亡き妻の遺影に縋る65歳の俺が、清掃ボランティアで出会った32歳の向日葵のような女に片想いし、66歳の巨根の男に奪われるまでの屈辱と執着の記録
あらすじ
退職と熟年離婚の果て、生きる張り合いをなくした男の前に現れた向日葵のような女性。彼女に触れる勇気すら持てない男は、底抜けに明るい同年代の男に居場所を奪われていく。誰も悪くない、だからこそ苦い、老いの片想い。
第1章 向日葵と汗の匂い

第1章: 向日葵と汗の匂い
早朝の光は、レースのカーテンを透けて畳の上に薄く濁った水溜まりのように広がっていた。岡島雄二は仏壇の前に正座し、白木の位牌に手を合わせてから、細い目をゆっくりと開いた。線香の煙はまっすぐに昇り、部屋の空気に甘ったるい沈黙を混ぜていく。遺影の中の妻は、若い頃のままの笑みを浮かべていた。その笑みが、今の俺には痛い。何度手を合わせても、もう何も返ってこない。ただ、煙の匂いだけが鼻の奥にこびりついて、喉のあたりを乾かしていく。
「……今日も、暑くなるのかね」
声に出して呟いてみても、返るのは柱時計の秒針が秒を刻む音だけだった。俺は痩せた膝に手をついて立ち上がる。立ち上がるたびに、膝の関節がぎしりと鳴り、腰のあたりがずんと重く沈む。六十五歳の身体は、朝が来るたびに少しずつ重くなっていくようだった。台所へ向かい、やかんに水を入れて火にかける。冷蔵庫から出した麦茶の残りをコップに注ぎ、口に含むと、冷たい液体が喉を通る感覚だけが妙にリアルだった。生きている実感とは、こんなものなのだろうか。
しばらくして、市の広報誌の折り込みに挟まっていた清掃ボランティアの募集広告に目が止まる。何度も読み返した紙は、端が少し手垢で汚れていた。「地域をきれいにしませんか。経験不問、参加費無料」の文字。退職してから丸三年、家で死んだように過ごすだけの毎日が、俺の胸の内側を音もなく削っていた。家にいても、妻の残り香はもう台所の換気扇や風呂場の鏡から消えて久しい。遺影だけが、写真の中で若いままの微笑をこちらに向けている。俺は広告を手に取り、日時を確認してから、薄いグレーのポロシャツとカーキ色のチノパンを着替えた。姿見に映る自分の姿は、白髪交じりの薄い髪を後ろに流し、うす茶色の瞳は落ち窪み、顔には深い皺が縦横に走っている。肩は丸まり、首は前に突き出し、膝のあたりが少し曲がっている。ため息をつくと、そのまま黒いウォーキングシューズを履いた。
集合場所の公園までは歩いて十二、三分。照りつける太陽が首の後ろをじりじりと焼いた。乾いた空気のなか、遠くで朝蝉が鳴き始めている。公園の入り口には、すでに三、四人の初老の男女が集まっており、小さく会釈を交わしながら近づく。男は俺を含めて三人、女は四人。見たところ、俺より年上らしき者もいれば、五十代半ばに見える者もいた。皆、色あせた帽子を被ったりタオルを首に掛けたりしていて、その格好が妙に胸に迫る。長らく社会との接点を失っていた俺には、この集まり自体が眩しくて、うまく輪の中に入れずにいた。木陰の縁で立ち止まり、汗で湿った襟元を指で引っ張る。少し離れた場所から、年配の男たちが笑い合う声が、夏の空気に溶けていくのを聞いていた。
「おはようございます。本日はじめての方ですよね?」
突然、若い女の声が背後から飛んできて、俺の背筋がぴんと伸びた。振り返ると、麦わら帽子を被り、白いカットソーに七分丈のデニムを履いた女が立っていた。背中にかかる黒髪は低い位置で一つ結びにされ、額には汗で貼りついた前髪が数筋かかっている。少し垂れた大きな茶色の目と白い歯。小麦色に日焼けした肌に、日差しが艶を載せていた。年は、そう、まだ三十そこそこか。
「あ、どうも。岡島といいます。その、初めてです」
俺はうつむき加減に答えた。女はふんわりと笑って、俺の目をまっすぐ見る。
「私は森下佳子と申します。皆さんに森下って呼ばれています。こちらこそ、助かります。今日は主に公園の植え込みのごみ拾いと、遊歩道の草むしりです。無理のない範囲で、ご一緒しましょう」
そう言うと、森下佳子は小さく頭を下げ、すぐ後ろにいた男性にトングを配り始めた。俺はその横顔を、しばらく見つめていた。向日葵のような笑顔。いや、そんな陳腐な言葉しか浮かばない自分が、もどかしいほどくすぐったい。胸の奥で、眠っていた何かが身じろぎするのがわかった。女の肌からは、日焼け止めの甘い匂いと、首筋に滲む汗の匂いが、もわっとした夏の空気に混ざって漂ってくる。嗅いではいけないと思いながら、鼻の奥がひくついて、その匂いを深く吸い込んでしまう。湿った風が彼女の髪を揺らし、白いカットソーの布地が身体にそっと吸い付く。汗で薄く透けた肩甲骨のあたりの肌が、光の加減で浮かび上がった。
清掃活動が始まると、森下佳子は誰よりもよく動いた。植え込みの陰にしゃがみ込み、落ちているペットボトルや菓子袋を拾い集める。そのたびに、白いカットソーの襟ぐりが重力に負けてゆるく開き、内側の淡い影がちらりと覗く。俺は、見てはいけない、と心で言語化しながら、しかし目だけは彼女の屈む動作を追っていた。彼女の体つきは痩せてしなやかで、腰の線が細い。七分丈のデニムから伸びる踝が、白いスニーカーの中で細い骨を見せている。首の後ろに一房の髪が汗で張りついていて、その黒い曲線が白い肌にぴったりと吸い付き、それが恐ろしく艶めいて見えた。熱を含んだ土と刈ったばかりの青草の匂いが、むっと鼻の奥まで立ちこめる。その深い緑の匂いに混じって、彼女のまとう日焼け止めの香りが、時折ふわりと流れてくるだけで、心臓が跳ねた。
「岡島さん、暑くないですか。水分、こまめに取りましょうね」
佳子が振り向いて、麦わら帽子のつばに手を添えながら声をかけてくる。額の汗が一粒、こめかみを伝って白い頬の横を滑り落ちるのが、妙に生々しく目に映った。俺は慌てて首を振った。
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
そう言ってから、俺は自分の声が上ずっているのが恥ずかしかった。平静を装って、足元の草を引く。土の匂いと青草の匂いが鼻を刺すが、その奥に、間近を横切った佳子の汗とシャンプーの混ざった香りが、ぬるい膜のように立ちこめていた。汗は、決して嫌な臭いではなかった。むしろ、彼女の体温が溶け出したような甘ったるい匂いで、嗅ぐたびに、腹の底に小さな火が灯る気がした。その火は俺の中のわずかな空隙をくすぶり、下腹を痺れさせる。
「えっと、これ、そっちの袋に入れておきますね」
佳子が屈んだまま、俺の持つごみ袋に空き缶を入れようと近づく。そのとき、俺の右腕に彼女の左肩が軽く触れ、弾力のある肉の形が一瞬伝わった。いや、触れたのは本当に一瞬だった。服越しの体温と、汗で湿った肌の滑り。俺は思わず腕を引っ込めかけて、ごみ袋を取り落としそうになり、それを彼女が笑いながら拾い上げる。
「あらあ、大丈夫ですか。今日は風もないですし、熱中症には気をつけてくださいね」
「すみません、手が滑ってしまって」
俺は頭を下げる。すると、佳子は屈んだまま、顔をこちらに向けた。前に傾いた襟ぐりが大きく開き、白い首筋の奥、さらに胸元のふくらみの始まりが、汗の光を帯びて見え隠れする。しなやかに浮いた鎖骨の窪みには、汗が薄い膜になって光っていた。甘い匂いが、鼻を埋めるように近い。俺の心臓は、堰を切ったように早鐘を打ち、胃のあたりまで熱くなった。
「あの、それくらいで……」
俺は何かを拒むように小さく言葉を置いた。しかし、拒んだのは彼女ではなく、自分の中に生まれてしまった男の反応を、ごまかすための弱々しい声だった。太ももの奥の、普段は忘れている場所が、久しぶりにずくりと重くなる。それは痛みに近い感覚で、腰の奥から下腹へかけて痺れるように広がった。
清掃活動は二時間ほどで終わった。解散の挨拶を済ませた後も、佳子は年配の参加者に一人ひとり声をかけ、笑っていた。俺は木陰でペットボトルの水を飲みながら、その姿を目で追っていた。彼女が首筋を拭うしぐさ、髪を耳にかける左手の指先、屈むたびに開くカットソーの襟ぐり。そのすべてが、いちいち俺の神経に触れて、胸の奥の薄暗い場所を刺激する。いつの間にか、俺は佳子の笑い声を耳の内側で反芻していた。彼女の声は明るく、語尾が上がっていて、聞いているだけで身体の強張りがふっと緩むような、それでいて臍の下をざわつかせる柔らかさがあった。
帰り道、汗で重くなったシャツを背中に貼りつかせながら、俺は自分の歩く影が長く伸び始めているのを見た。頭の中では、さっきの佳子の襟ぐりと、白い首筋と、汗の匂いがぐるぐると渦を巻いていた。彼女の袖が触れた、あの一瞬の柔らかさ。あれは、女の身体だった。俺がもう二十年以上、まともに触れていない、生きた女の肌だった。手のひらにはまだ、彼女の汗が触れたわけでもないのに、湿った熱の感覚が残っている。指を握り直すと、関節の内側がかすかに疼いた。後ろめたさと、それ以上の飢えが、胃の底に重い塊のようにたまっていた。
