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夫の目の前で妻が上司の肉棒に潮を吹かされ、夫は嫉妬より劣情を覚えて関係を黙認する歪んだ共同生活

不倫/浮気 / 寝取られ(NTR) 全5章 約103分で読了(51,150字) 2026年9月5日

あらすじ

夫は優しく、仕事も順調。息子も健やか。小森家に足りないのは、妻の奥底で疼く乱暴な熱だけだった。夫の転職を機に招いた上司、城島悟。その男は、息子を笑顔にし、妻の肌に新しい火を点けていく。夫の出張のたび、家に染みるワインとムスクの匂い。満たされなかった身体が、夫以外の体温を覚えてしまう。それでも家庭を壊したくない妻と、壊されたくない夫。歪みながらも手放せない関係が、音もなく日常を侵し始める。

第1章 招かれた上司と、あの日のワイン

第1章のシーン

# 第1章 招かれた上司と、あの日のワイン

日曜の夕刻。リビングの窓から差し込む西日が、まだ使い込まれていないフローリングの上を、熟れた蜜柑の絞り汁のように橙く濡らしていた。小森悠樹はソファに深く腰を下ろしたまま、キッチンで小鍋をかき混ぜる妻の後ろ姿を、焦点の合わぬ目でぼんやりと追っている。転職して三か月、ようやく新居の空気にも慣れてきたところだった。壁紙の糊の匂いは消え、家具の配置にも生活の澱が沈みはじめている。換気扇の低い唸りに乗って、出汁の甘い香りが部屋の隅々まで静かに浸透していた。

窓の外からは、規則正しくボールを蹴る乾いた音が響いてくる。パン、パン、と小さな破裂音が、塀の向こうの路地で弾んでいた。壁に当たって跳ね返ったボールを受け止める、幼い掛け声の断片も聞こえる。大輝のサッカー熱は、近所の子どもたちが庭先で見せる何気ない遊びの一瞬でさえ、我が子の将来を錯覚させるほど、悠樹の耳を捉えて離さなかった。詩織も同じ音を聞いているのだろうか。彼女は小鍋をかき混ぜる手を一瞬だけ止め、薄いガラス越しに外の気配を探るように首を傾げていた。白い首筋が動くと、夕陽を吸った産毛が金色の霞をまとって揺れる。

「大輝、また外でボール蹴りたいって言いそうね」

詩織の長い黒髪が、その言葉とともに背中でほどける。腰のあたりまで届く艶やかな束は、夕陽を受けて赤茶けた光の糸を孕み、揺れるたびに細かな陰影を織り上げた。白いエプロンの後ろ紐が、くびれた腰のすぐ上で小さな蝶のように結ばれている。彼女が小鍋を傾けるたび、その蝶が羽搏くようにひらりと震え、悠樹の視線はどうしてもそこへ吸い寄せられた。男の指先は、今はまだ、安楽椅子の肘掛けの上で所在なげに丸まっているだけだった。

「あなた、そろそろ大輝をお風呂に入れてくれる?」

詩織が振り返らずに言った。その声は、いつもの夕暮れと同じ、柔らかくて少し甘い響きを帯びている。けれど今日は、どこかしら眠りを催促するような、微かな性急さが混じっていた。悠樹は眼鏡の位置を指の背で押し上げながら立ち上がる。ソファのクッションが、彼の痩せた体重から解放されて、ふうと小さく息を吐いた。

「ああ、わかった」

「今日は早めに寝かせちゃいましょう。明日、幼稚園で遠足ごっこがあるんですって」

「そうなのか」

悠樹は洗面所へ向かう。廊下の壁には、引っ越しのときに撮った家族写真が一枚だけ飾られていた。詩織が大輝を抱き、悠樹が二人を包むように立つ。大輝は無邪気に前歯を見せて笑い、詩織はやや俯き加減にはにかみ、悠樹は眼鏡の奥の目を細めていた。平凡で、穏やかで、かけがえのない夜の続きのような写真だった。いや、夜の続きのような――その言葉は、後から振り返ればあまりに皮肉な響きを帯びてくる。写真の中の三人は、誰ひとりとして、これから始まる歪な共同生活の入口に立っていることを知らなかった。

浴室から大輝の甲高い声が聞こえる。悠樹が脱衣所のドアを開けると、湯気の向こうで五歳の息子が両手を振り回して歌を歌っていた。湯を張った浴槽に肩まで浸かり、口をとがらせて即興の歌詞を撒き散らしている。小さな肩甲骨が動くたび、鎖骨のくぼみに汗と湯の粒が光っては流れ落ちた。悠樹は息子の頭を洗ってやりながら、洗い場に落ちる水音を聞いていた。この水音も、詩織の鼻歌も、すべて自分の城の内側にある音だった。――あるいは、そう思い込もうとしていた、と言うべきか。

洗い終えた大輝の髪から滴る雫をタオルで拭きながら、悠樹はふと、この平穏のかたちを掌で確かめるように息子の頭を包んだ。子どもの頭蓋は掌に収まるには小さすぎて、その熱だけが異様に生々しい。大輝はくすぐったそうに身をよじり、パパの眼鏡に湯の飛沫を飛ばした。

大輝を寝室へ寝かせたあと、詩織は脱衣所の鏡の前にひとり立っていた。服を脱ぐ前の、ほんの数分。浴槽に沈んだ夫と息子の気配は、壁一枚隔てた向こうでかすかに水を打つ音となって届いている。

鏡に映る女は、三十一歳の妻であり、母だった。濡れたような黒髪を背中へ垂らし、薄いカットソーの襟元からは色白の喉と、その真ん中に浮かぶ小さな黒子が覗いている。詩織はゆっくりと自分の輪郭を指先でなぞった。こめかみから頬へ、頬から顎へ、それから鎖骨の窪みへ。指先が這うたび、鏡の中の女は所在なげに睫毛を震わせた。ホットパンツから伸びる太腿は、夕食の支度で火照ったせいか、内側にうっすら汗の膜を張って、鏡のくすんだ銀の面に白い光を写している。首元には、油を含んだ夕餉の空気を浴びた肌が、うなじの産毛ごとしっとりと湿っていた。

――わたしの身体、まだ熱を覚えてるのに。

昼間、夫が触れた場所ではない。もっと深い場所、太腿の内側の、皮膚の下の、閉じたままの花がひっそりと脈打っている。指先を胸元へ滑らせると、下着の上からでもわかるほど乳首がこわばって布を押し上げていた。夫が最後にここへ触れたのはいつだったか。触れられた。それは確かに触れられた。けれど、埋まらない何かがいつも底に澱んでいる。まるで満たされない預け皿のように、空洞だけがぽかりと口を開けているのを、詩織は誰にも言えずにいた。汗ばんだ指先を、そっとホットパンツの脇へ滑らせる。太腿のつけねの、ちょうど布の縁が食い込むあたりを、確かめるように押す。指の腹に、自分でも驚くほど熱い肉の温度が跳ね返ってくる。そうしていると、胸の奥の疼きは輪郭を変え、痺れに似た重い渇きとなって下腹の底へ降りていく。――これ以上は。だめ。誰かが来る。いえ、誰も来ない。だからこそ。否、大輝が小さく寝返りを打つ気配が、襖の向こうで油を塗った蝶番のように軋んだ。

奥の襖が細く開いて、大輝の小さな手がこちらの空気を探るように揺れる。詩織は静かに鏡の前を離れた。胸の奥の疼きだけが、脱衣所の白い蛍光灯の下に、薄い輪郭のまま取り残される。

金曜日の夜だった。東京の空は厚い雲に覆われ、ビル群の灯りがにじんで見える。悠樹は本社の応接フロアで、新しいプロジェクトの概要説明を受けていた。窓の外では、深夜の入り口に差し掛かった街が、濡れ硝子越しにゆらゆらと溶けている。資料をめくる指先には、緊張の汗がじわりと浮いていた。転職後初めて任された、中規模地方銀行の基幹システム更新案件。プロジェクトマネージャーとしての手腕を試される場面が近づいていた。紙の表面を滑る自分の指が、ひどく薄っぺらく頼りなく見える。

「小森くん、ちょっといいかな」

会議室を出たところで、低く通りやすい声が背中を追いかけてきた。振り返ると、城島悟がスーツの内側に片手を入れて立っている。濃紺の生地が厚い胸板に張り付き、ネクタイを締めた首は浅黒く日焼けしている。短く立ち上げた髪の下、額が広く、笑うと目尻に深い皺が刻まれる男だった。廊下の蛍光灯が、彼の肩から背中へかけての筋肉の稜線を、執拗に浮かび上がらせている。悠樹の視界のなかで、その輪郭は床から生えたようにどっしりと揺るがなかった。

「お疲れさまです、城島部長」

「堅苦しいな。今度はどんな案件を任されたんだって聞いただけさ」

城島は悠樹の肩に軽く腕を回し、親しげに歩き出した。香水ではない、微かに青い草を思わせる制汗剤の残り香がふと鼻をかすめる。その下に、男の皮膚そのものから立ち昇るような体温の匂いが潜んでいる。悠樹はその厚い腕の重みに、一瞬だけ息を詰めた。肩へ食い込む力加減は、親愛というより所有の確認のようで、骨の細い身体には少しばかり強い。

「地方銀行の勘定系システムです。少人数チームですが、私がPMを拝命しました」

「いいね。君ならやれるよ。そのうち、うちの部でも大きな案件を任せたいと思ってる」

城島は悠樹の背中を二度三度叩き、エレベータのボタンを押した。無骨なほど太い指が、銀色のパネルを軽く撫でる。指の節はごつごつと隆起し、爪の根元は浅黒い皮膚に埋もれるようにして白い三日月を見せていた。

「そうだ。小森くんの奥さん、べっぴんだってな。自慢してたって社内で聞いたぞ?」

「いや、自慢など。普通の女房です」

悠樹は自分の声が平坦すぎることに気づいていた。心臓は、普通ではない速度で肋の内側を叩いている。

「謙遜しなくていいよ。今度、引っ越し祝いをしたいから招待しろよ」

城島の笑い声は、エレベータホールに軽く反響した。悠樹は断る間もなく、小さくうなずいていた。閉じるドアの向こうで、城島が片手を上げる。その掌の厚さ、指の太さ、手首の骨張り方。すべてが悠樹の身体とは異なる作りをしていた。ドアが閉まりきるまでの数秒、悠樹の網膜に焼き付いたのは、妻へ差し伸べられるかもしれない男の手の、不条理なまでの存在感だった。

「城島部長を、今度の金曜に家へ招待しなきゃいけないんだ」

寝室のベッドで、悠樹は天井を見上げて言った。照明を落とした部屋には、シャワーを浴びたばかりの詩織の髪から、柔らかなフローラルの香りが漂っている。真暗闇のなかで、花の香油を含んだ空気が、肺の奥までゆっくりと沈んでくる。彼女の太腿が、シーツの上で小さく動くたび、布の擦れる音が夜の静寂をまさぐった。隣で寝返りを打った詩織が、悠樹の胸元に額を寄せた。彼女の前髪が、パジャマの胸元をくすぐる。

「あの、評判の部長さん? 転職して早々に気に入られたのね」

「飲み会で、お前の写真を見せた同僚がいるらしい。それで興味を持ったんだと」

悠樹の声は、暗闇の中でほんの少しだけ沈んでいる。妻の髪から立ち昇る花の香りと、胸の奥でゆっくり膨張する不安とが、同じ夜のぬるい空気のなかで混ざり合っていた。

「まあ。人に見せられるような写真かしら」

詩織が小さく笑う。その吐息が鎖骨の窪みをくすぐり、悠樹の皮膚にじんわりと熱が広がった。彼女の指先が、悠樹の脇腹のあたりを探るように、ほんの少しだけ動く。爪の先が、眠りかけた夫の肋骨を一本ずつ数えるような、ゆっくりした梳き方だった。

「四十五歳で部長なの? 出世頭じゃないの。粗相しないように歓迎しなくちゃ」

「大丈夫だ。気さくな人だから」

そんなことより、と悠樹は心のどこかで思っていた。気さくな上司が、なぜ部下の妻の顔を見たがるのか。その理由を深く考えまいとすることで、何かから目を逸らしている。

「それより、あなたぁ……」

詩織の手のひらが、悠樹の胸から腹へ、ゆっくりと下りていく。指先は眠りを探るように柔らかく、けれど目的地を知っている動きだった。爪の先が、パジャマのボタンの谷間をひとつずつ確かめるように過ぎて、布地の下で反応した皮膚の産毛を逆立てていく。悠樹は目を閉じる。パジャマの上から触れられる下半身に、まだ眠りたくない熱がゆっくりと集まり始めた。

詩織が布団の中で起き上がり、悠樹の腰を跨ぐ。月明かりを背にした輪郭だけが、暗がりにぼんやりと浮き上がっていた。彼女はシャツの裾に手をかけ、ゆっくりと脱いでいく。薄闇の中で、白い肌と黒い髪だけが鮮やかに浮遊しているようだった。腕を上げるたび、乳房の影が胸の上でふるりと揺れる。月の青白い輪郭が、彼女の肩から腰へかけての曲線を舐めるように縁取っている。太腿の内側が、夫の腰を跨ぐために開かれ、閉じられる。そのたび、薄い茂みの奥に隠れた肉の膨らみが、月の残光のなかでしっとりと湿っているのが、悠樹の腹の上に温度として伝わってきた。

「触って」

詩織は悠樹の右手を取り、自分の胸へ導いた。掌いっぱいにあふれる柔らかさが、指の合わせ目からこぼれる。悠樹は言われるまま、なんども確かめるように握り、親指で先端を掠めた。指の腹で潰れた乳首が、ゆっくりと起き上がってくる。その感触は、彼の指先を弾くようでいてまとわりつく、紙縒りのような硬さと柔らかさが同居したものだった。詩織の肩がびくりと震えた。

「いいわ、あなた。もっと」

彼女は悠樹の下半身へ腰を下ろし、熱い内皮の中へゆっくりと夫を受け入れた。ぬめった襞が、彼自身を根元から揉みしだくように包み込む。悠樹の細い身体を支えながら、詩織は腰を描くように回す。布団の上で、大輝を産んだ後の彼女の胎はいつもより柔らかく、悠樹を深くまで誘い込んだ。きゅう、と締まるたび、悠樹は己の限界を意識させられる。妻の内側は、彼が知らない果実のように熟れて、蠢いて、彼の形を確定させる前に勝手に先を急いでいた。その動きは、悠樹を求めるというより、悠樹を通して何か別の飢えを埋めようとするように思えて、彼は一瞬、背筋に冷たい汗が滲むのを感じた。いや、感じないふりをした。彼女の腰がひときわ深く沈むたび、肉と肉のあいだで粘ついた水音が、やわらかく空気を噛んだ。

「もっと」

詩織のグラインドが大きくなる。絡まり合う肉の音が、暗い寝室に小さく響いた。くちゅ、くちゅ、と粘つく水音が、ふたりの結合から夜の静寂を引き裂いていく。悠樹は妻の揺れる乳房を支えようと手を伸ばすが、快楽の波が先に腰を駆け上がる。自分のものではない何かのように、下腹の奥で熱が白く膨れ、あまりにも早く出口へ殺到する。

「すまない、もう……」

悠樹の背が浮き、詩織の中で熱が弾けた。放出の瞬間、彼は妻の胎の奥で、まだ届いていない場所が無数に残されていることを、はっきりと自覚した。彼女の内襞は、彼の精を受け止めながらも、まるで別の何かを待つように、かすかに、しかししつこく収縮を続けていた。彼女は動きを止め、夫の腹に手をついたまま、静かに息を整えている。数秒の空白のあと、詩織は悠樹のとなりに崩れ落ちるように横たわった。

「ごめん、先にいってしまった」

悠樹の声には掠れがある。詩織は首を横に振り、夫の肩にキスを落とした。彼女の唇はまだ火照っていて、肩の皮膚に触れただけで小さな朱い印を残しそうな熱を帯びている。

「いいの。あなた、疲れてたのよ」

彼女の指先は悠樹の髪を優しく梳く。悠樹には見えなかった。天井を見つめる妻の瞳に、まだ手を伸ばせば届くはずの何かが、薄く膜を張って残っていることを。それは欲望というより、欲望が置き去りにした後の、いっそう重たい空白だった。彼女の太腿は、夫の精を受け止めたまま、まだ湿度を失わずにシーツの上でひっそりと開かれていた。

金曜の午後七時、玄関のチャイムが鳴った。詩織はエプロンの前を軽く叩き、髪を手のひらで撫でつける。鏡の横に飾った小さな花を一輪、向きを直してから玄関へ歩いた。フローリングに素足の裏が張り付くような、微かな湿り気を感じる。昼間から雨の名残を含んだ空気が、家じゅうの木という木をわずかに膨らませていた。ドアを開けた瞬間、まず匂いが来る。ムスクのコロンが、湿った秋の空気を切り裂くように流れ込んだ。それは甘く、重く、獣の寝床のような暗さを秘めていて、詩織の鼻腔の奥を一気に灼いた。

「初めまして。城島です。今日は招いてくれてありがとう」

「小森の妻です。主人がいつもお世話になっております」

詩織は深く頭を下げた。顔を上げると、自分の目線より頭ひとつ高い位置に、城島の笑顔があった。厚い胸板はクリーム色の開襟シャツから立ち上がり、腕時計の文字盤が廊下の照明を反射している。ネイビーのスラックスに包まれた脚は長く、立っているだけで床に影を落とすようだった。肩幅の広さが、狭い玄関の空気を一瞬で圧縮する。彼の首元からは、コロンと体温の混じった、洗いすぎていない革のような匂いが立ち昇っていた。

