定年後に山で再会した五十歳の女と撮影を重ねるうち、六十五歳の男が妻の沈黙を裏切って肌を重ねるまで
あらすじ
定年を終え、肩書きも名刺も失った六十五歳の男が、山道で再会した年下の女と写真を撮り重ねるうち、妻との沈黙に慣れた日常が静かに崩れていく。木漏れ日の揺らぎ、汗ばむシャツの布の食い込み、近づいた肌から漂う日焼け止めと汗の匂い。互いの体温を意識する撮影行は、やがて人目のない湿原で、カメラ越しの視線を行為へ変えていく。
第1章 肩書きを失った朝、山のエビネの前で再会する女の汗ばんだシャツが乾いた心に滲みる

第1章: 肩書きを失った朝、山のエビネの前で再会する女の汗ばんだシャツが乾いた心に滲みる
六月上旬の早朝、栗山正和は壁にかかった濃紺のスーツを眺めていた。肩のあたりには埃がうっすらと層をなし、胸元から袖へかけては、脱がれたばかりの抜け殻のような生々しい皺を保っている。傍らの机に置いた名刺入れを開くと、最後に一枚だけ残っていた白い名刺が朝の光を跳ね返し、指先で裏表を返すたび、かつてあの紙片に刷られていた重みが音もなく零れ落ちていくのを確かめずにはいられなかった。紙の縁をつまんで引き出しの奥へ押し込むと、かすかな乾いた音が畳の上を滑っていく。ため息は自然に唇から漏れ、明け方の湿度を含んだ空気へゆっくりと溶けていった。
キッチンからは、妻の久子が流しに食器を落とす硬質な音が断続的に響いている。水の流れが不意に止まり、布巾でシンクを拭く気配のあと、彼女はリビングの手前で一度だけ立ち止まり、壁に背を向けたまま鞄の留め金を鳴らした。
「出かけるわ。遅くなるから戸締まりはお願いね」
「ああ、行ってらっしゃい」
短い応答だけが空気を往復し、互いの体温を探り合うこともなく散っていく。振り返りはしない。正和の眼前を横切った久子の小柄な背には薄いレモン色のカットソーが張りつき、七分丈の白いパンツが素早い歩調に合わせて裾をひらめかせた。彼女の身体は年齢のわりに肉づきが柔らかく、腰のあたりにだけ朝のぬくもりが残っているように思えたが、それも玄関の扉が閉まると、細いすきま風に押し出されるようにして消えていった。鍵の回る音に耳を澄ませながら、正和はスーツのほうへもう一度だけ目を向ける。六十歳の定年よりも五年遅く、六五歳まで嘱託として働いた日々を、誰に褒められるでもなく、ただ義務のように名刺を配り続けた歳月が終わっただけのことである。
ダイニングテーブルに戻ると、湯呑みからは白い湯気が立ちのぼっていた。緑茶の苦みを帯びたその息は、空気中で細かくほどけては消え、また新しい筋になって昇っていく。正和はそれを、かつてファインダー越しに遠景を眺めたときのような目つきで、じっと見つめた。ガスバーナーの青い火ではなく、ただ白く揺れる水蒸気。焦点の合わない湯気の中に、形のない朝という時間が充満している。食卓には久子が飲み残した紅茶のカップと、彼女が食べ終えたトーストのかけらが小皿の上に転がっており、正和だけが空になった椅子を眺めている構図が、一枚の写真のように静止していた。
時計の秒針が同じ位置を繰り返し叩いている。誰からも電話は来ない。予定など何一つない。正和は湯呑みを両手で包み、熱すぎる陶器の肌を指の腹でゆっくりと押した。朝の光が東向きの窓から差し込み、磨りガラスに歪んだ四角形を畳の上へ投げかけている。その輪郭だけが、見えない重さを持って家の中を這い、やがて正和の足元を白く染めた。座っていることに耐えかねて立ち上がり、足のしびれを感じながら廊下を歩く。押し入れの襖を引くと、防虫剤とも古い紙ともつかない匂いが流れ出し、奥から黒いカメラバッグを取り出した。ファスナーを開けると、単焦点レンズを装着したままの一眼レフが、闇の中で鈍く光っている。最後に手にしたのはいつだったか。定年前の休日に近所の公園で桜を撮って以来かもしれない。重みは想像よりずしりと手応えがあり、指の腹に食い込む感覚が、何かが少しだけ戻ってくる錯覚を連れてきた。
首にかけて外へ出る。自転車のサドルに跨る脚はまだ身体と繋がることを覚えていて、ペダルを漕ぐうちに心臓がゆっくりと動き出した。駅前の舗道を避け、ふと見上げた北西の空に、低い山並みが薄青い霧をまとって横たわっている。車輪の向きを変えるまで、正和はほとんど無意識だった。家の近くの駐車場に停まる軽自動車にカメラバッグを置き、エンジンを始動させる。妻の習い事の送迎に使っていた角の擦れた車が、山へ向かう県道を淡々と登っていった。
山道の入り口に車を乗り入れると、濃厚な草の肌触りを含んだ風が窓から流れ込み、正和の白髪交じりの短い前髪を乱した。肩にカメラを掛け、歩き慣れぬ靴底で腐葉土を踏む。杉の幹は濡れたように黒く、まだ朝露がそこかしこに小さな鏡をつくっていて、一歩ごとの振動で雫が草むらへ転がり落ちる。木漏れ日が強く、眼鏡の奥の瞳を刺すように光り、日焼けした頬の深い皺へ白い欠片を貼りつけた。空気は花冷えと呼ぶには湿度が高く、半袖の腕を湿った膜で覆っていく。
沢沿いの細道を折れたあたりで、正和は足を止めた。杉の根元に、薄紅の花がひとかたまりに咲いている。エビネである。山野草のなかでは派手さこそないが、淡い紅色が木漏れ日の下でひそやかに発光している。正和は自然に膝を折り、カメラの電源を入れた。ファインダーを覗くと、薄紅の花弁が背景の暗がりから浮き上がり、中心の黄と白がふわりと広がっている。シャッターを切る音が山の沈黙に落ちた。
「……あら」
隣から声がした。正和が顔を上げると、グリーンのトレッキングシャツを着た女が、同じ花へ向けてカメラを構えている。風が吹いたのは一瞬で、女のシャツの裾と短く切りそろえられた髪の毛先が揺れた。木漏れ日がその肩のあたりを選ぶように照らし、彼女の輪郭を夏の草の匂いごと浮き立たせる。その姿を認めた瞬間、正和の胸の奥で、遠い昔にどこかの登山道で聞いたような声の断片がかすかに鳴った。ずっと以前、駅前の山岳会の集まりで顔を合わせたことがあったかもしれない。いや、それよりもっと曖昧な、山の写真展の片隅ですれ違っていただけかもしれない。どちらでもいいと、正和の意識のどこかが呟いた。
「珍しい花ですよね、こんな所で会うなんて」
女は若いとは言えないかすれを含んだ声で笑った。もともと栗色だったのか、黒髪に白い筋が数本混ざり、毛先だけが褪せた栗色に光っている。唇は薄い口紅の下で自前の赤みを透かし、笑みに引かれた目元に小じわが寄った。年のころは五〇に届くか届かないか。背筋を伸ばした姿勢と、登山で絞まったらしい大腿の引き締まりが、薄いグリーンのシャツ越しにもしなやかさを漂わせている。
「今日は、あそこまで登るんですか」
正和は声の出し方を少し探りながら答えた。
「ええ、時間が空いたので。あなたは、写真を」
「私もなんです。休みが今日しかなくて」
彼女はファインダーから目を離し、正和の構えに気づいて一歩だけ身体を寄せた。杉の香りと、汗に混じった柔らかい日焼け止めの匂いが近い。その匂いに記憶を刺激されたように、正和の喉の奥で、彼女と山の話をしたことがあるような淡い既視感がまた蠢いた。たしかに、この目元の笑い皺には見覚えがある。
「エビネですか。私、探してたんです。栗山さんが先に見つけるから」
不意に名前を呼ばれ、正和はまばたきをした。やはりどこかで会っているらしい。しかし、相手はそれが当然といった調子で、レンズキャップを外し、膝を折って花へ近づいていく。正和は返す言葉を探しつつ、記憶の底をするすると滑る顔と名前を追いかけた。
「あ、あなたも写真を始めて長いんですか」
ひとまず、そう呼びかけた。すると彼女は一瞬だけ首を傾げ、それから照れたように肩をすくめて笑う。
「ああ、ごめんなさい。いきなり名前で呼んじゃって。覚えてらっしゃらないですよね。二年前の春、城山の登山口で道を教えた坂本です」
正和はそこでようやく、胸のつかえが下りるような感覚を覚えた。そうだ、あの雨上がりの朝、泥でぬかるんだ登山道の入り口で、声をかけてきた女がいた。そのときも今日と同じグリーンのシャツを着ていて、地図を片手に、ふたつの登山道の分岐を確認していたのだ。正和は山側の古い道を指さしながら、「こちらのほうが緩やかですよ」と短く伝え、そのまま別れた。名前を交わしたかどうかもおぼえていない。だが、こうして記憶の面影が、眼前の女の笑い皺に重なって収まっていく。
「ああ……あのときの。どうも、すみません。とんだ失礼を」
正和が頭を下げると、彼女は軽やかに首を振った。
「とんでもない。私、勝手に覚えてて、栗山さんの話を山の仲間から聞いたりもしてましたから。それで、つい」
そうして彼女は言い添えるように、白い筋の混じり始めた黒髪を耳の上へかき上げた。山の仲間、という言葉が正和の胸をくすぐる。あの連中が、女に自分の名を出して話すとは思えなかったが、どこかの山小屋で顔を合わせたときのことが、彼女の記憶に残っていたのかもしれない。
「いや、申し訳ない。では改めて、栗山正和です」
「私は坂本亜佑美です。二年ぶりにこうして会えて、嬉しいわ。今度はちゃんと、名前も覚えてくださいね」
亜佑美は明るい声の尾を弾ませ、首を少し後ろへ引いて笑った。帽子の鍔の下で黒い瞳が濡れたように動く。正和はカメラのストラップを握り直し、喉の浅い場所でずっと止まっていた息を逃がした。誰かと当たり前の会話をする時間が、これほど身体を軽くするものだとは思わなかった。それも、山で二年前に一度すれ違っただけの女と、こうして名前を交わせたこと自体が、捨てたはずの何かを拾い上げるように胸へ落ちてくる。
「よかったら、頂上まで御一緒しても?」
亜佑美が先にそう言い、正和は短く「ええ、ぜひ」と返した。ふたりは並んで歩き出し、狭い登山道で腕が触れぬよう半歩ずつ場所を譲り合った。亜佑美は時おり立ち止まり、苔の上の水玉や、曲がった枝の影をカメラで追う。そのたび正和は立ち止まり、彼女が屈みこむ背中を何気なく見守った。汗ばんだシャツが背骨の形に張りつき、布地の淡い緑が朝の日差しを吸って、薄い草の模様のように動く。目のやり場に迷い、足元の木の根を数えた。
「写真っていいですよねぇ。目に見えてるものを、自分だけの形に残せるから」
「構図を探してると、時間なんて忘れますよ。私のような年寄りには有り難い」
「年寄りだなんて、そんな風には見えないのに」
「いや、年齢は隠せません。定年して五年です」
「そうなんですか。じゃあ今は、ご自由に山を歩ける時間がたくさんあるんですね」
彼女の声には、余計な同情の色が薄い。それが心地よかった。正和は「まあ、そういう事です」と短く返し、眼下に白く煙る川筋へ視線を落とした。斜面から吹き上げる風が、汗で額に貼りついた前髪を揺らし、眼鏡のフレームをかすかに冷やしていく。
山頂は狭い草地になっていた。開けた場所には人影がなく、名も知らない低木の茂みだけが風でざわめいている。いつもなら風景写真を数枚撮ってすぐに下山するところを、正和は岩場に腰を下ろし、水筒の茶を口に含んだ。亜佑美は薄い岩盤の上で、山の向こうの稜線をカメラに収めながら、たまに正和のほうを振り返って笑った。その笑みに、二年前の雨上がりのぬかるみと、あのときの湿った草いきれが混ざって蘇る。
「下りる前に、あのエビネを一緒に撮りませんか。光の向きが朝と変わってるはずです」
「そうですね。私も、あの花をもう少し撮りたかった」
ふたりはまた来た道をゆっくりと下った。亜佑美が足元の小石を避けながら、自分が以前登った山の話をいくつかする。正和は相槌を打つ合間に、彼女のつむじのあたりに木漏れ日が跳ねるのを視界の隅で追っていた。エビネの群落へ着くと、午前の光は先ほどより角度を変え、花弁に橙色の薄い膜を張らせている。亜佑美が先にしゃがみ、正和は彼女の隣に片膝をついた。レンズを交換しようとした彼女の指先が、正和の手首へかすかに触れる。その指は思っていたより熱く、関節が細くしなやかだった。