帰宅してから、俺は真っ先に仏壇の前に行こうとしたが、体が言うことを聞かなかった。ちゃぶ台の前に座り込み、冷たい床に手をついて呼吸を落ち着ける。心臓はまだ早く、指先が細かく震えていた。俺は、畳の上に置いたごみ袋の中から、使い捨てのビニール手袋を外し、汗ばんだ手で顔を覆った。掌の内側に、まだ微かに夏の日差しと土と草の匂いが残っている。いや、本当は、佳子の汗の匂いを探している自分がいた。そんな自分が浅ましくて、俺は唇を噛んだ。それでも、鼻の奥に焼き付いた甘い汗の残り香が、息をするたびに甦る。あれは、若い女の身体から立ち上る、生の匂いだった。嗅いだだけで、舌の根が痺れ、喉の奥が勝手に唾液を溜めるような、そんな強い匂いだった。
それでも、身体は正直だった。小便をして手を洗うため洗面所に立つと、下着の中で陰茎がゆっくりと硬度を持ち始めていたのがわかった。布越しに触れると、その硬さは、老いた自分自身のものとは思えないほど切実だった。俺は、妻の遺影が見えないよう、脱衣所の明かりを消して、居間の隅に背を向けた。誰に見られているわけでもないのに、肩を縮こまらせて、チャックを下ろす。まず、下着の上から左手のひらを当てた。湿った感触が布を透けて伝わる。熱い。まだ触れたばかりだというのに、先端のあたりが下着に張り付いている。ゆっくりと押しつぶすように撫でると、乾いた布の目が肉の敏感な部分にざらりと擦れて、腰の奥が勝手に跳ねた。次に、右手の指先を下着の脇から差し入れる。下腹部の蒸れた熱の中に指を滑らせると、硬く反り返った幹の付け根に、汗がぬるりと溜まっていた。そのぬめりを指に絡めとり、先端へ運ぶ。触れた瞬間、腰の奥に電流のような快感が走り、膝が震えた。先走りが指先にねっとりと絡みつき、かすかに生臭いような、それでいて自分自身の飢えをそのまま固めたような匂いが、静かな洗面所に立ちこめた。
目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、麦わら帽子の下の笑顔と、屈んだときに開いた胸元。それから、あの女の汗の匂い。俺は堪え切れず、右手をゆるく握り込んだ。粘つく皮膚の摩擦が、小さく水音を立てて、静かな部屋に異様なほど響いた。くちゅっ、くちゅっと、握り直すたびに湿った音が重なる。それが自分の手の内から生まれている音だと思うと、耳まで熱くなった。白い首筋、汗で光る鎖骨、カットソーの奥の淡い影。あの影の中に、俺は誰にも言えない欲望を押し込める。呼吸が乱れ、鼻から抜ける吐息がひゅっと鳴った。汗で白いカットソーがぴたりと肌に貼り付き、腰のくびれから尻の丸みへ流れる女の曲線。あの布の下で、彼女の肌はどんな匂いがするのだろう。首筋に滲む汗は、舐めたら、どれほど塩辛くて甘いのだろう。腰が浮いた。吐息がひときわ高く漏れて、俺は慌てて唇を噛み締めた。
「……すみません」
誰にともなく呟いた。妻に謝っているのか、それとも佳子さんに対してなのか、自分でもわからなかった。指先から逃がした快感が、腹の底で熱い渦になって膨れ上がっていく。頭蓋の内側がしんと痺れて、鼓動だけがやけに鋭く、耳の奥で鳴っていた。握り込んだ陰茎は、手のひらの中でこれ以上ないほど硬く、それでいて皮膚の下に熱い血がどろりと流れているのがわかる。柔らかく刺激するたびに、先端から溢れる先走りが筋をつくり、手首までぬめぬめと汚していった。匂いが、もっと濃くなる。汗と、生の匂いと、罪悪感とがないまぜになって、鼻の奥を満たした。やがて、腹の底が熱く縮み上がり、精液が白く弾けた。その瞬間、脳の裏側を真っ白な光が走って、俺は床に膝をついたまま肩で息をした。久しぶりの感覚だった。生きている、という実感が、荒い呼吸と汗ばんだ掌に宿っていた。
しかし、射精が終わってすぐ、身体の芯は冷めていく。荒い呼吸ののち、手のひらに広がる生暖かい液体の温度と、鼻を刺すような臭い。俺は、うつむいたまま、逃げるようにそれを洗い流した。流れる水は冷たく、指先の熱を容赦なく奪っていく。それでも、皮膚のどこかにあの女の匂いが染みついている気がして、手を洗い終えた後も、指先を鼻の先に近づけては、浅ましい自分を確かめるのだった。部屋に戻ると、夜の空気が窓から流れ込んで、あの湿った布団を再び冷たく包んでいた。向日葵の香りは、どこにもない。俺は布団の上に横たわり、天井を見た。胸の奥にはまだ、さっきの熱が小さな煤になって燻っていた。それでも、目の前には冷え切った暗がりが広がっている。
俺は本当に、一人だった。妻の遺影も、畳も、窓の外の夜も、みんな俺を見下ろして黙っている。
「……次回も、行ってみようか」
自分の声が、暗い寝室にやけにはっきりと響いた。後ろめたさと、久しぶりの昂りとが混じった声だった。
第2章 底抜けに明るい男

夕立のあとのような蒸し暑さが、朝から地面の底でぐずぐずと唸っていた。昨晩はあれほど軽やかだった足が、まるで他人のもののように重たく、集合場所である公園の東屋へ続く舗道を踏むたび、俺の身体は前へ進むことを拒もうとした。佳子に会いたい。しかし会ったところで、俺はまた何もできず、彼女の前で小さく縮こまるだけではないか。その二つの感情が胃のあたりで濁った泥のように渦を巻き、喉の奥まで酸っぱく込み上げてくる。アスファルトから立ち昇る陽炎は、焦げるような油の匂いとともに膝裏へ絡みつき、首に掛けたタオルはもう汗でぐっしょりと重くなっていた。肌着も背中に張り付いて剥がれず、歩くたびに湿った布が皮膚を擦る。それでも足は、俺の意思とは別の浅ましい磁力に引かれるように、自然と公園へ向かっていた。
公園の入口に差しかかると、木々の緑がようやく日差しを遮り、耳の奥で蝉の声がうるさいほどに響いていた。十人ほどのボランティア仲間が思い思いに木陰へ散っている。その中へ足を踏み入れるより早く、聞き慣れない大きな笑い声が鼓膜を揺さぶる。声の主を探すまでもない。東屋の柱のそばで、佳子が白い麦わら帽子のつばを押さえながら、あの白い歯を惜しげもなく零して笑っていた。その正面に立つ男を、俺は瞬きもせずに見つめる。頭一つ分は高い、貫禄のある身体。白髪交じりの短く刈り込んだ頭、首には使い込んだ様子の白いタオル。膨らんだ腹回りを窮屈そうに白いポロシャツへ包み、笑うたびに首の肉が波打つ。ただ声が大きいだけではない。その声には、この暑ささえ押し返すような図太い明るさがあって、遠くにいる俺の内臓まで揺らすようだった。
「いやあ、佳子さんには敵わないなあ。俺みたいな新人でも、すぐ馴染める雰囲気を作ってくれるんだから。見てるだけでこっちまで元気になるよ」
男の分厚い手が、笑いながら佳子の二の腕を軽く叩く。ぽん、ぽん、と二度。その手のひらが、彼女の日焼けした肌に触れる瞬間、俺の眼球はその一点に吸い寄せられた。佳子は嫌がる素振りを見せない。むしろ、その軽い接触を受け入れたまま、首を少し傾けて笑っている。
「川崎さん、お上手なんですから。私、別に何もしてないですよ」
川崎、という名が、彼女の唇から転がり出た瞬間、湿った唾と一緒に喉の奥で澱む。俺は足の裏が地面に縫い付けられたように、その場から動けなくなった。知らない男の太い指が、佳子の肩から背中へ滑り落ちそうになるのを、目を剥くようにして追ってしまう。触れている時間はほんの数秒のはずなのに、その指の一本一本が、彼女の汗でしっとりした肌を味わい、感触を確かめているように見えた。俺が一度だって触れることのできなかった距離を、あの男は最初から存在しないかのように跨いでいる。胸の奥で、黒い泥がかき回される。嫉妬だ、と認めるまでにずいぶん時間がかかった。否、認めたくないだけで、俺はとっくに嫉妬している。手の震えを隠すため、俺はビニール袋を握り締めた。
やがて世話役の老人が集合を告げ、参加者たちがのろのろと輪になる。俺は佳子から二、三歩離れた場所へ立ち、汗で湿った手のひらをズボンの脇で何度も拭った。心臓は早鐘を打っているのに、背中は妙に冷えていて、汗が止まらない。
「えー、今日から新しくお手伝いいただくことになりました。川崎徳次さんです。皆さん、よろしくお願いします」
川崎は人懐こい垂れ目をさらに細め、片手を顔の横で軽く振った。その仕草ひとつ取っても、人に好かれるための呼吸を生まれつき知っている男だと分かる。
「川崎です。定年してから暇で暇でね。体を動かすのが昔から好きでさ。今日から仲間に混ぜてもらうよ。佳子さん、岡島さん、皆さん、よろしく頼むなあ」
佳子だけではない。初対面のはずの俺の名前まで、なぜ口にできるのか。一瞬返事に詰まり、俺は小さく頭を下げることしかできなかった。おそらく名簿か何かで、事前に参加者の名前を頭へ叩き込んできたのだろう。その用意の良さが、ますます俺の胸を窄ませる。佳子は年上の男たちに囲まれても、少しも臆した様子がなく、麦わら帽子の下でころころと笑った。
「川崎さん、フィールドはもうご覧になりましたか。今日は公園の外周と遊歩道と、二か所に分かれるんですけど、途中でどっちにするか相談しましょうね」
「おお、頼りになるなあ。佳子さんが決めてくれて構わないよ。俺は、佳子さんが行く方にどこまでもついていくからさ」
