の影。真美だろう。彼女はしばらく窓辺に立っていて、何かを手に取る仕草をして、それから部屋の奥へ消えた。窓は開いていない。声も聞こえない。なのに、耳の奥だけが、あの夏の夜の、決して消えない粘液の音と、涙を含んだ喘ぎを再生しようとする。指先が震え、ドアノブに手をかけたが、開けなかった。いや、開ける理由そのものが無い。俺は、確認したいわけじゃない。あの夜の真実を、夜風に溶かして、一度きれいさっぱり無かったことにしたいだけだ。だが、それは誰にも許されない。
どれくらいそうしていただろう。後方から軽自動車のヘッドライトが近づき、俺の車の脇をゆっくりと通り過ぎていく。白い軽が駐車場へ入り、空いた場所に停まった。エンジンが止まり、しばらくして運転席から若い男が二人、後部座席からもう一人、降りてくるのが見えた。二十歳くらい。金髪の頭。茶髪の男。背の高い奴。俺はミラーの位置も変えず、指がハンドルを握り潰す。まさか、と思う。あいつらだ。草むらに隠れたあの夜、震えながら見ていた。剛。健。亮太。あの三人。彼らは我先に笑い声を上げながら、物慣れた足取りで外階段を上がっていく。小川の冷たい水音が、その笑い声を切り裂いて、夜へ撒き散らす。
俺は車のシートに背を深く沈めた。息が浅い。口の中が麻痺したみたいに乾く。彼らの影が窓の明かりに消える。四つ目の影。玄関を開けて出迎える真美の細い輪郭。まだはっきり見える。黒いカーディガンを羽織った、あの華奢で、少し猫背の女。笑っているのか、泣いているのか、この距離では分からない。分かりたくなんてなかった。彼女が彼らを部屋へ招き入れ、扉が閉まる。また夜の闇と水音だけが残る。
どの面を下げて、あの部屋を訪ねられただろう。何を証明するために、窓の明かりを見たのだろう。答えはない。窓は光っている。目を逸らすことが、俺に残された唯一の、大人らしい終わり方だった。車のエンジンを、小さく、ゆっくりとかける。ヘッドライトが土手の枯れ草を照らして、その先の闇を白く剥がす。俺はハンドルを切り、二度と来ない道へ向けて車を返した。ミラーの中の窓は、遠ざかるほどに熱い灯を濃くして、最後まで俺を見送っていた。
翌日、佐藤の差配で、営業所の荷物を段ボールへ詰める手伝いをした。彼は黙々と古いチラシを束ねながら、ふいに手を止めて言った。
「引っ越す前に、彼女には会ったのか?」
「……いえ」
「そうか」
沈黙が、青いビニール紐の擦れる音に食われる。凌げない。俺はネクタイを解きたくなった。首が絞まっている。
「お前、なんかあったろ」
その問いには、答えるための口が、もう形を失っていた。強がりも取り繕いも、内側の錆には効かない。
「何も。本当に、何も」
声が掠れた。嘘ですらない。何もなかったのだ。何も告げず、何も壊さず、何も守らなかった。ぽかんと空いた胸の真ん中を、十一月の冷たい風が吹き抜けていく。佐藤は小さく頷いて、段ボールの底にガムテープを貼った。
異動の日は、薄曇りの朝だった。十一月十五日。事務所の前で、佐藤が見送りに出た。乾いた土の匂いと、焼却炉の煙の匂いが、冬の手前の空気に混ざっている。車のトランクに、僅かな私物を積む。段ボールは先に送ってある。佐藤は両手をジャケットのポケットへ突っ込み、しばらく空を見上げてから、俺へ手を差し出した。
「頑張れよ。お前、要領は悪いけど、真面目だから、どこでもやれる」
「はい。お世話になりました」
握手は、乾いていた。瞬きをすると、視界の端の曇り空が少し滲む。空に、秋の鳥が一羽、音もなく流れていった。青葉台営業所に向かう車内で、俺はずっと窓の外を眺めていた。冬桜の枝が揺れ、小川の冷えた鱗のような光が、建物の間を縫って走る。その水を、もうこの道では追わない。
スマホが一度だけ震えた。真美からの、短いメッセージだった。
「新しいとこでも、元気でね」
指先が冷たかった。文字を追うと、ほんの少しだけ、喉の奥が甘く痛んだ。返信欄を開き、そして閉じる。また、ぷつり、と小さな音が胸の底でした。夏のあの夜、真美が何を選び、彼女の身体がどんな夜を越えてきたのか、今の俺は知らない。知りたいとも思わない。土手の草は枯れ、あの窓の明かりは、秋の喪失に溶けた。
車が県道へ合流し、小川沿いの町が、ミラーの中で静かに遠ざかっていく。汗で濡れたワイシャツの冷たい記憶も、いずれ洗濯のたびに薄れて消える。それなのに、最後まで指先に残るのは、真美のあの体温だ。細い指を絡めた、静かな七月の、夏の熱。俺は何も告げられなかった。告げる代わりに、じん、と痺れる両手で、ハンドルを握り直した。
ミラーに、夕暮れでもない灰色の空が映っている。窓の明かりを、もう振り返らない。
登場人物
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真鍋隆 まなべ たかし男性 ・ 25
外見: 黒髪短髪、茶色の瞳、ガリ体型で身長173cm体重58kg。服装: 白ワイシャツに紺のスラックス、夏はネクタイを緩める。地元不動産営業、外面は丁寧だが内面は不器用。嫉妬を飲み込む癖。
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真美 まみ女性 ・ 27
外見: 肩までの栗色の細い髪、黒縁の丸メガネ、黒い瞳、細身でBカップ、身長160cm。服装: リネンのブラウスにフレアスカート、または薄手のニット。落ち着きがなく子供っぽい、感じやすい体質。好意と業務の境目が曖昧。
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亮 りょう男性 ・ 16
外見: 黒髪で前髪が目にかかる、鳶色の瞳、小柄で華奢、身長162cm。服装: 制服の半袖シャツをだらしなく着崩す、または黒いTシャツにハーフパンツ。欝を装う計算高さと、仲間内での砕けた態度の二面性。
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剛 ごう男性 ・ 20
外見: 短い金髪に剃り込み、濃い茶の瞳、細マッチョで肩幅広い、身長178cm。服装: タンクトップにダボパン、または開けたジャージ。ノリと勢いで動く元生徒。ユキちゃんと呼ぶ。
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健 けん男性 ・ 20
外見: 茶髪のセンター分け、黒い瞳、細マッチョで体格均等、身長175cm。服装: 黒のTシャツにジーンズ。仲間に同調しつつ口説くタイプ。
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亮太 りょうた男性 ・ 20
外見: 無造作な黒髪、茶色の瞳、細マッチョで手足長い、身長180cm。服装: 白のロンTにカーゴパンツ。仲間と対象化するタイプ。
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佐藤 さとう男性 ・ 45
外見: 短い白髪交じりの黒髪、濃い灰色の瞳、中肉中背、身長170cm。服装: 開襟シャツにチノパン。部下思いで観察力がある上司。