「ごめんなさい、狭くて」
「いいえ、どうぞ」
譲るように、正和は半歩分だけ身体を引いた。だが彼女のグリーンのシャツの裾が正和の膝に触れ、その布の柔らかさと湿度が、朝の出会いの感触をいつまでも肌の上に留めた。シャッター音が二重に鳴る。画面に収まった薄紅の花を、二人は肩を寄せ合って覗き込んだ。亜佑美の髪から、汗と日向の混ざった匂いが風に乗って正和の鼻先をくすぐり、彼は無意識のうちにカメラを少しだけ強く握った。
「また、どこかで一緒に撮れたら嬉しいんですけど」
下山後の駐車場で、亜佑美は片手を挙げて笑った。
「連絡先を教えてもいいですか。あ、失礼ですよね。二年前にあいさつしただけの仲なのに」
「いえ、私でよければ。山の相談相手がいるのは、助かります」
正和は手帳の端を破き、名前と携帯の番号を書いた。家の住所は書かなかった。亜佑美は両手でそれを受け取り、胸の前で大切そうに折り畳む。
「ありがとうございます。私、嬉しくて」
「こちらこそ。今日は本当に助かりました」
「あら、助かったのは私のほうです。一人で登るより、ずっと景色が濃く見えます」
亜佑美は明るいグリーンのシャツを風にはためかせて、車へ乗り込んだ。ドアが閉まるまで、正和はその場に立っていた。青い軽自動車が林道の向こうへ消え、あとに残ったのは排気の匂いと、踏み固められた砂利の音だけである。
正和は運転席に戻り、紙片の感触がまだ指先に残っていることに気づいた。彼女の電話番号を携帯へ登録する指が、わずかに震える。車内に置いたカメラのファインダーを覗くと、最後に写した薄紅のエビネが、木陰の中でしっとりと揺れていた。しばらくその画面を眺め、電源を切るのを忘れたまま車を走らせる。窓を開けると、山裾の風が汗を含んだグリーンの布の匂いを、正和の胸元へそっと思い出させる。二年前のあの朝、泥道の分岐で別れたきり名前も知らなかった女の匂いが、今日、こうして指先と鼻の奥に、はっきりと輪郭を持って残っている。
帰宅すると、玄関に久子の履き古したサンダルだけが揃えてあった。リビングに妻の姿はなく、机の上には出がけに置かれた鍵が小さく光っている。正和はカメラバッグを下ろし、湯呑みの底に残る冷めた茶を一息に飲んだ。昼の光は窓を斜めに横切り、畳の目へ薄い影を重ねている。名刺入れの引き出しには、朝しまい込んだはずの白い名刺が、そのまま動かずに眠っていた。
夜になって、正和は再びカメラの電源を入れた。液晶に映る薄紅のエビネの花弁を、親指でそっと拡大する。ピントは花の真ん中に合い、背景の暗がりはやわらかく溶けている。その奥で、木漏れ日の粒が泡のように光っていた。正和は、あの木漏れ日が亜佑美の肩で揺れた一瞬を思い出し、指先が液晶の縁をなぞる。指先にはまだ、彼女の手首に触れたときの熱と、汗ばんだ布の湿度が微かに残っていた。湯呑みの底には、もう冷めた茶すらない。ただ、白い湯気の名残りだけが、眼鏡の奥の瞳に揺れていた。
第2章 # 妻の留守を嘘で埋めて出かけた撮影行、口元の米粒を指す指先が距離を溶かす

# 第2章 妻の留守を嘘で埋めて出かけた撮影行、口元の米粒を指す指先が距離を溶かす
日曜の朝、カーテンの隙間から差し込む光が、畳の上に細い川を作っていた。正和は台所で湯を沸かしながら、スマートフォンの画面を何度も覗き込む。亜佑美から届いた昨晩の返信はたった二行の短いものだったが、その文末に添えられた小さな絵文字が、胸の奥の柔らかな場所をくすぐり続けている。
「明日、楽しみにしています。朝露で靴が濡れるかもしれませんね」
正和は「ああ」と声に出してから、誰もいない台所で一人、口元をほぐした。湯呑みに注いだ茶の湯気が、朝の空気にゆっくりと溶けていく。久子は既に出かけていた。居間のテーブルには、彼女が飲みかけの紅茶のカップが置かれたまま、薄いレモン色のカットソーの残像だけが正和の目の裏に残っていた。カップの縁に付いた口紅の淡い跡を、正和は指でなぞるでもなく、ただ眺めた。久子の体温はとうに消えているのに、その薄紅の痕跡だけが、朝の光の中でひっそりと存在を主張していた。
「山の仲間と登る。夕方には戻るから」
昨夜、そう告げたとき、久子は振り向きもせず「あら、どうぞ」とだけ答えた。その短さが、普段なら胸に冷たく落ちるのに、今朝はむしろ背中を押す追い風のように感じられた。自分の口から滑り出た「山の仲間」という丸い嘘を、正和は舌の根で転がす。甘いような、苦いような、名状しがたい味がした。それはまるで、まだ熟れきっていない山柿を噛み締めたときのような、舌の奥を締めつける渋みと、かすかな甘さの混ざり合う味に似ていた。
車を走らせると、郊外の住宅街はあっという間に後退し、フロントガラスいっぱいに夏の山肌が迫ってくる。窓を開けると、湿った草の匂いと、遠くの沢の水音が車内へ流れ込んだ。標高が上がるにつれて、空気は薄く冷え、それでいて下草の甘い青臭さは濃さを増していく。正和はハンドルを握る手に汗が滲むのを感じながら、待ち合わせ場所の駐車場へ車を滑り込ませた。
亜佑美は、もう来ていた。薄いブルーのキャップを深く被り、明るいグリーンのトレッキングシャツを風に膨らませて、登山口の古い木製案内板に背を向けていた。朝の斜光が彼女の後ろ姿を縁取り、黒髪に混じる白い筋を銀糸のように浮かび上がらせる。その立ち姿だけで、正和の呼吸は浅くなった。五十歳の女が朝の光の中に立っている、ただそれだけのことなのに、彼女の背筋が描く線は、この山の稜線よりも確かな輪郭で正和の網膜を灼いた。
正和がエンジンを切ると、彼女は振り返り、まるで昔からの友人のように片手を上げた。指先が空気を切る仕草が、朝の澄んだ空気の中で、ひどく鮮やかに見えた。
「おはようございます。早いですね」
「お待たせしました。三十分も前から来てたんじゃないですか」
「どうして分かるの? 正和さん、探偵みたい」
亜佑美は悪戯っぽく首をかしげて笑った。キャップのつばの下から覗く黒い瞳が、朝の光を受けて琥珀色に透ける。濃い緑のシャツは、胸元から腰へかけてなだらかな曲線を描き、スリムパンツに包まれた太腿が、登り始める前から既にしなやかな緊張感を帯びていた。布地と肌の間に、ごく薄い汗の膜が既に生まれているのが、正和には分かった。朝のひんやりとした空気に触れて、彼女の身体が微かに体温を高めている気配があった。
「車のボンネット、もう冷えてるでしょう。早く来すぎて、鳥の声でも聞いてたんじゃないですか」
「正解。出がけに、うちの裏の林でホトトギスが鳴いてて。それを聞いてたら、うっかり家を出るのが早くなっちゃった」
そう言って亜佑美は、肩にかけたカメラバッグの位置を直した。その仕草で、グリーンのシャツが胸元でわずかに引っ張られ、布越しに柔らかな膨らみが一瞬、輪郭を強くする。正和は慌てて視線を外し、自分のカメラバッグの留め金を確かめるふりをした。指先が覚える金属の冷たさだけが、頭のどこかを冷静に保とうとする、ほとんど無意味な足掻きのようだった。
「では、行きますか。朝のうちは涼しいですが、昼は結構、暑くなるかもしれませんよ」
「ええ。今日は正和さんの言ってた、あの裏道から登りたいわ。人が少なくて、木漏れ日が綺麗なんでしょう」
正和はうなずいた。この山には、一般の登山道から少し外れた場所に、かつて彼が一人で見つけた古い巡視路がある。薄暗い杉林を抜け、尾根の南側へ出ると、木漏れ日が落ち葉を網目に染める小さな広場があった。人に教えたことなど一度もない道を、亜佑美は当たり前のように「あの裏道」と呼ぶ。その響きが、正和の胸をくすぐる。自分の秘密の場所が、彼女の口の内側で転がされ、あたかも初めから二人の秘密だったかのような温度を持って返ってくる。その感覚は、長い時間をかけて体を馴染ませてきた古い靴の中に、思いがけず柔らかな小石が入り込んだときのような、ちいさな痛みとくすぐったさに似ていた。
二人は舗装路から外れ、草の生い茂った小径へ踏み込んでいった。足元の土は昨夜の露で湿り、靴底が柔らかく沈む。亜佑美が先を歩き、正和はその背中を追う。彼女の肩甲骨が動くたび、グリーンのシャツが背骨の形に沿って張りつき、汗ばむ前の布地が朝日を吸って、淡い緑の光を放つようだった。正和は、その揺れを視界に入れまいと努めたが、小径は狭く、どうしても彼女の腰の動きが目の先に飛び込んでくる。右に、左に、波打つように揺れる腰の軌跡は、歩行というより、真夏の海で人が溺れずに浮かぶための呼吸のように繰り返された。
「この道、ほんとに誰も来ないのね。木の名前も、正和さんと一緒じゃなかったら、みんな同じに見えてた」
振り返りもせず、亜佑美が言った。その声は、湿った風に乗って、正和の耳へと届く。風が吹くたび、彼女の後れ毛が揺れ、汗に混じった日焼け止めの匂いが、朝の杉の香りとともに正和の鼻先をかすめた。それは甘すぎず、苦すぎず、ちょうど鼻腔の奥をくすぐるような、あの山道の再会を思い出させる匂いだった。汗の塩気と、白い乳液の日焼け止めが放つ花と油の混じった香り。それが夏草の青い濃さに絡まり、正和の喉の奥に、うまく言葉にできない飢えのようなものを呼び覚ました。
「この先で左に折れると、急に開けます。光が真上から落ちて、花の色が変わるんです」
「楽しみ。正和さんって、そういう場所をちゃんと覚えてるのね。まるで、山そのものに目があるみたい」
「大げさですよ。ただの老人の、時間潰しです」
「また年寄りって言う。正和さん、楽しそうに言うんだもの」
亜佑美がくすくすと笑う。その笑い声が、小径の静けさに落ちると、どこか遠くで山鳩が鳴いた。低く、柔らかく、胸の内側を撫でるような鳴き声は、まるで彼女の笑い声を追いかけて、森の奥へ転がっていくようだった。二人の靴音だけが、土と落ち葉の上で、小さな水音のように重なっていく。
やがて杉林が途切れ、目の前に光の満ちた斜面が広がった。朝露をまとった草が銀色に光り、無数の木漏れ日が地面を金色の斑点で埋めている。風が通り抜けるたび、木々の影が揺れ、光の網目が生き物のように広がっては縮んだ。正和の目には、その光景が、何度も通ったはずの場所なのに、今日に限ってすべてが初めて見る色彩を帯びているように感じられた。光の粒が、草の先端で弾け、風に散り、再び集まる。そのすべてが、今、隣に立つ女の存在によって、焦点の合い方を変えていた。
「まあ、綺麗……」
亜佑美が足を止め、感嘆の息を漏らした。彼女はカメラを胸の前に持ち上げ、夢中でシャッターを切っていく。正和も半歩遅れて、その姿を視界の端に置きながら、自分のカメラを構えた。ファインダー越しに、彼女の背中が入り込む。光の斑点が、グリーンのシャツの肩を滑り、腰のくびれを撫で、太腿の上へと流れていく。汗ばんだ布が、彼女の背骨の線に沿って湿り、その下の肌の温度を正和の目に焼きつけた。ファインダーの中の彼女は、光の網に絡め取られた、一枚の蝶の標本のように動きを止め、しかし確かに息づいていた。
「正和さん、こっち側、光が全然違います。朝の光が葉っぱの裏から透けてる」
「そうですね。ちょうど、この時間だけの逆光です。あと三十分もしたら、光の角度が変わって、全部、平坦な色になります」
「じゃあ、今のうちに撮らなきゃ」
亜佑美が斜面を横切り、光の角度を追うように移動していく。正和も後を追い、気がつくと二人は、まるで同じ生き物のように、互いの動きに合わせてレンズを向け合っていた。彼女がしゃがみ込み、背の低い草の影を撮ろうとすると、スリムパンツの布が腰から尻にかけて強く張り、その豊かな曲線が縫い目ごと浮かび上がる。しゃがみ込んだ体勢のまま、彼女は右足を半歩ずらし、重心を低くした。布が太腿の付け根で食い込み、肌の位置をまざまざと示すラインが、朝の光の下で無防備に開かれる。正和は喉の奥が急に乾くのを感じ、無理に咳を一つ二つした。乾いた自分の咳の音が、光の溢れる斜面に吸い込まれていった。