川崎の言葉に、周りの年配者たちがどっと笑う。俺は口元を歪めることもできず、地面に落ちた桜の枯れ葉を靴先で踏み砕いた。佳子の白いカットソーの背中が汗ばんで、薄い布地の下に肌の色を透けさせる。健康的な小麦色の背中。川崎の大きな手が、今にもあの背中へ触れるのではないか。その予感が胃の底で熱い泥をかき混ぜ、腹の内側をじりじりと焦がす。指先が震えて、何かを掴まずにはいられないのに、掴めるものなど何もなかった。
活動が始まると、三人の位置は自然と佳子を真ん中にした隊列になった。佳子が屈んで植え込みの空き缶を拾うたび、俺は彼女の斜め後ろに立ち、首筋に浮いた汗の粒を数えるような心持ちで視線を這わせる。彼女が動くたび、麦わら帽子の下の黒髪が揺れ、白い首筋がのぞく。白く細い首筋はしっとりと濡れ、後れ毛が数本、汗で肌に張り付いていた。汗の匂いと、昨夜と同じシャンプーの甘い香りが、暑さで膨張した空気の中で混ざり合い、俺の鼻の奥を粘りつくように刺激する。肺がいっぱいになるまで吸い込みたいのに、大きく息を吸えば喘いでいるように聞こえてしまう気がして、浅い呼吸を繰り返した。佳子のカットソーの襟ぐりは、屈むたびに重力へ素直に負けて手前へだらんと開き、白い胸元のふくらみの影がちらりとのぞく。見てはいけない、と思うたび、目を離した瞬間に川崎が彼女の隣へ立つことへの焦りが、視神経をぎりぎりと締め上げた。
「佳子さん、汗すごいなあ。ほら、首んとこ、日焼け止めが流れてるぞ」
川崎の声が、笑いを含んだ大きな塊となって俺の耳へ届く。振り返ると、川崎はいつの間にか佳子の真横にぴたりと寄り、自分の手の甲で彼女の首筋を軽く拭うような仕草をしていた。
「えっ、本当ですか? あ、タオルでいいのに。川崎さん、手が濡れちゃいますよ」
佳子は困ったように首を竦めながらも、川崎の手を振り払わない。むしろ、あごをほんの少し上げて、拭きやすいように首を傾けている。俺はぽかんと口を開けて立ち尽くした。心臓が肋骨の裏でどくどくと警鐘を鳴らし、指先が空を掻いた。川崎の白く大きな手が、佳子の汗で光る首筋を、肩のあたりまで滑り降りる。服越しではない。剥き出しの肌に、他人の男の指が直に触れている。あれほど近くで見つめていた白い首に、あの男の指が触れただけで、俺の中の何かが音を立てて崩れていく。指先が小刻みに震え、胃の裏側がぎゅっと絞り上がる。痛み、というには生温い、鈍くて苦いものだった。
「あ、岡島さん、そっちの袋、もういっぱいになりましたか。新しいの、持ってきましょうか」
佳子が不意にこちらを振り返り、明るい声で尋ねてくる。俺は慌てて視線を足元へ落とし、手に提げたごみ袋をぎゅっと握り締めた。
「ええ、まあ、まだ大丈夫です。すみません、気を使わせてしまって……」
声が掠れた。喉の奥に、まだ嫉妬がこびりついている。
「いえいえ。岡島さん、無理しないでくださいね。まだ暑いですから、木陰で休んでいても大丈夫ですよ」
その優しい声に、俺の胸は切なく痺れた。気遣ってもらえているのは確かなのに、川崎に向ける笑顔とはどこか温度が違う。同じ「さん」付けなのに、声の柔らかさが、兄か叔父に向けるような遠慮を含んでいる。俺は「ええ」と頷いたきり、鞄の中のペットボトルを握り締めた。佳子は麦わら帽子を直し、再び前を向いて歩き出す。彼女の隣へ、当然のように川崎が並ぶ。二人の背中を数歩遅れて追う俺の指先は、汗で湿った軍手の中で何度も空を切った。喉の奥が焼けつくように渇き、頭の中では、あの大きな手が佳子の首筋を滑る映像が何度も反復している。
昼休憩になると、全員が公園の芝生にシートを広げて弁当を取る中、俺は佳子の隣に座ることもできず、やや離れた木陰に荷物を置いた。アスファルトの照り返しがジリジリと前腕を焼き、汗がこめかみから顎へ伝って落ちる。口の中は乾ききっていて、唾液さえ粘りつく。しかし、佳子が「岡島さん、こっちで一緒に食べませんか」と手を振ったため、結局、佳子を間に挟むかたちで川崎と三人並んで座ることになった。木陰の頼りない風が、佳子の後れ毛を揺らすたび、彼女の首筋から汗の匂いが立ち昇り、俺の食欲を別の飢えにすり替えていく。佳子は小さな包みを開きながら、川崎の話に何度も相槌を打って笑った。川崎は人懐こい目を細め、自分の弁当をぱくぱく食べながら身振りを交えて話す。底抜けに明るく、誰が聞いても嫌味のない気持ちよさだった。その明るさが、俺を余計に暗がりへ追いやる。俺は箸を動かしながらも、佳子の白い首筋と、ときどき摘ままれる二の腕を盗み見る。柔らかそうな二の腕を、川崎の太い指が揉むでもなく軽く摘まみ、汗を拭うふりをして何度も触れる。そのたびに佳子は「んもう、川崎さんってば」と声を上げて笑った。甘えるような、嫌がっていない声。俺の胃が切なく軋み、指の先が冷たくなって、割り箸をうまく動かせない。
休憩が終わる頃、ベテランの男たちが飲み物を片付けながら、俺の耳に囁くように話しているのが聞こえた。
「川崎さん、若い頃から下の方が立派でなあ。昔、銭湯の番頭に言われたんだと。『あんたのは女が離れんのが分かる』って。御年を召してもあの元気だ。佳子さんも、まんざらでもなさそうだろ」
下世話な含み笑いが、湿った空気に溶ける。俺は口の中が苦い唾でいっぱいになり、吐き気に似た感情を慌てて嚥み込んだ。川崎のポロシャツの下に横たわる柔らかな腹のずっと下、短いワークパンツの布を押し上げるほどではないが、たしかに存在感のある股間の膨らみを、目を逸らすことができない。自分の薄い鼠径部と、下着の中でしおれたように縮こまった弱い性器が、ぞくりと冷たく萎縮する。胃が絞られ、腹の奥が痛み、手のひらがじっとりと汗む。川崎が佳子の肩に手を置くたび、その太い指の関節の節々が、女の肌の奥まで知り尽くしているように見えた。巨根という湿った膿が、耳穴から入り込んで、俺の自尊心をゆっくりと腐らせる。汗が背骨を伝い、腰のあたりで冷たくなる。喉が詰まって、呼吸が浅くなった。
夕方、活動が終わって解散となると、西日が公園の木々を朱く縁取った。木々の影が長く伸びて、アスファルトの上で揺れる。蝉の声は次第に間遠になり、代わってどこかで蜩の声がした。俺は荷物を肩に掛け、ぼんやりと東屋の柱にもたれて、先に歩き出した佳子と川崎の後ろ姿を見つめていた。川崎が何やら耳元で囁き、佳子が笑いながらその太い腕を軽く抓る。白い指が、川崎の日焼けした前腕をつまんで捻る仕草は、俺には決して向けられたことのない親密さだった。抓った後も、佳子の指は川崎の腕に残ったまま、二人は身体を寄せるようにして通りを渡って行く。俺は胸の奥で、祝福とも呪いともつかない砂が降り積もる音を聞きながら、汗とアスファルトの匂いが残る道に一人、長い影を落としていた。胃の痛みはまだ続いていて、右手の震えを、ズボンのポケットの中でぎゅっと握ることしかできなかった。
第3章 裏路地の白い首

第3章: 裏路地の白い首
夕方の公園から程近い居酒屋の奥、掘り炬燵式の座敷に通された俺たち三人は、佳子さんを真ん中に横並びで座ることになった。本当は向かい合わせの席を想像していたが、店内が混み合っていて空いていたのが六人掛けの長い座卓だけで、自然とそう収まったのだ。左端に川崎さん、その隣に佳子さん、右端に俺。畳の上には冷えたビールの大ジョッキが三つ並び、枝豆と冷奴、焼き鳥の盛り合わせが湯気と香ばしい脂の匂いを立ち昇らせている。湿気を帯びた座敷の空気は、汗と焼き物の匂いが混ざり合ってやけに生温かく、背中に張り付くシャツが不快だった。
「いやあ、今日は本当に暑かったなあ。佳子さん、お疲れさん。岡島さんも、よう頑張ったなあ」
川崎さんが大ジョッキを高く掲げ、俺と佳子さんに笑いかける。その声は座敷の隅で反響するほど大きく、隣の客が一瞬こちらを振り返るくらいだった。俺は小さく頭を下げ、ジョッキを両手で持ち上げたが、中身のビールはぬるくて喉の奥に苦みだけが残った。
「お疲れさまです。川崎さん、今日は本当に助かりました。岡島さんも、暑いのにありがとうございます」
佳子さんが両手でジョッキを支えながら、まず川崎さん、次に俺へと順番に微笑む。その顔は昼間の活動中と同じ向日葵のような笑顔なのに、薄暗い座敷の照明の下ではどこか輪郭がほどけて、目元に疲れの影が滲んでいるように見えた。首筋にはまだうっすらと汗が光っていて、白いカットソーの襟ぐりから覗く鎖骨の窪みに、俺は視線を落としそうになって慌ててグラスに口を付けた。
飲み始めて三十分もすると、川崎さんの話題は昔の仕事の失敗談やら不動産の裏話やら、どこまでが本当か分からないような話で座敷を独占し、佳子さんはそのたびに声を上げて笑い、身を乗り出して相槌を打った。佳子さんの右隣に座る俺には、彼女の肩が小刻みに揺れるたびに、あの汗とシャンプーが混ざった匂いがふわりと届く。昼間に公園で嗅いだのと同じ、暑さで少し酸味の混じった甘い匂い。鼻腔の奥をくすぐるようなそれは、ビールの匂いと混ざり合って、俺の下腹の辺りをじんわりと痺れさせた。俺は何度もジョッキを口に運び、冷えたはずのビールが喉を通る感覚で誤魔化そうとしたが、身体の内側に溜まる熱ばかりが増えていく。
「佳子さん、ほら、手が空いてるなら、これ食ってみなよ。砂肝、コリコリしてて美味いんだよ」
