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弁護士ドナーの肉茎にアナルを拡げられていく妻と、盗聴をやめられない僕の百日間の記録

寝取られ(NTR) / 覗き・いたずら 全6章 約96分で読了(47,556字) 2026年10月1日

あらすじ

子種がないと告げられた夫・忠史の前で、妻・涼菜は「成功率を上げたい」と他人との腟内射精を選ぶ。弁護士ドナーの戸田と重ねる受精期間。帰宅した妻の下着は、いつもと違うレースに替わっていた。聴覚が捉える、知らない妻の声。

第1章 第1章 空っぽの精液

第1章のシーン

第1章 空っぽの精液

あれから半年が経つというのに、十月下旬の泌尿器科はあの日と同じ静けさに満ちていた。白い壁、白い床、白い天井。どこにも影というものが見当たらず、蛍光灯の光だけが均一に降り積もって、自分が吐く息の輪郭さえ曖昧に溶かしていく。廊下へ足を踏み出すたび、安っぽい革靴の底が硬い床を叩く音が、やわらかな膜を一枚ずつ破くように広がっていった。

あの日、診察室の前に立ったとき、磨き込まれた木目のドアにぼんやりと自分の顔が映っていた。痩せた輪郭。くすんだ唇。ひどく疲れているのに、その疲れが表面だけのものに思えて、妙に落ち着いている自分がいた。指先で軽く二度、三度、ノックをした。音はこぢんまりと室内へ飲み込まれ、一拍置いてから「どうぞ」と低い声が返ってきた。

ドアを引くと、アルコールと消毒液の混ざった匂いが鼻の奥を刺した。甘いようで苦い、粘膜の奥にべたつくような匂い。子供の頃、高熱を出して通った町医者の診察室を、この匂いがいつも連れてくる。あのときも私は一人、白い壁に囲まれた空間へ足を進めた。

窓際のデスクに宮下看護師が座っていて、私が入ると手元の書類から顔を上げた。白髪の交じった黒髪を耳の後ろで無造作に束ね、薄桃色のナース服の上に白いカーディガンを羽織っている。ふくよかな体を安楽な角度で椅子に沈めたまま、落ち着いた焦げ茶色の瞳が私をとらえ、それからほんの僅かに細められたのを覚えている。

「曽根忠史さんですね。おかけになってください」

促されるまま、デスクの向かいにある冷たいパイプ椅子へ腰を下ろした。腰骨のあたりから、細く尖った金具の感触がズボン越しに食い込んできた。あのときの冷たさは、半年経った今も尾てい骨の奥に小さく残っている。

看護師の前には一枚の検査結果が置かれていた。細かな数字が縦横に並び、それぞれの項目が何を示すのか、素人の私には判別できなかった。ただ、紙面の中央よりやや下、赤いボールペンで書き込まれた「精子濃度 0.0×10⁶/ml」という文字だけが、まったく別の色温度で目に飛び込んでくる。あのゼロが二つ。あたかも、私の内側の空っぽをそのまま切り取って、白い紙の上に置いたようにそこにあった。

「検査の結果ですが、精液中に精子が確認できませんでした」

宮下看護師の声は、沈黙を切り開くたびに温度をなくしていく。事務的で、静かで、感情の凹凸というものがまるでない。だからこそ、言葉は尖ったガラス片のように胸の真ん中へ落ちてきた。

「無精子症という状態です」

窓の外では、銀杏が黄色に染まり、風が通るたびに葉が数枚ずつ剥がれて落ちていく。それぞれの葉が地面まで届くのに、何秒かかるだろう。一枚、また一枚、ひらひらと暗い夕方の底へ沈んでいく。私は診察室の椅子に座ったまま、その落下を目だけで追っていた。時折、看護師が話す言葉の断片が耳を掠める。精巣から直接精子を採取する方法。必ずしも諦める必要はない、という一文。しかし、それらはすべて遠い水面の波紋みたいに揺れて、私の内側へは一滴も浸みてこなかった。

「奥様にもお話しして、今後の方針をゆっくり決めてください」

私は小さく会釈をした。喉のあたりに熱いものがつまり、礼の言葉さえ音にならなかった。白い床のタイルの目地を、ただ黙って見つめていた。

夕暮れの帰り道、駅までの銀杏並木を一人で歩いた。風は冷たく、コートの襟元をくぐって首筋をなぞっていく。落ち葉を踏むたび、乾いた音が足の裏から頭蓋のいちばん深いところへ順番に響いてくるようだった。あれから半年。今となっては、銀杏の黄葉も、肌を刺す風の冷たさも、すべてが遠い記憶の底で澱んでいる。けれど、あの帰り道の感覚だけは、今も足の裏の芯に住み着いている。

ポケットの中で携帯電話が一度だけ震えた。涼菜からのメッセージで、「夕飯は鮭の塩焼きにしようと思うの」とある。画面を見つめたまま、指先が動かなかった。行き交う人の肩が横を掠めていく。ようやく打ち込んだのは「ありがとう」の四文字だけだった。

家へ着くと、ドアを開けた瞬間、昆布出汁の柔らかな香りが廊下まで流れてきた。私の心だけが、その生活の温もりに混ざれず、上着を脱ぐ手が妙に遅い。玄関からキッチンへ続く短い廊下の先で、涼菜が野菜を刻んでいる。規則正しい包丁の音がひとりでに空間を整えていく。あの日、その音はあまりにも穏やかで、だからこそ一層、自分がこの家の異物であるかのような心地にさせられた。

夕食の間、彼女はいつものように静かな声で今日あったことを話した。近所の花屋で見かけた小菊の色、スーパーの卵が特売だったこと。私は「うん」「そうなんだ」と短く相槌を打ち、鮭の身を箸で小分けにしながら、噛まずに飲み込めるものなら飲み込んでしまいたかった。

風呂から上がり、寝室の隣にある洗面所で歯を磨いていると、涼菜が食器を洗う水音がかすかに聞こえてくる。濡れた手をタオルで拭きながら、キッチンへ続く扉のそばへ立つと、彼女は今日も生成りのゆったりした部屋着に身を包み、栗色の髪を一つに結んでいた。あの日の後ろ姿は、今も瞼の裏にこびりついている。半年という時間を挟んでも、その輪郭だけは恐ろしいほど鮮明に、私の網膜に灼きついたまま離れない。

その背中が、かすかに動くたび、背骨の上を布がゆっくりと滑る。刀のように緩く、あるいは恥ずかしそうに湾曲する腰の線。首すじには結い損ねた後れ毛が張りつき、洗い物の湯気と湯上がりの体温で、白い肌はうっすらと桜のように色づいている。あの肌に触れれば、きっと石鹸の匂いが指先へ移るだろう。あのときの私は、そんなことを考えずにはいられなかった。

私は彼女の後ろへ歩み寄り、肩の先にそっと手を置いた。指先に伝わるネル地の柔らかさと、その下にある小さな骨の形。涼菜が蛇口を止めて、振り返る。長い睫毛が二度、三度、あどけなく瞬きをして、琥珀の混じった明るい瞳が私を見上げた。

「どうかしたの?」

彼女の声は、湯気の中でしっとりと湿り、キッチンの明かりに溶けて広がる。私は何も言わず、彼女の体を抱き寄せ、首と肩の継ぎ目あたりに顔を埋めた。温かい皮膚から、ストロベリーのボディソープと、その下に潜んだ汗とも水ともつかない匂いが立ち上ってくる。それは雨の降り終えた後の草、あるいは朝早くに干したシーツの奥に広がる、ほの白い甘さ。なのにあの夜は、その匂いの一粒一粒が粘液状になって、私の鼻の奥へまとわりつくようだった。

「あがったばかりで熱いの」

涼菜は小さく笑って、照れるように肩をすくめた。私は何も言わず、彼女の手首を指先で包み、そのまま薄暗い寝室へと引き入れた。

分厚いカーテンをきっちりと閉め、ベッドサイドの小さなランプだけをともす。橙色の光がダブルベッドの白いシーツへにじみ、そこへ腰かけた涼菜の輪郭を、寝間着の上からやわらかく浮かび上がらせた。彼女を枕に横たわらせると、結んでいた髪がほどけ、栗色の束が白い枕の上へ音もなく散っていく。私の指が彼女の前を脱がせ、続けて自分もパジャマを脱ぎ捨てた。夜の空気が剥き出しの肩を舐め、互いの体温だけがひときわ濃く、そこにあった。

涼菜のむき出しの胸が、暗い灯火の下でゆっくりと上下する。先端の薄い色は、熟れる前の木の実みたいに小さく影を落として、息を吸うたび背を反らせた。私はその上へ掌をかざし、触れるか触れないかの距離で彼女の呼吸を指の腹に受け止めた。

けれど、私の股間は静けさに沈んだままだった。細く、生温かい肉の感覚だけが足のつけ根にぶら下がっている。自分の意思とは無関係に、ただ体重を逃がすためだけに折れた、頼りない塊。彼女の手が伸びて、私の中心を柔らかく握る。温かい指先の形が、輪郭に沿ってゆっくりとなぞる。だが、そこから先の兆しは一向に訪れない。触れられるほど、申し訳なさばかりが下腹の奥に溜まっていく。泥水をゆっくり掻き回されるような重い苦しさが、腹の芯をぐずぐずと腐らせていった。

涼菜のへその下へ、指の腹を沿わせる。白く滑らかな腹の皮膚は、吸いつくようにしっとり熱い。臍の縁をなぞり、更に下へ。すると彼女は小さく身をよじり、息を呑む気配を見せる。それなのに、私の体は応えない。まるで神経のいくつかが根元から断たれてしまったように、快楽の予感だけが靄の向こうで揺れている。

彼女がもう一度、私の性器へ指を絡めた。熱い指、湿った感触。けれどその中心は水に沈んだ芯のようにぷつぷつと痺れるばかりで、立ち上がる気配は微塵もない。私は彼女の手首をそっと持ち上げ、代わりの行為を探すみたいに胸のふくらみへ唇をつけた。仄かに甘い、肌そのものの味。舌先で乳首を転がすと、彼女の肩がぴくりと揺れる。なのに私の奥底では、情けないほど静かな、自分の心臓の音だけが無遠慮に響いていた。

「今日は疲れてるの? ……だいじょうぶよ」

涼菜は私の額に手を伸ばした。ひんやりした指が前髪をかき上げ、そのまま額の産毛を優しく撫でる。彼女の手は、氷を溶かすようにゆるやかで、私の形を壊さず包み込む。私はその手を握り返し、少し力を入れたまま、死んだように静かな性器を彼女の太ももへ押し当てることすらできずに横たわった。目を閉じると、瞼の裏に銀杏の葉が黄色く明滅する。それを追いかけるうち、自分の中のすべての熱が足の先から抜けていく。

********************

あの夜、私たちは子を成すことを諦めたのではない。諦める代わりに、別の扉を静かに開いたのだ。その事実が、半年経った今、ソファの背もたれのきしみ、月明かりに青白く浮かぶ窓枠、そして隣に座った妻の横顔の輪郭となって、私の内側に焼きついている。

夜が深くなってから、一人でリビングのソファに座っていた。大きな窓の向こうでは、月明かりを受けた街路樹の影が、風ごとにその形を歪ませている。隣の寝室では、涼菜が眠っているはずだった。耳を澄ませても、寝息すら聞こえてこない。静けさが耳の奥で、薄い膜を張っていく。時計の針が秒を刻む音だけが、ずいぶん遠くで、他人の家の生活のように聞こえた。

しばらくして、寝室のドアが低い音を立てて開いた。裸足で床を踏む気配が近づいてくる。薄いガウンの前をかき合わせた涼菜が、音もなく隣へ腰を下ろした。スプリングがゆっくり沈み、彼女の髪からシャンプーの残り香がふわりと流れてくる。

窓から差し込む月光が、彼女の首筋の彫りを青白い線のように浮かび上がらせている。その線が、呼吸のたびに静かに波打った。彼女は背筋を伸ばしたまま、組んだ両手を膝の上に置き、薄い膝頭を何度か指先でなぞっている。その指先の動きだけが、彼女の思考の輪郭をなぞるように、かすかにぎこちなかった。

「忠史さん」

彼女の声は、夜の一部をそのまま剥がしてきたような、低くてつややかな音だった。

「わたし、成功率を上げるために、直接」

そこで、ほんの僅かに間が空いた。窓の外の木々が、かさりと一度だけ鳴る。

「膣内に射精してもらう方法にしたいの」

私は彼女の横顔を見た。前を向いた涼菜の視線が、暗い部屋の一点をじっと見つめている。月明かり越しに、耳の後ろの後れ毛が白い光を孕みながら細く揺れていた。あの横顔を、今も私は正確に思い出すことができる。唇は薄く結ばれ、まつげの影が頬へ静かに落ちていた。彼女は、夫の横顔を確かめながら、一つひとつ単語を選び取るようにして、私の返事を待つ女になっていた。

「それが、いちばん確率が高いって。それにその方法だと、わたしもタイミングを合わせやすいの」

彼女は話しながら、指先でガウンの裾を直した。その仕草は、畳んだ衣類の角をそろえるときのように丁寧で、ひどく落ち着いていた。

他の男の性器が、涼菜の膣の中へ入り込む。彼女のあの狭くて柔らかい場所を、他人の肉が押し開いていく。その先から、白い精液が彼女のいちばん奥へ流し込まれる。映像はぬかるみのように足元へ広がり、私の下腹をねっとりと蹴り上げた。舌のつけ根に苦い涎がわき、飲み込もうとするたび、耳の裏が熱を持つ。胃の壁を何かが逆流してくるようで、唇の内側を噛んで堪えた。それでも、否定の言葉は形を結ばなかった。結べるはずがなかった。私には、彼女の胎内を満たす一滴も持っていない。

「忠史さん、聞いてる?」

涼菜が顔を寄せ、私の目を覗き込んでくる。明かりはない。ただ満月の光だけが、私たちの間をゆっくりと流れている。彼女の瞳の奥に、月の欠片が二つ、小さく光っている。その光のなかに、何か強い意志のようなものを見つけてしまい、私は目を逸らすこともできなかった。

「うん」

私は何とか声を出した。

「……聞いてるよ」

彼女はもう一度、ゆっくりと天井を見上げた。あらわになった喉が、白い月光を浴びて浮き上がる。その弓なりの線が、薄くしなった刃のように見えた。美しい、と思った。そう思ってしまった自分が、胸のすぐ裏でそっと背けた顔をしていた。

「子種がないあなたが生むわけじゃないから。……そうでしょう?」

その言葉に、胸の中心を真上から貫かれる。想像していた痛みではなかった。もっと静かで、ずるりと重い何かが、音もなく胸の扉を開けて入り込み、土足のまま奥の部屋へ座り込む。そんなふうな静けさだった。

呼吸が浅くなる。喉の奥に無数の綿を詰められたみたいに空気が通らず、それでも苦しさを外へ出せない。吐く息だけが妙に熱く、唇の端から洩れていく。私はようやく、絞り出すようにして「わかった」と言った。わかった。たったそれだけが、かさついた夜の空気に吸われ、床の上でぱらぱらと崩れていく。あのとき発した二文字は、半年経った今も、私の舌の裏に薄い苦みのように残っている。

涼菜は隣で、とても小さく笑った気配がした。その唇が弧を描いたかどうか、暗くて見えない。けれど空気の濃さが、彼女の安堵を私に押し当ててくる。光源のない夜の底で、私の了承の言葉だけが白い紙片みたいに落ちて、取り戻せない場所へ滑り込んでいった。

あの一瞬から、すべてが動きはじめた。私の見ない場所で、私の知らない速度で、何かがゆっくりと転がり落ちていく。それが何を壊し、何を暴き、何を私の耳へ運んでくるのか、あのときの私にはまだ、知る由もなかった。

その後、涼菜は台所でお茶を淹れると言って部屋を出ていった。遠ざかる裸足の音を聞きながら、私はソファの上で、呼吸を整えることだけに熱心だった。心臓が肋骨の内側をどくどくと叩き、指先が微かにしびれた。

