第1章: 退職後のフェアウェイ

第1章: 退職後のフェアウェイ
空は高い秋晴れだった。
刈り込まれた芝の緑が朝露にきらめき、遠くの林の木々がほんのり紅葉の兆しを見せている。フェアウェイを隔てる白い杭が整然と並び、その向こうには人工池が静かな水鏡を張っていた。午前九時を回ったばかりのゴルフ場には、すでに数組のプレーヤーが散らばり、時折、クラブがボールを打つ乾いた音と、小さく響く歓声が風に乗って流れてくる。
森下浩一郎は、バッグを肩から下ろしながら、深く息を吸い込んだ。
芝生の匂い。土の湿った香り。朝の冷気が肺の奥に染み渡る。彼は六十歳になって、ようやくこうした単純な感覚に、かすかな安らぎを見いだせるようになった。退職から三ヶ月。三十年勤めた会社を去り、それとほぼ同時に妻に去られ、今は亡き両親が暮らしていた郊外の一軒家で、ただひとり日々を過ごしている。
――まるで人生の掃き溜めだな。
ふと、そんな自嘲が頭をよぎる。が、すぐに彼は首を振った。今日は月に一度の楽しみだ。学生時代からの友人たちと回るゴルフコンペの日。これだけは、何があっても休まないと決めていた。
「おーい、森下! 遅いぞ遅いぞ!」
陽気な声がして、クラブハウスの玄関から小柄で小太りの男が手を振ってきた。七三分けの黒髪がきちんと整えられ、高級そうなゴルフシャツに身を包んでいる。倉重だ。同年代ながら、中小企業を経営する羽振りのいい男は、いつもこうして周囲を明るくする。
「すまん、電車の関係で」
森下は苦笑しながら近づいた。
「ははは、まあいいさ。今日はね、ちょっとしたお客さんを連れてきたんだ」
倉重がにやりと笑い、振り返った。その背後から、ひとりの女性がゆっくりと歩み出てきた。
森下は一瞬、息をのんだ。
彼女はおそらく四十代半ばだろう。艶やかな栗色のロングヘアは、後ろで一つにまとめられ、幾筋かがほほを撫でている。切れ長の目は黒く鋭く、しっかりとした眉が知性的な印象を与える。ゴルフウェアは、白を基調にしたブランド物のセットで、それが鍛えられたくびれと、ふくよかでありながら締まった胸や腰のラインを、一切の無駄なく強調していた。身長は森下より少し低い程度だが、その佇まいはまるでプロゴルファーのようだ。
「こちら、栗崎亜美さん。うちと取引のある広告代理店の社長さんだよ。ゴルフはまだまだってことで、今日はお仲間に混ぜてもらおうと思ってね」
倉重が紹介する。
栗崎はほんのりと微笑み、軽く会釈した。
「初めまして、栗崎と申します。今日はお邪魔させていただきます。よろしくお願いいたします」
声は低く、滑らかで、ビジネスの場で磨き上げられた丁寧な響きだった。しかし、その瞳の奥には、何かを測っているような鋭さがちらりと光る。
「あ、はい……森下です。よろしく」
森下はつい、かしこまった返事をしてしまった。彼女の存在感に、少し圧倒されていた。これまで会ったことのない種類の女性だ。美しいだけでなく、どこか隙のない、計算された空気をまとっている。
「さてさて、もう一人は……お、来た来た!」
倉重が指さす方を見ると、日焼けした肌にスポーツ刈りの白髪が印象的な、がっしりとした体格の男が、ややくたびれたゴルフバッグを引きずりながら近づいてきた。鈴木だ。森下の学生時代からの友人で、無骨でざっくばらんな性格が身上の男である。
「おう、遅くなった! 今朝、孫がぐずりやがってな!」
鈴木は豪快に笑い、森下の肩をポンと叩いた。
「お前、相変わらず元気だな。こっちは栗崎さん。今日のゲストだ」
倉重がもう一度紹介すると、鈴木は栗崎を一瞥し、大きくうなずいた。
「おう、よろしくな! ん? でももしかして、あの『クリサキ・プランニング』の?」
「はい、そうです」
栗崎の微笑みが、ほんの少し深くなる。
「へえ! そっちの社長さんか! よく名前は聞いてたぜ。でっかい看板、駅前に立ってるよな!」
「お恥ずかしい限りです」
そう言いながらも、栗崎の表情には、自社の認知度を確認した満足のような色が浮かんでいた。森下はそれを一瞬で見逃さなかった。彼女は確かに、ビジネスの場で勝ち上がってきた女性なのだろう。
四人で受付を済ませ、スタート時間まで少しラウンジで待つことになった。森下はコーヒーを啜りながら、窓の外のコースを見つめていた。心のどこかで、今日はなぜか調子がいいような気がしていた。寝不足気味だし、体も少し重いのに、クラブを握りたくなる不思議な感覚がある。
「森下さん、普段はどちらでプレーされることが多いんですか?」
ふと、隣から声がかかった。栗崎が、優雅に紅茶のカップを傾けながら、彼を見ている。
「え? あ、ここがメインですね。会員権を持っていますので」
「そうなんですか。いいコースですよね。私も何度か招待で回ったことはあるんですが、なかなかスコアが伸びなくて」
栗崎の口調は軽やかだが、目はしっかりと森下の顔を捉えている。まるで、何かを評価するように。
「いえ、私も大したことありませんよ。今日こそ、皆さんの足を引っ張らないように」
「とんでもない。倉重さんからは、森下さんはとてもお上手だと伺いましたよ」
倉重が、にやにやと笑っている。
「そうそう、森下はね、ショットはともかく、パターがすごくうまいんだ。今日はベスグロ狙えるんじゃないか?」
「まさか……」
森下は照れくさそうに首を振った。が、内心では、倉重の言葉が妙に嬉しかった。退職してから、誰からも評価されることなどなかった。たとえそれが社交辞令だとしても、久しぶりに聞く褒め言葉は、乾いた土に染み込む水滴のように感じられた。
スタートの時間が来た。
四人は第一ホールのティーグラウンドに立ち、順番を決めた。秋の陽射しは柔らかく、風もほとんどない。絶好のゴルフ日和だ。
森下が最初のティーショットに立った。ドライバーを握り、ゆっくりと素振りをする。背中に、三組の視線が感じられる。特に、栗崎の視線が熱い。彼女は少し離れた位置に立ち、腕を組んでじっと見つめている。
――なぜだろう。
不思議な高揚感が胸をよぎる。彼は深く息を吸い、ボールを見据え、スイングを始めた。

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