「おじゃまします」

城島は大股で玄関を上がる。すれ違う瞬間、ムスクに混じって男の体温のような匂いが立ちのぼり、詩織は思わず後ずさりした。ローファーの硬い音が、静かな廊下にこだまする。一歩踏み込むたび、家という器が、彼の体格に合わせてほんの少しずつ歪んでいくような錯覚があった。

「パパ、お客さん?」

リビングから駆けてきた大輝が、城島の足元で急に立ち止まった。城島は膝を折り、大輝と同じ高さに目線を合わせる。大きな身体を折り畳むと、背広の肩がごわりと鳴った。

「大輝くんか。おじさんは城島悟っていうんだ。これ、プレゼント」

白い紙袋から取り出されたのは、紺色の小さなレプリカユニフォームだった。胸にはサッカー日本代表の紋章が刺繍されている。大輝の黒い瞳が、電灯を受けてかっと見開かれた。彼の両手が、差し出されたユニフォームへおそるおそる、しかし抗いがたい引力に負けて伸びていく。

「わあ、サッカーの!」

「似合うかな? おじさん、学生のときはずっとサッカーばっかりやってたんだよ」

「おじさん、サッカーうまいの?」

「まあ、それなりにね。今度いっしょにボールを蹴ろう」

城島の声は、子どもに向けるには甘すぎず、大人の社交には砕けすぎていない。ちょうど大輝の好奇心にぴたりと嵌る角度だった。

「やった! こんどサッカーおしえて!」

大輝はユニフォームを胸に抱えたまま跳ね回り、そのまま廊下を往復し始めた。悠樹がリビングから出て来て、静かに笑う。彼はわずかに目を伏せ、上司の顔と息子の顔を交互に視界へ入れた。

「すみません、騒がしくて」

「いいんだよ。元気な子は可愛い。パパに似て真面目そうな顔をしてる」

城島はそう言いながら、靴を丁寧に揃えて上がった。その動作の一つひとつに、他人の家へ踏み込むための礼節ではなく、もてなされる側の余裕が滲んでいる。靴を揃える指先にさえ、この家の空気を自分のものにする手順のような滑らかさがあった。

夕食は詩織の用意した豚の角煮と焼き野菜、それにサラダと根菜のスープだった。悠樹がビールを注ぎ、乾杯の小さな音を立てる。城島は大輝の隣に座り、サッカーの話を交えながら食事を進めた。彼の大きな手が箸を動かすたび、食卓の上の空気が静かに動く。

「大輝くんは、幼稚園で何をして遊んでるんだ?」

「ぼく、かけっこが一番速いんだよ。でも、サッカーはやったことない」

「スタートはそれでいいんだ。走れる子はサッカーも伸びるよ。ボールを追いかけるのが仕事だからね」

城島の話し方は、プレゼンテーションのように流れて止まらない。悠樹はときおり相槌を打ちながら、上司の見せる気遣いの深さに、自分との差を嫌でも意識した。彼は率先して大輝に話を振り、詩織の料理を具体的に褒め、場の空気をひとつひとつ整えていく。悠樹が得意とする理屈ではない、空気そのものを掌握する柔らかな力だった。それは、会議室で数字を積み上げるのとは違う、もっと湿った領域の才能だった。

城島の視線が、不意に詩織のほうへ流れる。彼は角煮を箸で割りながら、その断面を確かめるように見下ろしたあと、ゆっくりと目線を詩織へ向けた。彼の瞳は、彼女の顔よりも少し下、汗ばんだ首筋のあたりで静止する。詩織はソファからこちらへ料理を運ぶたび、エプロンの上からではあるが、太腿の張りが浮き彫りになる短いデニムを身につけていて、その白い肌が食卓の灯りをぬるく反射していた。ホットパンツの裾から伸びる太腿は、ちょうど椅子から立ち上がる瞬間だけ内側の肉がむにゅりと形を変え、城島の視界のなかで生々しい質量を揺らす。彼はそれを、野菜を箸で拾い上げる仕草の合間に、何度も、ごく自然に流し見ていた。詩織がキッチンへ引くたび、うなじの産毛に汗が浮き、その一粒が照明を抱いて光る。城島の喉仏が、ワインを流し込むでもないのに、ごくりと静かに上下する。悠樹は、その視線を追うようにして妻の後ろ姿を盗み見た。――見てはいけないものを見た気がした。いや、これは上司の視線であって、単なる社交の範囲だと、彼は心のなかで器用に線を引き直した。けれど、太腿の張りを確かめるあの目の動きだけは、どうしても社交には見えなかった。

食事が一段落すると、城島は持参した紙袋から、深い臙脂色のラベルを貼ったワインを取り出した。彼の掌は瓶の首を包み、ラベルの端を指先で愛おしむようになぞる。

「引っ越し祝いに、ブルゴーニュの特級畑を一本。たいしたものじゃないけど」

「それは恐れ入ります。開けましょうか」

悠樹が栓抜きを持ってくると、城島は手慣れた仕草でコルクを抜いた。澱を残さないよう、瓶の首からかすかに傾けて注ぐ。とくり、ととくり、と赤黒い液体がダイニングの灯りを吸い込みながらグラスを満たしていく。澱の煙が立ちのぼり、グラスの中に、黒い果実の皮を思わせる果実香がほどけた。

「いい香りだ……」

詩織がグラスを持ち上げ、鼻を近づける。城島が目を細める。彼の視線は、詩織の鼻梁から唇、それからグラスを支える指先へ、ゆっくりと滑り降りた。彼女の指は白く細く、グラスの脚を握る第二関節に、うっすらと青い血管が透けて見える。その指がわずかに震えるのを、城島は見逃さなかった。彼は自分の唇を、持っていたグラスの縁に軽く触れさせる。赤い液体が、彼の下唇を舐めて濡らしていく。

「奥さん、ワインはお好きですか」

「詳しくはないんですけど、匂いをかいでるだけでなんだか酔いそうです」

「それは嬉しいな。今日の角煮にも合うはずですよ」

城島が詩織のグラスにおかわりを注ぐ。悠樹は半分ほど残したビールを前に、ただその様子を見ていた。アルコールが弱いわけではないが、強い酒の席は得意ではない。気づけば主客の重力は、悠樹を迂回して動き始めていた。食卓の上で、詩織と城島の間にだけ、ぬるい蜜のような空気がゆっくりと満ちていく。ふたりの指先が、グラスを受け渡す瞬間だけ触れ合いそうになっては離れ、その距離の狭さが、かえって距離の失われ方を際立たせた。

詩織の頬に赤みが差してくる。彼女はなおもワインを含み、杯を傾けるたび、白い喉がひくりと動いた。シンプルなキャミソールの上からエプロンを重ねただけの彼女は、普段以上に薄い迷路のような格好だった。熱を帯びた身体がエプロンの下でしっとりと汗ばみ、胸元の谷間がふと覗く。キャミソールの布地は薄く、汗を含んで肌に貼りつき、乳房の肉づきを隠しようもなく浮かび上がらせていた。城島はテーブルへ肘をつき、その谷間を見るとはなしに目を落としながら、ワインを口へ流し込んだ。喉仏の大きな影が、開襟シャツの襟元でゆっくり上下する。彼の耳は、詩織がワインを飲み込むたびに鳴る、ひくり、という微かな喉の音だけを拾い上げているようだった。

「今日は本当に楽しいな。家庭っていいね。僕みたいな独りもんには眩しいよ」

「部長はどうして、その……」

悠樹の問いかけに、城島はグラスを揺らして笑った。ワインの液面が渦を巻き、照明を砕いて赤い破片を散らす。

「バツイチでね。娘がひとり、元の家内のほうにいる。まあ、自業自得だけど」

「城島さん、まだお若いでしょう。すぐにいい方が見つかりますよ」

詩織の声には、ワインのせいばかりではない粘り気がまじっていた。彼女の舌先は、いつもの食卓では出さない、艶と湿りを帯びた発音で男の名を転がしている。城島は目だけを詩織へ向け、微笑みの形を深くする。

「詩織さんみたいに家庭的な人がいたら、話は別なんだけどな」

そう言ってクスリと笑う。悠樹はそのやりとりを、食卓の端で微笑ましく聞くふりをしていた。胸の内側では、名前で呼んだ男の舌先がひっかかっている。部下の妻を、初対面の席で、夫の目の前で「詩織さん」と呼び捨てる滑らかさ。詩織の耳のあたりが朱を増したことを、悠樹は見逃さなかった。いや、見逃せなかった、というのが正確だ。見逃したくても、彼の視線は妻の耳へ釘付けになった。その朱が、ワインの熱ばかりではないことを、夫の本能はとっくに見抜いていた。

夜が更けるにつれて、部屋の中にはムスクの香りが濃く沈殿していった。換気をしても消えない、獣の毛皮のような甘い残香。空気は重く、テーブルの上の料理の匂いとワインの澱、それに男の香水が混ざり合って、リビング全体がひとつの大きな粘膜に変わっていくようだった。悠樹のまぶたは重く、壁時計の針は十時を回っている。大輝はとっくに寝室で眠っていた。幼い寝息が、ドアの向こうから、かすかにこの部屋の異変を知らぬ顔で届いている。

「小森くん、眠そうだな。無理させるわけにはいかないから、そろそろ失礼するよ」

城島が立ち上がる。彼の椅子が引かれる音は、眠ったリビングにやけに大きく響いた。詩織もあわてて腰を浮かせ、玄関まで見送りに出た。悠樹はソファに背を預けたまま、閉まりかけた瞼の奥で二人の気配を感じている。硝子の向こうの水槽を眺めるように、世界が遠くにじんでいた。

「今日はおいしい料理をありがとう。楽しかったよ」

城島が振り返り、詩織の前に立った。廊下の照明を背に、その大きな影が詩織の身体を覆っている。彼女の肩から胸まで、黒い影がすっぽりと重なり、床に落ちた輪郭だけがひどく淫らな形に伸びていた。詩織はわずかに上体を引きながら、平静を装った。背中が、ひやりと玄関の壁に触れる。汗ばんだ首筋を、廊下を抜ける夜風がひとなでして、彼女の肌の産毛が逆立つ。城島はその首筋へ、一瞬、目線を落とした。ワインの熱でほの赤い肌が、すっと冷える瞬間の、あの細かい粟立ちまで目に映ったかもしれない。

「こちらこそ、大輝がすっかり懐いてしまって。また機会があればぜひ」

「大輝くん、あのユニフォーム、嬉しそうに着てくれるかな」

「もちろんです。明日着て幼稚園へ行くって言い出すかも」

詩織が笑うと、城島はその顔をまっすぐに見下ろした。彼の瞳の下に、廊下の電灯の白い光芒が沈んでいる。

「今度は、僕と二人でボールを蹴りに行こうか。大輝くんと、詩織さんと」

「私、運動はからっきしで……」

詩織の言葉が終わらないうちに、城島の大きな右手が、するりと伸びて詩織の左手を握った。指の根元から手首まで包み込むように。まるで薄い氷が彼女の手の甲を覆ったかと思うような、熱く、硬く、確信に満ちた接触だった。彼の掌は案外あたたかく、節くれだった指が詩織の骨を確かめるように沿う。親指の腹が、手首の内側の、青い血管の走る場所をゆっくりと往復した。詩織の手首は汗ばんでいて、その湿り気が男の指先に吸い取られていく感覚があった。彼の掌の硬い皮と、彼女の手首の薄い皮膚がこすれ合うたび、耳の奥で、砂が落ちるような音が鳴る。

悠樹の手とはまるで違う。あの、皿を拭くのも覚束ないほど柔らかく、いつも持ち主の迷いをそのまま伝えてくる指先ではない。この男の手は、触れた瞬間から相手の形を測り、そのまま自分のものにする手つきをしていた。骨の節のごつごつした指は、まわりきらないほど長く、手のひらは握っただけで彼女の存在を包み込んでしまう。夫の手なら、こんなふうに手首の内側がはっきりと熱くなることはなかった。詩織の心臓が早鐘を打った。夕食のときから彼女の腹の奥で静かに沈殿していたワインの熱が、手首から一気に逆流してくる。太腿の内側が、じん、と痺れるほど火照る。抱えた熱が、呼吸のたびに下腹の奥へ降りては弾けそうになる。

「今日は楽しかったよ。また呼んでくれたら嬉しいな」

城島は右目を軽く閉じ、笑みを残して手を離した。離れた瞬間、手首に残った熱だけがやけにはっきりと脈打っている。詩織は声を継げないまま、握られた左手をエプロンの裾に押し当てる。エプロンの粗い布地が、火照った手首の皮膚をちりちりと刺激した。城島の背がエレベータホールへ消えるまで、ムスクの余韻が詩織の鼻孔の奥をくすぐり続けていた。彼の存在が消えたあとも、廊下の空気は彼の温度を抱いたまま冷えようとしない。詩織はもう一度、左手の手首を確かめた。握られた皮膚の上を、まだ太い指が這っているようで、彼女はエプロンの上から自分の脈を押さえつけた。押さえつければ押さえつけるほど、内側から叩く鼓動は強くなった。

詩織は静かに玄関の鍵を閉め、リビングへ戻った。悠樹はソファにもたれ、浅い寝息を立てている。眼鏡が少しずり落ち、顔の横で乾いた骨のような線を描いていた。テーブルの上では空いたワイングラスが二つ、琥珀の残りをほとんど乾かしている。詩織は夫の膝に薄い毛布を掛け、もう一度だけ左手を胸元で握り直した。男の指の骨が、まだ手首の内側に巻き付いているようで、彼女はその手を毛布の下へ隠すようにしてしばらく立ち尽くしていた。

その夜、悠樹は夢と現のあわいで、妻の手首に誰かの指が巻き付く気配を感じたような気がした。それは明瞭な像ではなく、ワインとムスクの匂いが混じり合った先で、妻が夫を呼ばない口調で笑う、かすかな呼吸のような予感だった。現実の彼女が隣で寝返りを打つたび、その予感は熱病のうわ言のように、悠樹の眠りの底で赤い芽を吹いては散っていった。

第2章 夫のいない夜、リビングで繋がる二人

第2章のシーン

木曜の夜、悠樹から電話があったのは、大輝を寝かしつけて、洗い物を終えて、リビングのソファに膝を折っていたときだった。窓の外では、街の灯りが空に向かって溶けている。都会の夜は、闇と呼ぶには薄すぎて、星がひとつも見えない。

スマートフォンを耳に当てたまま、詩織はカーテンの向こうをぼんやりと眺めていた。向こう側から聞こえてくる夫の声は少し掠れていて、ホテルの空調の微かな音が、その輪郭を縁取るように混じっている。まるで、声そのものが遠い部屋の空気をまとっているようだった。

「来週の水曜から、四日間ほど出張になるんだ。金曜まで帰れない」

「四日も。ずいぶん長いのね」

「すまない。ちょうど週末を挟んでしまうんだ。大輝には寂しい思いをさせてしまうな」

「ううん。お仕事なら仕方ない。大輝にはちゃんと言っておくから」

悠樹はしばらく黙ってから、何かを言いかけるように息を継いだ。その間合いの沈黙を、詩織は指先で数えるように待った。

「何か、必要なものがあったら言ってくれ。出張前に買い物もしておくから」

「大丈夫。それより、向こうは寒くない? 上着、薄いのしか持ってないでしょ」

「ああ。ホテルから駅が近いんだ。大丈夫だよ」

夫の声は優しい。けれど、その優しさの密度が、彼の身体の存在の軽さみたいに感じられる夜があった。ふわふわと、頼りない。耳の奥へ落ちてくる言葉のひとつひとつが、遠い空調の音に薄められて、輪郭を曖昧にしていく。

抱きしめられたときの腕の細さと、挿入されてから果てるまでの短さが、不意にむくむくと胸の奥で疼いた。それは痛みではなく、けれど満たされない時間が、女の腰の奥に溜めてきた澱のようなものだ。

「気をつけて行ってね」

「ありがとう。お休み、詩織」

「お休みなさい」

通話が切れて、部屋に冷たい静けさが降りた。

詩織は立ち上がり、ソファの上のクッションを両手で軽く叩いて形を整えた。そして、何とはなしに、手のひらをそのまま布の上に置いた。悠樹がいつも寄りかかる場所だった。日曜の午後、大輝を膝に乗せてまどろむ夫の背中が、このクッションにどんなふうに沈んでいたかを思い出す。

ゆっくりと、指先をソファの隅へ滑らせた。

そこに掛けられたままの紺色のスウェットの袖が、逆目に指へ触れた。膝のあたりがうすく擦り切れた、部屋着のそれ。洗濯しても消えない、悠樹の首筋に似た、粉っぽいほどあっさりとした匂いが鼻先をかすめて、詩織は目を伏せた。

だが、指の腹が覚えているこの肌触りよりも、昼間からずっと鼻腔の奥にべったりと貼りついて離れないものがある。あれは、ムスクの……甘さ、立ちのぼる熱の匂い。城島の呼吸の濃さが、喉の奥に溜まっていた。夫のやわらかな布と、知らない男の体温の予感。その両方を同時に吸い込んで、胸の奥がつきん、と鳴った。

(やめよう)

詩織は袖から手を離すと、鼻の頭をこするように指を折り曲げた。

寝室の隣では、大輝が深く寝息を立てている。小さな身体をいっぱいに使って眠る五歳の息子の寝顔を思うと、胸のあたりがほのかに温む。けれどその温みは、夫に向けるものとは違う種類の熱で、彼女の腰の奥を静かにとろかすものではなかった。子を思う熱の下に、まだ明け渡されていない雌の場所が、しん、と湿りを帯びている。