川崎さんが串を一本取り、佳子さんの口元へ押し出すように差し出す。佳子さんはほんの一瞬だけ首を引いたが、すぐに小さく笑ってそれを受け取り、白い歯を覗かせながら先端に齧り付いた。その唇が串に触れる瞬間、薄く開いた口の内側が色っぽくて、俺はすぐに視線を卓の上へ落とした。枝豆の殻を弄りながら、川崎さんが佳子さんの肩に手を置き、耳元で何か囁く気配がする。佳子さんが身を捩るようにして笑い、川崎さんの二の腕を軽く平手で叩く音が聞こえた。
「もー、川崎さんったら、そういうことばっかり言うんだから」
「本当のことだって。佳子さんみたいな人が一人でいるなんて、世の中の男が皆気づいてないだけだよ」
川崎さんの太い指が、佳子さんの左の太ももに触れた。短い七分丈のデニムから覗く素足の、膝の少し上あたり。俺はその手の動きを横目で追ってしまい、心臓が口から飛び出そうなほど脈打つのを感じた。佳子さんは払いのけもせず、ただ困ったように笑うだけで、川崎さんの手は彼女の腿の上に置かれたまま動かない。大きな掌が、白い肌をゆっくりと包み込むようにして、時折指先だけが弾むように動く。それは親しみを超えた、女を確かめるような触り方に見えて、俺は吐き気に似た嫉妬で胃の奥が焼けるようだった。
「……トイレ、行ってきますね」
俺は絞り出すように言い、座敷を抜け出した。洗面所の冷たい水で手を洗い、鏡の中の自分の顔を見る。ほうけた目、深い皺、生気のない唇。佳子さんの隣に座る資格もなければ、川崎さんに敵うはずもない老いさらばえた男の顔がそこにあった。俺は一度だけ深く息を吐き、もう一度座敷へ戻るまでの間に、川崎さんの手が佳子さんの腿から離れていることを祈ったが、暖簾を潜って見た光景はその祈りを粉々に砕くものだった。
佳子さんが川崎さんの方へ身体を傾け、その右の掌を川崎さんの太ももに預けていた。正確には、置かせてもらっていた。酔いが回ってやや潤んだ目で、何かを喋る川崎さんの方を向いたまま、自分の手を川崎さんの腿の上に置いて笑っていた。指先がほんの少しだけ跳ねるたび、川崎さんのワークパンツの布地が微かに弛む。その光景を目の当たりにして、下腹の奥で熱い塊がのたうつのを感じた。膀胱のあたりが重く疼き、股間に血が集まっていく。俺は何もできず、ただ元の場所へ座り直し、ジョッキの中の溶けた氷を口に含んだ。
打ち上げは二時間ほどでお開きになった。店を出る頃には空はすっかり暗く、西の空に名残りの赤みが薄く伸びているだけだった。表通りに出たところで、他のボランティア仲間たちはそれぞれの帰路に散り、川崎さんが両手を打ち合わせるようにして声を上げた。
「このまま帰んのも何だしなあ。佳子さん、二次会行こうよ。駅前のカラオケ、一時間だけとか。岡島さんも、行くよな?」
俺は反射的に断ろうとしたが、その前に佳子さんが掌を合わせて小さく跳ねるような仕草を見せた。
「いいですね、行きましょうよ。岡島さんも、まだ大丈夫ですよね?」
その声があまりにも無邪気で、俺は自分がこれから見せられるかもしれない惨めな時間のことを考えながらも、首を縦に振ってしまった。三人で表通りから一本外れた路地へ入り、駅の方へ向かって歩き出す。川崎さんが先頭、佳子さんがその隣、俺は半歩遅れて彼女の後ろ姿を見ながら歩いた。夜風が少しだけ生温かく吹き抜け、佳子さんの髪の毛先が揺れる。シャンプーの残り香が、夜の空気に溶けて俺の顔まで届く。昼間の汗の匂いとは違う、もっと清潔で甘い、洗い立ての女の匂い。
角を曲がり、自販機の灯りが点る細い道を進んでいくうちに、俺の前から話し声が消えていることに気づいた。顔を上げると、数メートル先で川崎さんと佳子さんが立ち止まり、何やら顔を寄せ合っている。暗がりに輪郭だけがぼんやりと浮かぶ二人の背後には、小さな居酒屋の裏口と、無造作に積まれたビールケースがあった。俺は足を止め、どうやって声をかけようか迷いながら、無意識に物陰のように壁際へ身を寄せた。
そのとき、川崎さんの背中が佳子さんを覆うようにして動き、彼女の身体がコンクリートの壁に背を付けるように下がるのが見えた。佳子さんの白いカットソーが、闇の中にぼうっと浮かび上がり、次いで川崎さんの大きな右手が彼女の腰を掴む。俺は息を呑み、その場から動けなくなった。心臓が肋の内側を滅茶苦茶に叩き、耳の奥で血液の流れる音が轟いている。目を逸らさなければと思うのに、逸らしてはいけない場面を目撃している自分に身体が縛り付けられていた。
川崎さんが佳子さんに覆い被さり、その口元が佳子さんの顔へ近づいていく。佳子さんの両手が一瞬、川崎さんの胸元を押すように浮いたが、指先は力なくシャツの布を掴んだだけだった。黒い髪が壁に擦れて乱れ、白い首が薄暗がりの中でのけぞるように傾く。川崎さんの厚い唇が、その首筋へ落ちた。佳子さんの口から短く細い息が漏れ、続けて「あ、だめ」という、昼間の作業中には一度も聞いたことのない声が耳に届いた。それは拒絶というには溶けすぎていて、俺の下腹を鋭く抉った。
「佳子さん、首、汗かいてる。しょっぱいよ」
川崎さんの低い声が、夜の空気に溶けるように響く。佳子さんは何も答えず、ただ鼻にかかった吐息を零し、壁に手を突いた。川崎さんの右手が彼女の腰から尻の膨らみへ滑り、左手が乱れた黒髪を掬い上げる仕草をする。佳子さんのうなじが露わになり、その白さが月明かりを受けて浮かび上がった瞬間、俺の股間は痛いほどに硬く張り詰めていた。ズボンの前を押し上げる自分の愚かさを感じながらも、その光景から一滴も目を離せなかった。
「川崎さん、こんなとこ……誰かに……」
「誰も来やしないよ。岡島さんも、もう帰っただろ」
その台詞が耳に刺さり、胃の底から全力で突き上げてくる酸っぱい塊を飲み込んだ。俺の存在は、この場では既にいないものとして扱われている。それどころか、二人の世界から除かれた透明な男として、空気さえ揺らさず立ち尽くすことしかできなかった。川崎さんの指が佳子さんの腰を掴む場所に強く食い込み、佳子さんが小さく身をよじると、二人の衣擦れの音が夜の路地に粘りつくように響いた。
佳子さんの首筋から胸元にかけて薄く光る汗が、暗闇の中でも目に毒のようだった。白いカットソーの襟ぐりが少しずれて、昼間に何度も見えそうになっては見えなかったその谷間の影が、今は川崎さんの顎の下にほとんど開けている。川崎さんが顔を下ろすと、佳子さんの首の付け根に唇が触れ、ちゅ、と短い水音が聞こえた。佳子さんの喉が仰け反り、その口から「んっ」と鼻に抜ける声が零れる。俺の腿の内側が震え、膀胱のさらに下、触れてもいない先走りが下着に滲んでいる感覚があった。
「……帰るか、俺は」
心の中で何度も呟いた。足が固まったように動かない。胸の痛みと下腹の昂りが別々の獣のように暴れている。俺は呼吸を殺し、背中を丸めながら、自分の身体を壁の影に押し付けるようにして、二人の唇が重なる瞬間を見た。川崎さんの顔が傾き、佳子さんの顔が僅かに後ろへ倒れる。唇が触れ合う柔らかい音はしなかったが、その代わりに佳子さんの白い喉がこくりと動き、川崎さんの背中が雨に濡れた獣のように大きく上下した。唾液の絡む気配と、荒くなる二人分の吐息。黒髪が壁に張り付き、佳子さんの素足がわずかに爪先立ちになる。
俺はそのまま、どれほどの時間そうしていたのか分からない。川崎さんの指が佳子さんのデニムの腰のラインに掛かり、彼女が小さく首を振る仕草を見た辺りで、ようやく踵が後ろへ下がった。音を立てないように、呼吸さえも止めたまま、一歩、また一歩と角の向こうへ退がる。最後に見えたのは、佳子さんが川崎さんの肩に額を預けるようにして、二の腕を掴み返している姿だった。拒む手ではなく、支えを求めるような指先が、暗闇の中に白く浮かび上がった。
表通りへ出た途端、夜風が生暖かく吹き抜けて、汗の匂いとシャンプーの残り香の混じった空気を攫っていく。俺の股間はまだ治まらず、歩くたびにズボンの前が擦れて鈍く疼いた。誰もいない歩道を、背中を丸めて駅とは反対の方向へ歩く。心臓は痛いくらいに脈打ち、胃のあたりが冷たい汗で湿っていた。
頭の中では、さっきの白い首が繰り返し揺れていた。それを掴む川崎さんの大きな右手。腰に食い込む指。佳子さんの短い制止の声と、そのあとに続いた柔らかい吐息。俺が一度も触れたことのない場所へ、川崎さんの唇が落ちていく様子が、瞼の裏に焼き付いて消えない。消えそうになるたび、下腹の奥がきゅう、と締め付けられるように疼き、俺は歩きながら自分の股間に触れずにはいられなかった。あれは俺のものでも何でもない。初めから、俺の手の届く女ではなかったのだ。
それなのに身体は、あの場面を思い出すほどに若い雄のように熱を帯びて、俺の老いた肉を痛いほど責め立てる。胸は冷たく冷えていくのに、下腹だけが焼け石のように熱い。家の方向へ向かう夜道で、俺は何度も佳子さんの白い首と乱れた黒髪を思い返し、そのたびに勃ち上がる自分を情けなく思いながら、それでもその光景を反芻することをやめられなかった。
第4章 清掃用具室の喘ぎ

第4章: 清掃用具室の喘ぎ
