第4章: 再生する温もり

第4章:再生する温もり
詩織の口から零れた一滴を、彼女自身の指でそっと拭い取る動作に、陽介は息を詰まらせた。
しばらくの間、リビングには二人の荒い呼吸だけが響いていた。詩織はまだ陽介の腿に顔を埋めたまま、肩の震えが止まらない。陽介は無意識に、彼女の髪を撫でていた。湿った栗色の髪が、指の間から滑り落ちる感触。
「…ごめんなさい」
ようやく詩織が顔を上げた。目尥が真っ赤で、頬には涙の跡が光っていた。
「突然、あんなことして…変ですよね」
「いや…」
陽介は言葉を探した。喉が渇いていた。
「こっちこそ、ありがとう、と言うべきかもしれない」
詩織はぼんやりと彼を見つめた。そして、ふっとかすれた笑い声を漏らした。
「なんか、おかしいですね。お互い、謝ったり感謝したりして」
「そうだな」
陽介も微笑んだ。緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
詩織はよろめくように立ち上がり、ソファの隣に腰を下ろした。ネグリジェの裾がもっと上がり、腿の付け根まで露わになったが、彼女はもう隠そうとしなかった。
「ずっと…触れてみたかったんです」
彼女はうつむきながら、絞り出すように話し始めた。
「あの日、唯夏が言った言葉を聞いてから…頭から離れなくて。仕事中も、唯夏を寝かしつけた後も、ずっと考えてしまって」
陽介は黙って聞いていた。
「だって、長い間…男の人に触れるなんて、もうないんだと思ってたから。シングルマザーって、みんなに『頑張って』って言われて、弱音も吐けなくて。恋愛だって、色目だって、全て諦めて生きてきたつもりだった」
詩織の指が、ネグリジェの布地を握りしめていた。
「でも、佐々木さんが現れて…唯夏と遊んでくれて、食事を作ってくれて。ただの優しさだけじゃない、もっと深いところで、私の寂しさを分かってくれているような気がして」
「詩織さん…」
「そして、あの大きさを知って…」
彼女は顔を上げ、陽介をまっすぐ見た。目にはまだ涙が溜まっていた。
「女として、もう一度感じてみたいって、強く思ったんです。これが最後のチャンスかもしれないって」
「最後なんて、とんでもない。君はまだ三十二歳だ。これからだ」
陽介の言葉に、詩織の唇がわずかに震えた。
「でも…相手が佐々木さんでなかったら、こんなことできなかったかもしれない。年齢が離れているから…安心できたのかも」
「そうか」
陽介は複雑な表情を浮かべた。確かに、年の差は否定できない事実だった。
「私だって…君のような若くて美しい女性に、こんな風にしてもらえるなんて、夢にも思わなかった」
「美しい、って…」
詩織の頬が再び赤くなった。
「そんなことないですよ。疲れきったシングルマザーです。しかも、あんな玩具で…」
「止めなさい」
陽介の声が、思ったより強く響いた。
「君は立派に母親をやっている。働きながら、唯夏さんをこんなに素直で明るい子に育てた。それは並大抵のことじゃない」
詩織は目をぱちぱちさせた。そして、突然また涙が溢れ出した。
「なぜ…なぜそんなに優しいんですか」
「優しいなんて、とんでもない。ただ…」
陽介は言葉を切った。彼自身の胸中を整理する時間が必要だった。
「私もずっと、孤独だった。家族のために働いて、ようやく退職したら、妻には別の男がいて…子供たちにも相手にされない。生きる意味を見失いかけていた」
窓の外では、夜の闇が深まっていた。遠くで救急車のサイレンがかすかに聞こえる。
「そんな時、唯夏さんが公園で一人で遊んでいるのを見た。あの子の無邪気な笑顔に、何か忘れていたものを思い出した気がしたんだ」