金曜の夜、悠樹が出張の準備をしているときだった。詩織が夕食の皿を並べていると、悠樹がリビングに入ってきて、手にしたスマートフォンの画面を眺めながら、小さく咳払いをした。

「城島部長から連絡があってな。来週、土曜に大輝をサッカーの試合に連れて行ってくれるそうだ」

「サッカー?」

詩織は、菜箸を持ち上げかけた手を止めた。

「ああ。地方のクラブの試合が、埼玉であるらしい。大輝くんが寂しくないようにって」

悠樹の声は事務的で、どこか戸惑いを帯びていた。まるで、読み上げる言辞の後ろで、自分でも整理できない感情の裾を踏まないようにしているみたいな、遠慮がちな平板さがあった。

「部長さんが、そんなことを?」

「ありがたい話だ。向こうも、週末は暇を持て余すことがあると。車も出すそうだ」

「あなたはそれで、いいの?」

「大輝が喜ぶなら。それに、城島部長は面倒見のいい人だからな」

悠樹は眼鏡の位置を直すように、細い指でブリッジを軽く押し上げた。その手つきには、何かを確かめきるよりも先に、自分へ言い聞かせる仕草があった。

翌朝、大輝にその話をすると、五歳の少年は飛び上がって喜んだ。胸にサッカー日本代表の紋章があしらわれたレプリカユニフォームをタンスから引っ張り出してきて、それで行くと玄関で何度も跳ねる。素足の裏が、ぴょんぴょんと軽い音をたてた。

「おじさんとサッカー見られるの! ぼく、このユニフォーム着ていく!」

詩織は大輝の柔らかな髪をなでながら、夫のいない週末の心細さが、いつのまにかよそい人の予定で彩られていくことに、名づけようのない落ち着かなさを感じていた。けれどその落ち着かなさの底には、ほのかな期待があり、彼女はそれをすぐには見ないふりをした。

(たかが試合よ。大輝が喜ぶんだから)

そう自分に言い聞かせて、朝の食器を洗った。

土曜日の昼前、城島は待ち合わせの時間よりやや早く、小森家のマンションに現れた。インターホンが鳴って、大輝が玄関へ駆けていく。詩織はエプロンのひもを背中で結び直し、髪を手早く耳に掛けてから扉を開けた。外には薄い曇り空が広がっていて、空気は夏の手前の湿り気を含み、肌の上で重く渦を巻いていた。

「こんにちは。今日は楽しみにしていたみたいで、朝からこの子、ずっと落ち着かないんです」

「そりゃいい。待たせて悪かったかな、詩織さん」

城島は今日は濃紺のドライポロシャツに、あざやかな白のスラックスを合わせていた。がっしりとした肩と胸の厚みが、薄い布の上からもあらわで、首元にはいつもよりやわらかな甘さのムスクが漂っていた。彼が笑うと、濃い茶色の瞳が細くなり、よく日焼けした顔に白い歯が浮く。

(この人は、いつも汗ばんでいる)

詩織は思った。スポーツの後のような生の熱気が、玄関の空気をしっとりと厚くしていく。

「おじさん、はやく行こう!」

大輝が、城島の白いスラックスにしがみつかんばかりの勢いで跳びはねた。

「大輝くん、お昼は食べてからにしよう。腹が空いてると応援に力が入らないぞ。何か食べさせてくれるか、詩織さん」

「ええ。簡単なものしかないけど」

「十分。うちの娘もそうだった。試合の前は、おにぎりだけでも食べてくりゃあ機嫌がいい」

城島は上がり框をまたいで、脱いだスニーカーを片手で揃えた。かかとを外側へ向けて、静かに揃える。その仕草に、詩織はふと、彼が他人の家に踏み入ることに何のためらいもない人なのだと感じた。玄関の空気が、彼の匂いでしっとりと厚くなる。わずかに汗を含んだ皮膚の匂いと、香水の甘さが、空気の粒そのものに重みを与えていた。

昼食には、俵型のおにぎりと、昨日のうちに仕込んでおいた鶏の唐揚げ、それに切ったばかりのトマトを並べた。大輝は城島の隣に座り、試合の話をねだる。城島は箸を動かす合間に、サッカーのルールを五歳の少年にもわかる言葉でほぐしていく。茶碗を持つ手が、大輝の頭より大きい。けれど、その掌の上を、大輝はまるで遊具のように叩いた。

「ボールを追いかけるだけじゃ、相手に抜かれちまう。走りながら、つねに次の場所をさがすんだ。頭と足、両方使うんだよ」

「むずかしい?」

「はじめはみんな、ただ走る。でも大輝くんは追いかけるのが速いから、そこから始めれば本物になる」

大輝は城島の太い前腕を小さな手で叩いた。

「おじさん、すごい!」

詩織は向かいの椅子で、熱いほうじ茶を啜るふりをして、ふたりのやりとりを見つめた。

城島の嗓音は低く、ゆったりとしていて、部屋の奥へやわらかく広がっていく。夫のやや高い声とも、大輝の鋭い歓声ともちがう。鼓膜をくすぐる低さの中に、男の肉の厚みが感じられた。それは、聴くというより、全身の皮膚で受け止める種類の響きだった。

試合は夕方ちかくに終わると、城島から詩織へ連絡が入った。

大輝がひどく興奮して、車の中で眠ってしまいそうだという。声の向こうから、かすかにラジオの雑音が混じっていて、嗅いだことのない革シートの匂いまで、くうっと鼻の奥に立ちのぼる気がした。

「まあ、そんなに楽しかったの」

「楽しかったなんてもんじゃない。大輝くん、後半ずっと立ちっぱなしで、知らないおじさんの肩まで借りて応援してたくらいだ」

「すみません、ご迷惑を」

「とんでもない。連れてた本人が言うのもなんだが、礼を言おう。この歳になって、スタジアムであんなに笑ったのは久しぶりだよ」

城島の声には、疲れよりも満ち足りた弾みがあった。詩織は、洗ったばかりのシンクに手を置いたまま、小さく微笑む。

(よかった。大輝が、あんなに笑えたなら)

だが、その安堵のすぐ下で、城島が自分に向けた視線を思い出して、耳の裏が痛いほど熱を持つのを感じた。

夜の七時を回るころ、城島と大輝が小森家に帰ってきた。

玄関を開けるなり、大輝は泥と草いきれのしようのない汗の匂いをさせて、詩織の腰にしがみついた。きゅっ、と、小さな手がエプロンの背中の布をたぐる。

「ぼくねぇ、ゴール見たんだよ! すっごい速いシュート! あんなの、びっくり!」

「あらあ、よかったわね。すごいねぇ、大輝」

詩織は、汗で張りついた息子の前髪を指の腹で分けてやりながら、その向こうに立つ城島の姿を視界の端に収めた。彼も、同じように汗ばんで、ポロシャツの袖口から強い上腕が覗いている。

「風呂、借りてもいいか。大輝くんの汗がすごくてな。俺もたっぷりかいた」

「どうぞ。夕食の支度ができてるから、ゆっくりして」

大輝は靴を脱ぐと、靴下まで丸めて片隅に放り、廊下を裸足で駆けた。

ぺたぺたという足音が、洗面所の方へ消えていく。その足音を聞きながら、詩織は靴べらを揃える城島の首筋に、濃い汗の伝う跡を見た。

「おじさん、いっしょにお風呂はいろ!」

大輝が、洗面所から声を張り上げた。

「いいのか。ママに聞いてみよう」

城島は笑いながら、脱衣所の敷居に片手をかけ、詩織を振り返る。

夕餉の香りがリビングから漂っていた。炊きたての白米と、出汁の立った味噌汁、生姜焼きの甘辛いたれの匂い。その和やかな夕餉の気配の中に、城島の体臭がゆっくりと混じる。汗の塩気と、こびりついた芝の青さ。男の皮膚から立ちのぼる、生あたたかな匂い。

(だめ。嗅いじゃだめ)

詩織は自分の胸の前で、エプロンの布を小さく握った。

「じゃあ、大輝くんを先に入らせるわ。わたしが一緒に入ろうかしら」

「大丈夫。俺が見る。男同士の風呂もたまには悪くない」

「でも、城島さんまで……」

「子どもと風呂に入るのが上手いんだ。娘が小さいとき、毎日がそうだった」

そう言って城島は、大輝の手を引いて脱衣所へ向かう。

詩織はその後ろ姿を、台所から眺めた。パンツの上に着ただけのポロシャツを脱ぐと、背中から肩へかけての筋肉が、夕暮れの残光を吸ったように濃く見えた。汗で張りついた布が剥がれるとき、背骨の溝へ細い影が走る。

彼女は急いで目を伏せ、まな板へ向き直った。玉ねぎの切り口が、乾いて白く曇り始めている。

しばらくすると、脱衣所の向こうから、大輝の甲高い笑い声が壁を越えて響く。湯が床に落ちる音、洗面器を踏む音。詩織は昼の残りの片づけをしながら、窓ガラスに映る自分と視線が合った。頬が、ほんのり明るい。指先は、洗剤の泡にまみれて、白くふやけている。

「おじさんのちんぽでかぁい!」

断水の合間に、大輝の無邪気な大声が浴槽の反響を帯びて届いた。

詩織は息をのんだ。

皿を布巾で拭く手が止まり、耳の裏が急に熱くなる。

大輝の言葉の無垢さと、その対象の具体的な質量が、頭の奥でちりちりと照らし出す。夫が、果てたあと小さくなる肉のかたまりを、布団の間から見えないようにまくり上げていた姿。城島のあの肩幅の中に、彼は何を収めているのか。水音に溶けた五歳児の声が、浴室の反響をまとって、何度も耳の奥で萎びない残光を繰り返す。

詩織はあわてて蛇口をひねり、水の音で思考を濁らせた。指の腹が、ぬるま湯の中でふやけたように感じられた。なのに、太腿のつけ根の奥だけは、沸いたばかりの湯みたいに、くん、と疼いている。

風呂から上がった城島に、詩織は夫の着替えを用意した。

結んで置いた紺色のスウェット上下である。悠樹が部屋着にしている、くたびれた綿のそれ。膝のあたりに薄い擦り切れがある。城島はそのスウェットをためらいもなく着て、リビングに現れた。

「ちょうどいいな。小森くんはスマートだから、少し短いかと思ったが、伸びる素材はありがたい」

城島は自分の腕と脚を見るように、長袖の袖をまくり上げた。

その布地の伸びが、彼の肉厚の肩と上腕にぴたりと吸い付いて、夫の衣服が別の男の貌をしているようで、詩織は目をそらす。洗いざらしの綿の繊維が、城島の風呂上がりの水分と熱を吸って、知らない模様を浮かび上がらせていく。夫のスウェットは、城島の汗で、熱で、息遣いで、別の布に変わっていく。

(あの袖に触れた時は、まだ、あなたの匂いしかしなかったのに)

夕食の席では、大輝が主役だった。

昼の試合の話を何度も繰り返し、城島はそのたびに、合いの手を厭わず笑った。詩織も相槌を打ちながら、大輝の隣でそんな話を聞いている男の存在感を、室内の空気の密度の高さとして受け取る。食器の触れ合う音も、会話の合間の沈黙も、薺の香さえ、彼がいるという一点から広がっていく。

「おじさん、きょうここにとまってくれる?」

大輝が、味噌汁の茶碗を両手で抱えて言った。

「こら、大輝。城島さんにもご都合があるんだから」

「いいじゃないか。僕はかまわない。ほんとうは、大輝くんが寝るまで見ててやって、夜のうちに帰るつもりでいたが、こんなにせがまれたら、泊まっていくしかないかな」

「おじさん、ぼくといっしょに寝よう!」

「残念だな。おじさんは大人だから、お前のベッドは少し短い。寝かしてやるから、自分で眠りなさい」

それでも大輝は、食事が終わると、城島の大きな膝によじ登って、絵本を持ち出して彼に読めとせがんだ。

城島は仕方なさそうに天井を見上げ、編みぐるみの犬を抱えた大輝を、小脇にはさんで立ち上がった。大輝はきゃっ、と笑い、ぶらんと揺れた両足をぱたぱたさせた。

「子ども部屋へ行くぞ。寝るまで、おとぎ話に付き合ってやる」

その背中がリビングから消えて、しばらくは、絵本をめくる紙の音と、大輝の弾む声がかすかに聞こえていた。

詩織が片づけを終えるころ、子ども部屋の明かりは消えていた。

リビングへもどると、城島がダイニングの椅子に座り、スウェットの裾をもてあそんでいた。風呂上がりの首筋には、まだ薄い水気が残っていて、暗い色の布地が胸の厚みをそのまま浮かせている。

「寝ました?」

「ああ。一瞬だった。途中でこっちが眠りそうになった。元気な子だな、まったく」

「すみません。ずいぶん引っ掻き回してしまって」

「今日はこっちのが楽しんだんだ。酒でも付き合ってもらうか。小森くんが、うまいワインがあったはずだ、と言ってたが」

「あの、あの……城島さん、飲まれるんですか。続けても」

「詩織さんさえ、よければ」

詩織は冷蔵庫のワインの瓶に目をやって、うつむいた。

悠樹が、くもりひとつないまでに拭いたグラスが、食器棚の上に並んでいる。その透明度の高さが、いまの自分の濁った胸の内と似合わなくて、彼女は指の先を丸めた。洗いものを終えた手は、台所用洗剤の油断した匂いがまだ残っていて、それが、城島の汗の記憶の上へ、やわく重なっていく。

「少しだけ……お付き合いします」

ボルドーの赤を開けると、城島は手慣れた手つきで、しかし静かにグラスへ注いだ。

詩織が昼に使った、厚手のくぼみのあるワイングラス。紫液は夕闇にも似た深い色で、香りは、熟した果実の甘さの裏に、樫の木の渋みが渦巻いていた。城島は杯を傾け、光に透かして、詩織を見た。照明の下で、紫の液体が彼の瞳孔を染めていく。

「小森くんは、この前、出張が増えるとこぼしてた。寂しがってたよ、家族と離れるのを」

「ええ……でも、仕事ですから。わたしは平気。大輝がいれば」

「本当に?」

城島の低い声が、わずかに揶揄するような色を帯びて、詩織は指をすぼめた。握りしめた膝の上で、エプロンを外したあとのカットソーの布が、汗で湿っている。

「女ざかりの詩織さんを、家に置いて出ていくんだから、小森くんも薄情だよ」

「もう、またそんな。部長さん、意地悪」

「おや、僕はやさしいつもりだよ」

くすくす、と笑い声がこぼれる。

ワインが胃へ沈んでいくたび、リビングの空気は、しめやかにあたたかくなった。詩織は二杯目の半分を超えたあたりで、首のつけ根がほどけそうな柔らかさになるのを感じた。指先が、自分のものではないみたいに、グラスの脚をなぞっている。

「城島さん、聞いてもいいですか。どうして、大輝を試合に、なんて」

「ひとつには、大輝くんが可愛いから。もうひとつは」

城島はそこでいったん口を閉じ、グラスをテーブルに置いた。微かに濡れた唇が、光の下でほんの赤い。

「詩織さんに、もっと近くにいてもいいかと、試したんだよ」

その言葉は、正面から受け止めるには、薄い膜を張っていた。

詩織がうつむくと、胸元にたまった汗が、キャミソールの生地を乳の谷間へ張りつかせていた。先の食事から、しじゅう城島に胸元を流し見られていたのは、わかっていた。彼の目は、ときどき笑いの型をやめて、彼女のあごから首へ、布の影へ、ゆっくりと滑り降りていた。その視線が、いま、肌の上にこびりついた酒の熱を、なぞっていく。

「ねえ、詩織さん。そういう顔をしてると、部屋の空気まで、蜜の匂いになるよ」

城島は立ち上がり、詩織の座るソファの横に、ゆっくりとした音もなく近づいた。

「まだ、何も始まっちゃいないのに、息が浅くなってる」

「……お酒のせいです」

「そうか。じゃあ、酒の力で聞く。詩織さんは、満ち足りてる? 小森くんと、夜のほうは」

心臓が、胸の皮のすぐ下で跳ねた。

詩織は手近のクッションを、抱くように押さえる。その下で、指の腹が、くたりとした布の感触を覚えるばかりで、言葉は出てこない。

「どうして、あの子がいるのに、お風呂の中であんなことを言うかと思ったんです。おじさんの、身体のことを。わたし、たぶん、あの声を聞いたとき、……」

「濡れた?」

ぽつり、と、城島が落とした一言。

詩織は返せず、唇を、白くなるまで噛んだ。噛んだ唇の内側に、鉄錆のような味が滲む。

「ね、そうなんです。わたし、おかしいんです。性欲が、強くて。でも、夫はやさしくて、それで、すぐに……」

「言わなくていいよ」

城島の大きな手が、詩織の髪を耳へかけ、彼女のうなじを、遠いなだらかさで包んだ。指の腹は、風呂上がりの温かさを保っていて、彼女の産毛の一本一本を起こすように、静かに這う。

彼は座り、顔を寄せる。

吟醸と汗とムスクが、鼻の奥で混じる。夫のものではない、重くて甘ったるい匂いの層が、呼吸のたびに彼女の肺を厚く塗りこめていく。吐き出すと、また吸い込む。吸い込むほどに、胸の下の溝が、じわりと汗ばんでいく。

「じゃあ、スポーツみたいに愉しくしましょ。気軽に、身体をあわせる。それだけだよ」

「でも……」

「でも、じゃない。ほら、身体は正直だなあ」

城島の唇が、詩織の唇のうえに、熱い果肉を置くようだった。

息を吸うと、むりやり酒の匂いが口の奥へ入ってくる。噛む、というより、舌が唇を割って、真綿のように侵入してくる。ぬくい舌が歯列をなぞり、上あごの裏をやわく擦るたび、膝の力が抜けていく。詩織はのけぞり、ソファの背に沈みこんだ。クッションの布が、背中と衣擦れの音をたてる。

