第1章: 喪失の底で鳴る、冷たい時計の音(続き 2/3)
会社で大きなプロジェクトを成し遂げ、部下たちから祝福されたあの打ち上げ。ビールの泡の感触、騒がしい笑い声、肩を叩かれた時の熱。
家族で訪れた海水浴場で、子どもたちが砂の城を作り、妻が笑って見守っていた夏の日。潮の香り、日焼けした肌のヒリヒリする痛み、水着のまま抱き合った時の、ぬれた肌の感触。
それらの記憶は全て、鮮明すぎるほど色と音と匂いを伴ってよみがえり、その直後に、現在の自分が一人で横たわるこの狭く暗い部屋の現実が、重い鉄の扉のように降りてきて記憶を押し潰す。
その落差に胸が締め付けられ、息苦しくなる。
目を開ければ、天井にまた一つ、雨水の染みが見つかる。それはゆっくりと、確実に広がっているようにも見えた。
ある雨の夜のことであった。
警備のバイトは休みで、夕方から部屋に籠もっていた。
外は春の長雨が静かに降り続き、窓ガラスを伝う雨筋が街灯の光をゆがめて流れる。雨戸を打つ音が、規則的で、どこか催眠的なリズムを刻む。
テレビはつけていたが、音は消している。
画面の中ではバラエティ番組が放映され、人々が無意味に笑い転げていた。その笑顔が、学にはまるで異世界の住民のように、虚ろで遠くに映る。
何時だろう。
時計を見れば、午後九時を回っている。空腹を感じるが、コンビニに行くのも面倒だ。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。
中にはペットボトルの水と、賞味期限の切れそうなヨーグルトが一つあるだけ。冷気が立ち上り、学の顔を冷たく撫でる。
そのヨーグルトを取り出し、スプーンですくって口に入れる。酸味と、わずかな甘みが舌の上に広がる。それを嚥下し、再び冷蔵庫の扉を閉めた。
庫内の電灯が消え、自分だけが映り込む曇ったドアの表面に、瘦せて頬がこけ、白髪が鬱陶しいほど目立つ男の顔が浮かび上がっている。
--これが自分か。
六十六年の歳月を経て、辿り着いた姿がこれか。
ふと、ベランダに出てみたくなった。
サッシの鍵を開け、引き戸を滑らせる。レールが詰まったように重く、軋みながら動く。
冷たく湿った夜の空気が、一気に室内に流れ込む。肌にまとわりつくように、衣服の隙間から侵入してくる。
ベランダは狭く、植木鉢一つ置けないほどだ。手すりに手を置き、身を乗り出すようにして下を見下ろす。
三階の高さから見えるのは、駐車場の並んだ車の屋根と、ぬかるんだアスファルトの地面、そして遠くにぼんやりと光る街の灯りだけだ。
雨は細かい霧のようで、顔や手に付くと冷たい。髪の毛が次第に湿り、重たくなる。
息を吐けば、白い吐息が闇に溶けていく。
そして、ふと気づく。
ベランダの手すりに、自分自身の影がぼんやりと落ちている。背後から室内の灯りが漏れ、それが自分という形を闇に写し出している。
その影は、まるで今にも手すりから零れ落ち、下の闇に吸い込まれていきそうな、不安定で薄っぺらい輪郭をしていた。
学はじっとその影を見つめた。
動かなければ、影も動かない。
しかし、風が少し強くなり、自分の髪が揺れると、影の輪郭もわずかに震える。揺らめく。
--まるで、影だけが本当の自分で、こちらの肉体が虚像なのではないか。
そんな倒錯した考えが頭をかすめる。
「あの時……ああしていれば」
口をついて出た言葉は、雨音に遮られ、ほとんど聞こえない。自分自身の声ですら、かすれて消えていく。
あの時、もっと家族と時間を割いていれば。
あの時、妻のささやかなSOSに気づいていれば。
あの時、出世競争から一歩身を引く選択をしていれば。
無数の「もしも」が、脳裏を蟻の行列のように這い回る。痒いような、疼くような感覚。
しかし、どれ一つとして現実を変える力はない。全ては過去のものだ。選択の結果が、今ここにいる自分を形作っている。
その重さに、膝がわずかに震え始める。老化した関節が、軋むような音を立てている気がした。
手すりに握りしめた指の関節が白くなる。力が入りすぎて、骨がきしむ。
--もう少し、力を込めれば。
--もう少し前に体重をかければ。
--この影のように、闇に溶けていくことも可能なのではないか。
その考えが頭をよぎった瞬間、背筋に冷たい戦慄が走った。鳥肌が立つのが、自分でも分かった。
同時に、得体の知れない恐怖が胸を掴む。心臓が、どくん、どくんと、耳元で鳴る。
死への誘惑と、生への未練が、心の中で無言の争いを始めた。胃がねじれるように痛む。
結局、学はベランダから一歩下がった。
引き戸を閉め、鍵をかける。カチリという音が、部屋の中に響く。
室内の温もり——とは言え、それは決して温かいものではないが——が、再び彼を包む。外気との温度差が、わずかな湯気を肌に立たせる。
テレビの画面は相変わらず無意味な光を放ち続けている。色の変化が、学の顔をゆらゆらと照らす。
学はその前の床に、崩れるように座り込んだ。畳の匂いが、鼻につく。
壁の染みを見つめた。じっと、ただじっと。
時間がどのくらい経ったかわからない。足先が痺れ始め、冷たさが膝から腰へと這い上がってくる。
やがて、視界の端がぼやけ始め、目の奥が熱くなってくる。潤みが、ゆっくりと視界を覆う。
気づけば、一筋の涙が皺だらけの頬を伝い、顎先に滴ろうとしていた。
それに続くように、もう一筋、また一筋。
声を立てず、肩を震わせることもなく、ただ静かに涙が溢れ出る。頬を伝うその軌跡が、痒い。
三十年近く、人前で泣いたことなどなかった。
部下の前で、家族の前で、どんなにつらい時でも男は涙を見せてはならない、そう自分に言い聞かせてきた。
その我慢が、今この無人とも言える部屋で、無意味に、しかし勢いよく解き放たれていく。
涙の味は塩辛く、わずかに苦い。それが口角に流れ込み、舐めればその味がより明確になる。
学はその味を、自分自身の人生の味のように感じた。
--ああ、そうだ。
--これが今の俺なんだ。
誰からも必要とされず、誰の記憶にも鮮明に残ることはなく、ただ時間に流されて朽ちていくだけの存在。
壁の染みのように、いつの間にか広がり、やがては塗り替えられて消えていくだけの——
ふと、遠くから消防車か救急車のサイレンが聞こえた。
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