第3章: 好奇の視線を背に、紡ぐ小さな絆

# 第3章: 好奇の視線を背に、紡ぐ小さな絆
秋の気配が階廊の窓から忍び寄り、やがて鋭い冬の冷たさへと変わる。
春が訪れ、柔らかな日差しがマンションの壁を優しく撫でる頃には、保坂学と木下綾音親子の間に、ごく自然な慣習のような交流が根付いていた。
学の警備の夜勤明けは昼過ぎ。
その時間になると、自室のドアをノックする音が、ほぼ毎日のように響くようになった。
綾音が息子の悠斗を連れ、スーパーの特売で買った野菜や安い肉を手に、現れるのだ。
「今日は少し余っちゃって……よかったら」
彼女はいつも、そう言って恐縮そうに頬を染める。
学は最初、遠慮していた。
しかし彼女の「一緒に食べてもらえないと、私も困っちゃうんです」という言葉には、どうしても逆らえなかった。
テーブルを三人で囲む時間は、次第に増えていった。
悠斗は学のことを「まなぶじい」と呼ぶようになった。
最初は「おじさん」だった。
ある日、絵本を読み聞かせた後、学の名前を聞いた悠斗が、無邪気な瞳を輝かせて尋ねたのだ。
「まなぶじいでいい?」
学は一瞬、たじろいだ。
しかし子どもが作り出した、等身大の親しみが、胸の奥をじんわりと温かくした。
彼はゆっくりとうなずいた。
「それで構わないよ」
それ以来、悠斗は学の部屋に上がり込んでは、おもちゃの車を走らせたり、折り紙を教わったりするのが日課になった。
学の手足の動きは緩慢だった。
しゃがみ込むのも、立ち上がるのも、時間がかかる。
悠斗はそれを自然に受け入れ、待つことを覚えた。
時折、小さな手を差し伸べては、心配そうに声をかける。
「じいじ、大丈夫?」
その純粋な気遣いに、学の喉の奥が熱くなった。
綾音は学の冷蔵庫を覗き、あり合わせの材料であっという間に味噌汁を作り上げる。
ふっくらと炊き上がったご飯の湯気が、台所に立ち込める。
彼女の手つきは早く、包丁が刻むリズミカルな音が、規則正しく響いた。
学はソファに座り、その背中をぼんやり眺めることが多かった。
綾音の肩には、ストレートな栗色の髪がかかっている。
動くたびに、その髪がほのかに揺れ、微かな洗剤の香りが漂ってくる。
エプロンの紐が細い腰で結ばれ、その下からスウェットパンツの柔らかな布地が、丸みを帯びた臀部の形を浮かび上がらせた。
学はそんな時、慌てて目をそらし、窓の外を見た。
自分の中に湧き上がる、若い女性の肉体への自然な視線を、罪悪感と共に押し殺すためだった。
--ダメだ。
彼女はただ、親切にしてくれているだけだ。
しかし、マンションの住人たちの視線は、次第に冷たさを増していった。
学が綾音と並んでエレベーターに乗ると、後ろから聞こえよがしのため息が漏れた。
廊下ですれ違う中年の女性は、明らかに顔を背け、口を堅く結ぶ。
ある日、学がゴミ捨て場に向かうと、二人の主婦が話し込んでいる声が、かすかに聞こえてきた。
「あのシングルマザーさん、最近あのオジサンとべったりよね」
「そうそう、子どもまで連れてあの部屋に出入りしてるらしいわ」
「年の差、三十近くあるんでしょ? あのオジサン、退職した警備員だって聞いたけど」
「付け込まれてんじゃないの」
「若いからって、寂しさに負けちゃったのかしらね……」
学は足を止めた。
ゴミ袋を握りしめた手が、微かに震えているのに気づいた。
彼らが言う「オジサン」とは、紛れもなく自分だ。
用済みにされ、孤独に喘いでいた自分が、まさか他人の好奇と軽蔑の対象になろうとは。
彼はそっと踵を返し、別の時間にゴミを出そうと部屋へ引き返した。
廊下の鏡に映った自分の姿——白髪混じりの頭、深く刻まれた皺、くすんだユニフォーム。
確かに彼女とは、不釣り合いだ。
世間が冷笑するのも、無理はない。
それ以来、学は意識的に距離を置き始めた。
ノックが聞こえても、返事を遅らせた。
エレベーターで一緒にならないよう、出勤時間をずらした。
ある夕方、綾音が悠斗の手を引いてドア前に立った時、学はドアを細めに開け、曖昧に告げた。
「今日は……少し体調が優れなくて」
ドアの隙間から見えた綾音の表情が、一瞬で曇った。
切れ長の目が悲しそうに細まり、柔らかい唇が、わずかに震えた。
「そう……ですか」
彼女の声は、かすかに揺れている。
「お身体、お大事に」
そう呟くと、悠斗の手を強く引いて、立ち去ろうとした。
その背中が、何故かいつもより小さく、頼りなく見えた。
学は胸が締め付けられるような感覚に襲われ、思わず声をかけた。
「木下さん」
綾音が振り返った。
彼女の頬には、廊下の窓から差し込む夕日が、かすかな光を揺らめかせていた。
「……はい?」
「明日の夜は、私も暇です」
学は自分が何を言っているのか、わからなかった。
距離を置こうとしたはずなのに、彼女の寂しげな背中を見た瞬間、逆らえなくなったのだ。
「もしよければ、ご飯でも」
綾音の顔が、ぱっと明るくなった。
目尻に小さな皺が寄り、口元がほころぶ。
「はい。ありがとうございます」
彼女の声は、温かみを取り戻していた。
「じゃあ、また野菜たっぷりの鍋にしますね。悠斗も喜びます」
母親の後ろから飛び出した悠斗が、声を弾ませた。
「やった! まなぶじい、また折り紙教えて!」
学はうなずき、そっとドアを閉めた。
胸の中では、安堵と後悔が入り混じり、渦巻いていた。
翌日、綾音は悠斗を連れて、学の部屋を訪れた。
エプロンを持参し、冷蔵庫の残り物を見事な鍋料理に変えていく手際は、流れるようだった。
白菜、にんじん、豚肉、豆腐——それらの素材が醤油ベースのスープで煮込まれ、部屋中に豊かな香りを拡げる。
三人がテーブルを囲み、笑い声を交わしながら食事をする光景は、学の長い喪失の時間からすれば、あまりにも眩しい偽りの幸福のように感じられた。
悠斗が学校での出来事をぺちゃくちゃと話し、綾音がそれを温かい目で聞き、学が時折相槌を打つ。
その何気ない時間が、学の胸の空洞を、少しずつ満たしていく。
食事が終わり、悠斗が学のベッドですやすやと眠りについた後、綾音は片付けをしながら、静かに口を開いた。
「保坂さん……」
彼女の声は、水音にかすれて聞こえた。
学は洗い物をする彼女の背中を見つめた。
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