気づいたとき、私は彼女の通院用バッグへ手を伸ばしていた。いつも診察のたびに彼女が持っていく、淡いベージュのファスナー付きバッグが、テーブルの横の椅子に口を閉じて置かれている。見るな、と頭のどこかが言う。けれど、私の指は勝手にファスナーを引いていた。金属の噛み合う小さな歯が外れていく感覚まで、皮膚を通してやけにありありと伝わってくる。

バッグの内側には、母子手帳や診察券、予約表の束が折り目正しく並んでいる。角までぴったり揃えられたその整頓が、涼菜の性分をそのまま四角く切り取ってあるようだった。けれど私は、一番底にある隠しポケットへ指を差し入れる。チャックを下ろすと、内ポケットの布にくるまれて、細長い板のようなものが出てきた。

プラスチックのピルシートだった。透明なブリスターの奥に、小さな白い錠剤が整列している。背面には銀色の箔が張ってあり、既に服用された日付の分だけ、丸く押し出された凹みがいくつも続いている。私の指先は、その凹凸をたどるように往復した。薬が残っている粒の膨らみと、空になったシートの窪み。人差し指でそこを押していくと、微かに固い、それでいて薄い金属の声がした。彼女は毎日、この小さな白い粒を飲んでいる。バッグの隠しポケットに、冷たく形のある決意をしのばせて。

涼菜はもう決めている。その事実だけが、私の胸の奥の柔らかい場所を、きりきりと細い糸で縛っていく。締めつけられるたび、肉の中から澄んだ水が滲むように、声にならない何かが溢れて、指先へ伝わった。この指先が、半年後の今も彼女の隠しポケットの硬さを覚えているのは、つまり私の心が、あの白い錠剤から一度も逃げられずにいる証拠だった。

やがて台所から戻る彼女の足音が響く。私はピルシートを元の位置へ戻し、ファスナーを閉め、何事もなかった顔でソファへ座り直した。膝の上に置いた自分の指が、月明かりの中で冷たく白く見え、それがまるで、自分の身体から切り離された部品のような気がした。その部品を組み立て直すには、夜はあまりにも深く、月光はあまりにも青白かった。

第2章 白い書類の男

第2章のシーン

第2章: 白い書類の男

十一月半ばの土曜日、街路樹の銀杏はすっかり葉を落とし、舗道には扇形の落ち葉が雨に濡れて張り付いていた。私と涼菜は駅前の雑居ビルへ向かう。彼女は淡いグレーのトレンチコートを羽織り、内側には白いニットのワンピースを着ていた。襟元から覗く鎖骨の窪みに、朝つけたらしいオーデコロンの残り香が薄く漂っていて、歩くたびに私の鼻腔をくすぐる。エレベーターの鏡に二人の姿が映った。涼菜はうつむき加減で、バッグの持ち手を両手で握りしめている。私の指が彼女の手の甲に触れると、彼女は驚いたように顔を上げ、それから小さく微笑んだ。

三階で扉が開き、水色の壁紙が目に飛び込んでくる。受付の女性に予約の旨を伝えると、奥の相談室へ通された。六畳ほどの部屋に、薄い水色の壁、木目の机、二人掛けのソファが置かれている。窓の外は曇天で、部屋の中は蛍光灯の白い光がやけに硬質だった。涼菜はソファの端に浅く腰かけ、トレンチコートの前をきちんと合わせて座った。私が隣に座ると、彼女のコートの裾から白いワンピースの膝が覗く。剥き出しの膝頭は白く滑らかで、そこだけがこの無機質な部屋の中で妙に生々しい光を帯びていた。

担当の女性カウンセラーが入室し、薄い水色の壁を背にして向かいの椅子に座る。彼女の胸元には小さな名札が揺れていたが、文字は読めなかった。カウンセラーは穏やかな声で、今日は複数のドナー候補のプロフィールを提示すること、遺伝的な条件や健康状態を確認できることを説明した。涼菜は背筋を伸ばし、真剣な顔で耳を傾けている。彼女の横顔を見ていると、頬のあたりがうっすらと紅潮しているのがわかった。緊張しているのだろう。私の手は彼女の手を握っていた。彼女の指は冷たく、力はほとんど入っていない。

カウンセラーが机の上にクリアファイルを置いた。表紙には「ドナー候補者プロフィール」と印刷され、角がわずかに擦り切れている。何人かの資料が挟まれているようだった。私と涼菜は同時にファイルへ手を伸ばし、指先が触れ合う。涼菜の指が一瞬ひるんで、引っ込んだ。私がファイルを取り、彼女の膝の上に置く。彼女は「ありがとう」と囁くように言い、長い指でページを開いた。

一人目の候補者の資料には、二十代後半の会社員と書かれていた。写真の男は痩せぎすで、笑みが硬い。涼菜は数秒だけ眺めて、次のページへ進む。二人目は三十代半ばの公務員。穏やかな顔つきだが、学歴の欄を見た涼菜の指先が一瞬止まり、また先へ進む。三人目を開くとき、彼女の手の動きがわずかに速くなった気がした。

写真が現れる。黒髪を清潔に整え、切れ長の目がこちらを見据えている。細身の顎のラインがシャープで、唇は薄く真一文字に結ばれていた。傍らの文字に、私はものでも確かめるように視線を這わせる。

戸田一彰という名前。三十歳。超難関大学法学部卒、都内の法律事務所勤務。二十代の頃から水泳を続け、今もジムに通っているらしい。流れるような経歴が、小さな明朝体で整然と並んでいる。涼菜の右手の人差し指が、写真の輪郭をそっとなぞった。黒い髪のあたりから、額、鼻梁を経て、結ばれた唇の上で止まる。彼女の琥珀色の瞳は写真に吸い寄せられ、瞬きを忘れているように見えた。

「……この方は、弁護士さんなの?」

涼菜の声は静かで、いつもより少し高い。カウンセラーが答える。

「はい。今回事前にお話しした通り、学歴や職業、健康状態を確認済みの方です。奥様、いかがでしょう?」

質問が「奥様」に向けられた。涼菜は返事をせず、写真と経歴欄とを何度も行き来している。彼女の左手が私の手の上に重ねられたままだが、その力は最初よりもずっと弱い。むしろ、借り物の手をとりあえず握っているだけのようにも思えた。

「涼菜」

私が名前を呼ぶと、彼女はびくりと肩を揺らしてこちらを見る。焦点が合うまでほんの少しの間があった。

「どうする? 今、決めなくてもいいと思うけど」

そう言いながら、私は自分の声がひどく乾いているのを感じていた。

「ううん、わたし……この方で、いいと思うのよ」

涼菜はまた書類へ目を落とす。そして、写真の中の男に向かって語りかけるような調子で言った。

「真面目そうだし、なにより、ちゃんと若いのに地に足のついたお仕事をされてるわ。背も高そうですから、子供にも遺伝するかもしれないし」

最後の言葉を、彼女はほとんど息だけで口にした。背も高そうですから。それは、私にはないものを求める言葉だ。私は返す言葉を探し、結局天井の蛍光灯を眺めた。白い光がじりじりと音を立てている気がする。

「決めていいんだよ。君が納得できるなら」

「忠史さん、ありがとう。じゃあ、この戸田さんっていう方を希望したいのだけど……」

涼菜はカウンセラーへ向けて、初回の時に見せたのと同じ、清楚で曖昧な笑みを返す。彼女の膝の上では、戸田という男の資料が雨上がりの落ち葉のように白く光って見えた。

帰り道、涼菜は先ほどまでの緊張が嘘のように軽い足取りで、私の半歩前を歩いていた。トレンチコートの帯が腰の上で揺れ、白いワンピースの裾がふわりと空気を孕む。彼女の肩越しに、先ほどまで握っていた彼女の左手が見えた。もう私には触れようとしない。夜の空気は冷たく、駅前のビル群の輪郭が黒く沈んで見えた。

「やっぱり、あの弁護士の男の人に決めてよかったわ。涼菜はね、安心できる気がするの」

彼女は背中越しにそんなことを言って、横断歩道の白線を爪先で確かめながら進む。

「ああ、よかったね」

私は小さく頷いた。家に着くまで、彼女はそれ以上戸田の話をしなかった。けれど彼女の瞳の奥が、午後の日差しでもないのに微かにきらめいて潤んでいるように見えたのは、きっと夜の駅前の灯りに滲んだものだけではない。そう思いたくない自分と、もう確信に近い違和感を抱いた自分とが、私の胸の中で互いの足を引っ張っていた。

あれから二週間と少しが過ぎ、十二月に入った。受精期間が終わって涼菜が帰ってくる夜、私は仕事から帰るなり、玄関を開けた彼女を出迎えた。涼菜はくすんだベージュのスカートに、濃紺のシンプルなニットを着て、片手に小さなボストンバッグを提げていた。

「ただいま。遅くなってごめんなさい」

彼女の声は落ち着いていて、顔にはいつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。私は彼女を風呂に追い立て、先に夕食を温めることにした。その間、頭の片隅で「結局、何も知らないままだ」という声が回っていた。

居間のストーブの上で湯気を立てる味噌汁の匂いと、玄関から流れ込んだ彼女の体臭が混ざる。何かが違う。涼菜の体からは、いつもの石鹸と肌の匂いの下に、ほんの僅かに甘い眠たげな匂いがする。それを確かめたくて、廊下へ出た。

風呂場の洗濯籠は蓋が半開きになっていた。私は淡い期待と吐き気を抱えながら、その蓋に触れる。中の衣類は、彼女が風呂から上がるその瞬間に放り込んだのだろう、まだ湯気を孕んで湿度がこもっていた。表面には見慣れた白い肌着が見え、その下に隠すように、黒いものが潜んでいる。

顔を近づけると、洗剤の匂いと、微かに甘酸っぱい汗の匂いがして、その向こうに一昨日までの我が家には決してなかった湿った気配が浮かんでいる気がした。指先で白い下着をどけ、その下から紐のような細い布地を引き出す。黒いレースのヒップハンガーほどのもので、縁に小さな花柄の刺繍が入っている。涼菜が普段選ぶ、あの白や淡い花柄の下着とはまるで別種のものだ。

布地はまだしっとりと濡れていた。洗濯というより、身体の熱が移ったばかりの生々しい湿り気が指にまとわりつく。私は立ったまま、そのレースの下着を鼻先まで持っていき、息を吸い込んだ。洗剤の甘い香りがまず来て、そのあとに、微かに汗と、何かしら私の知らない体液の匂いが波のように押してくる。私の意識は、涼菜がこの下着をまとって誰かの指先に触れられたかもしれないことを勝手に像として描いた。下腹部の奥が冷たく熱くなり、喉の付け根が細かく震える。私は急いで下着を洗濯籠の中に戻し、風呂場を出た。

居間で黙って夕食を終え、涼菜は自室へ下がっていった。彼女は結局、私が期待したような報告も、不安を鎮めるための言葉も、何ひとつ語らなかった。ソファに残されたクッションに、彼女の体の柔らかい凹みと、あの微かな甘い匂いが染み込んでいた。耳を澄ますと、奥の部屋で涼菜が衣擦れをさせ、何かを引き出しから取り出す音が薄く聞こえてくる。夜のしじまが、家のあちこちに分厚く積もるのを感じた。

やがて、彼女の部屋の明かりが消えた。私は一人、リビングの暗がりに座り込んで、スマートフォンを手に取る。画面の光だけが手元を青白く照らしていた。指先は無意識にインターネットの検索窓を開き、けれど何を入れるでもなく、画面をぼんやりと見つめている。

涼菜が、あのホテルで何をしたのか。シーツの白さ、カーテンの隙間から差し込む午後の光、ベッドサイドの時計の音。想像が、映像ではなく音として膨らんでいく。暗い部屋の扉が閉まり、カードキーを差し込む音。彼女のヒールが小さくカツカツと床を打ち、それから力なく脱ぎ捨てられる音。やがて、濡れたような溜め息がひとつ。それは自分の幻聴だとわかっているのに、耳の奥で粘ついて響く。

もっと別の音。二十センチの肉茎が、彼女の狭い襞を押し広げるときの鈍い音。ぬかるんだ底を無理に潜っていくときのような、粘質で湿った音。忠史の耳には、その音だけがやけに生々しくこびりついた。視ていないはずの、けれど生々しい摩擦音が、私の勃ち上がりかけたペニスの芯へと流れこんでいく。

私はスマートフォンをソファの上に置き、両手で耳を塞いだ。冷たい指の腹の向こうで、自分の血流がざあざあと獣のように鳴っていた。視界の端で、部屋の花瓶に挿した千日紅が、暗がりの中で首を垂れている。その影がまるで、うつ伏せに崩れた妻の背筋のようで、私は思わず目を閉じた。

しばらくしてリビングの時計が零時を打つ。私は耳から手を離し、汗ばんだ手のひらをスラックスで拭いた。ちゃぷん、と体内のどこかで音がした気がした。実際には何も鳴っていない。風呂場の残り香と、あの黒いレースの下着の感触が、指先と鼻の奥にいつまでも居座っていた。

第3章 第3章 録音ランプの夜

第3章のシーン

第3章 録音ランプの夜

一月下旬の金曜、朝の空気は研がれた剃刀のように冷たく、肺の奥まで切り裂く透明な痛みを湛えていた。玄関の三和土に置かれた真紅のスーツケースは、昨晩のうちに私が屋根裏から下ろしたものだ。煤けた階段の傾斜を、あの車輪が鈍く転がるたび、手首の骨まで沁みる重さがあった。降ろす途中で何度も手を止めた。天井裏の暗がりに、あの赤が沈んでいく様子を、私は引き返せない踏み絵のように見つめていた。表面には細かな擦り傷がいくつも走っていて、取っ手の辺りだけ黒ずんだ手脂の跡が残っている。誰の掌の脂かは、もう分からない。分からないまま、自分の指があの場所を避けていることだけは、はっきりと感じていた。

涼菜は台所で最後の身支度を整えていた。流しの前で白いタートルネックを着込み、その上から淡い藤色のカーディガンを羽織る。洗ったばかりの髪の毛先は乾ききっておらず、首筋に張り付く後れ毛からは、微かに桃の果皮と酢酸のはざまを薄めたような匂いが立ち昇っていた。熟れかけた果実の皮を爪でなぞったときに漂う、あの白い渋みと甘さが混ざった匂い。彼女の耳の後ろの、熱の籠もりやすい窪みにだけ残る、秘めやかな微香。私はその匂いを初夜の夜から知っている。あのときと同じ、淡く、それでいて男の鼻腔の奥を鋭く抉じ開ける、女の生き物としての気配。しかし今日、その匂いは別の男の部屋へ運ばれていく。

私はリビングのソファに腰を下ろしたまま、彼女が冷蔵庫からペットボトルの水を出していく動作を目で追う。細い指先が棚の縁を確かめて、二本目の水を取る。指の骨が白く浮き、爪先が庫内の淡い光を弾いていた。最近はいつも二本だった。あの男と飲む水を、妻は保冷剤の匂いがついた棚から当たり前のように取り出す。ペットボトルがぶつかり合う、ぺこり、という薄い音。彼女の親指がミネラルウォーターのラベルを軽く濡らしていた。

「着いたら連絡するわ。あとは、病院の先生の言う通りにするから」

涼菜が振り向かずにそう言った。私は頷いたが、それきり声にならない。彼女の言う「病院の先生」というのは、あの民間バンクのカウンセラーのことを指している。戸田という名前を彼女が口にしないまま、もう三回目の受精期間が来た。最初のうちは「ドナーの方」と他人行儀に呼んでいた男が、いつの頃からか会話の中で「先方」に変わり、今では名前さえ曖昧に飲み込まれている。口の中で転がされることなく消えていく男の姓。そのことだけが、私の胸の内側で細い棘のように引っかかっていた。抜けば血が出る。抜かずにいれば、肉の中で錆びていく。

涼菜がリビングへ戻ってきて、手近な椅子にストールを置いた。葡萄色の大きなストールで、幾度か見たことがある。初めての受精期間へ出かけた日、彼女はあれと同じものを首に巻いていた。安物ではない、しっとりと重そうな織物だ。部屋の空気の冷たさに触れた布の表面が、僅かに毛羽立って見える。蛹の裏翅のような、沈んだ艶があった。その布に指を差し込み、首に巻き付ける瞬間の彼女の睫毛の震えまで、私の記憶は勝手に再現してしまう。

