第2章: 溶けゆく境界線、疼く肌

第2章: 溶けゆく境界線、疼く肌
スマートフォンの淡い光が、栗原章介の皺の深い手のひらに落ちた。画面には、清水香里からの新しいメッセージが浮かんでいる。夕食の写真だった。小鉢に盛られたひじきの煮物、焼き魚、それに具だくさんの味噌汁。どれも色鮮やかで、手間がかかっているのが伝わる。
「今日は鯵の開きを焼いてみました。脂がのっていて、美味しかったです」
その文字の下には、小さな笑顔のスタンプが添えられていた。
栗原はリビングのソファに深く沈みながら、指を動かした。この数週間、彼女とのLINEのやり取りは、彼の孤独に染まった日常に、かすかなリズムをもたらしていた。
朝の挨拶から始まり、昼には仕事の合間に送られてくる香里の写真――仕出し屋の厨房で大量に作られるおかずの山、あるいは彼女自身の質素な昼食。
そして夜には、今日の夕食の報告。彼は最初、何を返せばいいのかわからなかった。ただ「おいしそうだな」と書くことしかできず、自分が無趣味で味気ない男だということを痛感していた。
しかし香里は、そんな彼の短い言葉に必ず丁寧に返してくれた。
「栗原さんは、お魚はお好きですか? 焼くときのコツがあるんですよ」
「味噌汁の出汁、今日は煮干しと昆布でとりました。やっぱりしっかり取ると味が違いますね」
彼女の言葉は、まるで料理そのもののように、彼の空虚な胃袋だけでなく、胸の奥のぽっかり空いた穴にも、温かい何かを注いでくれるようだった。
彼は返信を考える。これまでは妻に「今日の晩飯は?」と訊くことすら、義務的な挨拶のようにしか感じていなかった。けれど今、この小さな画面の向こうにいる女性に、自分が何を食べたか、どう感じたかを伝えることが、なぜか大切に思えてならなかった。
「俺は今夜、スーパーの惣菜で済ませた。香里さんのを見ると、なんだか贅沢をした気分になる」
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。返事が来るまでの数秒間、彼はなぜか自分の心臓の鼓動を耳の奥で聞いていることに気づいた。
「そんな……。でも、もしよかったら、今度ひじきの煮方を教えますね。簡単ですから」
彼は画面をじっと見つめ、口元が緩むのを感じた。教えてほしい、と書こうとして、指が止まった。
ふと、あまりにしつこくなりはしないかという気恥ずかしさが、頬をゆるやかに熱くした。それでも彼は打ち込んだ。
「ぜひ。いつか、機会があれば」
すると今度は、少し間があってから返信が来た。
「はい。喜んで」
その言葉の後に、また小さな花のスタンプが添えられていた。栗原はスマホをソファに置き、天井を見上げた。
部屋にはテレビの音だけが空虚に響いている。けれど、今しがたまでそこにあった重たい静寂が、少しだけ軽くなったような気がした。彼の掌には、スマホの温もりが、かすかに残っていた。
それから数日後、彼は思い切ってメッセージを送った。家電量販店に行きたいのだが、電気ポットの購入を考えている、どれがいいかわからない、と。それは半分本当で、半分はただ彼女の声が聞きたかったからだということを、自分でも認めざるを得なかった。
香里は驚くほど迅速に、いくつかの機種の特徴を箇条書きで送ってきて、最後にこう付け加えた。
「メーカーの展示コーナーで実際に触ってみるのが一番だと思います。もし差し支えなければ……私、明日の午後なら時間が空いています。ご一緒しても、よろしいでしょうか?」
彼はその文章を何度も読み返した。差し支えなければ。ご一緒しても。彼女の、人に気を遣いすぎるほど丁寧な言葉遣いが、なぜか胸を締め付けた。
彼はすぐに返信した。ありがとう、ぜひお願いしたい、と。
約束の当日、彼はなぜか普段着のポロシャツではなく、少しばかり襟のきいたシャツを選び、チノパンの皺を手で叩きながら家を出た。電車に揺られる一時間、彼は窓に映る自分のかすかな白髪混じりの頭髪を気にしながら、ふと、高校時代の香里を思い出した。
教室の窓際で、頬杖をついて外を眺めていた彼女の横顔。彼は声をかける勇気がなく、ただ遠くから見つめることしかできなかったあの頃。
今、四十数年を経て、彼女と家電量販店で会う約束をしているという現実が、どこか滑稽で、そして切なかった。
駅の改札口で彼女を見つけた時、彼はまたしても、彼女の美しさ――年齢を重ねたからこその、深く静かな美しさに息をのんだ。
