第3章: 鍋の約束

第3章: 鍋の約束
アルコールの刺激と、古びた合成甘味料が混じりあった、独特の甘ったるい匂い。それが、カラオケ店のホールに残る二人だけの時間の終わりを告げる合図だった。
ギシギシと軋るモップをしぼり、ビニールの手袋をベリッと外す。玲子はふっと、ため息混じりの息を吐いて、艶やかな黒髪を耳にかける。
その無防備なしぐさの一つ一つが、森本の乾いた目に、潤いを与えるしずくのように落ちてきた。
「森本さん、今日もお疲れ様でした。…ねぇ、もしよかったら、この辺りで一杯、どうですか? 私、知ってる美味しいお店があるんです」
彼女の声は、いつも通り丁寧だった。その底に秘められた熱が、静かに揺らめいているのが森本には分かっていた。
断る理由など、どこにもなかった。孤独な部屋で冷えたレトルトを口にするより、この人の温もりに触れる時間を選ぶのは、あまりにも自然な流れだった。
駅前の居酒屋、隅の席。二人はいつものように並んで座る。湯気の立つ焼き鳥と、冷たいビールのジョッキ。
その繰り返しが、森本には久しく忘れていた、日常という名の喜びだった。
「そういえば、森本さん。奥様とのこと、あまりお話ししてくださらないですよね?」
ある夜、少し酔いが回った玲子が、静かに、しかし的確に核心を突いてきた。その瞳は、ただの好奇心ではなく、真実の痛みそのものを理解しようとするような、深い色合いを帯びていた。
森本はビールを一口飲み、喉の渇きを潤そうとした。だが、心の渇きは一向に癒されなかった。
「……もう、過去の話だ。俺が、女として見られなかったんだろうな。退職して、金の稼げない年寄りになっちまってからは、な」
言葉は、自分でも驚くほど素直に、剥き出しのまま口から零れた。これまで親友の田中にさえ、本心から吐き明かしたことはなかった。
恥ずかしさと諦めが、分厚い殻になって心を覆っていた。しかし、玲子の前では、その殻がじわり、とひび割れていくのを感じていた。
彼女はただ黙って、時折頷きながら、森本の言葉に耳を傾け続けていた。その姿は、まるで長年、誰にも理解されなかった痛みを、そのまま受け止めてくれるかのようだった。
「それは、お辛かった……。でも、森本さんは悪くない。絶対に。ずっと、家族のためにご自身を削って、頑張ってきたんでしょう?」
彼女の声には、慰め以上のものがあった。それは、無条件の肯定であり、賛美だった。森本の胸の奥で、何かが温かく溶けていくような感覚が広がる。
彼女の体からふわりと漂う、フローラル系の優しい香水の匂い。それがビールの泡の香りと混ざり合い、彼の頭を少しずくらさせる、危険で甘い酔いだった。
「寒くなってきましたね。もうすぐ冬ですし」
その日、帰り道を歩きながら、玲子がふと空を見上げて呟いた。吐息が白く、彼女の柔らかな頬をかすめていく。
「森本さんのお部屋で、温かいものでも食べながら、ゆっくりお話ししませんか?私、具材なんて全部持っていきますから。簡単な鍋とか、作れますよ」
突然の提案に、森本は息を呑んだ。自分の部屋。あの、年金とバイト代でやっと支えている、1Kの殺風景な部屋。
そこに、この麗しい人を招き入れること。二人の年齢差を思うと、背筋を伝う冷たい汗が止まらなかった。断らなければ。そう理性が叫んだ。
「いや、でも、玲子さんにそんな手間をかけさせるわけには……」
「手間じゃありません。むしろ、私がしたいんです。森本さんが一人で寒い夜を過ごすなんて、考えただけで胸が痛みますよ」
彼女の言葉は、柔らかい絹で包まれたナイフだった。森本の心を守っていた薄汚いプライドの壁を、痛みを伴わずに、静かに切り裂いていく。
可哀想だ、という言葉に抵抗を感じながらも、その根底にある純粋な好意に、抗うことはできなかった。彼は、ただ、小さく頷くことしかできなかった。
約束の夜。森本は午後から、落ち着きなく部屋を徘徊していた。古い床の掃除、窓の磨き、埃のかぶった本棚の拭き掃除。
手についたのは、長年の生活の匂いと、自分の老いた体の汗の臭いだけだ。鏡に映る自分は、白髪が目立ち、目の下にはくまが浮かんでいる。
こんな姿で、本当にいいのか。何度も自問自答したが、答えは出ない。ただ、胸の高鳴りが止まらない。期待と不安が、もつれた糸のように心の中で絡み合う。
玲子が用意してくれるという鍋の具材を、自分は何も用意できていない。せめてもの気持ちと、自分の恥ずかしさを紛らわすために、新しい鍋つゆの素と、ビールを数本買ってきた。
部屋の中央に、古いこたつを出し、その上にガスコンロと鍋をセットする。これが、自分の精一杯のおもてなしだ。
時計の針は、のろく、しかし確実に、約束の時間を指していく。森本は、こたつの上に正座し、ただ、玄関のチャイムが鳴るのを待っていた。掌には、まだ冷や汗が滲んでいた。
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