第5章: 億万長者の秘密

第5章: 億万長者の秘密
意識が浮上するのと同時に、窓の隙間から差し込む冬の冷たい光がまぶたを焼きついた。
隣で眠る玲子のふくよかな体温と、昨夜の情事の生々しい匂いが混じり合った空気が、森本の肺に深く沁み入る。
自分の精液と彼女の蜜が混じり合った、濃密で生々しい匂い。
彼はゆっくりと目を開け、天井のひび割れた様子をぼんやりと眺めた。
体中が、若い頃に戻ったかのような心地よい疲労感に包まれている。
その裏で、自分のしたことへの罪悪感が、冷たい鉛のように胃の底に沈んでいた。
66歳の男が、31歳も年の離れた女性に、しかもあんなに無遠慮に、獣のように抱きついてしまったのだ。
彼はそっと身を起こし、隣で寝る玲子の顔を覗き込んだ。
彼女の寝顔は、子供のように無防備で、少し開いた唇からは、甘い寝息が漏れている。
その頬に残る情熱の紅暈は、まるで高価な陶器に施された釉薬のようで、森本は指で触れることさえ憚れた。
この美しいものを、自分のような枯れ木が汚してしまったのではないか。
その思いが胸を締め付けるが、同時に、この女に抱きしめられていた一瞬の安堵感は、温かい潮のように彼の全身を包み込み、彼を赦していたのだ。
「ん……」
玲子が猫のように伸びをし、ゆっくりと目を開けた。
その瞳が森本と合わさった瞬間、彼女はふっと柔らかく微笑んだ。
そこに、一夜を共にした後の気まずさや戸惑いは一切なかった。
まるで、朝を迎えるのが当然だったかのように。
「おはようございます、森本さん」
「あ……お、おはよう」
彼女はすっと起き上がると、森本の古いジャケットを羽織り、そのままキッチンへと向かった。
その姿に、森本は一瞬息をのんだ。
彼女の裸の体に、自分の着古した服がまとわりついている光景は、あまりにも卑しく、そしてあまりにも官能的で、心臓が鷲掴みにされるような感覚に襲われた。
やがて、キッチンから米を研ぐ音と、カツカツと出汁を取る音が響いてきた。
その生活感に満ちた音に、森本は自分がこの部屋で、この女と、普通の朝を迎えているのだという現実を、ようやく受け入れ始めていた。
テーブルを挟んで向かい合い、玲子が運んできた湯気の立つ味噌汁と、焼き魚、そして白飯。
その質素な朝食は、高級レストランのフルコースよりも、森本の心を満たした。
「美味しい……」
「ふふ、良かった。普通の味だけどね」
玲子は茶碗を持ち、お茶を注ぎながら、まるで何気ない話を切り出した。
「ねえ、森本さん。実はね、私、両親が亡くなって、それなりにお金を持ってるの」
その言葉は、あまりに唐突で、森本は一瞬何を言われたのか分からなかった。
彼は箸を止め、玲子の顔を見つめた。
彼女の表情は、昨日の夜に豆腐を股間に載せた時と同じく、どこか戯れたような、そして一切揺るぎのない平静さを保っていた。
「……資産家?って、どういうことだ。冗談だろう?」
「冗談じゃないわ。本当のことよ。父が遺してくれた不動産とか、株式とか。正直、私一人で使い切れるほどじゃないくらい」
玲子はそう言って、さらりと肩をすくめた。
その仕草が、森本の世界を根底から覆した。
資産家。莫大な財産。そんな言葉は、自分とは全く縁のない、別の惑星の出来事だった。
彼は自分の今の状況を思い出した。
この6畳間のワンルーム、ヨレヨレのジャージ、時給1000円のアルバイト。
そして、自分の66歳という老い。
すべてが、玲子の言葉の前で、色褪せ、ちっぽけで、惨めなものに感じられた。
自分は一体、何者なんだ。
この女に抱かれたのは、愛情ではなく、ただの憐れみか。
それとも、若い女の奇妙な趣味の犠牲牲なのか。
羞恥と自己嫌悪が、頭に血を上らせるようにこみ上げてきた。
「なぜ……そんなことを、俺に……」
森本の声は、震えていた。
玲子はその様子をじっと見つめていたが、やがて静かに立ち上がると、森本の隣に腰を下ろし、その手をそっと握った。
その手は、温かく、柔らかかった。
「森本さんは、何も心配しなくていいの。私が森本さんに会いたいのは、お金のためじゃない。ただ、あなたに会いたいから。あなたのそばにいたいから。それだけ… それをわかって欲しかったの」
彼女の瞳は、真っ直ぐに森本を見つめていた。
その瞳の奥に映る自分は、確かにそこにいた。
老い、貧しく、自信を失った男。
それでも、この女は、その男を「欲しい」と言っている。
その瞬間、森本の中で何かがぱっと切れた。
それまで彼を縛っていた、男としてのプライドも、年齢への羞恥も、過去の失敗も、すべてが無意味な粉々になって吹き飛んでいった。
そうか、自分は救われるのだ。
この女に抱きしめられることで、この女に所有されることで、自分はこの孤独な淵から救われるのだ。
彼は玲子の手を強く握り返し、その温もりに全身を預けた。
もう、逃げない。
彼女がくれるものを、すべて受け入れよう。
それが、自分に残された唯一の生き方なのだと、彼は悟った。
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