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年金12万円の65歳管理人が遺影の並ぶ未亡人の部屋で浣腸と肛門管理を引き受けるまでの週一の秘密

シニア官能 / 誘惑 全6章 約106分で読了(52,666字) 新着 2026年10月23日

あらすじ

年金12万円の孤独な65歳が、管理所の詰まった便器を黙って処理した日から、45歳の未亡人との間に誰にも言えない週一の理由が生まれる。香水と薄いブラウス越しの肌、遺影の並ぶリビング、浣腸液の匂い——清楚な微笑みの奥から差し出される要求に、男の日常と身体が静かに侵食されていく。

第1章 薄壁の朝と詰まった便器

第1章のシーン

目覚まし時計の針が秒を刻むかすかな音よりも先に、壁の向こうから伝わってくる規則正しい軛みで、沼田洋三は薄く瞼を押し開いた。意識がまだ眠りの澱の底に沈んでいるうちから、その音が何であるかを、彼の身体の芯のほうはとっくに知っていた。隣の部屋に住む若い夫婦の、朝の睦みごとだった。安物のベッドのフレームが畳を擦りつける乾いた軋みと、女の短い吐息が、薄い壁板を這ってくる。耳を澄まそうとした覚えなど少しもないのに、鼓膜は勝手にその微かな振動を拾い上げてしまう。それは遠い夏の雷鳴のように曖昧で、それでいて鼓動のすぐ裏側にまで迫ってくる音だった。六月中旬の湿りはじめた空気が、布団の上にじっとりと膜を張っている。洋三の下腹の奥で、朝の性欲が種火のようにくすぶりはじめるのを、彼は目を閉じたまま感じていた。

洋三は仰向けになったまま、薄い掛け布団の下で自分の股間へ視線を落とした。尿道の奥が、かっと灼けるような、いや、灼けるというよりは鈍く痺れるような疼きを帯びている。六十五年間、この身体と連れ添ってきて、こればかりは衰えるどころか、朝が来るたびに律義へと兆してくる。いや、律義なのは身体だけだった。妻もおらず、子もおらず、薄い壁一枚向こうで交わされる若い夫婦の営みを聞きながら、たった一人で朝の性欲を持て余している。情けない、という感情はまだ輪郭を持たず、ただ漠然とした欠落感が、古い味噌汁の染みのような生温かさで喉の奥に溜まっていくようだった。

洋三はゆっくりと上体を起こし、長年使い古した畳の、自分の形にへこんだ柔らかな窪みへ膝を落ち着かせた。布団の上から触れただけでも、痩せた太腿の肉が昔より頼りなく減っているのが分かる。身体を右へ捻ると、腰椎の古傷が小さく悲鳴を上げ、その痛みは背骨に沿ってずるずると尾を引いた。部屋の中には、昨夜の味噌汁の、出汁の抜けた塩辛い残り香がまだ低く漂っている。洋三は台所へ歩いていき、片手鍋に残った味噌汁を弱火にかけた。青い炎が鍋底を舐めるのをじっと眺めていると、また壁の向こうで女の声が高く跳ねた。悲鳴のようでもあり、泣き声のようでもある。洋三はガス台の火を弱めるでもなく、ただ鍋の中で豆腐の角がゆるゆると崩れていく様子を見つめていた。

薄い壁のアパートだった。家賃は四万円を少し超える。管理費を足せば五万近い。手取りの年金は十二万弱。それを月の初めにそうっと崩して、家賃を払い、光熱費を払い、米とわずかな総菜を買う。外出らしい外出もせず、電気を消して、人並みの贅沢はとっくの昔に諦めてきた。初老と呼ぶにはいくらか過ぎた頃から、洋三は自分の人生を勘定することに疲れていた。けれど朝こうして一人でいると、数字だけが湿った砂袋のように胸の上へ重たく積み上がるのだった。

味噌汁を濁りのある茶碗へ注ぎ、一口啜ると、出汁はもう飛んでいて、ただ塩気だけが舌を刺す。洋三は黙って箸を置き、押し入れの天袋から古い通帳を一冊取り出した。紺色の表紙は擦り切れ、端の布地が白く毛羽立って、角は指で弄りすぎたせいか丸く摩滅している。開くと、退職してから変わることなく振り込まれる年金の数字が、静かな字面で縦に並んでいた。二か月に一度の支給額、二十四万と少し。それを二で割って、家賃や光熱費、食費を引いていく。引き算ばかりの毎日だった。通帳の頁を繰る指先が、自分のものではないように乾いて見える。

洋三は通帳を畳の上へ置き、擦り切れた角を親指の腹でゆっくりと往復させた。紙の繊維が乾いた指先に細かく引っかかって、ざらりとした頼りない感触を残す。こんなものを触りながら、会ったこともない孫の頭を撫でる爺さんの手つきを想像してみても、何かが返ってくるわけではない。けれど、擦り減った通帳の角の感触だけは、彼の生きた時間の長さを無言のうちに証しているようでもあった。洋三は通帳を畳に伏せると、肺の底から一筋のため息を押し出した。

六時を少し回った頃、洗面所の鏡の前に立ち、正面から自分の顔を見た。白髪の混じった短い髪、くすんだ茶色の目、浅黒く乾燥して細かい皴の走った頬。昨夜剃り残した顎の産毛が、蛍光灯の下で青白く光っている。老けて見えるだろう、と自分でも思う。いや、老けているのではない。六十五年という時間を、そのまま素直に背負ってきただけだ。背負い続けてきたものの正体は、誰にも求められなかった日々の重さだった。それを鏡の前で改めて確かめるたび、洋三の胸のどこかが薄く、音もなく剥がれていくような心地がした。

洋三は支給された紺の作業ジャンパーに袖を通すと、首元のボタンをきつく嵌めた。洗濯機のない部屋で数日おきに手洗いした作業着は、襟の内側が黄ばんで、微かに汗と洗剤の混ざった匂いが立ちのぼる。ポケットへ手を突っ込むと、先週メモしたゴミ出し当番表の切れ端が指先に触れた。彼はそれを掌で丸めて捨てることもせず、またポケットの奥へと押し込んだ。玄関の板張りに腰を下ろし、白い運動靴の紐を結び直す。指先に力を込めると、古い紐は汗と泥で固くなっており、鳩目に何度も引っかかった。

外へ出ると、六月上旬の朝の空気はまだ涼しさを残していて、生乾きの洗濯物と、どこかの排水溝から立ちのぼる饐えた匂いが薄く混ざり合っていた。洋三はアパートの外階段を一段ずつ下り、駐輪場の隅に停めてある自転車へ跨った。錆びたチェーンが小さく軛み、車体がかたかたと頼りなく震える。空は高い水色で、ところどころ薄い雲が刷毛で掃いたように伸ばされていた。ペダルを漕ぐたびに、背中の汗が肌着へじんわりと滲み、朝の風が脇の下を冷やしていく。主に注意を割くべきなのは、湿った風の匂いではなく、自転車の後輪からときおり聞こえる緩んだ車軸の音だった。洋三は駅前の坂を避け、古い商店街の裏道をゆっくりと進んだ。

高級賃貸マンションの管理所には、九時より少し前に着いた。エントランスの自動ドアを抜けると、磨かれた石の床が朝の光を白く反射していて、アパートの薄暗い廊下とは空気の質からして違っている。空気そのものに金がかかっているような、ひやりとした無臭の清潔さだった。管理所は一階の奥にあり、三畳ほどの小さな部屋にはスチールの机と背の低い棚、壁際には防犯カメラのモニターが静かに並んでいる。洋三は自分の席へ腰を下ろすと、始業の点検簿を開き、ボールペンで日付と天候を記入した。雨雲はないが湿度が高い、と走り書きし、共用部の照明に異常がないことを確認欄へ小さく丸を書いた。

昼過ぎまで、施設内外の見回りと簡単な清掃で時間を潰した。廊下を拭き、エントランスのガラス戸を乾いた雑巾で磨いていると、柔らかな日差しが磨き跡に当たって細い筋を何本も浮かび上がらせた。このマンションのオーナーである假屋崎真子は、月に何度かこうして管理所へ来ては、名簿や修繕の記録を静かに確認していく。午後一時を過ぎた頃、エントランスの外に黒い小型車の停まる気配がして、洋三は背筋を伸ばした。実際に車の姿を見るより先に、排水溝の匂いのしない上品な外気が自動ドアの内側へ流れ込むのを感じた。

やがて管理所のドアが外側から静かに押し開かれ、白檀を思わせる甘く乾いた香りが、澱んだ室内の空気を押しのけるようにして流れ込んできた。それは湿った朝の空気とも、作業着に染みついた汗の匂いとも無縁の、柔らかで清潔な煙のような香りだった。

「こんにちは、お疲れさまです」

假屋崎真子は、薄いアイボリーのブラウスから伸びる手をドアに添えたまま、柔らかな声を部屋の内側へ落とした。四十五歳という年齢を聞いていなければ、もう少し若く見えたかもしれない。黒に近い焦げ茶の髪はゆるく肩下まで波打ち、耳の後ろで一房だけが外光を受けて、白く透ける光の帯を作っている。琥珀色の瞳は薄化粧の奥でしっとりと潤み、唇は笑みの形に整えられていた。薄いブラウスの下には、レースの細い肩紐がうっすらと透けており、胸元の膨らみは豊満で、柔らかな重たさを持っている。リネンのワイドパンツは腰回りをゆったりと包み、一歩ごとに布地が滑らかな音を立てた。

「ああ、オーナーさん。今日は名簿の確認ですね。もうお持ちしてあります」

洋三は立ち上がると、机上のバインダーに触れて少しだけ位置を直した。白檀の香りが鼻の奥へ絡みつき、それ以上近くへ来られると困るような、妙に落ち着かない気分になった。真子は「ありがとうございます」と一つ頭を下げ、机の横に置いた簡易の椅子へ腰を下ろす。彼女が名簿のページを繰るたびに、薄いブラウスの肩口が細かく波打ち、襟元からごく淡い影が覗いたり隠れたりした。

「この間の排水管の清掃、業者が来てくれたそうですね。助かりました」

真子がそう言って顔を上げる。前髪が額に掛かるのを、細い指先でそっと耳の後ろへ流した。その指の白さが、薄暗い管理所の空気のなかで不意に滲んで見える。洋三はバインダーの角に視線を落としたまま、ええ、とだけ短く答えた。

「入居者から何か、苦情は来ていませんか。上の階の騒音ですとか」

「今のところは、特には。巡回の記録は、そちらの二枚目にまとめてあります」

「そうですか。丁寧に見てくださるから、本当に安心ですのよ」

真子は薄いブラウスの襟元から覗く鎖骨のあたりを、名簿を持つ手の影で隠すでもなく、ゆったりと座り直した。胸元がふと開き、白い肌が光を含んで盛り上がったように見えたのは、あまりにも短い一瞬だった。洋三は自分の視線がそこへ吸い寄せられるのをはっきりと感じて、慌てて壁掛け時計へ目をやった。乾いた指先が、書類の縁を掴んだまま微かに震えている。喉の奥が詰まったように熱くなった。

「何か、ありましたか?」

真子が小首を傾げて洋三の顔を覗き込む。彼女の吐息ごと、甘い白檀の匂いが自分と彼女のあいだの空気を満たした。洋三は首を振り、喉を一度だけ静かに鳴らした。

「いえ、何でもないです。続きをどうぞ」

彼女はしばらく洋三の横顔を眺めていたが、やがて何事もなかったように名簿へ視線を戻した。それから十分ほど、ページをめくる紙の音と、エアコンの送風音だけが部屋を流れた。洋三はそのあいだ、身体のどこか底のほうに澱のように溜まっていく熱を、どう散らせばいいのか分からずにいた。便所の排水管の匂いのように、目には見えないけれど確かにそこへ沈殿していく熱だった。

真子が帰り支度を始めたのは、それから間もなくだった。立った拍子にブラウスの裾が翻り、腰の曲線が一瞬だけパンツの上にくっきりと浮かんで消える。彼女は鞄の留め金をカチリと嵌め、入り口で半身に振り返った。

「また来ます。何かあったら、いつでも連絡をくださいね」

「ええ、ありがとうございます」

洋三が頭を下げると、真子の纏う白檀の匂いがそこに残った。彼女が去ったあと、締め切った管理所の中では、汗とも香水ともつかない甘い気配が、埃っぽい机の上をふわふわと低く漂っていた。

それから数分も経たないうちに、管理所の奥にある共用トイレの方から、水を流す音とは少し違う、異様な響きが聞こえてきた。ゴボゴボ、ゴボ、という空気が管を逆流するような不機嫌な音が二度、三度繰り返され、やがて不自然なほど静かになる。洋三は何かを予感して席を立ち、廊下へ出た。

ノックは小さく、控えめだった。乾いた指の節がドアの木枠を三度だけ叩く。すぐに真子の声が、扉の向こうから囁くように落ちてくる。

「洋三さん、あの、水が流れなくて……」

洋三は数歩で廊下へ出た。真子は共用トイレの扉を細く開き、その隙間から青ざめた顔を覗かせていた。彼女の足元には脱いだ黒いサンダルが揃えられ、素足の指がタイルの上で白く固く丸まっている。普段は端然と背を伸ばしているはずの女が、今は胸元のブラウスをぎゅっと合わせるようにして、身体の半分を扉の陰へ隠していた。白檀の香りはまだ彼女の髪の先や襟元に残っていたが、その奥に、汗ばんだ肌の生温い匂いが薄く滲んでいる。

「あの、その……紙と……あ、あれが、そのまま残ってしまって。どうしていいのかわからなくて……」

真子の声は喉の奥で掠れ、語尾がかすかに震えていた。彼女は洋三の顔を一瞬だけ見上げ、すぐに視線を自分の足元へ落とした。洋三は黙って清掃用具の収納扉の方へ歩いた。壁際の狭い戸棚からゴム手袋と吸着式のラバーカップを取り出す。彼が腕まくりをして戻ってくると、真子は唇を微かに戦慄かせたまま、扉の内側へ半歩下がった。

「私がやります。オーナーさんは、あちらで」

「で、でも、私が流せなかったものを、そのままお任せするなんて……」

「こういうのは、慣れてますから」

洋三は言葉少なに答えて、真子を共用トイレの外へ促した。彼女は俯いたまま、小さく何度も頭を下げながら、洋三の目を見ないようにして洗面台のそばへ身を寄せた。彼女の項からは、さっきの白檀の香りに交じって、汗ばんだ皮膚から立ちのぼる微かな酸味が、糸のように細く匂い立っていた。

洋三がトイレの個室に踏み入ると、まず、むっ、と狭窄した空気が鼻を突いた。扉を閉め切った小さな空間に、水の澱んだ匂いと、消化しきれなかったものが作り出す重たい悪臭が、湿度を含んで溜まっている。それは、彼がアパートの壊れた排水溝で嗅いできたどの匂いよりも生々しく、喉の奥に絡みつくような臭みだった。白檀の残り香がまだ空気の上澄みに漂っているぶん、余計にその対比が際立ち、甘い芳香と糞尿の臭気が、洗面台の冷たいタイルの上で互いを責め合うように混ざっている。

詰まりの原因はすぐに分かった。弁座の奥に、固い便と流され損なった紙が重なって塞き止めている。濃い黄土色をした汚泥のような塊が水面の下で揺らめき、洗浄水は便器の縁までじわじわと這い上がって、ゆるい水鏡を作っていた。洋三はゴム手袋を嵌め、吸着式のラバーカップを便器の口に当てた。何度か強く上下に押し引きすると、穴の奥から、ぐぽっ、と湿った空気の塊が吐き出され、水面が細かく揺れた。そのたびに、目には見えない臭いの膜が個室いっぱいに膨らんで、皮膚の上へじわりと貼りつく。

真子は洗面台の白い陶器に手を突いて、青ざめた横顔をわずかに洋三の方へ向けていた。彼女の薄いブラウスの背中は呼吸のたびに小さく波打ち、汗で透けそうな下着の線がうっすらと浮かび上がる。洋三は見ないようにしながら、もう一度ラバーカップを便器の奥へ押し込んだ。彼女の耳の後ろには、汗が一筋、首筋を伝って落ちかかっている。真子はその汗を拭おうともせず、ただ唇を噛み締めて、便器の水が揺れる音を聞いていた。

水が一気に引いていった。ごぼごぼ、ごぼっ、という重い音とともに、水底の塊が崩れ、吸い込まれ、やがて管の奥へ消えていく。洋三はレバーを回して水を流した。今度は清潔な音を立てて、透明な水だけが静かに渦を巻いた。流れたあとも、個室の空気にはまだ臭いが居残っていた。壁のタイルの目地に染みついたのか、排水口の奥で渦を巻いて残っているのか、便臭は薄まっているのに、白檀の甘さがそれを隠しきれず、二つの匂いが中途半端に混ざり合ったまま浮遊している。真子は洗面台の縁を掴んだ手に白く力を込め、背中を小さく丸めた。彼女の肩が、呼吸のたびに細かく上下している。

洋三が使った清掃用具を隅に戻し、手袋を外して手洗いをしているあいだ、真子はずっと下を向いていた。鏡に映る彼女の額には細かな汗が浮き、頬という頬が火照りで赤く染まっている。唇は何度も開きかけて、そのたびに閉じられ、濡れた下唇に白い歯がそっと食い込んだ。

「オーナーさん、もう大丈夫です」

洋三がそう声を掛けると、真子はしばらくの間を置いてから、恐る恐るといった様子で顔を上げた。頬から耳の先まで、熱くなった皮膚の上を細かい汗の粒が流れ落ちている。彼女は唇を噛み締めるようにして、上目遣いで洋三を見た。その瞳が潤んでいるのは、汗のせいだけではないようだった。