「大丈夫ですか? 虫でも吸い込んじゃった?」
亜佑美が振り返り、心配そうな顔をする。その拍子に、彼女の胸元がわずかに開き、汗で透けたグリーンの布地が、鎖骨の下の白い肌にぴったりと貼りつくのが見えた。鎖骨の窪みに、光が一筋流れ込み、そこから先の柔らかな陰影を、布地が大胆に示していた。正和は、視界に入った彼女の柔らかな肉の影から目を背けることができず、口の中で「大丈夫です」と呟くのが精一杯だった。舌の上に、空気の味が広がる。彼女の汗の匂いまで味わっているかのような錯覚があった。
「正和さん、水、少し飲みませんか。この辺、思ってたより湿気が強くて、私、もう喉がからから」
亜佑美はリュックから銀色の水筒を取り出すと、青いキャップの下で首の汗を拭いながら、正和に差し出した。光沢のある水筒の表面に、木漏れ日が不規則な星を散らしている。彼女の白い指先が、その星の上を軽く押さえていた。
「どうぞ、一口。口、つけちゃいますけど、いやじゃなければ」
「いや、それは構いませんけど」
正和が水筒を受け取ると、金属の表面に彼女の掌の熱が残っていた。そのぬくもりが、正和の疲れた指の腹に、じんわりと移ってくる。口を寄せると、水筒の飲み口から、ほんの微かに甘い果物のような香りが立ちのぼる。それは亜佑美の唾液の名残りではなく、たぶん彼女の朝に食べた果物の香りが、水筒ごしに移ったものだろう。正和は、その匂いを肺の奥まで吸い込んでから、冷たい水を含んだ。水が喉を落ちていく感覚と、飲み口に残る彼女の唇の位置を、指先で確かめてしまっている自分がいた。銀の縁には、見えるはずのない痕跡が、確かに刻まれている気がしてならなかった。
「私、実は朝、慌ててて、お昼の支度が雑になっちゃったの。正和さん、軽くでいいなら、山頂まで頑張ってついてきてくれる?」
「私のほうこそ、妻が作った漬け物とおにぎりがありますから。二人分には足りないかもしれませんが、分け合いましょう」
「嬉しい。正和さんと来ると、いつも、昼の時間が待ち遠しくなる」
亜佑美は水筒を受け取ると、口を拭いもせず、飲み口に唇をつけた。彼女の唇が銀の縁をくわえる瞬間、濡れた下唇がわずかに光り、水を嚥下するたびに細い喉が上下する。正和はその動きを、自分のカメラ越しではなく、裸の目で追っていた。ファインダー越しには見えない、音と匂いと、息づかい。彼女が飲むときの、ほんの少し上がる顎の角度。そのすべてが、正和の胸の奥を締めつける。先ほど自分の唇が触れた位置に、彼女の唇が重なる。それは言葉にすれば間接的な接触に過ぎないのに、正和の背筋には、まるで生身の皮膚が直接触れ合ったときのような、鋭い震えが走った。
「じゃあ、急ぎましょう。光が変わらないうちに、あの斜面をもう少し回ってから、頂上へ向かいます」
二人は再び歩き出した。登りがつらくなる少し手前、道が右に折れる地点で、亜佑美が立ち止まり、大きな杉の幹に手を置いて呼吸を整えた。彼女の白い掌が、黒くこもった杉の樹皮に沈み込むように見える。
「この木、根元の苔が光ってる。朝露がびっしりついてて、宝石みたい」
「ああ、この杉は何年も日の出を正面から受けるから、朝のうちだけ、苔が濡れて光るんです。昼には乾いて、ただの深い緑になります」
正和が説明すると、亜佑美は感心したように目を輝かせ、いつもの調子で言った。
「正和さん、ほんとに山の時間を全部、撮り尽くしてるのね。私、そういう一瞬に立ち会えるの、すごく運命みたいに感じるのよ」
正和の胸の内に、私は、あの顔を見るためにこの道を歩いている、という思いがよぎった。だが、声には出さず、「光が教えてくれるんです。待っていれば、向こうから来る」と返した。その言葉は、彼女に言ったというより、自分自身の欲望を覆い隠すための薄い幕のように、音になって空気へ消えた。
すると亜佑美は、ほんの少しだけ正和に体を寄せ、悪戯っぽく囁いた。
「じゃあ、あたしも光に媚びられたら、もう少し上手に振り返れるかしら」
こうして、山頂への距離はどんどん縮まっていくが、二人の間にあった沈黙は、なぜか登れば登るほど、さっきまでより温かいものへ変わっていく。汗ばんだシャツと、湿った空気と、日焼け止めの匂い。それらが混ざり合い、風に揺れ、光の傾きに洗われて、正和の乾いた胸の奥へ、ひとしずくずつ落ちていくのを感じていた。
昼を過ぎた山頂は、思ったより強い風が吹いていた。西の斜面には夏雲の前触れがひとかたまり浮かび、麓の町へ落とす影をゆっくりと動かしている。風が二人の間を吹き抜けるたび、亜佑美の黒髪が逆立ち、白い筋が踊った。彼女は帽子のつばを押さえながら、岩陰に広がる平らな場所を選んで腰を下ろす。正和もその隣、わずかに一呼吸分の間隔をあけて座った。岩の表面は陽に焼けて、尻の下からじんわりとした熱を伝えてくる。その熱は、彼女の身体から発せられる熱と、境界がつかないほど馴染んでいた。
二人は持参した昼食を広げる。亜佑美の布袋から小さなおかずの包みがいくつか並び、それぞれの包みから仄かな甘味や醤油の焦げる匂いが立ちのぼった。
「私、今日、卵焼きを焦がしちゃって。端っこ、茶色になっても硬くないから、見逃してね」
亜佑美はそう言って、手のひらに載るくらいの小さな包みを開いた。甘い香りが風に乗ってひろがる。正和は、妻が持たせてくれたおにぎりと、きゅうりの浅漬けを出した。久子の作るおにぎりは、いつも海苔がぱりりと巻かれて、中に梅が一粒だけ入っている。正和はそれを手に取り、一口かじった。海苔の香ばしさと、梅の酸っぱさが口の中で交わる。ふと、妻の顔が一瞬脳裏をかすめた。朝、何も言わずに出かけた妻。飲みかけのカップを残したままのテーブル。その記憶が、目の前の亜佑美の明るい声にかき消されていく。
亜佑美が、こちらを見て軽く首を傾げた。
「正和さん、ここ」
彼女が自分の口角のあたりを、おにぎりを握っていた指先でとんとんと示す。正和は一瞬、何を言われたのか分からず、箸を止めたまま彼女の顔をぼんやり見つめてしまった。
「口、米粒ついてるわ」
亜佑美が少し身を乗り出す。その途端、風とは違う、彼女の身体のぬくみが正和のほうへ流れてくる。日焼け止めの香りが薄れ、汗と、おにぎりを握った手に残る塩の匂いが混じった、彼女の素の匂いがした。
「左のほう。ほんの一粒、小さいの」
正和が慌てて手の甲で拭おうとすると、亜佑美は首を振って、自分の指で正和の口元を示したまま、控えめに笑った。
「もうちょっと上。そうそう、そこで取れる。手はいいから、舌で舐めても取れると思うけど、上品じゃないわね」
正和は、教えられた場所を舌の先でなぞった。たしかに、小さな米粒が唇の端に触れる。亜佑美はそれを見て、満足そうにうなずいた。
「取れた? ああ、よかった。私は、正和さんの口元をずっと見張ってるわけじゃないわよ。たまたま、風で髪が邪魔で、前を見たら、目の前に白い粒が見えたから」
言い訳のように言って、亜佑美は照れくさそうに水筒を口へ運んだ。正和は、口元の米粒を取ったあとの彼女の指の形を、自分の唇の位置と比べるように、じっと見てしまった。あの指先が、ほんの数秒前、自分の顔に触れようと空気を掴んでいた。触れなかった、されど、目の前の空気は確かに彼女の指の軌跡で熱を持っていた。唇の端に、米粒があった場所が、あたかも彼女の指先にほんの一瞬だけ触れられたかのように熱を帯びている。
「亜佑美さん、来週は、霧の湿原へ行ってみませんか」
正和は、自分でも唐突だと思いながら、その言葉を口にしていた。昼下がりの風が、二人の間を吹き抜ける。亜佑美の帽子のつばが持ち上がり、彼女は正和の顔を、まっすぐに見つめた。その瞳の底で、午後の光が小さく砕けた。
「……霧の湿原、行きたい。あたし、ずっと前から、朝の霧を撮ってみたかったの」
「夜明け前の待ち合わせになります。かなり早いです。人気のない木道で、気温も低い。自信がありますか」
「正和さんが一緒なら、朝の四時だって五時だって行くわ」
亜佑美が笑った。その笑い声を、山頂を駆け抜ける風が、遠くの谷へと運んでいく。正和は、彼女といる自分が、これまでにないほど軽やかに笑っているのを自覚した。妻には伝えていない、もう一つの山の時間が、今、確かに動き始めていた。
と、そのときだった。正和のズボンのポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。正和は一瞬、空気の冷たさが肌に戻ってくるのを感じた。何かの花の香りが一瞬濃く鼻をかすめ、次の瞬間には、山頂の風だけが耳の奥を叩いていた。
「電話、ですか?」
亜佑美が小首を傾げて、視線で正和のポケットを示す。
正和は、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面に表示された名前を見たとき、指先から力が抜けていくようだった。甲高い明るさのない、規則正しい着信音が、人気のない山頂に無遠慮に響く。画面には「久子」の文字が、無機質な明朝体で浮かんでいた。
「ごめんなさい、ちょっと出ますね」
正和は亜佑美に背を向けるようにして、岩陰の縁に立ち、通話ボタンを押した。耳に当てたスマートフォンは、山頂の風に冷えていて、それが妻の声をどこか遠いものに感じさせる。
「もしもし、ああ、正和。今、どこ?」
久子の声は、いつもの通りの抑揚の少ない調子だった。必要最低限の言葉だけを選んで、事務的でないが感情の揺れを隠した、あの喋り方。その声が耳に入ってきた瞬間、正和の胸の奥で、朝の嘘がゆっくりと形を変えて、重たい塊になった。
「今は、もう頂上を過ぎて、少し下ったところだ。その、景色のいい岩場で休んでるところだよ」
嘘の上に、もう一つの嘘を重ねる。舌が、うまく動かない。正和は、亜佑美が一メートルと離れていない場所に座っていることを確かめないようにしながら、電話の向こうの妻の息遣いだけを聞こうとした。
「そう。今日は暑いから、気をつけて。晩、普通に作っていいけど、あんた、戻りは何時頃になりそうなの」
「夕方には戻る。たぶん、五時か六時には家に着くと思う。風呂の用意は、いいよ」
「分かった。じゃあ、気をつけてね」
久子はそう言って、待ちきれないように電話を切った。受話器の向こうの沈黙が、突然の無音に変わる。正和は、短い通話の中で自分が吐いた嘘の数を、頭の中でなぞっていた。山の仲間と登っている。もう頂上を過ぎた。夕方には戻る。どれもこれも、事実のかけらを糊で貼り合わせたような、曖昧で、それでいて紛れもなく偽りの言葉だった。妻の声は、そのいつも通りの平坦さゆえに、正和の胸の奥の、疚しさの芽を冷たい指で摘まんだ。
正和は、スマートフォンをじっと見つめた。画面の中の「通話終了」の文字が、ゆっくりと消える。彼は、背中に亜佑美の視線を感じていた。その視線が、汗ばんだ自分のフリースを通り抜けて、心臓のあたりを覗き込んでいるような気がした。
「お仕事ですか?」
亜佑美の声が、風に乗って届く。正和は振り返って、言葉を探した。
「いえ、家内からです。遅くなるかどうか、確認の電話でした」
「ああ、そうだったの。奥さま、一日でも何回か、心配されないと落ち着かないのね。素敵なことだわ」
亜佑美は、咎めるでもなく、哀れむでもなく、ただ穏やかにそう言った。その声の中には、電話の相手が誰であっても、それが自分と正和の間に割り込んできたことに対する、ごくわずかな動揺を隠すための明るさがあった。正和はそれ以上、妻のことを言葉にすることができず、カメラバッグの水筒を取り出して、唇もつけずに一口、水を含んだ。
「お待たせしました。すみません、せっかくの景色を」
