第3章: 奪われた放課後

第3章: 奪われた放課後
あの光景から逃れるように、歪んだ日常を正したいという必死の思いが、海斗悠真の胸を焦がしていた。国語準備室のドアの隙間から脳裏に焼き付いた、板橋みつはの知らない顔。あの濃密で、陰鬱な空気を打ち破り、二人だけの普通を取り戻したい。その一心で、彼は放課後の教室で、一人で鞄を整えるみつはに声をかけた。彼女の細い指が、教科書の角をそっと撫でる仕草に、悠真は胸が締め付けられるのを感じた。
「ねえ、みつは。週末、予定ある?」
彼の声は、自分でも驚くほど震えていた。みつははゆっくりと顔を上げ、その潤んだ黒瞳が一瞬、悠真のことを認識しているかのように揺らめいた。しかし、すぐにその視線は宙を彷徨い、彼女の唇がかすかに噛まれた。その仕草は、何かを隠していることの証明のように、彼の心に突き刺さった。
「…ううん、別に。どうして?」
「あの、僕と、どこかへ行かない?二人で、久しぶりに。」
懇願するような口調だった。みつははしばらく俯いたまま、黒髪のカーテンの向こうで何を考えているのか分からなかった。教室の窓から射し込む夕日が、彼女のシルエットを縁取って、まるで手の届かない存在のように見せていた。やがて、彼女は小さく息を吐くと、渋々という声で応えた。
「…いいわよ。仕方ないから。」
その言葉に、悠真は救われたと感じた。まだ間に合う。まだ、僕たちの関係は元に戻せる。そう信じ込もうと、彼は力強く頷いたのだった。
週末のデート。繁華街の雑踏の中、悠真は必死に「普通」を演じようとしていた。みつはが好きな苺とクリームのクレープを買い、彼女に差し出す。しかし、彼女は有り難そうに受け取るどころか、スマートフォンの画面をちらちらと見るばかりで、クレープも半分ほどしか食べずに紙袋にしまった。その冷めた態度が、悠真の熱意を少しずつ奪っていく。甘い香りの中に、昨日と同じ、古い書斎のような黴臭くて甘ったるい匂いが混じっているように感じて、彼は息を殺した。
「この前の映画、面白かったって。次、一緒に行かない?」
「…ああ、そう。」
「疲れてるの?なんだか、元気ないみたいだけど。」
「…別に。そうでもないわ。」
会話はいつも途切れ、沈黙が二人の間に深い溝を作った。その溝を埋めようと、悠真が彼女の手を握ろうとした瞬間、みつははハッとして身をよじり、スマホを胸に抱きしめた。その防御的な姿勢に、悠真の指は空中で凍りついた。その時、彼の目に、彼女が抱きしめたスマホの画面が一瞬、映り込んだ。そこには、差出人「桜井」と表示された、背筋が凍るような一文が輝いていた。
『今日もお前のその唇が恋しい。』
唇。まだ一度も悠真が触れたことのない、彼女の唇。その唇を恋しがっているのは、自分ではなく、あの国語の教師だった。頭の中が真っ白になった。クレープの甘い匂いが、急に吐き気を催させるほど嫌になった。彼女は、ただの勉強なんてじゃない。あの男と、こんな言葉を交わし合う関係なんだ。その事実が、鉄槌のように悠真の心を打ち砕いた。デートは、途中で終わった。何も言えず、ただ黙って彼女を見送るしかなかった。
それから数日後、学校も早く終わった日、理由もなく街を彷徨っていた悠真は、駅前のネオンが煌めく路地裏で、足が凍りついた。人混みに紛れる、見慣れた制服の姿。板橋みつはだった。しかし、彼女は一人じゃなかった。隣を歩いているのは、白髪混じりの髪と、古びたジャケットを着た、あの桜井宗介に他ならなかった。悠真は、思わず路地の陰に身を潜めた。
みつはの表情は、悠真が知っているものとは全く違っていた。不安と羞恥に顔を赤らめながらも、その瞳の奥には、何かを決意したかのような覚悟と、奇妙な陶酔が宿っていた。桜井は満面の笑みで、彼女の肩にそっと手を回し、耳元で何か囁いた。みつはは小さく頷くと、彼に導かれるように、ピンク色のネオンが輝く建物の中へと足を踏み入れた。ラブホテル。自動ドアが静かに開き、二人の姿を闇に呑み込むと、また静かに閉ざした。その音が、悠真の世界の終わりを告げる鐘のように聞こえた。
彼は動けなかった。叫ぶことも、問い詰めることもできなかった。ただ、冷たいコンクリートの壁に背中を預け、彼女が消えた入口を虚空を見つめることしかできなかった。奪われた。放課後の時間だけじゃない。デートも、会話も、そして、彼女の唇そのものが、あの男に奪われてしまった。悠真の想像を遥かに超えて、二人の関係は、もうとっくに戻れない地点まで進んでいたのだ。彼の頬を、ぬるい涙が一筋、伝っていった。
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