「……ありがとう、ございます」

その声は消え入るように小さくて、吐息のほうが先に洋三の耳へ届いた。洗面所の空気には、まだあの独特な臭いが薄く澱んでいる。白檀の上品な香りと、流しきれなかった体の臭いとが、湿った熱のなかで決して一つにならず、互いの輪郭を確かめ合うように漂っているのを、真子ははっきりと感じていた。彼女は洋三の視線が自分の火照った頬や、汗で透けたブラウスの胸元に触れるたび、喉の奥が引きつるような恥ずかしさに襲われて、小刻みに身じろぎした。流れたあとも残る自分の匂いを、この男に嗅がれている。そう思うと、彼女の羞恥はとめどなく込み上げてきて、耳鳴りのように全身を震わせた。目の前には、さっきまで名簿を静かにめくっていたオーナーの面影はなく、一人の女の、羞恥に打ち震える表情があった。洋三は「ええ」とだけ言って、目を逸らすことができなかった。洋三の胸の内に、ざわつくものとは種類の違う、奇妙な高鳴りが灯っていた。ラバーカップを握っていた掌の内側に、彼女の体の奥から引き出してきた熱だけが、いつまでもべったりと残っている気がした。

夕方、管理所を閉める頃になっても、真子はもう一度玄関まで来て頭を下げていった。エントランスの明るい照明の下では、彼女の頬に残った赤みはむしろ薄化粧のように見え、昼間とは別の、しっとりとした色香があった。彼女は何度も「本当に、今日は」と言いかけては、声を途切れさせていた。洋三は「お気をつけて」と短く見送った。

自転車のペダルを漕ぎながら、夕闇の迫る住宅街を抜ける。六月の生暖かい風が、襟元から背中を撫でていく。洋三の鼻の奥には、まだ真子の残した白檀の微香がまとわりついていた。便器の水が詰まりを越えて流れ去ったあの音と、彼女の赤らんだ顔が、何度も頭の中で明滅する。風が吹くたび、自分の指先から、あの便器の水と彼女の汗が交じったような匂いが微かに立ちのぼる気がして、洋三はハンドルを握る手を強くした。

洋三はペダルを踏む足に一瞬だけ力を込めた。彼の人生が六十五年間、こんな胸のざわめきから遠ざかってきたことを、今さら思い知るようだった。顔の前を小さな黒い虫が一匹横切り、街灯の光の中へ消えていった。昼間のあの女の顔が、闇のなかにぽつんと浮かんでは、また消える。彼女の顔を思い出すたびに、胸の奥の種火が息を吹き返すようで、洋三はもう一度だけ、力なくペダルを踏み込んだ。

假屋崎真子は帰宅すると、リビングの白い棚の前に立った。いくつもの遺影が、薄暗い部屋の中で静かに並んでいる。真子はその一番手前の遺影の前で、深く息をついた。胸の前で握り締めたバッグの口から、管理所で見た名簿の端がわずかに覗いていた。彼女はまだ、自分の指先から消えない便所の匂いの残りを、白檀の香りで消してしまおうとするように、両手を胸元で擦り合わせた。けれど、洗面所の湿った空気とあの臭いと、管理人に見られた頬の火照りだけが、遺影のならぶ薄闇のなかで、恥ずかしいくらいに生々しく残っていた。

第2章 薄着の部屋着と遺影の前の指

第2章のシーン

# 第2章: 薄着の部屋着と遺影の前の指

四日ぶりに受話器から聞こえた假屋崎真子の声は、管理所の蛍光灯の下で聞くにはあまりにも柔らかく、洋三は思わず窓の外へ目をやった。六月半ばの土曜日、閉め切った窓の向こうでは夕立の名残がアスファルトを黒く濡らしていて、その湿った空気ごと受話器の向こうへ吸い込まれていくような心持ちがした。

「お礼を、させてください」

真子はそう言った。先日の詰まりの件を、まだ気にしているらしい。洋三は「いや、あの、私なんかが」と尻込みする声を絞り出したが、真子は「自宅で、簡単な料理ですから」とやんわり、しかし有無を言わせぬ調子で続けた。断る理由が見つからなかった。いや、見つからないふりをした。受話器を置いたあとも、耳の奥に彼女の声が薄い膜のように残っていて、洋三は何度も首を振った。

指定されたのは、管理する高級賃貸マンションから徒歩で十分ほどの、さらに高い塔のような住居棟だった。エレベーターの鏡に映る自分の姿に、色褪せたポロシャツの襟元がやけにみすぼらしく見えて、洋三は無意識に襟を正した。最上階で止まった箱から一歩踏み出すと、廊下の空気はひんやりと静かで、足音だけが異物のように響いた。

インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。

「いらっしゃい、沼田さん」

真子は、生成りの薄手の部屋着に、リネンのワイドパンツという姿だった。黒に近い焦げ茶のゆるく波打つ髪が肩のあたりで揺れて、琥珀色の瞳が廊下の照明を吸い込んでいた。首元から鎖骨にかけての肌が薄い布の間から覗いていて、その滑らかな白さに洋三は一瞬、言葉を失った。管理所で会うときの、きちんと糊の効いたブラウス姿とはまるで別人のようで、けれども白檀系の香水の香りだけは同じようにふわりとこちらへ流れてきた。

「どうぞ、上がってください。散らかってますけど」

「お、お邪魔します」

玄関を入ると、空気が変わった。甘い花の匂いと、出汁の匂い。それから、かすかな汗の匂い。その混じり合いが、生活の匂いとして洋三の鼻腔をくすぐった。廊下を抜けて通されたリビングは、天井が高く、窓の外には暮れかけた空が広がっていた。

その部屋の壁際の棚に、並んでいた。

遺影だった。いくつもの額縁が、同じ男の顔を違う角度から切り取っていた。ガラス面が、まだ明るい西の空の光を鈍く反射して、その中の男の目元に影を作っている。洋三の足が止まった。

「夫が、写真を撮るのが好きな人で」

後ろから真子が言った。小さな笑いを含んだ声だった。

「どの部屋に行っても、似たような写真ばかりでしょ。夫が撮ったものじゃなくて、私が撮ったものばかりだから、余計に似るのよ」

真子はそう言って、棚の前まで来ると、いちばん大きな額縁の位置を指先でそっと直した。その横顔を、洋三は盗み見た。伏せられた睫毛の影が頬に落ちて、唇の端に浮かんだ微笑みが、悲しみとも慈しみともつかない輪郭を描いていた。

「夫は写真が趣味で、私は料理が趣味みたいなもので。今日は、その料理を振る舞いたいの。大したものじゃないけれど」

「とんでもない。こちらこそ、突然お邪魔して……」

「いいのよ。私が呼んだんですから」

ダイニングテーブルに並んだ料理は、確かに簡単そうに見える一品料理。冷やした茶碗蒸し、焼き茄子の煮浸し、新生姜の甘酢漬け、それから土鍋で炊いた白米。しかし、どれも手が込んでいて、けれども肩肘を張らない家庭の味で、洋三はひとくち食べるたびに、ここが自分とは違う世界の食卓なのだと思い知らされた。

「美味しいです」

「よかった。安心しました」

真子はにこりと笑って、ビールを注いでくれた。グラスに琥珀色の液体が波打ち、細かな泡が縁からこぼれそうになって消える。彼女が身を乗り出すたびに、部屋着の襟元が開いて、その奥の柔らかな膨らみの影がちらりと覗いた。薄い布は豊満な胸元の輪郭をあらわにしていて、布越しに汗ばんだ肌の温度が伝わってくるようだった。

洋三は慌てて視線を下げた。しかし、下げた先の自分の膝の上で、スラックスの布が不自然に持ち上がっていることに気づいて、今度は視線を逃がす場所を失った。

セーターの裾の下で、それはすでに硬く形を変えていた。膝の上に置いた手のひらごと、その熱が伝わってくるような気さえした。洋三は膝を揃えて座り直したが、布地の折り目が余計にその膨らみを強調しているようで、顔から血の気が引く思いだった。

真子の琥珀色の瞳が、一瞬、そこへ落ちた。

ほんの一瞬だった。けれども、その視線が自分の下半身に触れたことを、洋三ははっきりと感じた。彼女は何も言わず、グラスを口に運んで、喉を鳴らして飲み込んだ。その白い喉が上下するのを、洋三は見た。

「洋三さん」

真子がグラスを置いて言った。

「ちょっと頼みたいのですが、スーツケース、クローゼットから取り出してくださるかしら?」

「え、あ、はい」

洋三が立ち上がると、真子は先に立って廊下を歩き始めた。ワイドパンツの裾がふわりと揺れる。彼女はリビングの端の扉を開けて、洋三を招いた。

「寝室のクローゼットの上なんです。力が要って」

寝室は暗かった。カーテンの隙間から細い光が差して、ベッドの白いシーツを青白く浮かび上がらせていた。真子がクローゼットの上の、黒い革張りのスーツケースを指さした。洋三は爪先立ちになってそれを下ろし、彼女が示す場所へ運んだ。

「助かりました。ありがとう」

真子の声が近かった。汗の匂いに混じって、香水の奥から甘酸っぱいような、女の肌の匂いが立ちのぼっている。暗い部屋の中で、その匂いだけがはっきりと輪郭を持っているようだった。

リビングへ戻ると、空気が違っていた。窓の外はすっかり暮れて、室内の照明が強くなっている。遺影のガラス面が、さっきとは違う角度で光を反射していた。

「洋三さん」

真子が振り返って、ソファの脇に立っていた。部屋着の薄い布が、蛍光灯の光を透かして、腰のあたりの曲線をほの暗く浮かばせている。

「あのね、私、夫に似た人に触られるの、久しぶりで」

その声が、囁きと呼ぶには少しだけ大きかった。空気を震わせて、洋三の耳に届く。彼女は一歩、洋三の方へ歩み寄ってきた。素足だった。白い足の裏が、フローリングに吸い付いて離れる音が、やけにはっきりと聞こえた。

「だから、その……少しだけ、触ってみてもいいかしら。洋三さんのこと」

洋三は何も言えなかった。真子の手が伸びてきて、洋三の手首を掴んだ。指先は冷たくて、けれども掌は熱かった。その逆の感覚が、洋三の腕の内側を駆け上がって、胸の奥を掴んだ。

真子は洋三の手を、自分の胸元へと引き寄せた。薄い部屋着の布越しに、柔らかな膨らみが掌に触れる。指を開くことも握ることもできず、洋三の手は彼女の左の胸の上で、浅く呼吸するたびに上下するその温かさを、ただ受け止めていた。

「……ぁ」

真子の喉の奥から、息が漏れた。彼女は洋三の手の甲に、自分の掌を重ねて、指先を布の上からゆっくりと沈み込ませるように押し付けた。その途端、硬いものに触れる。乳首だった。布越しでもわかるほど、それは硬く尖っていて、洋三の指先を押し返してくるようだった。

「触って。遠慮しなくていいの」

真子の声は、かすれていた。彼女は腰を引き、ソファの背凭れにもたれるようにして、胸だけを洋三に向かって差し出している。首筋の汗が、照明を反射して光った。

洋三の指が、布の上から乳首をそっとなぞる。くっきりと浮いた突起のまわりを、円を描くように指の腹で撫でると、真子は「う、ん……」と息を詰めて、ソファの背を掴んだ。その指が白くなるほど、力を込めて。

「洋三さん……もっと、強く、しても、いいのよ」

洋三は指先を下着の縁へと這わせた。部屋着の裾から手を入れると、汗ばんだ下着の脇に指が滑り込む。肌はしっとりと濡れていて、胸の下の骨のあたりから熱い湯気が立ちのぼってくるようだった。彼が下着の内側で素肌の乳首を摘み上げると、真子の背中がびくりと跳ねた。

「ゃあっ……」

甲高い、けれどもか細い声が漏れた。彼女の両膝が揺れて、ワイドパンツの布がへこむ。洋三は胸から手を離せずに、もう片方の手で彼女の腰を支えた。

「だめ、だめなの……」

真子が首を振った。涙の色が瞳に滲んで、遺影のガラス面に映る二人の影のように、彼女の感情もまたあやふやに揺れていた。洋三は指で乳首と乳輪をゆっくりと捏ねながら、手のひら全体で彼女の乳房を包み込んだ。掌に余るほどの重みが、指の隙間からこぼれそうになって、その柔らかさが洋三の喉の奥を熱くした。

「洋三さん、そこ、だめ、だめなのに……っ」

彼女の腰がくの字に折れる。洋三は下着の中の指を、彼女の胸から下へ、へその窪みを通って、もっと下へと滑らせた。腹の肌が汗で滑って、指先が下着のゴムに引っかかる。

「やッ……」

真子が身をよじった。けれども、それは拒絶というより、追いかけてくる指から逃れようとする、もどかしい体の動きだった。彼女の手が洋三の手首を掴んだけれど、力は入っていない。むしろ、どこにやればいいのか分からない指のように、彼女の指先は洋三の腕をさ迷った。

下着の中は、熱かった。洋三は指を、細くて柔らかな窪みへと進ませた。二本の指が湿った襞に挟まれると、真子は「はぁっ、あ、あぁ……」と、息を細切れに吐き出した。内側から溢れてくる粘り気のある液体が、指の腹に絡みつく。くちゅ、という水音が、二人の息の下から立ち上がった。

そこは火事の後のように熱く、洪水の後のように濡れていた。

洋三の指が入り口のあたりをゆっくりと往復すると、真子の爪先がフローリングを蹴った。片足が浮き上がり、ソファの縁に踵が当たって、くぐもった音を立てる。

「あ、あ、あ、洋三さん、洋三さん……」

真子の声が、言葉としてではなく、洋三という音そのものとして、部屋の空気に溶けていった。彼女の白い首が反り返り、部屋着の襟元から鎖骨と、その下の胸の谷間までが露わになる。そこを汗が一筋、流れ落ちていった。

洋三の指が、いちばん敏感な膨らみのてっぺんをそっと擦り上げた。

「────っ!」

真子の口が大きく開いた。声にならない息だけが、喉の奥から突き上げてきて、ソファの背に叩きつけられる。彼女の体が、内側から弾けたように数度、細かく跳ねた。

指の中で、膣が痙攣する。熱い粘膜が指を締め付け、奥のほうから熱い塊が溢れてきた。それが洋三の手のひらを汚していく。

「ぁ……ぁ……」

真子はしばらく、天井を見上げたまま動かなかった。胸が浅く早い呼吸で上下し、下着の中に差し込まれた洋三の手を、両脚でぎゅうと挟んでいる。汗の匂いが、花のような香水の残り香と混ざって、部屋いっぱいに満ちていた。

ゆっくりと、真子の力が抜けた。彼女は洋三の手首を解放して、するりと身体を起こすと、涙の膜を張った瞳で洋三を見上げた。

「……ごめんなさい。私、はしたないこと……」

その声は、かすれきっていて、けれども妙にはっきりと洋三の耳に届いた。真子は泣いているわけでもなく、呆けているわけでもなく、ただ自分の体に起きたことを確かめるように、洋三の顔を見つめていた。

彼女の手が、洋三の膝の上に置かれた。さっきまで洋三の膨らみがあった場所の、すぐ横。

「洋三さんも、興奮してるのね」

真子が言った。視線は、洋三のスラックスのあたりに落ちていた。

洋三は答えられなかった。股間の熱は、まだ一度も外へ出されないまま、布の中で脈を打っている。それが真子に見られている。先ほどまで彼女の体の奥に指を入れていた男の証として、見られている。

「私だけが、気持ちよくなるのは、不公平だから」

真子の指が、スラックスの上に触れた。硬く盛り上がった布の形を、手のひらで確かめるように、ゆっくりと撫でる。

「まあ……」

彼女の唇から、感嘆の声が漏れた。

「大きいのね。びっくりした」

真子の手が、膨らみの輪郭を確かめるように、何度も往復した。洋三は目を閉じて、鼻から深い息を吐いた。彼女の手のひらの熱が、布越しに押し返してくる。

壁際の棚では、遺影の男たちが、ガラス面を鈍く光らせて、二人を見つめていた。

「洋三さん」

真子が、耳元で囁くように言った。

「今日は、ここまでにしておくわ。これ以上は、私、おかしくなりそうだから」

彼女の手が離れた。洋三の体から、彼女の温度が引いていく。けれども、股間の熱だけは残り続けていた。

真子は立ち上がり、窓のほうへ歩いていった。外はすっかり夜になっていて、街の灯りが彼女の横顔を縁取っている。部屋着の背中が、汗で薄く貼りついていた。

「お料理、冷めちゃったわね。温め直すから、もうちょっと食べていって」

その声は、もう普段の真子に戻っていた。洋三は乱れた呼吸を整えられないまま、ズボンの中でまだ硬く反り返っている自分の身体を、テーブルの下に隠すようにして座り直した。

帰り際、玄関まで見送りに来た真子が、洋三の手のひらに何かを握らせた。

「今日のお礼の、ほんの気持ちだから」

見下ろすと、封筒だった。中は確かめなかった。厚みだけが、指の腹に残った。

「あの、オーナーさん、こんなの受け取れません」

「受け取って。洋三さんが来てくれて、嬉しかったの、本当に」

真子は上目遣いに笑った。汗の引いた首筋が、白く光っていた。

エレベーターに乗って、一階まで降りる間、洋三は右手の指先を何度も嗅いだ。洗ってしまえば消えてしまうのが、惜しいような、もったいないような、妙な気分だった。

外に出ると、雨上がりの生温い風が吹いていた。自転車には乗らずに、少し歩いてから帰ろうと思った。歩きながら、さっきの光景が体の中を反芻して、スラックスの前の中心が、まだ疼くように熱かった。