「私こそ、急に電話が鳴って、なんだか、楽しそうなところを邪魔しちゃったみたいで。正和さん、硬い顔になっちゃってるわよ」
亜佑美は、そう言うと、立ち上がり、風に押されるようにして正和のほうへ半歩近づいた。そして、何の前触れもなく、正和の右腕の、ちょうど肘の少し上あたりに、軽く指先で触れた。ゆっくりと、確かめるように。フリースの上から、彼女の指先の重みが、正和の腕の内側へと染み込んでくる。
「今、ここにいるのは、正和さんと私の二人だけよ。だから、もう、大丈夫」
彼女の声は、囁くような、それでいて明瞭な調子で、正和の鼓膜をくすぐった。指先が触れた場所から、細かな温もりが波紋のように広がり、腕の内側を伝って、ついには胸の奥の早い鼓動まで響いてくる。亜佑美の指先は、決して強くはなく、まるで風に揺れる花びらが一瞬息を止めるように、ごく短い間だけ正和の腕に留まり、離れた。
正和は、その指先の感触を、腕の皮膚の一部で受け止めた。フリースの布地を介しているというのに、彼女の指の先端のふくらみも、爪の軽い硬さも、掌のほんの少しの湿り気も、すべてが明確に伝わってくるようだった。触れられてから離れるまでの、おそらく三秒に満たない時間が、正和の体内でたいせつに薄く引き伸ばされていく。
「ええ。……ありがとうございます」
正和がようやくそう言うと、亜佑美はもう悪戯っぽい笑みを浮かべ、岩陰の荷物を抱えて立ち上がりかけていた。
「さあ、下りましょう。正和さん、あの古い木道を通って、花の写真を撮ってから帰りたいわ。それで、今日の夢に、朝の光が出てくるぐらいに疲れて家に帰れるでしょ」
「そうですね、そうしましょう。下りは、また挟間の沢の音が聞こえます。それを見せてから、駐車場まで送りますよ」
正和は、腕に残った彼女の指先の記憶を無理に消そうとせず、彼女の後ろに続いた。妻からの電話。それによって、今、目の前にいる女との距離が、むしろ不確かなものとして浮かび上がってくる。正和は下り道の足元を見つめながら、嘘の重みを踏みしめた。一歩ごとに、妻の声が足の裏で潰れる。だが、その音を、亜佑美の笑い声が軽やかに上書きしていった。
下山後、駐車場で別れるとき、亜佑美は車の窓から身を乗り出して、最後にこう言った。
「来週の霧、楽しみすぎて、今から寝られなくなりそう。正和さん、また、あの写真送ってくれる? 今日の木漏れ日の」
「ええ、必ず。あの斜面の、光が変わるところも、何枚か撮れましたから」
「嬉しい。私も、今日の正和さんの後ろ姿、送るわ。あの道を先に歩く背中、すごく、山に馴染んでたから」
そう告げて、亜佑美の車が離れていく。正和は見えなくなるまで、その青い車の後部を見送り続けた。夕暮れ前の光が、車の屋根を赤く流れ、駐車場の砂利に細かな影を落としていた。
家に帰ると、妻のオレンジ色のサンダルが、玄関の踏み石に揃えてあった。リビングには、昼に洗ったと思われる湯呑みが、逆さに伏せられている。空気は、昼間の熱を残したまま、しんと冷えていた。正和は、手を洗い、着替えもしないまま暗いリビングのこたつに腰を下ろした。足をこたつに入れても、下半身はまだ山の風をまとったままで、肌がうっすらと火照っていた。
スマートフォンを開くと、亜佑美から既に一枚、写真が届いていた。光の斜面を歩く自分の後ろ姿が、木漏れ日の中で、あの古い杉の苔と同じ色に溶けている。その輪郭のどこを取っても、朝の空気が残っていた。
正和は、その写真を指で何度もなぞった。肌に貼りつく、汗ばんだグリーンのシャツの布。耳の奥に、彼女の口元の笑い声。それから、自分の口元の米粒を取るように示した、あの指先の温度だけが、冷えた部屋の中でも、ちいさな火種のように、胸のあたりで燻り続けていた。そうして、妻から電話を受けた直後、腕に触れた彼女の指先の重みが、深夜の闇の中で、もう一度だけ、ありありと甦るのを感じていた。
第3章 霧の湿原で衣服を脱いだ女をカメラに収める恍惚と、妻への罪悪感が男の指を震わせる

第3章: 霧の湿原で衣服を脱いだ女をカメラに収める恍惚と、妻への罪悪感が男の指を震わせる
日曜の夜が更けていく。正和はリビングのソファに腰を下ろしたまま、スマートフォンの画面に映る一枚の写真を指先で拡大していた。亜佑美から届いたばかりの画像で、あの山道を先に歩く自分の後ろ姿が、木漏れ日の斑の中に溶け込むように写っている。彼女のカメラが捉えた自分の背中は、思っていたより小さく、そしてどこか浮き立つような軽さを帯びていた。久子はとっくに二階へ上がっていて、家の中には冷蔵庫の唸りと、時折どこかの家の犬が夜風に吠える声だけが沈んでいる。正和は写真を指でなぞりながら、鼻の奥にまだ残っている山の湿った土の匂いを、逃がすまいとするようにゆっくりと息を吸い込んだ。
亜佑美からのメッセージには、短い言葉が添えられていた。
「来週の朝、きっと霧が濃いと思う。正和さんの好きな、何かが生まれそうな光が撮れる気がするの」
その文面を、正和はもう何度も読み返している。読むたびに、彼女の明るい声の尾が弾むかすかな震えまで聞こえてくるようだった。返信を打とうとしては、言葉がまとまらず、手を置く。画面の光が指先を青白く照らし、皺の一本一本をあらわにする。六十五の男が、たかが一枚の写真と短い文に、こうまで胸の奥を掻き回される。その愚かしさを久子に見られたらどう思うだろう。いや、妻はすでに眠っている。正和の指は、彼女の知らない場所で、女の残した火種を握りしめている。
「来週の、木道」
正和は声に出して呟き、スマートフォンを伏せた。リビングの闇が一瞬だけ深くなり、ソファの背もたれに預けた首の後ろがじわりと熱い。妻との暮らしの中で、夜明け前の山へ出かける約束をする日が来るとは思わなかった。しかも、相手は二年前に一度、道を教えただけの女である。あの朝、泥の道で分岐を指したとき、まさか彼女と肌の湿り気まで意識し合う仲になろうとは。正和は目を閉じ、彼女の笑った時の目元の小じわを思い描いた。眠りかけた意識の奥で、木漏れ日の粒がはらはらと落ちてくる。
週が明け、正和は仕事のない午前を、カメラの手入れと山の地図を眺めることで埋めた。亜佑美からは湿原の情報が時折、短いメッセージで届く。木道の幅は一人がやっと、朝の四時半が一番霧が濃い、駐車場から二十分ほど歩く、そういった実用的な言葉ばかりだったが、正和にはそのひとつひとつが、彼女の息づかいのように感じられた。互いに「霧の湿原」を口にするたび、見えない肌の温度を探り合うような、時間を引き延ばす密やかな快楽が二人の間に溜まっていく。
金曜の夜、正和は久子に、翌日の早朝に出かけると伝えた。
「山の仲間と日の出を撮りに行く。まだ暗いうちに出るから、鍵は俺が閉めるよ」
久子はテレビから目を離さず、薄い茶色の染め髪をかき上げた。
「あら、早いのね。お茶、水筒に入れようか」
「いや、自分でやるから。起きてる間に、悪いな」
「そう。気をつけてね」
返事の後、久子は録画したドラマの続きを再生した。画面の中の女優の笑い声だけが、リビングの空気に薄い膜を張る。正和はそれ以上何も言わず、台所で茶を水筒に詰めた。蓋を回す手が、なぜかわずかに震えている。茶の表面が揺れて、小さな月が映った。
夜明け前、正和は約束の時刻より三十分も早く、湿原の入口の駐車場へ車を停めた。外は墨を流したような闇で、息を吐けば白く濁る。ヘッドライトを消すと、山の形がぼんやりと浮かび、その輪郭を霧がゆっくりと食んでいる。この時刻の山は、音がすべて別のものに変わる。朝の鳥もまだ眠っていて、風と水の動く気配だけが、地面の下から滲み出してくるようだった。正和はエンジンを切り、しばらく闇の中で自分の心臓を聞いていた。この心臓は、今日という日を始めるためではなく、亜佑美の足音を待つために打っている。
やがて、後方の暗がりから車のライトが近づき、ゆっくりと駐車場へ入ってきた。亜佑美の車両が隣に停まる。ドアの開く音が、静寂の中でやけに鮮やかに響いた。
「正和さん、ごめんなさい、待ったでしょう」
亜佑美の声が闇を割って届く。正和は車から降り、ヘッドライトの残光の中で彼女の姿を探した。彼女は白っぽいウィンドブレーカーを羽織り、手には小さな懐中電灯を持っている。黒髪に混じる白い筋が、闇の中で星のように瞬いた。
「いいえ。私も、つい今来たところです。冷えますね、これは」
「ほんとに。息が真っ白。あ、差し入れ、持ってきたの。コンビニのおしるこ、まだ熱いよ。車の中にいる?」
「ありがとう、いただきます。そうだな、まだ歩くには早い。少し、夜明けを待ちましょう」
二人は正和の軽自動車の中に並んで座り、亜佑美の買ってきたおしるこを手のひらで温めた。缶の熱が指先から腹の奥へ沁みていく。亜佑美がプルタブを開けると、甘い湯気が車内にふわりと広がり、曇ったガラスの内側に小さな粒を作った。正和は、その小豆の香りが、彼女の髪の匂いと混ざって、妙にねっとりと喉の奥へ届くのを感じた。隣に座る彼女の太腿の熱が、ごくかすかに正和の膝を温めている。触れてはいない。触れてはいないのに、その温度だけが、服の布を二枚も三枚も透かして流れ込んでくるようで、正和は指先で缶の縁をなぞりながら、ひたすら夜空の色を窺った。
「今日の湿原、あたし、ちょっと前からずっと楽しみで。正和さんに、星の撮り方も教えてもらおうと思って、レンズ広角に替えてきたの」
「私の古い腕で、よければ。星は、レンズより待ち方ですよ。寒さに耐えて、雲が割れるのを信じる」
「信じる、か。正和さん、そういうこと言うの、きれいすぎて、ずるい」
亜佑美が甘い息をこぼす。正和は、彼女の「ずるい」という言葉に、自分の喉が鳴るのを聞いた。親しみと、もっと別の何かが、その一語にはっきりと輪郭を与えている。夜明けまで、まだ二十分はある。フロントガラスに、だんだんと山の稜線が青い絵の具を流したように浮き出てきた。風はやみ、霧は低い地面を舐めるように漂っている。
「正和さん」
亜佑美が、手にしたおしるこの缶を、両手で包んだまま、少しだけこちらへ体を向けた。
「今日、私、正和さんに撮ってほしいものがあるの。口で言うのは、やめとく。場所に着いたら、自分で、どうするか見せるから」
正和の心臓が、一度、大きく跳ねた。彼女の瞳が、夜明け前の光を吸い込んで、濡れた獣のように光っている。手のひらの中の缶コーヒーならぬおしるこが、冷めていくのと反対に、正和の内側の熱だけが不自然なほど上がっていく。返す言葉を持たず、正和は短く「わかりました」とだけ告げた。
木道の入口に立つ頃には、空の低い位置がようやく藍色にほどけ、足元の草を霧が白く浸し始めていた。山の静けさが、二人の靴音を一つずつ、噛みしめるように呑み込んでいく。亜佑美が前を歩き、ときどき振り返って、細い木道を指さした。そのたびに、ウィンドブレーカーの裾が揺れ、白い霧が彼女のシルエットを後ろから抱き包む。正和はカメラを胸の前で抱え、レンズをまだ外気に慣らしながら、彼女の足取りを目で追った。
「朝の霧って、本当に、音を食べちゃうのね。なんにも聞こえない」
亜佑美が、ほとんど囁くように言う。
「風も、今日は眠ってます。霧が降りた場所は、世界の外みたいになりますよ」
「いいわあ。じゃあ、ここは、世界の外ってことね。正和さんとあたしの、ふたりきりの」
正和は、その言葉に何か返そうとして、唾を飲み込んだ。彼女の言う「ふたりきり」は、写真仲間としての確認なのか、それとも、もっと先へつづく言葉の橋なのか。霧が濃くなるたび、木道の両側の輪郭が消え、地面がなくなる。白い靄の上に爪先だけを置いて歩くような浮遊感が、正和の腰をひやりと撫でた。
湿原のほぼ中央まで来たところで、亜佑美が立ち止まった。木道の幅は、正和の肩幅よりわずかに広い程度しかない。彼女はカメラバッグを置き、ゆっくりと正和を振り返った。その頬が、夜明けの光と霧に挟まれて、陶器の内側から火を灯したように仄明るい。黒い瞳の真ん中に、正和の姿が小さく映り込んでいるのが見えた。
