結婚一週間前の私が後輩の家飲みで婚約者の目の前で入れ墨の男たちに抱かれ撮影されるまでの三日間
あらすじ
指輪のサイズ直しを待つだけの、幸福な結婚前夜だった。給湯室に残る後輩の甘い香水が鼻をかすめるたび、胸の奥に砂粒のような違和感がたまる。優しい婚約者の言葉に安らぎながらも、視線の冷たさを打ち消せないまま招かれた祝いの席。グラスに注がれた透明な罠が、幸福を吊り上げ、落下させる。
第1章 幸福の空白に沈む砂粒

第1章: 幸福の空白に沈む砂粒
## 第1章: 幸福の空白に沈む砂粒
金曜日の夕暮れは、いつもより随分と長く感じられた。オフィスの窓から差し込む光が、デスクの縁に薄い琥珀の膜を張るように斜めに落ちてきている。私はその光の中で、右手の薬指をゆっくりと親指でさすっていた。指輪を外してからまだ半日も経っていないのに、指の根元には、まるでそこにだけ白い影が残っているかのような、妙な感覚がある。
サイズ直しに出した婚約指輪は、今日、ようやく職場近くの宝石店に預けてきたところだった。ずっと指に馴染んでいた重みが消えたせいか、キーボードを打つ指先の動きまで心許ない。ポケットに触れると、指輪と一緒に外してしまった留め金の小さな冷たさが、布越しに伝わってきた。留め金だけが、私の手元に残っている。まるで結婚という輪郭を、その小さな金属片が代わりに保ってくれているみたいだと、そんな子供じみたことを考えてしまう。
給湯室へ向かう廊下で、私は福留のことを考えていた。彼はいつも口数が少ないけれど、私が指輪のサイズに悩んでいたときも、何も言わずに一緒に店を探してくれた。サイズが合わなくて、指の関節のところで止まってしまった指輪を眺めながら、二人で笑った日を思い出す。指輪の内側に刻まれたイニシャルを、彼の指が何度もなぞっていたっけ。早く元どおりになって、また同じ場所へ戻ってきますように。私はそんな祈りを、心の中でそっと呟くようにしていた。
給湯室の扉を抜けると、甘ったるい香りがふわりと鼻をついた。換気扇の回転に混じって、誰かの残していった湯気と、むせ返るような白い花の匂い。ああ、これは玲香の香水だ。そう気づいたときには、喉の奥にまで甘さがへばりついているような錯覚に陥っていた。
そのとき、背後の廊下からヒールの音が近づいてくる。振り返ると、茶色い巻き髪を揺らしながら、玲香が小走りにやってくる。小柄なくせに胸元がオフショルダーのニットからこぼれそうで、スカートは短い。すれ違いざま、彼女の身体からあの甘い匂いがふわりと立ちのぼった。鼻の奥に張りつく、粘るような残り香。
「結婚、本当におめでとうございます」
玲香はそう言って微笑んだ。口元は確かに弧を描いていた。けれど、その目は笑っていなかった。色素の薄い茶色い瞳が、夕日に逆光になって、奥の光を全部吸い込んでしまうように私を見ていた。冷たい、と感じる間もなく、彼女は小さく会釈して行ってしまう。私は何度か瞬きを繰り返してから、「ありがとう」と、いまさら遅い返事を自分の唇の内側で転がした。
気のせいだ。そう思うことにした。玲香は入社してからずっと、にこにこと愛想のいい子で、私にだけ冷たい印象を与える理由なんてどこにもないのだから。
給湯室の小さなシンク前には、誰かが使ったままのコーヒーカップが置いてあった。淡いクリーム色の陶器の縁に、うっすらと口紅の色が残っている。あれは玲香のものだ。カップの傍らで、まだ湯気が細く立ちのぼるたび、温泉の蒸気みたいに甘い香水が揮発して、空気の中へ溶け出していくようだった。私は蛇口をひねって手を洗った。冷たい水の感触が指先を包み、泡が指のあいだを滑っていく。それでも、手を何度こすっても、あの匂いだけは鼻の粘膜に居残り続けた。
胸のざわつきをぬぐいたくて、私は何度もハンドタオルで手を拭いた。指輪の空白だけが、親指の根元に淡く痛む。幸福の土台に混ざった小さな砂粒の感触。気にしなければ消えてしまう。なのに、どうしても指先で探ってしまう。そんな心理に近いものがあった。
入り口のドアが開く音がして、振り向くと、玲香が戻ってきていた。まるでさっきの笑顔をやり直しに来たみたいな、明るい表情で立っている。
「あの、先輩」
「玲香さん、どうかした?」
私は指先を軽くハンドタオルの上で止めた。彼女の甘い匂いがまた近づいて、給湯室の空気まで桃色に染まっていく気がする。
「来週の土曜日ですけど、お祝いさせてください。結婚、決まったんですから、私、どうしてもお二人を呼びたくて」
「……あなたが、私たちに?」
「先輩と福留さん、お二人で。うちで良かったらですけど。家飲みです。ほら、あんまり外だとゆっくり話せないじゃないですか」
玲香はこう言った。福留、という名前を口にしたとき、彼女の声の温度がほんの少しだけ上がったような気がして、私は思わず彼女の唇を見た。笑みの形は柔らかい。けれど、目はまた、あの逆光の中でかすかに凪いでいた。
「来週の土曜日。ええ、ちょうど一週間後ね。福留にも相談してからお返事するわ」
「約束、楽しみにしてますね。ふたりきりよりも、たくさんのほうが楽しいでしょ。わたしの友達も二人、呼んでありますから」
四人。私は一瞬、彼女の言葉の端を掴み損ねた。結婚を祝う家飲みなら、福留と二人でもいいではないか。玲香の友人まで来るとなると、人数の問題よりも何か、その「先に呼んであります」という引っかかりのように準備の括れが気になる。
けれど私は、そういう後輩の申し出に、ろくな身構えもせずに笑ってうなずいてしまうたちだった。幸せの準備で柔らかくなった心は、小さな意外に抵抗するよりも曖昧な肯定を先に選んでしまう。
「ええ、じゃあ土曜日、楽しみにしてるわ」
そう答えると、玲香は白い歯をこぼして、給湯室の扉の取っ手に手をかけた。細い爪の先が、ステンレスに一瞬触れる。そのたびに、あの甘い香りが空気の粒を撫でるように強まる気がするのは、私の考えすぎだ。
「あの、玲香さん」
呼び止めかけて、私は言いよどんだ。何を聞こうというのだろう。あなたはどうして、福留のことをそんなに馴れ馴れしい名前で呼ぶようになったの。そんな問いが、自分の中で異物のように尖るのを感じた。
「あら、何ですか?」
玲香は首を傾けて、肩から髪が一房こぼれる。それだけで、空気に一層香水が揺れるようだ。
「ううん、何でもない。来週、よろしく」
彼女は「はい」とだけ返して、廊下に出て行った。残された給湯室には、甘い香りだけが残る。コーヒーカップはそのままだ。換気扇が低くんうんと唸っている。
私は鼻で呼吸をして、唇を一度強く結んだ。大丈夫。やさしいだけの子。何かおかしなことを企んでいるとか、そういう話じゃない。ただ、これは普通の後輩の厚意だ。そう言い聞かせるように、胸の内で呟いた。
けれど、一度すべり込んだ砂粒は、押し込んでも指の腹に触れる場所にまだ残っている。私はカップに手を伸ばし、彼女のものだけを流し台の隅へ寄せた。白い湯気はもう立っていない。香りだけが、まるで彼女の後ろ姿みたいに、その辺りを薄く煙らせていた。
職場の玄関を出ると、夕闇が一気に濃くなっていた。ビルの足下を包む風には、昼の熱がまだ溜まっていて、スカートの裾を緩く持ち上げる。私は携帯の画面で時間を確認し、それから待ち合わせの場所へ向かった。通用口の脇、古い銀杏の木の下に、福留はもう立っていた。
グレーのカーディガンに白いシャツ、チノパンという、彼のいつもの出で立ち。私の姿に気づくと、彼は少しだけ目を細めて、片手を軽く上げた。
「お疲れさま」
私は彼の隣に立って、自然とその腕に自分の手を添えた。特別なことを言うでもなく、彼の体温がシャツ越しに伝わってくる。結婚一週間前。それなのに、目の前の男はいつもと少しも変わらない。
「ねえ、今日ね、指輪、サイズ直しに出してきたの」
そう告げると、福留はうん、とだけ言った。
「六日で上がるって。式には間に合うわ」
「良かったな」
短い相づち。けれど、私はそれが彼の一番の優しさのかたちをしているのを知っていた。
「玲香さんが、来週の土曜日、お祝いの家飲みをしてくれるって。あなたも一緒にどうかって」
福留は少し首を傾けた。彼の深い茶色の瞳が、夕闇の中で淡く光る。彼は何かを考えるように私を見た後、ぽつりと言った。
「紗季が行きたいなら、行こう」
「あなたさえ良ければ。後輩からのお祝いだから、断るのも、ね」
「ああ」
「玲香さんの友達も二人、来るんですって」
ここまで聞くと、福留の眉がわずかに動いた。けれど、彼は何も尋ねなかった。彼はいつもそうだ。不安も違和感も、私以上に口に出さず、ただ隣にいてくれる。それが今の私には、どれだけ温かいか分からない。
「少し歩くか」
福留に言われて、私は「はい」と頷いた。夕食までの間、秋の夜風を浴びながら並んで歩くのが、一週間後の結婚式を控えた私たちの、何でもないけれど代えがたい時間だった。
街路樹の枝が、風に揺れてかすかな葉擦れの音を立てる。私の右隣には福留がいて、右の薬指にはまだ、治癒していない空白があった。幸福の空白。指輪が戻るとき、その輪に込めた祈りの全部が、きっと私たちの指をしばらく離れずにいてくれる。そう信じていたい。けれど私の鼻の奥には、給湯室に残った玲香の甘い香水の匂いが、まだ、薄い膜のように貼りついていた。
明日の土曜日、約束の夜。その夜に何が待っているのかなど、今の私には知るはずもない。けれど、胸の奥に沈んだ砂粒は、歩みを進めるたびに、小さく私の内側を削っていた。
第2章 乾杯の音が砕けるまで

第2章: 乾杯の音が砕けるまで
土曜日の夜、約束の時刻よりほんの少しだけ早く着いた玲香の部屋の前で、私はインターホンを押す指先にそっと力を込めた。電子音が廊下の静けさを引き裂く。福留が隣で静かに瞬きをしている。二回、三回と瞬くたび、睫毛の影が彼の頬の上で細かく揺れた。彼の指先が私の手の甲に触れ、まるで「大丈夫だ」とでも言うみたいに、そこで一度だけ止まり、離れた。その温度が残っているうちに、ドアが内側からゆっくりと開く。
「先輩、いらっしゃい。福留さんも、ようこそ」
玲香の声は甘く弾んでいて、胸下まで流れる茶色い巻き髪が、彼女が首を傾げるたび、肩の上でほんの僅かにほどけていく。大きな襟ぐりの白いニットから覗く鎖骨のあたりから、職場で残っていたのと同じ甘い香水の匂いが、部屋の空気に溶けて濃く流れてきた。オフショルダーの袖口が、彼女の小柄な体をいっそう柔らかく包んでいて、タイトなミニスカートの裾から伸びるふくらはぎが、玄関の明かりの下で白くぬめっている。部屋へ一歩入った瞬間、その香りは壁にもカーテンにも染みついているようで、空気ごと甘く重く、まるで目に見えない蜜の膜が肺の奥まで張り詰めていくようだった。
「お邪魔します」
福留が短く言い、靴を脱ぐ。彼の指先が、まとめた靴をきちんと隅へ揃える。私もそれに続いた。玲香のマンションの玄関は思ったより広く、靴箱の上に小さなキャンドルが灯っていて、火の揺れが壁に琥珀色の影を落としていた。廊下を抜けると、リビングの明かりが私と福留を迎える。六畳ほどの部屋は生活感が薄く、フロアランプの柔らかい光が床のラグの毛並みを浮かび上がらせている。床に置かれたローテーブルを囲んで、すでに二人の男が座っていた。