詩織は息を殺して聞いていた。
「そして君に出会った。苦労しているのに、必死に前を向いている君の姿に…尊敬さえ覚えた」
「そんな…」
「本当だ。だから、ただの情けや同情じゃない。君という人間に、心を動かされている」
陽介はゆっくりと詩織の方へ体を向けた。
「そして今夜…君がしてくれたこと。それは、この年老いた体に、まだ男としての価値があることを教えてくれた」
「佐々木さん…」
詩織の声はかすれたささやきだった。
彼女はそっと体を滑らせ、再び陽介の膝の間に身を寄せた。しかし今度は、顔を埋めるのではなく、彼の顔をまっすぐ見つめていた。
「私…もっと触れていいですか? 今度は、ちゃんと」
「ちゃんと?」
「ええ。ただの好奇心じゃなくて…女として、佐々木さんという人を感じたい」
陽介は深く息を吸い込んだ。体中の血が一気に頭に上るような感覚があった。
「…年齢のことは、気にしないでいい?」
「もう、どうでもよくなりました」
詩織の目が真剣だった。
「だって、今この瞬間、私を女として見てくれるのは佐々木さんだけですから」
その言葉に、陽介の最後のためらいが消えた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、詩織の頬に触れた。肌は火照っていて、涙で湿っていた。
「君は…本当に美しい」
詩織はその手に頬をすり寄せた。目を閉じ、長い睫毛がほのかに震えている。
「私の部屋まで…行きませんか? ここだと、唯夏が起きてくるかもしれないから」
「そうだな」
二人はそっと立ち上がった。詩織が先導し、寝室へと続く短い廊下を進む。その背中を見つめながら、陽介は自分の心臓の鼓動が耳元で鳴り響いているのを感じた。
詩織の寝室は、想像以上に質素だった。シングルベッドが一つ、小さな洋服ダンス、そしてベッドサイドには唯夏の描いた絵がいくつか貼られているだけだ。
「狭くてごめんなさい」
「気にすることない」
詩織はベッドの端に座り、陽介を待った。ネグリジェの紐が外れ、胸元がさらに開いている。湯上がりの肌は、薄暗い寝室のなかでほのかに光っていた。
陽介は彼女の前に立ち、ゆっくりと膝をついた。詩織の目と同じ高さになった。
「怖くないか?」
「怖いです」
詩織は正直にうなずいた。
「でも…それ以上に、楽しみです。ずっと…本当の温もりを感じたかったから」
陽介はそっと彼女の肩に手を置いた。詩織はその手のひらの温かさに、思わず息を詰まらせた。
「ゆっくりでいい。嫌になったら、いつでも止めていいから」
「わかりました」
詩織はうなずくと、今度は自分から陽介の浴衣の襟元に手を伸ばした。布地をそっと開き、その下の年老いたがまだたくましい胸板を露わにした。
「佐々木さんの体…初めてしっかり見ます」
彼女の指が、陽介の胸の傷跡に触れた。昔、仕事中の事故でできたものだ。
「痛かったですか?」
「もうずいぶん前のことさ。今は痛くない」
「でも…ここに、生きてきた証がある」
詩織はその傷跡にそっと唇を当てた。その優しい接触に、陽介は背筋が震えるのを感じた。
次第に二人の呼吸が重なり合った。詩織は陽介をベッドに導き、彼の上にそっと覆いかぶさるようにして乗った。
「私…上からやってみていいですか? そうすれば、佐々木さんに負担をかけないで済むから」
「君がいいようにしていい」
詩織はうなずくと、ネグリジェを完全に脱いだ。月明かりが、彼女のふくよかで女性らしい肢体を柔らかく照らし出した。長い間隠していた恥じらいはもうなく、ただ自然な美しさがあった。