「忠史さん、お願いね。戸締まりと、水曜の可燃ごみ」

そう言うと、涼菜はもう玄関へ歩き始めていた。私の返事を待つ気配は薄く、言葉の残り香だけが台所の隅に漂う。彼女の小さなヒールがフローリングを打つ音が、妙にゆっくりと耳の奥へ届いてくる。一つ、二つ、と数えられるほど間遠な、独りの歩調だった。追いすがることを許さない、決然とした背中の細さ。私はソファの縁を両手で掴んだまま、人差し指の先だけを白くさせていた。

私はスーツケースへ歩み寄り、涼菜が一度だけ持った取っ手を右手で握った。掌が、彼女の体温の残りに触れる。しかしそれは私の体温と大差ないほど弱い。たった今まで細い指が巻き付いていた場所なのに、残滓はもう他人のもののように冷えている。スーツケースを十センチだけ浮かせると、車輪がかすかに軋んだ。私はその場に膝をついた。床の冷たさがスラックスを突き抜け、膝頭を刺す。ファスナーの走る音が、玄関の静寂を切り裂いた。あれは鋏の刃が麻を裂く音に似ていた。あるいは、肉を断つ音。

ケースの内側、ポリエステルの内張りをそっと押し広げる。深い紺色の布地には、黒い下着の端が覗いていた。あのレースの下着ではない。淡い青に細い縁取りのある、比較的おとなしい品だ。けれど、たしかに白一色だった頃とは違う。指先で布の織り目をなぞると、洗い込まれて柔らかくなった綿の、しかし芯に熱を孕むような繊維のざらつきが返ってくる。涼菜の肌着が、少しずつ暗い色へ侵食されていく。真夏の夜の海へ沈んでいくような、ゆるやかな翳りだった。

私は持参した薄いリネンのハンカチを敷き、その上に小型のICレコーダーを転がす。掌の中に納まりきるほどの、黒いプラスチックの塊。親指の腹で録音ボタンに触れた。指先が震え、手首の骨の奥で何かが跳ねる。一瞬、あの銀杏の匂いがした。十月の病院の窓の外で落ちていく、黄色い葉のにおい。果肉が踏み潰されて腐敗へ近づく甘ったるい匂いが、鼻の奥の窄まりにこびりついて離れない。彼女の服の中にこれを隠す瞬間、自分という人間が音を立てて崩れ始めるのを、私は他人事のように聞いていた。崩れるのに、苦痛はない。あるのは、止められない水の流れを見下ろすような、昏い静けさだけである。

ガチッという微小な手応えとともに、赤いランプが点灯する。それは昼間の縁側に差し込む冬陽よりずっと弱い光で、なのに瞼の裏に焼き付くほど強く感じられる。私の喉がヒュッと鳴った。指先を離せず、しばらくその朱い点を見つめてから、私はレコーダーをスーツケースの内ポケットへ滑り込ませた。ファスナーを閉める。内張りの布が、その突起を静かに嚥み込んだ。まるで、私の存在自体を隠してしまうように。

立ち上がると、急に世界が遠くなった気がした。時計の秒針の音が、やけに明瞭に鼓膜へ張り付く。私は深呼吸を二度して、ケースを元の位置へ戻した。朝の光が廊下の奥を白く射している。涼菜が玄関先でしゃがみ込み、ブーツの留め金を調節する指先が見えた。爪の上で冬の陽が砕けて、水のように流れている。

「じゃあ、行ってきます」

涼菜は笑った。唇の端だけを持ち上げる、幼い頃の写真で見たことのある笑い方だった。私が「うん」と答えると、彼女は背を向け、ドアの向こうへ身体を滑らせる。ドアが閉まるまでの数秒、彼女の髪の匂いと、あの葡萄色のストールから立つ微かな染料の香りだけが、玄関に濃く残った。鉄錆に似た苦い後味を、私は嚥み下せないまま、しばらく靴箱の前で立ち尽くしていた。

居間へ戻り、カーテンを一度だけ開いた。朝の光が部屋の埃を白い粒のように浮かび上がらせる。テーブルの上には、彼女が今朝も飲んだらしい白いカップが置かれていた。縁に残った薄紅の痕跡はもう乾き、唇のかたちを失った半透明の斑になっている。湯飲みの底に僅かな水の輪が光る。私の手は、いつの間にかポケットの中で拳を作っていた。爪が掌に食い込み、三日月の痕が四つ、皮膚の上で熱を持つ。もう、何を祈っているのか分からないまま。

夕方、会社を出た頃から雪が混じり始めた。電車の窓硝子を叩く白い粒は、しかし地上に落ちるとすぐ雨に変わり、街を濡らした。濡れそぼつアスファルトの上を、車の尾灯が赤い尾を曳いて流れていく。あの色を見るたび、スーツケースの内側で瞬く録音ランプを思い出してしまう。マンションに戻り、一人分の夕食を作る。冷蔵庫に残っていた大根を薄く切り、鶏肉と煮込むだけの簡素なものだ。包丁の音がシンクに響いて消える。涼菜のいない夜は、音が壁に吸い込まれて返ってこない。私はリビングのテーブルで味噌汁を啜った。昆布出汁の香りが、彼女の白いカップの残像と重なる。湯気の向こうに、あの葡萄色のストールを巻いた後ろ姿が浮かんでは消えた。

一人で風呂に入り、パジャマに着替える。寝室へは行かず、リビングのソファへ座った。テレビをつけてもすぐ消した。時計は十時を回ったころだった。今日という日が終わるまで、あと二時間ある。窓硝子に映る自分の輪郭を眺めていると、雨脚がその形を斜めに掻き乱していく。男の貌がぼやけて崩れ、そしてまた、雨の切れ間に戻ってくる。

私はスーツケースを、もういちど開ける気にはなれなかった。彼女は三日後、あのファスナーの向こうから、たっぷりと他人の空気を吸った身体を連れて帰ってくる。レコーダーはその一部始終を、彼女の知らぬ場所で記憶している。あの朱い点は、暗い内張りの奥で今日も鼓動のように瞬いているのだろうか。考えただけで、ソファに置いた両手の甲がひくりと震えた。私は冷蔵庫から水を取り出して飲む。喉がごくりと鳴る。窓の外で、風が雨を斜めに打ちつけていた。

三日後の深夜、マンションの廊下にキャスターの音が響いた。油の切れた車輪が、湿った空気を潰しながら近づいてくる。私はドアを少しだけ開けて、涼菜の帰宅を確認する。細い声で「ただいま」と呟く気配があったが、私は寝室へ引っ込んでいた。言葉を交わす前に、彼女の体臭や服の乱れを、自分の五感が拾い上げてしまいそうで怖かった。掛け布団の下で、心臓が喉の奥を打つ。しばらくして彼女は風呂へ入り、静かに寝室を覗いた。私は眠っているふりで、息を深く吐いた。彼女の濡れた髪から、この家のものではない石鹸の香料が尾を引いて、布団の上に薄く降り積もった。

翌日、涼菜は首都圏の実家へ寄ると言ってもう一度出かけた。家に一人残された私は、ようやくスーツケースからレコーダーを抜き出す。まだ温かい。機械というより、ぬるま湯に浸した石のような重みが掌に沈む。湿地の苔を思わせる微かな湿気と、彼女の手荷物の中で染み付いた甘い芳香が、黒い筐体の表面を這っていた。私はイヤホンを耳へ押し込み、ソファの背に体をあずけた。親指で、再生ボタンを押す。指の腹に、かすかな凹凸の痕が残っていた。

ブーンという空調の唸りが、まず耳の奥を埋めた。遠くで部屋を区切る扉の音。ガサガサと袋を開ける音。スリッパがフローリングを滑るリズム。すべてが、私の知らない部屋の音だった。涼菜の声はしばらくしない。私は両脚を揃え、スラックスの上から膝を握りしめた。寄生された鼓膜の奥で、あの男の声が、初めて形を成す。それは思っていたより若く、先の細い声だった。

「涼菜さん、寒くないですか。エアコン、まだ低いですか」

私の胸の真ん中が、沈黙の代わりに音を探して迷う。涼菜が遠くで笑う気配。湿った唇が開き、空気が丸く弾むような、小さな笑い声だった。

「だいじょうぶよ。それより、あなた、さっきからペットボトルばかり気にして……落ち着かないの?」

その語尾は、私に向けるものよりわずかに軽い。喉を開いて、小さな鈴でも笑わせるような調子だ。もたつく音が続いて、水を注ぐ音がした。グラスの底で氷がかち合い、そこからまた沈黙が波のように広がる。麦茶の匂いさえ、私の鼻は勝手にそこへ探し当ててしまう。

やがて、衣擦れが変わる。表現しがたいほど密度を帯びて、耳許だけでなく腹の奥に響き始めた。ベッドのスプリングが軋む。遠くの空調音が延々と鳴り続ける中、涼菜がかすかに呼吸を詰めた。

「戸田さん、手、冷たいのよ」

「あ、すいません、こうしたらあったまりますか」

男の声は真面目そのもので、語尾だけが幼く跳ねる。二度目の沈黙は、何かが触れ合う気配を孕んで、私の耳の中に雨のように降り続けた。柔らかな休符が重なり、やがて男の吐息が録音の近くを掠めていく。私はソファの上で、剥き出しの背中に冷たい指を這わされたのは二十五歳の冬だった、というどうでもいい記憶を思い出した。指の冷たさと、それを受け入れる女の肉の熱さ。あのときの女の顔は思い出せないのに、感覚だけが妙に生々しく蘇る。

声が近づく。涼菜の喉から、ひどく甘く曲がった音が漏れた。

「ん、う……」

たった二音なのに、彼女の鎖骨のくぼみや、白い喉の絞り具合まで鮮明に浮かぶ。自分の指先が、スラックス越しの肉へ食い込むのを感じた。心臓が尻の奥で打っている。

男が何かを囁いた。空調の音が邪魔をして、単語は聞き取れない。涼菜が短く応える。

「ええ……しても、いいわよ」

私はイヤホンの向こうへ耳を澄ませ続けた。服が擦れる音、肌がシーツをこする音、男の骨ばったらしい呼吸。しばらくして、水を含んだような舌音が断続的に鳴り始める。ちゅ、ちゅちゅちゅ、と吸いつき、離れ、また根本まで這い下りる。規則を無視した律動。時折、男の喉が詰まったような苦い吐息を発する。涼菜が何かを含みながら、鼻から息を吹く音。細い唾液の筋が、二十センチという肉茎を這う音まで、私の頭は勝手に組み立てていく。

「んぅ、ちゅ……んん、ちゅちゅ……」

イヤホンの圧迫感を、もっと奥へ。私は知らずに顎を引き、浅い呼吸を繰り返した。私のペニスが硬く勃ち上がっている。涼菜が戸田のものを舐め、しゃぶり、顔を上げる気配のたびに、私の太股の上でひときわ強く脈打った。じわ、と下着が湿る感触が、布を一枚隔てた腿の上に滲む。彼女の舌先が、亀頭の裏の窪みをちろちろと這い回り、怒張した幹を白く泡立つ唾液で何度も塗り込めている。そんな姿が、まぶたの裏にありありと浮かぶ。私の妻が、男の肉棒を見上げながら、喉の奥までそれを呑み込もうとしている。

音が変わる。ベッドが大きな揺れを告げ、涼菜が上体を起こした。私には分かる。彼女が男の前にひざまずき、その太い幹を両手で支え持つ姿が見えるようだった。男が耳元で喋った。

「すごい……口の中、あったかい。もう、無理です。自分、もう、どうにかなりそうです。涼菜さん、好きです。好きになっちゃ、だめですか」

彼の声は息で濡れ、喉の奥が熱を持っていた。その必死さが、何より私を打ちのめす。彼は、礼儀正しく、真面目に、私の妻へ勃起をぶつけている。二人の身体が触れるたび、空気の揺れが録音にひずんで乗る。語尾ばかりがまだ敬語の殻を被っていて、その中途半端な崩れようが、若い男の余裕のなさを剥き出しにしていた。

「いいのよ、焦らなくて。……わたし、今日はね、排卵日だから」

涼菜の声に笑みが混ざった。私の知っている声より一段低く、粘膜の奥から絞り出すような、蜜の粘つくような声。

「ちゃんと、中に出してもいいの。それが目的だもの。……ね、戸田さん、来て」

彼女が男を導く言葉を口にする。男の息が荒くなり、バックルかジッパーの音。それから、肉と肉が押し合う最初の沈黙。ぬちっ、という湿った突破口が一つ。涼菜の喉が、ひくんと仰け反った。

「っ……んんぅ」

男の先端が、彼女の襞をこじ開ける瞬間だ。私には見えない。なのに、視界の裏で、涼菜の割れ目が熱を持って開き、桜色の内襞が男のものを迎え入れる絵が浮かぶ。見たこともないはずのその粘膜の色を、私は七年間の結婚生活の中で何度も間近に啜ってきた。その場所へ、今、私以外の男が入っていく。ぬめった襞が、彼の肉茎に巻き付いて、内側から締め上げるさままで、耳が勝手に再現してしまう。

ぐちゃりという粘液音が耳を抉る。イヤホンの奥で、涼菜が小さく喘いだ。

「あっ、あ、あっ……太い、戸田さんの、ああぁ……」

「涼菜さん、き、きついです。しまる。すごく、しまります。自分、もう、おかしくなり、ますっ」

男の声は半泣きに震えていた。腰を使って中を広げていくたび、じゅっぷ、ぐちょん、と濡れた音が重層的に溢れてくる。抽出するように、ゆっくり。深く。頻りに。私のペニスは痛いほどに充血し、先走りが下着を湿らせていた。敗北感で死にそうなのに、身体の芯だけが獣のように喜んでいる。

「あん、んっ、んぅ……戸田さん、おく、あたってる、子宮の入り口に、ねじこまれてるみたい」

涼菜が蕩けた声で言葉を落とす。彼女の知的で丁寧な口調が、音になるたび崩れていく。その悔しさが、なぜか下腹の奥に甘く流れた。

「私の、夫よりも、ずっと……」

続きは男の腰が跳ねた音と、彼女の悲鳴めいた吐息で途切れた。二十センチという肉茎が、彼女の奥を穿つ。この瞬間、私の耳は確かにそれを聴いた。夫よりも、ずっと。短い言葉は、女の腹の底から出た、飾りのない声。怒りも悲しみも通り越した場所で、私の肉棒はただ無意味に脈打っていた。

イヤホンを外す手が、どうしても動かない。録音は続いている。時間は深夜へ傾き、部屋の灯りが落とされたのか、二人の声はひときわ密やかになる。衣擦れの合間に、涼菜が何かを飲み干す嚥下音。それから突然、不思議なまでに鮮明な嗅覚が蘇った。あの黒いレースの下着に残っていた甘い匂い。汗と、恥臭というにはあまりに濃密な、女の芯から立ち昇る匂い。私は無意識に、ソファの肘掛けに顔を埋める。冷たい布地の匂いだけが鼻についた。

録音はまた、深い夜の間へ落ちていく。ふたたび涼菜の唇が、男の肉茎に吸いつく音が始まった。ちゅぷっ。じゅるるっ。濡れた粘膜が、張り詰めた皮を吸い込んでは離していく。戸田の荒い息が、マイクの近くで白く割れる。

「まだ、イケるんですか、あなた。……こんなに大きくして、わたしの口だけで、そんなに感じて……」

涼菜の声は、男の剛直をしゃぶる合間に紡がれ、言葉の切れ端ごとに唾液の糸を引いているようだった。彼女が、すっかりこの行為に心を奪われている。私の妻の舌が、他人の亀頭の襞を、ちゅるんっ、と音を立てて吸い上げる。