一人は壁際のクッションに背を預け、こちらの顔を見るなり、口元だけで笑った。金茶の髪が無造作に伸びていて、白い半袖シャツから出た腕には、薄い皮膚の下で血管が青く浮いている。右首に小さな蛇の入れ墨が見え、彼が首をほんの僅かに傾けるたび、それが息をしているみたいに見えた。
「初めまして、お二人さん。大崎っていいます。今日は呼んでもらえて光栄ですよ」
軽い敬語に、目だけが値踏みをしている。人懐こい口調の裏で、瞳孔が二度、静かに私のほうを測った。
もう一人は、その隣で胡座をかきながら黙ってビール缶を口に運んでいた。短く刈った黒髪が頭の形をはっきりと見せ、黒いTシャツの袖を押し上げる太い腕が、赤みを帯びた照明の下で重々しく沈んでいる。左前腕に彫られた和彫りの模様が、白い肌に青く浮いていた。高遠という男だろうか。玲香の説明では、友人の二人が先に来ていると聞いていたが、目が合うや否や、彼の視線は私の顔から喉元へ、胸元へ、腰、太ももへと静かに下りていった。まるで服の上から順番に、指先ではなく熱を帯びた目の縁だけで触れていくような、ねっとりとした動きだった。
私は無意識に肩をすくめ、福留の半歩後ろへ身を寄せた。福留はそれに気づいたのか、腰をほんの少し浮かせ、片腕をテーブルの縁に置いた。その動作が、私と男たちの間をさえぎる仕草に見えた。彼の白いシャツの背中が、薄い壁のように、男たちの視線を引き受けてくれている。
「友達ですよ。二人とも、さっき来たばかりで、ちょっと退屈してたみたいで」
玲香がそう言いながら、私の肘をとん、と指先で突いた。笑っている顔は職場で見せる後輩の顔のままなのに、指先だけが冷たくて、私は肘の内側に彼女の体温がしばらく残るのを感じた。触れられたそこだけが環状に冷え、その後からじわりと熱を帯びる。
「さ、座って座って。今、飲み物出すから」
彼女に促され、私と福留はローテーブルの手前側に並んで腰を下ろした。座面の低いクッションが体をゆっくりと包み、スカートの裾から素足が覗く。畳ではなくフローリングの上に敷かれたラグの毛足が、かかとの窪みをくすぐった。福留のジャージの袖が二の腕に触れて、汗ばんだ彼の肌の温度が伝わる。部屋は妙に暑い。エアコンの風は止まっていて、換気のできない密室に四人分の体温が溜まっているようだった。甘い香水の匂いが熱で蒸され、鼻の奥に膜を張る。
「先に飲んでていいよ、って言ったんですけど、二人とも律儀に待っててくれたんですよ」
振り返ってキッチンへ向かう玲香の背中を見送りながら、私はテーブルに並んだポテトチップスと枝豆の皿へ手を伸ばした。大崎がビール缶を傾けながら、私のほうを薄く笑っている。彼の右手の爪が、缶の表面で小さく弧を描いた。
「結婚するんだって? すごいね、このご時世に」
「ええ、まあ」
私が曖昧に返すと、大崎は「真面目なんだ」と言って、口元に笑みを残した。高遠は何も言わず、空になった缶を片手で潰して床に置いた。金属のへこむ乾いた音が、甘い香水の匂いの下でやけに大きく響いた。視線を上げると、高遠の膝がテーブルの下からにゅっと伸びていて、私の左足の甲のすぐ横まで迫っていた。靴下越しに感じる空気の動きだけで、彼の存在が熱を帯びて近い。福留は気づいていない。彼は枝豆の殻を指先でつまみながら、黙って床の一点を見ていた。
玲香が戻ってきて、トレイに載せたグラスを並べる。背の高いガラスには氷が山盛りに注がれ、ビールは細かい泡を立て、もう一方の二つには透明な酎ハイが満ちていた。玲香はまず大崎と高遠に酎ハイを渡し、それから私と福留の前にビールを置いた。
「先輩、ビールで良かったですよね。福留さんも」
「ありがとう、いただきます」
福留が軽く頭を下げる。玲香の爪がきらりと光って、グラスの向こうで揺れた。濡れたグラスの表面に、彼女の指が淡く写り込む。氷の塊が、内側からゆっくりと沈み、また浮く。
そのときだった。玲香が一度背中を向けた。戸棚の前でしゃがみ込み、何かを取り出すふりをして、右肩だけがわずかに動いている。私はその背中を何の気なしに追った。テーブルに置かれた二つのグラスのうち、どちらか一方の氷の上で、白い粉がふわりと舞い、銀色の粒子のように光に浮かびかけた。粉は氷の隙間へ落ち、白い筋を作り、ゆっくりと溶けていく。氷の溶け方が変だと思った。いや、変だと思う前に、不安が喉の奥で固まった。あれは、何だ。気のせいだと言い聞かせるには、白い粒の落ち方はあまりに意思を持っているように見えた。
「玲香、今、何か入れた?」
声に出すつもりはなかった。心の中でそう呟いただけだったのに、唇が半開きになっていた。玲香が私のほうを振り返る。彼女はただ笑っていた。目を細め、首をかしげ、それ以上でも以下でもない顔で。
「先輩、乾杯しましょう。結婚、決まったんですから、お祝いしなくちゃ」
玲香は何かを手のひらで隠すように素早く私と福留の間に座り、自分のグラスを掲げた。彼女の細い指が、その拍子に福留の右膝の上へすっと置かれる。福留は一瞬びくっと身を強ばらせたが、玲香の指は離れない。薄いグレーのチノパンの上で、彼女の爪の先が小さく弧を描く。
「福留さん、今日はゆっくりしてってくださいね。先輩も」
「ああ」
福留の返事が短い。玲香の手の平が、つい、と腿を二度撫でた。私の視界の隅で、その爪が月の光みたいに白く光って、消えた。
「じゃあ、かんぱーい」
玲香の声に合わせて、グラスが掲げられる。大崎が「おめでとう」と言い、高遠が無言のままグラスを突き出した。私はビールを持ち上げ、福留のグラスにコツンと音を立てた。ガラスとガラスのぶつかる音が、予想よりずっと硬質で、部屋の熱を切り裂くように耳へ入った。
その音を合図に、私はビールに口をつけた。冷えた苦味が唇を湿らせ、舌の上で泡がしゅうしゅうと弾ける。喉を落ちる途中、苦味の奥で、あの甘い香水の味がした気がした。意識するより先に、それが気のせいだと自分へ言い聞かせていた。けれど喉の奥に、花の腐ったような甘さがまとわりつく。
二口、三口と飲むうちに、氷がからん、と鳴った。指先がグラスを滑りそうになる。テーブルの表面がゆらゆらと波打っているように見えて、慌てて福留のジャージの肘へ手を置いた。
「福留……」
声に出したつもりだった。でも、耳へ届く声はくぐもり、遠い。福留が振り返る。その首がゆっくりと傾いていった。彼の肩が斜めに沈み、視界ごと天井へ流れていく。
――その変化は、水に落とした一滴の絵の具が広がるように、身体の中心から遠い場所へ、順番に染みていくものだった。
まず、手のひらの感覚が薄れていった。福留の肘を掴んだ指先が、彼のジャージのごわついた布地を捉えているはずなのに、そこから伝わるはずの体温も、縫い目の硬さも、自分が何を握っているのかも、もはや輪郭を失っている。指を動かそうとすると、関節が消えてしまったかのように、空気だけを掻いている錯覚がした。
次に、唇と舌とが痺れた。咥えたばかりの氷が口の中で溶けているのか、もう飲み込んでしまったのかも判らない。唾液が顎の内側に溜まっていく感触だけが異様に冷たく、それすら痺れの向こう側へ沈んでいく。
視界に続いて、部屋の輪郭が歪み始めた。フロアランプの光が滲み、ローテーブルの木目が水面の下を流れる砂のように、のろのろと方向を変える。玲香の唇の赤さ、大崎の白いシャツ、福留の首筋に浮いた汗――それらがすべて、熱に歪んだガラスの向こうに並んでいる。近いのか遠いのかも判らない。自分が瞬きをした瞬間だけ、世界が一コマ分だけ遅れてついてくるような感覚に、胃の奥が緩く渦巻いた。
音も、距離を失っていった。誰かが笑った気がする。大崎の声らしきものが、耳のすぐ横で弾けるのに、その語尾だけが長く引き伸ばされて、遠い部屋の隅から聴こえてくるようだった。ビール缶がテーブルに置かれる音が、一度床へ落ち、それからしぶとく反響する。ガラス、発泡スチロール、硬い木、柔らかいラグ――すべての表面が、それぞれ違う遅さで音を返している、そんな不条理な聴こえかただった。
やがて、首から下が遠ざかっていく。腰の下でクッションが受ける重みも、ラグに触れているかかとも、身体のどこかに繋がってはいない他人の肌のように思えた。膝を揃えようとすると、太ももの内側の筋肉だけが細かく震えて、命令通りに動かない。脚の芯に針を千本ぶち込まれた後のような、冷えた痺れが広がっていて、それが酸素を奪われた花のように、じくじくと腿の付け根まで登ってくる。
視界の隅で、玲香が立ち上がっていた。彼女は部屋の端まで歩き、床に置かれた黒いバッグの口を開けた。細い三本足が広げられる。三脚だ。彼女の手際は迷いがなく、カメラを上へ三センチ持ち上げ、左右の水準を確かめてから固定した。レンズが私のほうを向いている。赤いランプが点灯し、暗いリビングの中で呼吸するように明滅している。
「玲香……さん、なに……」
私の問いかけは、言葉の形になる前に、唇の間で泡になった。喉へ力が入らない。ビールのグラスが指から抜け、ラグの上に落ちる。中身がこぼれる冷たい感覚が、太ももの外側を濡らした。けれど、それを拭う手が上がらない。頭蓋の奥で、甘い香水の匂いが渦を巻いて、天井と床の区別をなくしていく。
誰かの手が、私の左太ももを這った。指先がスカートの裾から素肌の上をすべり、内腿へ向かって親指で肌をねじる。福留とは違う、骨ばって大きな手。熱くて、脈が速い。逃げなければと思った。しかし、腰は動かない。膝を閉じようとしても、太ももの間に入り込んだ手の甲が、逆に脚を押し開こうとする。その力に逆らえない。身体の芯だけが痺れて、痛みも恐怖も、ぐずぐずに溶けていく。
「や……」
唇が震えた。声は蚊の羽音みたいにか細く、ビール臭い息に紛れて消える。男の手の匂いがした。汗と、整髪料と、たばこの苦い匂い。太ももを撫でる指の腹は、私の肌の内側の温度を知っているみたいに、迷いなく這い回る。内腿が震え、腹の奥が小さく熱を持った。
玲香の香水が、もっと強く香った。意識の底からせり上がる甘さが、鼻の粘膜を突き抜けて、目の奥を焼く。その甘さの中で、カメラの赤いランプだけが、まぶたの裏に丸く焼きついた。規則的に呼吸するように点いて、消えて、また点く。幸福だと思い込んでいた土曜日の夜が、その赤い点の向こうで砕けていく音を、私は確かに聞いた。
視界が白く明滅し、身体から力が抜けていく。最後に、誰かの腕が背中と膝の裏に回される。床から浮き上がる感覚。甘い匂いのする闇が、私の鼻と口を満たして、内側から意識を閉じていった。
第3章 赤いランプの下で咲く身体

赤い闇のなかで、冷たさが背骨を這い上って紗季は薄く目を開けた。背中いっぱいに張りついたシーツの湿りけが、汗ばんだ素肌からじわじわと熱を奪い、かわりに部屋の淀んだ空気が首筋へまとわりつく。見覚えのない白い天井。そこへ赤い電球の光がゆらゆらと揺れ、壁も床も、まるで熱に浮かされた獣の腹のなかのように鈍く染め上げていた。壁際に据えられた三脚とカメラの黒い影。レンズの縁で、録画を示す小さなランプが呼吸するように明滅している。その光の鼓動に合わせて、自分の下腹もまた、じくじくと脈を打っていた。