翌週の金曜、午後四時を回った頃。照りつける日差しはまだ衰えを知らず、公園のアスファルトから立ち昇る陽炎が、遠くの植え込みをゆらゆらと歪ませていた。ボランティアの活動を終えた俺たちは、使った軍手や火挟み、黄色いビブスを清掃用具室へ戻す手筈になっていた。用具室は管理事務所の裏手に建つ、壁板の色が褪せた小さなプレハブだ。普段は鍵のかかっている引き戸を開けると、埃と汗と鉄の錆びが混ざり合った、あの独特の生温かい空気が流れ出してくる。俺は今日一日、どうやって佳子さんの隣に立てばいいのか、そればかりを考えていた。あの夜、裏路地で目に焼き付けた白い首と乱れた黒髪、腰に食い込む川崎さんの太い指。それを思うたび、胃の奥が腐った泥を流し込まれたように重くなり、それでいて下腹の奥ではあの光景を反芻しようとする自分がいた。佳子さんとまともに目を合わせられない。活動中、奴は一度もこちらを見なかった。少なくとも、俺にはそう感じられた。
道具の返却はそれぞれが分担して行い、俺は腕に抱えた数本の熊手と折り畳み式の塵取りを用具室の棚へ戻す役目だった。引き戸を半分ほど開けて中へ踏み込むと、いつもよりも強い埃の匂いと、どこからか微かに漏れる生っぽい熱が混ざって、鼻の奥をむず痒く刺激した。外の光が斜めに差し込み、細かな塵が泳ぐ薄暗い空間。右の壁際には清掃用のモップや箒が何本も立てかけられ、左の壁には古い鉄製の棚が据えられ、床には青いビニールシートが何枚か乱雑に積まれている。靴底がコンクリートの床に触れるたび、じゃり、と小さな音が立った。俺が奥へ進み、棚に熊手を立てかけようとしたそのとき、開け放った引き戸の向こうから、人の気配が近づいてくるのに気づいた。
咄嗟に身体が固まった。なぜ動けなかったのかは分からない。ただ、よかったと思うまもなく、外から伸びてきたのは川崎さんの濁った笑い声と、その声に重なるようにして微かに上がった佳子さんの息だった。俺は反射的に、壁際に立てかけられたモップと積み上げられたブルーシートの間へ身を沈めた。心臓が肋骨の内側を滅茶苦茶に叩き、耳の奥で血がどくどくと音を立てる。あの夜の裏路地と、今のこの薄暗い用具室が、湿った一本の糸で繋がれたように頭の中で重なる。足音が止まり、衣擦れの音がして、引き戸がゆっくりと閉められる音がした。
「誰かいるように思えたけど、鍵、誰もいないみたいだなあ。佳子さん、寄っかかってていいよ。片付け、二人でやっちまおうや」
川崎さんの陽気な声が、狭い空間にこもって響く。普段よりも低く、少し掠れた、笑みの混じった色の違う声だった。佳子さんの返事はなく、足元の床から、二人分の体重が沈む微かな軋みが伝わってくる。俺は息を詰めた。喉の奥が干上がり、唾を飲み込むことさえ出来ずに、積まれたシートの隙間から二人の影を窺う。西日を遮った室内は薄暗く、あちこちに蔓った埃の匂いが、俺の存在を隠す膜のように漂っている。その埃の中へ、甘酸っぱい汗とシャンプーの入り混じった、昼間の佳子さんの匂いがするりと溶け込んできた。頭の芯が痺れたように熱くなり、太股の内側がきゅう、と引き攣る感覚が走る。
「や……待って、まだ、片付けを……」
佳子さんの声がようやく聞こえた。くぐもって、懇願するような、それなのに拒み切れない、沈みかけの浮き草のような声。俺は指先を膝に押し付け、背中を丸めたまま動けないでいた。
「片付けはこの通り、もうほとんど終わってるよ。あとは適当にやっときゃ、誰も気づかないだろ。ってか、佳子さんが先に動いたんだぜ、俺は。触ったのは、そっちからだ」
川崎さんの声に笑いの余韻が滲む。何かが動く気配と、ビニールシートの擦れるしゅる、という短い音が積み重なった。心臓の位置がもう、喉元まで持ち上がってきた。俺は視界の隅で、佳子さんの姿を捉えた。外の光が薄く届く場所で、背の低い踏み台か何かに手を突き、腰をわずかに後ろへ引くようにして立っている。七分丈の白いカットソーは背中に汗を滲ませ、濃い肌色が透けて見えた。デニムの腰回りには、川崎さんの大きな掌がはっきりと食い込んでいる。あの夜、裏路地で壁に押し付けたときと同じ、女の骨盤を掴むようにして離さない指。佳子さんの顔はこちらを向いていて、薄闇の中でもその輪郭は判った。眉根が下がり、目が潤んで揺れている。口が半ば開いて、何かを言おうとしては、言葉の代わりに短い息を外へ溢している。昼間の向日葵のような笑顔は、そこには一片も残っていなかった。
「ん、ちょっと……川崎さん、今は……こんな場所、まずいですって……」
佳子さんが身を捩り、川崎さんの胸元へ手を置く。細い指先がポロシャツを軽く押す仕草には、しかし力を籠める様子がなく、逆に大きな胸板の固さを探るような、そっと触れるような動作に見えた。川崎さんは鼻で笑うように、ふ、と息を漏らして、その身体を更に道具棚の方へ抱き寄せる。
「まずい場所だから、声は出しちゃいけない。……分かってんだろ、佳子さん。あの夜、お前、俺の下で何て叫んでたか覚えてるか? ちんぽ、ちんぽって、あんだけ大きな声でねだって、何回も腰振ってたじゃないか。あれからずっと、俺の手が触れた場所を熱くして、待ってたような目をしてたよ」
その台詞は、低い体温で耳の奥へ入ってきた。ちんぽ、という下品な一言が、佳子さんの口から迸ったのかと思うと、頭の芯が砕けそうな衝撃が走る。あの飲み会の夜、俺が何も知らずに終電を気にしていた頃、二人は既に肌を重ねていたのだ。川崎さんの目の前で、佳子さんが身体を開き、自分から腰を揺らし、男根をねだった。その事実が、俺の知らない彼女の深度を、容赦なく晒し上げる。嫌悪と、それ以上に囚われた視線が、閉じた視界の裏で火花を散らしている。佳子さんは首を振るでもなく、ただ目を伏せて、川崎さんの胸元に縋るように額を擦り付ける。彼女の口から、あ、という吐息が漏れた。短い、噎ぶような、泣き声の一歩手前の音。
「や、やめて……そんなこと、言わないでください……」
「へえ。なら、ここの感度、何だと思う? 俺の指、まだ背中撫でてるだけなのに、腰が浮いてるぜ。佳子さん、素直な身体してるよ。嫌なら、押し返せばいい。ほら、帰しても構わないんだ、俺は」
そう言って川崎さんが片手を上げ、両手を開いて見せる動作をした。すると佳子さんは、小さく身震いしながら、その場に囚われたまま、俯いて脚を擦り合わせる。逃げない。帰らない。責める言葉も、はっきりした拒絶も、何ひとつ口にしないまま、右手だけを川崎さんのワークパンツの腰へ触れさせ、指を僅かに、布を引くようにして握った。それは言葉にならない返事だった。川崎さんに暴かれたあの夜の記憶の前で、彼女の女としての矜持は、蜜を滲ませた襞のように音もなくほどけていく。俺の胃の裏が、生温かい何かで満たされる。決壊したのは、あの夜の裏路地で見たものを、俺が見なかったことに出来なかった薄っぺらな鎧だったのか。それとも佳子さん自身の、女の矜持だったのか。
川崎さんが再び、佳子さんの腰を引き寄せた。今度は半歩、よろめくほどの強さで。佳子さんの片方のスニーカーが床を擦って、乾いた音がした。二人の身体が密着し、川崎さんの顔が佳子さんの項へ沈む。薄暗がりの中で、白い首筋がのけぞるように浮き出る。俺は咄嗟に、自分の唇を噛み締めていた。佳子さんのあの白い首。裏路地で川崎さんの唇が這っていた、あの細い部分。今、この埃っぽい用具室の薄闇の中で、同じ場所を同じ男の舌がゆっくりと舐め上げている。耳の奥に、ちゅ、ちゅく、と粘膜の吸い上げる音が届いた。脳が痺れる。自分の心臓の音なのか、二人の立てる音なのか、境界がぼやけて、空気が蜜を溶かしたように重く垂れ込めた。
「やあ…、ん、そこ、汗かいてるから……」
「汗、舐めてるの。気持ちいいだろ。佳子さん、ここ弱ぇの知ってる。田舎道で並んで歩いたときから、首んとこうっすら汗ばんで、白いのが揺れるたび、意識してるのが伝わってた」
川崎さんの手が、佳子さんのカットソーの裾へ入る。横腹から背中へ回り、素肌を撫で上げる。布越しに盛り上がった腕の動きが、薄暗い中でも鮮明に見えた。佳子さんは、ふ、ふ、と短い息を吐き出し、爪先立ちになりながら、縋る手を戸棚の縁へ掛けた。首筋に汗が伝い、朝から吸い続けて彼女のものだと判ってしまったシャンプーの匂いが、身体の熱で蒸れて甘酸っぱく広がる。埃っぽい密室の中で、それは異様なほど鮮烈な女の匂いだった。俺の頭の芯が白く灼けそうになる。
荷物を隠すように、俺は無意識に自分の股間へ手を寄せていた。ズボンの前が、痛いほど熱く硬くなっている。触れるだけでも、どうにかなってしまいそうな昂りが、掌の上で脈を打っている。気持ち悪くて、惨めで、それでいて目が離せない。佳子さんの背中がしなって、浮いた腰を川崎さんの腹が受け止める。二人の靴先がもつれ、歩幅を探るように、その場で半回転する。その拍子に、佳子さんの横顔がこちら側へ流れた。汗で額に張り付いた数本の黒髪、半ば開いた唇、上気した頬。目元は潤み、焦点がぼやけて天井の薄暗い方を向いている。彼女の女の顔だった。俺の前では決して見せなかった、男に開かれながら揺れる、溜息だけで答える顔。
「ん……ぁ、ダメ、もうそんな、しちゃ……」
「してねえよ、まだ。なあ佳子さん、触ってほしい場所、教えてくれないか。言葉にするだけで、すごく楽になる。言えないなら、自分で触って。見ててやるから。あの夜みたいに、ちんぽ、って言いながらな」