「んっ、……だめ……」

「だめなのに、こんなに開いてる」

城島の手が、詩織の胸に這った。

キャミソールの上から、うずくまるように山をにぎる。指の腹が、乳首の瞬間を探り当てて、やわく、きつく、会釈をするみたいに動く。ぞわ、と背中の皮膚が逆むき、腰の奥を鋭い何かが貫いた。

「あ……っ」

城島は追いたてるように、もう片方の手を、ホットパンツと腹の間にさしいれた。ひもをひかない。指が、布地の上から股間の窪みを、丸く、沈め、線をたどる。ナイロンの上からじゃなく、隙間から、体温をそのまま沈めてくる。

「ここ、もうだめだ。布の上からでもうぬぐってる」

「ちが……わる、あの、わたし……あっ……」

「嫌だったら、足をとじればいいでしょう。詩織さんの太腿は、もう閉じる力が抜けてるよ」

城島の指が、ホットパンツのあいだから、直に秘裂を、縦へ、なぞる。

ぬるり、と恥ずかしい重さが、彼の指を誘い、くちゅ、とわずかに鳴いた。粘液が皮膚のきめを越えてでろりと糸を引く。詩織は自分の下腹から、自分とは別の生き物が、泡立つように湧き上がってくるのを感じた。

「音がした。この指が、したんだよ、詩織さん」

「み、見ないで……」

「見ない。じゃあ、触ってる」

引き抜くと、城島は指を目の前で縦にさし示した。

白い月光みたいな照明の下で、それは蜜につつまれて、糸を引いていた。城島は、その愛液を唇に含み、ちゅ、と味わった。舌の上で転がすように、わざと音をたてる。

「葡萄酒みたいに、少し塩くて、牡蠣のような後味だ」

恥ずかしさで、詩織の視界が痺れる。

けれども身体は、生きた海月のように、彼の与える熱を吸ってふるえる。太腿の内側が、ガラスの破片でも差し込まれたみたいに、ぴりぴりと感覚を散らしている。

城島は彼女のホットパンツを脱がせ、下着を、濡れて透けた中央から横に避けた。太腿を割り、ソファの座面に両膝が沈む。内腿がねっとりと座面に吸いついて、二度と立ち上がれないような心地がした。

「!? あ、や……!」

城島が、腰を折って股ぐらに顔を埋めた。

熱い舌が、外の襞を、下から上へ舐める。ざら、と舌苔の味わい。クリトリスに触れるか触れないか、うすい皮をまさぐり、そこへ唇で、こまかく吸いつく。吸われるたび、下腹の奥の一点が、つり上げられるように痙攣した。

「ひ、あ……あぁ……っ、ちょ、ちょっと……しゅ、吸われると……ぁあーっ」

シルクのクッションの下で、彼女の爪が無造作に寄れた。

肉の奥は、恥ずかしい言葉を返すみたいに、くちゅくちゅと鳴った。城島は涎と愛液を音にし、まるで水の底から引きはがすみたいに、舌で小陰唇をなぶっていく。逃れようと腰を引くと、大きな掌が尻たぶを掴み、逆に顔へ押しつけてきた。

ぶるん、と身体が跳ね、詩織は城島の髪に指を立てて、耐えるように首をふった。立ったままの肋骨が、呼吸のたびに浮き沈みする。

「ん、ん……! あ——ッ!」

びくん、と腰の深い場所が弾けて、頭の後ろまで、白い息が登る。

達するまでの時間があまりに短くて、自分の身体が恥ずかしい器具になってしまった心地がした。出し抜かれて、暴かれて、あんなに拒んでいたのに、あそこだけは彼の舌に、赤い花みたいに開いてしまう。

「詩織さん、感じやすい身体だなあ。……もっと、愉しまない?」

城島が顔をあげ、汗ばんだ額で笑った。口元は、彼女の汁で、濡れて光っている。

詩織は、涙がにじんだ瞳のまま、首をゆるく縦に振った。自分の中から溢れたもので彼の唇が濡れているのを見たら、それを拭かなくていいと思ってしまった。拭いてほしく、なかった。

「なら、ここのつづきが、いま一番たのしみだ」

城島はスウェットを脱ぎ、下着ごしに盛りあがる肉の容を、詩織の目の高さへ、ゆっくりともち上げた。

布を下ろすと、皮膚張りのいい肉茎が、陽だまりの棒みたいに、重たげに跳ねた。先端から、透明な汁が、ぬらりと糸を引き、空気のなかで熟れた果実の割れ目のように照っている。詩織の唇が、半分あいいた。彼女のなかで、大輝のあの声が、もう一度木霊した。

(おじさんのちんぽでかぁい)

「挨拶しとくかい、僕の息子に。これから詩織さんの、奥深くに入る子だよ」

先端を匂うと、若木の樹液に似た、つんと苦い雄の臭いがのぼる。鼻の奥の粘膜を刺すような生臭みが、胸のあたりまで支配していく。

城島の手が、彼女の後頭部を支え、うなじを導く。

詩織はっとして、目をつむり、そのさきを口唇へふれた。厚く熱い。舌をつけると、ぬらりとした表皮が脈を打っている。はむ、と上唇をすべらせ、亀頭を口腔へ招くと、頬の内側を圧迫されて、くちびるの端から唾液がたらりと垂れた。ない。夫の、あの輪郭の裏で、ずっと飢えていたのはこれだ。重みがあるのに、舌のそりを拒むものがあって、詩織は首を、吸い、ときには汁で音をたてて奉じた。

「んぷ……ちゅ、じゅる……んっ……」

自分の口があげる音が、耳の奥で、他人の女のものみたいに淫らに響く。それでも、頬を閉じて、舌で裏筋を押し上げるほどに、下腹がしくしくと疼くのがわかった。

城島は満足そうに、頭を二、三度ゆすって詩織を後ろへ押しやった。

「上等。うますぎて、このままだと悪いからな」

ソファに腰を下ろした城島は、詩織を、向かい合うかたちに膝の上へ導いた。

足を開かされる。真ん中に火が、くすぶっている。城島は、自らの昂りを片手で支え、もう一方の手で彼女の中を、くちゅり、とほどくように探った。

「ん……、あ……」

硬い平滑な亀頭が、敏感な肉襞を押しひらき、沈みこんでくる。ふたつのおもりのような、切開かれる痛みと、飢えに芯まで届く圧とに、詩織はのけぞった。す、と腰が浮く。入口がふさがるだけで、背骨が燃えた。なに、この熱。

「ゆっくり……ゆっくり……息、すって……そう。詩織さんのなか、すごく狭い。けど吸いこんでくる。小森くんじゃあ、手にあまるよ」

「……!? も、動かさないで、まだ、入れるだけで……」

「もっと、口で息をしなさい。……深いね。この奥、窪みになってる。いいな、それでいて、締める場所を知ってる。イク顔が見たい」

城島は両手で彼女の腰骨をつかみ、下から重く引き寄せた。

ずぶ、ずぶ……。音が、粘りをまとい、下腹の皮の上をぶるぶると伝わった。さっきまで、皿やシンクの上にあったはずの自分の熱が、他人のものに入れ替わっていく。

「あ……っ、そん、な、奥……あ、ああ……!」

波が足から背そって突きあげるたび、詩織は城島の肩にしがみつき、しめつけた。胸を密着させ、乳の肉は彼の汗の上にぬかるようにずれた。ほんの数回、腰をゆすられただけで、もうずぶ濡れの内壁は、ぐぷ、ぬぷ、と口惜しげな音をたててその根元へ沈んでゆく。

「あ、いや、ちが、こ、れ……おく、当たってる……っ、あぁぁ……!」

「当ててるんだよ。逃げなくていい。ほら、奥のやわいとこ、ぐっと口をあけて、いれてほしいって、くちくち言ってたぞ」

自分の意思では、もう、脚を閉じられなかった。

城島の手が大きいからではなく、ふとももが、悦をとじこめたくて、自ら開いてしまうのだ。夫がしているときとは、なにもかもが逆だった。待つものではなく、のまれにゆくもの。慈しまれるのとはちがい、焼ける鉄みたいな驕りで、子宮の下の粘膜をこうべを垂れさせる。

夜中になって、彼女が我にかえったとき、からだの上にタオルケットが掛かっていた。

いや、下には、夫のスウェットの薄い感触。なぜかパンツだけ穿かされて、乳房のあいだに、乾いた唾液と汗の跡が、すうすうと光っていた。微かなラベンダーの室内灯。寝室。自分のとなりに、城島が、片肘をついて横たわっている。ごお、と静かな老人のような寝息をたてて。

(わたし、何を……)

指を動かすと、腹の奥の皮が、ひりついた。確かに、あの夜のあとが、身体に残っている。

「……城島、さん」

彼が目をあけた。濃い瞳が、暗がりでゆっくりと笑った。

「気がついたか。詩織さん、すごかったよ。声も、水も、全部。若い子みたいな声、出てた」

「わたし……意識、なくして……」

「そりゃあ、あれだけ連続だ。僕も、足腰にきてる」

詩織はタオルケットを握り、自分の中の、ひりついた充実感を確かめた。赤くぼんやりとした輪郭が、太腿のつけ根の上で鳴っている。ここに、まだ、彼がいた。感触が、残っている。肉の熱が、抜ける前の型のように、くっきりと。

「……何回?」

「最後のは、こっちも覚えてない。覚えてる限り、軽く九、十はあったかな」

おそろしくて返事もできない。

けれど、その数字は、空疎な肉体を内側から照らす、声のひとつだった。九回も、十回も、自分は、夫のスウェットの匂いの上でほどけきってしまったのか。

城島が起き上がり、彼女の汗の貼った前髪を、洗いたてのタオルの匂いがする指先で、分けてよせた。指の腹の角が、こめかみをやさしく擦る。そのやさしさの種類が、夫のそれと違いすぎて、胸がぎしりと軋んだ。

「まだ夜中だ。起きたついでに風呂へ行こう。スポーツのあとは、体を溶かさないとかえって眠れないだろ。……ついておいで」

浴室では、灰色っぽい湯気が、天井でゆっくりと人型にうずまいていた。二人分の足音が、タイルにやわく吸われる。手すりに置いた濡れタオルが、さっきの大輝の小さな尻の跡を残して、むわりと蒸れていた。

朝、リビングでは、大輝がテーブルの上のふた握りのごはんに、たまごを、不自然に平らにのせようとして失敗している。

城島が、隣で気のない手つきで牛乳の瓶を支えてやりながら、ちらと詩織を見た。その視線には、昨夜のあれこれを、朝の明るさのなかで密やかに確認するような、生乾きの淫熱が宿っている。跳ねた黄身があぶら光を帯びて、白い皿の上で朝日を反射している。

夫のいない朝。

それでも、椅子が三脚、埋まっていることが、ここちいいはずなのに、喉の奥でかすかに罪悪が渦を巻く。彼女を、昼前までその場に釘づけにしておいた男の、石けんと生乳にまぎれた、あの麝香。

月曜の夜遅く、悠樹が帰ってきた。

玄関をあけると、彼はビジネスバッグと小さいキャリーバッグを下ろし、細い眼鏡の奥で、ひどくつかれた顔をしていた。詩織がスリッパをそろえて「おかえりなさい」と言うと、悠樹はすこし迷ってから、彼女の二の腕を、そっと、力なくつかんだ。

「出張、おつかれさま。電車混んでたでしょう……あれ、何かにおう? ――わたし、夕飯作ってる時、お魚さわったから」

「そうか。急に、家の匂いが違って感じられて。……たいしたことじゃないんだ」

悠樹は、洗面所へ向かう。

彼のうしろすがたを、詩織は肩を強張らせて見送った。玄関の靴べらの下から、ごくかすかに、昨日のスプレーのアルコールと、シャンプーで消えない、むっとする海老茶の匂いが立っている気がした。ドアをあけるたび、よそいの人の匂いが出迎えてしまう。家の空気が、ほんの六日で、自分の手をはなれ、別の吐息で満たされていく。それを、ふと、喜んでいる神経が、詩織の中に、たまらない。

その夜、悠樹が湯あみをすませ、寝室にはいって、妻を引き寄せた。

正直、悠樹は疲労のなか、久しぶりの夜を、言葉よりも体温で求めた。ふるえるほど、ではない。夫のものは、彼女のなかに、ほどよい温かさでひそんで、もうすこし奥へ来てほしいのに、すぐ膨れ、すぐ零れた。密やかな、簡潔な、けれど妻の心の遠い場所を見つけられない性交だった。

「……ごめん、先に」

「ううん。おかえり、あなた」

詩織は、悠樹の汗ばんだ首もとへ鼻を埋め、あえて息を吸った。

清潔な、かさついた昼の疲労の匂い。胸の下で、むしょうに何かが渇いた。あの男に掻き混ぜられた場所が、いまだ、肉の形のまま、侵入を待つくぼみをあたためている。

彼の腰の上で、すこし動くだけで、自分の恥ずかしいところが、くだけた海綿のようにひらいて、夫の硬さを、つつんでしまえなくなっているのを、夫の存在を通して知ってしまった。

内側から。ここが、あの夜。自分の一線の場所。そう噛みしめ、彼女は夫の知らない快楽の轍を、ひとり静かに指でなぞった。こわいはずなのに、女の身体は、深みでうすく光っていた。

第3章 夫の目の前で、潮を吹いた妻

第3章のシーン

第3章: 夫の目の前で、潮を吹いた妻

金曜の夜、玄関のチャイムが鳴るより先に、大輝が裸足でフローリングを叩いた。悠樹がカレンダーを見やると、今週はまだ城島を招く予定はなかったはずだ。なのに大輝はドアの向こうの気配を察して、ぴょんぴょん跳ねながらチェーンを外せと急かしている。詩織が小走りに追いかけ、慌てて髪をひとつに束ね直す気配がした。冷房の効いた室内に、夕餉の肉じゃがの煮汁と玉ねぎの甘い香りがまだ残っている。悠樹はリビングのソファから腰を浮かせ、大輝の後ろに立った。ドアが開くと、湿った夏の夜気と一緒に、胸にずしりと来るあのムスクが流れ込んだ。

城島悟は、白い開襟シャツの袖を肘までまくり、片手に紙袋を下げていた。薄暗い共有廊下の蛍光灯を背負い、浅黒い肌に汗の照りを浮かべている。左胸に汗染みが滲み、喉のくぼみを一筋の汗が伝っているのが見えた。彼は大輝の頭をぐりぐり撫でると、悠樹に顔を向けた。

「よう、小森くん。悪いな、急に。今日、取引先からいいワインが届いてさ。これ、家で飲むより、おたくの食卓で開けたいと思ってね」

悠樹の頭には、第一印象を正直に装飾する余裕などなかった。部長はどうしてうちに頻繁に来るのか、いや、歓迎すべきなのか。口をついて出たのは、また別の言葉である。

「いえ、気を遣わせてしまって。大輝がうるさいでしょう」

「なあに、大輝くんは可愛いからな。なあ、大輝くん。今日はユニフォーム着てるのか。似合ってるじゃないか」

大輝は、胸の紋章を両手でびしっと押さえ、足を肩幅に広げて笑った。城島は靴を脱ぐと、濡れタオルで首筋を拭くようにしてから、生ハムのパックを取り出す。指先の節くれ立った太さが、悠樹の瞳に妙に沁みた。詩織が小さい声で「あらあ、いつもすみません」と頭を下げる。悠樹はその横顔を盗み見た。白いカットソーに、水色のホットパンツ。日焼けしない太腿が、廊下の暗がりでも青白く浮いている。城島の視線が、その腿のあいだを一瞬なぞった気がして、悠樹は無意識に唇を舐めた。

ダイニングテーブルには、詩織が急遽こしらえたスパークリング用のグラスが並んだ。城島はワインのラベルを誇らしげに詩織へ傾け、彼女が身を乗り出して覗き込むと、あからさまに胸元へ目を細めた。悠樹はグラスの脚を指で弄りながら、酔わない酒を無理に煽る。冷たい炭酸が食道を滑り、目の奥の血管がふくらむ。大輝は生ハムの薄切りをくるくる巻いて口に運び、城島の膝に体重を預けながら、先日のサッカー観戦で見たゴールをもう一度再現しようとしている。城島は笑いながら大輝の肩を抱き上げ、自分の太腿に座らせた。

「大輝くん、身体がメロンみたいに汗くさいな。風呂はもう入ったのかい?」

「まだ! おじさんが来るから、待ってたんだよ!」

悠樹の腹の奥が、ちり、と焼けた。待っていた、と無邪気に言う大輝。詩織が横から「こら、そんなこと言わないの」と笑いながら、城島に視線で謝る。城島は気にするそぶりもなく、詩織のグラスにワインを注いだ。かすかに、むわ、と獣の毛の乾いた香りがした。彼が持ち込んだのは、ワインと汗とムスクが混ざった、あの匂いの空気そのものだ。悠樹は自分の酒を舐めた。目が回り始めていた。

九時を回り、悠樹はソファで深く沈んでいた。大輝を寝かせに行った詩織が戻ってきて、城島と二人で何やら話している。天井の照明が二重になって、視界がゆっくり揺れている。城島の喉の奥を転がる低い笑い声が、遠くで饗宴の太鼓のように鳴る。悠樹は首をずらして、テーブルの上のワインボトルを探した。手が届かない。腕を伸ばすのも億劫で、そのまま瞼が閉じた。