薄壁のアパートへ帰り着いて、ポケットの中の封筒を開けると、一万円札が二枚、折り目のないまま入っていた。それから、小さな便箋が一枚。

「来週、またお会いしたいです」

その文字だけが、几帳面な真子の筆跡で書かれていた。

洋三は洗面所へ行き、両手を洗った。右手の指先に残った彼女の匂いは、石鹸の泡と一緒に流れていった。けれども、顔を上げた鏡の中の男の眼は、いつもの自分ではなくなっていた。

六月半ばの夜、空気は生温かくて、薄い壁の向こうからは今日も、隣人の営みの音が、かすかに聞こえてきた。

第3章 特別任務の浣腸と下痢便

第3章のシーン

# 第3章: 特別任務の浣腸と下痢便

六月下旬の木曜日、午後七時をまわったころ、洋三は管理所の窓から差し込む夕日が机の端を橙色に染めるのを眺めながら、業務日誌の最後の行を閉じた。シャッターを下ろす前に、見回りを一巡してこようと腰を浮かせたそのとき、入り口のガラス戸を控えめに叩く音がして、彼の手が止まった。カギの束を握り直した指に力が入る。この時間に来る者は限られている。振り返らずとも、その白檀の香りがドアの隙間から先に滑り込んできて、洋三の鼻腔の奥をくすぐった。

「洋三さん、少し、お話が」

假屋崎真子の声は、薄いベール越しに聞こえるように柔らかく、けれどもその瞳の琥珀色はいつもより深く沈んでいた。彼女は黒に近い焦げ茶の髪を片側に流し、薄いアイボリーのブラウスの襟元から細い鎖骨を覗かせている。下には濃紺のフレアスカート、足元はベージュのパンプス。よそ行きの姿のまま、彼女は入り口の敷居を跨がずに立っていた。洋三は背筋を伸ばした。

「どうぞ、お入りください」

だが、真子は首を横に振った。指先でバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、まるでこれから告げる言葉の重みを確かめるように、視線を落とす。

「ここで、十分です。人に聞かれたら、困る話ですので」

洋三は出入り口のガラスに背を向けて、彼女の影が落ちる灰色の床を見た。外では、駅に向かう人々の足音が途切れ途切れに聞こえていた。真子は一呼吸おいて、唇をわずかに湿らせた。

「私、万年便秘に悩んでまして…」

その第一声は、洋三の耳にまろく滑り込んできた。風に乗った薄羽虫の羽音のように、最初は意味を持たない音だった。けれども、続く言葉がその羽音に形を与えていく。

「便通を促す漢方薬を飲んでいるんです。それで、先日のような、急に便意が来て恥ずかしいことに……」

あの日、管理所のトイレで彼女が流せなかったもの。ラバーカップを持つ洋三の背に、彼女が向けていた染まった頬。その光景が、透明な黙とうのように二人の間を横切った。真子はそこで一度、唇を噛み、それから努めて明るく笑おうとした。笑いきれずに、唇の端がわずかに震えただけだった。

「そこで、外出時にああならないように、浣腸で、便が出せたらと……」

真子の右手が、バッグの口を開け、中をまさぐる。取り出したのは、薬局の白い紙袋だった。ずしりとした、液体の入った小さな箱が浮かび上がる。洋三は、その紙袋を彼女が両手で差し出すのを、夢の中の出来事のように見つめていた。夕日に照らされた紙袋の白さが、管理所の薄暗い空気の中でまばゆく、あらぬものに見えた。

「もう、こんなことを話せるのは、洋三さんしかいないんです」

彼女の声が、初めて裏返った。金属の台に置いた洋三の指先が、ひとりでに開いた。受け取れ、と脳が命令する。いや、受け取ってはいけない、ともう一人の自分が呟く。ガラス戸の向こうでは、自転車のベルが二度、短く鳴った。

「お願いです。浣腸のお手伝いしてもらえますか?」

洋三は黙っていた。言葉が出なかったのではない。出せなかったのだ。出してしまえば、何かが始まってしまう。彼の体はもう、その何かが欲しくて、手のひらに汗を滲ませていた。真子の白い喉がこくりと動いて、洋三の沈黙を飲み込んでいく。

「お、お金は払います。私のお家の管理人という職務で、少なくとも週1回」

彼女は紙袋を、洋三の手のひらに押し当てるようにして渡した。冷たい箱の角が、彼の指の付け根に食い込んだ。残業代、いや、それ以上の意味を持つ重さだった。洋三の喉が、かすれた音を立てた。

「オーナーさん、それは……」

「生活のため、と割り切ってくださって構いませんのよ」

真子の微笑みは、夕暮れの光を受けて、ひどく整っていた。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、秘めていたものを明かした後特有の、ひらけた表情があった。彼女のブラウスの胸元で、薄い布がふるりと揺れて、白い素肌の匂いが洋三の記憶の奥に焼きつく。

「洋三さん、週末、お時間ありますか。土曜の午後、お宅へ伺ってもいいですか」

「いや、私の方こそ、お伺いします。浣腸は、あちらの方が……」

言いかけて、洋三は口を閉じた。真子の目が、ふっと細くなった。

「ええ、そうしてくださる? 私、一人でするのが怖くて」

彼女はそこで、すでに次の約束を決めてしまった。土曜の午後二時。管理所の壁掛け時計が、長針をわずかに進めた。

—

土曜日。約束の時間の二十分前、洋三は自分が管理する高級マンションのエントランスホールへ入っていった。前回来たときと同じく、最上階へ上がるエレベーターの鏡に、くたびれたポロシャツの男が映っている。手には草履のような黒い靴。いや、足元を見やると、彼は爪先の汚れを気にして、何度も靴の先をこすった。ロビーの大理石が、外の日差しを鈍く反射していた。

インターホンを押すと、すぐに扉が内側から開いた。

「いらっしゃい」

真子の声は、どこか上ずっていた。彼女は薄い生成りの部屋着をまとい、その下には何も身につけていないらしく、胸元の膨らみが布を押し上げていた。汗ばんだ額に、焦げ茶の巻き毛が一房張りついている。部屋からは、ほのかに苔と生薬の混じったような、ひんやりとした匂いが漂ってきた。それが漢方薬の匂いだと、洋三はあとになって気づくことになる。

「お邪魔します」

靴を脱いで上がると、真子は先に立って廊下を歩いた。足の裏がフローリングに触れるたび、ぺたぺたと湿った音がする。彼女は浴室の前で立ち止まり、振り返った。

「先に、ここで全部お願いしてもいいかしら。それから、お茶でも飲みながら……」

洋三の目が、彼女の手元を追った。彼女が指さしたのは、狭い脱衣所の向こうの、水色のタイルで囲まれた浴室だった。便器と洗面台、それから折りたたみ式の椅子が一脚置かれている。

「道具は、洗面台の下に揃えてありますの」

真子はそう言うと、すっと体を横へずらして、洋三が中へ入るのを待った。肩が触れるほどの距離で、彼女の首筋から汗と粉っぽい生薬の匂いが立ちのぼって、洋三の胸の奥を揺さぶった。

浴室の空気は、水垢とカビ止め剤の匂いがうっすらと重なっていた。脱衣所との境に掛けられた白いカーテンが、エアコンの風にふわりと揺れている。洋三は持参した紙袋を開け、箱から一本のイチジク浣腸を取り出した。緑と赤のパッケージに包まれた、あの独特な形。キャップを外さずに手のひらで転がすと、容器の先端がひんやりと冷たく、掌の肉に当たった。

その冷たさを、洋三はゆっくりと確かめる。まるで、これから始まることへの予告のように。

「オーナーさん、準備できました」

声をかけると、扉の向こうから、ひときわ深い呼吸が聞こえた。しばらくして、真子が入ってきた。彼女は、脱衣所で着ていた部屋着を一枚脱いで、白いガーゼのネグリジェ一枚になっていた。薄い布は汗で透けて、下着をつけていない乳首の形を隠しきれずに、その先端を胸元に浮かべていた。

「こちらに、座ってください」

洋三が折りたたみの椅子を便座の横に置いて、彼女を促した。真子はゆっくりと便座に腰を下ろす。ネグリジェの裾が持ち上がり、剥き出しになった太ももが、冷たい便座の縁に触れて、彼女は小さく身をすくめた。

「では、キャップを外します」

「……ええ、お願い」

洋三の指が、浣腸容器の先端からキャップをひねり取る。ぷつ、という微かな音とともに、透明な液体の甘いような匂いが立ちのぼった。イチジク浣腸特有の、あまいような、けれどもケミカルな匂い。それを嗅いだ瞬間、真子の足の指が、タイルの上で丸まるのが見えた。

「膝を、もっと開いてください」

洋三は彼女の前に片膝をつき、目線を彼女の太もものあたりへ合わせた。真子の両足が、ためらいがちに左右へ割れていく。太ももの内側が白く光り、ガーゼのネグリジェの影が、その奥に濃く落ちていた。

彼女の秘部は、淡い陰毛に縁取られて、暑さで蒸れた肌の匂いを放っていた。閉じた陰唇の先端から、ほんの少しだけ蜜が滲んで、浴室の水銀灯を反射していた。洋三は浣腸の先端に、ゼリー状の潤滑剤を薄く塗ると、左手で彼女の左の臀を軽く開いた。

「……入れますよ」

「う、うん、お願い……」

洋三の右手が、浣腸の先端を彼女の肛門へ運ぶ。薄い産毛の生えた窄まりに、冷たい樹脂の感触が触れる。真子が、短く息を吐いた。

「少し、力を抜いてくださいね」

「ん……こう、かしら……」

彼女の括約筋が、ゆるゆると緩んでいくのが、容器を持つ洋三の指先に伝わった。先端が、ぬちゅ、という音を立てて窄まりの奥へ沈み始める。真子の腹が、期待と緊張で細かく震えていた。容器をゆっくりと押し込むと、彼女の口から、子犬のような鳴き声が漏れる。

「もう少し、奥まで入りますよ」

「や、ぁ……」

先端がほとんど埋まると、真子の背中が弓なりに反り、蛇口から落ちる水滴の音がやけにはっきりと響いた。洋三の親指が、容器の底を静かに押し上げる。むにゅむにゅ、と液体が彼女の直腸へ流れ込んでいく。くちゅ、ぐちゅ、という肉襞の鳴る音が、壁に反響した。

「ぁ……、液が、いっぱい、入ってくる……」

真子は両手で便座のふちを掴み、首をうなだれた。汗でまずるくなった後れ毛が、頬にへばりついている。注入が終わると、洋三はゆっくりと容器を引き抜いた。彼女の肛門が、名残を惜しむように、くぱ、と窄まり、ひくひくと収縮するのが見えた。

「少し、お腹の中に我慢してください。効いてくるまで」

真子は、腿をぴたりと閉じ、両腕で下腹部を押さえていた。

「……うん、がんばる、けれど……もう、きてるかもしれない」

「まだ、出しちゃいけませんよ。腸が、びっくりしますから」

洋三は立ち上がり、洗面台の手を洗った。水音を聞きながら、彼は鏡越しに真子の姿を見る。彼女はぎゅっと目をつむり、白い唾を唇の端に滲ませている。ぐう、と腹が鳴る音が、浴室いっぱいに広がった。

「オーナーさん、大丈夫ですか」

「ええ……まだ、我慢してる……」

その声は、吐息と一緒に震えていた。太ももの間から、じゅわ、と湿った音が聞こえる。肛門は閉じているのに、その周囲の汗と、浣腸液が逆流しようとしているのか、彼女の腿に液体が一筋伝った。

「あ、ぁ、もう、だめかも……お腹が、きゅうって……」

真子の肩が、大きく上下した。全身が、見えない波に揺さぶられるように細かく震えて、腰が便座の上で浮き上がる。

「洋三さん、ごめんなさい、もう、出ちゃう……っ」

その瞬間、彼女は勝手に腰を浮かし、両手を後ろへついて、肛門を便器の上へ差し出した。窄まりが、ひくん、と大きく開いて、びゅる、と黄色く濁った水が噴き出した。ぶりぶりぶり、という腹に響く排泄音が、陶器の便器に反響して、洋三の鼓膜を殴った。

「あ──ぁ……出ます、まだ出ます……」

真子は泣きながら、下痢便を惜しみなく垂れ流した。ぴちゃぴちゃ、という水音と、くぐもった空気の抜ける音。異臭が、甘い浣腸液の香りと混ざり合って瞬く間に浴室を満たした。湯気のようにもわりと立ちこめる、匂い。洋三は一瞬、目を閉じた。鼻から吸い込んだそれが、脳の奥へ届いて、彼の下半身をどろりと溶かした。

「汚い……汚いの、わかってるの……」

真子は肩をさめざめと震わせながら、顔を背けた。便座のふちを掴む指が、白くなるほど力んでいた。下痢はまだ止まらず、彼女の窄まりから、緩い便がとろりと溢れて、白い便器の内側に黄色い筋を描いた。

「お願い、洋三さん、罵って。私を、汚いって、言って……っ」

「……オーナーさん」

「違う……今は、真子、って呼んで……」

彼女が、あえぐように言った。尻を便座の縁に押し当て、まだ便の絡まった肛門を、洋三の方へ突き出していた。

「真子さん」

洋三の声は、自分のものではないように低く、かすれていた。

「真子さん。あなたは、汚い。それでも、見せないと、出ない体なんですね」

「……ぁ、あぁ……ん、ん……」

真子の肛門が、うねうねと蠢き、快感とも羞恥ともつかない声が漏れた。彼女は床に片手を落とし、四つん這いになりかけると、背を反らせて、桃のような白い双臀を高く突きあげた。

「もっと、見て……洋三さん、ちゃんと、見てて……真子が、下痢便するところ……そうしないと、出ないの……」

洋三は片膝をつき、真子の後ろに回ると、右手を彼女の双臀へ伸ばした。掌で臀の谷間を覆うと、そこは汗と浣腸液と便の匂いが煮こごりのように濃くこびりついていた。ぬる、とした感触が指の腹に絡む。人差し指と中指で、彼女の窄まりを広げるように押し開くと、中から黄色い泡が立った。

「あぁ、そこ、ひくひくして……恥ずかしいのに……気持ち、いい……っ」

洋三の二本の指が、彼女の肛門へゆっくりと沈み込んでいった。中は溶けるように熱く、まだ軟らかい便が粘膜に絡みついていた。それをかき回すように指を曲げると、くちゅ、にゅぷ、と下品な水音がした。真子は床に頭をこすりつけ、喉の奥からぎりぎりと、搾り出すような声を漏らす。

「あァ、そこ、そこぉ……もっと、ほじって……あ、ああっ」

洋三は指を、奥へ向かって押しこみ、手前へ引いた。彼女が救いを求めたのと同じだけ、残虐に、ゆっくりと。指の第二関節までが、ねっとりと包み込まれて、内壁が痙攣するのが分かった。こり、とした硬い場所に触れると、真子の腰が跳ねた。

そこが、ひときわ敏感なのだと、洋三は知っていた。初めて手に入れた、一番奥の部屋の合鍵。

「んひ、い゛、や、だめ、そこ、さわっちゃ……」

彼女は逃れようと体をよじった。けれども、洋三の指は濡れた肉筒の奥を丁寧に捏ね、擦り上げる。逃げようとするほど、力が入って、内側が指をぎゅうぎゅうと締め付けた。それがまた、洋三の指をきつく抱きしめて、引きずり込むのだ。

「あう、いっちゃう……オマンコ、いっちゃうぅ……!」

真子の声が最も高く跳ね上がり、彼女の産毛に覆われた陰唇の先から、透明な液体がぷしゃ、と噴き出した。潮だった。尿器とは違う、匂いの薄い、どろりとした汁が。便器の外へ飛び散って、タイルの上に銀の星を作った。真子は爪を立てて、肩をがくがくと揺らした。

「まだ終わらない。腰、もっと上げて」

洋三の言葉に、真子はこくりと頷き、両膝を一段と広げて、肛門を天井へ向けて突き出した。もう恥ずかしいとも、汚いとも言わなかった。彼女の尻たぶを、洋三は左手で割り開き、右手の中指と人差し指を抜き差しする。ぴちゃ、ぐちち、と饐えた音。肛門の縁が、肉の赤い内側をちらつかせて、彼の指に吸い付いた。

「はあっ、ごめ、なさ、い、洋三さん、あたま、おかしく、なる……」

「いいですよ、おかしくなっても。ここで、全部出して」

「出して……出す……まだ、お腹、くる、から、ね……」

彼女の腹がまた、みるみる膨らんで動いた。洋三は指を引き抜くと、かわりに手のひらで下腹部を押した。

「ひうっ……! それ、やだ、押さないで……」

「出るんでしょう。我慢しなくていいから」

「い、いやぁ、出る出る出る……、ああ、あああ……」

真子の腰がびくんびくんと跳ね、肛門がひっくり返るように開いた。ぶりゅ、ぶりり、と再び塊の混じった水便が爆発する。洋三の手首にまで、それは跳ねかかった。白かったネグリジェの背中に、黄色い飛沫が散る。真子は泣きながら、何度も、何度も、内臓の底から絞り出すように下痢をした。その様は、はしたなく、美しかった。

「顔、こっちへ向けて」

洋三はそう言うと、彼女の顎を指先で上向けた。涙で化粧が崩れ、鼻水まじりの涎が、赤い唇から糸を引いていた。それでも、その琥珀色の瞳は輝いていた。底なしの、歓びの色だけを湛えて。

「洋三さんの、大きいの……あれ、まだ入れたことあれ、あれを……」

真子が、洋三の下半身へ手を伸ばしてきた。制服の生地の上から、反り返った陰茎の形を、指の腹でなぞる。それは、布を押し破ってしまいそうなほど、かたく、そそり立っていた。ビニール越しの熱が、彼女の手のひらに滲む。