「ねえ、正和さん」
亜佑美が、ウィンドブレーカーのファスナーに指をかけた。金属の音が、ほんの少しだけ霧に吸われて、それから彼女の喉の奥へ落ちていく。
「人がいない場所なら、私を撮ってもいいのよ」
風のない朝の湿原で、その言葉だけが、正和の鼓膜をゆっくりと押し開いた。彼女はためらいなく、ファスナーを下ろして、白っぽいウィンドブレーカーを肩から脱いでいく。下には、あの明るいグリーンのトレッキングシャツを着ていた。木漏れ日のないこの霧の中で、その色だけが、まるで夏の残り火のように鮮烈に燃えている。正和の手に力が入り、カメラのグリップが掌へ食い込む。彼女は、薄いブルーのキャップを脱ぎ、黒髪をひとつに束ねていた留め具を外した。白い筋の混じる髪が、濡れた空気に触れて、ゆるやかに肩へ広がっていく。
「寒い、でも………気持ちいい。霧が、肌にすごくやわらかいの」
亜佑美は、胸元のボタンに手をやった。グリーンのシャツの布地は、わずかに湿気を含んで、彼女の呼吸のたびにゆっくりと起伏する。正和はファインダーを覗き、震える指でピントを合わせた。カメラ越しに見る彼女は、霧の奥から淡い光を背負って立ち上がる、人形よりも生々しい、五十歳の女の輪郭をしていた。一枚目のシャッターを切る。音が、白い空気に小さな穴を開ける。
亜佑美は、襟元を開き、シャツを大きくはだけさせた。素肌の白さが、霧の白さと同化せず、逆に、そこだけ光を溜めている。胸の谷間が、布の暗がりから浮かび上がる。彼女の指先は、小さく震えながら、ボタンを外していった。外れるたび、脇腹から胸の下へ、息を吸う身体の線が露わになる。正和は、片手でカメラを支えきれず、肘を腹に押しつけて構えた。喉が乾き、ファインダーの中の彼女が、羞恥の色を頬に乗せて、ゆっくりと唇だけで笑う。あの、悪戯っぽいのではない、性の入り口に立つ女の笑みだった。
「この前、宿で正和さんが触ってくれた肌、今から、ちゃんと見て。あの日、あたしも、ずっと正和さんの目になりたかったの」
亜佑美は、外したシャツを木道の上に落とし、手を後ろへ回した。アンダーウェアの留め金が外れる。白い布が細い肩紐から滑り、乳房が、冷たい外気に晒された。霧が彼女の肌を撫で、細かな産毛を銀色に立たせる。乳首は冷気と羞恥ですでに硬く尖り、淡い紅色の膨らみの中心で、小石のごとく小さく屹立している。正和は二枚、三枚とシャッターを切った。ファインダーの中に、彼女の心臓が打つたび、乳房の重みがわずかに揺れる。朝はまだ、薄明の前ぶれを空の果てに這わせているだけだった。
「もっと、撮って。私が、自分で脱いでいくところ、撮るんでしょう。正和さんが普段、花を撮るみたいに」
亜佑美の声は、震えているのに、粘るような甘みを帯びていた。彼女は腰に手をやって、スリムパンツのウエストを下ろしていく。下着の縁が見え、太腿のつけ根の柔らかな肉が、白い霧の中へ少しずつ姿をあらわす。正和のズボンの奥で、血が音を立てて集まっていく。妻の顔が、一瞬、まぶたの裏を横切った。沈黙の食卓、冷めた茶、背を向けたまま流しに立つ久子。そのすべてが、この湿原の白人為の霧に包まれて、罪としてではなく、熱として正和の腰を押した。彼は息を荒くしながら、それでもカメラマンとしての自分を、亜佑美の裸身に正しく合わせようとした。カメラ越しでなければ、この場に立っていられない。レンズが、彼の理性の最後の壁だった。
「パンツも、脱いじゃう。この木道の上、誰も来ないよね。正和さん、ちゃんと、あたしのここ、撮って」
亜佑美が、薄い布を膝から下へ滑らせた。露わになった太腿のつけ根に、黒い陰毛が湿った花の影のように貼りついている。彼女は、まだ履きかけのパンツに片足を取られ、不安定に木道の上で身体を揺らした。その艶めかしい不自由さが、正和の目には、霧の精が生まれた瞬間のように映った。亜佑美は、裸の足を交互に上げて、その布を完全に脱ぎ去る。背筋を伸ばし、正和に正面を向けた。
薄暗い湿原の中、彼女の裸身は、自分自身の熱でほの白く光っていた。首から鎖骨、二つの乳房、くびれた腰、そして腹の下の三角形へ、正和の視線が這い上がっていく。亜佑美の肌には、昨夜風呂で洗った石けんの名残と、女の奥から立ち昇る、生温かい匂いとが混ざり、湿った空気の中へゆっくりと溶け出している。正和は、鼻の奥をその匂いが撫でるのを確かに感じた。日焼け止めと汗と土の匂いが記憶を刺激する。ああ、この匂いだ、と、正和の身体の一番底が疼く。彼のペニスは、ズボンの布を内側から押し上げ、先端がむずかるように熱い液を滲ませ始めている。
「……綺麗だ」
正和は、ファインダー越しに、そう言った。亜佑美の黒い瞳が、こちらの目をまっすぐに見つめる。彼女は、自分の手を胸のふくらみの下に添え、そっと持ち上げた。乳首が、正和のレンズに向かって、こちらの視線を誘うように尖る。シャッターを押す。彼女はやわらかく酸っぱい吐息をもらし、首を後ろへ傾けた。その喉が、白く、細く、鳥の喉のように震えている。
「正和さん……」
亜佑美が、一歩、木道を踏み出した。素足の裏が濡れた板に吸いついて、くちゅ、と小さな音が立つ。霧が彼女の足首にまつわる。正和は一歩後ずさり、それでもファインダーを外せない。彼女は、カメラのすぐ前まで来ると、そのレンズの先に手を伸ばした。指先が、ガラスの表面に触れる。濡れた指紋の跡が、レンズの向こうの世界を曇らせた。
「これ、今度は、わたしが正和さんを見る番。このレンズの奥に、正和さんがいる。あたしの裸、いっぱい見てる正和さんが」
正和は、息を止めた。彼女の指が、レンズの曇りを拭うように滑る。その指は、今朝方までおしるこの缶に触れていた指だ。熱いものと、冷たいもの。正和のズボンの前は、すっかりひどい形に膨らみ、歩くことすら難しくなっている。亜佑美は、その膨らみに、細い目を向けた。そして、明るい声を、朝の空気へ落とすように言った。
「撮ってると、いつも気づくの。正和さん、カメラに夢中になればなるほど、ここ、熱くなってるね。前の山のときも、そうだった」
亜佑美の声は、正和の苦しげな沈黙を包み込むように柔らかい。彼女は、木道の脇の、低い小岩を指さした。霧に濡れた岩が、朝の光をこれから受けようとしている頃合いである。
「あそこ、岩の上。正和さん、あそこに座って。あたし、今日は、正和さんに見せてあげる。カメラ越しじゃなくて……素手で触って、ほしい」
正和は、カメラを下ろし、自分の呼吸が白く乱れるのを自覚した。彼の眼鏡の奥の垂れた目が、亜佑美の裸身を直視している。眼鏡越しの世界が、霧で湿り、いつもの焦点を失いかけていた。彼女が再び一歩を踏み出す。腕が伸びる。その指先が、正和のフリースの袖をぎゅっと掴んだ。布越しに、彼女の手の熱が、骨の髄まで流れてくる。
「触って、いいよ。私は、正和さんに触ってほしくて、朝の四時から山に来てるんだから」
亜佑美が、正和の手を取って、自分の胸へ押し当てた。乳房の柔らかい肉が、厚い男の掌の中で、生きもののように熱く呼吸している。正和は、指をゆっくりと動かし、その弾力を確かめた。汗で湿った肌が吸いつく。冷えた乳首が、指の股の間で硬く育っていく。亜佑美の口から、「んぅ」という言葉にならない声が漏れ、霧の中へ消えた。
二人は、木道から少しだけ外れ、濡れた草を踏んで岩の前へ移動した。亜佑美が、岩の上に腰を下ろそうとする。正和は、彼女の素肌に残る衣類の擦り傷を案じて、自分のフリースを脱ぎ、岩の上に敷いた。背中から亜佑美を抱えるようにして、その上へ座らせる。彼女の肩が、正和の胸に触れて、震える。
「優しいのね。でも、正和さんの服、びしょびしょになっちゃうわ」
「かまいません。あなたが寒くないほうがいい」
正和の声は、かすれて、だが確かに優しさを帯びていた。亜佑美が振り返って、正和の頬へ唇を寄せる。柔らかく触れた。その唇には、おしるこの甘い香りが微かに残っていて、正和の鼻の奥をくらくらとさせた。彼は、遠慮がちに彼女の裸の腰を抱き、自分の胸の上へ背中を預けさせた。カメラは、とっくに岩の下の草の上へ置かれている。正和の指が、下から亜佑美の乳房を支えるようにして揉む。掌が、濡れた絹のような肌の起伏をたどるたび、亜佑美は「あっ、はぁん」と短い吐息をこぼした。鳥が一羽、朝の湿原を低く掠めて鳴く。さえずりとはぐれたその声に、亜佑美のつま先が、ひくりと跳ねるのが分かった。
正和の指は、彼女のへそのあたりをゆっくりと下り、湿った陰毛の茂みへ、五本ぶんの体温を預けた。亜佑美は、岩に手をつき、太腿をわずかに開いた。正和の指が、その奥へ、もつれるように分け入っていく。ぬめる花弁の肉が、指先を誘う。彼女の腰が、正和の腹に押しつけられ、小さく揺れた。
「すごい……もう、そこ、ぐちゅぐちゅ。朝から、こんなにしてたの、ずっと我慢してたのが、正和さんに触られたら、ぜんぶ、溢れてきちゃう」
亜佑美の淫らな囁きを聞きながら、正和は、妻の眠る家を頭の端に追いやった。そのかわりに鮮やかに浮かぶのは、朝の山道で、汗ばんだグリーンのシャツを背中に張りつかせて歩く、この女の姿である。あの布の食い込みの記憶が、今、指先で触れている熱い肉の感触と、ひとつに結ばれていく。
「もう、正和さん、指、いれて……」
亜佑美がうわごとのように囁き、正和の手首を掴んで導く。ぬるぬるとした蜜で満ちた狭い入り口に、正和の中指と人差し指が、根元まで吸い込まれていく。
「ああっ……あ、くちゅ、んぅ……」
亜佑美の膣内は、熱い汁でぬめり、正和の指をぎっちりと締めつけた。くちゅ、ぬちゅ、と掌にまで蜜がこぼれ、霧の中で卑猥な水音が、こだまのように二人の耳を打つ。正和は、指を曲げて、彼女の内壁のざらつく場所をゆっくりと擦り上げた。
「あっ、だめ、そこ、されると、あたし、声、出ちゃう……!」
「声を出しても、かまいません。今日は、誰もいませんよ。鳥と、霧だけです」
正和の低い声が、亜佑美のうなじに落ちる。彼女は首を振り、しかし太腿を自ら閉じることもできず、正和の指に腰を擦りつけた。絶えず溢れる愛液が、指のつけ根を伝い、冷たい岩の上にまで垂れていく。亜佑美の乳首は、朝の光を受け始めて、汗で金色に濡れていた。
「正和さん、正和さん……あたし、もう、指、だけじゃ、たりない……。お願い、正和さんの、ここ……ぬいて、あたしのなかに……」
亜佑美が、振り返らぬまま、正和のズボンの膨らみに手を伸ばしてくる。指がひっかかる。彼女の手は、夢中でベルトを探し当てると、またたく間にそれを外し、下着の上から硬くなったペニスを握りしめてきた。それはもう、あの夜の宿で味わわせてもらったときの、血の匂いのする熱さだった。正和の口から、息が漏れる。「は、あ」と短い声が霧に溶けた。
亜佑美の指が、正和の下着のウエストを下ろし、剥き出しの肉棒を夜明けの冷気へ導き出す。先端から、ぬるりと我慢汁が糸を引く。彼女は、それを親指で拭い、自分の唇に運んで舐めた。女の唾液が、朝の光で細く光る。
「やっぱり、正和さんだ……すごく、かたい。先っぽ、濡れてる。ね、挿れて。あたしのなかで、正和さんを、ぜんぶ感じたい」
正和は、亜佑美の腰を後ろから抱えたまま、彼女を岩の上で四つん這いに導いた。濡れた岩肌に、彼女の掌が置かれ、白い乳房が重みで垂れる。霧の中、その裸の背中が、狂おしいほどの曲線を描いていた。正和は、彼女の背後に膝をつき、震える指で自分の肉茎を支え、亜佑美のとろけきった膣口にあてがう。くちゅ、と亀頭が蜜を割り、できたばかりの朝の生物のように、二人の接合部が小さく呼吸した。
「ああ……正和さん、そのまま、ゆっくり……は、あああ、あたし、正和さんで、いっぱいになるぅ……」
