第2章: 若葉の香り

第2章: 若葉の香り
安物のポリエステルが肌にまとわりつき、消毒液とこぼれた酒の甘酸っぱい匂いが混じり合った空気が、喉の奥にへばりつくようだった。
森本隆は、与えられたモップを握りしめ、見知らぬカラオケ店の廊下を、ただひたすらに往復していた。
退職金も、夫としての誇りも、すべてを奪った離婚裁判の泥沼から抜け出せたと思ったのも束の間、この歳になって初めて体験するアルバイトの現実は、彼の乾いた心にさらに冷たい砂をかき込むようだ。
腰は鈍く痛み、同年代の男が孫の顔でも見ながら悠々と過ごしているであろう時間を、自分はこんな場所で、若者たちが残した粘着質のゴミと格闘している。
その事実が、彼の頬を内側から焼くような恥辱となって疼いた。
春の雨に濡れた白いジャスミンのような香りが、ケミカルな靄をまっすぐに切り裂いた。
ふと立ち止まった森本の横に、その香りの主が、まるで水の流れのように音もなく立っていた。
艶やかな黒髪をストレートに伸ばした女性、清潔感のあるグレーのブレザーに白いブラウス。
その落ち着いた身なりは、この喧騒と退廃の空間にあって、一点の光のようにさえ見えた。
年齢は三十五歳ほどだろうか、それよりもずっと若く、それでいてどこか成熟した気品を漂わせる、不思議な魅力を持った女性だった。
彼女は少し困ったように微笑み、森本の持つモップの先に目を落とした。
「あの、森本さんですよね?清水玲子と申します。よろしくお願いします」
その声は、鈴を転がすような澄んだ響きを持っていたが、決して高くなく、聞く者の耳に優しく染み渡るような温かみを秘めていた。
森本は、あわてて顔を上げた。
自分のような枯れ木のような男を、どうして知っているのだろう。
不審に思う様子を察したのか、玲子はすぐに続けた。
「今日から一緒に働くことになりました。私もまだ慣れてなくて、ちょっと戸惑ってるんです」
そう言って、彼女は自分の胸元を軽く押さえる。
そのしぐさに、ふっとブラウスの下の柔らかな膨らみが意識され、森本は思わず目をそらしてしまった。
ひさしぶりに感じる、女性の存在というだけの、ただそれだけの事実に、彼の心臓が不意に脈打つのを感じた。
こんな場所で、こんな風に。
自分の人生は、どこか根本からおかしくなってしまったのだろうか。
「あ、ああ。森本だ。こちらこそ」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
玲子はそんな森本の狼狽を気遣うように、さらに一歩近づいてくる。
ジャスミンの香りが、今度はもっと濃密に彼の感覚を包み込んだ。
「森本さん、そのモップの使い方、少しコツがあるんですよ。こうやって、八の字を描くように動かすと、隅々まで綺麗になるの」
彼女はそう言うと、森本の手からそっとモップを受け取った。
その瞬間、彼女の指先が森本の手の甲に、ほんの一瞬触れた。
温かく、柔らかく、そして驚くほど滑らかな感触。
それはまるで、忘れかけていた記憶の欠片を、皮膚の上から直接焼き付けられるような衝撃だった。
森本は息を呑み、ただ彼女の手つきを見つめるしかなかった。
彼女の動きは無駄がなく、ダンスのように優雅で、汚れを吸い取っていくモップの動きが、まるで生き物のように見えた。
仕事が一段落し、二人は休憩室の隅で黙ってコーヒーを飲んだ。
薄暗い部屋に、自動販売機の機械音だけが響いている。
気まずい沈黙を破ったのは玲子だった。
彼女は、どうしてこんな仕事を?と聞くわけでもなく、ただ静かに森本の横顔を見つめていた。
その視線に、何かをすべて見透かされているような心地悪さと、それとは別に、久しく感じていなかった「誰かに興味を持たれている」という感覚が、奇妙に混ざり合って胸に満ちていく。
「森本さん」
玲子が、ふっと呟くように呼びかけた。
その声には、先程までの明るさとは違う、どこか切ない色が滲んでいた。
「なんだか……私の亡き父に、そっくりです」
その言葉は、賛辞でも、慰めでもなかった。
それは、錆びついたまま存在を忘れていた森本の心の錠前を、ぐっと静かに回す鍵だった。
父、という言葉。
かつて自分もそうだった、家庭を支え、誰かの拠り所となる存在。
妻にすべてを奪われ、無価値な人間だとさえ思い込んでいた自分に、まるで昔の役割を思い出させるかのような、不意打ちの一言だった。
鈍い熱が胸から指尖へと広がり、二十年近くも感じていなかった、誰かを守るという名の責任と、それに伴う尊厳の幻影が、ふわりと立ち上ったのだ。
「……そうか」
森本は、返す言葉も見つからず、ただかすれた声でそう応えるしかなかった。
玲子は、悲しそうに、しかしどこか安堵したような表情で、小さく頷いた。
「父も、森本さんと同じくらいの年で亡くなったんです。だから、なんだか……見てると、胸が苦しくなっちゃう」
そう言って彼女は、そっと目を伏せた。
その長いまつ毛が、薄暗い灯光に揺れる様子が、無防備な少女のようで、森本は思わず胸が締め付けられる思いがした。
この女は、何を望んでいるのか。
自分に何を求めているのか。
理解できない。
しかし、その瞳の奥に宿る孤独の色だけは、痛いほどよくわかった。
それは、自分が毎日鏡に映している、あの虚ろな瞳と同じ色だった。
アルバイトが終わり、夜の街に一歩踏み出すと、冷たい風が頬を打った。
しかし、その冷たさの中に、森本の鼻腔からは、決して消えることのない甘いジャスミンの香りが、まるで生き物のように息づいていた。
乾いてひび割れていた心の土壌に、ほんの少し、しかし確かな水滴が、したたり落ちた瞬間だった。
彼は無意識に、自分の服の袖に顔を埋めてみた。
そこには、玲子の指が触れたかもしれない場所に、まだ、彼女の温もりと香りが、幻のように残っている気がしたのだ。
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