第2章: エレベーターで交わした、儚い温もり(続き 3/3)
「中に入りませんか? ゆうとも、挨拶したいみたいですし」
綾音がそう提案すると、悠斗が母親の後ろから少し顔を出し、学をちらりと見た。
その目は好奇心に輝き、まだ少し熱っぽさが残る頬がほんのり赤かった。
学は躊躇ったが、ドアを大きく開けた。
「……どうぞ。乱雑ですが」
彼の部屋には、ほとんど何もなかった。
最小限の家具、壁には何も飾られていない。
窓からは午後の柔らかな光が差し込み、空気中の埃がゆっくりと舞っていた。
綾音はためらいながら中に入り、悠斗の手を引いた。
「失礼します」
三人が居間の小さなテーブルを囲んで座る。
学が容器を開けると、中には三つのおにぎりが並んでいた。
梅干し、鮭、昆布。
どれもきれいな三角形に握られ、海苔がパリッと巻かれていた。
海苔の香りと、ご飯のほんのりとした甘い匂いが立ち上る。
「……いただきます」
学はそう呟くと、一つを取り上げた。
昆布のおにぎりだった。
口に運ぶ。
米の温かさがまず伝わり、次に昆布のほのかな塩味が広がった。
咀嚼する。
一粒一粒が、彼の舌の上でほどける。
ご飯の甘みと昆布の風味が混ざり合い、口の中に広がっていく。
そしてなぜか、その瞬間、彼の目頭が急に熱くなった。
鼻の奥がツンと疼き、涙が滲みそうになるのを必死でこらえた。
長い間、コンビニの弁当や冷めた惣菜ばかりだった。
電子レンジで温め直した時とは全く違う、人の手で握られた温かさ。
誰かのために作られたという思い。
そんなものが、こんなにも胸を締め付けるものだとは。
「……美味しいです」
彼はうつむきながらそう言った。
声はわずかに震え、喉が詰まっているのを感じた。
「良かった」
綾音がほっとしたように微笑んだ。
彼女は悠斗に小さなおにぎりを渡し、自分も一つ取り上げた。
三人は無言で食べ続けた。
その沈黙は、不思議と窮屈ではなかった。
咀嚼する音だけが、静かな部屋に響く。
窓の外からは、遠くで子どもたちの遊ぶ声がかすかに聞こえてきた。
食べ終わると、悠斗が突然口を開いた。
「おじさん、ありがとう。頭、冷やしてくれたよね」
その率直な言葉に、学は息をのんだ。
彼はゆっくりと子どもを見つめ、首を縦に振った。
「……お役に立てて良かった」
彼はそう言い、自分の手がなぜか震えていることに気づいた。
長い間、誰からも感謝されることのなかったこの手が、今、小さな子どもの言葉に反応している。
掌がじんわりと熱くなっていくのを感じた。
綾音がそっとテーブルに手を置いた。
指先がわずかに震えている。
「保坂さんは……お一人でいらっしゃるんですか」
その質問は、自然に、しかし鋭く学の胸に刺さった。
彼はゆっくりとうなずいた。
「ええ。最近……そうなりました」
声がまたかすれた。
「寂しいですよね」
彼女の言葉は、決して同情ではなく、深い共感のように聞こえた。
学は彼女の目を見た。
切れ長の優しい目が、今は何か深い理解を含み、同じ痛みを知っている者のまなざしだった。
「……あなたも、お一人で子どもを育てているのですか」
学はそう尋ねた。
初めて、彼の方から質問した。
声が少しだけ強くなっているのに自分で気づいた。
綾音は少しうつむき、おにぎりの容器の縁を指でなぞった。
プラスチックの感触を、そっと撫でるように。
「はい。悠斗が三歳の時に……夫とは別れました。それ以来、二人です」
その言葉には、苦労の跡が滲んでいたが、彼女の声は静かで、覚悟に満ちていた。
学は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
代わりに、彼はただ深くうなずいた。
「……大変でしょう」
「でも、今は慣れました。そしてこうして……隣に保坂さんのような方がいてくださって、少しほっとしています。心強いです」
綾音が顔を上げ、学をまっすぐに見つめた。
その視線は温かく、しかしどこか寂しげでもあった。
瞳の奥に、長い孤独の痕跡がかすかに光っている。
学はその目から逃げるように、窓の外を見た。
夕日が次第に沈み始め、空がオレンジ色から深紅へと移り変わっていた。
窓ガラスが、夕焼けの色に染まっている。
「……私も、こうしてお話できる方がいて、ありがたいです」
学はようやくそう言った。
それは本心だった。
彼はこれまで、誰とも話すことなく何日も過ごしていた。
警備先での無言の挨拶、コンビニ店員との機械的な会話。
それ以外には、何もなかった。
自分の声が、誰かのために震えることなど。
「またお会いしましょう」
綾音が立ち上がり、悠斗の手を取った。
子どもも立ち上がり、学に小さく手を振った。
「バイバイ、おじさん。またね」
「……さようなら。また」
学はドアまで見送り、二人が廊下の向こうへ消えるのを見届けた。
ドアを閉め、彼はゆっくりとテーブルに戻った。
空になった容器が一つ、そこに置かれていた。
彼はそれを手に取り、蓋を閉じた。
プラスチックの温かみはもうほとんど残っていないが、彼の掌にはまだ、何かしらの熱が記憶されていた。
ご飯の温もり。
人の手の温もり。
彼は窓辺に立ち、夕焼けを見つめた。
オレンジ色から深紅へ、そして紫色へと変わりゆく空。
窓ガラスに、自分の顔がぼんやりと映っている。
これまで何度も見た夕焼けだ。
しかし今日は、なぜか色が違って見えた。
より深く、より温かく、より鮮やかに。
胸の奥で、長い間凍りついていた何かが、ほんの少し、ゆっくりと溶け始める音が聞こえたような気がした。
それはかすかな、しかし確かな音だった。
まるで氷が割れるように。
掌の中で、容器がまだわずかに温かい。
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