肩までの髪は柔らかくウェーブがかかり、地味ながらもきちんとした柄のワンピースを着ていた。彼女も彼を見つけ、小さく手を挙げた。その仕草が、どこか少女めいていた。
「お待たせしてしまいましたか?」
「いや、俺も着いたばかりだ」
彼らは並んで歩き始めた。初めはぎこちない沈黙が続いた。肩と肩の間には、手を伸ばせば届きそうな、しかし越えてはならないかのような距離があった。
彼は何か話さなければと思い、昨日の彼女のメッセージにあった味噌汁の話題を振った。
「煮干しと昆布の出汁、やってみたんだが、なかなか難しいな」
香里の顔がぱっと明るくなった。
「あら、やってくださったんですか? 煮干しは頭とはらわたを取ると、えぐみがなくなりますよ。最初は面倒に思うんですけど、慣れれば」
彼女が説明する声は、LINEの文字では伝わらない温かみと、少しだけ早口になるような熱意を含んでいた。
彼はうなずきながら、彼女の横顔を盗み見た。話す時の彼女の目は、寂しげだった同窓会の夜とは違って、微かに輝いていた。
家電量販店では、彼女が驚くほど的確に電気ポットの機能を比較し、彼の生活スタイルに合いそうなものをいくつか勧めてくれた。彼はほとんど彼女の薦めに従い、一台を選んだ。買い物を終え、店を出ると、そろそろ夕暮れ時だった。
「すまないな、ずいぶん時間を取らせちゃった」
「いいえ。私も、こういうお話をするの、久しぶりで……楽しかったです」
彼女は俯き加減にそう言い、ほんのりと頬を染めた。その瞬間、栗原の中に、ある衝動が湧き上がった。まだ帰りたくなかった。彼女と一緒にいたい。ただそれだけだった。
「よかったら……この近くで、軽く何か食べていかないか? お礼も兼ねて」
香里は一瞬、目を見開いた。彼は言ってしまったことを後悔しかけた。しかし彼女はゆっくりとうなずいた。
「もし、ご迷惑でなければ……」
彼らは駅前の小さな居酒屋を見つけ、奥のボックス席に座った。注文したビールとお通しが運ばれてきて、グラスを軽く合わせた。冷えた泡が喉を通り、初めて二人きりで向かい合うという緊張が、少しだけ和らいだ。
会話は自然に流れていった。仕出し屋での仕事の話、彼の退職後の漠然とした日々、ふとした日常の小さな発見。
彼女は時折、静かに笑った。その笑顔を見るたびに、栗原は胸の奥が温かく疼くのを感じた。
二杯目を注ぎながら、香里がふと呟いた。
「栗原さんは、退職されて、これからどうされようと思ってるんですか?」
彼はグラスをまわしながら、考えた。
「……さあな。夢や目標ってものは、もう随分前に忘れちゃったよ。家族のために働くことが、全てだったから」
「そう……ですか」
彼女の声が、かすかに曇った。彼は気づいて、訊き返した。
「香里さんは? これから、何かしてみたいこととか」
香里はグラスの水滴を指でなぞり、遠い目をした。
「私も……特にありません。ただ、ふと思うんです。もっと、自由を謳歌したかったな、って」
その言葉に、栗原ははっとした。彼女の口調には、深い諦めと、かすかな未練が混ざっていた。
「自由、か……」
「ええ。若い頃から、夫の実家で暮らしてきましたから。姑の目もあって、いつも気を遣い、遠慮ばかりして……。夫も、子供が生まれてからは仕事一筋で、だんだん私とは……疎遠になっていって」
彼女の声が次第に細くなり、涙声に近づいていく。彼は無言で聞き続けた。
「何もかも、義務のように感じてきたんです。良い妻でいなきゃ、良い母親でいなきゃ、良い嫁でいなきゃ。でも……ふとした瞬間、これで良かったのかな、と。私だって、もっと……もっと……」
彼女は言葉を詰まらせ、顔を上げた。彼女の目尺には、微かに光るものがたまっていた。栗原の喉が渇いた。彼は思わず促した。
「もっと、どうしたかった?」
香里は彼を見つめた。その瞳は潤み、混乱と羞恥、そして長年押し殺してきた何かが渦巻いているようだった。彼女は唇を震わせ、かすれるような声で言った。
「この年齢で言うのは、本当に恥ずかしいことですけど……女としての喜びを、もっと知りたかったんです」
一瞬、時間が止まったような気がした。居酒屋の喧噪、テレビの音、全てが遠のき、彼の耳には彼女の吐息だけが届く。
--女としての喜び。
その言葉の持つ官能的な響きが、彼の腹の底をじんわりと熱くした。彼は、自分の中にまだこんなにも激しく欲望が蠢いていることに、驚きを覚えた。