冷たいものが腹に触れて、悠樹は目を覚ました。喉が粉を吸い込んだようにからからと渇き、舌が上顎に張り付いている。頭の中で、昨夜の記憶がぐるぐる渦を巻いて形にならない。背中と腹に、ちいさな冷気の帯が走った。冷房の風が、汗で湿ったシャツの上から皮膚を撫でている。部屋の明かりは落とされ、テレビの待機灯が赤い目を光らせていた。

悠樹は重い首を持ち上げた。ソファの足元、ラグの上に、水色のホットパンツが裏返しに脱ぎ捨てられ、その傍らに小さな紺色の下着が丸まっている。悠樹の目は、その中央に滲んだ黒ずみをとらえた。甘酸っぱい、乳酸の腐りかけたような、それでいて鼻の奥を痺れさせる匂いが立ちのぼる。耳の奥で、ぬちゃ、ぐちゅ、と、ぬかるんだ田んぼを素足で踏むような粘着質の音が、一定のリズムで反復している。

カウチの向こう。ダイニングから射し込む淡い光のなかに、二つの裸体が揺れていた。低く唸るような呼吸と、押し殺した咽び声が、音の正体を告げている。悠樹は仰向けのまま、眼球だけを動かした。ソファの肘掛けの影から、妻の裸身が斜めに切り取られて見える。詩織は四つん這いになり、両手をラグに突っ張り、尻を高く突き出していた。背骨が弓なりにしなり、汗に濡れた黒髪が、白い肩甲骨のあいだに張り付いている。その尻たぶを、城島の大きな両手がわしづかみ、指が柔肉に沈み込むほどに開かせていた。彼の浅黒い腰が、白い尻に覆いかぶさり、肉のぶつかる音が、ぱちゅん、ぱちゅん、と夜空に弾む。悠樹には、城島の下腹から延びる陰茎の根元が見えた。それが妻のあわいにずぶりと沈み、引き抜かれ、また沈むたび、周囲の肉襞が白い泡を纏って外側へ捲れ上がる。妻の立てる声は、もう、悠樹が知るどんな夜より高い。

「あっ、だめ、そんな、深く……あ、あ、おく、当たる、ゆきお、ゆきお、まだ……」

悠樹は身体を起こせずに、後頭部をソファのクッションに沈めた。言葉を失っている。ここに自分が酔い潰れて横たわっている。その枕元で、妻が部下の上司に穿たれている。この情景は、何かの手違いであってほしい。しかし腹部の奥のほうで、熱い泥が煮えるように脈打つのを感じる。心臓ではない、もっと低い器官が、痛みを帯びて硬く張り詰めていた。

城島の掌が、詩織の腰を引き寄せる。彼は汗で額に張り付いた前髪をかき上げ、悠樹のほうへ顔を向けた。真横から射すダウンライトに、頬の彫りが深く陰影を作る。

「おっ、目が醒めたか? 小森くん。今、奥さんとスポーツの真っ最中だ。よかったら見ていくといい」

悠樹の唇は、薄荷を噛んだときのように冷たく引き攣った。城島はそう言ったあと、ひときわ大きく腰を突き込み、詩織の白い臀肉を小刻みに波打たせた。ぱんっ、ぱんっ、と、乾いた衝突音がダイニングの壁に反響し、妻の口から「ひぁっ」という悲鳴が漏れる。腰を振るたび、尻の下の割れ目に涎のように白く泡立った愛液が溜まり、ラグの上に点々と飛び散った。甘苦い牡牝の匂いが、冷房の風に乗って悠樹の鼻を打つ。それは、夫が知らない生々しい匂いだった。

「や、め……みないで、悠樹……みないでえ……」

詩織が振り向きざまに叫ぶ。頬は紅潮し、目尻には涙がたまっていた。唇は唾液で濡れて半開き、苦しげな産毛がこめかみに浮いている。その顔を、悠樹は初めて見た。夫の視線を受け、羞恥に崩れながら、それでも腰が城島の動きを追いかけている。両手はラグをつかみ、指の関節が白く浮いていた。悠樹は喉の渇きを強く覚えた。

城島は片手を詩織の胸の下に差し込み、持ち上げた乳房を掌で揉み上げる。親指が乳輪の縁を円を描いてなぞると、詩織は背中を逆上せて仰け反り、首をのけぞらせた。城島は耳元に唇を寄せ、矢継ぎ早に言葉を吹き込む。

「奥さん、こうすると中の皺がうねって俺のを搾るんだ。ほら、見えるか、この白い泡。すごい量だろ。お前の唾液だけじゃないんだ」

彼は悠樹に、言葉を届かせるように言う。悠樹の耳の奥で、その説明がゆっくりと形を結んでいく。妻の柔肉が、他人の拘束に喜悦の泡を立てている。そういう事実だ。悠樹の陰茎は、ジーンズの布を内側から押し上げていた。爪先が痺れる。頭の芯に、怒りとも哀しみともつかない黒い情動が渦巻いていたが、いちばん強いのは、直視を命じる渇きである。

「もう、イく……わたし、また、おかしくなっちゃう……あっ、ああ、なか、なかに、悟さんのが、きちゃう……」

「いいぜ。俺は動かない。お前の、いちばん奥の窪みに口づけしてる」

城島は腰を深く埋めたまま、腰をこねるように回す。ぐちゅ、じゅぷり、と、底のほうから粘液が噴く音。詩織は狂ったように首を振り、ばたばたと足首を打ち鳴らした。

「だめ、ほんとに、それ、いちばん弱い……あっ、ああぁぁっ!」

詩織の内腿がぶるぶると震え、背中がしなった。城島が太い腕を腹に回して支え、ゆっくりと引き抜く。ぬぷ、と白く泡立った陰茎が露わになると、妻の窄まりから、透明な液体が糸を引いて溢れた。城島はその肉茎の先を妻の、ひくつく花弁にあてがい、また一息に押し込む。ずぶり、ぐちゅ、という音が、悠樹の耳に直接ねじ込まれる。

「奥さん、水が溢れてるよ。シーツみたいに濡れてる。俺の息子をこんなに口開けて待ってる。小森くん、君の奥さん、大事なとこがこんなにしとどだ。見えるか? ここだ。腫れて、赤くなって、切れ目から光ってる」

城島は片手で妻の臀を左右に割り開き、結合部を意識的に悠樹へ見せびらかした。悠樹の視界のなかで、妻の淫部は別の生きもののように膨らみ、熟れた無花果の実のひだを、城島の赤黒い肉茎がゆっくり往復する。そのたび、ひく、ひく、と窄まりが飢えた口のように吸い付いた。目を背けられなかった。悠樹は唇を噛み、腹の熱が腰にまで下りるのを感じていた。自分のものを扱きたいという衝動が、指先にまで来ていた。

「悠樹ぃ……みないで、おねがい……みないでえ……あっ、あ、いやぁ……! いく、いく、また、おく、こすれる……おおおぉっ!」

詩織が叫ぶと同時に、城島が律動を速めた。粘液の飛沫がラグに散り、ぷしゃあ、と、何か軽い水音が弾けた。詩織の背中が弓なりに反り、喉がひくつく。透明な液が、二人の腿を伝い、ラグに落ちて黒い染みを作った。城島は詩織の腰を支えたまま、嗤うような息を洩らす。

「はは、潮だ。小森くん、奥さんは、こういうのが好きなんだよ。知ってたか? 知らないだろう。男が怖くなるような声を出す女は、案外かわいいもんだな」

悠樹は何も答えなかった。口の中に酸い涎が溢れ、股間の張りが痛い。夢かもしれないと思いたい一方で、これほど生々しい夢はない。城島の汗の匂い、妻の潮の匂い、唾液と精液と愛液の混ざる匂い、足裏で感じるラグの湿り気。すべてが本物として五官に届く。悠樹は目の前の、妻の淫猥な彫像を見つめ続けた。怒りはあった。だが、それ以上に、妻という女の知らない顔を初めて見ることの畏怖があった。

城島は、まだ激しく腰を打ちつけながら、悠樹に語りかける。

「君は、あんまり夜のほうが強くないみたいだな。それでも奥さんを大事にしてるのは、見ていればわかる。だからこうして、俺が身体を動かしてやってる。安心しろ。君の家庭を奪う気はない。俺にできるのは、足りない穴を埋めてやるだけだ。ワインのつまみに、スポーツの汗をかく。それの何が悪い」

悠樹の脳裏に、ボールを蹴る音が響いた。遠いスタジアムの歓声と、土を踏むスパイクの音。大輝の甲高い笑い声。城島の語る「スポーツ」は、悠樹の知らない土俵で、妻を妊娠させた夜よりも深く、妻の内部を耕している。悠樹の舌は張り付いたままだったが、陰茎だけが、確かに唾液を飲み込むように脈を打っていた。

城島が最後に一際深く突き入れる。妻が仰け反り、喉を引き攣らせ、両手でラグを激しく掻きむしった。城島は「中で出すなよ」と自分に言い聞かせるように喘ぎ、抜き出して、白い尻の上へ射出する。どく、どく、と熱い精液が、妻の背中と腰に筋を作った。生臭い牡の匂いがむわりと膨らむ。悠樹の陰茎は、自分が触れてもいないのに布地の中で浅く脈射したような感覚があった。実際には出てはいない。ただ、痛い。

城島は呼吸を整えながら、そっと妻の背中を拭った。詩織はまだ突っ伏したまま、指先を震わせている。その背中を、悠樹はソファから見つめる。妻は、半開きの唇から細い唾液を垂らし、瞳はとろりと茫洋として、焦点が合わない。夫を見る余裕すらなくなっていた。悠樹は彼女の胎内から零れる粘液の音を、空気の振動として聴いていた。

城島は裸のまま立ち上がり、キッチンへ歩いていく。冷蔵庫の灯りが、彼の浅黒い筋肉に油膜のような艶を這わせた。彼はミネラルウォーターのペットボトルを掴むと、悠樹にも手渡そうとした。悠樹は、自分の指が震えているのを隠すように、両手で受け取った。冷たい水が咽喉を落ちる音が、暗い部屋にやけに大きく響く。城島は悠樹のすぐ横に腰を下ろし、汗に濡れた太腿を組み替え、悪びれもなく笑う。

「俺、こんなに汗かいたの久しぶりだ。大輝くんが寝ててよかったよ。見てるかと思った。それに、詩織さん、お前、顔を隠すな。小森くんが起きてるんだから、挨拶してやれよ」

詩織は身体を起こし、脱ぎ散らかしたカットソーを胸に抱え、うつむいたまま鼻をすすった。悠樹は、妻の白い咽喉に浮かぶ汗と、内腿に光る粘液の川筋を見る。正気の皮を一枚ずつ剥がされていく気がして、吐きそうでもあり、同時にもっと近くで、妻の交情の続きを見ていたいとも思う。ソファの下に落ちた紺色の下着は、まだ黒い染みを広げていた。

空調の風が、悠樹の目の端で乾いた精液の匂いを揺らす。悠樹は息を吐いた。言葉は出ない。代わりに、股間の熱は、いよいよ屈辱とも嫉妬ともつかないかたちで、ジーンズの布を押し上げていた。誰にも触れられていない肉茎が、妻の淫液の匂いに反応して、ずく、と先端に近い部分を震わせる。悠樹は、この感情に名前をつけるのをやめた。

第4章 昇進と引き換えの家族

第4章のシーン

第4章 昇進と引き換えの家族

城島悟がミネラルウォーターを喉へ流し込む音が、薄闇に沈んだリビングの空気を細かく震わせていた。悠樹の手の中で、結露に濡れたペットボトルがぬるりと滑り、冷えた雫が指の隙間を伝って手首の骨の上で小さく弾ける。空調の風は生温く、まるで目に見えない舌が首筋を這うようだった。部屋には、ムスクの甘い残り香と、汗の塩っぽい匂い、それから城島が放った精液の青臭い匂いが層を成し、いまだ換気の追いつかない空気の底に沈殿している。

詩織はカットソーを胸に抱いたまま、ラグの上に小さく蹲っていた。剥き出しの背中が、淡い間接照明を浴びて白く浮かび上がり、その中心を縦断する乾きかけた精の筋は、まるで上薬を流した陶器に走った細い罅のようにも見えた。彼女の肩甲骨は、隠しきれない呼吸の名残で、ひっそりと小刻みに震えている。悠樹には、その震えが自分の心臓の鼓動とどこかで重なっているように感じられた。

「小森くん、何か言いたいことはないのかい」

城島が空になったペットボトルをテーブルに置き、ソファのスプリングを軋ませながら悠樹のほうへ膝を向ける。彼の額には汗の膜が張り、黒い前髪が数本、皮膚に貼りついていた。城島は太い指でそれを掻き上げると、射抜くような茶色い瞳で悠樹の横顔を覗き込んだ。

「怒鳴ってもいい。俺をこの家から蹴り出したっていい。君にはそうする資格が、十二分にある」

その声は不思議なくらいに静かで、なのに耳の奥ではなく胸の奥に直接響いてくるような重さがあった。悠樹はペットボトルを両手で弄びながら、自分の唇がまるで乾いた紙のように張りつくのを自覚する。喉の奥では、いくつもの言葉が鮭の骨のように引っかかり、やがて途中で折れていく。

(怒りなら、確かにある)

なのに、それを声に変えようとした途端、股間の奥の熱が先に脈打って、頭に昇るはずの血を下腹へと引きずり下ろしていくのだ。城島の裸の太腿が、ソファの端からこぼれるように自分の膝の傍らにある。浅黒い皮膚の表面は、湯上りのようにうっすら汗ばみ、酒と、男の肌にしみこんだ煙草にも似た匂いが、鼻腔の奥にねっとりと絡みついた。

「……ぼく、は」

ようやく絞り出した声は、錆びた蝶番のように掠れていた。

「どうしたらいいのか、分からないんです。怒るのが、正しい夫なんでしょう。それなのに、頭のどこかが、こんな場面でなければ感じないような種類の熱を持っていて、自分が、自分の身体が、よく分からなくなっている」

「怒ってはいないのか」

「分かりません。怒っているはずです。でも、その怒りを口にしようとすると、先に身体が、その、正直になってしまって」

悠樹は顔を背けた。自分の頬の内側が火照り、眼鏡の蔓が妙に硬く耳のうしろに食い込んでいる。城島は短い息を吐くと、背もたれへ深く凭れかかった。背もたれの皮が、彼の汗ばんだ背中と擦れて、ぐ、と生々しい音を立てる。それから、詩織のほうへゆっくりと顔を向けた。

「詩織さん。いつまでそうやって隠れてる。話し合いだ。顔を上げて、こっちへ来て座りなさい」

叱るでもなく、命じるでもなく、すでに決まったことを告げるような口調だった。詩織の肩が、弾かれたみたいに跳ねる。彼女はカットソーを胸の前でぎゅっと握りしめたまま、のろのろと腰を起こした。内腿に残っていた透明な液が、青白い膝裏へ向かってとろりと滑り落ち、ラグの繊維へ小さな染みを作って消える。

詩織は二人のあいだへ、正座に近い形で座り直した。目の周りはまだ潤んでいて、目尻から瞼の際にかけて薄い朱が滲む。唇は噛み締めすぎて血を集め、赤黒く腫れ、息を吸うたびにちいさく開いては震える。彼女は数秒の沈黙のあと、両手を悠樹の足元に突き、深々と額を畳に擦りつけるようにして頭を下げた。背中から零れた髪が床へ広がり、剥き出しの項が照明を浴びて浮かんだ。

「わたし……あなたに、ちゃんと、話さなければいけないことが、あります」

その声は震え、ときおり息で途切れながらも、不思議なほど一本の芯が通っていた。

「悠樹のことは、誰よりも大切です。大輝のパパとしても、夫としても。それだけは、嘘じゃなくて。でも、夜だけ、何年も前から、わたし……身体が、寂しかったの。女にしてもらえている実感が足りなくて、でもそれを、あなたに言えなかった。言えるわけがなかった。あなたは毎晩、眠る前、本を読んでくれて、疲れてるのにキスもしてくれて、それで、わたしのなかでは、愛されてることと、女にされることが、いつのまにか別のものになってしまってて」

詩織は一度言葉を切って、床に打ちつけた額をさらに深く押しつけた。髪のあいだに見える白い項が、呼吸とともにゆっくり上下する。

「そこへ、城島さんが来たんです。最初は、ただ、夫の上司で、身体つきが逞しくて、それだけ。でも、あの人に見抜かれた。身体の一番奥で、わたしが何年も飢えてたことを、服を着たまま見抜かれて。それから先は、自分でも……もう、逆らえませんでした」

悠樹は床に落ちた妻の黒髪を見つめた。髪の一本一本が、吐息の気配でかすかに動く。彼は利き手の親指の爪を、人差し指の腹で何度もなぞった。指先だけが忙しく動いて、心の奥のほうに溜まっているものが、言葉として外へ溢れぬよう堰をしているようだった。

「……責められないよ」

喉の奥を開くのがやっとだった。

「うすうす、気づいていた。僕が触れても、お前の身体の、どこか別の場所が、いつも留守になっていることに。いや、身体だけじゃない。心のどこかで、お前が我慢してるって、そう、知っていた。なのに、見ないふりをして、日常に逃げてた」

悠樹は手のひらに残った結露をズボンの膝で拭った。湿度が、指と指のあいだにまだ残っている。

「それで、今朝がた、目の当たりにして。なのに、自分が一番おそろしいのは、あの場面を思い返すたびに、腹の底の熱が、怒りよりも先に頭をもたげることだ。自分でも、自分を止められない。そういう、厭な自分が、僕のなかに確かにいるんです」

城島が片膝を立て、腕を組んだ。分厚い胸板が汗の照りを帯びて、浅い呼吸のたびに持ち上がる。彼はしばらく天井近くの暗がりを見つめていたが、やがて悠樹の目をまっすぐに射抜くようにして言った。