彼女は腰を浮かせ、陽介のそそり立つものを自分の股間に導いた。触れた瞬間、二人ともはっきりとした吐息を漏らした。
「ああ…」
詩織の声には、痛みと快楽が混ざり合っていた。
「入って…いきます」
ゆっくりと、少しずつ。彼女は自分の体重を預けながら、陽介を受け入れていった。長い間使われていなかった彼女の内側は、熱く、締まりが良く、そして驚くほど濡れていた。
「全部…入りました」
詩織が汗ばんだ額で呟いた。彼女の顔は苦悶と歓喜の入り混じった表情だった。
「大丈夫か?」
「大丈夫です…むしろ、これが欲しかった」
彼女はゆっくりと腰を動かし始めた。最初はぎこちないリズムだったが、次第に自然な動きになっていった。ベッドがきしむ音が、静かな寝室に響く。
陽介は詩織の動きに合わせて腰を押し上げた。長い間忘れていたこの感覚。女性の体に包まれる温もり。絞り上げられるような快楽。
「あ…佐々木さん…」
詩織の声は次第に乱れていった。彼女は胸を揺らし、首を仰け反らせ、激しい動きを続けた。ネグリジェは完全に床に落ち、彼女は何にも縛られない自由な姿で陽介の上で踊っていた。
「私…こんなに気持ちいいなんて…忘れてた」
「私もだ…」
陽介は詩織の腰を抱きしめ、より深く突き上げた。彼女の叫び声が小さくこもる。
時間の感覚が曖昧になった。一分かもしれない、一時間かもしれない。二人はただ互いの体に没頭し、長年積もってきた孤独と飢えを、肉体の交わりによって埋め合わせていった。
そして、詩織の動きが突然激しさを増した。
「あ、ああ…だめ、もう…いきます…」
彼女の内側が強く締まり、波打つように収縮し始めた。その感触に引きずられるように、陽介も限界を感じた。
「私も…」
「中で…いいですよ。全部…私にください」
その許しの言葉に、陽介は最後の抵抗を捨てた。深く突き上げると、熱いものが彼女の内側に溢れ出た。
「ああっ!」
詩織の体が大きく反り返り、震えが走った。彼女は陽介の上で崩れ落ちるようにして、激しい絶頂に耐えていた。
しばらくの間、二人は動けなかった。ただ重なり合い、激しい呼吸を整えているだけだった。
やがて詩織がゆっくりと体を持ち上げた。彼女は陽介を見下ろし、涙ながらに微笑んだ。
「ありがとう…」
「そっちこそ」
陽介は彼女の汗で濡れた髪を撫でた。
詩織は横に寝転がり、陽介の腕の中に身を寄せた。彼は自然に彼女を抱きしめた。二人の体は汗と愛液でべとべとだったが、それを気にする様子はなかった。
「こんな風に…抱きしめられるの、何年ぶりだろう」
詩織は呟くように言った。
「私もだ。妻と最後に抱き合ったのは…もう何年も前のことだ」
「寂しかったですね」
「ああ。でも今は…」
陽介は言葉を続けなかった。だが、詩織はその意味を理解したように、彼の胸に顔を埋めた。
窓の外から、夜明け前のうす明るさが差し込み始めていた。
「そろそろ朝ですね」
「そうだな。唯夏さんが起きる時間だ」
「ええ」
詩織はため息をついた。
「現実に戻らなきゃ」
「嫌か?」
「違います。ただ…このままずっと、佐々木さんと一緒にいたいな、って」
陽介は彼女の頭にそっとキスをした。
「私は、君たちの隣にずっといるつもりだ。それがどんな形であれ」
「ありがとう」
詩織は目を閉じた。
しばらくして、隣の部屋から唯夏の寝言が聞こえてきた。二人は顔を見合わせ、そっと笑った。
「行かなきゃ」
詩織が起き上がろうとした時、陽介がそっと彼女の手を握った。
「今日の夜も…一緒に食事をしないか? 今度は私が君たちの部屋で作る」
詩織の目が輝いた。
「本当ですか?」
「ああ。家族三人で、食卓を囲もう」