「次は、これ、いれたい……おなかの、奥まで……ぜんぶ……」

洋三は返事の代わりに、彼女の腰を抱いて、体を密着させた。胸ポケットのあたりを、彼女の熱く湿った素肌が濡らした。二人の間で、じゃぶり、と下腹部が触れ合う音がする。汚泥のような匂いが、こびりついて離れない。

「来週も、呼んで。同じ時間に、また、ここで」

お互いの汗と呼気が、耳元でさらさらと混ざり合った。

—

洋三がアパートに戻ったのは、午後七時を過ぎていた。近所の窓からは、夕餉の支度をする油の匂いが流れてきていた。彼は部屋へ入ると靴を脱ぎ、靴下のまま畳に座り込んだ。右手の指を、鼻の先へ近づける。

まだ、匂いがした。

石鹸ではない、脱水機を通した洗濯物のような匂い。酸いような、苦いような、弱いが確かな、人間の、女の、汚れの匂い。何度も洗ったはずの指の股に、それは染みついていた。彼は、何度も、指先を嗅いだ。嗅いで、深く吸い込んで、肺の奥まであの浴室の空気を運んだ。

薄い壁の向こうでは、今夜にかぎって、隣人の夫婦が静かだった。テレビの音と、水の流れる音。それだけが、異国の言葉のように聞こえていた。

洋三は、ポケットから封筒を出した。今度は、一万円札が三枚入っていた。真子は「また、来週」と微笑んで、エレベーターの前から見送った。彼は封筒を、古い旅行カバンの内ポケットへしまった。そこには、年金通帳も一緒くたに押し込んである。

「……」

すべてが、終わった。いや、始まった。

彼は、薄い座布団に片頬をつけて、身体を横たえた。体が、言いようのない倦怠感に沈んでいく。しびれたように、まぶたが重い。口の中に、少しだけ胃液の味が延べた。けれど、指先の匂いだけが、いつまでも鼻腔の奥で、熱を持った塊のように存在していた。

来週も、あの浴室で、あのイチジク浣腸の冷たい先端を、彼女の窄まりへ押し込む。

勝手に、体が疼いた。

—

假屋崎家のリビングでは、真子が、壁際の遺影の前に立っていた。

浴衣のような部屋着に着替え、髪を一つに結い直した彼女は、黙って夫たちの写真を見上げていた。どの写真の夫も、笑っていた。真子は、その笑みを確認するように、一枚ずつ指先で額縁の桟をなぞる。それから、手のひらを胸の前で開き、自分を抱きしめるようにして、そっと息を吐いた。

「……ごめんなさい」

声は静かだった。けれど、明瞭だった。彼女はしばらくそうして、立っていた。それから、リビングのサイドボードの引き出しを、そろりと開けた。

奥から取り出したのは、漢方薬の小瓶だった。

真子はその瓶を、両手で包み込むように握りしめた。白い小瓶は、彼女の手の中で息をひそめ、乾いた音を立てた。そして、彼女はそれを、一番奥の引き出しの、更に奥、タオル類の下へ隠した。

引き出しを閉じる。パチン、と小さな音がして、全部なかったことになる。

その一部始終を、洋三は浴室の窓越しに、見ていたわけではない。けれど、彼は、知っていた。知ってしまう、ほど近くに、彼は居た。

—

洋三が夜更けに目を覚ましたのは、細かな雨音のせいだった。薄壁の向こうで、しみったれた音がして、排水管を流れる水。彼は、布団の中で、指先を嗅いだ。

まだ、ほんの微かに、匂いが残っていた。

雨が、窓ガラスを打ち、しばらくすると、それは次第に強くなった。

第4章 肛門に沈む太い熱

第4章のシーン

七月上旬の土曜日、午後八時をいくらか回った頃、假屋崎家の浴室からリビングへ抜ける空気は、まだ生ぬるい湯気と甘酸っぱい浣腸液の匂いを引きずっていた。二度目の浣腸の処理が終わり、真子は白いタオルを腰に巻いただけの姿で、素足のままフローリングを歩いていく。その足裏が床に触れるたび、ぺたり、ぺたり、と湿った音がして、後に続く洋三の耳に、彼女の存在を余計に大きく響かせた。

リビングの照明は、前回よりもいくぶん落としてあった。壁際の棚に並ぶ遺影のガラス面が、その光を受けて鈍く反射し、中の男たちの表情を白い膜のように浮かび上がらせている。洋三は無意識に足を止め、その光から目を逸らすように、真子の背中へ視線を移した。腰に巻いたタオルの上からでもわかる、柔らかく肉のついた腰の曲線。背中の真ん中を、汗の筋が一本、うなじから尾てい骨へ向かって流れ落ちていた。

「洋三さん」

真子はソファの前で立ち止まり、振り返らずに言った。声は浴室にいたときよりもいくぶん落ち着いていて、けれどもどこか、生乾きの布のようなざらつきがあった。彼女は右手を首の後ろへ回し、汗で張りついた焦げ茶の髪をひとまとめに持ち上げる。露わになったうなじが、照明の下でてらてらと光った。

「次は、浣腸だけじゃ、足りないの」

その一言が、しんと静まったリビングの空気に染み込んでいく。洋三は喉の奥がきゅうと窄まるのを感じた。わかっていた。来週も、ではなく、今日、この続きがあるのではないかと、あの浴室で彼女の肛門を指で開いた瞬間から、体のどこかで予感していたのだ。

「オーナーさん……」

「真子」

彼女が言い直させた。声には笑みが混じっていた。振り返った彼女の琥珀色の瞳が、照明を吸い込んで、濡れたように輝いている。唇は薄く開いていて、その端から白い歯が覗いた。

「今は、真子って呼んで。お願いだから」

そう言って、真子はソファの背もたれに腰を下ろすようにして、洋三の方を振り返った。濡れたままの髪が肩に張りつき、白いタオルの上からでも、その乳房の柔らかな重みが影をつくっている。胸元からは汗と石鹸と、そして彼女自身の女の匂いが、むわりと立ちのぼっていた。

「今日は、浣腸だけじゃ、済まないわ」

彼女は片手を差し出し、洋三の手首を引いて、自分の隣へ導いた。その指は汗ばんでいて、ひどく熱い。

「わかってるでしょう、洋三さん。私の体も、ここも、あなたを待ってるの」

真子は自分の太ももをそっと開き、その奥、タオルの合わせ目に、もう片方の手を這わせた。白い布の中心は、ほんの少しだけ湿っていて、彼女の指の形にそって色が濃く変わっていく。洋三は自分の下腹の奥が、どくん、と脈打つのを感じた。ズボンの前は、もうさっきから、布を内側から押し上げている。

「脱がせて。全部、丁寧に」

彼女の口元に薄い笑みが浮かぶ。洋三は乾いた唇を舐め、黙ったまま、彼女の肩から、するりとタオルを外した。露わになった体は、濡れたような翳りを帯びていて、胸の先が、冷えた空気にふれて硬く尖っていくのが見えた。腹には柔らかい脂肪が重なり、臍の下まで、汗が一筋流れている。彼はごくりと唾を飲んだ。その姿は、先ほどまで浣腸を受けていた女と、同じとは思えないほど、満ちた生き物の匂いを放っていた。

「あとは、横になって」

真子はソファの上へゆっくりと体を横たえ、片側の背もたれに頬を寄せた。彼女の両脚は軽く開かれ、そのあいだ、白く太い太ももの奥に、薄い陰毛をまとった膨らみが、しっとりと光を帯びて露わになる。彼女は自分の右手を、その下の入口ではなく、もっと上、つきだした蕾のあたりに押し当て、そこを親指でゆっくりと押し開いた。ぬち、と音がしそうな、濡れた感触が伝わってくる。洋三の視線が、その狭い割れ目に吸い寄せられて、離れられない。

「見て。私のここ、さっきの浣腸でまだ下痢が残ってたから、恥ずかしいほどぐちゅぐちゅなの」

彼女の指が、陰唇の内側をなぞるたび、ぺたぺたと粘着力のある音が静かな部屋に響いた。洋三は息をひそめて、目を離せなかった。すでに肉棒はズボンの布を突き破らんばかりに硬い。先走りが染みを作り、布の上からでも、そこだけ湿って見える。

「あなたも、脱がせて。私の前で、あの太いの、見せて」

真子が、目を細めて、洋三の腰のあたりを見つめた。彼はベルトを外し、ズボンを下ろした。下着をずらすと、硬く反り返った肉棒が、はち切れんばかりに飛び出し、先端からは糸を引く汁が垂れている。それを視界にいれた真子は、声をひそめて「ああ、やっぱり大きい」と漏らし、それから指をそこへ伸ばして、亀頭の縁を柔らかく撫でた。

「今日は、浣腸のときの倍くらい欲しいわ。このお尻で、あなたのを、咥えてもいいかしら」

彼女の言葉に、洋三の心臓が、また跳ねた。彼は「はい」と短く答え、彼女の太ももに手を置いて、開かせた。そこは、さっきまで彼が二度にわたって洗い、出し切らせた穴とは思えないほど、ほぐれて熱く、ぴくぴくと息づいている。彼はチューブを手に取ると、ジェルを右の中指と薬指に絡め、彼女の窄まりにゆっくりと押し当てた。ぬる、ぬるり、と入口が彼の指を呑みはじめ、そのたびに真子は鼻にかかった声を上げて、首をのけぞらせる。

「いいわ、それ、気持ちいい。もっと奥、洋三さんの指で、いっぱいイジって…」

真子が、自分の両脚を抱えて、自分の窄まりを開いてみせた。洋三は指を二本、三本と増やし、彼女の内壁を丁寧に塗り広げるように、まさぐっていく。くち、ぐち、と粘液の音が、確かな手ごたえを持って響く。彼女の内側は熱い。ぬめりと締めつけが、指を根元まで引き込もうとして、そのたびに腕まで痺れるような心地がする。

「もう大丈夫よ。あとは、あなたの、それを食べさせて」

彼女は身を起こし、ソファの上へ座り直した。汗ばんだ肌に、ソファの革が張りついて、剥がれるたびに湿った音がした。洋三は彼女に言われるまま、ソファの中央へ腰を下ろす。真子はその面前に膝をつくと、彼の両脚のあいだに顔を埋め、まずは太い幹を、濡れた舌で根本から先端まで、ゆっくりと舐め上げた。ちゅる、くちゅ、という生々しい音が、リビングに薄く響く。彼女の口が大きく開いて、亀頭をふくんだ。ぬくもった唾液の海に、彼の亀頭が沈んでいく。

「ふ、ぅぅ……ん、おいしい、洋三さんの味がする」

彼女はそう言って、唾液にまみれた肉棒を、指で根元からしごき上げた。洋三は腰を浮かしそうになるのをこらえ、真子の髪に指を絡めた。彼女の頭の動きに合わせて、口の中がちゅぷ、ちゅぷ、と鳴り、竿の裏筋を舌先がなぞるたび、背筋から甘い痺れが突き上がってくる。

「ああ、もう、やめないと、入れたくてたまらない」

真子が顔を離し、唾液で濡れた唇を袖で拭った。彼女は洋三の体の上へ跨がるように、ソファの座面へ上がってくる。向かい合ったまま、彼の膝の上へ、汗ばんだ太ももをひらいた。互いの体温が、濡れた肌と肌のあいだで混ざり合う。ふたりの下腹が触れ、硬い茂み同士が擦れ、陰茎の背が彼女の割れ目に沿ってぬちぬちと音を立てた。

「自分から、一番あついとこで、つなげるわね」

彼女は何度か腰を浮かして、亀頭を自分の中に入れようと試みた。ぬるり、と先走りが彼女の襞と絡み、つる、と滑って、なかなか窄まりに入らない。そのもどかしさに、彼女は息を荒くして、自分の指で彼の亀頭を奥の穴へと導いた。

「あっ、あ……、入る、これ、やばい……」

先走りと愛液でぬめる入口が、亀頭を呑みこむ。そのまま、彼女は腰を落とした。ぐぷ、ぐぷぷ、と熱い肉の音がして、洋三の肉棒が、彼女の体内へずぶずぶと沈んでいく。彼女の内側は、指でほぐしたはずなのに、まだ強く彼を拒むかのように、きゅう、と締めつけた。

「あ”、ふかい……、洋三さんの、腹の奥まで、来てる」

真子が仰け反り、彼の胸に両手をついて、ゆっくりと腰を揺らす。彼の肉棒は、彼女のあえかな肉襞をかきわけ、奥へ、奥へと進む。結合部から、クチャリックチャリッと粘液の泡立つ音が溢れ、彼女の腰が下りるたびに、彼の鈴口が子宮口へ触れそうになる。

「ああっ、んっ、すごい……私の、奥、割られてる。浣腸で洗ったのに、こんなに、ぐちょぐちょで」

彼女は泣き笑いのような声をあげ、腰を動かした。ずりゅうっずりゅうっ、と淫らな水音が、部屋の空気を孕ませていく。洋三は彼女の尻たぶを両手で掴み、下から突き上げた。結合部から、ふたりの汗と体液が混ざり合い、白い泡がたっていく。

「あぁあ、すっごぉお~い、洋三さんのおちんぼ。真子のアナルにいっぱい。あぁあ、もっとほじって。あぁあああ」

真子の口から、さっきまでとは別人のような、蕩けた声が漏れ出した。彼女は遺影のある壁際を振り向き、ガラスケースに映る自分の裸と、洋三の額を、じっと見てから、はだけた唇で言った。

「あなた、見てる? ごめんね、私、いま、管理人さんと、こんなこと。ああ、でも、あなたとの夜より、ずっと、ずっと……」

真子は自分の乳房を片手で揉みながら、腰をくねらせる。肉と肉がぶつかる、ぱちゅん、ぱちゅんという音が、リビングに響き、そのたびに遺影の額が微かに揺れた。彼女はそのガラスの光を見つめながら、泣きそうな、けれど確かに笑っているような、複雑な顔で、言った。

「ごめんなさい……私、あなたの前で、こんなに濡れてる。浣腸して、お尻まで使ってもらって、ああ、もう、ごめんなさい……」

うわごとのように繰り返しながら、彼女は深く腰を沈め、洋三の腹の上で円を描くように、肉棒を咥えこんだ奥を、ぐりぐりと押しつけた。彼女の中の襞が、ぐぷぷ、と収縮し、搾り取るようにはたらく。洋三は自分の意思とは別のところで、腹の底から絞りだされるような甘い疼きを感じ、背を反らせた。

「あ、あっ、まって、私、もう、なかで、あなたの、感じる。ねえ、もっと、深く、ぐちゃぐちゃにして……」

真子は、彼の胸にしがみつくように身を伏せ、耳もとで切れぎれに囁いた。汗ばんだ額を寄せ、夜着のようにまとわりつく髪が、彼の首や肩を撫でる。彼女の乳房が、彼の胸に押しつぶされるたび、汗の膜を通して、互いの心音が伝わっていく。

「ああっ、もう、それ以上されたら、あたし、へんな風に……」

彼女は、乱れた呼吸の合間に、そう言って、激しく腰を突き上げた。洋三は彼女の汗ばんだ背に腕を回し、がくんっがくんっと、下から強く突いた。彼女の口から、ひときわ高い声が上がる。

「イ、イクぅぅぅっ!」

彼女の全身が、びくん、と硬直し、内壁がうねるように痙攣した。洋三は熱い液体が、彼女の中から溢れ出すのを、自分自身の腹と腿に感じた。そのまま彼も、奥に突き上げるようにして、彼女の深みで果てた。どくどくと注ぎ込むたび、彼女の内側がみるみる熱を帯びて、二人のあいだから、とぷとぷと愛液がこぼれ落ちていく。

やがて、真子は、ぐったりと彼の胸に倒れこみ、息を乱した。彼女の肩や太ももが、静電気にも似た快楽の余韻で、ぴくぴくと小さく震えている。壁際の遺影は、変わらず二人を見ていた。ガラスの奥の男は、笑みとも怒りともつかぬ表情で、二人の淫らな影を映していた。

—

しばらくして、真子は、泣き笑いのまま、身を起こした。結合部が、ぬぐ、と音を立てて離れ、彼女の内側に残った熱が、太ももを伝って滴り落ちる。

「ごめんなさい、洋三さん。あなたまで巻き込んで、こんな……」

彼女の声は、まだ上ずっていて、けれども、どこか吹っ切れたような、明るい翳りがあった。洋三は首を横に振り、彼女の肩をそっと抱いた。抱いた腕のなかで、彼女の汗の匂いと、牝の匂いが、ふたたびむわりと立ちのぼる。

「いいんです。俺が、したくて、したことですから」

彼がそう言うと、真子は少しだけ目を見開き、それから祖母のような笑みを浮かべた。

二人は並んで、ソファに座った。体の熱が、ゆっくりと冷めていく。外の空気は、相変わらず生温かかった。しばらくすると真子が、洋三の肩に頭を預けて、小さく息をした。それから二人は、しばらくの間、ただ黙って、正面の遺影を見上げていた。

第5章 週一が週三になり、匂いが染みつく

第5章のシーン

八月上旬の午後、陽が傾きかけたリビングに、真子はひとりでいた。冷房は切ってあり、窓を十センチほど開けた隙間から、高層階を渡る生ぬるい風が、カーテンの裾をときおり持ち上げては、また静かに下ろしていく。フローリングの上に、真子の足元から伸びた影が、ゆっくりと濃さを増していく。彼女は、壁際の棚の前にしゃがみこみ、引き出しの奥から取り出した一枚の写真を、両手にそっと載せたまま、長いこと動かずにいた。

写真のなかの夫は、まだ若く、口元にだけ笑みを浮かべていた。たしか、結婚して三年目の夏、湘南の海へ行った帰りに、駅前の食堂で撮ったものだった。あの日の夫は、砂だらけのサンダルを引きずっていた。真子が、その足元の無造作さを指摘すると、夫は照れたような顔で、それでも「こういうのが夫婦ってもんだろ」と笑ったのだった。そう、笑った。その声の高さまで、真子の耳の奥には、昨日のことのように残っている。