「怒るなとは言わない。恨まれるのも、俺が選んだ道の先にあるもんだ。だが、今この場で決めるべきことは、君がこの先、どう生きたいかってことだけだ。奥さんを叩き起こして離婚を言い渡すのか。何もなかったことにするのか。それとも、今夜の続きを……この家に、同じ食卓ごと許すのか。形を作るのは、君だ。俺でも、奥さんでもない」

悠樹は目を閉じた。暗いまぶたの裏に、つい先刻、リビングの真ん中で起きていた光景が、油絵のようにしっとりと浮かんでくる。城島の太い陰茎に吸い付きながら、華やかに開いた詩織の肉の花。結合部から溢れ、泡立った白い愛液。男の腰の律動に合わせて仰け反り、そこから潮を噴き上げた妻の喉。どれもが、恐怖に限りなく近い興奮を伴って、悠樹の脳裏に何度でも甦ってきた。思い出すたび、脚の付け根が痺れるような熱を孕み、ジーンズの前が押し上げられる。

「離婚は……したくない」

悠樹の声は、自分のものだとは信じられないほど低く、静かだった。

「大輝から、母親を奪うことなんて、できない。それに、詩織ばかりが悪いわけじゃない。俺が、もっと早く、お前の夜の飢えに向き合うべきだった。向き合う勇気のなかった俺にも、責任がある」

「あなた……違うの、違わないけど、違うの」

詩織が顔を上げた。睫の先に、暗さを吸った涙の粒が、いくつもぶら下がっている。

「やさしくしてくれて、寝る前に本を読んでくれて、そんなのは充分、幸せだった。いいえ、幸せだって、ちゃんと思ってた。でも、わたしの一番深い場所は、それでは届かなかった。愛されることと、女にしてもらえることが、どこかで真っ二つに割れてて。城島さんの手が触れた途端、その割れた場所が、燃えるみたいに熱くなったの。もう、自分でも直せない。どっちを選んでも、元には戻れない」

彼女は俯いたまま、指を畳の繊維に引っ掻けた。爪の先が、ひりひりと畳表を擦って、ごく小さな音を立てる。

「先週も、城島さんと大輝と三人でお風呂に入ったんです。大輝が、おじさんとお風呂、はやくはやく、って、わたしの手を脱衣所から引っ張って。何を思ったのか、湯船の中の城島さんを指差して、おじさんのすごいから、ママも見て、って。男の人の、お湯の中の身体を、あんなにはっきり見たことがなかった。熱いお湯の中で、重そうに揺れてて、湯気の奥で、肌がぬらぬら光ってて。恥ずかしいのに、目が、離せなかった。気づいたら、下着のまん中、じんと熱くなって、……自分で確かめたくなるのを、太腿を閉じて堪えてた。大輝をダシにしてあの人を見てた。いやらしい母親で、ほんとに、ごめんなさい」

詩織の耳たぶから首筋、そして鎖骨の窪みへ、羞恥の朱が煮えた葡萄のようにじわりと広がっていく。内腿では、まだ名残のように蜜がくち、と音を立て、彼女自身がそれに肩を竦ませた。

悠樹は、その音から足首まで甘く痺れさせながら、胸の奥で何かが解けていくのを感じていた。怒りは、今度こそ腕の先からすっと抜けていく。だが、その代わりに、腹の底を逆撫でするような劣情が、背骨に沿ってじりじりと這い上がってくる。悠樹は深く息を吸い、死んだ魚のような声で告白した。

「正直に言うと、俺は、さっき見て……興奮した。最愛の妻が、他の男に貫かれているところを、この目で、噛み締めながら見て、感じていた。怖気が走るのに、目が離せなかった。そんな自分が、どこまでも汚らわしい。なのに、それ以上に、この先も、もっと見ていたい。そう願っている、厭らしい自分が、この胸の奥に確かに棲んでるんです」

リビングに、しん、と静寂が降りた。

空調の吹き出し口が、微かに空気を吐き出す音だけが、やけに大きく耳の奥で響く。城島は黙って悠樹の言葉を噛み締めていた。彼は手の甲で汗ばんだ額をぬぐい、そのまま顎を撫でる。やがて、喉の奥に砂金を溶かしたような、深くて、湿った笑みが漏れた。

「清々しいな、小森くん。そういう本音を聞くのが一番いい。人間の欲に、綺麗も汚いもない。ただ喰うか、喰われるか。抱くか、抱かれるか。そういう単純な熱が、夜空いた場所に火を入れるんだ」

城島は、ゆっくりと悠樹のほうへ手を差し出した。大きな掌が、暗いリビングの空気を掴むように開かれ、指の節々が、油を薄く引いたように光っている。

「俺は、会社でお前を下から押し上げてやれる。次の査定、お前をマネージャーに上げちまおう。大輝くんの運動靴も、お前の背広も、詩織さんの下着も、文句なしにお前の稼ぎで買えるようになる。そのかわり、夜の詩織さんは、俺が目いっぱい汗をかかせて、お前の前で女の花を咲かせてやる。俺にとっちゃ、願ってもない契約だ。悪い取引じゃないだろう」

悠樹は差し出された手を見つめた。太い指、節くれ立った関節、深い手のひらの皺。その指が、今朝、そしてたった今も、妻の肉の襞を掻き回していた。その手の甲の血管が、悠樹の目の前でどくどくと脈打っている。一瞬、頭の芯に鋭い痺れが走り、舌の裏に甘い唾液が湧いた。

(この手を、取ってしまったら)

(もう後戻りはできない)

(できない、いや、できなくなる道を、俺は選ぼうとしている)

悠樹は、もう一人の自分が肺のなかで笑うのを聞いた。彼は腕を持ち上げる。動きは、ひどく緩慢で、契約の重さに押し潰されているかのようだった。

城島と握手を交わした瞬間、掌に残っていた汗と、埃と、微かな精液の匂いの混ざった粘液が、二人の手のひらのあいだで糸を引いた。城島が、ぐ、と握り返す。骨が、軋むほどではなかったが、服従を確認するには充分な強さだった。

「なあ、詩織さん。夫公認のスポーツだ。もう泣かなくてもいいだろう。顔を上げて、亭主の目を見な。ここに、お前の帰る家は残るんだ。誰も壊したりしない」

城島の声は、諭すようでいて、鼻先で笑う余裕が混じっていた。詩織は、おずおずと顔を上げて、まず悠樹を見た。濡れた瞳が、夫の顔色を窺うように揺れている。悠樹は、ほんの小さく、しかし確かに、頷いた。何を是認しているのか、言葉にはできなかった。自分でもよく分かっていなかった。ただ、妻の下唇がふるりと震え、瞳の際から涙の粒がこぼれ落ちるのを見た瞬間、胸のいちばん浅い場所に、生ぬるい水が流れ込むのを感じた。

それは羞恥でも、悲痛でもなく、長いあいだ固く塞がれていた水門が開いたとき、最初に溢れ出る古い水の温度に似ていた。

城島が身を乗り出し、詩織の腕を取って引き寄せる。彼女の手からカットソーが滑り落ち、昼の白い肌が、浅黒い男の腕のなかに半ば沈む。乳房のやわらかな肉が彼の胸板に押し潰され、谷に浮いた汗の玉が、揺れるたびに光った。城島は空いた掌で彼女の尻をまさぐり、臀肉をゆっくりと割って、そこに残っていた愛液を指の腹で掬い上げる。ぐち、と、湿った音が、静かなリビングにやけに明瞭に弾けた。

城島は指を自分の鼻先へ運び、深く、音が聞こえるほど匂いを吸い込んだ。

「いい匂いだ。女の熟れた実が、こうも匂うとはな。小森くん、お前も嗅いでみるか。お前の奥さんの、腰の奥で煮詰まった蜜だぞ。牡を呼ぶ匂いがこうして立ってる」

悠樹は、首を振ることも、頷くことも、何ひとつできなかった。代わりに、喉仏が持ち上がる。ごくり、と蛙が鳴くような嚥下の音が、喉の奥で潰れた。

(嗅ぎたい)

(妻の匂いを、俺も)

(なんてことを)

脳裏を過った三つの短い感情が、舌の上で泡になって弾けた。城島は、悠樹のそんな内面を透かすように笑った。それから詩織の顎を軽く持ち上げ、唇を貪るように合わせる。唾液が混ざる下品な水音が、悠樹の耳栓をしていた何かをこじ開けていく。妻の舌と男の舌が、薄い粘膜の音を立てて絡んでいる。その音だけで、悠樹の陰茎はジーンズの下で疼き、先端のあたりにだけ汗とも汁ともつかぬ湿りが滲みはじめた。

「……ん、ちゅ……や、んん……」

詩織の鼻にかかる声が、リビングの空気を甘く震わせる。城島は彼女の下着を既に脱がせていたことを思い出したように、太腿のあいだへ手を差し込んだ。そして、彼女のすでに潤み返った淫部を、悠樹に見せつけるように押し開く。

「ほら、小森くん。お前の女房の肉が、こんなに花開いてる。まだ愛液が絶えやしない。さっき俺が散々掻き回したってのに、舌だけでまた溢れてきてるんだぞ。これはもう、俺の味を覚えた女の身体だ」

目に入ってきたのは、昼間、風呂場の湯気の向こうで垣間見たよりも、もっと生々しい情景だった。赤く膨らんだ花弁の内側では、蜜にまみれた襞が呼吸するようにひくひくと蠢いている。小陰唇は充血して寝起きた鳥の嘴のように尖り、頂点の芽が、ぷっくりと透き通るほど張りつめていた。肉の隙間から、とろりと零れた雫が、尻の割れ目へ流れて、銀色の筋を残す。悠樹は、その景色を網膜に焼き付けるように見つめながら、頭のどこかで、まだ妻の心配をしている自分に冷笑を向けた。

(心配ではない。俺はただ、この先も、彼女が目の前で犯されるのを見ていたいだけだ)

「……ひどい、ことを……あ、ん……指が、あた、る……」

城島は、ぬかるみに沈めるように二本の指を膣口へ差し込んだ。じゅぷり、と、狭い入り口が音を食べる。詩織の腰が、ぐっと浮き、裸の尻がソファの端に打ちつけられた。彼女の両手が城島の背にまわり、薄く爪を食い込ませる。

「中で、吸い付いてくる。こうして擦るたび、とろけた蜜が溢れて、指の付け根まで濡れた。……なあ、詩織さん。お前のご主人の前だぞ。どこを擦られたら、声が零れるのか、自分で言ってみろ」

「や……、……い、言えない……ぅ、そこ……ふかい、奥……うぅん、指、まがっちゃ……」

「奥の、どこだ。ぼんやり逃げるな。お前の口から聞きたい。散々しゃぶった舌で、夫の前で、正直に言ってみせろ」

城島は指先を腹側へ曲げ、ごり、ごり、とぞんぶんに中を掻き回した。ぐちゅ、ぬちゃ、ぐぽ、という粘液の音が、リビングの静けさを甘汚く犯していく。

「ひ、ああっ……奥の……奥の、ざら、ざらした、うえのところ……っ、……そこ、先っぽで、り、こすられると、……おへその下が、熱くなって、……あ、もう、また、汁、出て、……んんっ、見ないで、悠樹、見ないで……なのに、見て……見て、て……」

詩織の懇願とも、屈服ともつかぬその声は、悠樹の下腹を射抜いた。逃げているのか、誘っているのか。彼女自身、どこへ向かって言葉を吐いているのか分からなくなっている。女の身体は、夫の視線そのものを、自分の快楽を燃え上がらせる薪として受け入れ始めていた。悠樹には、その変化が痛いほど分かったし、分かってしまう自分が、また胸の奥で熱く噎せ返った。

(彼女の言葉の中に、俺の名前がある)

(それだけで、ぞわぞわと背筋が泡立つ)

(見てて、と言われたわけじゃない)

(でも、俺は目を離せない)

城島は指をぎちぎちに窄まった中からゆっくりと引き抜いた。内壁が名残りを惜しむように締まり、肉の輪が、にゅぷ、と指先を吸ってはなかなか離さない。ぬらぬらと光る指を、城島は自分の腹へ一度擦りつけ、それから悠樹の目線の高さへ掲げた。

「この匂いだ。さあ、どうする、小森くん。嗅ぐだけでいい。お前の妻が、お前の目の前で、どれだけ俺の指を噛んでいたか、知るといい」

悠樹は、まるで吸い寄せられるように、数センチだけ顔を近づけた。鼻の奥に、つん、と貝を開いたときの匂いが届く。海の生温さと、汗ばんだ肌の匂い、それからかすかな果実の腐りはじめの甘さ。それは、この家で何年も嗅いできたはずの、けれど初めて輪郭を持って迫ってくる、女の性の匂いだった。

(嗅いでしまう)

(こんな自分を、妻に見られている)

(それでも嗅がずにいられない)

悠樹は、目を開けたまま、もう一度だけ深く息を吸い込む。鼻腔が熱を持ち、脳の奥がじんと湿った。城島は満足げに口角を持ち上げ、直立すると、悠樹の前へ悠然と立った。彼の陰茎はすでに重く勃ち上がり、下腹へ浅黒い影を落としている。その屹立を、落ちたカットソーの上から、詩織の濡れた瞳が追っている。部屋の空気が、一気に濃くなった。

「小森くん。俺はこれから、お前の奥さんに喰らいつく。あの下草の奥も、こうして開いた花弁も、裏の窄まりも、片っ端から舌で味わってやる。文句があるなら、今この瞬間に、止めるといい。ただし、止めても、この家の中の空気は、もう戻らないだろうがな」

悠樹は、潰れそうな唇を引き結び、爪が手のひらに食い込むほど拳を握った。そして、まるで他人に言わされているような、乾いた声を落とした。

「……止められるものなら、とっくに俺が止めています。今さら、彼女の尻をどかせる男が、ここにいませんよ」

城島は薄い笑みを唇の端へ這わせ、ソファへ片膝をついた。それから片手で詩織の下腹を押さえつけ、逆の手で彼女の太腿を大きく開かせる。詩織は逃げようとしたが、力はまるで抜けていた。逃げる仕草だけが、水中の夢のように緩慢で、むしろ男の舌を待つように腰が浮いている。

「あ……んむ……や、舌、熱い……ひ、あっ……クリ、いま、……こ、こすっちゃ、だ……だめなのに、……っ」

城島の舌が、濡れた肉の割れ目を下から上へと舐め上げる。れろ、ちゅる、と、生温かい水音が悠樹の耳を嬲った。厚い舌が、花弁を開かせ、充血した肉芽を先端で捏ねるたび、詩織の腰が小刻みに跳ね、太腿がぴんと張っては空気を蹴る。白い足の裏が、悠樹の目の前で二度、三度と弧を描き、そのたびに籠もった愛液の匂いが、僅かに動いた空気に乗って届いた。

「ひ、あ、……見て、悠樹、見て……わたし、ぜんぶ、見られて……舐められて、……もう、あたま、あつくて、……い、く、……いく……いくっ、いく……!!」

詩織は首をのけぞらせ、胸を擦りつけるように天井へ突き上げた。太腿の内側が、ぶるぶると痙攣して、ソファの縁から足の甲がはみ出る。城島は彼女の蜜を追いかけるように舌を深く入れ、喉を鳴らし、溢れた液を音を立てて啜った。小陰唇を唇で吸い上げ、肉芽をしごくように舌先で嬲り、彼女の腰に浮き沈みの波を連続して与えていく。悠樹の耳には、彼女の分泌液と男の唾液が混じり合う音さえ、淫らな祝詞のように神聖で、けれど救われないほど生々しかった。

悠樹自身は、まだ果ててもいない。だが、先端から滲み出た液が下着を湿らせ、太腿のあいだへ冷たさを走らせていた。彼はジーンズの前立ての上で、自分のものの形が、布を押し上げてくっきりと浮かんでいることを、悟られぬよう両手で膝を握る。指先が、まるで他人の体温のように熱く、ふるふると震えていた。

(触ってはいけない)

(ここで触れたら、自分が何者か決めてしまう)

(いや、もう、とっくに決めているのかもしれない)

城島が上半身を起こしたとき、彼の顎と唇の周りは、詩織の愛液で一面に濡れ光っていた。まるで旬の果実に歯を立てたあとのように、深い笑窪のあいだに泡の名残rが白く残っている。彼は手の甲で口を拭い、悠樹に背を向けるようにして、詩織の両脚を持ち上げた。膝裏を太い腕で抱え、腰を浮かせ、自分自身の屹立をその開いた窄まりへ擦りつける。ぐち、と先端が汁を含む音がして、詩織の腰が切なげに揺れる。

「お前の夫に、しっかり見せてやれ。どこから悦んで、どこから汁を溢れさせるのか。お前の一番深い場所が、俺に何を囁いてるか、全部、声にしてお前の男へ聞かせるんだ」

城島の腰が、ゆっくりと前に押し込まれる。ずぶり、という挿入の音は、悠樹の耳蓋を通り抜けて、直接、腹の底を震わせた。あれほど深く、重く、肉の襞が押し広げられる音を、自分は一生忘れないかもしれない。詩織の口が、呼吸の形にならない息を漏らし、背中が大きく反る。長いあいだ塞がっていた道を、異物が根元まで埋めていく。

「あっ……、おく……とどいて、……あ、あああ……」

城島は、逃さない、とでも言うように彼女の腰を引き寄せ、抽送を始めた。ひと突きごとに、ソファの脚がフローリングを擦り、皮膚と皮膚がぶつかる乾いた音が、リビングの壁を這う。詩織の乳房が大きく波打ち、白い腹の奥を、城島の肉の形が通っていくのが、外から見ても判るほどだった。悠樹は、彼女の太腿のあいだで、男のものが出入りするたびに、妻の肉襞が外側へめくれ、白く泡立った蜜を根元へ溢れさせる様を、瞬きもせずに追い続けた。