「れろ……ちゅう、んむ、ちゅちゅっ……この先っぽのところ、かりかりして、かわいい。わたし、勝手にいやらしいこと言ってる。……ふふ」

戸田が、小さく唸った。びくん、と男の腰が跳ねる気配。彼女の細い指が、袋の裏を撫で回しているのだろう。ちゅぷちゅぷと休みなく続く唇の音。まるで飴玉をいつまでも舐め溶かす幼子のように、涼菜は男の欲望を舐め続けている。私の耳は避けようもなく、彼女が唇を閉じ、喉の奥を使って吸い上げるたびに達しそうになる己の浅ましさを持て余していた。

場面は夜半へ移る。空調の唸りが遠くなり、かけられたタオルケットの下で二人が身じろいでいた。男が涼菜の耳元で「後ろ、こわしたくないです」と囁く。

「アナル、きもちいいかな?」

涼菜が応える声は、怖れよりも好奇心で湿っていた。私は指先に力を込める。彼女の言葉を、喉の奥で反芻してしまう。

「あん、そこはダメよ。指いれちゃ」

彼女が声を軽く跳ねさせた。湿った吐息がマイクを掠め、衣擦れのあと、少しだけ沈黙が落ちる。

「戸田さん、お尻の穴にも興味あるの? もう、わたしやったことないから、今度ね、お勉強してからね」

低く甘い声の輪郭が、私の背骨を下りていく。アナルの、あの窄まり。彼女が言葉に出したことで、まだ見ぬ穴が淫らな器官として鼓動を始める。拒みながらも、男の願いを大切そうに受け止めている口調。そこには、いつか彼にその場所を明け渡す予感が、すでに湿り気を帯びて横たわっていた。

男が何か囁いた。涼菜がくすり、と笑う。

「ん、口なら……いいわよ。少し、味わいたいの」

それきり、彼女の唇が再び男の中心を深く呑む音がする。じゅるるっ、と下品に撓み、喉の奥が拒んでは吸いつくす。私の妻は、指では許さなかった場所の代わりに、男の肉茎を口内でじっくりと味わっている。くちゅ、くちゅ、と唾液の溜まる場所を舌先で揉む音。肉の幹を握る指の湿音。唇が根元まで沈むたび、録音がぶれる。

「涼菜さんっ、そんな、吸いながら、見上げないでくださいっ」

戸田が悲鳴のように喘ぐ。涼菜は応えず、ちゅぶっ、と根本をくわえ込む。鼻から抜ける彼女の吐息。男の作った粘液と、女の唾液が混ざる白い音。

私はソファの上で、自分自身の肉棒がズボンの前を押し上げ、痛むほど脈打っているのを掌で上から潰した。妻の口淫が、この耳を通して私の尻の芯まで痺れさせる。彼女が戸田の精を口に受けることより、その舌先でしゃぶられている最中の、男の掠れた哀願のほうが強く下腹を絞ってくる。

「あ、やべ……涼菜さん、でます、口、いやらしすぎる、もう、でちゃいますっ」

「いいのよ……そのまま、出していいわ。……ん、飲ませて?」

涼菜の囁きが、イヤホンの中で蜜のように蕩けた。それから、どぴゅっ、と生々しい射精音の気配が続く。ちゅ、ちゅ、と吸い上げる律動が、最後の一滴まで舐め取る動きへ変わる。

「ん、ふ……わたし、牡蠣みたいでしょ? べとべとして、しょっぱくて。……でも、いやじゃないの……」

彼女の声が、ふっと掠れる。飲み込む喉の音が、私の胸を冷たく焼いた。

私の右手は、いつの間にかスウェットの上から屹立した肉棒を握りしめていた。指先が、ぬかるんだ先走りの粘度を布越しに知る。彼女の嬌声に合わせて、手首が小刻みに動き始める。止めたい。止められない。耳は、妻が他人の口内で果てさせ、なお咥えて離さない音を、一滴もこぼすまいと奥へ奥へ押し込まれていく。

やがて録音は、部屋の闇の中で男が低く唸り、彼女を引き寄せる気配を残して終わっていく。断片的に「口にも頂戴」「えっ、今度は混浴の……」というような、私の理解を拒む単語が耳を掠めて消える。その単語たちは、私の知らない涼菜の語彙として、耳の奥に小さな棘を残した。

どぷ、どぷっ、という想像上の射精音が、私の頭蓋に反響して爆ぜる。腹の奥から熱い塊がせり上がり、指先が真っ白に痺れた。ああ、と低い声が自分の唇から漏れて、手の内に吐精する。伝い落ちる精液を、ソファのクッションが静かに吸う。耳の奥では、まだあの女の、あの淫らな喘ぎが鳴り止まない。私はイヤホンを外すこともできず、背もたれに体を沈め、自分の脈打つ肉棒を握りしめたまま、夜明けの気配が階下を這うまで、じっとしていた。

冬の雨がまだ窓を叩いていた。その音だけが、唯一、私の部屋に属していた。

第4章 # 第4章 三日間の習慣

第4章のシーン

# 第4章 三日間の習慣

二月初旬のある夜、洗面台の鏡に映った自分の顔を、忠史は長い時間をかけて観察していた。頬の肉は削げ落ち、目の下の隈は青黒く染みて、浅い谷のように皮膚へ沈んでいる。それでも顔色は、一月のあの夜より幾らか落ち着いているように見えた。指先で顎の無精髭をなぞると、ざらざらとした皮膚の感触が、まるで他人の頬へ触れているかのようで、指の腹に鈍い抵抗を残す。歯ブラシを口に含み、鏡の中の男から視線を外す。洗面台の隅には、涼菜が朝に使ったらしい化粧水の瓶が立てかけてあり、蓋の周りから微かに彼女の肌の匂いが立ち昇っていた。白い花を潰したような、それでいてほのかに乳を思わせる甘い残り香。あの匂いを肺の奥まで吸い込むと、十月の頃とは違う胸の疼きが走る。恐れでも期待でもない、もっと粘度のある感情だった。喉の奥に絡みついて、吐き出すことも呑み込むこともできない、どろりとした、温度を失った蜜のような感情が、気管の入り口で静かに脈打っていた。

忠史は何度も唾を呑み込み、鏡の中の自分の喉仏が上下するのを見つめていた。夫としての体裁も、男としての矜持も、この洗面台の水に流してしまえればどれほど楽だろうと、そう思いながらも指先は化粧水の瓶の蓋へ伸びていく。彼はその蓋を、ごく僅かに、音のしない程度に緩めた。そして瓶の口から立ち昇る更に濃い匂いを、まるで罪を吸うように、ゆっくりと鼻腔へ迎え入れた。

三月に入ると、空気の中に雪の名残が消え、昼間の陽射しが部屋の奥まで届くようになる。窓辺に積もった埃が金色に光り、カーテンの布目を透かした光が畳の上でゆっくりと角度を変えていく。忠史は平日の夜、残業を切り上げてまっすぐ家へ帰るようになっていた。寄り道をする気力もなく、かといって一人の部屋へ戻る足取りは遅い。玄関の鍵を回すたび、耳の奥で小さな赤いランプが点る幻を見る。もう三回目の盗聴から一ヶ月以上が経つのに、レコーダーの録音ボタンを押した感触は指先に残ったままだった。親指の腹に、あの小さな窪みの感触が張り付いている。押し込んだ瞬間の、微かなクリックという手応えまで、皮膚の記憶としてこびりついて離れない。スーツの内ポケットに手を差し入れ、何も入っていない布の裏地を探る癖が、いつの間にか身についていた。

会社での忠史は、相変わらず静かな男だった。昼休みになれば同僚たちが弁当を広げ、景気の話や取引先の噂に花を咲かせる中、彼は自分のデスクで黙々とパソコンに向かっている。蛍光灯の白い光が、書類の文字を無機質に照らし出し、空調の乾いた風が首筋を冷やしていく。同僚の一人が「曽根さん、最近痩せたんじゃない?」と声をかけてくる。忠史は曖昧に笑い、胃の調子が、どうのと短く返した。本当は夜ごと眠れていない。妻の帰りを待つでもなく、録音の続きを求めるでもなく、ただ布団の中で天井の染みを数えている。眠るという行為が、あの音を手放すことに思えて、どうしても瞼を閉じられない夜が続いていた。それでも朝になればスーツを着て、いつもの電車に乗る。吊り革を握る自分の指が、昨夜まで自慰に使っていた指だとは、誰も気づかない。車窓に映る自分の顔が、ひどく平板な仮面のように見えて、目を逸らした。あの録音の水音が、電車の揺れに混じって不意に耳の奥で蘇る。忠史は唇を引き結び、スラックスのポケットで拳を固く握った。駅に着くまでの十分間、彼は窓の外の曖昧な景色だけを見つめ続けた。

涼菜はあいかわらず穏やかな笑みを絶やさず、夕食の支度をして、風呂を沸かし、洗濯を畳んだ。変わったことと言えば、彼女が夜遅くにリビングへ下りてくる回数が増えたことと、スマートフォンを手放さなくなったことくらいだ。充電器を二階の寝室から居間のコンセントへ移し、画面を伏せたまま置く。時折、通知が来るたびに彼女の指が伸びて、ほんの一瞬だけ唇をほころばせる。カーテンの向こうで夜風が鳴るたび、彼女の瞳が何かを確かめるように伏せられ、指先が太腿の上で小さく跳ねる。それ以上は何も知らされない。忠史も聞かない。聞けないのだ。聞いてしまえば、彼女の唇から零れる言葉の一つひとつが、彼の胸を切り裂く刃になることを知っていた。だから彼は、彼女の笑顔の裏に隠された空白を、ただ静かに見つめることしかできない。食卓に並んだ味噌汁の湯気が、二人の沈黙の上を漂い、やがて消えていく。

三月上旬の日曜日、洗濯物を畳んでいた涼菜が、折り終えたタオルを膝の上に載せたまま言った。

「忠史さん、今度の木曜から二泊で、実家へ行ってくるわ。母の調子があまりよくないらしいの」

彼女の声はいつもの調子で、柔らかな抑揚を保ち、うそを口にしているようには聞こえなかった。けれど、忠史はもう知っていた。彼女が「実家」と言うとき、それはあの男の腕の中へ行くための符牒なのだ。先月の半ば、たまたま彼女の財布から落ちたレシートに、都内の繁華街にある高級寿司店の名前が印字されていた。彼女は都心の実家へ帰る途中に、一人で寿司など食べはしない。あのレシートを拾い上げた瞬間、忠史の指先は紙の薄さを確かめるように震えていた。紙に刻まれた日付と金額が、彼の知らない夜の重さを雄弁に物語っていた。

忠史は畳み終えたワイシャツを手に取り、糊の匂いを嗅いだ。鼻の奥を刺す清潔な澱粉の匂いの向こうに、彼女の手の温もりが残っている気がした。糊の硬い香りと、彼女の肌から移った微かな石鹸の匂いが混ざり合い、布の繊維に閉じ込められている。その匂いを吸い込むたび、胸の奥に細い棘が刺さるような痛みが走った。

「うん、いってらっしゃい。必要なものがあったら連絡して」

そう返した自分の声が、ひどく他人行儀に響いた。涼菜はこちらを見て、小さく笑う。その笑顔の中に、あの十月の夜、彼女が「子種がないあなたが生むわけじゃないから」と言ったときと同じ、静かな執着の色が滲んでいた。瞳の奥で、何かが冷たく光る。忠史は彼女の前で、あの時のように黙るしかなかった。喉の奥まで出かかった言葉を、熱い唾液と一緒に呑み込んだ。胃の底へ落ちていく言葉が、酸の中で溶けて消える。

木曜の朝、涼菜は濃紺のニットに白いスカートを合わせ、首に葡萄色のストールを巻いていた。ニットの柔らかな編み目が、彼女の細い肩から胸の膨らみへ沿って伸び、白いスカートの布が腰の丸みを包み込んでいる。スーツケースを玄関まで引きずり、忠史が上着を差し出すと、彼女は「ありがとう」と囁いて袖を通す。彼女の髪は昨夜洗ったばかりのようで、まだ生乾きの花の匂いがした。洗い立ての髪から立ち昇る、蜜を含んだ花弁のような甘さ。湯気の混じった温かな匂いが、玄関の冷えた空気の中で一瞬だけ花開く。その匂いが、これから三日間、別の男の枕に染みるのかと思うと、忠史の胃の底が冷えた。凍った泥を呑み込んだような重さが、腹の奥でずしりと居座る。

「それじゃあ、行ってくるわ」

「気をつけて」

ドアが閉まる。小さな金属音と、遠ざかるスーツケースの車輪の音。忠史は玄関に立ち尽くしたまま、自分の呼吸だけを聞いていた。壁に掛けられた鏡の中の男が、同じように立ち尽くしている。彼はスーツケースの中に、昨夜すでに新しいレコーダーを仕込んでいた。前回より一回り小さな型のものだ。バッテリーは長持ちし、録音音質もよい。家電量販店の店員に勧められるまま買ったそれは、まだ封を切ったばかりのプラスチックの匂いがした。無機質な機械の匂い。誰も知らない夜を呑み込むための、冷たく滑らかな肌触り。涼菜がリビングを出る前、忠史は彼女の背中を眺めながら、この機械が彼女の三日間を初めから終わりまで呑み込んでくれることを願っていた。妻の裏切りを知るための機械。妻の知らない場所で、私の知らない彼女の姿を食べ続ける機械。その小さな箱が、自分の代わりに彼女の隣に在るのだと思うと、胸の奥に針を刺したような痛みが走った。痛みの先から、熱いものが滲み出る。それを彼は、指先で摘まみ取ることもできずに、ただスーツケースを運ぶ彼女の後ろ姿を見送った。

その夜、忠史は寝室でイヤホンを耳に当てた。再生ボタンを押す指は、もう震えていなかった。ブーンという耳鳴りのようなノイズの後、ガタンというスーツケースの車輪の音が断続的に続く。駅へ向かう彼女の足音。ヒールの硬い響きが、コンクリートの上を規則的に刻まれ、改札を抜ける駅員の声が遠くに聞こえる。やがて彼女の声がする。

「もしもし、あ、涼菜です。いま着きました。……はい、二泊分の荷物です。うん、ありがとうございます。ロビーで……あ、あちらにいますか」

それは、待ち合わせた男への電話だった。忠史の妻が、彼の知らない男と、昼間の街のどこかで落ち合っている。録音の中の涼菜の声は、いつもより喉が開いて、やわらかな弾みがあった。まるで春の水を張った小川のような、透明な明るさ。水底の石をくすぐりながら流れる音。忠史と話すとき、彼女があんな声を出したことがあっただろうか。記憶を探しても、その声はどこにも見つからない。

「こんにちは。お待たせして、ごめんなさい」

遠くで男の低い声が返事をする。忠史には言葉が判別できない。けれど涼菜の笑い方が、彼と話すときよりずっと無防備で、彼女の気持ちがそちらへ傾いているのが痛いほど分かる。背後で街の雑音が流れ、車が通り過ぎ、自動ドアの開く音がした。風に舞う紙袋の音。遠い信号の電子音。すべての音が、彼の知らない場所で鳴っている。

「きょうね、ずっと行きたかったお店があるの。あなたも一緒に来てくれない?」

彼女の声が近づく。イヤホンを耳へ押し込み、忠史は背もたれに倒れ込む。胸が氷のように冷えていた。それなのに下腹の奥は火傷しそうなほど熱を持つ。妻が他人の男を誘う声を聞きながら、彼の肉棒はゆっくりと硬くなっていく。拳を握る。布の擦れる音。何かを食べ、道を歩く。すべての音が、彼には性的な前戯に聞こえた。彼女が咀嚼する小さな唇の音さえ、彼の知らない夜の入口のように感じられた。特に、唾液を含んだ唇が開く瞬間の、あの微かな湿った音は、断ち切れない糸のように耳の奥へ絡みつく。

やがて店内の喧騒が変わる。柔らかなジャズが流れ、食器の軽い音。二人が何かを注文し、会話を交わす。グラスに氷が落ちる澄んだ音。銀のカトラリーが皿に触れる硬質な響き。