正和は、ためらうことなく、腰を押し進めた。ずぶりというより、ずるるる、と、彼女の襞が肉棒を根元から呑み込んでいく音がする。粘液が泡立ち、溢れ出した汁が正和の陰毛を濡らす。
「あっ、ああ、先生みたいに、奥、とどいちゃう……んぅ、正和さんの、なかで、ふくらんでる、ああ、すごい……」
亜佑美の膣が、正和の肉茎に、何層ものぬめる肉で巻きついてくる。それは、性器というより、女の内臓の裏側まで続く、湿地の洞窟だった。正和は、腰をゆっくり前後に動かす。妻の背中と、冷めた茶の湯気が、一瞬頭をかすめる。だが、それも、すぐに亜佑美の叫びに射抜かれた。
「は、んぅっ! あっ、ああっ、すご、い……下の、おまんこ、正和さんに、ひらかれちゃう……。奥、ぐりぐり、してぇ。あたし、もっと、おかしく、なる」
正和は、眼鏡の奥の目を細め、腰を大きく突き上げた。ぱちゅん、と濡れた音が、朝の静謐を裂く。亜佑美は背をしならせ、岩に爪を立てた。鳥のさえずりが、二人の荒い息と溶け合い、霧の底から、沢の音が、水音のように追いかけてくる。
「ああ、いや、そんなに、はげしく、されたら……あたし、すぐ、いっちゃう。……あぁん、ああ、いま、なか、とけて、水、でちゃってる……、正和さんの、ペニス、さわってる、あたしの、なか……、くちゅくちゅ、いって、めちゃくちゃ、なってる」
亜佑美が、羞恥を言葉にしては、さらにそれを快感に変えていく。正和の腰は、もう止まらなかった。彼は、自分が六十五の男であり、妻帯者であることを、しかしこの岩の上で、忘れてしまうほどの熱に、骨の芯を焼かれていた。汗が背中を伝い、亜佑美の腰に落ちる。土と汗の匂いが、二人の周りに、濃い幕を張った。
「正和さん、はあっ、ああっ、締めるっ、あたし、締めちゃうっ、ああ、いや、くるっ、あたし、もう、いっちゃう、いっちゃう、いっちゃう……ッ!!」
亜佑美が、悲鳴にも似た声を上げ、全身をのけぞらせる。膣内が、正和の肉茎に、これ以上ないほどの力で、にじり寄るように吸いすがり、痙攣した。
「……ああ、ああ、ああ、死んじゃう……、せ、んせ、い……、正和さぁん……」
彼女の声は、涙で濡れていた。正和は、締まりきった女の最奥に、堪えきれず、どろどろと熱い精を吐き出した。どくん、どくん、と彼の精が亜佑美の子宮口を叩くたび、彼女の身体が、小さな生き物のように跳ねる。正和は、亜佑美の背中に覆いかぶさり、荒く息をついた。
静けさが、あとからやってきた。遠くの沢と、二人の息だけが、霧の中でゆっくりと沈んでいく。亜佑美は、正和の腕の中で、ふたたび深く息を吸い込んだ。そして、汗と土の匂いが残る正和の背中に、鼻を寄せた。
「正和さんと、山の匂いが、混ざってる。いい匂い。帰りたくない、このまま、ずっと、こうしてたい」
正和は、彼女の黒髪に、頬を寄せる。妻の沈黙は、もう、この霧の向こうにある。彼は、亜佑美の汗ばんだ裸身を腕に閉じ込めながら、自分の中の空白が、埋まるどころか、別の飢餓に変わり始めているのを、うっすらと感じていた。
第4章 山行を重ねるごとに増えていく妻への嘘と、慣れてゆく背徳の蜜の味

第4章: 山行を重ねるごとに増えていく妻への嘘と、慣れてゆく背徳の蜜の味
山の空気が、肌に触れるだけで蜜のように甘く感じられた。正和は自宅の玄関を出て、鍵を回す。朝の光はまだ薄く、東の空は白み始めたばかりだった。妻の久子はもう起きている。いや、台所から聞こえるのは、トースターの庫内でパンが焼ける匂いと、流しの水音だけ。あの音を背中で聞きながら、正和は靴紐を結び直した。
「今日は、山の仲間と登ってくるから。夕方には戻るようにするよ」
声をかけると、水音が一瞬止まる。それから、いつものように短い返事が返ってきた。
「そう。お昼は、どうするの」
「向こうで軽く済ませる。心配しなくていい」
「そう。じゃあ、気をつけて」
それきりだった。水音が再び流れ始める。正和は玄関の扉を閉めて、外の空気を吸い込む。朝の住宅街には、生垣の匂いと、昨夜の雨の名残りが薄く残っていた。正和は歩きながら、先ほど口にした「山の仲間」という言葉を、もう一度だけ口の中で転がす。
この二ヶ月ほどの間に、正和は同じ嘘を何度繰り返しただろう。山の仲間と登る、撮影会がある、朝日を見に行く、紅葉の下見だ。そのどれもが、亜佑美との山行を隠すための薄い幕だった。最初のうちは、嘘をつくたびに、舌の根に苦いのが残った。妻に背を向けるとき、後ろめたさが背中を丸くさせた。
だが、いつの頃からか、その苦みに甘い毒が混ざるようになった。嘘は、自分という男と亜佑美という女をつなぐ、秘密の橋だった。繰り返すたびに、橋は少しずつ太く、滑らかになっていく。
車を走らせる。山へ向かう道は、今日も同じように青い稜線を遠くに浮かべていた。正和はハンドルを握ったまま、鼻の奥に残る女の匂いを探す。あの湿原の朝から、何日が過ぎた。亜佑美の肌を、最後に触れたのはいつだったか。指先はまだ、彼女の体の輪郭を覚えている。腰のくびれ、汗ばんだ乳房の重み、太腿の内側のぬめる熱。思い出すたび、ズボンの奥が重く張りつめた。
助手席のカメラバッグが、カーブのたびに小さく揺れた。正和は片手でそれを押さえ、山道への分岐を曲がる。今日の待ち合わせは、いつもの登山口ではなかった。人目を避けた、北の尾根へ抜ける使われていない林道の入口。亜佑美が「誰も来ない、秘密の場所」と呼んで指定した地点である。
林道の入口に車を停めると、待っていたのは、今日も明るいグリーンのシャツだった。彼女は薄いブルーのキャップを目深にかぶり、手を振っている。正和が車から降りると、亜佑美は小走りに近づいてきて、息を弾ませた。
「正和さん、おはよ。早いね。私、今来たばかりなのに」
「私も今です。それにしても、いい場所ですね。車が一台も通らない」
「でしょ。ここ、地元の人もあんまり来ないんだって。尾根まで、ずっと貸し切りになると思う」
亜佑美が笑う。その笑顔は、湿原の朝の淫らな顔を、どこか遠くへ置いてきたように清々しかった。けれど正和は知っている。山へ入ってしまえば、この女は、自分の前でだけ、別の顔を開く。
二人は並んで歩き出した。使われていない林道は、雑草がアスファルトの割れ目から伸び、あちこちに熊笹が被さっている。朝露が草の葉に残っていて、歩く靴先を濡らした。空気は冷えて澄み、風がないぶん、二人の足音と息遣いだけが、林の奥へ吸い込まれていく。
「正和さん、ここから支稜に出るんだよね。あの前、地図で見たけど、かなり急なんでしょう」
「ええ、でも、距離は短い。最後の登りが岩場になりますが、そこを過ぎれば尾根は歩きやすい」
「岩場、私、ほんとは苦手なんだけど、正和さんとだから大丈夫。あんたの背中を追って登るの、好きだもの」
亜佑美が、半歩先を歩きながら、振り返りもせずに言う。正和は、その背中を目で追いながら、ごくりと唾を飲んだ。彼女のグリーンのシャツは、歩き始めてまもなく、背骨に沿ってうっすらと汗の色を滲ませている。肩甲骨の動きに合わせて、布地が肌へ吸いつき、腰のくびれを浮き上がらせた。
あの湿原の朝から、二人の山行は明らかに変わった。カメラを首から下げているものの、ファインダーを覗く時間は、以前よりずっと短くなっている。花を見つけても、彼女の横顔を眺める時間のほうが長い。木漏れ日が彼女の首筋に落ちるたび、正和の目は、シャッターを切るよりも先に、その光の下の肌を追っていた。
足元の悪い斜面を、亜佑美がずり落ちそうになった。正和がとっさに手を差し伸べる。指先が、彼女の汗ばんだ手首に触れた。その瞬間、湿原の朝の感触が、二人の間に音を立てて蘇る。
「……つかまって。この土、雨で滑りますから」
「ありがと。ほんと、正和さんの手があったかい。また、あの朝のこと、思い出しちゃった」
亜佑美が、潤んだ目を上げて、いたずらっぽく笑う。正和は彼女の手首を離さなかった。指先が、脈を打つ内側の柔らかな皮膚の上で、ほんのわずかに動く。亜佑美の息が浅くなり、胸元が上下した。グリーンのシャツの第一ボタンが、汗と湿気で肌に張りついている。布地の下で、心臓の音が速まっていくのが、正和の指に伝わってくるようだった。
「先を、急ぎましょう。岩場の手前まで、あと少しです」
正和は、ようやく手を離す。亜佑美は黙ってうなずき、彼のあとを追う。足音が、濡れた土を踏む官能的なリズムに変わっていく。
岩場を登り切ると、尾根の上は思いのほか明るかった。まだ朝の九時を回ったばかりだというのに、木々の葉を透かした光が、地面いっぱいに細かな斑を落としている。風が梢を渡り、木漏れ日が揺れるたび、正和の手の甲の皺にまで、光の粒が転がった。
亜佑美は大きく息をついて、振り返った。
「きれい……ここ、人が来ないのに、光はこんなに溢れてるのね。正和さんと来ると、山がいつもより深いものみたいに思えてくる」
「光の角度がいいんです。この季節の、朝の九時、このくらいの高さが一番、尾根の稜線がはっきり出ますから」
「もう、またそういうこと言う。でも、いいわ。正和さんのおかげで、あたしも、この光の粒が見られるようになったんだもの」
亜佑美は、リュックを下ろして、汗を拭いた。首にタオルをかけ、その端を引っ張りながら胸元を仰ぐ。開いた襟元から、白い肌と、谷間の浅い影がのぞいた。正和は、その光景を視界の隅で焼きつけながら、自分のリュックから水筒を取り出す。
「少し休みましょう。岩場で体力を使った」
「うん。あんたも、ここ、座って。私、おにぎり作ってきたの」
亜佑美が、岩の上にタオルを敷いてくれる。正和が腰を下ろすと、彼女はその隣に、肩が触れるか触れないかの距離で座った。汗と日焼け止めの匂いが、朝の山の空気に溶けて、正和の鼻先をくすぐる。彼は、その匂いを深く吸い込みながら、妻の作った漬け物と、亜佑美の持ってきたおにぎりを差し出し合った。
「正和さん、今日ね、私、ここで、もう一度、あなたに撮ってほしいの」
亜佑美が、おにぎりを頬張りながら、ぽつりと言った。その声は、山鳩の鳴き声の合間を縫うように、静かに正和の耳へ落ちてくる。
「ここ、こんなに明るくて、木漏れ日が揺れてる場所で。あの朝の霧の湿原は、白くて、音がなくて、世界の外って感じだったでしょ。今日は、光がいっぱいの中で、あなたの目にいっぱい映りたいの」
正和は、箸を持つ手を止めた。亜佑美の黒い瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。その視線には、裸の湿原でレンズ越しに交わしたあの日の熱が、そのまま引き継がれていた。正和は、彼女の言葉一つひとつを、喉の奥で味わうように呼吸を整えた。
「こんな明るいところで、誰かが見ないか、怖くないですか」
「怖い。すごく、怖い。でも、正和さんにだけ見られるのなら、光に照らされてるほうが、あたし、もっと恥ずかしくなれる。羞恥が、あなたの目で、熱に変わっていくのを、また感じたいの」
亜佑美の唇が、薄く開く。正和は、手に持っていた箸を下ろし、彼女の頬へ手を伸ばした。親指で、唇の端についた米粒を、するりと拭う。亜佑美が、びくりと肩を震わせて、目を細めた。
「ごめん、ついてた?」
「いえ。何か、ついてるかと思って」
正和の指先が、亜佑美の唇の輪郭をなぞる。彼女は、その指を唇で挟み込むようにして、ちゅ、と小さく吸った。舌先が、正和の指先をねっとりと這う。亜佑美の唾液が、指の腹に熱く滑り、正和の腰の奥を一度だけ強く締めつけた。
正和は、ゆっくりと指を抜き、その指を自分の口元へ運んだ。彼女の唾液の味が、舌先に広がる。亜佑美が、息を呑んだ音が聞こえた。
「正和さん……やらしい。そんなとこ、初めて見た」
「あなたが、私をそうさせたんですよ」
正和は、妻の作った漬け物を口に含んだ。酸味が、亜佑美の唾液と混ざり、舌の根に絡む。頭の片隅で、妻の顔と、台所の匂いが、一瞬だけ揺れた。だが、それも、亜佑美の汗の匂いが鼻をかすめると、すぐに霧散していった。