けれど、指先に触れる写真の紙は、四隅が反り返り、日焼けして黄ばんでいた。何年も、ここで、遺影のかげに隠れるようにして、薄暗い棚のなかへ仕舞われていたものだ。真子は写真を裏返し、日付らしき数字を親指でなぞった。もう、あの夏から、いったいどれほどの時間が流れたのだろう。指でなぞっても、あの砂の粒の感触は、どこにも残っていなかった。

ふいに、窓の外で、どこかから聞こえるざわめきが、部屋の静けさの中へ忍び込んできた。風が強くなり、カーテンが、はた、はた、と音を立てる。真子は顔をあげ、棚の上に並んだ遺影を見た。どの写真の夫も、まっすぐに前を見据えている。どれも、自分を見つめている。いや、実際は、写真の奥の男たちはみな、この部屋ではなく、もっと別の、あの日の、あの時間の空気を見つめているのだった。

「ねえ、あなた」

真子は、声に出して呟いた。

「今日ね、私……また、ここで、してしまうの」

返事はなかった。あるはずもなかった。遺影の男は、笑わない。だから真子は立ち上がり、手に持った写真を、もう一度引き出しの一番奥へ押し込んだ。そのとき、彼女の指が、隣に置いてあった漢方薬の瓶に触れた。冷たいガラスの感触。彼女は、その瓶を握りしめたまま、目を閉じた。

孤独は、夫を亡くした夜の暗さより、むしろこの、夏の午後の光のなかにあらわれる。日差しが当たり前のように部屋へ差し込み、風が当たり前のように抜けていき、自分だけが、この光と風のなかに取り残されている。そう感じる瞬間が、真子には毎日あった。今も、胸の奥の、名の付けられない空洞から、午後の熱い空気が、すう、と吸い寄せられるように流れ込む。その空洞を埋めてくれるのは、昼間の陽でも、夜の月でもなかった。ただ、訪ねてくる男の、あの、節ばった指の温度だけだった。

真子は、台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を取り出して、一口飲んだ。氷が、グラスの中でかたん、と鳴る。彼女は、唇を湿らせたまま、窓の外の、街の輪郭を眺めた。あの管理人の男は、自転車で、今日も来る。薬局の袋をポケットに突っ込んで、汗を拭きながら、この、海から遠く離れた高層階の部屋へ、迷いなく来る。それを思うと、真子の下腹の奥、すでに便が滞って重くなっている場所とは別の場所が、ちりちりと、乾いたように疼いた。

私は、なんて浅ましい女になってしまったのだろう、と真子は思った。

けれど、その思いは、もう彼女の足を止めなかった。むしろ、そう思うことで、指先にこもる熱が、いっそう確かなものになり、内腿の皮膚の感覚が、ふだんより何倍も鋭くなるのを、彼女は感じていた。哀しみと、恥じらいと、そして、あの人に触れてもらいたいという渇きが、胃のあたりで甘く混ざり合い、溶けていく。真子は、グラスを置くと、洗面所の鏡の前へ立った。少し濡れた前髪。上気しはじめている頬。肌は、午後の湿気を含んで、てらてらしている。その女が、これから情けなく尻を突き出し、浣腸をねだる姿を、真子は知っていた。夫の、あの、遺影の前で、だ。

インターホンが鳴ったのは、ちょうどそのときだった。

—

管理所の机に向かっていた洋三は、窓の外の陽炎を、ぼんやりと眺めていた。蝉の声が、閉め切ったガラスの向こうで、むら、むら、と波のように盛んに鳴っている。クーラーの吹き出し口から、古い機械の油の匂いの混じった冷気が、汗ばんだ首すじへ流れ落ちていく。ボールペンの頭を口元に当てたまま、彼は、机の隅の茶色い封筒に、ちらりと目をやった。口を折り曲げただけの、質素な封筒だった。中には、給与明細とは別の金が、きっちり三回分、折り畳まれずに入っている。先週の分。そして、昨夜の分まで。假屋崎真子が、帰り際に、何の説明もなく洋三のポケットへ滑り込ませてきたものだ。

洋三は、その封筒を手にとって、折り目を指でなぞってから、引き出しの奥へしまった。かつて年金通帳をしまっていた、あの場所である。擦り切れた通帳の角は、もう何日も触れていない。いや、引き出しのどこへやったか、正確には思い出せない。それだけの日々が、このひと月半のあいだに、音を立てず流れこんでいた。

週に一度だった足は、いつしか三度になっていた。それでも足りない夜、真子から電話がかかってくる。管理所の黒電話が鳴るたび、洋三の胸は、びくりと跳ね上がる。受話器を取ると、彼女は決まって、こう言うのだった。

「今夜、ひとりで眠るのが、怖くなりました」

それが合図だった。

—

夕暮れ、洋三は、真子の住む高層マンションへ、自転車を走らせた。七月の末に買い替えた白いワイシャツが、湿った風を含んで背中にへばりつく。ズボンのポケットには、薬局で買ったイチジク浣腸の箱が、ずしりと沈んでいる。真子から頼まれ、仕事帰りに買い足したものだった。レジの向こうで、薬剤師が袋を差し出すとき、あの気の抜けた電子音が鳴って、洋三は無表情のまま「どうも」と呟いた。あの日、真子に初めて浣腸を手渡されたときは、手が震えた。今は、もう、買い置きの数を数えながら、足りなければ翌日また買い足す自分がいる。

エレベーターの壁に背をつけ、洋三は大きく息を吐いた。鏡に映る自分の頬が、夏の日差しに焼けて、以前よりいくぶんか肉がついて見える。気のせいかもしれない。年金だけでは、昼食を抜くことの多かった体が、このところ、いやに軽い。薄い壁のアパートで、隣人夫婦の営みを、じっと息をころして聞いていたあの夜を、洋三は覚えている。自分の生涯には、ああいう時間など無縁だと、そう思っていた。だが、いまは違う。違う、という事実だけが、鏡の男の目を、これまでにないほど落ち着かない光で満たしていた。

最上階で扉が開き、洋三は静かな廊下を進んだ。インターホンを押すと、まるで扉の前に立って待っていたかのように、真子はすぐに鍵を外す。

「いらっしゃい、洋三さん」

彼女の声は、どこか掠れていた。焦げ茶の髪を高く結い、白いカットソーに薄いガーゼのロングスカート。汗ばんだ首もとから、白檀の香水と、その奥からこみ上げる女の肌のにおいが、もわ、と洋三の鼻をくすぐった。素足だった。廊下の薄い照明の下で、白い足の指が、きゅっと丸まり、うっすらと赤い。

「上がって。いま、ちょうど棚を整理してたの」

「どうも。お邪魔します」

洋三は靴を脱ぎ、真子のあとへ続いた。リビングの空気は、熱気と、わずかな線香の匂いが交じって、ねっとりと肌へ絡みつく。エアコンは切れていた。窓が開いていて、高層の風が、部屋のなかをゆるく流れている。夕日が、フローリングに薄い朱を落とし、壁際の棚の遺影を、おぼろに浮かび上がらせていた。真子は、窓のそばへ行き、カーテンの裾を両手で整えた。それから振り返り、洋三を見つめたまま、指先でカットソーの裾をつまんで、ふるふると扇いだ。白い布が胸元に張りつき、しめった素肌の輪郭が、浮かび上がる。

「あのね、洋三さん」

真子が、裸足のまま一歩、洋三の方へ歩いた。汗で前髪が額にはりつき、琥珀色の瞳には、夕日が小さく揺れている。彼女は、右手を胸の前におき、ぎゅっと拳を握った。

「今日は、ここで、してほしいの」

真子の視線が、棚の遺影のほうへ流れた。ガラス面が、沈みかけた陽を吸い込み、奥の男の顔を、白くぼやけさせる。洋三の喉が、こくり、と音をたてず上下した。ここで、という意味を、彼はもう知っている。週三度のうち、二度は浴室。一度は寝室。リビングでは、初めての、あのソファの夜以来、まだなかった。

「……ここで」

洋三の声は低く、空気のなかに消えた。真子はこくりと頷くと、壁際へ歩いていき、大きな遺影の前で足を止めた。胸の前で指を組み、俯き、なにかに耐えるように深く息を吸う。それから、結い上げた髪をほどいた。焦げ茶の髪が、はらりと肩から背中へこぼれ落ちる。風に舞った毛先が、首筋の汗を弾き、しっとりした甘い匂いを、洋三の方へ届けた。

「夫の、目の前で……私、どうしようもない体なの」

その声は、泣き声に似ているのに、どこか安心しきってもいた。真子は、写真の前であの夫に話しかけたときの、乾いた口調とは別人のように、熱い空気のなかで、この部屋の主として立っていた。

洋三は、一歩一歩、真子の背へ近づいた。ガラス面に映る自分と、彼女の後ろ姿。節ばった自分の手が、彼女の腰へ届こうとしているのが、鏡のように見える。

「オーナーさん、暑いですから、窓を閉めましょうか」

「いいえ、開けておいて。風が、ほしいの」

真子は、そう言って、カットソーの裾をゆっくり持ち上げた。汗で背中に吸い付いた白い布が、するり、するり、と剥がれるように持ち上がり、露わになっていく。下着は淡い藤色の、レース縁のもの。細い肩紐が、白い肩にくいこみ、その下の柔らかな膨らみを支えている。彼女は手を背中へ回し、ホックを外した。片方だけ。ブラはするりと腕から滑り落ち、床の上に音もなく落ちる。

「後ろに、立って。洋三さんに、触ってほしい」

言われるまま、洋三は真子の背へ密着した。指先を彼女の腰骨に沿わせると、ひやりとした汗と、熱い肉の温度が、同じ指先に同時に伝わってくる。皮膚からは、甘い汗の匂いと、下着のなかにこもった日中の熱、そして女の陰部の匂いが、むわりとかき混ざって立ちのぼった。カーテンから風が吹き込み、二人のあいだをすり抜け、部屋の甘い淀みと混ざって、洋三の頭を重くした。

真子が振り返り、洋三の手を取ると、自分の胸へ導いた。形のいい膨らみは、彼の固い掌の下で、小鳥のように熱い。指を開くと、汗ばんだ肌が吸いついてきた。乳首はもう硬く立ち、掌の真ん中を、小さく押し返している。

「ん……っ」

真子の唇の端から、ほどくような吐息が漏れる。彼女は洋三のシャツの胸を掴み、ボタンを下からひとつずつ、外しはじめた。ベルトの金具が、真子の指に触れるたび、硬質な音をたてる。彼女は目を伏せたまま、洋三のスラックスの膨らみに、手のひらを静かに沿わせた。

「私……今日、うまく出せなくて。朝から、ずっと重いの」

真子の言葉に、洋三はブラの肩紐をずらしたまま、彼女の腹へ手を滑らせた。少し張っている。便が、奥で滞っているのが、掌を通じてわかった。真子の腰が、恥じらいのように、くい、と後ろへ引けた。彼女は小さな声で「あ」と呟き、自分の腹部をさする洋三の手を見つめていた。その目は、窓の夕日の色を映して、だがそれ以上に、自分自身の体の不始末への羞恥で、ぬれている。

私は、またこの人に、こんな腹を見せて、なんでもされようとしている。真子の胸のうちで、そんな声が、するりと回った。夫の前で、白いカットソーをたくし上げた、この私。いいえ、今日だけじゃない。毎回、この人に会うたびに、醜いところも、匂いも、穴も、全部、見せて、そして許されようとしている。夫と築いてきた、清らかな暮らしを、この指で汚している。なのに、汚れるほど、息がしやすくなっていく。

「浣腸、しますか。いまから」

「……ええ。でも、その前に」真子は、彼の手を、腰から太ももへ這わせた。「少しだけ、私を、触って。やわらかくしてからじゃないと、びっくりして、うまく出ないの」

真子の指が、スカートの裾をまくり上げていく。白い太ももの内側に、藤色のショーツが、汗でぴたりと張りついていた。クロッチの部分には、湿りと、つい先ほど滲んだばかりの愛液の跡が、うす暗い染みになって広がっている。洋三が、その上から指の腹で、ぬくもった丘をゆっくり撫でると、真子の肩が小さく跳ね、手近な棚の縁に掴まったまま、白い項をのけぞらせた。

「あっ……ふ、ぅ……」

鼻にかかった、甘えを含んだ声。洋三の二本の指が、ショーツの脇から滑りこみ、ぬかるんだ襞の奥へ沈んでいく。指が入っていくたび、彼女の内側から、くち、くち、と熱い音がする。真子の膣は、昨日も三日前も、今朝の電話の前にも触れた場所なのに、指を入れるたびに、新しい温度と濡れ方を見せた。肉襞が、うねりながら指をくわえ、離そうとしない。親指が入り口の上をこすれるだけで、真子の爪先が、フローリングを掻いた。

「あんまり、上手にされたら……このまま、おかしくなってしまうわ……」

真子の手が、洋三の手首を掴んだ。止めるためではない。もっと深く、奥まで、と、押しこむような力。祈るような、それでいて飢えた手の動きが、洋三の骨にまで伝わる。洋三は、真子の背中の汗を舐めたい欲求を、唇を閉じて飲みこんだ。汗の粒が、背骨のくぼみにたまっている。それを指先でなぞると、生え際から、新しい汗がじわ、と滲んだ。

しばらくして、洋三は指を抜き、彼女の体を正面へ向けた。真子の頬は上気し、目の縁まで潤んで、遺影のガラス面を映しこんでいる。彼女は、片手で小さな胸を隠し、もう片方の手で、スカートの前をぎゅっと握っていた。

「洋三さん……私、ね」

真子の声は、熱に浮かされているのに、どこか、言い聞かせるような冷たさもあった。

「週に三回じゃ、足りなくなってる。馬鹿みたいに、夜の、窓の外の明かりを見ると、体が疼いてしまうの……」

洋三は、彼女の前に膝をついた。スカートの裾を両手で持ち上げると、内太ももの汗が、白い肌の上で糸を引く。奥では、藤色の下着が、割れ目に沿って食い込み、湿りを増していた。洋三は、その下着を横へずらす。薄く茂った陰毛の下で、真子の花弁が、ほの暗い室内のなかに、てらてらと光っていた。閉じたようでいて、中心だけがわずかに開き、透明な雫が溢れ、太ももの付け根まで伝っている。酸味を含んだ、性器の匂い。逃げ場のない、生きた女の匂いが、洋三の顔いっぱいに広がった。

彼の舌が、閉じた陰唇の頂を、そっと押し上げる。真子は「ひゃ……」と咽喉を鳴らし、腰をのけぞらせた。舌先で粘膜を割ると、充血した芽が、ぷくりと顔をのぞかせる。洋三は、そこへ唇をすぼめて息を吹きかけ、すぐに甘く吸い上げた。生暖かい舌、湿った唇、歯の硬さ。それらが、一箇所へ集まり、真子の身体を内側からゆさぶる。

「あっ、あ、だめ、そこ、直接……ああっ!」

真子の両脚が震え、指が洋三の白髪交じりの頭に絡む。伸びた前髪をつかみ、引き離そうとするのに、彼女の腰は、逆に男の顔へと押しつけられていく。陰核を舌で転がし、ふたつの指をぬかる穴へ沈めると、真子は、自分の手の甲に噛みついて、声を殺した。

「ん、んぅ……ん、ぉ……っ!」

唾液と愛液が泡立ち、舌と指が動くたび、くちくち、と厭らしい音が絶えず聞こえる。真子の背中が棚の側板へあたり、遺影の額が、かたん、と小さく揺れた。そこにいる男の写真が、二人の影を、ガラス越しにじっと受け止めている。ウイスキーのように甘く苦い、熟れた匂いが、洋三の鼻に満ちて、下腹の奥を鉄のように熱くした。

そして、不意に。

真子の体が大きく跳ね、喉が、床へ落ちるような声を漏らした。

「おっ、おお……っ」

奥から、どろりと熱いものが溢れ出し、洋三の顎を伝い落ちる。彼女はしばらく、棚にもたれたまま、肩で息をしていた。遺影のほこりが、夕暮れの光に浮かんでいるのが、洋三の視界に入った。

「……ありがとう」

真子は、ぐったりとした声で言った。しかし、その瞳は、まだ濁っていて、満ち足りない熱が、目の下に、うす紫色の影をつくっている。彼女は自力で立ち上がると、洋三の手を握り、浴室へ導いた。歩くたび、濡れた太ももが、廊下の光をうけて、かすかに光っていた。

—

浴室の床には、ラバーマットが敷かれていた。洗面台の下から、洋三は浣腸液の箱を取り出す。イチジク浣腸の緑と赤のパッケージを手にした瞬間、あの初めての日とおなじ、ひやりとした感慨が、指先を走る。しかし、手順に迷いはなかった。キャップを外し、先端に潤滑ゼリーをたっぷり塗る。甘い薬品の匂いが、浴室の湿った空気に交じって、洋三の鼻腔の奥を刺激する。

真子は、便座のふちに両手をつき、腰を高く上げ、白い双臀を突き出している。尻たぶの奥の窄まりは、すでに、さっきの愛液で周囲まで濡れて、淡い褐色に染まっていた。洋三が近づくと、真子は顔を横に向け、潤んだ目で彼を見上げた。

「今日は……いっぱい、入れて」

消え入りそうな声。洋三は片膝をつき、容器の先端を窄まりへ押し当てた。冷たいノズルが、くぷ、と浅く吸い込まれる。真子の背中が、ふるり、と震えた。

「いきますよ」

「ええ、きて……」

洋三は、ゆっくりと浣腸液を押し出した。ぬるい液体が、直腸のなかへ、とぶ、とぶ、と流れ込んでいく。真子の腰が、蛇のようにゆるく動き、彼女は浴室のタイルに爪を立てた。床に敷いたマットの、すべり止めの凹凸が、彼女の膝を支えている。下腹が、内側から満たされていく。かつて夫と行った旅先の温泉で、腹をこわして恥ずかしい思いをした夜を、真子はなぜか思い出した。あのときは、こんなにも、人に見られたいと願う自分はいなかった。いや、あのときは、夫が背中をさすってくれた。それだけでよかった。なのに、今は。