川崎さんの囁くような声は、囁くというよりも、欲望の先端で笑っている。あの夜の行為を、わざと下品な言葉で蒸し返す。佳子さんが小さく何度も首を振るが、両脚は体を支えるように開き加減で、体重は川崎さんの方へ傾いたまま。その太い右手が、佳子さんのデニムの前ボタンへ掛かる。大きな指先が器用に金属のボタンを外し、ジッパーを引き下ろす音が、布と金属の擦れる短い音とともに聞こえた。
「こんなところで、見えちゃいます……岡島さんとか、他の人、まだ……」
佳子さんの震える声が、俺の心臓を直接くすぐった。自分が物陰に潜んでいるとは知らずに口にする名。それが熱い裁ち鋏のように、俺という存在をこの場から切り離した。岡島さんは、その、この場のあらゆる決定的な瞬間から、除け者になっている。除け者以下の、隠れて覗く薄汚い鼠だ。それでも目玉は、彼女だけを映して動かない。
「岡島さんかあ。あの人、佳子さんのこと、多分ずっと見てるよ。でも、指一本触れないだろ、あのタイプは。俺は違う。こうして、触る。いいよな、あの夜、俺ので鳴いてたくせに」
川崎さんが笑う気配がした。同時に、佳子さんのデニムと下着を一気に腿の中ほどまで引き下ろす動作が、俺の視界を白く潰しかけた。白い腿に、外の斜光が薄く這い、露わになった那片の肌が闇の中で浮く。川崎さんの骨張った手が、尻の膨らみをゆっくり撫で回し、それから持ち上げるようにして、彼女の片脚を少しだけ上げさせる。佳子さんの腰がびくりと跳ね、堪え切れない吐息が、密閉された空気へ漏れた。俺は唾を飲み込み損ねて、喉がひくりと鳴る。眼球の奥が焼けるように熱い。見てはいけない、見たい、見なければ、自分という男が終わる。その三つが胃の中でぐちゃぐちゃに混ざり、何かを吐きそうな重さになっていた。
川崎さんが自分のズボンを緩める。再び、金属の擦れる音と、布の下へ手をやる動作。彼の下半身が薄闇の向こうで蠢き、ややあって佳子さんが息を呑んだ。顔を背け、一度だけ、いや、いや、と吐息で紡ぐが、腰を引いて逃げようとはしない。川崎さんの両手が彼女の尻を割るように左右へ開いた。白い太股が外気に晒されて粟立ち、腿の内側を一筋、汗が流れ落ちるのが見えた。
そのとき、俺の鼻が、あの匂いを捕まえた。汗とシャンプーだけではない。もっと深い、薄暗い場所から立ち昇る、ぬるりとした、甘いのに生臭いような、熟れた粘膜の匂い。佳子さんの股の奥から、丹念に溶かされた蜜のようなそれが、埃の匂いを突き破ってこちらまで届いてきた。思わず喉の奥で嘔吐きかけて、けれどそれは吐き気ではなく、鼻腔の裏側へべったりと絡みつく衝動だった。俺の陰茎がズボンの中で跳ねる。胃のあたりがきりきりと痛む。自分が一度も触れたことのない場所。その匂いだけが、臆病な俺にまで届く。
「あっ、あ……そこ、まだ…んくぅ……!」
佳子さんの腰が強く沈み込み、背筋が弓なりに反る。川崎さんの陰茎が、彼女の後ろからゆっくりと侵入していく。その瞬間、佳子さんの口がはっきりと開き、舌の薄い先が見えた。眉は下がり、鼻の上に細かい皺が寄って、苦しさと、それだけでは無いものが同時に顔を駆け抜ける。首がしなり、汗で光る白い喉笛が、薄闇の中で浮かび上がった。あの夜も、同じ角度で彼女は喉を逸らしたのだろう。川崎さんの下で、ちんぽ、と叫びながら。
「あー……、きっついな。佳子さん、大丈夫か。爪先立っちまってるぜ。あの夜、あんなに解れてたのに、やっぱ飲み直さないと、なかなか戻らねえな」
川崎さんの声は、笑みを含みつつも、どこか喉の奥を掻くような掠れを帯びていた。そう言いながら、彼は佳子さんの両腰をしっかりと支え、痩せた腹を彼女の丸い肉へゆっくりと密着させていく。床の埃が、二人の足元でわずかに舞い上がる。佳子さんの太股が細かく震え、膝が内側へくずおれそうになるのを、川崎さんの前腿が防いでいた。湿った肉が、蜜の粘りを引っ張りながら何かを飲み込んでいく。くちゅ、くちゅ、と水音に似た音が、薄い唇の端から溢れるように連続して聞こえる。
「や、あ……あぁっ、奥、すご……だめ、動いちゃ……今、動かれたら、私……!」
「動くよ。動いて、佳子さんの中、俺の形に慣らす。……それとも、佳子さんの方から、動いてみる? この前、あんだけ上手に腰振れてたじゃないか」
川崎さんが一旦、腰を止めた。佳子さんの背中が汗で光ったまま、小さく上下している。腕を戸棚の縁に突っ張り、腰だけを男に預けた、後ろから穿たれた姿勢。そこから、佳子さんは自ら、ほんの少し腰をゆすった。はしたないにも程がある仕草だったが、その動きは、彼女の方がもう待ちきれないと語っていた。あの夜に覚えた快楽が、彼女の身体の裏側に住み着いている。俺の鰓の奥が熱い。口の中は乾燥し、心臓は破れそうに脈打っているのに、股間は見たこともない角度で自己主張を続けている。触れてしまいたい。自分が惨めなだけだと知っていても、掌が下腹部の膨らみを上から押さえつけるように触れていた。
「いいよ、佳子さん、可愛いな。もっと声、出してもいいんだぜ。ここ、案外防音だよ。……ほら、腰んとこ、掴めた? あの夜みたいに、ちんぽって言って、いっぱい鳴こうな」
川崎さんの指が、佳子さんの窄まりと己の結合部へ這う。溢れた粘液を指で掬い取り、二人の繋がりを確かめるように塗り広げる。ぬちゅ、という、指の平で滑らかな液体を弄ぶ音。鼻腔を通り越し、まるで鼓膜の裏で直接鳴らされているようだった。気が狂いそうな、湿った子守唄のように、その音と匂いが頭の中を往復する。
「あっ、あ、ん……ちが、私いま、自分で、動いて……ぁっ、んぅ、あ……ひゃ……!」
佳子さんの唇から細切れの喘ぎが洩れ、腰が前後に波打ちはじめる。デニムが膝のあたりでくしゃくしゃに絡まり、右足のスニーカーが床を擦って、きゅっ、きゅっと鳴る。川崎さんの手が、突き上げるようにではなく、女の動きを読みながら、深い位置で小さく掻き回す。そのたび、白い背中が小刻みに跳ね、汗の粒が尾骶骨の上から伝い落ちる。一度そんな急所を抉られると、佳子さんは前のめりに戸棚へ手を突き、眉を寄せて、鼻の奥でん、ん、と泣いた。
「もう、佳子さん、ぐちゃぐちゃだぜ。音、分かるだろ。周りに聞こえるかもな、この水の音。……それ聞いて、自分から腰、止まらなくなってんだろ。あの夜、一回だけじゃ足りなかったんだよな、お前の身体は」
川崎さんの言葉は、事実を確認するだけの柔らかい口調で、けれどその全部が熱い先端のように佳子さんを責めていた。彼女の内腿を、ぱたぱたと雫が伝う。蜜の匂いが、もう隠しきれないほど部屋の中に充満している。俺は自分の口を覆い、声にならない叫びをどうにか喉の奥へ飲み込んだ。胃が締め上げられ、喉が痺れ、目頭が熱くなる。見なければよかった。見なければ、死ぬまで知らずにいられた。いや、知りたかった。知ってしまえば、佳子さんの中で川崎さんの形に変わる場所を、こうして目の当たりに出来る。俺自身は決して触れられない、最も深い場所。
「はぁ、あ……川崎さ……ぁん、わ、私、もう、なに、なんでこんな……あ、ああっ!」
突然、佳子さんの大きな喘ぎが部屋の壁にぶつかり、湿った孤を描いて跳ね返ってきた。川崎さんが腰を強く打ち込み、幾度か連続して奥を抉った直後だった。ぬるつく水音と、肉と肉がぶつかる乾いた音が、交尾の拍子のように狭い空間を満たしていく。俺の網膜の裏側へ、あの噂が毒のように浮かび上がった。川崎さんのものが、女を放さないという噂。巨根という湿った膿。それが今、佳子さんの中に埋まっている。彼女の腰を骨の上から波打たせて、その肉の奥をぐちゃぐちゃに攪拌している。その光景に、雄の情動が、俺の老いた身体の芯を無理やり沸騰させる。気色悪くて、眩暈がして、誰よりも悲しくて、そのくせ、こんな馬鹿みたいに硬い。人生の終わりに、これほど男として踏み躙られて、なお疼いている。
「く……あ、あ……もう、動かさないで、動かさないで……! 動いちゃ、ほんとに、おかしく……!」
「おかしくなれよ。俺も、その顔、見たい。……後ろから、もっと砕いてやるから、な。この前、ちんぽって叫びながら一晩中俺の上で狂ったみたいに、な」
二人は繋がったまま、数歩、短くよろめくように壁際へ移動した。俺の隠れているシートの山に、背が触れそうな距離。慌てて身を縮こませた瞬間、佳子さんの背中が間近に迫った。汗で貼り付いた白いカットソー。肩甲骨が薄く浮き出て、うっすらと日の焼けた肌が、蒸れた女の体温を放ってくる。目の前の蒸し暑い空気ごと、彼女の匂いが俺の口と鼻へ流れ込み、肺の底を甘く灼いた。あの向日葵の笑顔の下に、こんな肌が在った。汗とシャンプーと、下の蜜。三種類の匂いが、躰のどことも知れぬ場所で混ざり合い、犯したことのない俺の記憶を穢していく。
「あっ、やっ……唇、首……駄目、痕に……んぅ……!」
佳子さんの首筋から肩へ、川崎さんの唇が這う。白い肌を吸う音が、耳元で弾ける。俺の視線は、汗の浮いた佳子さんのうなじに吸い寄せられていた。一房の黒髪が貼り付いて、白い首の線を際立たせる。その首が、川崎さんの突きに合わせて、前へ前へと折れ曲がりながら、時折のけぞる。腫れた明るさを失った、淫らな白さ。俺は、死ぬまであの夜の裏路地とこの用具室の白い首を反芻するのだと、そのとき確信した。