「ここ、支稜の突き出た場所のほうが、もっと光が綺麗。正和さん、あたしを、あそこに連れて行って。杉の幹に背中を預けて、木漏れ日を浴びてるところ、撮ってほしいの。服を着たまま、撮って。それから、少しずつ……」
亜佑美が、正和の耳元へ唇を寄せて囁く。その言葉は、冷たい山の空気に、甘い毒を溶かすように滲んでいった。正和は立ち上がり、亜佑美の手を引いて、尾根の先へ向かう。
支稜の突端は、古い杉が一本、空へ向かって生えていた。根元は岩に抱かれ、周囲には踏みあとひとつない、灌木と倒木ばかりの、未開の一角だった。木漏れ日の粒が、地面に金の砂を撒いたように揺らめいている。正和は、カメラを取り出し、亜佑美の姿をファインダーに捉えた。
「あの木の、根元に立って、少し顎を上げて。光が、ここからだと斜めに、あなたの鎖骨へ落ちます」
「こう?」
亜佑美が、杉の幹に背中を預けて立つ。グリーンのシャツは汗で彼女の肩甲骨にくっきり張りつき、薄い生地の下で、下着のストラップの形が浮き上がっていた。彼女は、キャップを脱ぎ、黒髪を指でかき上げる。白い筋が混ざった毛先が、木漏れ日の中で、銀の糸のように光る。正和は、その姿にカメラを構えた。シャッター音が、静かな山の空気を裂く。
「もっと、腰を少しだけ、こちらへ。それで、上目遣いで」
正和は、カメラ越しに、亜佑美の汗ばんだグリーンのシャツを凝視した。汗の湿りは、布を透かして、乳首のある場所まで、うっすらと肌色を見せ始めている。ズボンの前列が、痛いほど窮屈に張りつめるのを、正和は押し隠すように、膝を折った。
亜佑美が、シャツの裾に手をかける。
「自分で脱ぐから……ちゃんと、いっぱい撮って。あの朝は、無我夢中すぎて、正和さんのカメラの音しか覚えてないの。今日は、自分から、全部、あなたの目にあげたい」
亜佑美は、ボタンをひとつずつ外し始めた。木漏れ日が、彼女の指の動きを追って、肌の露わになる部分をなで上げる。シャツの前が開くと、白い下着が露わになる。汗で薄紅色に染まった胸元の肌に、光の粒が吸い込まれるように落ちた。
「見て、正和さん。こんなに光が、あたしの肌を透かしてる。だから、あの朝の霧より、ずっといやらしい気分になるの」
正和は、シャッターを切りながら、亜佑美の声に、腹の奥が燃えるのを感じた。彼女は、下着の肩紐をずらし、乳房を露わにしていく。木漏れ日の中で、汗に濡れた肌が、ぬめる光を放つ。彼女の乳首は、外気に触れる前から、硬く、薄紅の蕾のように尖っていた。
亜佑美が、苦しそうに吐息をこぼす。
「正和さんの目が、ファインダーの向こうで、あたしの乳首を舐めてるみたい……。ああ、もっと、足を開いたほうが、光が入る? そうよね。せっかくなら、全部、見てほしいもの」
彼女は、岩の出っ張りに腰を預け、膝を開いた。スリムパンツの股間の布地が、湿った太腿の付け根に食い込む。汗と、女の匂いが、山の清浄な空気を、密度の濃いものへと変えていく。
「脱がせる? それとも、自分で脱ぐ? 正和さん、どっちが好き」
「……あなたが、脱いで見せてください。私の目の前で」
「いやらしい。でも、いいよ。あたし、正和さんの言うことなら、なんでも見せる。あなたの放蕩な女でいたいの」
亜佑美は、スリムパンツのウエストを下ろし、下着ごと引き下げていく。露わになる太腿の付け根。黒い陰毛の下部が、汗と女汁で、すでにしっとりと光っていた。正和は、鼻の奥を広げ、その甘酸っぱい匂いを吸い込む。頭がくらくらする。六十五の男が、朝の山で、妻以外の女の股間を、カメラ越しではなく、直に目の当たりにしている。その背徳の味は、甘く、むしろ、年甲斐もなく自分という人間を、この世に留めておく唯一の力のようにさえ思えた。
「私、枝より、この幹に足をかけたい。あの、少し傾いたところ。木漏れ日が、あたしの下まで届くんなら、そこから、おまんこ、開いて見せるわ。正和さん、撮って。あんたの好きなやつ、一番いやらしい格好、してあげるから」
亜佑美は、素裸のまま、杉の幹に背を憑け、右足を、折れた枝の付け根に乗せた。太腿が開き、熟れた女の肉が、光の中で露になる。彼女は、両手で自分の陰唇を押し広げた。ピンクの襞が、朝の光に照らされ、ぬるぬると蜜を溢れさせる。淫裂の奥が、女という生きものの、いちばん深い飢えの場所を、生々しく映し出した。
「正和さん……あたしのここ、撮ってる? もっと近くで」
正和は、膝を突き、レンズを彼女の性器に近づけた。亜佑美の膣口が、指で左右に割られ、中まで光が差し込んでいる。くちゅ、と、彼女の指が動くたび、蜜が泡立って、小さな音を立てる。山の静寂の中で、その水音だけが、やけに鮮明に、正和の鼓膜を刺激した。
「入れるとき、音、したの。あの朝も、そう。正和さんが、あれを、ゆっくり入れてきて……あ、ああ、思い出しただけで、中、切なくなってくる。持ってきて、正和さん。あなたのペニス、こっちに」
亜佑美が、脚を開いたまま、正和のズボンをまさぐった。ボタンを外し、チャックを下ろす音が、濡れた空気に跳ねる。彼女の指が、下着をずらし、硬く反り立った正和の肉柱を、女汁でぬめる手で握りしめた。
「ああ……おっきい。山に来るたび、あんたのこれが、私のなかで、どれだけ固くなるか、考えるの。車の中で、家で、夜、考えて、おまんこ濡らしてるの」
亜佑美は、正和を木の根に座らせると、自分がその腰を跨いだ。ぬかるむ亀頭を、彼女の膣口に押し当て、ゆっくりと沈めていく。ぬちゅ、ぬちゅ、ぐぷぷ、と、肉の割れる音が、尾根の茂みに吸い込まれる。亜佑美が、全身をのけぞらせ、長い吐息とともに、正和を根元まで呑み込んだ。
「あああ……は、はいってる……正和さんの、あたしの奥で、また、太くなってる……おまんこ、おまんこの形、えぐられてる……」
正和は、亜佑美の腰をつかみ、下から突き上げた。木漏れ日が、交わり合う二人の肌の、汗ばんだ起伏を、海のような光で洗っていく。亜佑美の乳房が、揺れるたび、彼女の膣の中が、きゅうっと締まり、正和の肉柄を締めつけた。
「土の上、草が、お尻に食い込む……。畜生みたいに、交尾してる。朝なのに、光の中なのに……正和さん、私、山で、あんたと、獣になってる」
亜佑美の口から、泣き声の混じった喘ぎが溢れ続ける。遠くで、山鳩が、二人の性交の音を断つように鳴いた。正和は、腰を打ちつけながら、亜佑美の背を抱きしめ、彼女の汗を吸い込み、自分の老いた背骨を、女の若い肉で満たしていった。これは、嘘の果てだ。だが、このために、自分は今日も「山の仲間」という毒を飲んだのだ。
満ち足りて、無言で支稜を後にする。ふたりの歩く土の上に、さっきの行為の名残の匂いが、かすかに尾を引いていた。
帰宅したのは、十七時を少し回ったころだった。正和が居間へ入ると、妻の久子が、台所から振り返らずに言った。
「おかえり。ずいぶん、汗の匂いがするわね」
正和は、どきりとして、玄関で靴を脱いだ手を止めた。
「ああ。山は、今日は風がなくて、湿気が強かったから」
「お茶、あるわよ。先に、手を洗ったら」
「……ああ、いただく」
正和は、洗面所で手を洗い、自分の体から漂う、汗と土の匂いに、亜佑美の匂いがまだ混ざっているのを感じた。彼は、居間へ行き、冷蔵庫から出されたお茶を、喉へ流し込む。妻の眼差しは、もうテレビへ戻っていた。
台所の食卓に、久子の作った漬け物が、小皿に載せてある。正和は、その一片を箸でつまみ、口に入れた。
瞬間、朝の山で、亜佑美の唾液と汗の味が、舌の奥から溢れてきた。
正和は、箸を止めた。うまいとも、まずいとも、判断できるものではなかった。ただ、それが口の中で、自分の二重性と融け合い、甘く、苦く、生々しい空白を、腹の底に落としていった。漬け物の酸味が、亜佑美の汗の味と重なる。正和は、しばらく、その味を噛みしめていた。
第5章 自宅に戻った男の指先と鼻の奥に残る女の残り香、満たされぬ渇きが空白を広げる

第五話 自宅に戻った男の指先と鼻の奥に残る女の残り香、満たされぬ渇きが空白を広げる
箸を置いたまま、正和は台所の壁時計を見上げた。短針はまだ五時を少し回ったばかりで、久子がフラワーアレンジメントの教室から帰るには一時間ほどの間があった。食卓の上には、食べかけの胡瓜の糠漬けと、湯気の消えた茶碗がひとつ、蟻一匹寄りつかない静けさで並んでいる。正和は、冷めきった茶碗の中の飯粒を、爪の先でつつくようにして転がした。米の一粒一粒が、亜佑美の肌の上に散った木漏れ日の粒に重なって見える。あの支稜の杉の根元で、彼女の背中を流れ落ちていた光の斑。汗で濡れた肌が、その光を吸い込むたび、白い肌の内側から淡い紅がゆっくりと滲み上がっていた。あの光景が、台所の蛍光灯の下に置かれた白米の上へ、音もなく重なってくる。
正和は指先を、ゆっくりと自分の鼻先へ運んだ。まだ残っている。朝の山の匂いが、指の股の奥に、ねっとりと棲んでいる。石けんで落としきれなかった女の汗と、土と、腐葉土の甘い匂い。そして、あの支稜の突端で、亜佑美の太腿のつけ根に顔を埋めたときに嗅いだ、濃く熟れた女の匂い。それは、もう洗ってしまってから半日近く経つのに、正和の嗅覚の一番深い場所から離れようとしない。指先を鼻へ近づけるたび、腰の奥が、ずくり、と重く疼いた。
「くそ……何をやってるんだ、俺は」
声に出たわけではない。喉の奥で、言葉の形が潰れて消える。正和は立ち上がり、台所の窓を開けた。外から、夕方の涼しい空気が流れ込んでくる。近所の家の夕餉の匂いが、どこかの換気扇からかすかに混ざっている。ずっと向こうで、子供の帰宅を呼ぶ母親の声がした。夕方の住宅街の空気は、凪いでいて、湿度が低く、肌の表面をゆっくりと冷やしていった。
正和は、窓枠に手を置き、深く息を吸い込んだ。
「帰りは、六時半ってところか……いや、いつも通りだな」
彼は、自分でも何を確かめようとしているのか分からなかった。この家のいつもの夕暮れを、指先の匂いで汚してしまわないために、外の空気を取り込もうとしているのかもしれない。ぶら下がったままのカメラバッグに目をやる。今日の山行で、何枚、シャッターを押しただろう。尾根の木漏れ日、杉の幹、亜佑美の汗ばんだ脇腹、自分から開いた濡れた秘裂。カメラの中のデータは、正和の心の内部まで映しているわけではないはずだ。だが、あのメモリーカードを一枚開けば、そこには今朝の自分の獣のような顔が、画素の隙間から覗いている気がして、正和はバッグのファスナーに手をかけられなかった。
リビングへ戻り、ソファに浅く腰を下ろす。テレビのリモコンに手を伸ばしかけて、そのまま引き戻した。点けたくない。画面の中の録画バラエティの笑い声が、今日の自分の身体に染みついた女の声と、うまく混ざり合わない予感がした。静寂のままでいたい。冷蔵庫の唸りが、壁の向こうから低く響いている。リビングの西窓から、夕陽が差し込み、磨り硝子の向こうで橙色に溶けていた。畳の上に、窓枠の影が斜めに落ちている。正和は、その影の輪郭を、ただぼんやりと眺めていた。
亜佑美の肌を、もう一度思い出す。尾根の上で、彼女は自分の前で、ゆっくりと下着を下ろした。あのとき、太腿のつけ根から立ち上った匂い。汗と、女の匂いと、そしてほんのわずかな土の匂い。彼女の陰毛は、朝の山の湿気を吸って、しっとりと黒く光っていた。あの黒い茂みの奥を、自分の舌で割ったとき、亜佑美は背中をのけぞらせて、鳥のさえずりの切れ間ごとに、短い鳴き声を漏らした。
「ん……あっ、せんせ……あ、んん……」
あの声が、耳の奥に、まだ残っている。正和は、自分の腿の上に置いた右手を、ぐっと握った。指の関節が白くなるまで握り込む。手のひらには、亜佑美の太腿の内側を掴んだときの、あの弾力のある肉の感触が残っていた。五十歳の女の太腿は、汗で滑るのに、中身は締まっていて、掴むほどに男の指を押し返してきた。