「はぁ……ぁ、お腹、いっぱい……」

「もう少し、全部入れますからね」

「うん、がまん、する……」

真子の返事は、涙声に近かった。その声を聞きながら、彼女は、夫への、見えない申しわけなさを、たれこめた浴室の湯気といっしょに息とともに吐き出した。こんな場所で、こんなふうにお腹をたぷたぷにして、他人の指を、自分から招く。夫が生きていたころの私には、絶対にできなかった。夫の前では、いつも清潔で、慎ましくて、馬鹿がつくほど普通の妻でいた。だから、こんなみっともない欲を、一体どこへ隠せばよかったのだろう。

注入が終わり、容器を抜くと、窄まりは、ひくひくと小さく呼吸していた。真子の腹が、内側から波打ち、ぐるりと低く鳴るのが、床にも伝わってくる。彼女は、ますます前屈みになり、肛門を便器の方へ突き出し、そのまま動かなかった。

「洋三さん……横、いてくれる?」

真子が、床に向かって、指先を折るように招く。洋三が近くへにじり寄ると、真子は、彼の下半身に手を重ね、布の上をゆっくり撫でた。

「ん……お腹、苦しいの。やさしく、さすって……」

洋三は、右手で彼女の下腹を、円を描くようにマッサージした。便意が、腹の内側で渦巻いている。それだけではない。腹をなでられているという安心感が、真子の肛門を、じりじりと開かせていくのを、彼女は感じていた。認めたくなかった。でも、感じてしまう。夫の目の前で、夫ではない男に、浣腸され、いま、汚いものを出そうとしている。その事実が、膣の奥を、きゅう、と痺れさせ、膀胱の近くまで溶けるような刺激になっていく。

「あっ……出る、出る……見てて。私の、いやらしいところ……」

便器の中に、濁った水便が、びちゃびちゃと音を立てて弾けた。洋三の耳に、生々しい排泄の音が流れ込み、匂いが浴室いっぱいに広がる。腐敗と、花と、土とが混ざりあった強い異臭。そのなかに、かすかに、甘い洗剤の匂いもまじっていて、かえって不自然に淫らだった。真子の肛門は、まだ内側のものを絞りきれず、窄まりから黄色い汁が、太ももを伝って落ちていく。

「あ、ん、まだ出るのに……指で、ほじって……奥に、たまってるの」

洋三は、強張った二本の指を彼女の肛門に沈め、糞便の絡みつく中を、ゆっくり掻きまわした。ぬめりとざらつきと、肉の熱さが、指におしよせる。その感触と臭いが、男の腰の奥を、どくり、と脈打たせた。

「ああっ、いい……、洋三さん、私のなか、もっと……」

便の混ざった湯と粘液が、指に絡み、抜き差しのたびに泡立つ。真子は、歓喜とも苦痛ともつかない声で、浴室の壁を震わせながら、自分のアナルを、洋三の指へ打ち下ろしていく。彼女はもはや、遺影の前で正座していた寡婦ではなかった。かといって、単なる淫らな女とも違う。夫の喪失を、腹の奥にしまいこんだまま、縋るように穴を開き、この老人の手を求める、孤独な獣だった。

「私、あなたがいないと、どうやって、このお腹と、気持ちと、毎日を……ああっ、深いっ……!」

しばらくして、真子は洋三の腕を求め、立ち上がった。彼女の脚は震え、肩にかかる乱れた髪が、湯気と汗で光っている。太ももを伝う汁を、洋三がタオルで拭こうとすると、真子は首を振り、その手を握った。目は、泣いているのに、笑っていた。

—

身体を洗い、リビングに戻ったのは、八時を過ぎたころだった。窓の外では、高層の風が、カーテンを静かに孕ませている。真子は、藤色の下着をつけただけの裸体に、薄いバスローブを羽織っていた。洋三も、シャツの前を開けたまま、スラックスの金具を外した格好で、壁に背を預けて立っている。

「こちらへ、いらっしゃい」

真子は、遺影の並ぶ棚の前で、カーペットの上に両膝をつき、海の底へ沈むような声で、洋三を呼んだ。その瞳には、夕方の朱が消えたあとの、青い夜の色が入りこんでいた。彼女は手を伸ばし、洋三の手を取ると、自分の体の真横へ坐らせる。指が、汗と石鹸で湿っている。それでも離さなかった。

遺影のガラスには、裸の女と、半裸の男が、まるでこれから交わるために存在している、とでも言いたげに映っていた。窓の外では、蜩の声が、途切れがちに響いている。洋三は、ガラスに映る自分を見た。自分がしていることが、いつか、この滑らかな面に焼きつくのではないか、と思った。けれど、目を逸らさなかった。逸らす理由が、もう、どこにもなかった。

「洋三さん……後ろから、して」

真子は、四つん這いになると、テーブルの脚に片手をかけた。バスローブの前がはだけ、白い臀が、まるい丘をふたつ、男の前に突き出す。彼女は右手で自分の臀を割り開き、つい数分前まで下痢便を吐き出していた窄まりを、くぱ、と開かせた。そこは、まだひりつくように敏感で、空気に触れるだけで、ひくひくと開閉している。

「あなたの……ください」

洋三は、腰を進めた。熱く反り返った性器が、ぬめる窄まりにあてがわれる。先端が、抵抗を喜ぶように、はちきれそうな穴の入り口を、ゆっくり押し広げた。皮膚と皮膚が、じゅぷ、と重なり、肉の奥へ沈んでいく。真子の背中が、おおきく弓なりに反る。

「あぅ……! きた、洋三さん……あ、おおき……」

真子は、カーペットに胸をこすりつけ、声を詰まらせながら、腰を男の方へ押し戻した。彼女の口元から、壊れた辻褄のような、うわ言が漏れつづける。洋三の両手が、白い腰骨をしっかりと掴まえた。突くたびに、遺影のガラス面が、二人の姿をかすかに揺らしているのが、視界の端に見える。洋三は、そのガラスを見た。逃げなかった。自分が、あの男の前で、この寡婦の後孔を貫いている。許されないことではない。あの男はすでに、この世にいない。だから、これは、てめえの、現在の行為だ。

「ああっ、ああ……! ぬけてる、何度もいってるのに、まだ……ひぁっ!」

彼女の膣は、使われていないのに、とろとろと蜜を垂れ流し、カーペットの上に、点々と染みをつくっていた。ふたつの穴のあいだに、浣腸液と腸液の残り香が立ちこめ、甘く、苦く、蒸れた匂いが、二人を包む。腰を打ちつけるたび、真子の喘ぎ声が高くなり、遺影の並ぶ棚を、微かに振動させた。彼女の背中に貼りつく髪の先が、規則的に跳ね、汗の粒が、床に細かく散った。

「洋三さん……もっと、奥……あ、だめ、なにか、また、きそう……」

洋三は、彼女の腰をさらに引き寄せ、自らの肉棒を根本まで埋めこみ、ゆっくり抉るように動いた。腹の底へ、ずん、と重い刺激が響く。真子は堪えきれず、抉られた穴をひくつかせ、腹を痙攣させ、自分から腰を前後に振りはじめる。淫らな体液が、二人の腿をつたい、床に落ち、夜の空気のなかで、匂いを濃くする。

「あっ、あっ、あっ、や、まって、そんな、きもち、いい……!」

真子が、切れ切れに叫び、指先でカーペットを掻きむしる。汗と涙で、目の前の光景がにじんでいる。夫の遺影。いや、遺影たち。あのひとたちが見ている、そう思うほど、膣と肛門が勝手に締まり、男のもので満たされている場所を、もっと、もっと、と欲しがった。あの人がいない、あの人が、もう、どこにもいない。その嘆きを、こんな形でしか、私は癒せない。

遺影の男は、ただ静かに、ガラスのなかから、その光景を見つめつづけていた。

射精が、下腹の奥から、急き立てるように昇ってくる。洋三は真子の名を呼ぼうとして、声を失った。喉が、ひゅ、と鳴る。彼女の直腸が、びくびくと脈打ち、奥のほうから、ずうっと押し寄せる波のように、洋三の性器を締め上げる。それが、たまらなかった。この上なく、自分のものだ、と、思った。

「────……ッ」

どくっ、と体内の熱いものが、彼女の直腸の奥へ吸い込まれていく。ぬかるみのなかで、精が果てしなく溶けていくようだった。何度も、何度も、腰が勝手に打ちつける。まだ足りない。奥へ、奥へ、と、身体が追いていく。真子の膝が崩れ、二人は、遺影の見下ろす床の上に、折り重なって倒れた。部屋には、二人の荒い息だけが、生温い空気を震わせていた。出窓の外で、風に乗って、今年生まれたばかりの虫の声が、低く一度だけ鳴った。

—

片付けのあと、真子は、洋三の腕を枕に、カーペットの上へ寝転んでいた。背中には、まだ汗が滲み、内腿には、拭ききれなかった愛液が、ひやりと薄い膜をつくっていた。その感覚が、意識のすみに残っていた。彼女は、満ち足りた目をうっすら開けて、天井を見つめている。洋三の指は、いつのまにか、彼女の手を握っていた。遺影の載る棚は、頭の上に、黒い影を落としている。

「私、もう……あなたなしでは、いられないの」

真子が、天井を見たまま囁いた。その声は、しわがれて、静かで、夜の部屋の空気に沈んでいった。だが、彼女の内側では、もう一人の自分が、その言葉を聞いていた。これが、夫を写真の中だけに残して、見知らぬ老人の腕にすがる、この女の正体。真子はまぶたを閉じ、孤独の底で、そう呟く自分をも、見ないふりをした。

洋三は、しばらく何も言わなかった。繋いだ手の、甲に浮かぶ骨の形を、親指で撫でる。はやく、なんとか言わねば、と思った。だが、適当な言葉は、いくらでもあるはずなのに、喉の前で消えていく。彼は、彼女の指を折り曲げるようにして、もう一度、強く握った。

「……私も、です」

そしてようやく、それだけを口にした。

帰り道、自転車のペダルを漕ぎながら、洋三は、何度も右手を開いたり閉じたりしていた。まだ、掌に彼女の汗と、尻肉の柔らかさが残っている。あの、突き出すたびに震えた腰の骨の硬さが残っている。コンビニの前を通ると、近所の高校生が、浴衣姿の女連れでアイスを舐めている。それが、やけに遠い世界の、鮮やかな絵のように思えた。

薄壁のアパートへ戻ると、洗濯物が椅子の上に、崩れたまま積まれている。昨夜、真子の家から持ち帰った濡れた下着が、スーパーの袋の中で、暗い部屋に甘い生乾きの匂いを放っていた。洋三は、それに顔を近づけるでもなく、ただ袋の口を結んで、押し入れの隅へ置いた。窓を開け、換気扇を回したが、匂いは消えない。けれど、消えなくてもいい、という諦めが、壁の染みのように、静かに男のなかへ沈んでいた。

その夜、布団へ横になると、体の芯がじんわりと怠く、けれど不安は、いつのまにか、胸から腹へ、腹から指先へと重さを変えていた。遠のいている、と感じた。年金のことを思い出しても、以前のように喉が渇かなかった。通帳の擦り切れた角を、頭のなかで何度も指先にかたどる。自分の居場所は、まだあそこ以外にない。それでも、彼のなかには、この密かなぬくもりを糧に、次の火曜日を待つ、動かない男の顔があった。

真子はそのころ、リビングの遺影の横で、棚の下の引き出しを開けていた。指先で、漢方薬の瓶の蓋を外し、中の錠剤の数を、ぼんやりと確認する。今日は、浣腸の前に飲まなかった。飲まなくても、あの人の前では、お腹が勝手にゆるんで、全部、出てしまう。それでよかった、と彼女は思った。あの人の指と、声と、ぬくもりがないと、私は、もう、この体のしまい方さえわからない。

夜が、防音ガラスの向こうで、深く、深く沈んでいく。遺影の男は、今日も、泣き出しそうな顔のまま、暗い部屋で、ただ静かに、妻が薬の瓶を閉める音を聞いていた。

第6章 遺影の横で選び取る夜の顔

第6章のシーン

第6章 遺影の横で選び取る夜の顔

九月上旬の日曜日、夕暮れが街を茜色に染め上げるころ、沼田洋三は管理所の引き戸に手をかけた。蝶番のきしむ音が、しんと静まった共用廊下に、やけに大きく響く。業務日誌の最終頁に今日の日付を書き入れ、窓の外へ目をやると、夏のあいだじゅう耳の奥にこびりついていた蝉時雨は、いつの間にか鳴りを潜め、代わりに秋の虫が遠慮がちに鳴き始めていた。空気が、八月までとは違う。埃っぽい熱気の代わりに、どこか腑の底を澄ましてくるような、糸のように細い風が吹いている。洋三は作業ジャンパーの前を合わせ、小さく息を吐いた。ポケットの中で、薬局のレシートがくしゃりと潰れる音がする。

管理所を出ると、大家代わりの佐伯千鶴が共用廊下の端に立って、植木の鉢をいじっていた。白髪をきっちり後ろで結んだ小柄な老婦人は、生成りのエプロンの紐を背中で小さく結び、しゃがみ込んで枯れ葉をつまんでいる。洋三の足音に気づくと、ひょいと顔を上げ、淡い緑の瞳を薄く細めた。その視線には、いつもの世話焼き特有の、ねっとりとした観察の温度が含まれていた。

「沼田さん、今日はまた、お出かけかい。日曜にまでご苦労なことだねえ」

「ええ、まあ、少し見回りを」

洋三は、手にしたビニール袋を、身体の陰にわずかに隠した。中には薬局で買ったイチジク浣腸の箱と、果物店で包んでもらった小さな梨が入っている。梨の包み紙の端から、ほんのり甘い果実の香りが漏れ、薬品の無機質な匂いと混じり合った。命日に果物を持っていくのは、なんとなく、そうすべきだと思ったからだった。いや、そうすべきだと自分に言い聞かせることで、ビニール袋の中身のいちばん下にある、冷たく硬い箱の存在を、自分の心からも隠そうとしていた。

「そうかい。あんたが行くと、あのマンションは静かでいいだろうね。近ごろ若いのが夜中に騒ぐから、あたしゃ困ってるよ」

「何かありましたら、いつでもおっしゃってください」

「ありがとさん。……沼田さん、ちょいと待ちな。あんた、また、あの靴かね。おろしたてみたいだよ」

「ええ。前のが、だいぶ減ってしまいまして」

「そうかい。若い子じゃあるまいし、あんたがそんなに歩き回るなんて、珍しいねえ。足は、どこも痛くないのかい」

「大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」

千鶴は、にこりともしない顔で、洋三の履いている靴へ目を落とし、それから彼の目と、手に提げたビニール袋のあいだを、ゆっくりと往復させた。彼女の視界に、あの箱の輪郭が、梨の包みの下から透けているのではないか。そう思うと、ビニール袋を持つ手のひらに汗が滲んだ。千鶴が、しわの深い唇をわずかに開きかけて、けれど何も言わず、再び植木の鉢へ視線を戻す。洋三は、裾を正して歩き出した。背中越しに、彼女の視線が、レシートの潰れる音よりもはっきりと、ジャンパーの背を突いてくる。振り返らなかった。振り返って「これから假屋崎さんのところへ行きます」と告げる理由は、どこにもない。それでも、告げない理由が自分の中に息づいていることに、洋三は舌の先を乾かした。唾が、粉のように口内に張りつく。

駐輪場から自転車を引き出し、跨る。ペダルに足をかけた瞬間、隣室の大河内誠が、建物の角からぬっと姿を現した。がっしりした大柄な体躯を、相変わらずグレーの作業服に包み、安全靴の先で地面を小突きながら、半笑いを浮かべて近づいてくる。作業服の胸元からは、昼間の仕事で染みついた油と、しみない程度の安い詰襟用の柔軟剤の匂いが、混ざって風に流れてきた。

「おお、沼田さん。こんばんは。出かけるんかい」

「ええ、ちょっとそこまで」

「そうか。また假屋崎の奥さんとこかい」

洋三の足が、止まりかけた。心臓が、錆びた鎖を引くように重く鳴る。大河内の声は、いつもの軽口そのものだった。けれどそれは、近所の噂好きが、自分たちのことを知っているときに見せる、踏み込んだ明るさに似ていた。いや、似ている、というのは言い訳で、あの「また」という、たった二文字の音は、洋三の鼓膜の奥でぱっくりと花を咲かせて、なまめかしい疑いの色を広げていく。自転車のハンドルを握る指に、みっともないほど力が入った。

「たまに、自宅のほうの設備を見てくれって頼まれましてね」

「へえ、そりゃあ信頼されてるんだな。あんた、まめだもんな。それに、あの奥さんのとこ、高いビルだろ。セキュリティもしっかりしてて、管理人行っても、やることあんのか、って話だよなあ」

「細かい不具合は、ああいう建物ほど、あるものですから」

「そうか、そうか。で、毎週日曜かえ。律儀なこった。あんた、仕事熱心だとは思ってたけどよ、あの奥さんの顔がいいから、なおさら力が入るんじゃねえか。なあ、そうだろ」

大河内は、親指でこしこしと鼻の下を擦った。黒一色の短髪に、最近白髪が増えたようだ。その灰色がかった瞳が、薄明のなかで、じっとりと光る。好奇心の灯りというより、もっと下種な、粘り気のある期待が宿っていた。彼が何かを知っている──そう思い至った瞬間、洋三の脇の下から、冷たい汗が、慈悲なく流れ落ちた。

