第1章: 交錯する孤独

第1章: 交錯する孤独
梅雨の合間の、湿気を含んだ午後の光が、古びた二階建てアパート「ひかり荘」のコンクリートの壁を鈍く照らしていた。晩春から初夏へと移り変わる季節のはざまで、庭の紫陽花はまだ固い蕾のままだ。ここは都心から電車で一時間ほどの、新興住宅地と古い町並みが入り混じる地域にある。特にこれといって特徴のない、ただ「住む場所」として存在するアパートだった。
佐々木陽介は、部屋の窓からその庭をぼんやりと眺めていた。左手には冷めた緑茶の湯呑み。午後三時。一日の中で最も時間の流れが鈍く感じられる時刻だ。
離婚して一年。正確には、一年と三ヶ月と十七日が経過していた。
長年連れ添った妻から突然告げられた別れの言葉。「もう子供たちも独立したし、私も自分の人生を生きたいの。実は…ずっと前から他の人がいたの」。あの日、妻の口から出た言葉のひとつひとつが、六十七年の人生で築いてきたもの全てを、砂上の楼閣のように崩し去った。子供たちは二人とも独立し、それぞれの家庭を持っていたが、離婚後は連絡も途絶えがちになった。おそらく母親側に立っているのだろう。家族のためにと、土日出勤も厭わず働き続けてきたサラリーマン時代の全てが、今では虚しく響く。
「ただの、老いた独り身か」
自分に向けて呟いた声は、窓ガラスに吸い込まれていく。白髪混じりの銀髪は、退職後は特に手入れもせず、ただ短く刈り込んでいるだけだ。痩せたがまだしっかりした体格は、長年のデスクワークにも関わらず、週に一度はジムに通っていた名残だった。今ではそのジムも退会した。行く意味を見失った。
アパートの一階から、子どもの声がかすかに聞こえてきた。木下という姓の、シングルマザーの親子が住んでいる。時々出入り口ですれ違う程度で、挨拶を交わすことも稀だった。母親は三十歳前後だろうか、いつも疲れた顔をして、小さな娘の手を引いて早足で通り過ぎていく。娘の方は…五歳か六歳だろうか。
陽介は湯呑みの緑茶を一口飲む。ぬるくなっていた。
何をするでもなく、部屋を出て散歩に出かけることにした。行く当てもないが、1kのアパートに一日中閉じこもっているよりはましだ。地味なベージュのポロシャツに、皺のよったチノパンという、退職した無職の老人にありがちな格好でドアを出た。
階段を下りると、ちょうど一階のドアが開き、小さな女の子が飛び出してきた。栗色のぱっさりした髪、大きい茶色の瞳。木下の娘だ。今日は黄色い花のワンピースを着ている。
「ゆっくり! 唯夏!」
母親の声が追いかける。女の子は振り返りもせず、アパートの門をくぐり、路地を駆けていった。その後から、スーパーの制服姿の木下詩織が顔を出した。肩にかかる栗色のストレートヘアが少し乱れ、優しいがどこか疲れの滲んだ瞳が娘の後を追っている。陽介と目が合い、彼女は慌てて小さく会釈した。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
声をかけられた陽介も、とっさに頭を下げる。詩織はまた娘の後を追おうとしたが、足を止めて言った。
「すみません、いつも急いでいて…」
「いえ、構いませんよ」
会話はそれで終わった。詩織は小さく礼を言うと、娘を追って路地へ消えていった。陽介はゆっくりと彼女たちとは反対方向、小さな公園がある方へ歩き始めた。
公園はアパートから歩いて五分ほどの場所にある。ブランコと滑り台、砂場があるだけの、ごく平凡な児童公園だ。平日の午後なので人影はまばらで、ただ鳩が何羽か餌を啄ばんでいるだけだった。
