第1章: 喪失の底で鳴る、冷たい時計の音

# 第1章: 喪失の底で鳴る、冷たい時計の音
退職の挨拶状が社内報に載った、その週の金曜日。
保坂学は自宅のリビングで、茶色い封筒を突きつけられた。
封筒の表には、妻の直筆で「保坂学様」とあった。
様付け。
三十年近く連れ添った妻が、夫を様付けする。
その瞬間、学の胃の底に冷たい鈍器が突き立てられるような感覚が走った。内臓がぎゅっと縮み、喉の奥に嫌な酸味が込み上げてくる。
中身はA4の便箋一枚。
文章は確かに三行半ではなかったが、要約すればそうなる。
長年の感謝と、今後の幸せを願うという形式的な言葉の後に、インクの滲んだボールペンの文字が続いていた。
「あなたとの人生はもう終わりました。別れてください」
その文字は、少し震えているように見えた。しかし、それは筆者のためらいではなく、単に手が冷えていたからかもしれない。学はその区別が、もうつかなかった。
子どもたち——もう成人した息子と娘——はその場にはいなかった。
週末にそれぞれ帰宅し、母親の隣に並んで、同じ言葉を口にした。
「父さん、母さんを自由にしてあげてよ」
息子は視線を合わせようとせず、テーブルの木目をじっと見つめていた。その側頭部に、学はかつて自分が抱きしめた小さな頭を、わずかに重ねて見た。
娘は泣いていた。
だが、その涙は父親への同情ではなく、この気まずく重苦しい状況そのものに対するもののように、学には映った。彼女はハンカチで目元を押さえ、母親の袖を少しだけ掴んでいた。
全てが速すぎた。
退職金の振り込みを確認した銀行口座の残高は、半分ほどが別の口座に移されていた。妻——いや、もう元妻だ——が、きちんと手続きを済ませていたのだ。
自宅マンションは売却され、得た金額は折半。
学が手にしたのは、都心からはるかに離れた郊外の、築三十年は経っているだろう中古マンションの一室を購入するのに、ぎりぎりの金額だけだった。
荷物は衣類と書籍、数点の家具だけ。
家族写真は全て置いていけと言われた。
「新しい生活に、過去は要らないから」
元妻は淡々と告げた。その顔には、長年肩に乗っていた重しが取れたような、どこか軽やかな表情が浮かんでいた。
学にとってそれは、残酷なまでに澄み切った安堵の色に映った。
引っ越し先のマンションは、最寄り駅からバスで十分、そこからさらに徒歩七分ほどの場所にあった。
外壁は雨風に晒され、汚れで薄黒く変色している。
エントランスの自動ドアは、軋むような金属音を立てて開閉する。その音は、毎回、学の奥歯に響いた。
廊下には、消毒液とほこり、そしてどこからか漏れてくる古い畳の匂いが混じり合い、淀んだ空気が漂っていた。
足元のカーペットは所々擦り切れて裏地が見えており、色褪せた緑色が、さらに陰鬱な印象を増幅させた。
部屋は三階の端。
ドアを開ければ、六畳と四畳半の居室に、狭いユニットバスとシステムキッチンがついただけの空間が広がる。
南向きの窓からは、他のマンションの壁面がすぐ近くに迫り、一日のうちで陽が差し込むのは、ほんの一時間ほどだった。
その窓枠には、前の住人が残していったらしい、丸い水垢の染みが幾つもくっきりと付着している。
学はその染みを、初日に三十分ほどぼんやりと眺めていた。
まるでそれが、自分の人生に滲み出た、拭いきれないシミそのもののように思えてならなかった。
生活のリズムは一変した。
定年後のゆとりある第二の人生——そんな幻想は、あの三行半とともに、粉々に砕け散っていた。
収入は年金と、友人づてに紹介された夜間警備のアルバイトだけ。
警備先は駅前の小さな商業ビル。深夜零時から朝六時まで、濃紺の制服に身を包み、重い懐中電灯と無線機を持って各階を巡回する。
かつては百名近い部下を抱え、戦略会議で侃々諤々の議論を戦わせていたその頭脳が、今は深夜のビルで、トイレの水道の閉め忘れがないか、非常口の前に荷物が置かれていないかを確認するだけの仕事に使われる。
孤独は、この時間帯にさらに増幅した。
ガラス張りのオフィスフロアには、パソコンのモニターだけが幽霊のように青白く光っており、自分以外の人間の気配は完全に消えている。
無線から時折入る本部との簡素なやりとり以外、声を発する機会はほとんどなかった。
「異常ありません。三階巡回完了します」
そう報告する自分の声が、長い廊下に虚しく吸い込まれていく感覚。
かつては張りのあったバリトンも、今ではかすれ気味で、力なく響く。喉の奥が乾き、少しひりひりと痛む。
朝六時、勤務終了。
薄明るくなり始めた街を、同じ制服姿の若い警備員たちと共に後にする。
彼らはスマートフォンを見つめながら、終業後の食事や帰宅の計画を楽しそうに話し合っている。
「あー、やっと終わった。ラーメン行く?」
「俺はもう寝るわ。疲れた」
そんな会話が、学の耳に軽やかに飛び込んでくる。
学はただ黙ってそれに続き、最寄り駅で別れる。彼らが向かう方向とは反対の、郊外行きのバス停へと足を向ける。
帰宅のバスの中では、疲労よりもまず空腹が襲ってくる。
が、自宅のキッチンで食事を作る気力は湧かない。
コンビニに寄り、弁当コーナーで一番安い幕の内か鮭弁当を手に取る。
電子レンジで温められるものは温めるが、大抵は温めずそのまま食べる。面倒だからだ。
部屋に戻り、小さなテーブルについてプラスチックの蓋を開ければ、冷めたご飯と、色あせたおかずが整然と並んでいる。
箸で口に運べば、ご飯はべたつき、焼き魚は身がパサついており、野菜の煮物は砂糖辛い味だけが強く舌に残る。
咀嚼し、飲み込む。
栄養を摂取するという行為そのものに意味を見出さなければ、とても続けられない食事だった。
食後は洗い物をし、着替えてベッドに入る。
ベッドと言っても、購入したのは安いシングルサイズの布団だけ。敷き布団は薄く、畳の硬さが背中に直接伝わってくる。
掛け布団も軽く、体の熱を奪っていく。寝返りを打つたびに、布団カバーの化学繊維が冷たくざらついた感触で肌を撫でる。
目を閉じれば、頭の中を過去の光景が次々と駆け巡る。

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