「わたし、このあたりに来るの、久しぶりよ。大学の時はよく……」

忠史の知らない女の過去。彼と出会う前、まだ誰のものでもなかった涼菜の時間が、男の前でほどかれていく。彼女は楽しそうに喋り、時々うん、と相槌を打つ。男の声は時折しか入らないが、穏やかで落ち着いた調子だった。戸田一彰。忠史の妻を二度、三度と抱いた男。もはや「ドナーの方」ではない。彼の生活に、彼の知らない夜を重ねる侵入者。その声を聞くたび、心臓は奇妙な刻みを打つ。憎しみなのか、興奮なのか、自分でも区別のつかない速い鼓動。動悸が喉の奥まで上がり、イヤホンのコードを握る指が湿っていく。

しばらく歩く音が続いた。繁華街の空気。自動販売機の落ちる音。若い女の笑い声。それから、二人の足音が止まって、ガラス戸の開く音がした。店内の静けさ。そして、遠くで小さな鈴の音が鳴る。チリリ、と澄んだ金属音が、扉の開閉に合わせて微かに震える。

「ここ、初めて来たわ。すごく、たくさんあるのね」

涼菜の声が密やかに弾んだ。男が何か囁く。笑い声。数秒の沈黙。空気の入れ替わる微かな音。店内の甘い香りまでが録音を通して想像される。

「えっ、これ……こんなのがあるんだ。すごい。色が、きれい」

何かを手に取る、かさりという包装の音。忠史は耳を澄ます。彼女の独り言が、細かなため息とともに流れる。

「ああ、これ……何センチなのかしら。うふ、バラみたいな形よ」

胸の奥で、何かが崩れていく。これは、性具の店だ。妻は今、男と一緒に、性具店の棚を覗いている。あの涼菜が、だ。彼女の声は上機嫌で、抑制された秘めやかさの代わりに、買い物を楽しむ女の弾みに満ちていた。あの清楚な唇が、バラの形をした張型の大きさを品定めしている。想像するだけで、脳の芯が痺れるようだった。血管の中を、氷片が流れていく。

「あなた、いじわるなのね……こんなの、押しつけて」

男が何か言う。涼菜の息が一瞬だけ震えて、それから「……うん、わかった」と小さく応えるのが聞こえた。微かに硬いものが触れ合う音。箱を開ける。ねじを回す。ブーンという機械の唸り。それは、彼女の身体に入れられるための道具の音なのだろう。忠史には見えない。けれど、音の一つひとつが、彼の頭の中に生々しい像を結んでいく。

夜になると、音の質が変わる。部屋の中の反響。カーペットに座る衣擦れ。浴室の換気扇の唸りが遠くに鳴るのを背景に、涼菜の声がひときわ近くに聞こえた。

「ああ、これ……ほんとに、はいるのかしら」

男の声。短い返事。

「いや、でも……あなたのいうことなら、試してみるわ。恥ずかしいけど、こんなに……太いのに」

忠史は瞼を閉じた。その声だけで、妻がどこにいて、どんな姿勢で、何をしているのか、手に取るように分かる。彼女は、男の前で、自分の身体の中へ異物を迎え入れようとしている。彼の知らない妻の穴。彼の知らない、女の顔。閉じた瞼の裏に、彼女の白い太股がゆっくりと開いていく光景が浮かぶ。太腿の内側の柔らかな肉が、重力に従って左右へ分かれ、その奥の闇が露わになる。忠史は自分の手の平の汗を握り潰した。

「ん……っ、あ、ああ……冷たい、わ。ぬるぬるしてる。これ、ローション? ……あ、ん、そんなに急に、ああっ」

彼女の息が上がる。肌がシーツを擦る音。男の荒い吐息。水音。ぬちゃぬちゃとした、湿った空洞をかき混ぜる音が、鼓膜の奥まで入り込んでくる。ぬぷ、くちゅ、という粘液の音が、耳の穴を濡らしていく。唾液のヌメリを思わせる、熱を帯びた水音が、忠史の脳髄を直接舐め回す。

「はあっ……ああ、むり、まだ、先が……つっかえてる……っ」

荒く、熱い声。忠史はスウェットの上から、もう勃ち上がっている自分の肉棒を握った。指先に力を込める。妻の声が耳の一番奥を舐めるたび、腰のあたりに甘い痺れが走る。悔しさが、悲しみが、そのまま快楽へ変換されていく。彼の感情は、ぬかるんだ泥沼のような場所で、醜く蠢きながら熱を帯びていた。自分が彼女を感じさせられなかった分まで、あの男は彼女の身体を開いていく。その事実が、嫉妬とは別の場所で、忠史の肉棒に血を集めた。

「あっ、あっ、やっと、はいった……おくまで、とどいてる、よ。あああっ、こ、こんなの、知らない……」

彼女の嬌声が、声にならない悲鳴に変わる。ピチャ、くちゅ、という粘液音が、録音の中でゆっくりと反復される。忠史は下着の上から亀頭を擦り、先走りが布地に滲むのを感じた。生温かい粘液が指に絡み、布地を透かして肌に貼りつく。自分が何をしているのか分かっている。妻が性具を挿入されて感じる声を盗み聞きして、一人で性欲を処理している。それは、夫としての最低の形以外の何ものでもない。けれど止まらない。この声こそが、自分と涼菜の間に残された、ただ一つの肉のつながりのように思えるのだ。彼女の嬌声が、彼の肉棒を握る手の圧を導き、射精への道筋を指し示している。

――そして、録音はさらに深い場所へと忠史を誘う。夜のホテルの一室。二人の呼吸が近づき、ベッドのスプリングが軋む。忠史はイヤホンを耳の奥へ押し込み、シーツの擦れる音の向こうに、妻の身体がどう置かれているのかを必死に探った。

「きょう……お尻、使ってみる? あの、ほら、お店で買った……アナル用の、細いの」

涼菜の声が、柔らかな、それでいてどこか息を潜めた調子で流れる。男が何か返す。低い声が空気を震わせ、涼菜が「……うん、わたし、まだ、したことないの」と小さく応えた。

「でも、あなたがしたいなら……いいわ。ゆっくり、して」

忠史の心臓が、耳の中で大きな音を立てた。彼は鼻で息を吸い込み、痛いほどに目を閉じる。妻が、自分の知らない場所を、他人の男に差し出している。身体の一番おおもとへ向かう道を、彼女自身の言葉で明け渡していた。忠史の胸を、鈍い釘が貫いていく。それなのに、肉棒はますます硬く反り返り、先端からは透明な雫が糸を引いていた。

「んっ……あっ……ゆび、さきが……あたってる……」という涼菜の声が、換気扇の低い唸りに重なって聞こえる。くちゅり、という粘着質な音。忠史は息を殺して聴き入った。男の指が、彼女の肛門の狭い窪みへ触れている。あの清潔で繊細な皮膚の折り目を、他人の指がなぞっている。忠史の頭の中で、ぬるりと光る人差し指が妻の窄まりをゆっくりと撫で回していた。涼菜の身体は、男の指の下でどんな風に震えているのだろう。彼女の白い背中が、シーツの上で小さく波打つ姿が、瞼の裏に生々しく浮かんで消えない。

「ローション……つけて。肛門に、指を……いれるんでしょ?」

涼菜の細い声が、媚びるように、しかしどこか事務的な丁寧さを帯びて録音に残る。瓶のキャップが外れる音。ぬるり、という粘液の音。室温のローションが男の掌に注がれ、涼菜の窄まりの上へ落とされる。彼女が「冷たい……」と短く息を呑むのに続いて、男の声色が、緊張を解こうとするように優しく何かを囁いた。

「ゆっくり……おねが、い」

きつく閉じた肛門に人差し指が押し当てられる。忠史には見えないが、音の間合いがはっきりと告げている。入口の皮膚がぬかるんだ脂に覆われて、男の指先がゆっくりと回転しながら沈み込んでいくのだ。ぬぷり、と沈むような粘液音がイヤホンを濡らす。涼菜の口から短い息が溢れる。

「ひあっ……は、はいっ……た、いりぐち……ひろ、がる……」

彼女の声は震えていて、痛みなのか、単なる圧迫感なのか、忠史には区別がつかない。指はまだ第一関節ほどまでしか埋まっていないのだろうか。皮膚を割り開いて入り込む他人の指の温度を、涼菜は肛門の一番浅い場所で感じている。あの場所に、彼女は自分の夫の指を入れたことがない。忠史は右手で肉棒を握り締めたまま、無理やりに顎を上げる。唇の間から零れる息は、他人のもののように熱い。

「お、おく……まだ、いれないで……あ、あ、あ……ぷ、ふぅぅっ……」

肛門を掻き拡げられている。男の指は、彼女の窄まりを内側から執拗に敬い、狭い腸の入り口をゆっくりと撫で回している。くちゅ、ぬちゃ、という水音が、忠史の耳を直接犯しているかのようだ。腸壁に溜まったローションが、指の動きに合わせて下品に鳴く。彼女の口から、苦しげな息と、甘い嬌声が同時に漏れる。忠史はその声の一粒も聞き逃すまいと、耳をそばだてた。涼菜がこんな声を出すことがあっただろうか。夫の知っている涼菜の喘ぎは、もっと薄く、遠慮がちで、空気に溶けるように消えていた。なのに、いま彼女が戸田の指に許しているのは、喉の底が開いて抜けていく、悲鳴にも似た生の声だった。

「ゆび、うごいてる……あ、んっ、いま、なかで、まがっ、よお……」

ずぶり、と指が引き抜かれる音。それから間を置かず、今度は別の太さが入口を押し拡げる。忠史は目を見開いた。男は、指を二本にしたのかもしれない。それとも、あの店で買った細い張型を、彼女の肛門へ差し込み始めたのか。涼菜の息が急に高くなる。

「そ、それは……アナルプラグ……? あ、ああ……それ、もう……お尻の、なか……ぁっ」

忠史の頭の奥で、金属か樹脂でできた異物が、ぬめりを帯びて尻穴を拡張していく絵が結ばれた。小さな栓の形をした物が、彼女の菊座の襞をゆっくりと押し分け、ずぶずぶと沈んでいく。涼菜は背を仰け反らせているのだろう。腰が浮いて、膝が小刻みに震えているに違いない。忠史は己の下腹部に熱を感じながら、もう片方の手でシーツを強く握った。

「んほぉ……ッ、お、おしりが……あつい、こんなに……あ、あ、ああっ……」

声にならない嬌声。肛門が異物を咥え込み、腸の入り口を以てプラグの細い首に締めつく。ぐちゅ、ぬちゅ、と、男がプラグを前後させるたびに粘液が下品に騒ぎ、それきりではない、ぱん、という尻肉への軽い打擲も聞こえた。

「……お尻、叩かないで……っ、あんっ」

涼菜の抗議は、ほとんど嬌声に溶けている。忠史は思わず息を漏らした。自分の妻が、尻を小さく打たれて甘い悲鳴を上げている。白い臀肉が、男の掌の下で揺れて、赤く染まっているに違いない。その映像を思い浮かべただけで、忠史の手の中の肉棒がびくんと脈を打つ。

「あ、プラグ……ぬ、かないで……ひあっ、ひろがっ、ひろがる、とこ……みられ……ああっ!」

録音越しに、じゅぷり、と栓が引き抜かれる音が鮮やかに忠史の耳へ流れ込んだ。引き抜かれた直後の肛門が、風を呼ぶように窄まり損ねて、ぱくぱくと物欲しそうに開閉している。忠史には彼女の窄まりの形が手に取るように見えた。あれは、もう妻の場所ではない。戸田によって広げられ、ほぐされ、異物の形を刻まれた、女のための尻穴だ。広がっては閉じる、その一つひとつの惨めな痙攣を、あの男がまざまざと見ている。

「……おっきく、なってるわね。涼菜さんのお尻。こんなに、素直に拡がって」

初めてはっきりと聞こえた戸田の声は、忠史の思っていたより低く、震えていた。それが彼の腹の底を冷たく焼く。あの男の指は、いま彼女の肛門を愛でている。ぬちゃ、くちゅ、という湿った音が間近で聞こえる。

「自分で、指いれて……? それとも、こっちで……広げて、差し上げましょうか」

拒絶するどころか、涼菜の返事はもはや熱に蕩けた嘆きだった。

「……手で、入れてみたい……ゆび、いれて……わたしの……お尻、自分で、ちょっとだけ……」

忠史は絶句した。自分の耳を疑いながら、更に深く息を潜める。録音の中では、戸田の指がまたローションを掬い、涼菜の窄まりの周りに丁寧に塗り拡げている。肛門の皮膚がぬめる音。それから彼女自身の指が、小さく折り曲げられながら、窄まりへ吸い寄せられる。彼女の吐息が震え、喉の奥が鳴った。

「あ、あっ……わたしの、ゆび……おしりの、なか……あああ……は、はい、ひらいて……あ、ひらいてる……」

忠史の視界が、血を流したように真っ赤になった。妻は戸田に見せているのだ、自分の指で尻穴を割り開く姿を。彼女の節の白い指が肛門の輪に埋まって、内側から窄まりを左右へ引っ張っている。あの慎ましいはずの涼菜が、他人の男の眼前で、自分からケツを拡げている。彼女の肛門はすでに最初とは違う。プラグでほぐされ、指を呑んで、今度は自分の指で内側を曝け出している。忠史は玉袋の奥が重く熱を帯びるのを感じながら、手の中でぬかるんだ肉棒をゆっくり扱き始めた。

「も、もっと……あけて、もっと……お尻、もっと拡げて、見てほしい……あ、ああ、戸田さん……わたしのなか……すごく、あつ、い……」

――彼女の言葉を、忠史は初めて聞いた。ねだるような、泣くような、それでいて喉の奥できらきらと輝く汚れた悦楽の響き。忠史の陰茎から先走りがとめどなく溢れてくる。彼の知っている涼菜は、こんなにも深い場所で、こんなにも強く男を欲しがる女ではなかったはずだ。いや、違う。彼の知っていた涼菜が、こうなる姿を見せなかっただけなのかもしれない。そう思った瞬間、忠史の目の奥が灼けた。頭の芯を黒い虫が這い回り、胸が苦しく締めつけられる。なのに、その苦しさが彼の肉棒を更に固くする。

「……ねえ、いいの?」

戸田の息も荒い。たぶん彼は、彼自身の肉竿を露出させ、涼菜の窄まりの真上へ先端を構えている。忠史には見えなくても、ぬっ、ぬっ、と彼女の尻肉を叩く硬い肉の重みが音になって伝わってくる。涼菜が息を呑む。シーツを掴む指先の音。ローションのぬめりが下品に唸る。肛門を意味する言葉が、録音の向こうで粘りつくように反響する。

「……お尻、もうっ、ああ、ひろげたまま、ぁ……あなたのが、あたって……ああ、ひろがって、はいる……はいっ、てくる……!」

男の亀頭が、彼女の窄まりを割って潜り込む。その瞬間、忠史の耳へ、ぬぶりっという重い粘液音が飛び込んできた。彼は自分の肉棒を扱く手に、知らず力を込める。彼女の肛門は、他人の熱い肉に貫かれている。あの狭い窪みが、肉棒の太さに合わせて円く変形し、男の先端を呑んでいく。忠史は、その光景をこの目で見られないことがむしろ救いのように思えた。

「あうう……おく……きてる、チンポが、お尻の、いちばんおく……んんっ、ふぅぅっ……」

涼菜の口から、この日、最も激しい声が迸った。恥ずかしさと快楽が混ざりあった、湿った悲鳴が、忠史の鼓膜を爪で引っ掻く。ぬぶっ、ぬちゅ、という音が、ホテルの一室の狭い空間で反響する。ベッドのスプリングが軋み、肉と肉とが打ち合う。忠史は無心に耳を研ぎ澄ませていた。妻の肛門が男のペニスを根元まで咥え、肉の筒がぎちぎちに張りつめて、引き抜かれるたびに内側の襞まで外へ捲れてくる。あの肛門の輪が、戸田のペニスに搾り取られるたびに、忠史の知らない女の顔で笑うのだ。