息を吸う。喉の奥がひりついて、空気ごと生ぬるい。汗と知らない男の整髪料と、甘ったるい香水の残り香が鼻の奥でねばつくように混ざる。身体が重い。手足の先まで痺れたように感覚が鈍く、なのに両脚のあいだだけが焼けている。脚を閉じようとした。できない。膝の裏に何かが挟まり、太ももの内側が冷えた空気に晒されて浅く粟立つ。スカートはなかった。ストッキングも下着も、腰から下のすべてが剥ぎ取られている。ブラウスの前ははだけ、汗で光る胸の谷間がそのまま赤い光に濡れていた。
視線を下ろす。開かされた自分の両脚のあいだに、黒いTシャツの男が座っている。高遠誠二。短く刈った頭が、紗季の太ももの付け根のすぐ近くで呼吸に合わせて上下し、左腕の和彫りが赤い灯りを受けて青黒い影を肌の上に広げていた。男の太い指が、濡れそぼった性器の割れ目に食い込んでいる。
「……ぁ」
喉が勝手に鳴いた。やめて、と言おうとした。唇は動くのに、舌がもつれて声にならない。男の指が動く。人差し指と中指で、閉じた陰唇を左右へ押し広げていく。くちゅ、と粘液の音がして、外気が内側の柔らかな粘膜へ染み入る。ひくつく。膣の入り口が、男の指の腹の下で小さく痙攣した。冷たい空気と指の体温のあいだで、濡れた肉が自分とは別の生きもののように震えている。その感覚が気味の悪さと背中合わせに、血を早めた。
高遠が顔を上げる。黒い瞳が赤い明かりを吸い込んで、奥の見えない深い色をしていた。紗季の顔を正面から見据えながら、男は中指をぬぷ、と奥へ沈める。内壁をこじ開けながら侵入してくる指の熱に、背筋がのけぞり、視界の隅で天井の赤がぐにゃりと歪んだ。
「起きたか」
男の声が、汗ばんだ肌に貼りつくように落ちてきた。彼は指を抜かず、奥で指先だけを折り曲げる。ぐちゅ、と柔らかな水音が部屋の隅まで響き、腹の奥の襞を探るように、男の指の腹がゆっくりと内側をなぞる。太ももの内側がびくびくと跳ね、腰が浮きかける。身体の芯から新しい汗が滲み出て、背中のシーツをひと回り広く濡らしていくのがわかった。
「や、やめて……ください」
ようやく出た声は、自分でも嘲けたくなるほど細く震えていた。高遠は答えない。片手で左の太ももを押さえつけ、膝をさらに外側へ押し開かせた。開いた性器の奥まで、赤いランプの光が差し込む。熱を孕んだ果実を割ったような場所を、男の目が舐めるように見ている。その視線だけで、ぬめった肉がきゅう、と締まるのが分かった。見られている。婚約者とさえ交わしたことのない淫らな角度で、他人の男の視線と赤い光に晒されている。その事実が胃の底を冷たく落ちていくのに、蜜はあふれて止まらなかった。
「……なんで、こんな」
続きは嗚咽に消えた。喉が震える。視界の端で、カメラの録画ランプが規則的に明滅している。あの赤い光が、今の自分の姿をすべてレンズの向こうへ記録しているのだと思うと、ぞっと背筋が凍るのに、身体の芯は逆に熱を増して、下腹から這い上がる感覚を止められない。結婚式まで、あと一週間しかないのに。
「どうして、だと。てめぇの身体が起きる前から俺の指を食い締めて、離さなかったからだよ」
高遠の声が、吐息とともに降ってきた。指を引き抜く。ぬるり、と愛液の糸を引いて、膣口が名残惜しそうにひくついた。紗季は強く目を閉じた。自分の身体が、男の指を離すまいと締めつけたことを認めたくなかった。瞼の裏に赤い光がべったりと張りついて、閉じても闇にならない。
「起きたら起きたで、こうやって濡れた穴を開いて見せてる。体だけは、もう誰の女にもならずに、てめぇで俺の指へしゃぶりついてたぞ」
彼は体勢を変え、紗季の太ももを抱え直した。ジーンズの上から、硬くて熱い塊がぬめった割れ目をぐり、と押す。それだけで、弱々しい吐息が漏れた。お腹の一番深いところで、何かが引き攣れるように疼く。
「いい具合に出来上がってる。この奥を突かれるのを待ってる雌の匂いがしてるぜ」
男の指が、紗季の腰を掴む。片手で尻たぶを持ち上げるように開き、硬い先端を入り口へ宛てがう。くちゅ、くちゅ、と濡れた音を立てて、浅く擦りつけながら、入り口ばかりを何度も往復する。奥へと呼び込むように襞がひらめき、肉が吸い付いていく。違う、と心は否定しても、身体だけは先端へねだるようにぴたぴたと口を開く。
「ぁ……や、待っ」
ずぶり。
先端が入った瞬間、腹部の奥へ熱い楔が打ち込まれたようだった。内臓の位置を押し退ける圧迫が背中まで突き抜け、目の裏が白く明滅する。極太のペニスが、ひだを一枚一枚こじ開けながら進んでくる。表面の凹凸が男の動きに合わせて内壁を引っかき、塗りこまれたような刺激に腰が跳ねた。気持ち悪いはずなのに、太ももは震え、腰はひとりでに浮く。やめて、と叫ぶ代わりに、喉からは引き攣れたため息ばかりが溢れた。
「や……あ、あぁ……」
高遠が一気に奥まで突き入れた。ずん、と下腹の一番深い場所に重い衝撃が走り、喉の奥がひっくり返る。両手がシーツを掴む。自由にならない手首の内側に縛られた名残の痺れが残り、指先が布を握り潰した。爪の先まで血が集まり、手のひらだけが妙に熱い。男がゆっくりと腰を引く。ごり、と中の凹凸が内壁を逆撫でし、膣口がきゅうと締まる。抜けていくものまで悦んで追い縋る、その感覚に涙が滲んだ。
「きっついな。奥まで入れただけで、この奥が丸ごと吸いついてくる。自分でも分かってるだろ、てめぇのここが俺のを咥えて、甘えてるのを」
低い声が、耳のすぐ上で息とともに落ちた。高遠が腰を打ちつける。ぬち、ぢゅ、と湿った音が、赤いランプの下に満ちる。律動が徐々に速まり、中をかき回すたび、腹の奥から痺れた熱がせり上がってくる。自分の口から洩れる声を止められない。泣いているのか喘いでいるのか、もう分からなかった。汗で額に張りついた前髪の下で、天井が揺れるたびに赤い光を散らし、夜をそのまま溶かしたように見えた。
ごちゅ、ごちゅ、と奥を突くたび、視界が揺らいで、赤い明かりが斜めに滲む。男の腰が尻に打ちつかるたび、ぱん、ぱん、と乾いた音が重なる。開かされた性器から溢れた蜜が、男の太ももと紗季の肉のあいだで泡立ち、ぬかるんでいく。泡が空気に触れて冷え、また新しい熱で押し流された。
「締まる。ここが、もう食い締めてきてる。俺のが奥を叩くたびに、恥ずかしいぐらい素直に絡んでくるじゃねぇか」
高遠の声は笑みを孕み、それでいて低く、腹の奥まで染みてきた。彼の手が、ブラウスの上から左の乳首を潰すように摘む。痛みに変わるまで捻られ、転がされるたび、内側の肉が彼のペニスへ強く絡みつく。違う、そんなはずはない、と首を振る間もなく、腰だけは男の律動に吸い寄せられ、自ら打ちつけていく。
「ちが、ぁ……あ、やめ、てぇ……」
逃げたい。逃げたいのに腰が男のリズムに合わせて浮き上がり、突き返していく。彼の先端が子宮の入り口をえぐるように突くたび、目の前で赤い火花が散った。止めたい。なのに身体はもっと奥を欲しがり、太ももで男の腰を挟み、足の指まで丸めてしまう。赤い光のなかで、趾の先が白くすきとおって見えた。その淫らな形から目を背けたくて、呼吸が乱れる。
「ああ、そうだ。その顔をカメラに残せ。婚約者の前で、俺の腰へ自分から脚を絡めて、もっと奥に咥えたがってる所を撮ってやるからな」
視界の端で、もう一人の男が動いた。白いシャツの大崎だ。彼は無言でズボンの前を寛げ、硬くなった肉茎を揺らしながら、紗季の頭の傍へ近づいてくる。その指が顎を掴む。無理やり正面へ向かせられ、耳の横へ硬い膝がつく。目の前に、唾液で濡れた亀頭がぶら下がっていた。生温かくて苦い、男の匂いが顔中に降りかかる。福留の清潔な肌の匂いとはまるで違う、獣のような臭みが喉の奥まで入り込み、なのに下腹がきゅう、と反応する。
「咥えて」
大崎が短く言った。口を閉じて顔を背けようとした。けれど高遠に奥を突かれ、思わず開いた唇の隙間へ、彼の先端が押し込まれる。口の中がいっぱいになる。舌の上がしょっぱく、喉の入り口を突かれてえずきかけた。口蓋に押しつけられた先端の熱が、他人の体温をそのまま流し込み、全身が強張る。
「やっと開いた。男に後ろ突かれて口が緩んだ女みたいに、舌、出してみせろよ。それとも喉で味わうまで、自分からねだる真似でもするのか」
大崎が腰を押し付けた。喉の奥がぐり、と開かされ、酸素が細くなる。口の端から唾液がどろりと溢れた。彼のものが喉の内壁を擦るたび、吐き気と一緒に、下腹の底がきゅんと疼く。福留とは比べ物にならない異物感なのに、身体が勝手に反応してしまう。自分が自分でなくなっていくような恐怖と、ぞわぞわした官能が背骨を這い上がった。
大崎が、ゆっくりと腰を前後させる。高遠もまた、中で角度を変えて突き上げてきた。前を塞がれ、後ろを犯され、身体が揺れるたびベッドのスプリングがぎし、ぎし、と軋む。口の中のしょっぱさと汗の味、自分の愛液の匂い。全部が混ざって、頭の奥をぐちゃぐちゃに掻き回した。涙がこめかみを伝ってシーツに落ちる。ひとつぶ落ちるたび、赤い光の下で微かに沈み、すぐ消えていった。
助けて。福留。
その名前を心で呼んだ瞬間、視線の隅に映った床の影が動いた気がした。赤い光の外、壁際に倒れたままの福留。後ろ手に縛られた指先が、ほんの数ミリ、動いたように見えた。唇がわずかに開く。麻酔の泥のような眠りから、ゆっくりと浮かび上がろうとする気配。福留、見ないで。見て。相反する祈りが同時に胸を突き破り、紗季は言葉にならない声で泣いた。
「ふ、……く」
呼んだ声は、大崎の腰が喉の奥を塞いで、くぐもった喘ぎに消えた。彼の肉茎が、どく、と口内で膨張する。血管の浮き方まで舌に伝わる。その熱の圧力に、紗季は思わず目を開いた。赤い光がまぶたの裏から現実へ戻り、肉の匂いと水音とが一斉に身体の内側へ流れ込んでくる。
高遠が、奥の一番深い場所をぐり、と抉る。ぢゅむ、ぢゅぶ、と腹の中に反響する音がして、そこから熱が爆ぜた。子宮のあたりが痙攣し、骨盤の底からせり上がる波が頭蓋を真っ白に塗り替える。
「ん”っ……んぅ、ん”ーーーっ!」
口を塞がれたまま、全身ががくがくと跳ねた。膣が彼のペニスをきつく締め、何度も痙攣した。高遠が低く笑い、いっそう速く腰を叩きつけてくる。ずん、ずん、ずん、と胎の奥を壊すような打撃が続く。そのたび、目の裏で赤い花が咲いては散り、咲いては散る。喉から引き抜かれた大崎の先端が、唾液の糸を引いて、頬の上で脈打っていた。
「イった顔して、まだ締まる。そのまま腰を外さねぇで、自分の奥がどうなってるか、吐くまで感じてろ」
酸素が一気に流れ込んできた。激しく咽込みながら、それでも中は彼を離さず、ざらついた凹凸が内壁を削る感覚に、心と切り離された肉体だけがきゅうきゅうと悦んでしまう。涙と唾液と汗で顔中がぬめり、髪の毛が頬に張りつく。それなのに、まだ奥が疼いている。二度目の波が、腹の底でゆっくりと息をしている。
「声、我慢すんな。男の上で、もっと素直に啼けよ。お前の身体が、もっと欲しいって言ってるのを、てめぇの口から聞かせてやれ」
そのとき、床の上で、福留の瞼が、はっきりと震えた。
第4章 福留の指先が、ぴくり、と床の上で跳ねた。

福留の指先が、ぴくり、と床の上で跳ねた。
赤いランプの明かりが彼の左手の甲を舐め、血の気のない白い肌を照らし出す。後ろ手に回された手首は布で何重にも縛られ、指先は氷のように冷たい色をしていた。その指が、震えながら床の表面を探る。麻酔の泥のような眠りが彼の全身から少しずつ剥がれていくのを、私は肌で感じていた。