「あんた、この前、薬局の前で見たぜ。日曜の午後、だろ。あの時間に、管理人さんが薬局で何買うんだって、ずいぶん、見ちまった気になってな」

「整腸剤です。歳を取ると、いけませんな」

「へえ。そうか。漢方じゃなくてな。ま、なんにしてもよ、元気で、なによりだ」

「ええ。どうも。早くお行きにならないと、現場が暗くなりますから」

洋三は、ペダルを踏み込んだ。錆びついた車輪が、漕ぎ出しの一瞬、きし、と悲鳴を上げる。後ろで大河内が何か言っていたが、風の音に混じって聞こえなかった。聞きたくなかった。空の色が、高いところから藍色に変わり始めている。自転車の車輪がアスファルトを捉える振動が、尻から背骨へと抜けていく。あの男の「また」という言葉が、じわりと頭の奥で汗をかく。さらに「薬局の前で見た」という、予期していなかった目撃の事実が、胃の裏側をぞろりと撫でていく。作業着の袖口がわずかに滑って、手首をくすぐる。鼓動は速いのに、手のひらは冷えたままだった。ビニール袋の取っ手が、冷や汗の滲んだ手の中で、ぎしぎしと嫌な音を立てて撓んだ。これでは、隠すというよりも、隠している顔でこいでいるようなものだ。誰が見ても、怪しい男に見える。だが、速度を緩めれば、あの大河内という男の噂好きな目が、もっと深く背中に食い込んでくるような気がして、洋三は力任せにペダルを回した。足の付け根が、五十をとうに過ぎた躯に、余計な速さを強いていた。

高層マンションへ着き、自転車を所定の場所へ止めると、エントランスの自動ドアが、空気を割くように開いた。ひんやりとした館内の空気が、熱った額と首筋を、容赦なく冷やしていく。エレベーターの中で壁に背をつける。鏡に映る男は、白髪混じりの短髪、くすんだ茶色い瞳、乾いた頬。それなのに、どこか生気じみた赤みが、耳たぶのあたりに差している。口が半開きになっていることに気づき、洋三は唇を引き結び、前を向き直った。鏡の中の自分から目を逸らすたび、あの遺影の並ぶリビングで、彼女が待っている時間が近づいてくる。違う階の人間が、気配も声もなく行き交う。すべてが密やかで、厚い壁に遮られている。防犯カメラが、踊り場の隅から、いやらしいほど滑らかに、この老人の一挙一動を追っていた。

最上階。インターホンを押すと、今日は十数秒の間が空いた。

「……洋三さん」

待ちかねていた、というより、涙と紙一重の声だった。玄関の扉が、内側へと小さく開く。真子が立っていた。黒に近い焦げ茶の髪を、今日は下ろしたままで、薄い生成りの部屋着の襟元から、汗ばんだ胸元がのぞいている。襟の合わせ目から、真珠色の肌の上を一粒、よく見なければ消えてしまいそうな汗が、鎖骨のくぼみへと滑り落ちていく。手には白い布があった。遺影を拭いていたのだろう。白檀の香りが、部屋の奥から秋の風のように流れてきて、洋三の眉間をゆるませた。

「遅くなりました」

「ううん、ちょうどよかった。今、写真を拭いてたの」

真子は小さく笑って、肩越しにリビングを振り返った。その横顔の、伏せた睫毛が、廊下の照明を受けて細く影を落とす。目許が、わずかに赤い。泣いていたのかもしれない。いや、それだけではない、火照った肌の下から滲むような、薄い情熱の色が、彼女の頬の高いところへ上っていた。彼女の素足の裏が、フローリングを踏む音は、どこかずいぶんとゆっくりに聞こえた。足の裏の肉が、木の冷たさを撥ねるように、ぺたり、ぺたりと、湿った音を立てている。

靴を脱いで上がる。リビングの空気は、少し冷えていた。窓が開いていて、九月の初めの、どこか郷愁を含んだ風が、カーテンの裾を揺らしている。窓辺に座れば、街の灯りが粒のように遠くで揺れていた。いや、今はまだ、夜がすべてを塗りつぶす前で、窓の外には半熟の夕闇が、卵の黄身を溶くようにとろとろと垂れている。その光が、磨かれた床の上で、水たまりのように広がっていた。

「今日は、あの」

洋三が、持ってきた袋を差し出した。真子が受け取って、中を開ける。梨と、浣腸の箱が、無造作に並んでいた。彼女の喉が、小さく波打った。梨の果皮を包む薄紙を、長い指が、そっと撫でる。それから、隣に置かれた浣腸の箱の角を、白い指先が、つい、と一度だけ、確認するようになぞった。

「お供えに、と思って。命日だと、大河内さんから仄聞いたしましたので」

「そう……わざわざ、気を遣わせてしまって」

真子は、梨の包みを胸に抱くようにして、目を伏せた。長い睫毛が、白い頬に、扇を伏せたような影を落とす。洋三は、彼女の横顔を盗み見ながら、果たして、今日が本当に命日でよかったのか、と内心で首を捻った。大河内の口からは、たしかに「もうじき、だろ」と聞いたはずだった。だが、家を出るまでの記憶は、あの薬局の袋の中身のことばかりで、日付の輪郭がひどくぼやけていた。梨を買い求めた果物店の女主人が「ご仏前ですか」と包装紙に銀の水引を添えた顔を、ふいに思い出す。あれは、今日という日に、自分が据えたものだ。ならば、これでよいはずだった。少なくとも、彼女の手の中で、黄金色の梨が、夫の眼差しに一番近い場所へ行こうとしている。それで、よいのだと。

「あの人も好きだったの。この、洋梨じゃなくて、こういう、実のくびれた、青いやつ」

真子は、梨を抱いたまま、ふっと微笑んだ。その微笑みが、目の縁の赤みを際立たせた。彼女はそれ以上、命日についての嘘も本当も口にしなかった。唇を閉ざすのではなく、その日というものを、梨の柔らかな重みのほうへそっと移しかえたのである。果物だけを冷蔵庫にしまい、袋に残った浣腸の箱を、白い手で掴んで、静かに洗面所のほうへ運んでいく。廊下へ消える後ろ姿の、薄い部屋着の布が、腰のくぼみから双臀のふくらみへかけて、しなやかに揺れていた。彼女が廊下に出たところで、洋三はリビングの壁際、遺影の並ぶ棚へ足を向けた。

遺影のガラス面が、夕闇の色を映して、ねっとりと光っていた。あの男の顔。撮影の角度が違うだけで、同じ微笑みが三つ、四つ、並んでいる。真ん中のいちばん大きな額は、先ほど拭かれたばかりなのか、埃が落ちて、くっきりと透明だった。洋三は、そこに映る自分の顔を見た。痩けた、年寄りの顔。その目が、女の遺影を見つめ返している。彼は目を閉じた。瞼の裏で、遺影の男の笑みだけが、青白く残像になった。洋三は自分の手のひらを見た。梨の包みを握っていた指のあいだに、甘い粉のような香りが残っている。それとは別に、ポケットの中で、さっきまで漬かりっぱなしだった汗の匂いが、鼻先をかすめた。

「洋三さん」

真子が戻ってきた。手には、濡れ布巾が括りつけられた小さなバケツ。彼女は棚の前まで来ると、いちばん端の遺影を手に取り、裏の桟まで丁寧に拭き始めた。ガラス面を拭く布の音が、きゅっ、きゅっ、と、澄んだ水気を帯びて夜の匂いに混ざる。

「洋三さん、今日は、夫の命日なの」

その声は、背中を向けたまま、部屋の薄闇に落ちていった。言葉の輪郭が、床の上でゆっくりほどけて、洋三の足首へ絡みついてくるようだった。

「……ええ。お供えは、あの梨だけで、申し訳ありませんでした」

「ううん。夫も、きっと喜んでるわ。それに、あなたが来てくれたことこそが、いちばんの供養だと思うの」

真子は、額を棚に戻し、次に二枚目を手に取った。その仕草のてまえで、洋三の視線は、彼女のうなじ、落ちかけた髪の合間から覗く白い肌、それから薄い部屋着の背中を辿った。腰のあたりに、昨夜できたばかりの、自分の指の跡が残っている。薄く赤みの差した三日月型の痕が、部屋着の布の下で、洋三の目だけにひそやかに光っていた。見なかったことにしようとして、けれど、見ずにはいられなかった。自分の指でつけた痕を数えるたび、唾液の粘度が増す。胃の奥が、情けなく熱を持った。

「手伝いましょうか」

「平気よ。あなただって、お仕事で疲れてるでしょ」

洋三は、返す言葉もなく、足元を見た。爪先の先で、板の継ぎ目に溜まった、かすかな埃が揺れた。やがて真子が三枚目のガラスを磨き終わり、バケツを脇へ置いた。彼女は右手の甲で前髪を上げ、濡れた指先を部屋着の胸元で、軽く拭った。薄い布が、その動きにつれて持ち上がり、胸の輪郭をあらわにする。尖りかけた乳首が、湿った布地を内側から小さく押し上げていた。洋三の視界の縁が、熱を帯びた。

「お線香、あげてくださいね。あなたにも」

「ええ」

いつもなら、彼女の体のどこかしらにすぐ触れてしまっているのに、今日は時間が紙のように薄い。命日という言葉が、リビングの床に張りついている。壁際の男の笑顔が、ひとりでに膨らんで、この空間を支配しているようだった。洋三は息を深く吐いた。長く、しめった息が、唇のあいだからこぼれ落ちる。

再び、川べりのような風が吹いた。カーテンが膨らんで、棚の遺影がわずかに揺れる。真子が窓辺へ行き、開いていた窓を半分だけ閉めた。それから彼女は、ゆっくりと振り返った。肩の上に、夜のはじめの色が落ちている。部屋の空気が、閉められた窓によって、あたたかい澱みに変わっていく。

「ねえ、洋三さん」

真子の声が、ふしぎなほど平坦に聞こえた。けれど、その目蓋の裏に、火のようなものがひそんでいる。黒に近い焦げ茶の瞳の、暗い琥珀色が、洋三の痩せた体を、真っ向から貫いていた。

「今日は、夫のことを、いちばん近くで感じる日なの。だから、お願い」

そう言って、彼女は胸元へ両手を持ち上げ、指先で部屋着のリボンを、胸の下のところで解いた。布が、するりと肩から滑り落ちて、白い素肌が現れる。下には、何もつけていなかった。真珠色の肌が、部屋の暗がりの中で、ほのかに発光しているようだった。胸の先が、つんと上を向いて、空気に触れた途端、こまかく震える。その震えが、空気の重さを、肌の上に描き出していた。

「あなたと、したいの。夫の目の前で、私を、おかしくして」

彼女は一歩、洋三に歩み寄り、その手を取ると、自分の左の胸に導いた。掌が、しっとりと熟れた肌の上に吸い付く。胸の重みが、指の股へ流れ込んで、その中心で乳首がしゃんと立ち上がる。布越しではない、素肌の熱。この肉の温度を、洋三は知っている。知っているはずなのに、触れるたびに、初めて触れた庭のような戸惑いが指先を震わせる。掌の下で、彼女の心臓が、とくん、とくん、と、早鐘のように脈打っていた。その律動が、指の腹を、内側から撫で返してくる。

真子の両腕が、洋三の首に回った。背伸びをして、耳元に唇を寄せる。吐息が、奥歯の並びを伝って鼓膜へ滑り落ちる。髪の毛の先が、洋三の首筋を、くすぐるかくすぐらないかの境目で、やわらかく掠めた。彼女の腋の下から、汗と、日に何度か塗り直したのであろう、仄かに甘いクリームの匂いが、ふわりと立ちのぼった。

「私ね、今日ね、すごく、出したい気分なの。朝から、お腹が重くて……ううん、そうじゃなくて」

真子の指が、彼の手を胸から離し、腹へ、そして下腹部へと押しつけた。布の上から、彼女の指が、洋三の手の甲を、汗ばんだ腹の肉へと沈める。下腹の内側で、消化されかけたものが、もこりと動くような、そんな生々しい手応えが、男の骨張った指へ伝わってきた。

「夫の命日なのに、私、あなたに、浣腸されてるところを、見てほしいの。恥ずかしいところを、一番、見てほしいの」

洋三の手のひらが、彼女の腹の薄い肉を、円を描くように撫でた。彼女の内臓が、わずかに動くのがわかる。昨日の分が、まだわずかに残っている手応え。それさえも、この女のいとおしさの一部として、洋三の胸を通り過ぎた。指の腹で押すたび、彼女が小さく身じろぎして、鼻から抜けるような息をこぼす。

「真子さん」

洋三は、彼女の額に、自分の額をそっと押し当てた。彼女の両頬が、ゆっくりと朱に染まっていく。肌と肌のすれ合う、かすかな音が聞こえた。額の骨の硬い感覚と、彼女の前髪が二つの額のあいだで潰れる、くすぐったいような感触。息が混ざり合い、互いの吐く二酸化炭素が、唇のすぐ近くで、あたたかく澱んだ。

「私で、よければ、いくらでも」

彼の声が、低く、掠れて、けれど優しかった。真子が「ん」と鳴くように応え、自分の唇を、彼の痩せた鎖骨のあたりへ押しつけた。それから体を離し、おもむろに遺影の棚へ近づいて、四つん這いに手を突いた。部屋着の裾が腰の上までまくれあがり、下着一枚の丸い双臀が、男の目の前に無防備に突き出される。薄い陰影が、その谷間に溜まっていた。下着の中央には、女の割れ目に沿って、まだらな湿りが、暗い色を滲ませている。それが、夕闇の残り光を、ぬらりと吸い込んでいた。

「ここで、して……」

洋三は、片膝を床につき、彼女の後ろへ回った。遺影のガラス面が、女の肌と、男の影を映す。あの笑みの奥で、今、この部屋が、昼と別の顔に変わっていく。洋三は手を伸ばし、真子の下着の縁へ指をかけた。汗で湿った布を、ゆっくりと腿まで引き下ろす。布地が肌から剥がれる瞬間、かすかに糸を引く音がして、女の肌と下着のあいだに歴史でもあるかのような、むせ返る湿度が立ちのぼった。白い腿の内側に、下着の跡が一筋、赤く残っていた。それを指の腹でなぞると、真子が「ぁ……」と息を漏らし、床に額をこすりつける。腿の肉が、かすかな痙攣を繰り返し、肛門の周囲の薄い産毛が、目に見えない風に震えていた。

脱がせた下着から、女の匂いが立ちのぼる。甘く澱んだ、半日ぶんの汗と、少しの尿の匂い。それこそが、彼女の誠実の形であるように、洋三は鼻を近づけて吸い込んだ。頭の芯が、じんと痺れた。嗅いではいけないものを嗅ぐたび、目蓋の裏が、ちりちりと焼ける。それなのに、顔を離せなかった。むしろ、もっと近づけて、布に残った黄色い染みの形を、舌先の上に並べるように、何度も息を吹きかけた。

「浣腸、してきます」

彼は腰を上げた。洗面所へ向かい、引き出しから、使いかけの潤滑ゼリーと、買ったばかりのイチジク浣腸を取り出す。箱から一本、玻璃棒のように重いそれを引き抜き、キャップを外す。甘い薬品の匂いが、指先をふわりと包んだ。先端の冷たさが、二か月前の、最初の日の指の震えを呼び覚ます。けれど、もう恐れてはいない。ものの手触りが、手順の隅々までを覚えている。洋三はゼリーを先端に薄く塗った。滑りのある、半透明の粘度が、樹脂の到達を、やわらかく補助する。指に絡むゼリーの冷たさが、これから届ける場所の熱を、先に待ち受けていた。その所作のひとつひとつが、彼という男を、この部屋の夜の主に変えていく。洗面台の鏡に、道具を持つ自分の顔が映った。責める男の顔だった。頬の肉が落ち、目の下の紫斑がいちだんと濃い。その顔を、彼は、もう、よく知っていた。

戻ると、真子は、遺影の前で四つん這いになり、両脚を肩幅に開いて待っていた。彼女は自分で双臀を両手で割り開いている。人差し指と中指が、白い肉に埋もれるほど深く。露わになった窄まりは、こわばった一文様の縮れ毛に囲まれて、暗い色をして、ひくり、ひくり、と息をしていた。窄まりの周囲をめぐるしわが、ひくつくたびに、少しずつ、湿った空気を飲み込もうとしている。

「真子さん、入れるよ」

真子が、床に突いた頬の上から、こくりと頷く。頬が擦れるたび、フローリングに濡れた音が、小さくまとわりついた。洋三は、その窄まりの中心へ、イチジク浣腸の先端を押し当てた。ひんやりとした樹脂が、肉を押しのけて、ぬち、と浅くめり込む。彼女の肛門が、次第に力んで、それから彼の手の中で、する、と緩んだ。挿入口の、少し膨らんだ基部まで飲み込むと、ひときわ深く、く、と真子の喉が鳴った。

「……ん、く……」

挿入口が、容器のくびれを喉のように締めつける。括約筋が、異物を少しでも深く締め上げようと、ぼこぼこと収縮するのが、男の手の中で生々しく伝わってくる。洋三は、腰を落ち着かせるようにして、ゆっくりと注入を始めた。透明な温水が、彼女の直腸を、一本の細い川となって流れ込んでいく。腹の奥に広がる、熱い液の重さは、少し時間を置いて、女の発する声と震えに変換されていく。