「や、あ、やだ……そんなふうに、みないで……あ、ああっ、みられてる、肛門……いま、すごい、ことになってる……」

涼菜の言葉は、拒んでいるふりをして男の視線を更に自分へ縛りつけているようだった。戸田が息を吐き、腰を回すたび、ぬめった湿りがグチュグチュと鳴る。粘液の音は、ときおり空気を含んで泡立つ。彼女の菊座から溢れるローションが、会陰から牝の割れ目を経由してシーツを汚していく。忠史の鼻の奥に、潤んだ空気の匂いが再生された。尻を粘液で濡らした二人の体温が、部屋の空気をあの異様な甘い匂いで満たしていく。あたかも熟しすぎた果実の皮を剥いたときに立ち昇る、あの匂い。忠史は唇を噛み締めながら、それを想像の中で吸い込み、下腹の熱を高くした。

「動きます……! ずぶずぶ……! ケツ穴、チンポで貫かれて……! ああ、気持ちいい……! 気持ちよすぎます……!」

戸田の声が湿った吐息とともに喘ぐ。涼菜の尻を掴んで引き裂くように穿ち、肉の筒を強く突き入れている。あの男はもう敬語さえ崩れ、自分を制御できない獣の呼吸を妻の耳へ吹きつけている。忠史は手首を回し、手の中で溢れる先走りを肉亀頭の傘に塗り広げた。自分が肉棒を握る手の動きが、戸田の抽送と重なる。妻を抱くあの男の腰の律動を、自分の指が擬態している。こんなときこそ、もっと別のことを考えなければと頭の片隅が囁くのに、忠史の身体はもう耳から離れられなかった。

「イク……! もう……! ケツで、チンポでイク……!」

涼菜の声がひときわ裏返り、鋭く宙を切る。がくがくとベッドが揺れ、彼女の奥から何かが溢れ出す気配を、忠史は録音の向こうに確かに感じ取った。

「イけ! カメラの前で、思いっきりイけ!」

――カメラ、という言葉が、忠史の頭を冷たく貫いた。録音されているのは音だけではない。戸田は彼女の痴態を映像でも記録しているのだ。忠史は一瞬呼吸を止め、すぐに深く喘いだ。喉の奥から、悔しさと興奮の飲み込めない何かが込み上げてくる。彼の妻が、他人の男のカメラの前で、尻穴を貫かれながら果てようとしている。その事実が、忠史の睾丸の奥を焼いた。

「んほおおおっっ!」

絶頂の悲鳴がイヤホンを震わせた瞬間、涼菜の肛門は男の肉棒へ向かって痙攣しているのだろう。ぎゅう、と女の内臓が肉を締める音が、ぬちゅ、ぬちゅ、と粘液の絶頂を促した。男の吐息が爆ぜ、腰を打ちつける重い音が続く。どくどくと、戸田の精が彼女の腸のなかへ注がれていく。肛門を熱い精液で満たされる涼菜の嗚咽が、忠史の耳へ流れ込む。

「ああ、お尻のなか、あったかい……っ、出されてる、わたしの、お尻に……あああ、んああっ……」

忠史も、もはや耐えられなかった。分身から溢れ出る粘液を手に絡めながら、何度も腰を突き上げるように扱く。頭のなかで、彼女の肛門が白濁を咥え込み、ひくひくと窄まりながら吐き出す絵が明滅する。砂地に水が沁みるあの水音と、男の精液が妻の尻の中で逆流する音とが、彼の鼓膜の中で混ざり合った。二つの映像は、彼の脳を酸素不足の深海へ突き落とし、全身を異様なまでの熱で震わせる。忠史は歯を食いしばり、鼻息を荒くした。

――どくん。どくん。と、下腹部の芯が痙攣するたび、妻のいない寝室の空気に、自分の精が散っていく。手の中はぬるぬると熱く、腹の上に飛んだ液が冷たくなる時間さえ惜しまれた。肛門に男の白濁を注がれた妻の声を、なおも耳が追いかける。射精した後も肉棒を握る手を離せずにいた忠史は、指の間に絡むものを、いとおしむようにそっと握りしめた。

夜は更けていく。寝室の暗闇の中で、録音はあの行為から別の日――二日目へ移っていく。背景のざわめき。街の音。外を歩く二人。小康状態の心臓が、再び速まる。彼らはまたどこかへ出かけるらしい。忠史は自分の脈を数えながら、暗い天井を見上げた。雨戸の向こうで、遠い車の音が消えていく。彼の孤独だけが、部屋の中で濃く沈殿していく。

「わたし、おなかすいたわ。今日はね、お寿司がたべたい」

涼菜の声が弾んでいる。男の返事は、笑いを含んで優しい。吸い込まれるような沈黙の後、ピッという電子音。

「これ、つけたら……あ、ああ、やだ、歩くと……」

彼女の呼吸が淫らに波打つ。リモコンの振動音が、ジージーと断続的に肌を打つ。彼女が足を止め、息を殺して笑う。笑い声の合間に、堪えきれない吐息が混じる。

「あなた、外でこれを……あんまりよ。歩くたんびにあたって……」

忠史は目を閉じて、妻の太股のあいだに振動する器具が入っている絵を想像した。彼女の顔は街の灯りに赤く染まって、誰にも知られない熱と恥ずかしさで潤んでいる。人混みの中を歩きながら、内腿を震わせる妻。膝が笑い、爪先が内側へ歪む。彼はその恥ずかしさを、自分の体の芯で知った。彼女の恥辱が、イヤホンを通して血管を巡る。太腿の内側に走る震えが、自分の脚にも伝染していくような幻想。

「……もう、ぬれちゃった。早く、たべて、かえって……わたし、いま、もう……」

彼女の消え入りそうな囁き。遠くの車の音。二人が寿司屋へ入るまでは、何度も男の声が彼女をからかい、涼菜が息を詰めて笑声を噛み殺す。リモコンバイブの振動が、彼女の返事の合間を無秩序に乱していた。言葉の途中で途切れ、息だけが浮き上がる。

リビングの時計が深夜を回る。忠史はいったんイヤホンを外し、水を一杯あおった。喉が渇いていた。台所の暗がりで、蛇口から流れる水を眺める。自分の手が臭う。汗と、男の精液のような自分の匂い。忠史は両手を洗って、再び寝室へ戻った。指の間に残った生温かな匂いが、洗い流してもなお皮膚に残っている気がした。冷水で固まった指先が、廊下の空気に触れてじわりと温もりを取り戻す。

録音は続いていた。ホテルの部屋に帰った二人。ドアの開く音。乱れた呼吸。ベッドが軋む。それから、思いもかけない言葉が流れてくる。

「ねえ、見てていいわよ……おしっこしてるところ……」

それは男の囁きなのか、涼菜の懇願なのか、一瞬、聴覚は混乱した。やがて彼女の細い声が続く。

「えっ……わたしの、おしっこしてるところが、見たいの?」

軽く笑む彼女。その笑い声には、もう「恥ずかしい」と「面白い」が半々に混ざっていた。男が何か言う。彼女が少し逡巡する気配。沈黙の中で、衣擦れが微かに震える。

「……いいわよ。だって、あなたには、もう、どこも隠してないもの」

その科白を聞いたとき、頭の芯がじんと痺れた。彼女は、忠史には決して見せたことのない姿を、この男の前でだけ曝けす。浴室か、トイレか。涼菜がしゃがむ気配がする。衣擦れ。扉の開く音。便器の水音。いや、違う。彼女は外で。録音の中の空気が、部屋の反響ではなく、どこか開けた場所の反響に変わっていく。風の音。葉擦れ。遠くの街灯。夜の公園。

「すごい、おっきな公園。誰もいないわ」

涼菜の声が夜気に溶ける。草木を踏む足音。ベンチのそばか、茂みの奥か。数歩進んで、彼女が息を吐いた。

「ここなら……みえないわよね。……ああ、恥ずかしい」

スカートの布が持ち上がる音。下着を下ろす。肌が空気に触れたことを告げる、浅い息。彼女がしゃがみ、バランスを取る。沈黙。耳は痛いほどの集中力で、殿部の下の草むらに降り注ぐ水の気配を探る。

しゅいいいい、と細い水流の音が、暗い公園の空気を切る。砂を叩く連続音。土が水を吸うときの、湿った音。ちぇりゅ、ちゅる、と最後の一滴が地面へ落ちる。

「でちゃう、でちゃう……あ、あ、止まらない……おしっこ、繋がってる……」

彼女の消え入る声。忠史は強く目を閉じ、暗闇の裏側で映像を作る。公園の砂地にしゃがみ込む妻。スカートを腰まで持ち上げ、白い太股を寒さに晒して、他人の男の前で排尿する。流れ出た黄金の水が、砂の上に円く染みを作る。その円い染みが、じわりじわりと広がる。湯気を上げながら土へ吸い込まれていく水。彼の知らない彼女の恥辱。彼の知らない彼女の排泄。それを見せられる男ではなく、見ているはずのない自分が、耳だけでそれを最も深く知る。

「ああ、すっきりした。戸田さん、ひどいわ。スマホで撮るなんて……誰にも、みせちゃだめよ」

男が笑う。夜風。草の揺れる音。涼菜が立ち上がり、下着を直す。軽い足音。その一部始終が、屹立した肉棒に熱を集めた。忠史はもう一度、録音を少し戻す。砂地に染み入る水音のあたりまで戻し、耳の奥が溶けるまで繰り返す。あの水音を聞くたび、敗北の感覚が甘く腹に沈み、そのたびに肉棒が脈打った。負け犬の心臓が、恥辱の中で異様なまでに強く拍動している。

彼は右手を下着の中へ滑り込ませ、ぬかるんだ肉棒を露出させる。快楽は、もう悔しさを溶解させて蜜に変える作業に他ならなかった。唾を掌に絡め、ゆっくり扱く。録音の中では、いま彼女がまた男に囁かれている。言葉は判然としないが、男の唇が彼女の耳へ触れているらしい。涼菜が息を呑み、吐き出す。

「えっ……」

驚いたような、それでいて期待に満ちた声。

「こんど、あの温泉に……混浴の露天風呂、連れてってくれるの? あんなところで、見られながら……想像するだけで、きもち、よくなってきちゃうよ」

忠史は背中を弓なりに反らせ、手を早めた。ぬちゅ、ぬちゅ、と音を立てる。録音の向こうで、妻が他人の男と裸の交わりを夢見る声を賭けている。女の声が艶を帯びて、自分には決して向けられたことのない蜜の色を滲ませていく。それが睾丸の奥に重く溜まって、やがて弾ける。会陰がひくつき、腰が浮く。

「わ、わたし……あなたと、してるとき、とても汚くなるの。自分でも、いやなくらいに……」

彼女の告白。忠史の知っている涼菜が、少しずつ剥がれ落ちる。男が励ます。その返事。二人の睦みあいの音。唸るような空調。弾んだ息。唇が触れ合う微かな音。

「ねえ、もっと、お尻を叩いて。いけない女の、このお尻を……」

女の声が、悦楽へ沈んでいく。

そのとき、射精が来た。視界の奥で、あの公園の砂地に体液が染みを作る。録音の中の彼女と、寝室で肉茎を握る自分とが、まるで同じ生き物のように繋がる。痙攣する手の中で、精が溢れ、腹を伝った。どろりとした白濁が、指の節を滑り、臍の窪みに溜まっていく。この状況すべてが、もはや狂っている。なのに、夢中で耳を手放せなかった。イヤホンから流れる彼女の喘ぎが、射精後の虚脱をゆっくりと溶かしていく。忠史は汚れた手を胸の上に置き、天井を見つめたまま、荒い呼吸を整えることができずにいた。

翌朝、会社の蛍光灯の下で忠史は書類をめくっていた。パソコンのキーを叩く音と、同僚の低い声。冷房で乾いた空気。彼の指は、書類のペーパーの角をなぞっていた。耳の奥で、あの水音がまだ鳴っている。涼菜の「でちゃう、でちゃう」という声の残響が、紙をめくるたび蘇る。忠史は立ち上がって給湯室へ行き、コーヒーを注いだ。熱い液体の染みが、白いカップの内側に円く広がる。その丸い形を見ていると、砂地の濡れた染みと重なって、胃のあたりが熱くなった。湯気の中で揺れる黒い液面に、昨夜の自分が映り込んでいるようだった。忠史は手早くコーヒーを飲み干し、会議室へ戻った。頭の中の妻は、いま別の男と目を覚ましている。それでも、彼は彼女の帰りを待っている。いや、違う。彼女の帰りを、あの音の続きを待っている。スーツの襟元を正し、会議の資料を開く。同僚の声が遠くで響き、空調の風が首筋を冷やす。そのすべてが、昨夜の暗い寝室からは信じられないほど遠く、同時に恐ろしいほど近くに感じられた。

彼の歪みは、もう誰にも修復できない場所まで来ていた。書類の文字が、一瞬、あの公園の砂地の染みの形に見えて、忠史は静かに目を伏せた。

第5章 ピルの日付

第5章のシーン

第5章: ピルの日付

三月下旬の平日、夜の七時を回った頃だったろう。リビングの窓硝子は青黒い闇を映し、部屋の中の白い照明が窓の面に二重写しになっていた。私はソファに座り、膝の上に載せた文庫本へ視線を落としていたが、活字は一行も頭に入ってこない。涼菜は「少し買い物に行ってくるわ」とだけ言って、つい先ほど出て行った。彼女の足音が玄関から廊下へ遠ざかり、ドアが閉まるかすかな空気の震えが、いつのまにか私の腹の底へ沈んでいた。

一人になったのだ。私の呼吸だけが部屋の中をただよう。天井の照明に照らされた食卓の上に、彼女の使っている木製の通院用バッグが置き去りにされていた。彼女はいつもそれを足元に置く。産婦人科の予約票や、基礎体温の記録ノートや、たまに文庫本などを入れている、布製の手提げにしてはやけに硬さのある黒っぽいバッグだった。私の視線はもう何分も前から、それに吸いついている。手のひらは汗ばみ、本の表紙を湿らせていた。心臓が時折、不自然に大きく鳴る。

十一月のあの夜、私はこのバッグの底のファスナーを開けた。薄いシートに触れた。あれはきっと私の見間違いで、何かの薬と区別もつかないまま暗がりへ戻した、つもりだった。なのに今、バッグは食卓の上に置かれ、柔らかな照明の下へ、持ち手の影を長く落としている。彼女が買い物に行くとき、いつもはこのバッグを持たない。財布と携帯電話を小さなポシェットに入れて出かけるのが習慣だった。それを今夜、わざわざ出しっぱなしにしたのは、単なるうっかりなのか。それとも、私の手に委ねるような、何かのしぐさなのか。

立ち上がった。文庫本がソファの端に落ちて、ページの角が床へ当たる。音は意外に鋭く、自分の体の芯を叩く。食卓へ歩み寄り、椅子を引いた。バッグは、蓋の部分が開いたままになっていた。中から白いハンカチが覗き、その脇に小さな予約票の束が見える。わたしの手は意思と関係なく動いて、バッグの口をそっと広げた。涼菜の匂いがした。彼女の化粧水か、あるいはハンドクリームか、粉っぽくて微かに甘い香りが鼻の奥をくすぐる。私は目を閉じ、自らの息を整えた。

指が、底のファスナーポケットを探る。あった。前回と同じ位置に、金属のスライダーが固く噛み合っている。引くと、小さく唸るような音がして、ポケットの内側が暗い唇を開いた。私は手を差し入れた。指先が、滑らかな凸凹のある薄いものに触れる。筒状の小箱ではなく、カレンダーのような細い板だった。引き出して、光の下へ翳す。

低用量ピルのシートだ。銀色の箔に、小さな粒が一列に並んでいる。何の迷いもないように、奥から順に押し出された後の空になった窪みが並び、残りの粒がところどころに散っていた。裏面を返すと、服用日を記録するために曜日がプリントされた小さな丸の跡。私の指先は、その凹凸をなぞった。月曜、火曜、水曜。空の窪みを指の腹で確かめる。今日までの分が、欠かさず押し出されている。彼女が毎朝、あるいは毎晩、決まった時間にこれを飲んでいる証だった。

私はバッグを小脇に抱えたまま、椅子へ座り込んだ。手のひらの中のシートは硬く、心臓の打つたびに指先へ熱を送ってくる。ピルの服用。それは受精のためではなく、妊娠を避けるための薬のはずだ。それももうずっと前から。十月の末、病院で無精子の宣告を受けた夜、私はこの同じポケットから薄い板を見つけて、自分に言い訳をした。涼菜が自分の周期を整えるための薬だろう。何かのホルモン剤だろう。そう思わなければ、夜の奥をやり過ごせなかった。