助けてほしい気持ちと、見ないでほしい気持ちが喉の奥で同時に突き上げ、胃の底のあたりが強く締まる。
高遠の肉棒はまだ私の中で硬さを保ったままで、浅い抽送を繰り返していた。ぬち、ぬち、と粘液が泡立つ音が、静まり返った部屋の空気を浸していく。ソファに場所を移された私は、腰を高く差し上げられた格好で両方の太ももを掴まれ、肘と膝の沈むクッションが、玲香の部屋のソファにしてはやけに固く背中を押し返してくる。
背中と腹の向きがねじれそうになるたび、敷かれたシーツの端がずり落ちた。背中に貼りつく汗が、赤い光に照らされて真珠色に濁って見える。
高遠のごつごつとした手が私の左の尻たぶを鷲掴みにし、親指で窄まりの真上をゆっくりとなぞる。そこが、きゅう、とひくついて、自分で自分の恥ずかしい場所に空気を触れさせていることがわかった。閉じたいのに閉じられない。輪の形をした筋肉が、彼の指先を求めるように、ひく、ひく、と痙攣する。
「あ……ぁ」
短い声が鼻から抜けた。唇を閉じようとしても、口の端から唾液がこぼれて顎をつたう。大崎が私の髪を耳の後ろで束ねるように掴み、顔を上向かせた。視界が斜めに傾ぎ、天井の赤いランプがふたつに割れてぼやける。汗の匂いと、自分の愛液の匂いと、どこか獣じみた牡の情動が混ざり合って、息を吸うたびに肺の奥まで犯されていくようだった。
「ほら、起きたみたいだぜ、お前の旦那。いいタイミングだ。婚約者ってやつが一番見たくねえもんを、これからたっぷり見せてやれ」
大崎の声が、耳のすぐ横で落ちる。彼の指が私の頬に触れ、涙の跡をたどるようにしっとりと撫で上げた。その感覚さえ、なぜだか腹の奥を熱くする。自分の身体が、指先ひとつ分の接触にも反応してしまう。浅いところで何度も何度も突かれ続けた内壁は、彼我の区別もなく、ただ苛立ちにも似た渇きを訴えていた。もっと深く、もっと強く。そう心のどこかが叫んでいる。福留が目を覚まそうとしているのに、私の中はとろとろと蜜を溢れさせて、男の形を受け入れていた。
床の上で、福留が身じろぎする。
後ろ手の肘が床を、ぎい、と擦る音がして、赤い光の外から、崩れた姿勢のまま彼の顔が持ち上がった。汗で張りついた前髪の下から、深い茶色の瞳が私を捉える。まだ焦点の合わない目が、数度の瞬きのあと、はっきりと私の姿を映した。全裸に近い身体、開かれた脚、後ろから男に貫かれている自分の婚約者の姿を。その瞬間、福留の表情が、私の知らないものに変わった。痛みと、怒りと、そして彼自身も制御できない何かが、彼の顔の奥で弾けるのが見えた。
「……さき」
福留の口から、押し殺したような声が洩れた。あごが震えている。彼は、ごし、と何度か床に肩をぶつけながら上半身を起こそうとした。けれど後ろ手に縛られた腕では支えられず、体勢が斜めに崩れる。その拍子に、彼のズボンの前が赤い光の中へ覗いた。布の上からでもはっきりと形が変わるほど、中心が硬く突き出している。彼自身の意志とは無関係に、下半身だけが怒り狂ったように屹立していた。それを見たとき、私の膣の奥が、きゅん、と締まった。福留のものだ。私の婚約者の怒張。玲香が言っていた、薬のせいだ。でも、あの硬さは、私の中を突いている男のものとは違う意味で、私の目を釘付けにした。
「……見るな、紗季」
福留が声を絞り、顔を背ける。その声は掠れきっていて、なのに私の耳の奥を一直線に突き刺した。ごめん、と思うより先に、高遠が腰を、ぐ、と押し込んで奥の壁をこじ開けた。
「ひゃ、ぁんっ……!」
喉の奥から跳ねるように飛び出した声に、福留の肩が、びく、と揺れた。やめて、今だけは、せめて彼の前でだけは。そう思うのに、高遠のペニスが中でごつごつと蠢くたび、太ももの内側が震えて、シーツに汗が滲んでいく。大崎が福留の背中を軽く蹴った。つま先が彼の脇腹を掠め、鈍い音がした。
「おい、折角の見せ場だ。寝てる場合じゃねえだろ。お前の女がよ、今から他の男のケツの穴まで咥え込むってのに、目ぇ閉じてるつもりか」
福留は答えなかった。唇を噛み締め、赤い光から逃れるように俯く。いや、俯いた拍子に、彼の視界の先には自分自身の硬直した下半身が映ってしまう。彼は布の前を隠すように床へ腰を落とそうとした。大崎がしゃがみ込み、福留の下顎を指で押し上げる。
「隠すなよ。薬はしっかり効いてるから、痛いほど張ってんだろ。見せてやれよ、お前の女に。それからよ、お前の女がこれから見せる面も、ちゃんと目ぇ開けて焼き付けておくんだな。もう二度と見られねえかもしれねえ、最高の面だぜ」
その言葉に、私の中の何かが、ざわり、と音を立てた。福留の表情は逆光で読めない。ただ、首に浮いた青い血管が見えた。彼の呼吸が乱れて、布越しの怒張が微かに脈打っている。助けなければ。でも、私の体は、いま、後ろの男から与えられる浅い快楽を追いかけて、自分から腰を揺らしている。膣口から溢れた愛液が太ももを伝い、尻の谷を濡らして、肛門の縁へ流れ込んでいった。ぬるぬると温かい液が、私の一番恥ずかしい場所を、すでに解れていると告げるように濡らしていく。
「おら、もっと鳴いてやれ。お前の口が気持ちいいって言ってるところを、婚約者さんにちゃんと聞かせてやれ。なあ、紗季。お前、フィアンセの目の前で他の男のちんぽ咥え込んで、腰振って、尻の穴までひくつかせて、どんな気分だ? 幸せだろ。体が全部正直すぎて、涙まで出てきてるぜ」
大崎が私の視界に入り込むように顔を寄せて言った。彼の金茶の髪が赤いランプに透けて、虹色の脂のような光を散らす。私は首を振った。振りながらも、下腹の熱は彼の声が耳に届くたび膨らんでいく。福留には聞かせたくない。彼が悲しむ顔は見たくない。それなのに、高遠が腰の角度を変えて、怒張の一番太い部分で入り口をえぐるように引き抜いた。ずりゅ、という粘液の音が、私自身の耳にまで生々しく届く。
「ひぅ……ぅ、あ、あぁ……!」
声が途切れない。私の喉が勝手に、男の抽送に合わせて鳴いてしまう。とろ、とろ、と奥の裏側を擦られ、目の奥が白く瞬いた。福留の存在を感じるほどに、背徳の熱は甘く濃くなって、膣の奥から新しい蜜を溢れさせてしまう。せめて、見ないで。福留。お願い。そう思えば思うほど、内壁は高遠の形を覚えて、締まるべき場所が痙攣した。
高遠が突然、ものを言った。
「おまえ、ほんとにすげぇな。俺のちんぽ、口でも咥えて、今は下でも咥えて、それだけじゃ足りねえって尻まで欲しがってる。結婚一週間前の女の体か、こりゃ。なあ、光。お前、毎晩こいつの穴、よっぽどいい具合にしてたんだな。この締めつけ、クセになりそうだぜ」
彼の指が、私の肛門に埋まっていたアナルプラグの台座を、くい、と押した。シリコンボールが連なる異物の重みに、尻の奥が、ごぽ、と音を立てて食いしぼる。悲鳴になりきれなかった声が、傷ついた鳥の羽音みたいに喉で砕けた。玲香がいつから傍にいたのか、彼女の白い指先が伸びてきて、台座をつまむ。笑いを含んだ息が、私の背中に落ちた。
「先輩、すごい。こんなにこの子を咥え込んじゃって。おまけに、声までしっかり出ちゃってる。見て、いやらしい。婚約者が起きたのに感じてる顔、全然隠せてない」
玲香の甘ったるい香水の匂いが、汗と愛液の臭いの合間を貫いて、鼻の奥を刺す。彼女がゆっくりと、プラグを引き抜いていく。ざり、ざり、とシリコンの粒が窄まりの内壁をこすり、焼けるような快感が尻の穴に巻き起こった。根元まで抜かれる瞬間、私の肛門は物足りなさに疼いて、閉じるどころか、ひくひくと指一本ぶんの空間を貪っていた。外の空気が、濡れた穴の内側に触れて、ひやりと冷たい。でも、その冷たささえ、火照った粘膜には心地よくて、自分の括約筋が何かを求めてひくつくのを止められなかった。
「あ……あっ……」
開いた。私の一番恥ずかしい場所が、赤いランプの前で、彼女の指の写真でも撮られるみたいに晒されている。福留がいる。彼の前で。その事実が、恐怖と同量の熱を腹の底で爆発させる。玲香の爪が、ぷに、と窄まりの縁を押し、中を覗き込むように口を開いた。
「汚くないですね。浣腸まで仕込んだ甲斐がある。おまけにさっきからずっとキスみたいに口開いて誘ってる。ほら、福留さんにも見える角度で、写真撮っとこうかしら。先輩、笑って」
玲香が高遠へそう声をかけた。高遠が、ぬる、と私の膣から肉棒を引き抜く。虚ろになった穴が閉じきれず、ぱくぱくと産まれ立ての口のように蠢いた。いや、待って。言葉にならない。うつ伏せにされ、左の太ももを抱えられたまま、高遠の怒張が今度は尻の割れ目に押し当てられた。どくどくと脈打つ先端が、玲香の手で解された窄まりに食い込む。肛門の縁が、熱い先端に触れた瞬間、私の全身が跳ねた。心臓が喉の奥で鳴っている。指とは違う。プラグとも違う。生きた肉が、私の一番狭い場所を押し広げようとしている。
「や、待って……そこ、待って……」
言葉が自然にこぼれていた。福留の前で、そんな声を出すつもりなんてなかったのに。肛門の入り口が、男の先端を押し返そうと無意識に締まる。でも、締まるほどに、熱い先端の形をはっきりと感じてしまって、納得してしまう。もう、逃がせないと。私の呼吸が浅くなる。指先がソファの布を掻く。背中に冷や汗が噴き出して、太ももが小刻みに震えた。
ずぶり、と鈍く深い音がして、内臓を逆撫でするような挿入が始まった。
その瞬間、目の奥で火花が散った。体内で何かが千切れるかと思うほどの、鋭い灼熱が尾骨から背骨を駆け登っていく。内臓が、ぎちぎちと音を立てて押し広げられていく。息が、肺の奥で止まった。あ、だめ、裂ける。そんな恐怖が頭の中を白く埋め尽くす。肛門の内壁が、入ってくるものの形を生々しく感じ取って、本能的に押し出そうとする。でも、押し出そうとすればするほど、括約筋は逆に締めつけて、痛みが増していく。目の縁から、熱いものがこぼれ落ちた。涙だとわかるまで、少し時間がかかった。呼吸が、ひく、ひく、と途切れる。腰が逃げようとして動くのに、高遠の両手が私の骨盤を固定していて、一ミリも動けない。爪がシーツの繊維に食い込み、指の関節が白くなる。福留の視線が、私の震える腰に突き刺さっているのを感じた。見ないで。見て。ごめんなさい。何もかもがごちゃ混ぜになって、涙だけが静かにシーツへ落ちていく。
シリコンボールの粒が、軟らかい粘膜を一枚一枚破るように押し開き、茹だった肉の中へ沈んでいく。痛みは裂けるというより、腹の裏側を焼くようだった。浅い呼吸のたびに、鼻の奥に鉄の味がした。唇を噛み締めすぎて、血が滲んでいる。高遠がわずかに腰を押し進めるたび、私の口から犬のような短い悲鳴が漏れて、福留のあるほうを振り返ってしまう。だめ。こんな声、聞かせたくない。なのに、痛みに耐えるために開いた喉が、そのまま啼き声を外へ流していく。
が、その火傷の熱が、数秒も経たぬうちに、ずり、と別の場所を抉る感覚へ変わった。直腸の奥の、今まで指先でも触れられたことのないような地点を、男の肉の先端が、ぐっ、と押しのけていく。最初に感じた激痛が、必死に拒んでいた力が、徐々に別の割合に塗り変わっていった。痛みのあとにくる深い圧迫が、鈍い悦楽の予感に姿を変え始める。押し広げられるたび、腹の裏側の奥から、自分のものではないみたいな甘い疼きが滲み出てくる。私の口から、「い゛……」という声と一緒に、唾液がこぼれた。震えは止まらない。でも、その震えが痛みのせいだけではないことに、私は気づいていた。
