第1章: くすんだ黄昏

第1章: くすんだ黄昏
六畳一間の空気は、使い古された雑巾が絞り出すような、カビと埃の匂いをまとい、森本隆の肺の奥までねっとりと張りつく。
66回目の誕生日を迎えた今日、彼を祝福するものは何一つなく、壁に掛けた電子カレンダーの冷たい光が、その数字を無情に突きつけているだけだった。
薄汚れたカーテンの隙間から差し込む冬の陽光は、部屋中の埃の踊りを照らし出し、その光すらもこの空間の褪せた色彩を嘲笑っているかのようだ。
テレビから流れるバラエティ番組の無意味な笑い声だけが、この死んだ時間に唯一の音響を添えているが、それはかえって孤独の深さを際立たせる、耳障りなノイズに他ならなかった。
妻、美代子との熟年離婚裁判で、彼は築き上げてきたもののほとんどを失った。
退職金も、美代子が言い渡された慰謝料と養老費のために、あっという間に消え去っていた。
かつては大手家電メーカーの営業として威勢の良かった自分が、今やこの薄暗いワンルームで、僅かな年金をやりくりしながら朽ちていくだけの存在。
プライドは粉々に砕け、未来への希望という言葉は、まるで別の星の言語のように遠く感じられた。
彼は布団から出ることさえ億劫になり、古びたジャージのまま、ただテレビの画面を眺めて時間を殺す。
それが、彼の日常のすべてだった。
そんな黄昏の時間を破ったのは、懐かしく、そして今は少しばかり煩わしくもなる電話の呼び出音だった。
画面に浮かぶのは、大学時代からの親友、田中健二の名前。
面倒臭さと、それ以上の寂寥感が胸の中でせめぎ合い、彼はためらいがちに受話器を手に取った。
「……もしもし…森本か、俺だ、田中!」
受話器から聞こえてくるのは、相変わらずの元気で、少し大きな声だった。
森本はふっと息を吐いて、無表情で応える。
「……ああ、田中か。どうした?」
「何をどうしたもんか、お前!最近全然連絡くれねえし、心配で電話したんだよ!今日、お前の誕生日だろ?」
田中の心配そうな言葉に、森本の胸に微かな疼きが走る。
気遣われるのは嬉しいが、同時に自分の惨めな現状を知られるのが恥ずかしく、喉がカラカラに乾く。
「……ああ、そうだ。だけど、もう歳なんだから、どうってことないさ」
「何言ってんだよ!66歳だろ、まだまだこれからじゃないか!よし、決めた!今から俺ら一杯やろう!駅前のあいつ、美味しいもん出すからな!待ってろから!」
「いや、今日はいい……」
断る言葉を口にする前に、電話は切られてしまった。
森本は受話器を置くと、再び部屋の沈黙に包まれる。
だが、先程までとは違う、少しだけ外の空気が混じったような、そんな感覚だった。
居酒屋のカウンター席で、田中は派手なアロハシャツを着て、すでにビールを呷っていた。
小太りで朗らかな彼の姿は、森本の痩せた影とは対照的だった。
「おい、隆!遅かったじゃねえか!まあ、とりあえずこれで乾杯だ!」
ジョッキを突きつけられ、森本はおずおずとそれを受け取る。
冷たい液体が喉を潤し、炭酸の刺激が舌を打つと、身体の芯から少しだけ力が抜けていく。
「……悪いな、田中。わざわざ」
「何を言う。お前がそんな元気ない顔してるの、黙っていられねえよ。それに、離婚の裁判とか大変だったろう?話聞かせろよ」
田中の真剣な瞳に、森本はつい目を伏せた。
財産を失ったこと、年金を取られたこと、一人になったこと。
そのすべてを吐き出すのは、あまりにも屈辱的だった。
「……もう、終わった話だ。俺が悪かったんだ」
「お前が悪いも何も、お前が真面目に働いて貯めたもんだろ!あの女、いい思いしてるんだぜ。聞いたよ、ギャンブルやってる男とくっついてたってさ」
美代子の名前が出た瞬間、森本の胃がきゅっと縮み上がるような痛みを覚える。
彼は黙ってビールをあおった。
田中はそんな森本の横顔を見て、一度深く息を吸い込んだ。
「……隆、悪いけど、正直に言う。お前、このままじゃダメだ。仕事、しないか?」
「馬鹿なことを。この歳で、どこが雇ってくれる」
「いや、そうじゃねえんだ。簡単なバイトだ。スキマバイトってやつさ。俺の知り合いがカラオケ店経営してて、ホールの清掃を手伝ってくれる人を探してるんだ。時給も悪くないし、身体を動かせば、まあ、気分も変わるんじゃねえか?」
カラオケ店の清掃。
その言葉に、森本のプライドが猛烈に抵抗した。
元大手家電メーカーの営業マンが、若者たちの残したカラオケの空き缶や、食べかすを片付けるのか。
屈辱以外の何物でもなかった。
「……やめておくよ。そんな、恥ずかしい」
「恥ずかしいも何も、お前は今、一人で飯を食うのがやっとなんだろ!それよりマシだろ?お前が死んだふりしてる間に、世界はどんどん進んでんだよ!」
田中の言葉は辛辣だったが、その根底には、友人を心配する熱い想いがあった。
森本は反論できず、ただ黙り込む。
その夜、彼は酔って眠った。
翌朝、二日酔いの頭痛と共に目覚めた森本を待っていたのは、いつもの冷たい部屋の空気だった。
田中の言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
屈辱だ。
しかし、この孤独は、それ以上に耐え難い。
壁に向かって、彼は小さく呟いた。
「……ばかな、俺が……」
その言葉は、自分自身への言い訳だった。
だが、目の前には、現実として空っぽの冷蔵庫と、来月分の家賃の請求書が横たわっている。
彼はゆっくりと立ち上がり、よれよれのジャージのまま、部屋の隅に置かれていたスマートフォンを手に取った。
そして、田中が教えてくれた求人サイトのページを開く。
指が、震えながらも「カラオケ店 ホール清掃」という文字をタップした。
クリック一つの軽さとは裏腹に、その時、森本隆の人生の重りが、少しだけ、本当に少しだけ、動いたのだった。

コメント