「き、川崎さん……あ、あ……もう、お願い、何か、おかしい……お腹の、奥、……届き過ぎ……ぁ……!」
佳子さんの声はもう、ただの悲鳴と懇願と喘ぎの境目を流されていた。後ろから穿られ、立ったまま持ち上げられるようにして、彼女は片方の足を浮かせている。支えを失った片足が、空を浅く蹴るように痙攣し、スニーカーのゴム底が、床に小刻みに打ち付けられる。とん、とん、とん。規則的で、弱々しい、発情の刻み。川崎さんの腹と彼女の尻が触れ合うたび、肌の張り付く湿った音が粘りを変え、ラップ音に似た硬い音へ変わっていく。密閉された用具室は、昼下がりの蒸し風呂のようになっていた。埃の匂いも、汗の匂いも、蜜の匂いも、すべてが単一の獣の呼吸となって、俺を隅へ押し込める。
「はぁ、はぁ……佳子さん、中が、まるで洪水だぞ。……いい加減、この状況がどういうことか、お前も認めろよ。求められて、こんなになる。それがお前の身体だ。……なあ、見えてんだよ、俺には。あの夜、ちんぽって叫んで、朝まで喉を枯らしてたお前の顔が、今もそこに透けてる」
川崎さんが佳子さんの耳元で、荒い息の中に笑いを浮かべて囁く。頭蓋の内側へ、声がぐじゅりと沁みてくる。俺は下腹部を押さえた掌をどけられないでいた。ズボンの前が、先走りで湿っている。それは自分でも、一度も扱っていない若い頃のような硬さでは無く、無理矢理に血を集められた、痛みを伴う老いた血管の叫びだった。なのに、痛い。それでも、触れていたい。股間の痛みを支えていると、身体の輪郭が辛うじて保てるような、そんな倒錯した感覚が俺という人間を立たせていた。
佳子さんが突然、背をのけ反らせて、声にならない高い息を吐いた。喉の奥が細く絞め上げられ、ぜいぜいという呼吸の合間に、ひく、ひく、と女の腹の奥が痙攣するのが、薄い布越しにでも見える気がした。川崎さんが腰の動きを速め、水音が幾重にも波打つ。あの、くちゅくちゅという、始まりの音よりももっと重く絡み合った、ぬぷ、ぐちゅ、ぬちゅ、という音が鼓膜を濡らす。オノマトペがそのまま、俺の脳髄を掻き回す。見えない結合部の、ひだの濡れ方、空洞の締まり方、男の傘が粘膜を引っ張り上げる様子まで、耳と匂いと想像が俺の中で鮮明な絵に変わってしまう。
果てそうで果てない、生々しい数分が続いた。佳子さんの白い片足が床を蹴り、腰がガクガクと小刻みに揺れ、漏れる声は、もはや幼い悲鳴のようにも聞こえる。川崎さんは執拗く、彼女が崩れ落ちないよう片腕を腹の下へ回していた。だらしなく開いた口から、ふひゃ、という泣きとも笑いともつかない声音が途切れ途切れに零れる。この瞬間、佳子さんは確かに、女の絶頂に食い散らかされていた。俺が差し出せなかった、俺の人生からこぼれ落ちた、夏の蜜の尽きる場所。彼女の白い腿と、震える首筋と、開いた唇。そのすべてが、他人の男に開いた戸口の向こう側にある。
「ぐ……っ、佳子さん、出す……お前の、中に……あの夜、朝になって何度目かを数えられなくなった、あの中に……」
川崎さんが、唸るような低い声で呟いた。佳子さんは、それすら拒む言葉を作れないまま、声を裏返しながら首を縦に振るように揺らす。俺は歯を食い縛り、音を立てないよう、自分の口元を強く覆っていた。眼窩の奥が燃え、視界が涙なのか汗なのか、滲んで揺れる。それでも、見届けた。川崎さんの腰の動きが、深く二度、三度と彼女の肉へ突き刺さり、最後に彼の全身が強張る。喉の奥で雄が低く呻く。佳子さんの身体が弓なりにしなり、壁へ手を突いて、爪先が床から浮いた。頭を後ろへ投げ出し、硬直したその姿は頂天の、淫らな彫像だった。
長い静寂のあと、川崎さんがゆっくりと佳子さんから離れる、水っぽい抜ける音がした。佳子さんは壁に背を預けて、肩で荒い息を繰り返しながら、床へ崩れるように座り込む。両脚はだらしなく開いたまま、白い腿が薄闇の中でまだ痙攣していた。デニムは膝に絡まったままで、濡れた陰の部分が、外の残光をかすかに反射して光っている。彼女の表情は、汗でぐしゃぐしゃで、唇は腫れたように赤く、閉じない。その顔に、泣き笑いにも似た、疼きを孕んだ余韻がぶら下がっている。川崎さんは立ったまま、乱れた衣服を整えようともせず、佳子さんの頭を乱暴ではなく、ことさら優しい手つきで一度だけ撫でた。
「立てるか? ここの空気、こもってるからな。外、出よう。……足りないだろ、佳子さん。今日はまだ、夜が長いから。あの夜の続き、してやるよ」
外へ出ようと言いながら、二人はすぐには動かなかった。佳子さんが川崎さんの手を借りて立ち上がり、壁に凭れる。衣擦れの音は、まだ生ぬるい空気に絡みついて、狭い部屋の隅々へ染み込んでいく。俺は身体の横に積まれたシートの陰で、呼吸を殺したまま、心臓だけが馬鹿みたいに早く動いていた。二人がようやく身支度を始める気配がして、引き戸が開く音がする。細長い光が差し込み、埃が金色に舞う。眩しくて目を細めた瞬間、足元が微かに震えた。自分の靴先が、床に点々と垂れている湿り気の傍から動けない。佳子さんが何か言い、川崎さんが笑い声を立てるのが遠く聞こえた。
二人が外へ出て、引き戸が半ば開いたままになった。光と空気が流れ込み、狭い用具室がやっと普段の、埃と錆の匂いのするがらんとした空間へ戻っていく。俺はようやく、痺れた脚を一歩だけ後ろへ引いた。膝が笑い、股間の熱と痛みが、胃の裏まで重く響いている。掌には、いつのまにか強く爪を立てすぎてできた痕があった。情けなくて、苦しくて、けれど今、汚れた自分の掌に、ようやく本当の敗北が触れた気がした。片付けの続きをする気にはなれなかった。
第5章 祝福と呪いの果て

第5章 祝福と呪いの果て
用具室を出たのは、あの二人の足音が外の闇へ溶けてから、三十分以上も経ってからのことだった。西日はとうに傾き、公園の木立が長い影を地面へ這わせている。生温かい風が吹くたび、汗で冷えたシャツが背中に貼り付いて、皮膚のすぐ内側で、まだ誰かの体温が暴れているような錯覚に囚われた。歩くたびに膝が笑い、下腹の鈍痛は膀胱のあたりまで広がって、まるで身体の芯に鉄の棒を差し込まれたようだった。家までの道のりを、俺は一度も振り返らず、ただ自分の影を踏み潰すようにして歩いた。引きずるように帰り着いた玄関で、真っ暗な室内の澱んだ匂いに出迎えられて、ようやく自分がどれほど長い時間、あの薄暗がりに閉じ込められていたのかを知った。
それから俺は、ボランティアへ行かなくなった。
最初の一週間は、体調を崩したことにしていた。次の一週間は、腰を痛めた。いや、腰は本当に痛かった。あの晩から朝方まで、冷えた布団の中で身体を丸めていると、骨の芯が軋むような痛みが背骨を伝って、寝返りひとつ打つたびに、情けないほどのため息が漏れた。しかし三週間目を過ぎる頃には、そんな言い訳を口にすることすら無くなっていた。誰にも何も告げず、ただ行かなくなった。朝の目覚めは重く、カーテンを開ける気にもなれず、時計の針が昼を跨ぐまで布団の上に横たわっている日が続いた。薄暗い部屋の天井を見ながら、何かを考えるでもなく、目の奥であの用具室の光景がゆらゆらと揺れる。西日はなかった。埃も、熊手の匂いもなかった。ただ、脳の襞に張り付いた映像だけが、少しずつ輪郭を変えながら、何度も何度も繰り返された。
夜になると、布団の中で身体が疼いた。
最初は無意識だった。脚を伸ばし、仰向けになり、目を閉じると、あの薄闇が戻ってくる。佳子さんの汗で光る背中が、骨の浮き出た肩甲骨と一緒に揺れ、川崎さんの大きな掌が腰骨を掴んで、女の柔らかな肉をぐに、と沈ませる。耳の奥で、くちゅ、くちゅ、と水音が鳴る。俺は布団の中で膝を立て、下着の上から固くなった陰茎を押さえていた。触れているのか、触れていないのか、その圧力の加減も定まらないまま、指先が自然に布越しで擦り始める。それは老いた男の拙い自慰だった。快感の手前で、胸の奥を締め上げる苦しさが強くて、息が浅くなる。それでも手を止められないのは、止めた途端、佳子さんの白い腿が脳裏で揺れるからだ。あの蜜の匂いが、鼻腔の奥で腐熟した果実のように甘く蘇えり、下腹の奥を灼く。
「……俺は、何をしてるんだ」
誰に聞かせるでもなく、暗い天井へ向かって呟いた。声は掠れ、喉の奥でひりついた。部屋の隅では、妻の遺影が薄暗い輪郭だけでこちらを向いている。いつもなら朝に手を合わせ、水を換えていた。だがここ数日、その動作をしていないことに気づいた。遺影の前の小さな花瓶には、もう枯れかけた、名も知れない花が生けたままになっている。俺はその花を見ないようにしながら、右手の動きを再開する。掌に伝わるのは、自分の皮膚越しの熱と、脈打つ痛みに似た硬さ。吐き出した息が、空気の重さに絡んで沈んでいく。
何度目かの夜、俺は仰向けのまま射精した。
腹の上に生温かいものが散る。びく、びく、と陰茎が痙攣するたび、胃の奥からこみ上げるような虚無が唇まで迫った。目を閉じたまま、佳子さんの喘ぎ声の残骸が耳の奥で反響している。あの夜の、もう嫌、とか、動かないで、とか、そういう断片。頭の芯が焼けるような熱に侵されているのに、身体は少しずつ冷えていく。布団の中で、情けないほどの量の精液がへそのあたりに溜まり、少しの間も生暖かさを失わなかった。その温度が、まるで他人の吐き出したもののように気色悪く、それでいて救われたような心地もあった。俺はほどなく、死んだように眠った。