今、月曜から順に凹んでいる薬の痕を確かめて、もう誤魔化しようがない場所に立った。妻は、私の子種を求めるふりをして、他人の男に抱かれている。生理を止めるための薬を、彼女自身の体へ染み込ませながら、次の排卵日という嘘を私と共有している。胃の奥が冷えて、痙攣を起こしそうな吐き気と、それと寸分違わぬ位置で、腹の底のさらに下に粘ついた熱が芽生えた。ペニスの芯が、ずくりと重くなる。それを感じると、どうしようもなく自分を恥じた。

玄関の方向から、鍵の回る音がした。私はシートを急いでポケットへ押し込み、バッグを卓上へ戻した。座ったままだったが、流石にその体勢は不自然すぎる。立ち上がって文庫本を拾い、ソファへ戻る。呼吸を一回、二回。顔の血の気がゆっくりと戻っていくのを感じた。

「ただいま。雨が降りそうだったから、早足になっちゃったわ」

涼菜の声が廊下から届く。私は本から顔を上げた。

「おかえり。寒かっただろ」

「ええ、今日はとくに風が冷たいの。週末にかけて、また寒くなるんですって」

彼女はレジ袋を台所へ置くと、薄いカーディガンを脱いで椅子の背に掛けた。その動作のあいだ、彼女は一度も食卓のバッグを見なかった。いや、見ないようにしていたのかもしれない。私の目には、そう映る。彼女の横顔はいつものように静かで、やわらかな頬の線が照明に透けて見える。栗色の髪を首の後ろで束ねているが、今日は結び目が低くて、襟元に後れ毛が落ちていた。黒いタートルネックの上に、生成りのカーディガン。もう春だというのに、彼女の装いはどこか晩冬の色を残している。その首の細さが、やけに痛々しかった。

夕食を作ると言う涼菜を制して、私は台所へ立つ。残り物を温めるだけの献立だが、手を動かしていないと自分が壊れてしまいそうだった。鍋を火にかけ、味噌汁を沸かす。湯気が顔へ上がり、コンロの狭い明かりが影を揺らす。背後の食卓で、涼菜が椅子に座る。衣擦れ。そして、さりげなく通院用バッグを自分の足元へ引き寄せる音がした。私は振り向かなかった。振り向く代わりに、木製の菜箸で大根を突き、ひとり静かに呼吸を刻んだ。

食事の間、会話は途切れがちだった。風の音が窓を擦る。電子レンジのタイマー。箸が皿に当たる音。涼菜はどことなく上の空で、味噌汁を二度、三口、小さく啜っては箸を置く。胸元へ落ちた後れ毛を、白い指が耳へかける。その仕草のひとつひとつを、私は盗み見ていた。

「もうすぐ桜が咲くわよ。会社の近く、毎年きれいだもの」

涼菜が唐突に言った。

「ああ、そうだな」

「お花見、いきたいわ。川沿いの道、忠史さんと歩いたのっていつだったかしら」

彼女の声には、たしかに郷愁のような響きがあった。けれど琥珀色の瞳は一点を見るともなくぼんやり開かれ、微笑みの輪郭は浅い。目の奥で別の映像をなぞっている。それは川沿いの桜ではなく、どこか別の場所なのだろう。ホテルの窓から見た午後の光か、男の部屋の壁にかかった時計か。私の知らない何かを思うとき、彼女のまぶたは必ず一度、ひどくゆっくりと伏せられる。今夜もそうだった。

「今度いこう。お弁当、つくるよ」

私は自分の声を、なるべく日常の側へ置いた。涼菜は嬉しそうに頷き、湯のみを両手で包んで緑茶を飲む。その唇が、薄い湯呑の縁へ触れる。半月型の口紅の跡が、白い陶器へ染みた。私はその染みを見つめた。あの唇が男のペニスを咥え、粘液の糸を引き、妻の知られざる言葉を囁く。耳の奥に、録音の中の彼女の声が甦りかけて、私は慌てて味噌汁を流し込んだ。熱が喉を焼いた。苦しくて、舌が痺れる。胸のうちの暗い熱を、喉の痛みで上書きする。

食事が終わる頃、雨が窓を打ち始めた。細かい粒がガラスへ吸いつき、街の光をぼやかしていく。涼菜は食器を流しへ運びながら言った。

「あと片付け、わたしがするわ」

「大丈夫だよ。座ってて」

「それなら、一緒に終わらせましょう」

彼女はそう言って笑った。二人で肩を並べ、台所の狭い流しで皿を洗う。私の腕が彼女の袖へ触れるたび、布の摩擦と、その下の体温が伝わった。彼女の二の腕は細い。華奢な肩。水に濡れた手首。スポンジを握る私の指先から、泡がぽたりと落ちる。涼菜の小指が、シンクの水滴を拭った。日常の幸福が、皮膜一枚隔てた場所にあるようだった。

片付けを終えると、涼菜は洗面所で歯を磨き、リビングへ戻ってきてカーディガンを羽織り直した。私はリビングの照明を少し絞り、文庫本を開く。雨音は途切れない。夜の冷気が、窓の桟から這い上がってくるようだった。

「忠史さん、明日、少しだけ相談があるの」

涼菜が、ソファの隅へ座りながら言った。私は本を膝へ伏せた。

「相談?」

「ええ、やっぱり、治療のこと。……次の排卵日のこと」

彼女は私をまっすぐ見た。その視線が、今夜の空気の中でやけに強い。瞳の表面に、絞り込んだ照明の白が粒のように乗っている。私は口の中が乾くのを覚えた。

「うん。いいよ。今でも」

「いえ、明日の夜、ちゃんと話すわ。今日はもう、疲れてしまったから」

そう言う涼菜の肩が、ほんの少しだけ内側へ落ちる。胸の前で組んだ指が、白くしなやかに絡まっていた。私は彼女の疲労が、台所で感じる日常のそれとは別種であることを薄々察している。察して、口を閉じる。言葉にすれば、奥の部屋へ逃げ込んだ何かが、いっきに形を持ってしまう。

「そうだな。明日の夜、ゆっくり聞くよ」

「ええ。おやすみなさい」

涼菜はソファから立ち、寝室へ向かった。すれ違うとき、彼女の首筋から、洗い立ての肌の匂いとは違う、ほんの僅かに甘い香りがした。私の鼻腔をかすめて消える。服のどこかに、まだ購入したばかりの繊維の匂いが残っているのだろうか。あるいは、別の場所の。私は息を止めたまま、彼女の後ろ姿を見送った。彼女は途中で一度立ち止まり、振り返って言った。

「忠史さん、窓、閉めておいて。雨が吹き込むわよ」

「閉めておくよ」

涼菜が消えた後、私は窓へ寄り、カーテンを開けた。外は雨に煙り、向かいのマンションの灯が盥に映った油のように滲んでいる。硝子に触れると、しっとりと冷たかった。額を寄せて、しばらく外を眺める。雨が地面を叩き、側溝を流れる水音が高く低く唸っていた。私はその音へ耳を澄ませた。あの公園の砂地に染み込んだ水音が、遠い夏の虫の声のように蘇ってくる。閉口し、カーテンを引いた。

リビングの明かりを落とし、私は食卓の前に立った。闇の中で、通院用バッグがまた浮かび上がる。涼菜は、さっきバッグを足元へ引き寄せた。きっと、中を確かめたくなったからだ。私が触れたことを、知っていたかもしれない。それでも彼女は、何も訊かない。ピルの板を見られて、それでも平然としている。平然としているのが、一番こたえた。

私はバッグを両手で持ち上げた。ずしりと重い。留め金の金具が指先へ食い込む。底のファスナーに触れる。開けなくてもわかっている。昼間、ここから取り出したシートが、同じ場所へ戻されたことを。月曜から始まる丸い日付。今日が木曜なら、今週はもう四粒が抜けている。私は数えた。数えずにはいられなかった。四粒。排卵日から遠く、出血を止めるための日々。妻は、妊娠しないために薬を飲んでいる。他人の男と、味わうために。私の知らない行為のために。

ファスナーの金具を握りしめたまま、私は立ち尽くす。暗い部屋のどこかで、冷蔵庫のコンプレッサーがブウンと唸った。雨音が強まって、窓格子を叩く。呼吸が浅い。頬の内側がひりつくほど乾いている。私はバッグを元へ戻し、両手で顔を覆った。手のひらに、ファスナーの冷たい形が残っている。

一言、問うべきだった。シートを食卓へ置き、涼菜へ差し出し、これが何かと訊くべきだった。あの薬の凹凸を、指先で確かめた違和感を、十月からずっと抱えたままの私の疑念を、ようやく言葉にすべきだった。しかし私はソファへ沈み、文庫本すら開かず、雨の夜をひたすらやり過ごした。何もかもが、するりと喉の奥を滑り落ちていく。追おうとすればするほど、指の間から逃げていった。

翌朝、雨は止んでいた。空はまだ曇り、アスファルトは濡れて黒い。涼菜は早くから起き出し、洗濯機を回していた。私はスーツのネクタイを結びながら、彼女の立てる生活音を耳で追う。寝室のドアを開けると、洗剤の匂いが廊下へ流れていた。浴室の洗濯籠の前で、彼女が洗ったばかりの衣類を分けている。その中に、淡い色の肌着が覗いた。私は立ち止まり、声を掛ける。

「行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。今夜は、ちゃんと話しましょうね」

涼菜は振り返り、頬をほころばせた。私は頷いて、玄関へ向かう。彼女の視線が背中へ刺さる。いつもの夫婦の朝。なのに、足元の空気ばかりが薄かった。

会社の一日は、ひどく長く、同時に何も覚えていないくらい平坦だった。パソコンの画面。会議室の白い壁。書類の山。昼休み、給湯室でコーヒーを注ぎながら、窓の外の曇天を呆と見つめる。街路樹はまだ裸の枝を空へ突き出している。駐輪場の水たまりに、灰色の雲が映って揺れていた。私はポケットから手帳を出し、次の排卵日と月经予定日を、知っている限りの数字で逆算した。意味はなかった。彼女の体の中のリズムは、もう私の計算から外れている。

夜、マンションへ戻り、二人で食事をした。涼菜は朝よりも落ち着いた顔をしていて、箸の運びもゆったりしていた。食卓の隅には、例の通院用バッグが、ぴったりと閉じられた状態で置かれていた。彼女は片付けを終えると、わざわざ居間の照明を強くし、テーブルの向かいの椅子へ座った。私は彼女と直角の位置に腰を下ろす。膝の上で、互いの指が触れるか触れないかの距離だった。

「なにか飲む?」

私が訊くと、涼菜は首を振った。

「いいえ。あとでお水を飲むわ。それより、今日の話をさせてちょうだい」

彼女の声は静かで、姿勢は背筋を伸ばしていた。黒いブラウスの襟が鎖骨をくっきりと浮かび上がらせ、首の白さを際立たせている。私は頷き、背もたれへ浅くもたれる。腹を括らねばと思った。もう、逃げる段階ではない。

「四回目のあとから、ずっと考えてたの」

涼菜は言った。その「四回目のあと」という言葉が、彼女の口から出るだけで、私の奥の深いところがちりちりと痛む。

「なにを?」

「わたしの体のこと。少し、正直に話すわよ」

そう断って、涼菜は薄く息を吐いた。黒いブラウスの上で、胸がゆっくり上下する。窓の外では、風が電線を鳴らしていた。

「四月に入ったら、もう一度、受精期間を設けたいと思うの。ちゃんと、病院の先生とも相談する。五回目は、少し条件を変えて、排卵の二日前からホテルに入れるように調整するの」

彼女は至極事務的に言った。ホテル、という言葉を、妻は夫の前で口にできる。それがどれほど異様なことか、彼女は、いや、彼女の目は、もう微塵も揺れていない。私はテーブルの縁を右の親指で擦った。

「けれど、五回目で駄目なときは、距離をおこうと思うの。期間をあけて、秋頃にもう一度、仕切り直す」

「距離を?」

「ええ、あの方はあくまで……ドナーの方だから。わたし、少し近すぎたのよ、きっと」

涼菜の唇から出た「あの方」という遠い呼び名は、私には慰めでも何でもない。彼女が自分の心の膜をすり抜けないよう、言葉だけを外側に置いているのがわかる。顔を上げた彼女と目が合った。琥珀色の虹彩は落ち着いていて、私の目を正面から見据える。その透明な強さは、以前の彼女にはなかったものだった。

「わかったよ。君がそう思うなら、そうしたらいい」

そう返しながら、自分の声が上滑りしているのが分かった。涼菜は一度だけ、ろうそくの火でも見るように瞬きをした。それから口元をふと緩めて、小さく笑った。

「ええ。それにね、次の排卵日あたりまで、生理を遅らせるお薬を飲もうと思ってるの。ホルモンの周期を整えると、着床しやすくなるって先生が言ってたのよ」

心臓が、一つ大きく跳ねた。生理を遅らせる。彼女は今、確かにそう言った。まるで私の疑念を、目の前で紙のように折りたたむみたいに。私は膝の上で、無意識に両手を組んでいた。指が冷えている。汗はかいていない。なのに視界の端で、白い蛍光灯が波打つ。

「先生が言ってたのか」

「ええ、産婦人科の先生。体内のホルモンを安定させると、受精の成功率も上がるんですって。わたし、もう子供がほしくて、いろいろ必死だから」

涼菜は照れ隠しのように笑った。その頬が、かすかに赤い。ぎこちなさではなく、秘密を抱える者の、滑らかな熱。それは夫に向ける笑顔というより、もっと原始的な生の温度だった。私はどうにか頷き、喉の奥で「そうか」と声を作った。戻す言葉が見つからない。正しく問い詰めるなら、今だ。シートを出せ。それを飲んだ理由を言え。生理を遅らせる女が、どうして他人に抱かれながら妊娠を願うのか。

言えないまま、私は視線を落とした。テーブルの木目。コースターの染み。湯飲みを置いたやけに明るい円。涼菜はその円を、白い指先でそっとなぞった。指の腹が、温まった陶器を確かめる。彼女が小さく息を吐くと、胸元の黒い布が微かに擦れた。夜の空気が、しんと冷えた。

「忠史さん、子供ができたら、どんな毎日かしらね」

「どんなって……」

「朝、三人で食べるパンとコーヒーの香り。子どもがいて、あなたが窓を開けて、春の風が部屋に入ってくる。そんな、普通のことかもしれないけど、今はそれがとても贅沢な夢に思えるの」

涼菜の言葉は静かで、甘くて、そして私を責めない。責めないが、その分だけ深く突き刺さる。彼女の夢を形づくるのは私ではない。もしかすると戸田という男と彼女の、二人の時間なのだ。私の知らない寝室の朝。私のいない窓辺。胸の奥の、子種のない空洞が、鈍く脈打っていた。

「きっとなれるよ」

私は、やっとのことで言った。声は擦れていたが、涼菜はそれを受け取り、しみじみと頷いた。

「ふふ、ありがとう」

やがて彼女は席を立ち、キッチンで水を飲んだ。後ろ姿の肩甲骨が、黒いブラウスの下で静かな蝶のように動く。私は食卓に残り、飲みかけの茶を見つめた。ピルの話は、もう空気の中へ溶けてしまった。溶けて、私の胸の底では、小さな火種のまま燻り続ける。それはあのレコーダーの赤いランプに似ていた。消そうとすれば消えるのに、私は消さない。消せない。その熱が、自分の体を縛る証拠のようでもあり、妻の秘密と繋がる唯一の糸でもあった。

それから十日ほどが過ぎ、三月の終わりが近づいた。四回目の受精期間は、結局、成否という形では実らなかった。検査薬の細い窓に浮かんだ陰性の色を、私は涼菜と並んで見た。リビングのテーブルに置かれた白いスティック。彼女はそれを手のひらで包み、しばらくの間、黙って見下ろしていた。それから、静かに笑った。耳の奥へ、彼女の浅い息が届く。