陽介はベンチに腰を下ろし、ぼんやりと鳩の群れを見ていた。かつては、ここに孫を連れてくることを夢見ていた。息子の子供が生まれた時、どんなに喜んだことか。だが、離婚がすべてを変えた。今では孫の顔さえ、写真で見るのがやっとだ。
砂場の方から、小さな物音がした。
振り向くと、先ほどアパートで駆け出していった女の子が、一人で砂遊びをしていた。木下唯夏だ。黄色いワンピースの裾が砂で汚れているのも気にせず、小さなシャベルで一心に山を作っている。
母親の姿は見えない。多分、買い物か何かで離れているのだろう。
陽介はただ眺めていた。女の子は時々、完成した砂の山を自分で褒めるように「わあ、きれい」と呟き、また崩しては新たなものを作り始める。その無心な様子に、かつての孫との時間を重ねてしまった。
ふと、女の子が陽介の方を向いた。大きな瞳が好奇心に輝いている。
「おじいちゃん、見てるの?」
はっとして、陽介はうなずいた。
「うん。いい山ができてるね」
女の子は満足そうに笑い、また砂をいじり始めた。少し間を置いて、今度は質問してきた。
「おじいちゃんも、砂遊びする?」
「えっ?」
「一緒にやろうよ。一人じゃつまんないもん」
陽介は一瞬、どう返事すべきか迷った。見知らぬ老人と、小さな女の子が二人きりで遊ぶことの不自然さ。しかし、彼女の純粋な誘いと、自分の中に湧き上がった久しぶりの「誰かと関わりたい」という欲求が、慎重さを押しのけた。
「いいよ。少しだけね」
ベンチから立ち上がり、砂場に近づいた。膝を折ってしゃがむと、齢六十七の体の節々が軋む音がした。女の子は嬉しそうに、小さなバケツを差し出した。
「これ使って。水も持ってくるね」
「あ、待って、危ないから…」
だが、彼女はもう走り出していた。公園の端にある手洗い場まで、小さな足でトコトコと走っていく。陽介は彼女の背中を見守りながら、なぜか胸が少し暖かくなるのを感じた。
やがて唯夏は、バケツに少しだけ水を入れて戻ってきた。得意げに陽介に見せる。
「見て、お水!」
「お、すごいね。じゃあ、これで固めようか」
二人で砂をバケツに入れ、水を加え、型を作り始めた。陽介は長年忘れていた、子供と遊ぶ感覚を少しずつ思い出していった。砂の感触、水の冷たさ、そして無邪気な会話。
「おじいちゃんの手、でっかいね」
「そうかな? 普通だよ」
「ママの手より大きいよ。でも、優しそう」
その言葉に、陽介は思わず自分の手を見た。皺が増え、老年斑が目立つ、ただの老人の手だ。しかし「優しそう」と言われて、なぜか恥ずかしくなった。
「おじいちゃん、孫いるの?」
唯夏は何の気なしに聞いた。その質問が、陽介の胸に鋭く突き刺さった。
「…いるよ。でも、遠くに住んでるから、なかなか会えないんだ」
「えー、寂しいね。私もパパに会えないから、寂しいときあるよ」
陽介は息をのんだ。この子もまた、不完全な家族の中で生きているのか。
「パパはね、唯夏が小さかったときにいなくなっちゃったんだって。ママが言ってた」
唯夏は砂を平らにしながら、いたって平静に話す。その無邪気さが、かえって切なかった。
「そうか…それは寂しいね」
「うん。でも、ママがいるから大丈夫!」
彼女は明るく笑った。その笑顔に、陽介は救われるような気持ちになった。同時に、この子の母親である詩織のことを考えた。若くして一人で子育てをしている苦労は、計り知れないだろう。
しばらく遊んでいるうちに、日が少し傾き始めた。陽介は時計を見て、そろそろ帰らなければと思った時、公園の入口から慌ただしい足音が聞こえた。
「唯夏!」
詩織が、買い物袋をぶら下げながら駆け込んできた。顔には疲労と焦りが混じっている。
「ママ!」
唯夏は立ち上がり、母親の方へ走り出した。詩織は娘を抱きしめると、ようやく陽介の存在に気づいた。表情が一瞬硬くなった。