香里は真っ赤になって俯き、グラスを両手で握りしめている。その指の関節が白くなっている。彼女は言ってしまったことを悔いているようだった。
栗原はゆっくりと息を吸った。彼のグラスを持つ右手が、微かに震えていることに気づいた。震えを止めようと力を込めると、逆にグラスが軋むような音を立てた。
「……そう、だったのか」
彼の声は、思った以上に低く、濁っていた。彼女はうつむいたまま、かすかにうなずいた。
「はい……。ずっともんもんとしてきました。夫が亡くなって、寂しさはもちろんありますが……同時に、もうあの思いを味わうこともないのだと思うと、どこか……悲しくて。こんなこと、誰にも言えませんでした」
彼女の一滴の涙が、テーブルの木目に落ちた。その小さな音が、栗原の鼓動をさらに速めた。
彼はテーブルの下で拳を握りしめた。今、ここで彼女に触れたい。その震える肩を抱きしめ、涙を拭ってやりたい。
いや、それ以上に――彼女が長年渇いていたという「喜び」を、今すぐに与えてやりたいという、野蛮なほどの衝動が、頭を擡げた。
けれど彼は動かなかった。六十五歳の男と女が、居酒屋のボックス席で、そんなことをするわけにはいかなかった。
理性が、沸騰しそうな血を冷やそうとした。しかし彼の視線は、彼女の首筋に刻まれた深い皺、ワンピースの襟元から覗く鎖骨の窪み、そして涙で濡れた睫毛に釘付けになっていた。
彼は彼女の体が、どんな感触なのか、どんな温もりなのかを、想像せずにはいられなかった。
「……香里さん」
彼は名前を呼んだ。彼女がゆっくりと顔を上げた。涙で曇ったその瞳は、彼をまっすぐに見つめていた。
そこには、紛れもない弱さと、どこか期待に似た光さえあった。
彼は言葉を失った。ただ、グラスを置き、テーブルの上にそっと手を伸ばした。彼女の手のひらから数センチのところで、止まった。
触れそうで触れない。
その距離に、全ての欲望とためらい、背徳と憧憬が凝縮されているようだった。
香里は彼の手を見つめ、そして、目を閉じた。長い睫毛がまた微かに震えた。彼女は何かを覚悟したかのように、あるいは全てを委ねたかのように、ただ静かに息をしていた。
栗原は、その瞬間、確信した。彼らが向かっている先は、もはや普通の友人関係などではない。崩れ落ちそうな境界線の向こう側には、汗と熱気と恥辱にまみれた、未知の領域が広がっていた。
そして彼は、年老いた自分の肉体が、その領域を激しく欲していることを、否定できなかった。
居酒屋を出た時、街には既に夜景の灯りがともっていた。彼らは駅までの道を並んで歩いた。
沈黙が続いたが、それは先程までのぎこちない沈黙ではなく、濃密で、何かを孕んだ静けさだった。
駅のホームで、彼女の電車が来るのを待つ間、栗原は言った。
「また……会おうか」
香里はうつむき、小さく頷いた。
「はい」
彼女の電車が滑り込んできた。ドアが開く。彼女が一歩踏み出そうとした時、栗原は思わず彼女の腕を軽く掴んだ。ほんの一瞬、ワンピースの薄い生地の下にある、細くて柔らかい腕の感触が、彼の指先に焼き付いた。
香里は振り向き、息をのんだような表情を浮かべた。
「……気をつけて帰れよ」
彼はそう言い、手を離した。彼女は何も言わず、ゆっくりとうなずいて電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、電車が動き出す。窓際に立つ彼女の姿が、次第に遠ざかっていく。
栗原はその場に立ち尽くした。彼が彼女の腕を掴んだ指先には、まだ彼女の体温が残っているような気がした。
そしてその感触は、彼の下腹部に、鈍く疼くような熱を呼び起こしていた。もう遅い時間だ。帰らなければ。
けれど、彼の足はなかなか動き出さなかった。
頭の中は、彼女の涙声と、彼女が囁いた「女としての喜び」という言葉で、一杯だった。
彼はようやく重い足を引きずりながら、反対方向のホームへと向かった。背中に、彼女の乗った電車が去っていく音が響く。
もう会う約束をした。
次はいつだろう。
その次には、いったい何が起こるのだろう。
震える手で定期券を改札に通す時、栗原章介ははっきりと悟った。この疼きは、もう止められない。ただ深まり、拡がり、やがて彼を――そして彼女を――どこかへ連れ去っていくのだと。
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