「小森くん。俺はこのまま、彼女の細い輪を、明日の朝には歩けなくなるくらい壊してやる。汁も、声も、全部、窓の外へ漏れるような真似をお前の前でさせる。お前の妻は、そうされるたびに、全身で俺の肉を噛みちぎるんじゃないかってくらい締めつけてくる。なあ、そうだろ、詩織さん。お前の子宮の入り口、さっきから俺の先端に口づけしてるぞ」

城島の言葉は、汗にまみれ、息を弾ませながらも、底冷えするほど明瞭に悠樹の耳へ届いた。悠樹は、ジーンズの上から、もう自分の熱のかたまりを掴んでいた。指が、勝手に動きはじめる。布越しに、硬く反り返った陰茎の形がはっきりと伝わってきて、触れた瞬間に、膝の力が抜けるほどの悦さえ走った。

(妻が、俺の目の前で、また、犯されている)

(俺は、それを見ながら……)

(ああ、手が、止まらない)

悠樹の耳の奥では、城島の笑い声が、まるで遠い潮騒のように反響していた。男の笑み、妻の切なげな鼻声、肉襞の潰れるぬかるみ、汗の跳ねる気配。それらすべてが、悠樹の股間へ流れ込み、指の動きを早くさせる。彼は、自分が妻の不貞から目を離せないだけの夫であるということを、今初めて、身体の底から肯定している。哀れで、悔しくて、情けなくて、それでも呼吸の甘い泡が、喉の奥でひとつひとつ弾けるのを止められなかった。

「……あ、あ、もう、深い、……とまらない、……わたし、ほんとに、おかしく、なっちゃう……や、……そこ、子宮、なか、……あたって、る、……ぅ、んん、悠樹、悠樹ぃ……」

詩織が夫の名を呼ぶ。それが、救いなのか、それともさらに深く突き落とすための鍵なのか、悠樹にはもはや区別がつかなかった。城島は彼女の片脚を肩へ担ぎ直し、体重をかけるように奥へ突き入れた。ぐぼ、ぐぽ、と、存分に泡立った結合部が音を鳴らし、妻の喉から「ひぃっ」という短い悲鳴が上る。腰が跳ね、爪先がきゅっと丸まり、彼女の腹の奥が、男の形に削られていくのが目に見えるようだった。

やがて城島が、突然、ずるり、と身を引いた。ぬぷ、と空気を孕む砕けた音が、静かに落ちる。詩織の膣口は、塞がれていた熱の喪失に、ぱくぱくと物欲しげに開閉し、とろりと蜜を零した。城島は、彼女の白い腹へ、濡れたそそり立つそれを押し当て、逞しい指で肉茎を扱き上げはじめる。

「今夜は中に出しはしない。約束だからな。その代わり、お前を孕ませるならこの辺りだぞ、っていう、へその下の窪みに、たっぷり刻んでやる。よく見ていろ、小森くん。お前の妻の腹に、俺の種の匂いがどこまで染みるか」

悠樹は息を呑み、前のめりになった。城島の手の動きは、獣じみていた。ねじり上げるようにしごき、絞り出すように最後の一搾りを加える。どく、どく、と脈打つような吐精の音が、白濁の飛沫を伴って、詩織の下腹のくぼみへ叩きつけられる。熱い精液が、彼女の臍の縁を埋め、下腹から腰へかけて、白い川をいく筋も作っていく。むわり、と青臭い花の腐りかけたような匂いが立ち上り、それが悠樹の顔へ届いた。

(ああ、匂いが)

(城島の精の匂いが、妻の肌の上で)

(俺の、一部のようになっていく)

悠樹も、ジーンズの中で静かに達していた。下腹がどくん、どくんと疼いて、じわりと広がる濡れが、太腿の裏を汚していく。身体を走るのは、後悔と、侮蔑と、けれど抗いようのない快楽が、焼けつく岩肌を伝う水のようにひとつになった痺れだった。彼は声を殺し、唇の内側を噛んだ。眼鏡が汗でずれ、世界が一瞬、斜めに滲む。

部屋の隅、大輝の小さな寝息を包む寝室のドアが、蟻の這うほどの隙間だけ開いていることに、悠樹はそのとき初めて気づいた。心臓の位置を確かめるような、ひどく苦しい眩暈がする。息子の、あの無垢な耳に、今の音が届かなかったことが、せめて痛い。それでも、冷たい廊下の空気がリビングへ忍び込み、三人の火照った皮膚を、まるで見知らぬ指先のように撫でていく。

三人は、言葉を失った。

誰からともなく、沈黙が、泥のように重たく、部屋の中央へ淀んでいく。かすかに鳴る空調、遠くで冷蔵庫がひとつ息をつく音、三つの乱れた呼吸。肌の火照りだけが、まだ、ゆっくりと冷めやらずにいた。

第5章 カメラ越しの絶頂、白い朝

第5章のシーン

# 第5章 カメラ越しの絶頂、白い朝

## 一

朝の社屋に満ちる空気は、蛍光灯の唸りと無数のキーを打つ音で薄く濁っていた。窓硝子の向こうでは初夏の陽がアスファルトを焼いているのに、フロアに満ちるのは換気扇が攪拌し続ける生ぬるい淀みばかり。悠樹はデスクの隅で、クリップボードに挟んだ進捗表へ視線を落としている。数字の並びを追う目は乾き、指先だけが微かに汗ばんでいた。紙の端をめくるたび、誰かに後ろ姿を見られているような感覚が背中を這い、首筋の産毛が逆立つ。

彼は顔を上げなかった。上げれば、廊下を挟んだ向かいの島から流れてくる若い社員たちのひそめた声の断片が、はっきりと輪郭を持って耳に届いてしまう。部長、小森、奥さん、泊まり、という鈍い音の粒が、個別の意味を成す前に空気へ溶けていくのを、彼は蛍光ペンのキャップを親指で何度も開閉しながらやり過ごしていた。カチッ、カチッ。硬質のプラスティックが噛み合う小さな音だけが、彼の呼吸を縁取る。胸の奥では、泥を啜るような倦怠がゆっくりと嵩を増していた。

城島悟が部署の入口に現れると、室内の私語が一瞬だけ水位を下げた。彼は相変わらず濃紺のスーツを肩に馴染ませ、浅黒い顔へ笑みの薄皮を張っている。革靴の底がフロアを踏むたび、磨き抜かれた踵の音が軽やかに響いた。日焼けした額はつやつやと光り、短く立てた黒髪の先端が、空調の風にごく僅か揺れる。新人の女性社員が頬を染めて会釈し、主任の男がぎこちなく頭を下げる。城島はその一人ひとりの肩へ、大きな掌をぽん、と落としていく。まるで獲物の調子を値踏みするかのように、しかし笑みだけは気さくだ。

悠樹のデスクの前で足を止めた城島は、片手をパーティションの縁に載せ、ゆっくりと体重を預けた。彼の身体が近い。制汗剤と、その下に潜む男の皮脂の匂いが、悠樹の鼻腔を小さく刺した。

「小森くん、今日は稟議書、あがってたかい。あとで目を通すから、会議前に回してくれ」

声は朗らかで、しかし耳の奥へ粘るような低さがある。悠樹は顔を上げ、城島の胸元に視線を留めたまま応じた。

「はい。いま、最終確認をしておりまして、三十分ほどでお持ちします」

「ああ、急がなくていいぞ。昨日の夜は遅かったろう。大輝くんは朝、ちゃんと起きられたか」

悠樹は、じわりと首の裏に汗が滲むのを感じた。額の生え際を冷たいものが伝い、ワイシャツの襟が湿り始める。城島の口にする「昨日の夜」が、会議でも取引先でもなく、妻の裸身と粘膜の記憶を指していることは、当人同士のあいだで隠しようがない。隠しようがない、という事実そのものが、また彼の内臓を重くした。周囲の耳が、また少しこちらへ傾いた気配がする。聞き耳を立てる同僚たちの好奇が、空気をひりつかせる。

「……ええ。あの子は、朝に強いので。ボールを蹴る音が、うるさいくらいでした」

「はは、いいね。今度、わが家の庭でリフティングでも教えるかな。いや、庭はないか。近所の公園で、少しだけ」

城島は悠樹の肩をぽんと弾くように叩いた。その掌の熱が、スーツ越しに肩甲骨のあたりまで浸透してくる。大きな指の腹が、まるで昨夜も別の肌で何かを掴んでいた痕跡を残すように。

「おっと、悪いな。仕事の話だった」

「いえ……どうぞ、お気になさらず」

城島は踵を返し、自分の席へ歩いていく。悠樹はその後ろ姿を、尻の山がスーツの生地を押し上げる様まで見てしまい、慌ててパソコンの画面へ視線を落とした。数字の列が青白く滲む。どれほど目を凝らしても、数字は背後の視線をかき消してはくれない。彼はマウスを握る右手に力を込め、クリック音だけを規則正しく鳴らした。

昼休み、エレべーターホールの自販機の前で、総務の女たちがタブレットを囲んでいた。彼女たちの指先が地図アプリをなぞり、緑色のピンが小森家の住所を指す。悠樹は缶コーヒーを買い、壁の鏡に映る自分の顔を盗み見た。黒縁の眼鏡の奥で、暗い茶色の瞳が落ち着きなく左右へ動く。口元は笑おうとして失敗し、頬の肉が引き攣れている。彼は缶のプルタブを起こし、炭酸のようでもない薄い苦味を流し込んだ。胃に落ちる液体の温度が、ぬるく食道を這い下りる。

帰りの電車内、つり革に掴まる指先へ、スマートフォンの振動が伝わった。詩織からだろう。着信を知らせる青い光が、車窓の夕暮れを背景に瞬いている。開くと、短いメッセージ。

〈今日はシチューにしたよ。大輝が、おじさん来る日じゃないのって三回聞いたの〉

悠樹は指先で返す。〈そっか。今日は来ないよ〉。送信してから、この「今日は来ない」が自分を慰めているのか、それとも落胆を隠しているのか、判別できなくなった。送信済みの文字は彼の手の中でぼんやりと光り、電車の揺れに合わせて画面の明るさが揺らぐ。向かいの席で学生が漫画を読み、吊り広告が夏の缶ビールを鮮やかに訴えていた。車輪の軋みが、トンネルへ吸い込まれるたび、耳の奥で遠い夜の音が蘇る。

最寄り駅からマンションまでの道すがら、夕暮れの空が団地の向こうで橙色に染まっていた。鉄塔の影が長く伸び、湿気を含んだ風が、額の汗を生ぬるく乾かしていく。公園のフェンス越しに、少年たちのボールを蹴る音が、アスファルトへ弾んで消える。パン、パン、と規則的な音。悠樹は不意に立ち止まり、その音を聞いていた。

かつて大輝が、城島からもらったユニフォームを着て、同じ音を追いかけた日を思い出す。ボールの弾む音。芝を蹴るスパイクの土。靴紐の結び目。汗で濡れた前髪。そのすべてが、いつしか妻の身体の深部で繰り返される律動と重なっていた。城島の腰が妻を打つたび、大輝の蹴るボールが弾む。肉と肉のぶつかる音が、夕暮れの公園にまだ残っているような気がした。悠樹は眼鏡の蔓を指で押し上げ、歩き出す。足元の影が、橙色の地面に薄く張り付いていた。

家に帰ると、玄関先で近所の母親らしき女が、詩織と何か話し込んでいた。女は花柄のシャツにカーディガンを羽織り、買い物袋を下げた詩織の前で、顔を少し傾げている。悠樹の足音に気づくと、あいまいに会釈して、足早にエレベーターへ消えていった。かすかに柔軟剤の匂いが、廊下に残る。

詩織は淡い苦笑いを浮かべ、エプロンの裾を整えた。腰まで届く黒髪が、黄昏の光を吸って艶を帯びている。色白の頬は、夏の湿気でほんのり赤み、喉元の小さな黒子が、汗の薄い膜に浮いていた。

「おかえりなさい。いま、大輝が公園で蹴ってるのを少し見ててくれたみたいで」

「……そう。ご近所さん、なにか言ってた?」

「ううん。ただ、『大きなお友だちがよく来てるわね』って。城島さんのことだと思うけど、わたし、あいまいに笑っておいた」

詩織の声は明るいが、目尻に硬さが宿っている。口の端の笑みが、作られた形のまま固定され、白い歯がちらりと覗いた。悠樹は靴を脱ぎながら、彼女の後頭部に結んだ髪の、うなじに浮く細い毛が逆立っているのを見た。汗か、それとも緊張か。その産毛の一本一本を、彼は玄関の薄明かりのなかで数えるように眺めた。

リビングでは、大輝がサッカーボールを抱えてテレビの前に座っていた。青いレプリカユニフォームの背中には、白い背番号。大輝は悠樹を見ると、前歯の隙間から息を漏らして笑った。

「パパ、おかえり。ねえ、おじさん、こないだの続き、まだ教えてくれてない。こんどいつ来るかな」

「……いつだろうな。でも、もう外は暗いから、今日はボールを蹴らないで、手で転がすだけにしよう」

「えー、蹴るやつがいい。だって、おじさん、かっこいい蹴りかた、してくれるもん」

悠樹は大輝の柔らかな髪を撫でた。刈り上げた襟足の、触れると少しだけ固い毛の感触。彼の抱えるボールの皮の匂いが、汗と土と乾いた空気の混ざった匂いが、胸いっぱいに広がる。夜が更ければ、この腕の中の体温は眠り、別の部屋で男と女が肉を重ねる音を、壁一枚隔てて聞くことになる。悠樹はその予感に、腹の底のほうがむず痒く熱を持つことを、もう否定しなかった。むしろ、その熱の在りかを確かめるように、大輝のボールへ手を添え、ゆっくりと転がす。ボールは畳の目を縫うように転がり、低い衣擦れの音を立てた。

## 二

週に一度の、城島が泊まる夜。

詩織が大輝を風呂に入れ、絵本を読み聞かせ、二人分の寝息が児童室のドアの向こうで規則正しく重なるまで、悠樹はリビングのソファで、観たいはずのないニュース番組へ視線を泳がせていた。画面のなかでは、どこかの国で火事があり、円相場が動き、野球選手が逆転打を放つ。それらすべてが、彼の鼓膜を素通りしていく。彼の耳は、これから妻が男に開かれていく気配を、部屋の空気の濃度から先に聴き取ろうとしていた。

二十二時を過ぎた頃、城島が現れた。チャイムの音は、いつもより硬質に、しかし控えめに響く。詩織が玄関へ走り、お帰りなさい、と小さく言う。悠樹はソファから立ち上がり、二人を迎えた。城島は濃紺のスーツを脱ぎ、黒い開襟シャツの襟を寛げている。首元から胸元へかけて、浅黒い肌がのぞき、香水の代わりに、男の汗と柔軟剤の混ざった匂いが漂う。胸板の厚みは、薄い生地を通しても、呼吸のたびにふたつの山を描いた。

「どうも、今夜もお邪魔します。大輝くんはもう夢の中かな」

「ええ。今日は公園でかなり走ったので、ぐっすりだと思います」

悠樹は、自分の声が平然としていることに、内心で薄ら寒いものを感じた。城島は笑みを深め、詩織の腰へ、さりげなく掌を滑らせる。挨拶のような、所有を確認するような一瞬の接触。詩織の睫毛が震え、彼女の白い喉が、小さく上下した。

「じゃあ、飲みながらにしましょう。といっても、僕は濃いのお呼びじゃないから、君は好きなものを」

城島の言葉に、悠樹は台所へ立ち、焼酎の瓶と氷を用意した。グラスに角氷が落ち、カラン、と澄んだ音が二つ。台所の蛍光灯の下で、氷の表面に無数の細かい泡が弾ける。リビングに戻ると、城島は既にソファの背へ腕を投げ出し、詩織は隣で、白いカットソーの裾を気にしながら座っていた。服の上からでも分かる、ふっくらと厚みのある胸の稜線。ホットパンツから伸びる白い太腿が、男の膝の傍らで、月明かりのようにひっそりと光っている。

会話は、当たり障りのないものだった。仕事の話、大輝の幼稚園、近所の評判。しかし、その表層の下を、粘つく沈黙がゆっくりと流れている。悠樹は、自分がこの場にいる必要など最初からないのだと、氷が溶けていく音を聞きながら悟っていた。城島は時々、詩織の後ろ髪を指先で払い、そのうなじの黒子を、目で舐めるように眺める。詩織は膝の上で両手を組み、解かない指を、解いたり組んだり繰り返した。

二十三時。城島が、今夜のホテル代わりの部屋へ妻を伴って消える。寝室のドアが、ごく小さな音を立てて閉まった。悠樹は、リビングの明かりを消し、書斎兼用の小部屋へ足を踏み入れた。

モニタの明かりが、暗い室内に青白く揺れている。机の上には、城島が手配したらしい小型カメラの受信機と、ヘッドホンのコードが無造作に置かれていた。カメラはすでに、寝室の壁の隅、本棚の上の、一見して何の変哲もない木箱の影へ取り付けてある。いや、取り付けたのは悠樹でも城島でもなく、この生活が始まった夜に、城島が半ば強引に押し付けた「お楽しみ」の道具。悠樹は椅子に腰を下ろし、受信機のスイッチを押した。微かな起動音が鳴り、画面が白い砂嵐を経て、暗い寝室の映像を結ぶ。

