第2章: エレベーターで交わした、儚い温もり

# 第2章: エレベーターで交わした、儚い温もり
深夜の警備勤務を終え、灰色の空が東の空をわずかに白み始めた時刻。
保坂学はマンションのエントランスに足を踏み入れた。
体の芯に染みついた冷えが、骨の髄までしんしんと疼く。
睡眠不足による鈍い頭痛が、こめかみを規則的に脈打ち、彼の歩みを重くしていた。
エレベーターホールの蛍光灯がちらつき、その青白い光が彼の白髪混じりの頭髪を、さらに老け込ませて見せた。
オールバックに整えた髪の乱れすら直す気力はなく、ただ扉が開くのを待つだけだった。
冷たい床から伝わるひんやりとした感触が、靴底を通じてじわりと上がってくる。
エレベーターはゆっくりと降りてきて、鈍い金属音を立てて扉が開いた。
中にはもう一人、人がいた。
小さな男の子——七歳くらいだろうか——の手を引いた若い女性だ。
学は一瞬目を合わせ、反射的にうなずいた。
女性も小さく会釈を返し、子どもを優しく中へと導いた。
彼はそれ以上近づかず、反対側の隅に立った。
狭い箱の中に、三人の沈黙が流れた。
エレベーターの壁に映る自身の姿は、くすんだユニフォームに包まれた、見るからに疲弊した老人だった。
子どもが母親のスウェットの裾を引っ張る音が、金属の箱の中でかすかに響いた。
「ママ、まだ眠い……」
子どもがぼそりと呟く。
その幼い声は、朝のひんやりとした空気の中で、なぜか学の胸の奥深くにすっと染み込んでいった。
彼は真正面の扉に映る自分自身の影を見つめた。
くすんだ茶色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。
ただの疲労だけが、顔の皺に深く刻まれ、目の下には隈がくっきりと浮かび上がっていた。
「もうすぐおうちだよ、ゆうと。あと少しだからね」
女性——木下綾音——が優しく子どもの頭を撫でながら言った。
その声は柔らかく、温かみがあった。
学は無意識に息を吸い込んだ。
エレベーターの中には、洗剤のほのかな香りと、子ども特有の甘い寝汗の匂いが混ざり合い、ほんのりと漂っていた。
彼は自分のユニフォームから漂う、深夜の冷気と古びた建物の埃の匂いをふと思い出し、わずかに身を縮めた。
自分がこの温もりのある空間を汚しているような、そんな錯覚に襲われた。
四階でエレベーターは止まった。
学と同じフロアだ。
扉が開き、綾音が子どもの手を引いて先に出ようとした時、子どもの靴が引っかかり、よろめいた。
「あっ」
学の手が、ほとんど反射的に伸びた。
子どもの肩を、そっと支えた。
その手の感触は、小さく、温かく、信じられないほど脆かった。
薄いジャケットの下に感じられる小さな骨格。
子どもの体温が、学の冷たい指先にじんわりと伝わってくる。
「すみません、ありがとうございます」
綾音が振り返り、慌てたように頭を下げた。
彼女の栗色の髪が肩を伝って揺れ、朝の薄明かりの中でかすかに光った。
学はすぐに手を離した。
自分の指先が、子どもの体温をわずかに記憶していることに、なぜか戸惑いを覚えた。
長い間、誰にも触れず、誰からも触れられていないこの手が、小さな温もりを覚えている。
「いえ、大したことではありません」
学は低い声でそう言うと、早足で自分の部屋へと向かった。
ドアを開け、閉め、鍵をかける。
いつもの冷たい空気が彼を包み込んだ。
ユニフォームを脱ぎ、洗面所で顔を洗う。
水の冷たさが瞼の裏まで沁み渡る。
鏡に映る自分の目は、相変わらず虚ろで、深い窪みのようだった。
それから数日、学は同じ時間帯に彼女と子どもとすれ違うようになった。
毎回、無言の会釈だけ。
それ以上でも以下でもない。
しかしある朝、ゴミ出しの日だった。
学が袋を二つ持って廊下に出ると、綾音が大きな段ボール箱と格闘しているところだった。
箱は彼女の腰の高さまであり、中の雑誌や古紙があふれんばかりに詰まっていた。
彼女は苦しそうに箱を抱え、エレベーターへ向かおうとしていた。
子どもはまだ寝ているのだろう、一人だった。
学は一瞬躊躇った。
口を開くことさえ、久しくしていなかった。
声帯が、滑らかに震えるかどうかもわからない。
喉の奥が乾き、言葉が渇ききっていた。
「……お手伝いしましょうか」
結局、そう言った。
声はかすれていたが、確かに言葉になっていた。
綾音は驚いたように顔を上げた。
切れ長の目がぱちりと開き、学をまっすぐ見つめた。
「えっと……でも、こんなに朝早くに。すみません、本当に」
「構いません。私もゴミを出しに行くところですから」
学はそう言いながら、彼女の手から段ボールを受け取った。
重かった。
長年デスクワークしかしてこなかった腕に、ずしりと重みが伝わる。
段ボールの角が掌に食い込み、古紙のほこりっぽい匂いが鼻をくすぐった。
彼はそれを両腕で抱え、エレベーターへと歩き始めた。
綾音が小さなゴミ袋を手に、後ろからついてくる。
エレベーターの中はまた沈黙が支配したが、今回は少しだけ空気が違っていた。
学は段ボールの重さを感じながら、ふと、これがどこの誰かの「不用品」なのかと考えた。
彼女の過去の一片。
捨てられる記憶。
彼自身の部屋にも、まだ開けていない段ボールがいくつかある。
妻との思い出の品、子どもたちの成長記録。
すべてが、捨てるにも捨てられない重さで彼の心を縛っていた。
胸の奥が、鈍く疼いた。
「本当に助かりました。一人ではとても……」
一階でゴミ集積所に段ボールを置き終えると、綾音が深々と頭を下げた。
朝もやの中、彼女の吐息が白く小さな雲を作り、やがて消えていった。
学はただうなずいた。
自分の手の平に、段ボールの跡が赤く残っているのを感じた。
「お礼と言ってはなんですが……よろしかったら、今度、お茶でも」
学は目を大きく見開いた。
そんな提案が来るとは思っていなかった。
彼は無意識に首を振りかけた。
「いえ、そんな、大したことではありませんので」
「でも、何度もお会いするんですし。同じ階ですもの。お隣同士ですよね」
綾音は微笑んだ。
その笑顔は、目尻に小さな皺を寄せ、なぜか学の胸の奥をわずかに締め付けた。
彼はうつむき、自分の汚れた作業靴の先を見つめた。
「……そうですね」
それだけ言うのが精一杯だった。
声がまたかすれている。
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