「また次の排卵日を待つわ。次は、少し条件を変えて挑戦するの。ね、忠史さんも覚悟してて」

薬の作用のことを、彼女はもう口にしない。私も、しない。彼女の下腹部で、小さな周期がくる日を夫婦で数える。それは、かつての私たちの大切な習慣だった。今は、私の数える指の先に、他人の男の影がのしかかる。

その夜、涼菜は早く風呂へ入った。私はリビングの明かりを消し、廊下の小灯だけを残した。風呂場のドアの向こうから、シャワーの湯がタイルを打つ音が聞こえている。晩の空気に湯気の匂いが混ざり、洗剤の香りが薄く流れてきた。私はその匂いへ導かれるように、浴室の隣の脱衣場へ足を踏み入れた。洗濯籠が、青白いタイルの隅に置かれている。蓋を開ける。湿った空気が顔を撫で、彼女の脱いだ衣類の、体温に近い匂いがした。

一番上に、黒いレースの下着があった。あの花柄の刺繍が縁を飾った、初めて見つけた夜の布。まだ湿っている。私はそれを両手で持ち上げ、鼻先へ近づけた。洗剤よりも、湯気の熱よりも、まず香ったのは彼女の肌の匂いだった。汗と、少し甘く濁った、女の中心の名残。おそらく今日一日、彼女の下腹に密着していた一枚だ。私は深く、ゆっくり息を吸い込んだ。肺が冷たい空気と匂いで満たされ、目の奥が痺れる。初めて見つけたあの夜、夫としての何かが殺がれた。今では、この布が私の官能そのものになっている。レースの凹凸を指先で弄りながら、私はもう一人の自分の姿を暗い想像のなかへ沈めていった。

しばらくして、風呂の音が止んだ。私は下着を籠へ戻し、手をハンカチで拭う。心臓は早鐘を打っていた。指先はぬるく濡れ、呼吸は獣のようだった。廊下を足音が近づく。私は慌てて洗面所の鏡へ手をかざし、顔を覗いた。鏡の中の男は、青ざめた頬に不自然な火照りを浮かべ、唇を無理に結んでいる。逃げるようにリビングへ入り、本棚の背表紙を眺めた。心拍が治まらない。理性の堤は、長い雨でぬかるんでいる。

夜の十時を回った頃、私は覚悟を決めて、玄関脇の物置からスーツケースを引っ張り出した。五回目の受精期間は、おそらく来月の中旬あたりに来る。彼女はまた「実家」へ、私の知らない別離の日々へ出かけていく。私はリビングの明かりをつけ、スーツケースのファスナーを開いた。内装の布が、畳まれた衣類の重みで沈んでいる。そこへ、新品のICレコーダーを差し込む。透明のフィルムを剥がすと、冷たいプラスチックが汗ばんだ指へ吸いついた。親指で録音ボタンを押し込む。カチリ、と小さな軋み。液晶の隅に、赤いランプが点った。

その一点を、私は暗い部屋のなかで見つめる。赤い。まるで彼女の体の中の、誰にも見せない場所の色。止めようという言葉は、喉のどこにも見当たらなかった。私はそっと録音を止め、まだ何も記録されていないその小さな機械を、スーツケースの内ポケットへ滑り込ませた。ファスナーを閉める。銀色の歯がかりかりと噛み合い、夜の静けさを区切った。

妻の新しい秘密を、私自身が受け取りに行く。その日まで、あとどれくらいだろう。私はスーツケースを物置へ戻し、窓へ近づいて外気を確かめた。雲が切れて、月が少しだけ青い光を部屋に落とす。カーテンを開け放つと、黒いレースの下着の匂いが、まだ手のひらに温かく残っていた。

第6章 赤いランプを待つ

第6章のシーン

第6章: 赤いランプを待つ

四月下旬、空は薄い水色を湛え、窓を開け放つと隣家の沈丁花が甘く噎せ返るほどに香った。リビングのカレンダーは、いつのまにか涼菜が付け替えていて、次の排卵日にあたる数字が小さな赤い丸で囲まれている。その赤は、油性ペンの先で二度ほどゆっくりとなぞった跡があり、紙の繊維に滲んでわずかに膨らんでいた。私の視界は、朝の光の中でその丸を何度も無意識に追う。丸の内側に、彼女の指の力を、彼女の待つ時間を、そして私の立ってはいられないような昏い期待の輪郭まで見ている気がした。

涼菜の様子は、陰性の結果を見せられてからというもの、以前よりむしろ落ち着いていた。いや、落ち着いているのではなかった。たしかに静かなのだ。静かで、清潔で、その全神経がまるで次の排卵日という一点へ向けて研ぎ澄まされている。彼女は毎朝、体温計をくわえたままカーテンを開け、光の中でぼんやりと数字を読み、それから台所へ立った。基礎体温の記録ノートに、細い青のサインペンで点を打つ。その横顔は、幾日もかけて窓硝子を磨く修道女のように丁寧で、どこかうつろでもあった。私は朝の支度をしながら、彼女のその指先や、首筋の匂いの微妙な変わりようを、声をかけられずに眺めていた。

具体的な匂いの変化に気づいたのは、先週の木曜の夜だった。涼菜が風呂から上がり、洗面所で髪を乾かしている。ドライヤーの温風に追われて、寝室の私のところまで、肌へ塗り込んだ何かの油の匂いが届いた。元からある彼女の体臭に似ているようで、もっと甘ったるく、熟れた果肉のそこを指で割ったときの、種のまわりにまとわりつく汁気のような匂い。あの十月の夜、私のペニスが反応しなかったときに鼻いっぱいに吸い込んだ、瑞々しい若草の匂いとはまるで別物だった。男の前で開かれた女の匂いなのだと感づいて、私は布団の中で寝返りを打ち、鼻で短く息を吸った。拒みたいような、もっと深く探りたいような、自分でも先の定まらない呼吸が胸のうちに雪崩れ込む。

涼菜は以前より長く風呂に浸かるようになった。夜の九時から一時間以上、浴室の換気扇だけが絶え間なく唸っている。湯船に浸かる彼女の肩や膝の立て方、湯から上がる前に肌を磨くタオルの音、排水口が最後に空気を啜る音。それらすべてが壁越しの小さな隣事として私の夜を満たした。そして風呂上がりの彼女は、白いバスタオルで前を押さえながら台所へ来て、冷蔵庫から取り置きの化粧水を掌に出す。その動作が、まるで翌日の何かの手筈であることを、私はもう知っていた。何も訊かない。彼女も何も告げない。夫婦の沈黙が、むしろ魚の鱗のようにぎっしりと整って、日を追うごとに光っていた。

出発前夜のことだ。私はソファで明日の天気をぼんやり見ていた。低気圧の雲の動き。関東地方の降水確率。画面の中の白い渦が、ゆっくりと列島へ近づいてくる。明日は雨かもしれない。あの男の待つホテルへ向かう涼菜の髪が、しっとり湿るかもしれない。そう考えて、自分の胸が鈍く軋むのを抑えずにいると、廊下の向こうの洗面台で、涼菜が化粧を落としている音がした。コットンで瞼を拭いているらしい。微かに水の滴る音がして、やがて物音は途切れ、足音だけがこちらへ向かってくる。

「忠史さん、まだ起きていましたか」

振り返ると、涼菜は淡い桜鼠色のパジャマに白いカーディガンを羽織って、ソファの背のところに立っていた。髪は乾ききっていなくて、首元で束ねた毛先がしっとりと光っている。顔は化粧を落としたばかりで、眉の薄さが幼く見えた。頬に湯の熱が残っていて、輪郭だけが白い。第一ボタンまできちんと留めたパジャマの襟が、喉のくぼみの影を深く落としていた。

「ああ、明日の天気を見てたんだ。雨になりそうで」

そう言った私の声が、少し掠れていた。彼女は横に歩み寄り、ソファの肘に手を置いて、テレビ画面へ目を遣った。今夜の涼菜からは、いつもの入浴後の肌の匂いに交じって、あの低く重たい甘い香りがした。数日前から感じている、沈丁花にも似ているが、もっと動物的で、同じ空気で呼吸をしているうちに後頭部が痺れてくるような匂いだった。

「降られる前に着けばいいのよ。昼前には向こうに着くつもりだから」

彼女は言った。どこの「向こう」かを、互いに曖昧なまま流す。こういう瞬間、私は妻の清廉な面ばかりを見る。桜鼠のパジャマ。小さな足。色を落とした唇。こんなにも日常に馴染んだ女が、明日の昼前には男の胸へ飛び込んでいく。頭では解っていても、目の前の姿はちっとも淫らに見えない。その乖離が、私の背筋をぞくぞくと這い降りた。

「忠史さん、明日は少し早いけれど、出かけます。施錠と、金曜の燃えるゴミをよろしくね」

「わかってるよ。気をつけて、無理しないで行っておいで」

涼菜は、私の返事を聞くと一度だけ瞬きをした。それから、思い出したように口元を緩める。

「忠史さん、またお願いね」

その声音は、初めて受精のために出かけた十月の朝と、寸分も変わらないように思えた。けれど、私の耳はもう、この声の裏側を録音ごしに知っている。同じ旋律が、あの男の前では倍音を増やして響くことも。彼女はカーディガンの前を片手で合わせ、静かに寝室へ戻っていった。廊下の暗がりに桜鼠のパジャマが消えるまで、私の背中は振り向けなかった。

翌朝、空は厚い雲に覆われて、窓硝子を時折り雨粒が叩いていた。私は台所の隅でコーヒーを淹れていた。湯が豆を膨らませる匂い。深く立ち昇る湯気。奥の部屋から、スーツケースの留め金を押さえる音が二度、三度。それから長いファスナーの走る音が、朝の静けさを縦に裂いた。私はその音を湯気の向こうで聴きながら、自分の手が少しも震えていないのに気づいた。去年の秋、初めて彼女を見送ったとき、私は背中へかける言葉も持てなかった。今は、コーヒーの熱が染み込むマグカップの重さだけが手の内にある。恐怖か、諦めか、あの音を待つ愉悦か。名前を付けてしまうと壊れそうで、私は付けないまま台所に立っていた。

玄関で靴の音がする。

「じゃあ、行ってくるわ」

今日の涼菜は、膝下のグレーのフレアスカートに、淡いクリーム色のトップスを着て、肩に薄手の白いカーディガンを羽織っていた。鎖骨のあたりがほの白く開いていて、かがむたびに胸元の陰影が確かめられる。私は玄関へ出て、彼女が傘を持つ手を見た。細い指が、濡れた柄をきゅっと握っている。

「雨、本降りだ。タクシー呼ぼうか」

「大丈夫よ。駅まで傘を差して行くから」

そう言って、彼女は軽く背を向ける。傘の骨が開く音。雨が傘の面を叩き、彼女の足音とともに遠ざかる。私は玄関の戸のところに立って、砕けた雨の飛沫が靴先に跳ねるのを見ていた。彼女のクリーム色の背中が角を曲がる瞬間、拍子抜けするほどあっさり消えた。胸の奥が冷たく収縮して、指先が痺れる。それなのに、下腹の芯には澄んだ熱が宿っていた。

部屋に戻り、飲みかけのコーヒーを流しへ捨てた。黒い雫がステンレスの面を伝う。私の心臓は相変わらず静かで、まるで今日という一日をあらかじめ暗記しているかのような落ち着きがあった。リビングのカーテンを閉め、自室へ入る。机の引き出しの、一番下の深い段。奥に四角い箱が二つ、まだ包装フィルムに包まれたまま眠っている。片方は数日前に家電量販店で買ったばかりの新しいICレコーダーで、もう片方は、まだ開けていない替えのイヤホンだ。私はそれを両方とも引き出しから出して、箱の透明なフィルムを爪でゆっくり剥がした。ビニールが微かな悲鳴を上げて破れる。中の機械は、掌に乗せると石のように冷たく、まだ何の音も食べていない。漆黒の表面に、油染みひとつ無い。親指の腹で録音ボタンに軽く触れて、すぐ離す。まだ押さない。私は、もっと後の自分が押すところを、ここから見ている。

昼の三時を過ぎる頃、雨脚はいっそう強まった。ベッドに仰向けになって蛍光灯を見る。白い光が瞼の内側に溜まる。涼菜はもう、あの男の部屋か、ホテルかの、乾いたシーツの上で荷物をほどいているだろう。私は起き上がり、キッチンでパンを囓った。味がしなかった。ただ、耳の奥だけが異常にはっきりと音を拾う。冷蔵庫の唸り。壁を伝う雨。自分の顎の骨が堅いものを砕く微かな軋み。やがて夜が来た。

深夜、私はスーツケースを持ち出す。五回目のためのケースはリビングの隅に壁づけで立てかけてあった。今回は、私が昨夜のうちに内ポケットへレコーダーを仕込んだ。ケースを倒して、ファスナーを開く。中には涼菜の着替え。畳まれた下着の山。その奥へ手を入れて、固い突起を確かめる。私の指は輪郭をなぞるだけで、改めて録音ボタンを押す気にはならなかった。もう点けてあるのだ。あの部屋の音を、喉の渇きを癒すように飲み込み続けている小さな赤い点。まだ確かめていない。けれど確かめる。

私はレコーダーを内ポケットごと布で包み、自室へ運んだ。ヘッドホンを耳に当てる。再生を押した指先は、まるで他人の指だった。ノイズ。風の声。衣擦れ。彼女の呼吸。もう私は逸らさない。逸らして生きるより、この音の底へ落ちていこう。赤いランプは待たなくていい。音は、もう私の耳の中で燃えている。

朝、雨は止んでいた。私はレコーダーを服の上から握りしめたまま、窓辺の床で目を覚ました。何を聞いたのか、細部は覚えていない。けれど身体が覚えている。すでに射精の痕は冷えて布地を硬くしていた。部屋は薄明るく、カーテンの隙間から入った光が、私の手の甲を白く区切っていた。この夜を越えた。それだけは、はっきりしていた。私は立ち上がり、浴室へ歩く。服を脱いで、脱衣場の洗濯籠を覗く。白い下着が蓋のところから覗いていた。彼女の、洗う前のもの。私はそれを拾い、顔に近づける。洗剤の残り香が、あの黒いレースを見つけた日の、十二月の夜の記憶を胸の奥へ呼び起こした。

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読み終えたあとの余韻に。

OVA 夏妻 #2 を FANZA で見る →
登場人物
  • 曽根忠史 そね ただし
    男性 ・ 38

    外見: 黒に近い焦げ茶の短髪を七三分けに撫でつけ、薄い茶色の瞳、痩せ型で肩幅は狭い。服装: 濃紺のスラックスにアイロンの効いた白シャツ、平日は地味なネクタイ。真面目で内向的、感情を言葉にせず内省ばかりを重ねる。

  • 曽根涼菜 そね すずな
    女性 ・ 30

    外見: 栗色の髪を緩く結わえた後れ毛、琥珀がかった明るい茶色の瞳、華奢だが腰から腿にかけて柔らかな丸みを残す体つき。服装: 生成りのリネンワンピースや淡い色のブラウス、清楚な丈のスカート。夫に従順な笑顔を崩さないが、望みには静かに執着する。

  • 戸田一彰 とだ かずあき
    男性 ・ 30

    外見: 短く清潔な黒髪をオールバックにし、切れ長の濃い黒瞳、均整の取れた長身で胸板は厚い。服装: 仕立ての良い濃灰のスーツ、細身のシルクタイ。エリート然とした端正な物腰だが、経験の浅さを好奇心で埋めようとする。

  • 宮下看護師 みやした かんごし
    女性 ・ 45

    外見: 白髪混じりの黒髪を耳の後ろで束ね、落ち着いた焦げ茶の瞳、恰幅の良い体つき。服装: 薄桃色のナース服に白いカーディガン。治療の説明を淡々と告げるが、夫婦の温度差を見逃さない観察眼を持つ。

  • 曽根志乃 そね しの
    女性 ・ 68

    外見: 完全に白くなった髪を小さな丸髷に結い、薄茶の濁った瞳、背筋は低く小柄。服装: 鼠色の地味なカーディガンに紺のゆったりしたズボン。忠史の母で、孫の不在を折に触れて口にする。

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