ヘッドホンを装着する。耳を覆うパッドが、くぐもった部屋の音を閉じ込め、血管の鼓動を拾い始める。自分の心臓の音が、海の底で聞く遠い脈のように、左右の耳を交互に打った。やがて、ヘッドホンの奥から、別の音。布の擦れる音。男の低い笑い声。そして、女の浅い吐息。

画面のなかは、寝室のベッドが薄い豆電球に浮かんでいる。城島は先に裸で、ベッドに背をもたせかけていた。その浅黒い肌には、空調の冷気が薄青い汗を浮かべ、胸板の起伏はゆっくりと深い。腹筋の凹凸を横切る、濃い体毛の影。太腿のあいだで、すでに半ば勃ち上がった陰茎が、彼自身の腹へ重たげに寄りかかっている。

詩織は、画面の端から現れた。膝丈の白いカットソーを脱がずに、その下は裸であることが、太腿の間の影から分かる。彼女はベッドへ乗り、男の太腿を跨いで座った。モニタの解像度が粗いせいで、肌の白さが陰影のなかでにじんで見える。白い布の裾が、彼女の臀を半分隠し、半分は肉の円みを露わにしていた。悠樹は、受信機の脇に置いた小型の録画用外付けドライブが、赤いランプを点滅させているのを指先で確かめる。

彼は、この夜を録画するようになった。無論、初めはただの観察だった。しかし、一度も録画などしていては、あとで一人で見返せない。悠樹は、都合を狂わせる湿度の問題で録画が乱れた日、翌日の夜、一人の布団で手を動かしながら、記憶のなかの映像を再生した。解像度の低い記憶では足りず、鮮明な、何度も巻き戻せる映像が欲しいと思った。その夜から、彼は毎回これを回し、翌朝、妻が幼稚園へ大輝を送り、城島が出社したあとの空っぽの家で、もう一度自分だけのために再生するようになったのだった。

再生ボタン、ではなく、録画ボタン。彼は指先で、静かに押し込む。機械が、彼の陥落を黙って記録し始める。

城島の手が、妻の乳房の下からカットソーの布へ滑り込み、めくり上げる。画面のなかの詩織が、喉をくっと反らした。白い胸が、豆電球の光を吸って浮かび上がる。ふっくらと厚みのある乳房。城島の大きな掌に、先端の薄い色の乳首が、ゆっくりと硬く立ち上がっていく。ヘッドホンに、彼女の浅い呼気が、遠い風のように流れ込む。

悠樹は、自分のズボンの前を寛げ、下着の上から屹立を握った。それはもう、この夜の日課だった。モニタの明かりだけが、自分の指の動きを照らしている。彼はモニタに映る光景を、息をするように受け入れていた。画面のなかでは、城島が妻の乳首を唇へ含み、舌先で転がしている。ちゅる、ちゅちゅ、という水音が、モニタの解像度を超えた鮮明さで、彼の耳を舐めた。

城島が妻の腰を引き寄せ、自分の腹の上へ落とす。画面のなかで、妻の両腿が開き、白い太腿の内側が光った。汗と愛液の膜が、薄く張った内腿の皮膚へ、銀色の筋を描く。城島が何か低く囁く。ヘッドホンが、その声の振動を拾い損ねて、代わりに、くちゅり、という粘液の鳴る音をはっきり届ける。悠樹は肩を丸め、モニタへ顔を近づけた。妻の股間を覆う陰毛の薄い影が、男の指でかき分けられていく。太い指が、まだ閉じたままの割れ目を、ゆっくりと左右へ押し広げる。画面の中心で、詩織の性器が、濡れた花弁のような襞を露出させた。

悠樹は画面を注視し、その皺の一本一本までを、粗い映像の向こうへ想像で補った。城島の指が、ぬめる襞をなぞるたび、妻の腰が小さく跳ねる。ぬる、ぬちゅ。液の櫂が、肉と肉のあいだを掻き分ける。詩織の指が、男の肩を掴み、白い爪が浅黒い肌へ食い込んだ。

「……ん、あ……だめ……おと、しちゃう……」

詩織の声が、呼吸に崩れながらヘッドホンを濡らす。城島の指が、彼女の窄まりへ二本まとめて潜り込み、ゆっくりとかき回す。ぐちょ、ぬぷ、と液が指に絡む音。悠樹は手の動きを速め、下着を汚さぬよう、根本を強く握り込んだ。モニタのなかの妻が、背を反らし、カットソーの下で乳房が大きく揺れる。胸の先が、布を押し上げ、張り詰めた乳首の形がはっきりと分かる。白い生地の下で、淡い乳輪が透けて見えるようで、悠樹は喉を鳴らした。

城島の陰茎が、妻の臀のあいだに立ち上がっていた。ぼやけた画面でも、その太さと先端の丸みが、別の生き物のように脈を打って見える。悠樹は、あれが自分の知らない形の欲望であることを、毎度のように思い知った。城島は妻の腰を高く持ち上げ、充ちた先端を彼女の入口へ押し当てる。そして、一息に沈めていく。ずぶ、ずぶ、と、重い挿入の音が、ヘッドホンの中で粘液の飛沫を上げた。

「あぁ……っ、おく……っ、とど、……ひぁん……!」

詩織が乳白い喉をのけぞらせ、背中をしならせる。腰から背骨にかけての曲線が、豆電球の淡い光を弾いて波打った。城島は腰を下から突き上げ、彼女の肉襞を根元まで割り開く。画面の中央で、二人の結合部が、黒い影をぬらぬらと光らせた。男の屹立が、女の肉の襞を引き連れて出入りするたび、白い輪が根元へ巻き上がる。

悠樹は息を詰め、手首の角度を変える。亀頭の先から先走りが溢れ、手のひらを濡らした。妻の甘い声を、城島の下卑た囁きが追いかける。

「……奥がすぐに咥え込んでくる。俺の形を、もう覚えたみたいだな。ほら、見えるか、溢れて泡になってる。お前の沸いた汁だ」

城島の声は、悠樹に聞かせるためのものではなく、壁を隔てた別室の耳へは届かない低さだった。だが、モニタに映る口元が、確かに嘲るように笑う。悠樹は、自分が特別に贈られた観客であることを、そのたび思い知る。それは屈辱なのに、しかも、その屈辱を記録媒体へ焼き付けようとしている自分がいる。

城島が律動を強めると、ベッドのスプリングが、ぎしぎしとリズムを刻んだ。詩織は四つん這いに姿勢を変えられ、後ろから城島の腰を受け入れる格好になると、カットソーの裾が背中へ滑り、白い腰骨の上でくしゃくしゃに丸まった。城島のごつい指が、彼女の割れ目の上、淡い色の蕾を探り当て、直接擦り上げる。と同時に、肛門のすぐ上を親指で押し開かれる格好になった。彼女の悲鳴が、くぐもった抜け道を探してヘッドホンに反響する。

「ひぅ……そこ、ちが……あ、なか、いっしょに、ふるえ……!」

「違わない。お前の後ろの窪みも、ちゃんと息をしてる。俺の指を食いちぎりそうなくらい、きゅうきゅう鳴いてるぞ」

悠樹は妻の、割れ目の上に浮いた小さな蕾が、男の指先で押し潰される様子を、画面の粒の粗さごと眼球へ焼き付けた。彼女の膣から溢れた液が、後ろの窄まりまで伝い、男の親指を濡らしている。二つの穴が、同時に男の指と言葉で辱められていく。詩織の片足が、シーツの上をばたばたと跳ね、爪先が虚空を掻く。城島が奥を穿ちながら、淫核の根元をくにくにと捏ねると、妻の腰がガクガクと崩れ、液体の飛沫がカメラの端に白く光った。

その瞬間、画面のなかの詩織が、ちろりと顔を上げた。

いや。顔を上げた、のではなく、目を上げた、のだ。

彼女の視線が、本棚の上の、壁の隅の、カメラのレンズを正確に捉えた。悠樹は、心臓を鷲掴みにされた心地がした。画面の中央で、妻の潤んだ目が、こちらを見ている。男に突き上げられ、淫核を捏ねられ、絶頂へ追い立てられながら、その瞳は、間違いなくレンズの向こうにいる夫を探り当てていた。悠樹は息を止めた。彼女の唇が、喘ぎの合間に、かすかに何かを呟く。ヘッドホン越しでは「あなた」とも「あぁ」ともつかない音にしか聞こえない。しかして、その唇の形は、確かに、夫への言葉だった。

悠樹は、背骨の上を冷たい蛇が這い降りるような感覚に襲われた。見られているのは、自分のほうだった。カメラは妻を映し、妻はカメラを通して夫を見ていた。夫の存在を、この液状の夜のただ中で、意識していた。いや、それどころか、男に開かれた身体を夫が見ているという事実を、自身の絶頂の薪としてくべているように見えた。

「あ、あ……らめ、い、……く、いくいく、……ぁああーっ!」

詩織の叫びが、ヘッドホンの限界を超えて割れた。目は最後まで、レンズへ向けられたままだった。悠樹は、自分の先端から熱いものが脈打ちながら迸るのを、腰を浮かせて受け止める。精の匂いが、小部屋の冷えた空気をたちまち濁し、悠樹は口を半開きにして呼吸を繰り返した。

モニタのなかでは、城島が妻の背中に覆いかぶさり、互いの胎動を確かめるように、しばらく腰を沈めたまま動かない。その大きな掌が、妻の脇腹を這い、男の腰の重みで押し潰された妻の臀が、つたう愛液をこぼしている。

やがて、城島が妻から引き抜く。画面に、白い精液と愛液の混ざった雫が、妻の内腿を伝うのが映る。悠樹はティッシュで手を拭き、脱ぎ散らしたジーンズを足で寄せた。耳にはまだ、粘着質の音と妻の余韻の呼吸が、小さな貝殻の海鳴りのように張り付いて離れない。録画のランプが、依然として赤く点滅している。それは、今この瞬間の自分の射精も、たとえ画面に映っていなくとも、この夜の時間ごと記録しているように思われた。

## 三

朝。カーテンを透かす光が、リビングにパンとヨーグルトの匂いを満たしていた。悠樹が食卓に着くと、大輝はもう、揃いの茶色いパンをちぎりながら、城島の向かいに座っている。大輝が身にまとった青いユニフォームの胸には、虎の絵のマーク。前後逆に着ているのか、背番号が腹のあたりで皺になっていた。

城島はわざわざ大輝のパンへ苺ジャムを塗ってやり、その小さな指先をそっと拭っている。ジャムの瓶のふたを開けると、甘ったるい匂いが食卓を横切った。大輝が「おじさん、じょうず」と笑い、前歯の隙間から腰のあるパンくずをこぼす。

「おじさん、きのうは、ぼくがね、ひとりでくつした、はけたよ」

「お、すごいじゃないか。今日は、上着のボタンも一人でできるかもな」

「うん。やってみる。それで、サッカーの、きゅうしょを、おしえてくれる?」

「ああ。近いうち、朝の公園で教えてやろう。ボールを蹴る音が、マンションに響くくらい、いい音を出そうな」

城島の声は、朝の光のなかで、昨夜の重たい粘液の匂いを綺麗に脱ぎ捨てたように軽やかだ。しかし悠樹の耳は、その軽やかさの裏にある、低い肉声の水音を、まだ覚えていた。彼の目は、城島の指先が大輝の手を拭うたび、昨夜、同じその指が妻の窄まりをかき回し、淫核を捏ねていた感触を、彼の視神経の向こう側で反芻する。指の太さ、節のごつさ、爪の形。それらが朝の食卓の上で、苺ジャムの匂いと同居していることが、悠樹の正気をまたひとつ籤で削っていく。

詩織は、台所から白い湯気を運びながら、二人の会話に目を細めていた。その足取りに、昨夜の媚態はなく、洗い立てのカットソーと柔らかなホットパンツが、朝の光のなかで家庭的だった。しかし悠樹には、彼女の裸の輪郭が、服の下から透けて見えるような錯覚があった。城島の腰に揺すられ、髪を振り乱した姿。後ろから穿たれながら、こちらを振り返った、潤んだ瞳。朝の無垢な横顔と、夜のいやらしい曲線が、陽の光のなかで二重写しに揺れる。悠樹は、詩織の白い胸元が、前かがみになるたびに淡い影を作るのを見て、自分の手のひらに残る精の匂いを思い出し、スープを一口含んで誤魔化した。トマトの酸味と玉葱の甘みが、舌の上で残像を打ち消そうとするが、鼻の奥にこびりついた自分の精の匂いまでは洗い流せない。

城島は、やがて肩へスーツを羽織り、玄関で革靴を履いた。悠樹は彼を見送り、ドアの前で一礼する。

「昨夜は、お気遣いいただき、ありがとうございました」

「なに、こちらこそ。いい汗をかいた。次は、大輝くんに教えるための公園の草むらで、ちょっと違う汗をかこうか」

悠樹は言葉を返せなかった。城島の唇が、ムスクの残り香をわずかにまとって笑う。背後で、大輝が「おじさん、ばいばい!」と両手を振った。その小さい声が、廊下のコンクリートへ反響し、朝の空気を明るく震わせる。

玄関のドアが閉まる。鉄の枠が空気を噛む低い音が、マンションの廊下にゆっくり沈んでいった。悠樹は、閉じたドアの内側にある、盗撮用の墨色のカメラのレンズを、一瞬だけ振り返って見た。見えないはずのレンズが、こちらを見つめているように思えた。それは、寝室の壁の隅ではなく、玄関のドアの内側、帰宅した夫の姿を映す位置に、いつの間にか設置されていたもの。ふだんは何の気なしに通り過ぎるが、詩織の視線が昨夜、寝室のカメラをはっきり捉えた瞬間から、この家の中のあらゆるレンズが、すべて彼のほうを向いているような気がしてならなかった。

悠樹は目を逸らし、妻の声を背中で聞いた。

「朝ごはん、まだでしょう? 玉子、もう一つ焼く?」

悠樹は振り向いた。詩織は、昨夜とは違う、日なたの匂いのする顔で、そこに立っていた。花柄のエプロンを外し、手に持った卵の黄身が、白いボウルの中でまるく揺れている。食卓からは、大輝の歌声と、スプーンが器を擦る音が絶えず流れてくる。家族の形は、まだ壊れていない。けれど、壁の隅のカメラだけが、この家の液状の夜を、日々の光の裏でためこんでいる。

四人の朝は、パンとヨーグルトと、微かな精液の残り香で満ちていた。悠樹は、妻の焼いてくれた玉子へ箸を伸ばしながら、ボールを蹴る音はもうしないことを、静かに確かめていた。公園の朝は、まだ始まったばかりだというのに、少年たちの蹴るボールの音がこのリビングへ届くことは、もうない。かつて大輝が蹴っていた音は、靴の先からではなく、男の腰の奥から、この家に満ちる別の打撃音へと、その場を譲ってしまったのだった。悠樹は、半熟の黄身を箸先で割りながら、その流れ出る黄身の色が、昨夜の光のなかで見た妻の体液の色に似ていることを、ひっそりと反芻した。

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読み終えたあとの余韻に。

OVA 夏妻 #2 を FANZA で見る →
登場人物
  • 小森悠樹 こもり ゆうき
    男性 ・ 36

    外見: 黒い短髪で前髪を軽く流し、黒縁の眼鏡をかけた理知的な面立ち。暗い茶色の瞳。痩せ型で肩幅は広くなく、スーツがやや余る。服装: オフホワイトのシャツにスラックス、出張時はネイビーのジャケット。大学時代からの癖で腕時計を常に外さない。家族を愛するあまり妻の本音に気づかない、内省的で誠実な人物。城島の前では言葉数が減るが、内面には嫉妬と劣等感が渦巻く。自分が妻の不貞に興奮する倒錯を自覚してから、みずからの身体に戸惑いながらも手放せなくなる。

  • 小森詩織 こもり しおり
    女性 ・ 31

    外見: 腰まで届くやわらかな黒髪を背中に垂らし、毛先が内側に遊ぶ。色白で、頬はカサつくほど薄く、喉元に小さな黒子がひとつ。瞳は明るい茶色。手足が長く、腰のくびれに対して胸はふっくらと厚みを持ち、ホットパンツから伸びる太腿には触れたくなる張りがある。服装: カットソーやキャミソールにデニムのホットパンツが日常着。夕餉の支度の折は白いエプロンを重ねる。献身的で明るい妻だが、胸の奥に夫へ言えない性の飢えを隠している。城島に触れられてから、罪悪感と快楽のあいだで呼吸が浅くなる。

  • 城島悟 じょうじま さとる
    男性 ・ 45

    外見: 分厚い黒髪を短く立ち上げ、額が広く日焼けした浅黒い肌。濃い茶色の瞳が笑うたびに細くなる。胸板と背中に厚みがあり、スーツの上からでも筋肉の密度が伝わる。掌は大きく、指の節がごつい。服装: 濃紺のスーツに開襟シャツ、革靴。休日はドライ機能のポロシャツやニット。あらゆる距離を自分から詰める、支配欲を飄々と隠した情熱家。性交を「スポーツ」と呼び、女の乱れる様を楽しむ一方で、決して自分の評判には傷をつけたがらない現実家。

  • 小森大輝 こもり たいき
    男性 ・ 5

    外見: 短く刈り上げた黒髪。うるみのある黒目が大きく、柔らかな頬。両手は小さく、顔つきには陽気な好奇心があふれる。妹ができそうな隙間のある前歯。服装: 胸にサッカー日本代表の紋章が入ったキッズ用レプリカユニフォームと膝丈の紺色ハーフパンツ。恥じらいをまだ知らず、大人たちの何気ない言葉をそのまま口にする。無垢ゆえに、物語の中で最も残酷な媒介者となる。

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