第1章: 日常の裂け目と吐息

第1章: 日常の裂け目と吐息
午後二時の陽射しが、障子紙を通して柔らかく室内を満たしていた。カラン、と音を立てる蛇口の冷たさが、由香の指先を伝って肘まで駆け上るような感覚。彼女はひたすらに、湯を張った洗面器の中でタオルを絞り、それをもう一度、義父である孝三の痩せた手へと運ぶ。介護は、いつしかこの家での彼女の日常となり、呼吸と同じくらい無意識の営みとなっていた。乾いた肌に触れる温かいタオルの感触、それに伴う微かな湯気の匂い、そして何より、この家に満ちる静寂。その静けさは、時に由香の胸を締め付け、彼女の内側を空洞にしていく。夫、健太は朝早くに出かけ、夜遅くに帰ってくる。彼の残したベッドの冷たさと、ほんのり残るシャンプーの匂いだけが、この家に彼が存在したことの唯一の証左だった。由香は健太の妻である前に、この家の介護者であり、孝三の世話をする嫁という役割を自分に課していた。その献身的な態度は、周りからも評価され、彼女自身もそれが自分の幸せなのだと信じ込もうとしていた。けれど、夜ふけに一人で布団に潜り込み、隣の空気を読んでも健太の気配が感じられない時、彼女の体はまるで乾いたスポンジのように、愛情という名の水分を渇望して疼き始めるのだった。
「お義父さん、今日は少し暖かくなりましたね。お散歩の気でもありますか?」
由香は無愛想にならないよう、明るい声をかける。しかし、その声は自分の耳にも少しだけ虚しく響く。孝三は目を細め、由香の方をゆっくりと向ける。白髪の混じった短い髪、深く刻まれた額の皺、そして長い年月を物語るその瞳。彼はただ、微かに首を横に振るだけで、言葉は返さない。足が悪くなってからというもの、彼の世界はこの六畳間ほどの広さに縮こまり、言葉もまた、彼の内側に深く沈んでいってしまったようだ。由香はそんな彼の無言を理解しているつもりだった。孤独だ。きっと、心の底では寂しいに違いない。その思いやりが、彼女の介護を支える原動力になっていた。彼女は再びタオルを孝三の腕に這わせる。痩せて、骨と皮だけになった腕。その皮膚は薄く、青白い血管が地図のように浮かび上がり、しみと皺が刻まれたその手は、かつてはたくさんのものを掴み、誰かを支え、健太という息子を育て上げたのだろう。由香はふと、その手のひらに自分の頬をすりつけてみたい、という衝動に駆られた。男の、温かく、少し粗い手のひらの感触。健太とは久しく、そんなふうに触れ合ってはいなかった。彼とのスキンシップは、夜の寝室での義務的な行為に近いもので、そこには優しさや愛情よりも、むしろ疲労と無関心が色濃く滲んでいた。
由香は孝三の左手をそっと持ち上げ、指の間まで丁寧に拭いていく。その指は、関節がこわばり、まっすぐに伸びてはいない。由香の柔らかな指が、その硬い関節を優しく撫でるように動く。その瞬間だった。ふと、抑えきれない寂しさが、彼女の喉の奥から溢れ出した。
「お義父さんみたいな、優しい人に…抱かれたい…」
それは、ほとんど自分でも聞き取れないほどの、かすかな吐息だった。意識して言った言葉ではなかった。ただ、積もり積もった孤独が、彼女の唇から勝手にこぼれ落ちてしまったのだ。言ってしまった後、由香は全身の血が一気に頭に上り込むのを感じた。耳の奥がじんじんと熱を帯び、首筋から背中にかけて冷や汗が伝う。何てことを、言ってしまったんだ。お義父さんに、相手は自分の夫の父親なのに。彼女は顔を上げられず、ただ孝三の手を握ったまま、固く目を閉じた。羞恥という名の炎が、彼女の体の内側から、じわじわと燃え上がり、肌を焦がしていく。
「……由香?」
孝三の、かすれた声が響く。由香はぞっとするほどに震えながら、ゆっくりと顔を上げた。そこには、驚きと、そして深い困惑を浮かべた、年老いた義父の顔があった。彼は由香が何を言ったのか、完全には理解できていないようだった。だが、その目は、由香の心の奥底を覗き込んでいるかのように、真っ直ぐに彼女を見つめていた。その視線に触れた瞬間、由香はもう、後戻りできないのだと悟った。今まで自分が押し殺してきたもの、健太との間に失われてしまったもの、女として認められたいという切実な願い。それらすべてが、この静かな午後の部屋で、皺の刻まれた義父の前で、脆くも崩れ始めていた。由香は、自分の手の中にある孝三の痩せた手が、ひどく温かく感じられるのを知った。その温もりだけが、今の彼女を支える唯一の現実だった。彼女はその手を、二度、三度と強く握り返し、唇を噛みしめた。もう、この日常には戻れない。裂け目は、すでにそこにあった。

コメント