一センチ、奥へ進むたびに、灼けるような痛みの奥から、まるで毒のように甘い痺れが滲み出してくる。侵入が痛覚を引き連れてくるほど、それを追いかけるように、知らない場所から快感が溢れてきた。痛いのに、痛いから、身体のどこかが悦ぶ。直腸を満たす圧迫が、膣の奥にまで響いて、閉じたはずの蕾が、とろ、と蜜を垂らす。苦しさと甘さがぐちゃぐちゃに混ざって、自分の輪郭が溶けていく。福留の視線も、玲香の笑い声も、全部が遠くに聞こえるのに、身体の芯だけが、これまでにないほどの密度で疼いていた。
「あ゛……ぁ、い゛……」
獣じみた声が口から溢れた。自分でも止められない。だめ、奥、いま言ったら。唇を噛んで堪えようとした。歯の間から空気が鳴る。しかし福留の気配が消えたわけではない。彼は今、目を開けたまま、この部屋のどこかで、私の一番醜い姿を刻み込まれている。それが堪らなく、苦しくて、なのに高遠が奥を穿つほど、脳が痺れたように天井へ浮き上がる。
「ケツのが締まるな。中の粒に吸い付いて凄え。おまえ、泣いてるくせに中は嬉しそうに蜜垂らしてるじゃねえか。婚約者に謝れよ。『気持ちよすぎてごめんなさい』って、なあ」
高遠の右手が、私の左の尻たぶを、べし、と張った。白い肌に紅い指の形が浮かぶ。ぱん、ぱん、と彼の腰骨が何度も尻にぶつかる音が、リビングにこだました。私はソファの背を掴んだ。指先に爪が食い込み、布が絞れる音がする。スカートもブラウスも腰のあたりで捻れたまま、汗で肌に張りついている。肛門の内側から、快楽がじんわりと波紋のように広がって、へその裏側をくすぐる。お腹の奥が、搔き回されるたびに、ぴくん、ぴくん、と反応して、天井が見えなくなった。
大崎が私の顔を福留のほうへ向けさせたまま、耳元で続けた。
「すげぇなあ、おまえ。フィアンセってやつが床に転がって、お前のケツの穴見てるってのに、腰どんどん押し付けてよ。上の口はやめろって言って、下の口はもっと欲しいって鳴いてる。おまけに、まだすっげえ締まるし、中はぐっちょぐちょだし。これ、どっちがほんとのお前なんだよ」
高遠が耳を噛み、一言だけ漏らした。
「勝手にイくなよ。まだ奥のやつが残ってる。お前がイくってんなら、尻の穴拡げて、婚約者の前で宣言しろ。こいつに見せてやってからイけ」
奥のやつ。その意味を考える前に、玲香が福留の口元へ片足を乗り上げる形で跨った。彼女の秘所の割れ目が、鼻先すれすれで開く。福留が首を振り、無言で拒絶した。だが大崎が背後へ回り、彼の後頭部を靴の裏で、ぐ、と前に押し出した。玲香が腰を落とす。むわり、と蒸れた粘液の匂いが、私のいるソファのあたりまで届く。
そして、彼女の指が福留の頭を掴んだかと思うと、秘所を、ぐっと彼の顔へ押し当てた。私の目の前で、玲香の陰唇が、彼の鼻と唇と顎に跨るようにして、ぐにゃり、と広げられていく。ケイトウのような幾重にも折り重なった赤い小陰唇のビラビラが垂れ下がり、福留の口を押しつぶす。その小さな貝の襞が、彼の皮膚の上で花びらを重ね合うように蠢いて、ぎち、ぐち、と湿った肉の音を立てた。彼の口元で玲香の花弁が開き、閉じ、裂け目の奥のぬめる芯まで、福留の顔を染め上げていく。
玲香は犯される私のほうを真っすぐに見下ろしながら、その豊かなくびれを揺すり、福留の唇を割って、自分の一番熱い場所を食ませる。彼女は私を見て、笑った。
「舐めなさい。でも、目は閉じないで。先輩の尻の穴を太いので拡げられながら、うっとりしてる顔をちゃんと眺めてな。私とどっちが欲情してるか、比べながら舐めるのよ」
玲香の声が、部屋の空気を切り裂いた。福留の呼吸が荒い。彼のくぐもった声が、玲香の太ももの谷間に吸い込まれる。唇が触れたのか、玲香の背が仰け反って、白い喉が赤い光を反射した。ちゅちゅ、ちゅう、と舌が吸う音が、私の尻を拓く高遠の肉音と重なって、まるで二匹の獣が同時に餌を喰っているみたいだった。
「あは……上手、福留さん。舌、もっと入れて。先輩のあそこが一番いやらしい音立てるたびに、あなたの舌が深くなるの、伝わってる」
玲香の甘い声。いや、あれはあの夜、職場の給湯室で聞いた「先輩、お疲れさまです」みたいな明るい後輩の声の形をなぞっていた。なのに中身は黒く濡れて、幸福の残骸を食んでいる。彼女が福留の頭を掴み、腰を前後させ始める。グチャグチャ、と湿った音が、赤いランプの明滅に鈍くこだました。私は見てはいけないのに、視線が外せない。高遠に奥からえぐられ、玲香に乗り上げられた婚約者の姿を、脳が逃げられないくらい焼き付こうとする。
玲香が福留の顔にまたがりながら、私のほうを見た。彼女の細い指が、後ろ手のまま転がる福留の下半身へと伸びていく。彼のズボンをずり下げた大崎が、下着ごと足首まで引き抜き、既に天へ向かって屹立していた福留のペニスを露わにする。玲香は、福留の口に腰を押し当てた体勢のまま、後ろへ手を回すと、そのビンビンに勃起したペニスを手でしごき始めた。彼女の細く長い指が、浮き上がった血管を一本ずつ確かめるみたいに、根元から裏筋までをゆっくりと辿る。
「ん……すごい、堅い先輩の… お口も、こっちも、こんなにしちゃって。ねえ、紗季先輩。私、おいしいとこ取りね」
玲香が私へむけてそう言い、こきゅ、こきゅ、と濡れる前の性器を扱く。先走りが、彼女の指の腹に絡みついて、糸になって、ぷち、ぷち、と切れては玉の上に垂れた。彼女は私から目を離さない。犯される私を正面に見据えながら、婚約者の男根を丹念に、そして残酷なほど優しく擦り続けた。ぬち、ぬち、という粘液の音が、彼女の腰からと、彼女の指先からと、二重になって溢れてくる。
「ほら、先輩、福留さん、こんなに濡らしてくれてる。口と手と、両方使ってくれるの。照れてる顔も最高だから、もっとよく見てて。先輩のケツがひくつくたび、福留さんのここ、びく、びく、って跳ねるの。二人とも、すごく正直」
福留の腰が小さく浮いた。彼の腹が痙攣し、喉の奥から「う、ぅ……」という、泣き声にも似た音が溢れた。玲香が親指で先端の窪みをくじくたび、彼のペニスは脈を打ち、ぬるぬると玲香の手の中で太陽の色のまま膨張していた。
玲香が福留の口の中へ指を入れた。顎を開かせる。そして突然、彼女は下腹を震わせた。幼い金切りに近い吐息が漏れる。次の瞬間、しゅわ、しゅわ、と澄んだ音がして、黄色く焔のような液体が弧を描き、福留の唇を濡らした。頬へ飛び散り、あごから首へ流れ、床に小さな水溜まりをつくる。放尿。彼女が彼の顔へ、平然と、そればかりか喉を反らせて陶酔しながら放っている。福留はむせた。しかし大崎に頭を押さえられ、開いた口の中へ直接注ぎ込まれる。ごぼ、と彼の喉が動く。むせながらも嚥下するしかない音が、げほ、ごぼ、と交互に響いた。
「飲んで。全部、私で洗い流してあげるから。それから先輩の穴から溢れる精液も、後で舐めさせてあげる。どっちがおいしいか、ちゃんと味わいなさいよね」
玲香の放尿が止まる。最後の一滴が福留の顎先から落ちるまでの時間が、永遠のように伸びた。私は自分の尻を犯されながら、その光景から目を離せなかった。違う。私が見ているのは、突きつけられてしまった現実だ。婚約者。私の選んだ人。私が守れなかった人。彼は今、私に見られている前で、後輩の女に尿を飲まされている。なのに彼の下半身は、布が湿って透けるほど勃ち上がり、先端を押し上げている。
「ほら、今ので射精しそうになってる。もっと見せてよ、福留さんの、ほんとの姿。お前の女が鳴いてるのを聞きながら、ケツの穴が千切れそうなぐらい咥えてるのを見ながら、お前もだらしなく勃起してる。婚約者同士で、そんなに似た者同士だったんだ」
玲香の指が彼のベルトを引き抜く。大崎が下着ごとズボンをずり下げると、赤黒い性器が跳ね上がった。薬のせいか、福留のペニスは痛そうなほど血管を浮かべ、先端から我慢汁が糸を引いて床へ垂れた。玲香が手を添え、少し乱暴に扱き始める。ぬち、ぬち、と乾いた手つきが、逆に彼の息を細かくする。
「ふ……やめ、ろ……」
初めて、福留が言葉を絞り出した。
「やめてくれ……さき、を、巻き込むな……」
私の喉が焼けた。彼の声。彼は私のために、全部の屈辱を飲み込もうとしている。いや、もう飲み込んだ後だ。玲香の指が先端を親指でくじり、射精を促す。福留の腰が跳ねた。彼の白い腹が引き攣れ、睾丸が持ち上がり、どく、どく、という脈動と一緒に、白濁が自分の腹へ飛んだ。ドバーッ、という音が耳の奥で現実より大きく弾ける。何度か射精した後も、玲香は扱く手を緩めない。福留が耐えられず喉を詰まらせ、シーツの端へ精液をこぼした。
同時に、私の中で高遠が一番深い場所で膨れた。あ、来る。そう思った瞬間、彼が一気に突き上げ、私の意識を砕くみたいに奥を揺らした。
「んぅ……あ゛……ひぁ……!」
腹を内側から焼かれる。綯い交ぜになった排泄と生殖の場所がぐちゅんと蠢き、耐えがたいものが脊髄をかけ上がる。高遠が押し当てたまま放った。熱い精が、尻の奥の曲がり角まで満ちていくのを、私は粘膜でいやというほど感じていた。どく、どく、と脈打つたび、自分の陰唇がひくついて、閉じたままの膣口から新しい蜜が伝い落ちる。
大崎が私の後ろから覗き込み、笑った。
「中出しされてる顔も、悪くねえな。おい、福留。お前の女、いまお前の目の前で、他の男の、それもケツにまで精液注がれて、一番したたった声出してたぜ。愛してるとか言う女にする顔か、これが」
「は、ぁ……あ、ぁ……」
声が出ない。唾液が頬を垂れ、太ももが痙攣して止まらない。高遠がゆっくりと腰を引くと、押さえ切れなかった白い液が、窄まりの縁から、こぽ、と泡立って溢れた。外の空気が尻たぶに触れ、排泄後のような感覚が恥辱の波を連れてくる。なのに私の膣は、もう一方の男が与えた快感を覚えている。身体が冷え始めた。心だけが、まだ福留の射精と玲香の尿の匂いの中に取り残されている。
玲香が立ち上がり、カメラを手早く回収する。三脚を折り畳み、赤いランプの点いたままの本体を私の顔へ近づけた。シーツにこぼれた精液と、彼女の太ももから滴る尿と、私の尻から垂れる男の精とが、室温で蒸れて、鼻の奥を甘酸っぱく、生臭く刺した。赤いランプが、私の汗ばんだ顔へ当たる。彼女はにこりと笑った。
「いい画、撮れてる。先輩も、後で一緒に確認しましょ。それまでは、もっと仲良くしててくださいね。ああ、福留さん、あなたの射精してるところもバッチリ映ってましたから。ふたりで見るの、今から楽しみで仕方ない」
彼女の指が、私の肛門へ溢れた精液を掬い、顔の前へ持っていく。生あたたかい白濁を彼女が親指と人差し指で伸ばすと、真珠色の細い糸が引いた。私の顔の白い光景と精液と尿の匂いが、赤いランプの下で溶け合って、カメラのレンズがそれを静かに映している。
福留の沈黙も、玲香の笑い声も、残り香のように私の肌へ貼りついた。拒絶の言葉は喉まで来て、声にならず散る。この部屋はもう、戻れない場所に変わっていた。
第5章 第5章 精液と尿の匂いで選ぶ別れ

第5章 精液と尿の匂いで選ぶ別れ
