第1章: 骨折した人生の路地

第1章: 骨折した人生の路地
的場洋(まとば ひろし)は、駅前のスーパーで買ったレトルトカレーとサラダ用キャベツの袋を右手にぶら下げ、舗道の白いタイル目をぼんやりと数えながら歩いていた。
六月の夕暮れはまだ明るく、西空が薄橙色に染まっている。
退職してから、というよりあの離婚調停が終わってからというもの、時間の流れは妙に粘度を増し、一日がまるでゴムのように伸び縮みする感覚に囚われていた。
定年退職金が振り込まれたその週に、妻の友江が突然持ちかけてきた離婚話。
ありもしない暴力の証拠写真や、近所の主婦たちの証言まで揃えられたあの調停室の空気を、今でも皮膚が覚えている。
「父さん、大丈夫? お母さん……どうも男がいるらしいよ。不倫して、そのあげくのDV偽装だって噂だよ」
昨日、遠方に嫁いだ娘の美咲からかかってきた電話の声が、耳の奥でこびりついて離れない。
怒りというより、ただただ虚しい。
三十年以上連れ添った女が、最後に仕掛けてきた罠にまんまと引っかかり、財産の大半をすっからかんにされた自分が滑稽でならない。
狭いアパートの一室で、嘱託として元の会社に戻り、書類整理の雑用をこなす毎日。
これからが人生だと、少しばかりの希望を抱いたのは、ほんの半年前のことだった。
――あの時、ああしておけば。
――こうしておけば。
後悔の言葉が脳裏をぐるぐると巡る。
その思考の渦に呑まれながら、洋はいつもの細い路地へと足を踏み入れた。
アパートまでの近道だ。
コンクリートの壁に沿って生えた雑草の匂いが、湿った土の息と混ざり合う。
その瞬間、左側の路地裏から、自転車の影が勢いよく飛び出してきた。
「あっ!」
女の声。
ぶつかる。
というより、はねられる。
右手のスーパーの袋が宙に舞い、キャベツが転がり、レトルトのパックが路面を叩く鈍い音。
足首から脛にかけて、金属のフレームがめり込むような衝撃。
そして、そのまま後ろへ倒れる自分。
後頭部がアスファルトを打つ。
「い、痛い……」
唸り声が零れる。
視界が一瞬、真っ白に揺らぐ。
その白さが少しずつ薄れ、夕焼け空と、ぼやけた女の顔が重なって見えてきた。
肩まで伸ばしたストレートの黒髪。
真っ青になった表情。
その口が、何度か開いた。
「すみません! 大丈夫ですか!? 本当にすみません、ちょっと急いでいて……足、見えていなくて……」
女は慌てて自転車を路傍に倒すと、洋のそばに跪いた。
黒い瞳が、洋の顔を、そして彼が押さえている左足の脛あたりを恐る恐る覗き込む。
「……大丈夫、です……」
洋はそう言おうとしたが、言葉の端が震えた。
左足のスネから、鈍い痛みがじわりと広がり、今はもう動かせそうにない。
立ち上がろうと腰に力を入れるが、びくっと足が痙攣し、また背中を路面に押し付ける。
「だ、駄目です! 動かないでください! 救急車、呼びます!」
女は小脇に抱えたショルダーバッグからスマートフォンを慌てて取り出し、画面を必死にタップする。
指先が震えているのが、洋の仰向けの視界に入った。
彼女は叫ぶように住所を伝え、こちらの状況を説明している。
その声は、どこか整っていて、慌てているのに言葉遣いはきちんとしている。
介護福祉士の資格を持つ、佐藤叶(さとう かなえ)。
四十五歳。
五年前に夫を交通事故で亡くし、一人息子を女手一つで大学まで出したというのは、後で知ることになる。
救急車のサイレンが近づき、路地に白い光が差し込んだ。
担架に乗せられ、車内で血圧を測られながら、洋はふと隣に座り、彼の手を握っている女の顔を見た。
睫が長く、鼻筋が通った、清楚な印象の顔だ。
しかしその目には、深い悲しみのような、あるいは自分自身を責めるような影が潜んでいた。
「本当に……申し訳ありません」
「……いいですよ。こっちもぼーっとしてたんで」
「いえ、私が飛び出してきたんです。全部、私の責任です」
その言葉に、どこか諦めにも似た響きがあった。
まるで、また同じ過ちを繰り返してしまったと、自分を呪っているように。
病院での診断は、左脛骨複雑骨折。
手術が必要で、入院は少なくとも一週間。
医師の説明を聞きながら、洋は呆然と天井を見つめた。
会社への連絡。
アパートの大家への連絡。
全てが面倒で、どうでもよくなってきた。
もう、何もかも投げ出したくなった。
「的場さん」
病室に、叶が現れた。
彼女は小さな紙袋を持ち、そっとベッド脇のサイドテーブルに置いた。
新しいタオルと歯ブラシ、それにペットボトルのお茶が入っている。
「私、お見舞いというより……謝罪の気持ちで、来ました」
「……気にしないでくださいって、言ったはずです」
「いえ。気にします。私……夫を亡くしたのが、交通事故でした。自分が運転していたわけじゃないけど……だから、こういうこと、すごく……」
言葉を詰まらせ、叶は俯いた。
肩が小さく震えているように見えた。
洋は黙って彼女の様子を見つめ、やがて溜息を吐いた。
「しょうがないですよ。俺も、前を見てなかった」
「……的場さん。退院なさった後のこと……お世話、させてください」
「え?」
「料理も洗濯も、掃除も。お買い物だって。全部、私がやります。だって……私のせいで、こうなったんですから」
叶は顔を上げ、彼をまっすぐに見た。
その目には、揺るぎない決意のような光が宿っていた。
それは、ただの義務感ではない。
どこか、自分自身に対する贖罪の意思にも見えた。
「そんな、そこまでしなくていいですよ。娘がたまに来てくれますし」
「いえ。毎日、通わせてください。近所ですから。私、介護の仕事をしています。そういうことなら、慣れています」
押し問答は、結局、洋の負けだった。
いや、負けというより、彼女の真剣な眼差しに逆らう気力が、自分にはもう残っていなかったからだ。
退院した日。
アパートの玄関先で、松葉杖にすがりながらドアを開ける洋を、叶が支えた。
部屋の中は、半月以上も閉め切られていたせいか、淀んだ空気が充満している。
「まずは換気からですね」
「自分でやりますから」
「いいえ、的場さんはソファに座っていてください」
叶はきっぱりと言い、窓を開け、掃除機を取り出し始めた。

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