「あ…佐々木さん」
「こんにちは。偶然公園でお会いして、少し遊んでいました」
陽介は立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。詩織は慌てて買い物袋を置き、深々とお辞儀をした。
「すみません! まったく、この子が急に走り出して…それに、わざわざお時間をとらせてしまって」
「いえいえ。私の方が楽しかったですよ。久しぶりに子供と遊びましたから」
その言葉に、詩織の表情がほんの少し和らいだ。だが、すぐにまた緊張した面持ちに戻る。
「本当に申し訳ありません。唯夏、ちゃんとお礼は?」
「ありがとう、おじいちゃん! 楽しかった!」
唯夏は陽介の腰に抱きつくようにして言った。陽介は思わず彼女の頭をそっと撫でた。
「こっちこそありがとう。また遊ぼうね」
詩織はその光景を複雑な表情で見つめていた。感謝と安心、そしてどこかやるせなさが入り混じったような眼差しだった。
「では、そろそろ失礼します」
陽介が告げると、詩織はまた深く頭を下げた。
「本日は本当にありがとうございました。唯夏、さあ行くよ」
「はーい! バイバイ、おじいちゃん!」
「ああ、またね」
詩織は娘の手を握り、買い物袋を持ち直して公園を後にする。陽介はベンチに戻り、彼女たちの背中を見送った。詩織は何度か振り返り、またお辞儀をした。
夕暮れが近づき、公園の木々の影が長く伸び始めていた。鳩の群れはどこかへ去り、代わりに蝉の声が微かに聞こえ始める。
陽介はゆっくりと立ち上がり、アパートへの道を歩き始めた。足取りは来た時よりも、わずかに軽くなっていることに気づいた。
部屋に戻り、再び窓辺に立つ。庭の紫陽花の蕾が、夕日の中でほのかに紫色に染まり始めているように見えた。
下の階から、また子供の声が聞こえてきた。今度は母親の声も混じっている。夕食の支度だろうか。どんな食事なのだろう。質素なものだろうか。それでも、二人で囲む食卓は、きっと温かいのだろう。
陽介は冷蔵庫を開けた。中にはコンビニの弁当と、賞味期限間近のヨーグルトがいくつかあるだけだ。妻がいた頃は、どんなに遅く帰宅しても温かい食事が用意されていた。それが当たり前だと思っていた。
当たり前だと思っていたものの全てが、脆くも崩れ去った。
窓の外では、完全に日が沈み、アパートの各窓に明かりが灯り始めていた。一階の木下親子の部屋からも、柔らかな橙色の光が漏れている。
陽介は自分の部屋の電気をつけなかった。暗闇に身を任せ、下の階の明かりをぼんやりと眺めていた。そこには、自分が失ったもの、いや、もしかしたら最初から持っていなかったものがあるように思えた。
そして、砂場で唯夏が言った言葉が、ふと蘇った。
「唯夏もパパに会えないから、寂しいときあるよ」
孤独は、年齢も境遇も超えて、誰にでも平等に訪れる。だが、その孤独が交錯するとき、ほのかな温もりが生まれることもある。
アパートの廊下で、また彼女たちと会う日が来るだろう。その時は、もう少し気軽に挨拶ができるかもしれない。
ただの隣人同士の、ささやかな交流でいい。
しかし陽介の胸の奥で、長い間閉ざされていた何かが、ほんの少し、かすかに動き始めた音がした。それは、新しい何かへの予感でもなく、過去への未練でもない。ただ、「また明日」という、ごく日常的な期待に似たものだった。
下の階から、女の子の笑い声がかすかに聞こえてきた。
陽介は、知らず知らずのうちに、口元を緩めていた。

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