その言葉に、詩織の目にまた涙が浮かんだ。しかし今度は、悲しみの涙ではなく、温かい感謝の涙だった。
「はい。楽しみにしています」
彼女はベッドから起き上がり、床に落ちたネグリジェを拾った。そして振り返り、陽介に微笑みかけた。
「それでは、一度着替えますね。唯夏が起きる前に」
「ああ」
陽介も起き上がり、浴衣を着直した。体は少し疲れていたが、心は驚くほど軽かった。
詩織が部屋を出る時、もう一度振り返った。
「佐々木さん」
「ん?」
「昨夜のこと…後悔していません」
「私もだ」
詩織は満足そうにうなずくと、そっとドアを閉めた。
陽介は一人残された寝室に立ち、窓の外に広がる夜明けの空を見つめた。薄紫色の空が、次第にオレンジ色に染まり始めていた。
新しい一日の始まりだ。
いや、それ以上に、新しい何かの始まりかもしれない。
リビングに戻ると、昨夜の徳利と湯のみがまだテーブルに置かれていた。彼はそれを片付けながら、胸に湧き上がる感情をかみしめた。
喪失と思っていた人生に、再び温もりが戻ってきた。
それは血の繋がりではない。法律で認められた関係でもない。
しかし、確かにそこにある繋がり。孤独だった二人が、互いの欠けた部分を埋め合わせて見出した、偽りのない温もり。
台所で朝食の準備を始めながら、陽介は隣の部屋から聞こえる詩織と唯夏の声に耳を傾けた。母親が娘を起こす優しい声。それに答える子供の眠そうな声。
その何気ない日常の音が、彼の胸を満たしていく。
やがてドアをノックする音がした。
「おはよう!」
唯夏の元気な声が聞こえる。
陽介は笑顔でドアを開けた。そこには、パジャマ姿の唯夏と、すでに制服に着替えた詩織が立っていた。
「おはよう。ちょうど朝食を作っているところだ」
「やったー! おじいちゃんのご飯!」
唯夏が飛び跳ねた。
詩織は陽介を見つめ、ほんのりと頬を赤らめた。昨夜の記憶が、二人の視線の間に流れた。
「お手伝いしましょうか?」
「いや、今日は私が全てやる。君たちはゆっくりしていてくれ」
陽介がそう言うと、詩織は優しくうなずいた。
「では、お言葉に甘えて」
彼女は唯夏の手を引き、小さなテーブルに着いた。朝日が部屋に差し込み、三人の姿を柔らかく照らし出していた。
陽介はフライパンで卵を焼きながら、背後から聞こえる二人の会話に耳を傾けた。詩織が唯夏に今日の予定を話す声。唯夏が幼稚園でやりたいことを興奮して話す声。
この平凡な光景が、どれほどかけがえのないものか。
彼は卵をひっくり返し、静かに微笑んだ。
失った家族の形は戻らない。しかし、新しい形の温もりが、ここに生まれようとしていた。
年齢も境遇も越えて、ただ人間同士が支え合う、それだけの関係。
それで十分だ。いや、それ以上のものだと、陽介は思った。
朝食ができると、三人は再び食卓を囲んだ。唯夏が陽介の作った目玉焼きをほおばり、「おいしい!」と叫ぶ。詩織がそっと紅茶をすすり、満足そうに目を細める。
「今日の夜も、一緒にご飯食べようね」
陽介が言うと、唯夏は大きな声で賛成した。
「うん! ずっとずっと、一緒がいい!」
詩織は娘の頭を撫でながら、陽介を見つめた。その目には、感謝と、これから始まる未来への期待が輝いていた。
「ええ、ずっと」
彼女はそう囁くように答えた。
陽介はコーヒーカップを手に取り、二人を見つめた。この瞬間、彼は確信した。
孤独の果てで見つけたこの温もりは、もう二度と失わないものだと。
窓の外では、新しい一日が輝き始めていた。まるで、彼らの再生の始まりを祝福するように。
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