「あ……っ、入ってる……」

真子の背中がうねり、肩甲骨のあいだに汗が滲んだ。背中の産毛が、浮き出た汗を抱きとめて、部屋の薄明かりを銀の粉のように反射する。腹の下のほうが、内側からせり上がるように張ってくる。注入が終わり、容器を抜くと、窄まりが、くぱ、と開いて、黄色く濁った水滴を、ほろりと垂らした。こぼれた一滴が、真子の、内腿の高い位置を、ゆっくりと伝って、床にひとつ小さな染みをつくる。洋三は濡れた先端を、彼女の尻たぶで軽く拭き、容器を横に置いた。尻肉の柔らかさが、ぬるりと滑る樹脂の先を、布のように拭い取る感触が、指先から背筋を甘く撫で上げた。

「まだ、我慢してて」

「うん……ま、だ……」

真子は両手で腹を抱え、肛門を天井へ向けたまま、狸のように丸い背を丸めた。すう、はあ、と短い呼吸が、肩を忙しく波立たせる。その姿を、遺影のガラスが映している。四つん這いの獣のような女の影が、亡き夫の笑みと、暗いガラスの中で重なった。洋三は手を伸ばし、彼女の尻たぶを上から掴んで、左右へ開いた。溢れてきそうなものを、指が見守っている。尻肉が、汗で滑り、掌の中で、ぷるぷると脂の乗った魚のように暴れた。

「洋三さん……見てて……私、出るけど、まだ……ぁ、く、きてる……」

声が、低く、切羽詰まっていた。みっともなく四つん這いで、遺影の前に尻を突き出している女の、肌も、声も、匂いも、洋三のすべてだった。男は、このまま時間よ止まれ、と思った。同時に、早く彼女が下痢便をひねり出す姿が見たくて、浅い呼吸を繰り返した。口の中が、いやに乾いて、上顎がひりつき、舌のつけ根から唾液ばかりが湧きあがる。

「我慢しなくていいよ。もう、出していいから」

洋三の言い方は、よしよし、と子供をあやすのに似ていた。だが、目は、充血した男の目をして、彼女の窄まりを凝視している。真子が「あ、あ、あ……」と喘ぎを重ね、突然、内側から大きな蠕動が起こる。ぶ、ぶりゅ、と濁った水音が弾け、軟便が床へ噴き出した。最初の一噴きが、肛門のすぐ下の床に、黄土色の花を咲かせる。臭いが、一気に、鼻腔の奥まで侵入してきた。半日ぶんの便が、薄められて、甘い浣腸液の匂いと混ざり合い、生ぬるい湯気を立てている。

「ああっ、で、出る、出てる……私、いま、遺影の前で……あ、また来るよぉ……」

二度目の波が、彼女の肛門をこじ開け、ぷしゃあ、と黄色い水便を撒き散らした。白い太ももを伝い、フローリングに染みが広がっていく。のどの奥が、鋭い痙攣を繰り返す。真子の瞳は涙でぬめり、鼻水が唇の上を光った。それでも彼女は、肛門を洋三の視線へ差し出すと、指を伸ばして、自らその穴のふちを小さく引っ張った。排泄の恥辱と、露出の快楽が、彼女の腹の中でどろどろに溶けて、光を放っている。

「指……入れて……夫に見られてるのに、私、もっとして欲しくなっちゃう……」

洋三は、便にまみれた床へ片膝をついた。ガラス越しに、遺影の中の男が、微笑みを崩さないまま、この老いた男の後ろ姿を眺めている。汚れるのも構わず、右手の人差し指と中指を、彼女の窄まりへ沈める。灼熱の粘膜が、骨の上から融けかかってくる。内壁が、二本の指を、いやらしいほど深く咥え込み、指の腹をこすりあげながら、ずるずると蠢いた。指の先で、奥に残った硬いものを押しつぶすと、真子が「ひうっ」と腰を浮かせ、ぐちゃ、という粘着音が、二人の耳を刺した。

「奥、まだ、なにか、ある……出して……ああ、洋三さん、奥、突いて……」

彼女の叫びは、懇願であり、祈りだった。指を二本、内壁に沿わせて手前に引くと、軟便の残りが、とろりと溢れて、洋三の手首まで汚した。温かく、ぬらりとしたそれが、手首の古い血管の浮き彫りに沿って流れ落ちる。白い太ももが、がくがくと震える。そこへさらに、彼の左手が、彼女の陰核を、下から柔らかく揉むように触れた。指の腹に、充血した肉芽の、つるりとした硬さが当たる。途端、真子の肩が跳ね、前へ倒れ込みそうになるところを、洋三は腹と床のあいだに手を差し入れて支える。彼女の胸が、汗に濡れて手首に触れる。乳首が二つ、親指のつけ根の上を、固い小さな石ころのように転がった。

「あ、あ、あ……っ、そんな、二つは、むり、おかしく、な、ぁ……っ」

腰がびくんびくんと跳ね、肛門が指を加えたまま、きつく絞まっては開く。陰唇の上では、充血した肉芽が涙をこぼしていた。蜜が、陰唇の合間から、あごの裏のようにねばって、洋三の手首へ銀の橋を架ける。浣腸液と便のにおいが、リビングいっぱいに、もやのように立ちこめる。壁際の遺影のガラスが、床の汚れも二人の姿も、険しい静けさで抱きこんでいた。真子の喉から、煽り立てるような、泣き声に近い嬌声が、途切れ途切れに溢れてくる。

真子が、のけぞって、喘いだ。

「きちゃう、私……浣腸されて、指だけで、遺影の前で、きちゃうよぉ……っ」

洋三は、彼女の腰を引き寄せ、人差し指を最深まで挿れて、前方の壁をぐりぐりと押し上げた。腟と直腸のあいだの薄い肉壁を、骨の節が、容赦なくこすり上げる。同じ指の根元で、肛門の縁が、ひたすら歓喜に泡立つ。真子の内ももが大きく痙攣し、白い腹の奥が、ひくり、ひくり、とのたうった。出し切ったあとの腹が、薄く萎んで、そのぶんだけ子宮の薄明かりが、肌の内側にくっきりと浮かんでいるようだった。

「きて」

洋三が囁いた。真子の目が、白目を剥く。みっともない愉悦が、全身をのけ反らせる。溢れる体液が、音を立てて、びちゃびちゃと床を叩いた。肛門と陰唇が、同時に、痙攣の波に呑まれて、くぱら、くぱら、と、空気にむなしい口を開けては閉じる。淀んだ空気が、女の全身から立ちのぼる匂いを、赦しのように包み込んでいた。

「んおぉ……っ、イク、イク……真子、イクの……夫の前で、洋三さんに……あああっ」

絶頂が、彼女の背骨を内側から断ち切るように伝わっていく。突き出された双臀が、洋三の手の中で、弓のように反った。声にならない喘ぎが、長く、細く、遺影の並ぶ空間へ溶けた。尾骨の上に、ぶつぶつと粟立つ鳥肌が、この女の背中を一瞬で覆っていく。その荒れた皮膚を、洋三は指の背で、昔からそうしてきたかのように、何度も優しく擦った。

倒れ込んだ真子の下に、洋三は手ぬぐいを敷いた。尻から腿まで汚れを拭い、床の染みも、持参のタオルで叩いた。枕元ならぬ遺影の前で、男は黙って、女の身体を「しまつ」していく。汚れたタオルが、しだいに重くなっていく感触が、情事のあとの沈黙を、いっそう深くした。それがせつなくて、情けなくて、たまらなく淫靡で、洋三の前は、布を突き破るほどに張りつめていた。真子は、されるがまま、うわごとのように荒い息を繰り返していた。

やがて二人は、遺影の前で、向き合って座った。真子の部屋着は、汗で透けて張りつき、胸の膨らみと乳首の形を隠しきれずにいる。床には使い終えたタオルと、まだ微かな湯気の名残があった。窓の外では、虫の声が、水のように静かだった。遠くで車の音が、ひときわ近く鳴って、また遠ざかっていく。二人の呼吸だけが、この部屋の時間を、いまだ夜の前で引き留めていた。

「洋三さんが、ちゃんと見ててくれるから、私は、生きていられるの」

真子は、すこし掠れた声で言った。

「私も……真子さんに、必要とされて、いますから」

洋三は答えた。けれど、言葉にした瞬間、それが建前のように胸を滑り落ちた。必要とされる。いや、必要だ。自分がこの女の、汚れた夜を、吸い尽くすように必要としている。亡夫に似た面影、ではなく、亡夫の前で情けなく尻を振る女を、見つめる自分の目。その目こそが、今の洋三のすべてだった。

真子は、壁際の遺影に、手を合わせた。洋三も倣う。二つの背が、しんと曲がり、灯りもつけない夕闇の中で、白い額と額が、しばし同じ方角を向く。空気が、線香の香りと、まだわずかに残る二人の匂いを、一つの帳のように織り合わせていく。外から、秋の虫の声が、断続的に、部屋の中まで届いていた。

線香をあげ、片付けを終えたあと、真子は棚の下の引き出しを、わずかに開けた。奥へ手を入れる。小瓶の冷たい手触りを確かめ、彼女は、そっと引き出しを閉めた。その一連の仕草を、洋三は、宵闇のなかで横目に見ていた。ちいさく閉まる音。それは、御破算の鐘のように、部屋に生温かく響いた。引き出しの木目が、その音を吸い込んで、また無言になる。

帰り際、玄関で真子が、洋三の胸に頬を寄せた。汗の引いた肌の下で、彼女の心臓の音が、洋三の左胸へ、こと、こと、と移ってくる。二人の鼓動が、薄い身を隔てて、互い違いに鳴っていた。

「このことは、誰にも言わないでね」

「言いません。言えるわけが、ありませんから」

真子の手が、洋三の腰を確かめるように握り、離れた。湿った瞳が、廊下の明かりを宿して、年甲斐もなく綺麗だった。洋三は靴を履き、扉の外へ一歩出る。振り返らなかった。振り返れば、男の性が、骨の髄から立ち上がって、もう一度あの部屋へ戻ろうとするのが、手に取るようにわかっていた。振り返らない代わりに、靴の紐を結び直した。おかしなほど時間をかけて。指先に、まだ、彼女の窄まりの熱が、うっすらべったりと貼りついていた。

エレベーターを降り、外へ出ると、夜気が、汗ばんだ首筋をひやりと撫でた。生ぬるい昼の余韻が、ようやく体から離れていく。空には、星が、いくつか。アスファルトを踏む靴の音が、左右で微妙にずれている。自転車のサドルを跨ぎ、ペダルへ足をかけた。こぎ出す。風が、生ぬるく、頬を包む。身体のどこにも、もはや痛みはなく、むしろ、下腹の奥が、鈍い火照りのように脈打っていた。

大通りを避け、街路樹の影が落ちる側を、ゆっくりと走る。カーブミラーの下で、誰かの捨てたレシートが、風に煽られてひらひらと舞った。ヘアドライヤーのような音を立てて走り去る車の群れが、時折、彼の横を、無遠心に追い越していく。そのたび、洋三は自転車を縁石へ寄せて、頭を小さくした。彼の頭の中では、まだ真子の喘ぎ声と、便の放たれる水音が、薄い膜のように反響を繰り返していた。

アパートの近くまで来たところで、街灯の下に、小さな影が立っていた。佐伯千鶴だった。彼女は、プラスチックの買い物かごを下げて、鶏が首を伸ばすような格好で、洋三の帰りを待っていた。いや、待っていたのではない。夜のうちに、枯れた植木の様子をもう一度見に来たのだ。そう、彼女は植木の世話に来たのだ。洋三は、そう思い込もうとした。けれど、彼女がこちらを見たとき、淡い緑の瞳は、目的もなく駐輪場を見張る者の目ではなく、明確に、この老人の顔を探す、猟犬の静かな粘り気を帯びていた。

「沼田さん、お帰り。遅かったねえ」

「ええ。すこし、あちこち見回りを」

「そう。見回り。見回りなら、仕方ないねえ。……あんた、なんだか、いい匂いが染みついてるじゃないか」

心臓が、胸の内側の細い骨々のあいだで、ひときわ低く響いた。指に、女の汗と、浣腸液の甘い匂いが、まだこびりついている。洗面所で、指を二度洗った。帰る前には、石鹸を、掌のしわの中まで擦り込むように洗った。それでも、この世話焼きの老女の鼻は、そんな膜など容易く剥いでしまうらしい。千鶴は、一歩、洋三へ近づいた。鼻先を、せわしなく動かして、空気を確かめている。

「線香の匂いだと思うんですが。今日、少し、そういう場所へ」

「線香ねえ。あたしも、若いころ、よう嗅いだ匂いだよ。……あんた、まだ、くたばる歳じゃないだろう。変なとこに、足を突っ込みなさんな」

「大丈夫です。……では、おやすみなさい」

千鶴は、それ以上何も言わず、かごの中の、萎れたハンカチみたいにしわの寄ったお茶の缶を、抱え直した。その顔は、もう、とっくに何かを知っている老人の顔だった。洋三は、できるだけ足音を立てないように、共用廊下を歩いた。それなのに、革の靴底は、板張りを思い切り鳴らして、静けさを裸にした。

部屋の前で鍵を差し込んでいると、隣の大河内の部屋の灯りが、玄関ドアの曇りガラス越しに揺れた。ガチャリと、小さく、内側から覗き穴を閉じる音。ありふれた生活音のはずなのに、あの灰色の目が、こちらを見ていた気がして、洋三は鍵の束を、まともに鍵穴へ入れられなかった。手が震えている。二度、三度と、金属同士が滑り合う、無機質な音を繰り返す。四度目で、ようやく、鍵が錠前の内壁を噛んだ。扉を薄く開けて、後ろ手に閉める。暗い靴脱ぎに、密閉された古畳の匂いが、彼を、この世界でただ一人の男に引き戻した。

家へ着き、薄壁のアパートのドアを開けると、真っ暗な部屋に、夜ならではの匂いが溜まっていた。昨夜の洗濯物が、窓際の椅子にかかったまま、生乾きの甘さを放っている。洋三は服を着替えると、布団を敷いて、そこに仰向けになった。天井の板の節穴を、暗がりの中で探す。見つからない。けれど、指先には、彼女の腹と、尻と、窄まりの熱が、まだ柄のように残っていた。爪の際に入り込んだ、微かな薬品の香りが、息をするたびに、どこからか立ち返ってくる。

壁の向こうで、大河内が、低い声で何事か独り言を漏らした。夫婦で夜の帳場を分けるような、はっきりしない男の声。時々、ぷつり、と途切れて、そのたびに、洋三の胸の肉が、薄氷を踏むように張りつめる。壁が、薄い。この部屋は、誰かの生活音と、誰かの視線が、壁を透かして流れ込んでくる。自分の呼吸さえ、あの男に聞かれている気がした。洋三は、毛布を鼻の下まで引き上げ、指先で、真子に触れた人差し指と中指をもう一度だけ重ね合わせた。彼女の残りを、夜の布の中で、もう一度確かめるように。

彼は、胸元から、くたびれた通帳を取り出し、擦り切れた角を一度だけ指で撫でた。それから、枕の下ではなく、衣服箪笥のいちばん奥の引き出しへ、封筒と一緒にしまい込んだ。自分が今、どこへ向かっているのかは、考えなかった。明日も管理所へ行き、真子のいない昼の顔で鍵を回し、夜の顔を、あの高層の一室へ運ぶ。それが、この男の選び取った道だった。

目を閉じると、風が窓を、ごく僅かに打った。ぼんやりと、車の音が、遠くを去っては、近くを流れる。壁の向こうから、大河内の、まだ終わらない夜の物音が、雨足の残りみたいに、ぽつ、ぽつ、と届いていた。天井裏を、何か小さな生き物が、ひっそりと走る。洋三の唇が、薄く開いて、眠りの縁に触れた。その唇の乾きを、もう誰も知らないまま、夜は静かに明けようとしていた。

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読み終えたあとの余韻に。

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登場人物
  • 沼田洋三 ぬまた ようぞう
    男性 ・ 65

    外見: 白髪交じりの短髪、くすんだ茶色の瞳、痩せて背の低い体格。服装: 管理所では紺の作業ジャンパーにグレーのスラックス、私服は色褪せたポロシャツに綿パン。寡黙で従順、孤独と金銭的不安を抱えながら役割に縋る。香水と薄い布地の向こうの肌から目を逸らせない。Image Prompt A: 1boy, elderly male, adult, short hair, grey hair, brown eyes, skinny, short, wrinkled skin, stubble

  • 假屋崎真子 かりやざき まこ
    女性 ・ 45

    外見: 黒に近い焦げ茶のゆるく波打つ肩下までの髪、琥珀色の瞳、柔らかく肉のついた中肉の体格、162cm。服装: 薄いアイボリーのブラウスにリネンのワイドパンツ、自宅では生成りの薄手の部屋着。清楚な微笑みの奥に肛門性癖を隠し、主人公の前でだけ嫌らしい要求を差し出す。遺影の前で便秘薬を隠す仕草がある。Image Prompt A: 1girl, mature female, adult, wavy hair, dark brown hair, amber eyes, soft body, medium breasts, pale skin

  • 大河内誠 おおこうち まこと
    男性 ・ 58

    外見: 黒一色の短髪に白髪が混じる、濃い灰色の瞳、がっしりした大柄、178cm。服装: グレーの作業服に安全靴。隣の部屋に住む水道工事の職人で、噂好きだが根は世話焼き。薄壁越しに洋三の生活音を聞いている。Image Prompt A: 1boy, mature male, adult, short hair, black hair, grey eyes, muscular, tall, tan skin

  • 佐伯千鶴 さえき ちずる
    女性 ・ 62

    外見: 白髪をきっちり結ったショート、淡い緑の瞳、小柄で細い、150cm。服装: 生成りのエプロンに地味な花柄のブラウス。同じアパートに住む大家代わりの老婦人。井戸端の目を持ち、洋三の変化を静かに見ている。Image Prompt A: 1girl, elderly female, adult, short hair, white hair, green eyes, petite, thin, fair skin

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