第2章: エレベーターで交わした、儚い温もり(続き 2/3)
それから一週間後、学のドアのインターホンが、深夜ではない時間に鳴った。
午後三時過ぎ——彼がようやく起きて、コーヒーを入れようとしていた時刻だ。
モニターには、綾音の慌てた顔が映っていた。
髪が少し乱れ、頬が紅潮している。
「すみません! 保坂さん!」
彼女の声は明らかに動揺し、震えが混じっていた。
学はドアを開けた。
「どうかなさいましたか」
「ゆうとが……熱を出してしまって。けいれんが始まりそうで、すぐに病院に連れて行かなければならなくて……」
綾音の顔は青ざめていた。
彼女の手には、小さなバッグが握られ、その指先が震えているのが見えた。
唇もわずかに震えていた。
「ですから……すみませんが、私が戻ってくるまで、少しだけ部屋を見ていていただけませんか? 鍵を預かってもらえれば……」
学は言葉を失った。
他人の家の鍵?
子どもが熱を出している?
すべてが彼の日常からかけ離れすぎていた。
しかし彼女の目——切れ長の優しい目が、今は必死の色に染まり、潤みを帯びている。
彼はゆっくりとうなずいた。
「……わかりました。どうぞ、お気をつけて」
「ありがとうございます! 本当にありがとう!」
綾音は彼に鍵を渡し、すぐに駆け足で廊下の向こうへ消えていった。
鍵はまだ彼女の手の温もりを残していた。
学は冷たい鍵の感触を手の中で転がしながら、彼女のドアの前に立った。
開けるべきかどうか。
小さな鍵が、掌で重たく感じられた。
結局、開けた。
鍵穴に挿し込むとき、金属がかすかに軋む音がした。
ドアが開くと、中からは子どものものらしいおもちゃが散乱し、生活の息遣いが感じられる温かい空気が流れてきた。
柔軟剤の優しい香りと、ほんのりとしたミルクの匂い。
学はためらってから中に入り、ドアを閉めた。
リビングには小さなテーブルとソファ、壁には子どもの描いたと思しき絵がテープで貼られていた。
色使いは大胆で、太陽は緑色で、家は紫色で描かれている。
学はその絵の前に立ち止まり、じっと見つめた。
――子どもは、こうして世界を描くんだ。
胸の奥で、何かがかすかに動いた。
ふと、子どもの寝息が聞こえる部屋から、苦しそうなうめき声がした。
学は反射的にその部屋へ向かおうとしたが、足を止めた。
他人の子ども。
他人の家。
彼に何ができるというのか。
しかし足は自然に動き出した。
廊下を歩き、子どもの寝室の扉をそっと開けた。
中では男の子——悠斗——が布団の中でうなされていた。
頬は真っ赤に染まり、汗で髪が額に張り付いている。
苦しそうな息遣いが、小さな胸を激しく上下させていた。
学は無意識に近づき、子どもの額に手を当てた。
熱い。
あまりにも熱い。
その熱さが、学の冷たい掌を瞬時に温めた。
彼はバスルームへ行き、タオルを水で濡らして絞った。
水の冷たさが指先に染みる。
子どもの額にそれを当てる。
その動作は、何十年も前に自分の子どもたちにしたことを、まるで昨日のことのように思い出させた。
小さな身体、熱にうなされる声、親としての無力感。
すべてが蘇ってきた。
胸が締め付けられるように疼いた。
「……お父さん?」
子どもがかすかに目を開き、ぼんやりと学を見つめた。
その呼び方に、学の胸が鋭く疼いた。
喉の奥が詰まる感覚。
彼は首を振った。
「お母さんがすぐ戻ってくるよ。少しの間、おじさんがここにいるから」
声がかすれているのを感じた。
子どもはそれ以上何も言わず、また目を閉じた。
学はその横に座り、タオルを取り替え続けた。
時間がゆっくりと過ぎる。
窓の外では、午後の日差しが次第に傾き始め、部屋の中に長い影を落としていった。
子どもの額の熱は、少しずつだが確かに引いていくのを感じた。
小さな胸の鼓動が、学の掌に伝わってくる。
一時間ほど経った頃、ドアが開く音がした。
学は立ち上がり、リビングへ出ていった。
綾音が、疲れ切った顔で立っていた。
彼女の目は少し赤く、泣いた跡がくっきりと残っていた。
「どうでしたか? 悠斗は?」
「熱はまだありますが、少し落ち着いたようです。額を冷やしていました」
学はそう言い、部屋を指さした。
綾音は彼の横をすり抜け、子どもの部屋へ走っていった。
学はそれを黙って見送り、自分の役目は終わったのだと理解した。
彼はそっとドアを開け、自分の部屋に戻ろうとした。
「保坂さん!」
彼女の声が背後から聞こえた。
振り返ると、綾音が子ども部屋の入り口に立って、彼を見つめていた。
彼女の頬には涙の跡がまだ光っており、しかし口元には、安堵の微笑みが浮かんでいた。
「本当に……本当にありがとうございました。先生も、すぐに連れて行ってくれて良かったって。点滴をして、だいぶ楽になったみたいです」
「何よりです」
学はそう言い、また去ろうとした。
「あの……もしよかったら、今度、ちゃんとお礼をさせてください。悠斗も、きっとお礼が言いたがりますから」
学はまた躊躇った。
しかし彼女の目は、もう必死の色ではなく、純粋な感謝に満ちていた。
潤んだ瞳が、学の心を捉えて離さない。
彼はゆっくりとうなずいた。
「……そうですね」
それから三日後、学のドアが軽くノックされた。
開けると、綾音が小さな弁当箱のようなものを持って立っていた。
彼女の後ろには、もう元気になった悠斗が、母親のスカートの裾に隠れるようにして立っている。
「こんにちは。もしお時間があれば……つまらないものですが」
綾音は差し出した容器を少し上げた。
プラスチック製の二段重ねで、中からはほのかに温かい匂いが漂ってきた。
「おにぎりを、少しだけ。ゆうとが、おじさんにあげたいって言うので」
学は言葉を失った。
他人から手作りの食べ物を貰うなんて、いったい何年ぶりだろう。
最後に妻が——いや、もう彼女は妻ではない——最後に誰かが作ってくれたものは、いつだったのか。
記憶は霞んでいた。
ただ、胸の奥が急に熱くなった。
「……お手数をおかけしました」
ようやくそう言いながら、学は容器を受け取った。
その重さは軽かったが、彼の手には信じられないほどの温かみが伝わってきた。
容器の側面から感じられるほんのりとした熱。
それが直接、掌の皮膚を伝い、腕を上がり、胸の奥まで届くようだった。
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