玲香がカメラのレンズを鼻先からようやく遠ざけたとき、部屋の空気はもう、紗季たち二人のものではなかった。赤いランプが照らす壁に、黒い影がゆらゆらと貼りついて、息を吸うたびに生臭い湯気が肺の奥まで滑り込んでくる。太ももの内側は精液と汗で濡れたままひんやりと冷え、腰の奥には男に開かされた形がまだ残っていた。床の上では福留が、片膝を立てた格好のまま動かない。彼の腹の上に白く散った精子が、赤い光の下でぬらぬらと脂のように光っていた。
玲香が笑った。獣が喉の奥で転がすような、乾いた笑い声。彼女はカメラを脇に抱えたまま、汗で額に張りついた巻き髪を指で耳の後ろへ流す。その仕草の優雅さが、かえってこの場の凶暴さを際立たせていた。胸下まで伸びた茶色い巻き髪の先が、汗で濡れて首筋と鎖骨に絡まり、甘い香水と混じり合った牝の匂いが、彼女が動くたびにむわりと空気を揺らす。オフショルダーのニットから覗く丸い肩と、タイトミニスカートに包まれた豊満な腿のあいだからは、男たちの精液が幾筋も艶を引きながら垂れていた。
「先輩、そろそろ現実に、戻りましょうか」
玲香が一語ずつ、味わうように区切る。色素の薄い茶色の瞳が、赤い照明の下で獣の目のようにぎらついていた。
「あ、でも、まだそんな顔してる。……福留さんに見せられない顔。もうちょっと、このまま話しててくれても、いいんですよ」
紗季は唇を開こうとした。けれど舌がうまく動かない。口の中はまだ男の物と自分の唾液でぬめっていて、言葉の代わりに熱っぽい息がこぼれるばかりだ。福留が、赤く光る床に手のひらをつこうとする。縛られた手首の跡が、皮膚の上に紫の筋をいくつも残していた。白いシャツは汗と何かの汁でぐっしょりと背中に張りつき、清潔だったはずの襟元からは、饐えた酸っぱい匂いが立ちのぼっている。
「……紗季、大丈夫か」
福留の声は、尿と精の匂いが充満した部屋の底を這うように低く、途切れていた。それでも彼は、自分の下半身に張りついた布を直そうともしないまま、紗季の顔をまっすぐ見ている。目は涙で滲んでいたが、視線の芯だけはこちらへ向けられていた。福留、大丈夫じゃないよ。紗季は喉元まで出かかった言葉を、唇の内側で噛み潰す。彼一人だけが、自分のなかでまだ、人間のままいてくれる。そのことが苦しかった。
「お二人とも、本当に相思相愛で、胸が痛いわね」
玲香の剥き出しの爪先が、床に落ちた福留のベルトを軽く蹴った。金属の金具が転がって、赤い灯りを掬い上げる。カラン、という乾いた音が、濡れた空気のなかを不釣り合いなほど素直に走っていく。その音を背に、玲香は紗季の真正面へ回り込み、膝を折った。滴る太ももが、フローリングへいくつもの丸い染みを刻む。彼女の体から立ちのぼる甘ったるい香りは、もはや香水というより、腐りかけた花を蜂蜜に漬けたような、噎せ返る匂いの塊だった。
「福留さん、腰、隠さなくていいの? まだ半勃ち、みたいだけど」
玲香が、福留の腹のあたりを顎でしゃくる。笑みを含んだ声が、背筋を冷たく撫でていく。
「私の尿も飲んで、あんなに喉鳴らしてたくせに。いい男ぶるのは、お門違いすぎるでしょ」
その言葉に、福留の肩が小さく強張った。彼は何かを言おうとして、唇を噛む。口の中を開ければ、まだ玲香の味がするはずだ。酸っぱくて、しょっぱくて、生ぬるい液体の記憶。紗季の中のどこかが、彼の代わりに謝りたい、と叫んでいる。だけど自分こそ、さっきまで男に貫かれながら声を上げていた。二人とも、この部屋の匂いの中へ落ちて、這い上がれずにいる。その事実が、涙よりも重く、膝の裏にまとわりつく。
玲香が紗季の前でしゃがみ込み、指先を伸ばして顎を持ち上げる。彼女の内腿から滴る液体が、紗季の素足のすぐ傍まで流れてきて、小さな染みを作った。甘い香水の匂いが、その下から蒸気みたいに吹き上がって、吐き気を誘うほど濃い。ツンとした刺激が鼻の奥を刺し、胃の裏がゆっくり持ち上がる。
「ねえ、先輩。ひとつ、教えてください」
玲香の指先が、あごの骨をなぞる。爪の白さが、赤い光を反射して笑った。
「明日、どうします? 結婚式の打ち合わせ、入ってたんじゃなかったの。花とか、もう決めてましたよね」
呼吸が止まった。式場には、先週、二人で白い花の相談へ行った。ガラスの瓶に挿した白いトルコキキョウが、窓の光に透けて、静かで、優しくて、あの部屋には花屋の冷たい匂いが満ちていた。茎を切ったばかりの、青くて鋭い水の匂い。その記憶が、今の鼻孔を焼く匂いと重なって、腹の底で嫌な音を立てる。ぐぷり、と、内臓の奥で何かが腐っていくような気がした。
「このまま式、できると思います? 無理でしょ」
玲香が、紗季の耳元へ唇を近づけ、囁くように言う。吐息が耳輪をくすぐり、生あったかい温度がまとわりついた。
「先輩のこの顔、全部撮れてるし。膣も、尻も、人に見せられない穴にしてる。それが、福留さんの前で、あんなに鳴いといてさ」
玲香はポケットからスマホを取り出すと、画面をこちらへ向けた。三脚カメラの赤いランプが映り、その下に白く照らされた自分の腹部が見える。撮影された映像のサムネイルは、静止画のはずなのに、ぬめった肌の光沢まで生々しい。あった。あの夜の、切り取られた自分の姿が。喉の奥がひっくり返りそうになって、紗季は目を背ける。なのに瞼の裏にまで、画面の残像がべったりと張りついた。白い腹。開かれた脚。赤く充血した、秘部。
「見なきゃ損ですよ。自分でしょ。あの夜の、先輩の体」
彼女が画面をタップすると、すん、と空気が変わった。紗季自身の声が、スピーカーから溶け出す。
「……は、ぁ、あ、それ、だめ……」
声が。こんな声が。録画された自分の声が、福留の耳許にも流れている。彼は俯いたまま、鼻から深く息を吐いていた。その横顔を見ると、彼の唇が一度だけ、ごめん、と動いた気がした。どうしてあなたが謝るの。謝らなければいけないのは、私の方だ。違う、そんな物差しで測ることさえ、もう許されない場所まで来てしまっただけだ。指先が、太ももの内側で小さく震え、汗と精液の膜を擦った。ねちゃ、と掌にまとわりつく音が、自分にだけ聞こえる。
玲香から電話がかかってきたのは、紗季たちが明け方に解放されて、半日以上が過ぎてからのことだった。体を洗っても、シャワーの湯が垢のように濁って流れていくだけ。浴びても浴びても、指の爪の内側とへその奥と耳の裏に、男たちの匂いがしみついていた。蒸れた皮膚から滲む汗が、洗いたての清潔な匂いと混ざり、かえって饐えた甘さを際立たせる。福留は玄関の段差に腰を下ろして、壁に頭を預けたまま動かなかった。どうしたらいいかと聞いたら、彼は「水、飲んでから考える」とだけ言い、二人で冷たい麦茶を飲んだ。そのときはまだ、指先に触れる冷蔵庫の取っ手が、現実のものだと思えた。ステンレスの冷たさが、汗ばんだ掌へ食い込む感触だけが、細い糸で世界と自分を繋いでいるようだった。
夕方になって、玲香から音声付きの動画通知が届き、画面が光る。不死身の証明みたいに、赤いマークが隅で点ったまま消えない。テーブルの上で、スマホがぶるぶると低く震える。その振動音が、静かな居間の空気を細かく裂いていく。紗季は、まるで毒虫の羽音でも聞くみたいな気持ちで、それをじっと見つめた。
電話の向こうから、玲香の声が流れてきた。受話器ごしでさえ、彼女の馨りが鼻先へ漂ってくる錯覚に、背筋がしっとりと湿る。
「先輩? 元気? 声、聞かせてよ」
着信のスピーカーを耳に当てたまま、紗季は台所の椅子に腰を下ろしていた。テーブルの上で光る液晶と、窓の外の電線。細い線が風に揺れて、沈みかけた日を五本の輪に切っていた。橙色の光が、薄汚れたレースのカーテンをすかし、床へ這うようにしみ込んでいく。
「玲香……さん」
自分の声が、こんなにも頼りないとは思わなかった。掠れて、喉の奥に魚の小骨が引っかかっているような声。受話器を握る指が、汗で滑る。昨日の夜から、掌の湿り気は一度も引いていない。
「動画、届きましたか? 今、横で流してるんですけど、なかなかいい画ですよ」
電話の向こうで、衣擦れのような音がした。玲香が、ソファかベッドの上で、裸の腿を組み替えたのだ。そんな光景が、音だけでありありと浮かぶ。
「特に福留さんが、私のを飲まされてる場面。あのときの先輩、本当にいい顔してた。……何なら結婚式のエンディングムービーに使います? 参列者、みんな泣いちゃうかも」
笑い声が、電話の奥で乾いて弾けた。一粒ずつ、ガラス瓶の底に落ちる白い錠剤のような笑い声。けれどその笑いは、すぐに途切れて、まるで波が引くみたいに静かになる。玲香という女は、今、本物の幸福を手のひらで転がしている。自分で壊した物の破片を踏みながら、裸足でも平気、とでも言いたげな声だった。
「先輩に、話しておきたいことが、あるんです」
玲香の声の質が、ほんの少しだけ変わった。笑いを含んだ明るさの下から、温度の低い何かが顔を出す。喉の奥に石を詰めたような、凍った炎の声。紗季は黙って、耳を澄ませるしかなかった。テーブルの木目へ、爪をそっと押し込む。夕日が、指の関節を赤く縁取った。
「私、福留さんと、その前から関係があったの。……ねえ、聞いてる?」
一拍の沈黙。紗季は返事ができなかった。唾を飲み込む音が、受話器の向こうにまで届きそうだった。
「聞いてるんでしょ。先輩、真面目だから、耳、塞いだりできないもんね」
玲香の声に、再び薄い笑みがからむ。それが鋭い刃のように、沈黙ごと切り裂いていく。
「給湯室でね、二人きりになることが、何度かあったんですよ。……あの人、何も言わなかったでしょ」
指先から、力が抜けていくのが分かった。給湯室。あの甘い香水の残り香が、鼻の奥で腐った花のように開く。湯気と、インスタントコーヒーの苦い匂い。そのなかに、いつも微かに漂っていた花の香り。それは間違いなく、玲香のものだった。テーブルの端に置かれた指輪の留め金だけを、親指でぐりぐりと押した。指輪のサイズ直し。まだ戻っていない。空白の指。留め金だけが冷たくて、それが唯一の囲いだと思っていたのに。
「私が、先に好きだったの」
言葉が、一つずつ、丁寧すぎるほど区切って紡がれる。怒りを包んだ薄紙のような静けさで。
「……ねえ、聞いてる? あの人の、不器用なところ。口数が少なくて。でも、目だけはずっと真剣で。……全部、私の、ものだったのに」
玲香が、受話器の向こうで深く息を吸った。それから、喉を震わせて笑う。かすれた、空気だけの笑い声。
「……ふふ。あ、ごめんなさい。泣くかと思ったけど、無理だったわ。ね、先輩。私がどれだけ、あの人を見てきたか。指の先から、睫毛の影まで」
紗季は、言葉を失ったまま、受話器を耳に押し当て続けた。夕日が、いつのまにか強さを増していて、台所の窓ガラスが一枚の燃える鏡みたいに輝いている。電線の影が、壁の上でゆらゆらと首を振っていた。
「会社の人はね、みんな私のこと、ただの若い後輩だと思ってた。なのに、あの人だけは、ほんとに、私を見てくれてた。……そう、思ってたの。違う?」
電話の向こうで、玲香がわずかに笑う。今度は、鼻にかかった甘ったるい笑い声。唾液の絡む湿った音が、耳のすぐ傍でぐちゃりと鳴った気がした。
「二人で食事にも行った。手も、最後までじゃないけど、触れた。あの人の指、覚えてるわ。骨ばってて、大きくて、なのにすごく温かくて。……優しかった。どうして優しくするんですかって、聞いたんです」