時計の音が、リビングの静寂に、かち、かち、と刻まれていく。正和は背もたれに頭を預けて、天井を仰いだ。白い天井に、夕陽の色が淡く広がっている。ああ、この空白は、いったい何だろう。
「明日、あの写真、どうするか……」
カメラの液晶を開くことが、怖い。いや、正確には、あのデータを整理する自分の顔を、妻に見られることが怖い。久子は、もうすぐ帰ってくる。夕飯の支度の音が、この家の中に、いつものリズムで満ちる。そのあいだ、正和はカメラバッグを押し入れの奥へ押し込み、風呂を済ませ、またぬるい夕餉の時間をやり過ごす。
「……それでいいのか、俺は」
正和は、鼻の奥を指でこすった。指の股から、あの女の匂いが、ふたたび立ち上る。山の木漏れ日、薄紅のエビネ、二年前の雨上がりの泥道。それらがすべて、一つの匂いとなって、正和の胸の空洞を満たし、しかし、やはり満たしきれずに消えていく。
夕方の光が、いっそう濃くなった。正和はソファから立ち上がり、昨夜、久子が脱いだままにしていた薄手のカーディガンを、丁寧に畳んだ。淡い生成りの生地は、洗剤の香りがすっかり抜けて、わずかに久子の整髪料の匂いだけが残っている。彼女の部屋のドアの前へ、それを置く。ノブに手をかけることはしない。ただ、黒いカメラバッグを、リビングの隅の影へ押しやった。
そこへ、玄関の鍵が回る音がした。久子の帰宅である。正和は顔を上げ、壁のスイッチへ手を伸ばした。六月の朝に見たスーツの抜け殻が、まだそこに、うっすらと埃を積もらせている。蛍光灯の光が、リビングの隅々まで輪郭を暴いていく。明るくなった部屋の中に、亜佑美の残像はもう浮かばなかった。ただ、指先と鼻の奥に、彼女の残り香が、静かに、しかし確かに、居座り続けていた。
「あら、電気、点いてなかったの。暗い中で何してたの」
久子の声が、廊下の奥から届く。声に押されて、正和の胸の奥で、別の女の息遣いが、一瞬、虫のように羽音を立てた。
「ああ……ちょっと、考え事をな。今、点けたところだ」
正和は、畳の上で、一人、薄笑いのような形に口元を歪めた。久子は、玄関で靴を揃える音をさせてから、台所へと入ってきた。薄いレモン色のカットソー、七分丈の白いパンツ、オレンジ色のサンダル。髪は、午前中に外で風に揉まれたのだろう、耳のうしろで少しだけ膨らんでいる。彼女は、買い物袋を台所の机に置くと、軽く鼻から息を抜いた。それから、正和のほうを一度だけ見て、視線を食卓の上へ戻した。
「あら、お茶、飲まなかったのね。冷蔵庫に、昨日の麦茶がまだあるわよ」
正和は、そこでようやく自分の手が、畳の上に広げたままの座卓に置いた水差しへ一度も触れていないことに気がついた。コップの内側は乾いて、うっすらと埃さえ浮いているようだった。
「ああ、そんなに喉が渇いてなかったからな。風呂を先に済ませるよ」
正和が立ち上がりかけると、久子が、片手で髪の毛先を押さえながら、彼の背中へ向けて言った。
「夕飯の支度、もうすぐできるから」
正和は、その声に一瞬、足を止めた。久子は、もう台所のほうへ向き直り、冷蔵庫の野菜室を開いている。にんじんの皮をむく、小気味よい音が立ちはじめた。正和は、その音を後ろに聞きながら、廊下を歩いた。指の股の匂いが、家の静かな空気のなかに、尾を引いている。
風呂を済ませ、夕餉を終えるまで、正和は久子と、たわいのない会話を二言三言、交わした。山で撮った花の話をすると、久子は「あら、前に見たエビネは、まだ咲いてたの」とだけ返して、あとは食器を片し始めた。
正和は、その背中に向かって、短く「ああ」とだけ答えた。片付けの音が、しばらく台所に響き、それから家は、また沈黙に包まれた。
夜風が、どこかの戸袋を、かたん、と小さく揺らした。
正和は、ひとり居間で、カメラの液晶を開いた。最後に残っていたのは、亜佑美の裸身ではなく、六月の山で撮った、薄紅のエビネの写真だけだった。ピントは花の中心に合い、背景の闇がやわらかく溶けている。その花の奥に、まだ彼女の残り香が、ほんのりと息づいている気がして、正和は、指先で液晶をなぞった。香りは、ガラスの向こうからは、当然、流れてこなかった。ただ、指の股の匂いだけが、夜の居間に、まとわりつくように漂っていた。
そのとき、座卓の上に置いたスマートフォンが、短く震えた。
通知音は、囁くような電子音ひとつ。正和の肩が、音に弾かれて持ち上がった。画面を伏せたまま、指先だけで端末をたぐり寄せる。明るくなった画面上に、件名もなく、本文だけが一行、浮かんでいた。
《おつかれさまでした。今日は、最後まで……ありがとう》
送り主は、亜佑美だった。正和は、その文字を、一度息を詰めて読んだ。もう一度、読み返す。漢字とひらがなが、形を変えずに並んでいる。なのに、その最後の四文字の奥に、彼女の汗ばんだ肌が透けて見えた。今日の山の中で、正和の腕の中で、何度も仰け反った首筋。舌を開いたときに漏れた、あの短い鳴き声。それらが、液晶の白い光の裏で、もう一度、熱をもって蠢いている。
正和の親指は、返信の文字欄を開けたまま止まっていた。
「何と、書けばいい」
声に出したら、息だけが唇の端から漏れた。ありがとう、いや、待て。今日のことを、言葉で触れるのか。文章にすれば、それは記録になる。この家の中に、女とのやりとりを刻むことになる。それでも、このまま何も返さないのは、もっと卑怯な気がした。温かいようで、逃げている。山で済ませただけの、一度きりの過ちとして、なかったことにしている、その不実さが、亜佑美のこの一行によって、静かに裏返されていく。
正和は、指先をスマートフォンの画面に触れた。キーボードが現れる。文字を打とうとして、すぐに消した。三度、四度、同じ動作を繰り返しながら、ガラスの下の文字が、打っては消え、消えては打たれ、薄闇のなかに明滅した。
そのとき、台所のほうで、カトラリーを仕分ける音がやみ、久子のスリッパの音が近づいてきた。正和は、一度だけ深く息を吸い、スマートフォンを腿の下へ隠すように伏せた。久子は、居間の入り口で足を止め、手にした豆皿を、そっと座卓の端へ置いた。
「ねえ、正和」
正和は、顔を上げた。久子の表情はいつもどおりで、声の調子も、昼のニュースを伝えるときのように抑揚が薄い。けれど、長年、隣りで暮らしてきた女の、何かが、どこか、ほかのときとは違っていた。それは、まぶたの下の薄い影の落とし方か、カットソーの袖口を指先でつまんでいる仕草か。
「もう遅いから、無理にとは言わないけど」
久子は、一度そこで言葉を切った。彼女の視線は、正和の手元にあるカメラと、伏せられたスマートフォンのあいだを、迷うように行き来して、それから正和の顔へ戻った。
「山の話、少しだけ聞かせて。前に、あの尾根のエビネがどうしたって話、途中だったでしょう」
正和の指先が、膝の上で、小さく痙攣したように動いた。カメラの中の花の写真が、頭の裏で、あの六月の山風と一緒に揺れている。エビネの話。そうだ、先週の夕食のとき、正和は確かに、尾根の北側に自生していたエビネの群落のことを話しかけた。久子は、そのときは「へえ、まだ咲いてるの」と言っただけで、あとは曖昧に聞き流していたはずだった。
「エビネ……ああ、あの写真なら、今日も撮ってきた。昔のより小ぶりだったが、花の色は同じような薄紅で、わりと良く残ってたな」
正和は、カメラの電源を立ち上げ、最後に表示された花の一枚を、久子に向けた。彼女は、腕を伸ばして画面を覗き込む。淡い花弁の奥の闇が、二人の顔のあいだで、やわらかく滲んでいる。
「きれいね。あなたが撮ると、花が、恥ずかしがってるみたいに見える」
久子の声が、少しだけ弾んでいた。正和は、自分の指先から、山の匂いが立ち上っていないか、一瞬、不安になった。それでも、彼女は画面の中の花だけを、目を細めて見つめている。
「そうだろうか。いや、俺は、ただ光の向きを待っただけで……」
正和が、そう言って口ごもったとき、腹の下に伏せたスマートフォンが、もう一度、ごく短く震えた。通知音はしなかった。ただ、画面が一瞬、二人の脚のあいだで白く明滅した。正和は、動かなかった。久子も、それに気づいた素振りを見せなかった。彼女は、カメラの液晶から目を離すと、静かに背筋を伸ばし、「ありがとう」とだけ言った。
「また聞かせて。山の音だけでも、家の中に聞こえると、空気が違うから」
久子は、そう言って、豆皿を手に台所へ戻っていった。その後ろ姿は、いつもと同じで、背中を丸めず、堅くもなく、小柄なからだの重心をさりげなく左右に移しながら歩いている。
正和は、再び居間にひとりぼっちになった。画面の明かりは消えているが、スマートフォンの重みだけが、腿の上で、昼間の山の岩のように冷たかった。
その夜、正和は、返信を書けなかった。
かといって、亜佑美のメッセージを消すこともできず、既読だけが、端末の静かな海に沈んでいった。正和の足の爪先には、浴衣の冷たさがまとわりついていた。久子の手のひらが、さっきまでこの畳の冷たさを、自分の体重ごと感じていたことを、正和は、ようやく思い出していた。台所の隅では、カトラリーの仕分けが終わった金網の篭が、薄暗い中で細かく光っている。
「山の音だけでも、家の中に聞こえると、空気が違うから」
正和は、久子のその声を、胸の内でもう一度、繰り返した。彼女の言う山の音は、杉の枝に風が触れる音ではなく、あの支稜で亜佑美が鳴いた、生きものの奥から絞り出すような声のことを指しているようにも聞こえて、正和は、指先で畳の目をなぞった。
空白は埋まらない。むしろ、より深い飢餓が、正和の腹の底で、その口を大きく開けていた。
登場人物
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栗山正和 くりやま まさかず男性 ・ 65
外見: 白髪交じりの短い前髪、眼鏡の奥の垂れた目、日焼けした頬に深い皺、山歩きで締まった体型。服装: 色あせたフリース、トレッキングシューズ、カーキ色の登山パンツ。真面目で几帳面、細部を丁寧に観察する写真家肌。妻との沈黙に慣れながらも、満たされない渇きを自覚し、亜佑美との接触に戸惑いと期待を同時に感じる。一人称は「私」、亜佑美を「亜佑美さん」、久子を「久子」と呼ぶ。落ち着いた敬語で丁寧かつ控えめ、動揺すると間が生まれ、山の話になるとやや説明口調になる。
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坂本亜佑美 さかもと あゆみ女性 ・ 50
外見: 黒髪に白い筋が混ざり、毛先だけ褪せた栗色、黒い瞳、背筋を伸ばした姿勢、山歩きで引き締まった太腿、唇は薄い口紅の下から自前の赤みが透ける。服装: 明るいグリーンのトレッキングシャツ、薄いブルーのキャップ、体に沿うスリムパンツ、白いスニーカー。明るく自然体で親しみやすい笑みを絶やさず、押しつけがましくない配慮と山や写真への純粋な情熱を持つ。一人称は「私」、山の話になると時々「あたし」に変わる。尊敬語と砕けた語りが混ざり、悪戯っぽく首をかしげて笑う。相手への気遣いを声で示す。
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栗山久子 くりやま ひさこ女性 ・ 62
外見: 薄い茶色の染め髪、小柄で柔らかい肉づき、腰のあたりに朝のぬくもりを残すような温もり。服装: 薄いレモン色のカットソー、七分丈の白いパンツ、オレンジ色のサンダル。夫との距離を詰めず、日常のルーティンを守ることで安定を保つ。感情を出しすぎず、家庭の空気を変えない。一人称は「私」、夫を「正和」と呼ぶ。夫への言葉は短く、必要なことだけを淡々と伝える。感情の起伏を抑え、事務的ではないが抑揚の少ない話し方。