朝、起きると布団は冷え切っていた。掛け布団を跳ね除け、乾いて白く濁った己の痕を下着ごと洗濯機へ押し込む。遺影へ水を換えようと近づき、手を合わせようとして、目を瞑った自分の心の中で、妻の白い顔よりも先に佳子さんのあの白い喉が浮かんだ。薄く開いた唇。仰け反る首。汗で張り付いた黒髪の一房。俺は掌を合わせたまま、長く身動きできなかった。祝いたいのか、呪いたいのか、もう自分でも判らなかった。判っているのは、今夜もまた思い出し、手を伸ばしてしまうだろうということだけだった。
川崎さんが佳子さんの奥へと沈んでいくあの形。そして、あの噂。巨根という湿った膿。それはもはや体格の話ではなく、俺の隅々へ食い込む異物となっていた。佳子さんが何故あの男を選んだのかを、俺に納得させるための道標。むしろ、あの噂さえなければ、もっと惨めだったかもしれない。少なくとも今は、自分に無いものを突きつけられたという諦念が、心の底を無理やり支えている。あの湿った膿は、俺の傷口を腐らせる薬だった。腐ることでしか、痛みが止まらない種類の。
だが、それでも考えずにはいられない夜があった。
同じ年代の、同じように六十を過ぎた男同士だというのに、この差は一体どこから生まれてくるのか。川崎さんと俺の違い。それは単に、あそこが大きいか小さいか、だけの問題なのだろうか。いや、もちろん違う。話し方も、腹の据え方も、空気の掴み方も、何もかもが違う。川崎さんはあの公園の、あの用具室の、あの暑く澱んだ空気さえも、自分の側へ引き寄せて笑うことができた。俺はその逆で、どんな穏やかな空気も、自分の周りでだけ澱ませてしまう。それだけのことが、三十以上も年の離れた女に手を這わせることと、薄暗い布団の中で自分の固くなった一物を握りしめることの、天地ほどの距離になっている。喉の奥から、叫びでもため息でもない、生温い塊がせり上がってくる。飲み下せず、唇の端から漏れた息が、枕の上でくぐもった。
何度、己の中に分水嶺を探しただろう。どこで間違えた。いや、そもそも生まれが違う。あの男には、物怖じしない身体がある。女の腰を掴む太い指も、丸顔を崩して笑う気安さも、全部が欲に真っ直ぐだ。俺には何もない。胸の奥で燻り続けるばかりの、名付けようのない執着だけが、年を重ねるごとに不格好な形でこびりついている。それを持て余す夜は、自慰をする手の動きだけが、かろうじて俺を生かしていた。いや、生かすふりをしていた。射精の後の虚無が、またひとつ、身体の奥を黒く塗り潰しながら、それでも朝が来れば、俺は洗濯機を回して、遺影の前で頭を下げる。その繰り返しが、少しずつ、確実に、俺という檻を狭めていく。
八月が終わり、九月になり、街路に積もる陽の匂いが少しずつ秋のそれへ変わり始めた頃。俺は近所のスーパーで、偶然、佳子さんと会った。
スーパーの中は夕方で混み合っていた。蛍光灯の白い光が、買い物客の頭上で僅かにチラついている。野菜売り場の前を通り過ぎようとしたとき、カゴを持つ手が、見切り品の茄子を避けて伸びた女の腕にぶつかりそうになった。顔を上げる。
「あ、……岡島、さん?」
佳子さんだった。カゴを持ち、半透明のビニール袋へ小松菜を詰めかけている状態で、俺の顔を見て目を丸くしている。久しぶりに見る彼女は、髪を高い位置で一つ結びにし、耳の下の産毛が白い光に透けていた。淡い栗色のカーディガンを肩に羽織り、中には白いカットソー。下は長めのデニム。あの七分丈から、もう季節が移ったことが見て取れた。
「ご無沙汰しています。あの、ボランティア、もう来られないから、皆で心配してたんですよ。体調、崩されたんですか?」
佳子の声は、あの頃よりも幾らか低く、滑らかだった。カゴを胸の前で持ち替え、こちらへ半歩近づく。その動作の僅かな隙に、襟元の白いラインから日焼けした鎖骨が覗いた。骨ばかりでなく、その下の皮膚まで熟れた色に変わっている。あの夏の終わりの陽に灼かれた、薄い蜜色。彼女の身体から、昔の汗とシャンプーを混ぜた匂いではなく、柔らかい何かの香りがした。洗い立ての衣服に、ほんの微かな女の体温がついた匂い。俺は何も言えず、ただ手に持った買い物袋を持ち替えた。
「岡島さん?」
「え、ああ……すみません。あの、大丈夫です。体は、まあ、どこも悪くはないんです。ちょっと、色々あって」
自分の居場所へ戻るのが、急に怖くなった。レジ袋の持ち手が、指の付け根へ食い込む。米の二合分と、鮭の切り身と、あと何かを入れた袋が、やけに重い。肩が少し前に出る。佳子はこちらを見たまま、唇の端だけで笑って、目の奥に何か迷子のような光を浮かべた。
「……そうでしたか。川崎さん、寂しがってましたよ。岡島さんがいないと、休憩のとき静かだって。私も、なんだか、変な感じでした」
薄い化粧をした瞼を少し伏せ、言葉の終わりを飲み込むようにして、彼女はカゴを揺らす。その首の線は、あの頃よりもむしろ白かった。白い、細い、綺麗な線。向こう側へ渡った女の、落ち着いた克明さで。
「柄ではなかったんです」
自分の口から、その言葉が落ちた。背中が丸まって、視線は彼女の足元を掠める。白いスニーカーから、デニムの裾の擦り切れた部分まで、まともに顔を見られなかった。
「え……?」
「俺には、ああいう場は、柄ではなかったんです。最初から、身に合わないことだと、わかっていたはずなのに」
佳子は一言、何か言いかけて、やめた。右手がカゴの縁を弄ぶ。指先が小さく震えているように見えたのは、蛍光灯の明滅のせいだと思いたかった。冷気が野菜売り場の奥から流れ出し、生々しい土と水の匂いが鼻先へ漂う。それは泣きたいほど日常の匂いで、俺は今この場所が、自宅の薄暗い部屋よりもずっと逃げ場のない空間になっていた。
「……じゃあ、お元気で。私、川崎さんにも、お会いしなかったって伝えておきますね。あの、ほんとに、ありがとうございました。岡島さんに助けてもらったこと、何回もありましたから」
俺は一礼を返し、一言も返さないまま、身体を横へ開いて歩き出した。足の裏が、ツルツルしたスーパーの床で滑る。肩が前へ倒れ、胸が潰れる。買い物袋の底が左腿へぶつかって、その重く湿った感覚が、あの夕暮れの用具室での、佳子の足先が床を蹴る音に重なった。遠ざかっても、後ろから彼女の視線が背を撫でる気配が残っていた。風の音の中に、佳子の「、お待ちしています」という声が溶けて、消えた。
家に戻り、袋を床へ置いたまま、俺は玄関の明かりも点けないでいた。薄暗がりの中で靴を脱ぎ、畳の上を素足で歩くと、床板の冷たさが足裏から這い上がってくる。仏間の前へ立つ。遺影の中の妻は若い頃の顔で、いつもと変わらぬ目をしている。名前を、呼ばれなかった自分。二度と日の当たる場所へ出られない俺を、この静かな家だけが責めるでもなく受け入れる。全てがつかず離れず、液体のように心の底を満たして、もうどこへも溢れていかない。
遺影のガラス越しに、あの向日葵のような笑顔を重ねようとした。だが浮かぶのはいつも、あの用具室の白い腿と、裏路地の乱れた黒髪だけで、その中心にいる女の顔だけが、ぼやけて思い出せない。死ぬまで、俺はこの光景を反芻しながら、佳子という女の顔を探し続けるのだろう。それが結局のところ、一番呪いに似ていて、それでも俺の最後の、男としての体温だった。
登場人物
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岡島雄二 おかじま ゆうじ男性 ・ 65
外見: 白髪交じりの薄い髪を後ろに流し、うす茶色の瞳、肩の丸まった痩せた体格、身長は169センチほど。顔には深い皺、日焼けの少ない乾いた肌。服装: 薄いグレーのポロシャツ、カーキ色のチノパン、黒いウォーキングシューズ。真面目で自己評価が低く、欲望に素直になれない。感情を殺してきた男だが、佳子に触れた瞬間、身体は若い頃の雄に戻る。
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森下佳子 もりした けいこ女性 ・ 32
外見: 背中にかかる黒髪を低い位置で一つ結び、少し垂れた大きな茶色の目、白い歯、小麦色に日焼けした肌、しなやかで細い腰、身長は160センチぐらい。胸は控えめだが、屈むたびにカットソーの襟ぐりが重力に負けて開く。服装: 白いカットソー、七分丈のデニム、白いスニーカー、麦わら帽子。誰にも分け隔てなく明るいが、男の手を拒まない受け身の柔らかさがある。
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川崎徳次 かわさき とくじ男性 ・ 66
外見: 白髪交じりを短く刈り込み、垂れ目で人懐こい茶色の瞳、血色のいい丸顔、腹回りに貫禄のある厚みのある体、身長は175センチ、手が大きく指が太い。短パンから覗くふくらはぎは毛が薄く、意外に色白。服装: 白いポロシャツ、茶色いワークパンツ、白いスニーカー、首にタオル。底抜けに明るく、若い女の体に悪意なく触れる。自分の欲に正直で、人には平等に友人として接するが、雄二の恋心には気づかない。