玲香の声が、途中でわずかに裏返る。それは、演技というには生々しすぎる震え方だった。紗季の指が、自分の太ももをぎゅっと摘む。痛み。なんとか、自分がここにいることを保っていられる痛み。
「そしたら、黙って笑うだけ。唇、ちょっと上げて。……それが答えだと思ってた。間違ってたの?」
玲香が、鼻をすする小さな音を立てる。間。それから、息を整えるように、ゆっくりと吐き出す。
「なのに先輩が現れて。あの人は、私じゃないほうを選んだ。何も言わないまま。私の前から、いなくなった」
言葉が途切れるたび、電話の向こうの沈黙が重くなる。暗い水底の泥を、素足で踏みしめていくような、粘ついた間合い。紗季は、指先で受話器を握り直す。掌の汗が、受話器の曲面にねっとりと吸いついた。
「私、何を間違えたのか、最後まで教えてもらえなかった。……それって、裏切りじゃないですか」
声が、面を変えた。静かな水面から、ぬらりと、憎悪が首をもたげる。
「ねえ、教えてくださいよ、先輩。……あなたが、奪ったんですよ。あの人の隣を」
受話器の向こうで、また息を吸う音。鼻の奥をすする、短く湿った音。吾子の泣き声を押し殺すような呼吸。紗季の指が震えた。言葉が何ひとつ出てこない。給湯室の残り香。玲香が福留を見る目。思い返せば、何度か気づいていた。あの視線は、後輩が先輩へ向けるものにしては、いつも少しだけ熱を持ちすぎていた。それを見ないふりをしていたのは、私だ。いや、見ないふりをしていたのではなく、自分の幸せの重さで、押し潰していたのだ。
「私が先に好きだったんです。……知ってました?」
声が、今度はゆっくりと熱を帯びていく。怒りよりも、もっと泥のような、ねっとりした感情が電話の回線を伝わってくる。粘着質の液体が、耳の穴の奥で音を立てて渦を巻くみたいだった。
「先輩、知ってましたか。あの人が、給湯室で私に、困った顔をするの。ねえ。先輩には、したことない顔ですよね。私だけが知ってる顔。……今でも、たぶん」
「玲香さん、違う。私は、そんなつもりで……」
紗季の声は、言い終える前に、玲香の笑い声に踏み潰された。けらけらと、ガラスを割るような笑声が、受話器の中で乱反射する。
「何が違うの。……あ、じゃあ聞きますけど、先輩、あの人が私と二人で飲んだこと、知ってましたか。私があの人の家、行ったこと。知ってました?」
沈黙。夕日が、窓の外で深い赤に沈み、部屋の中の空気を血の底のように染める。紗季は、受話器を当てた耳の裏を、汗が一筋伝っていくのを感じた。腋の下から、じわ、と冷たくない汗が滲む。身体の穴という穴が、昨日の夜の生々しい熱を思い出し、微かに紐のように蠢いた気がした。
「知らないですよね。ふふ、当然よね。だって先輩、知ろうともしなかったでしょ。……ねえ、聞いてますか? もしかして、泣いてる? 違いますか。ああ、でも嬉しいな。気持ちいいんです。今、あなたが、声を出せなくなる瞬間を見るのが」
紗季は、目を見開いたまま、窓の外の電線を見つめた。風に揺れて、五本の線がゆっくりと弧を描く。あの線の上に、昨日の夜も、今日の夕方も光が走る。繋がっているのかいないのか、分からないもの。自分と福留のあいだ。福留と玲香のあいだ。そのすべてが、細く撓んで、音もなく振動している。
「先輩は、何の苦労もなく、ふらっと来て、私の、ずっと欲しかった場所に座った。……私が、どんな気持ちでいたか。想像できますか? できないでしょ。想像できてたら、昨日みたいな顔で、あんなに鳴いたりできるわけがない」
声が、また途切れる。玲香が短く笑い、それから息を飲む。その吸引力が、耳の奥を冷たく舐めた。
「……あーあ。私、泣いちゃいそうだわ。先輩のせいよ。ほら、笑ってよ、それとも、謝る? 謝ったら許す、なんて、言わないけど」
「……玲香さん、ごめん、なさい」
自分でも、なぜ謝ってしまったのか分からない。けれど口から言葉がこぼれていた。謝罪ではない、音にした哀願。福留の不倫の過去ではなく、知らないまま幸せだった自分への、濡れた情けなさ。声が掠れて、ごめんなさい、の後半が、空気を擦って消えていく。
「あは。……謝るんだ。本当、先輩は、いい人なのね。だから、選ばれたのね」
玲香の声から、笑みが消えた。刃渡りの長い、月明かりのような声。
「私がずっと、好きで。五年も、待って。なのに、あの人は、先輩とのこと、何も隠さなかった。……聞かされて、私、笑いましたよ。あ、そうなんですね、おめでとうございます、って。その足で、靴箱の前で、みっともなく泣きました。人に見られるまで、ずっと」
受話器を強く握った。骨が鳴るほどではなく、けれど指の腹が白くなるほど。俺ではなく紗季は、何か言わなければならない。でも、言葉にできる形がどこにも見当たらない。だって、もし玲香の言うことが本当なら、彼女はずっと、自分の前にいた。福留という一人の男の、知らない過去を抱えて。その過去の底に、涙と、五年の歳月と、きっと、誰にも触れられていない恋心が沈んでいる。それは、すべて言葉ではなく、沈黙の形をしている。
「……その話は、今しなくていい」
福留が振り返らずに言った。低く、短い。だが、玲香の放つ高音は彼の声ごと踏みつけていく。窓から差し込む夕日が、福留の首筋をぬめるように照らし、浮かんだ脂と汗の膜が、橙色にぎらぎら光る。彼の背中が、言葉にできない過去の重さで、壁みたいに見えた。
「今じゃなかったら、いつ話すんですか。式が終わってから? 二人の新しい生活が始まってから? それとも、私が死ぬまで、ずっと黙ってればよかったんですか?」
玲香の声が、受話器の中で濡れた炎のように揺れた。燃える薔薇の色をした、熱く湿った息が、紗季の耳の穴を焦がすようだった。
「……私、もう黙って引き下がる女じゃないんですよ。あの日から、そう決めたの。あなたに、何も選ばせてもらえなかったあの日から」
一音一音に、氷っている熱があった。恨みというよりも、執念という名の芳しい毒。紗季は電話から目を離せなかった。テーブルの木目が、夕日に浮かび上がってくっきりと見える。木目の流れが、蛇の鱗のように波打ち、その黒い溝がどこか、自分たちの未来みたいに思えた。福留の背中はまだこちらを向いていて、彼がどんな顔をしているのかは見えない。それでも、彼の首の後ろに浮いた冷や汗のような光を見た気がした。
「そういう話を、後からするのは、卑怯でしょ。……まるで私だけが悪いみたいに」
声が震え、消え入りそうになり、けれど次の瞬間には鋭く持ち上がる。心臓の波形みたいな声。玲香の呼吸が、受話器ごしに一定のリズムで紗季の鼓膜を押した。
「私、悪いですか? 私、あなたに、何かしましたか? ただ、好きだっただけですよ。先輩に会う、ずっと前から。あなたが、私じゃない人と結婚するって聞くまでは。……まだ、やり直せるのかもしれないって、思ってたんです。それぐらいの想いで、五年も、六年も、ずっとですよ」
福留の肩が、わずかに落ちた。窓の外の電線が風に揺れて、日が沈みきる前の橙色が、彼の灰色のカーディガンを薄く透かすように照らしていた。彼が何を考えているのか、紗季にはもう分からない。いや、分からなくなった。分かっていたつもりで、その実、彼の口から語られたことしか知らなかったのだと、今さら突きつけられる。彼の背中が、夕日を吸った壁のしみのようになって、そこだけが剥がれた古い時間に見えた。
「じゃあ何を話すんですか。式のこと? 教えてあげましょうか。会場、花でいっぱいになってますよ。白い花。……先輩が選んだ花でしょ」
玲香が、歌うように続ける。鼻にかかった甘い声。その声が、びっしりと花で埋まった葬祭場を思わせた。
「ねえ、花だけ先に届いてると、キャンセルするとき虚しいですよね。こんなに綺麗なのに、飾る場所、ないんだもんね」
キャンセル。その言葉が、刃物の背のように胸の中央をゆっくり押した。まだ決めてもいない。なのに、口に出された瞬間、もうそれが当然の分かれ道みたいに部屋の真ん中で光っている。胸骨の下を、鈍い金属の板が滑っていくみたいな痛み。けれど、それは不思議と冷たく、痛いのに麻酔のあとのようだった。
「ねえ先輩、どうします? このまま式、できます?」
乾いた問いが、二度、三度、耳の奥で反響する。度重なる問いを、紗季は答えなかった。答える代わりに、下ろしていた両手を自分の膝の上で握りしめる。爪が太ももの肉へ食い込み、ぐっ、と生あたたかい痛みが走った。こんな痛みだけが、まだ自分の身体であることを教えてくれる。生地越しに、自分の熱が指へ吸いついてくる。脚の間からは、洗い落とせなかった夜の気配が、汗ばんだ湯の匂いになって這い上がってくる。蒸れた酸っぱさと、男たちの指の味が、内ももを通じてじくじくと蘇った。
福留が振り返った。夕日が窓を透いて、彼の深い茶色の瞳を赤く縁取る。彼はゆっくりと、紗季の向かいの椅子を引いて座った。二人の間に、光る液晶が置かれている。居間の明かりは点いていない。電線の影が壁へ落ちて、細い曲線を描いていた。福留の白いシャツが、赤い光を浴びて薄く発光し、首から浮いた静脈が、青い糸のように走った。
玲香は受話器の向こうでまだ喋っている。だが、音が遠い。福留の指が、机の上のスマホを伏せた。彼の手首には縄の痕がくっきり残っていて、爪の生え際は土の色に濁っている。その左手が、静かに紗季の拳の上へ重ねられた。冷たく、骨張って、それでいて指の腹だけが、じんわりと温かった。その温度が、ずっと前から知っているこの人の形だった。
「紗季。……僕らは、どうしたいんだろうな」
彼の声が、初めて方向を失っていた。いつもの短い言葉なのに、泳いでいる。まるで、声そのものが、風に揺れる電線の上を歩いているみたいだった。紗季は彼の四本の指を握り返す。骨が、指が、ひどく冷たい。式場の椅子で、指輪の話をしていたとき、彼の手はもっと温かかった。あのときは、二人で笑って、サイズの直しで笑い合った。そうだ、私は彼と結婚したかった。指輪を嵌めた薬指を、窓の光に透かして笑う彼の目を、今日の朝までは、まだ、そこへ向かって生きていたはずなのに。
「……玲香さんの言う通りかもしれない」
声が掠れた。掠れたまま、喉の奥の酸っぱい塊を吐き出すように続ける。声帯が、昨日の夜に彼女たちへ無理やり開かれた別の穴からの熱を思い出すかのように、微かに音を裏切る。
「結婚式のことを、今、決められるとは思えません。私も、あなたも、こんな……こんな身体で。式をしても、あの動画がある限り、私たちは、終わらないまま続くから」
福留はため息をついた。彼の唇の端に、尿の匂いを拭った指先でこすったような薄い赤みが残っていた。彼はもう一度だけ、紗季の拳を包む。骨の皿に載せられた、重くて、ぬるい体温。その下で、二人分の指が、ゆっくりと絡まった。
「僕は、紗季がいれば、それで」
「私もよ」
言い終えると、涙が頬を流れた。悲しくて、苦しくて、それでもこの人を失いたくない。その感情が、かえって答えの輪郭を溶かしていく。愛しているから一緒にいる。そうじゃない。愛しているから、夜の記憶ごと縛り合うのは正しくない。頭ではわかっても、繋いだ指の骨の形を離す勇気など、まだどこにもない。涙が唇の端まで来て、塩辛さが口の中へ這入る。玲香の笑い声が、まだ耳の奥のどこかで反響していた。あれはきっと、本当の悲鳴だったのだと、今になって分かる。幸福を壊す音は、いつもこんなふうに乾いている。
「……福留、電話するわ。式場に」
受話器を取った。玲香との通話は、彼女の鼻歌みたいな音を最後に切れていた。画面にはサムネイルの中の自分の体が、暗い部屋のなかで白くぬめっている。それを隠すようにスマホを膝の上へ伏せ、電話帳から式場の番号を探す。指が滑って、なかなかボタンが押せない。汗と、泣きで滲んだ指先。画面の上を、指紋の脂が虹色の筋にして滑る。あの会場の、白い花。ガラス瓶。花屋の冷蔵庫みたいにきりりとした、茎と水の匂い。その記憶が、玲香の甘ったるい香水の残り香と混じって、鼻の奥に白い膜を張らせる。それは、棺の内側に張られる白い布みたいに、視界の隅をふわふわと覆った。
通話がつながると、ブライダル担当の明るい声が響いた。
「お世話になっております。先日は打ち合わせにご来店いただきまして」
いけない、声が出ない。空気だけが、口の中で乾いた紙を擦るみたいに鳴った。紗季は福留のほうを見た。彼は微かに肯いた。その肯きが、掴まろうとした岸が、音もなく崩れていく許しのように見えた。
「……式を、取り消していただきたいんです。ご迷惑をおかけして、すみません」
担当の声が一拍止まる。その隙間へ、エアコンの送風と、自分の乱れた呼吸が吸い込まれていった。機械の空気が、生乾きの部屋中を這い、昨日の夜の残滓をみんな散らかしていく。キャンセル理由を尋ねられ、紗季は近くにない嘘を「都合がつかなくなって」と短く告げる。花の話だの、料理の話だの、確認がいくつも続いた。耳を塞ぎたかった。けれど受話器を置くわけにはいかない。隣で福留が、伏せたスマホの赤いランプをじっと見つめていた。それは、あの夜に私たちを照らした赤い光ではなく、充電の残量を示す小さな点だった。もっとずっと弱くて、頼りない、現実の赤。
受話器を置くと、部屋が急に静かになった。時計の音まで聞こえそうな沈黙が、床の上に澱のように溜まる。乾いて、固く、都会の夕暮れの音は遠い。外では電車が線路を渡っていった。その重い車輪の響きが、部屋の壁を通して、腹の底へ小さな振動をしみ込ませる。電線がまだ揺れていて、窓の外の空が紫へ沈んでいく。分かれた世界の表面に、ぽっかり開いた夜の入り口が、ゆっくりと口を開けていた。
「……花、届いてたみたい。式場に、もう入ってる、って」
「そうか」
福留が言う。彼の指はまだ紗季の手の上に置かれたまま、一向に離れる気配がない。触れた部分から、彼の体温が、湿った夜風のように伝わってくる。私たちは、破局を選ぶ手続きを済ませた直後の、決められていない抜け殻の時間を共有している。
「片付けないとね。私のもの、あなたのもの。いろいろ混ざってるから」
紗季が苦笑いを浮かべると、福留も口元だけで薄く応えた。彼は、目の前のスマホを手に取り、親指で通知を横へ払う。画面の光が一瞬強くなり、彼の顔を照らした。赤、白、紫。サムネイルに写った自分のうなじと彼の表情が、闇の中で同じ色に沈んでいた。
「動画、消さなくていいのか」
福留が、紗季ではなく部屋の角へ向かって言う。その声は、窓ガラスの外の闇を探すようで、けれど柔らかい心配の骨組みに支えられていた。
「消しても、玲香さんが持ってるから。私たちの手には、どうせ何も残らないんだよ」
紗季は椅子から立ち上がった。太ももがスカートの裏にこすれ、まだ生あたたかい汗が布に移る。肌と布のあいだで、昨日の夜の音が、くちゅ、と小さく鳴った気がした。キッチンの蛇口をひねると、しん、と水の音が跳ねた。冷たい水をコップに注いで、福留の前へ置く。彼は「ありがとう」と小さく言って、だが口はつけなかった。冷蔵庫の上に置いた指輪の留め金が、夕闇の中で針みたいに光っていた。あの留め金だけは、まだ今日という日と、少し前まで続いていた幸福の、ぬかるみみたいな境目を照らしている。
二人して居間の床に段ボールを引いたのは、時計の針が九時を回った頃だった。棚から彼のシャツを出し、紗季の本を分け、食器を二分割する。どれも、つい一週間前まで同じ日々の中で使っていた物ばかりだ。手に取るたび、この家の時間が薄皮のように剥がれていく。けれど涙は、もう出なかった。鼻の奥で、玲香の香りが潮の匂いみたいに満ち引きして、動くたび、蘇っては消えていく。それだけが、肌の上から離れない一日だった。
福留が一冊のハードカバーの小説を手にし、それを紗季の段ボールへ置いた。
「これは、君のだろ」
「いいの。あなたが読みかけだったから、持ってていいよ」
「……そうか」
彼は本を一度だけ開いて、栞の位置を確かめた。それから自分の段ボールへ入れ直す。ページの間から、ちいさな白い花の栞がぽろりと落ちた。押し花のトルコキキョウ。二人で花屋へ寄ったときに、試しに買った一輪から作ったものだった。床の上で、透明なフィルム越しに白い花びらが死んだ魚の腹みたいに光っている。福留はそれを拾い、ためらいながら紗季の手の上へ乗せた。重さなど、ほとんどなかった。それでも、白い花の乾いた縁が、肌の上を薄く滑り、消えかけの骨の匂いを放った。
日付が変わるまで、二人は結局、同じ部屋で荷物を分け続けた。分け終えたあとも、ソファの両端で小さく眠った。指一本も触れ合わないまま、精液と尿の匂いだけが、部屋の空気のどこかに残って、始発の来る朝を待っているようだった。スマホの通知は一度だけ、真夜中の三時に光った。玲香からのメッセージが一行、「おやすみなさい、先輩」とあった。それを見たとき、紗季は指輪を外した薬指の根元へ親指の腹を這わせた。何かを、とても大切なものを、形も残さず飲み込まれた気がした。暗い部屋のなかで、充電中の赤いランプが、眠る二人のあいだを、心臓のように静かに点滅していた。
第6章 指輪のことを忘れさせて

土曜日の朝、私は式場の前を通り過ぎた。歩道の向こうに、白い壁とガラス張りのエントランスが見える。今日は結婚式予定日の前日だ。明日、ここで私たちは永遠を誓うはずだった。誓う予定だった。けれど建物の前はひっそりと静まり返り、ガラスの内側で掃除の人影がひとつ、ゆっくりと動いているだけだった。エントランスの植え込みの陰に、小さな白い花が咲いていた。花壇に飾るための、名前の知らない花。私は一度だけ足を止めて、それから目を伏せた。風が鼻の奥をくすぐり、排気ガスの匂いに混じって、微かに花の香りがした。冷たい空気の粒が素肌に当たる。式場の自動ドアは、私を中へ招いてはくれない。もう招かれないのだ。
通りの端を曲がって、小さな宝石店への道を歩く。ポケットの中には預かり証が一枚。折り目がくたびれて、角が丸くなっていた。先週の金曜日に預けてから、たった八日しか過ぎていないのだ。たった八日で、こんなに遠くへ来てしまったのか。何も変わっていないはずの街路樹も、アスファルトのひび割れも、私の足音だけが知らない場所で鳴っているみたいに浮いて聞こえる。シャツの襟元から入る風が、首筋に巻きついて離れなかった。
店の扉を押すと、からん、と真鍮製のベルが鳴った。小さな店内には客が一人もいなくて、展示ケースの白熱灯だけが白々しく硝子の上で揺れている。壁際のショーケースに指輪が並び、その奥から、若い女性の店員が顔を出した。紺の制服を着た、二十歳そこそこの娘だ。見覚えのある笑みを浮かべて、私の預かり証を受け取る。
「お預かりしておりました。サイズ直し、終わっております。少々お待ちくださいね」
店員はそう言って、カウンターの奥へ消えた。床に敷かれた薄い絨毯の毛先が、靴底の重みで沈む。ガラスケースに手を突き、うっかり指紋を付けはしないかと、指先をスカートの横で拭った。手が冷えている。握り拳の中に汗が滲んで、ひどく冷たかった。
店員が戻ってきて、白いトレイをカウンターに載せる。柔らかな黒いビロードの上に、銀色の指輪が一つ。あの日、福留が私の薬指に通そうとして、途中で引っかかって笑い合った指輪だ。白磁器のように滑らかな地金の光が、蛍光灯の下で一瞬だけ瞬いた。
「ご確認ください。内側の刻印も、ご希望どおりです」
店員の声が、やけに明るく鼓膜を弾く。私はトレイを覗き込んだ。輪の内側に、S・F、と二人のイニシャルが刻まれている。Saki、Fukutome。つい二ヶ月前、この文字を決めたとき、彼は「そうしよう」と静かに笑った。その短い声が、耳の奥で小さくこだまして、消えた。もう誰の指にも嵌まらない指輪。いや、私の薬指には、まだ嵌める余地が残っている。今、手に取って、左の薬指へ滑り込ませれば、あの日やり直せるかもしれない。そんな馬鹿げたことを本気で考えて、喉の奥が熱くなった。
「……あの」
私の声は、自分で思うよりずっと掠れていた。店員の黒い瞳が、何かを待つように私を見ている。
「すみません、少し、見せてください」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
彼女は一歩下がり、手を腹の前で組んだ。私はカウンターの上で、指輪を手に取らないまま、革張りの小箱の留め金を何度も撫でた。あの夜から、私の指先は何かに触れるたび、相手の温度を探してしまう。福留の手、福留の腰、福留の、何も言わない背中。けれど今、目の前に転がっている金属の輪は、とっくに熱を失っていて、ただ冷たく光っている。
結局私は、指輪を手に取れなかった。指先が小箱の横で止まり、自分の左手の薬指を見下ろす。八日前まで指輪の跡があった場所。あの痕は消えていた。跡形もなく消えて、白い肌がそこにある。福留と過ごした時間の痕は、身体の表面からはもう剥がれてしまった。なのに親指の腹で探ると、まだ何かが埋まっているような痛みがある。薬指の根元ではなく、掌の中、骨の奥のほうで、ずきん、ずきんと脈打つ、形のない熱。
「こちらの指輪は、いかがなさいますか」
店員の声に、私は顔を上げた。彼女は微笑んでいる。口元は優しいのに、視線はカウンターの指輪へ釘付けになっている。客の迷いなど、この店では毎日何度も目にしているのだろう。私はトレイの縁に指をかけて、ようやく指輪を持ち上げた。ずっしりと、思ったより重い。内側の刻印を指の腹でなぞると、冷たい凹凸がくっきりと浮かんだ。
「……いただきます。このまま、ケースを」
声を出すと、胸の奥がぎゅっと鳴った。店員が紙袋を用意する間に、私は展示ケースの前で待つ。薄いガラス越しに、自分の顔が映っていた。少し痩けた頬、涙の気配のない乾いた瞳。口元は笑っているようで、どこにも笑っていない。あの日、玲香に「目が笑っていない」と思ったときの、彼女の表情に似ている。そう気づいて、指先が紙袋を掴んだ。
店を出たとき、太陽がアスファルトを白く照らしていた。アーケードのない道は、光の粒が乱反射して痛い。耳の奥に、店員の「ありがとうございました」がつまらないメロディーのように残った。紙袋の取っ手を両手で握ると、中で指輪の箱がから、と小さく鳴る。私は今、この世で一番重い、小さな箱を持ち歩いているのだ。
福留からの連絡は、昼前に一度だけ、短文のメッセージで来た。「届いたよ」とだけ。それ以上は何も書かれていない。既読だけをつけて、返事は書けなかった。指が止まった。私は、スマホの画面を伏せた。彼はもう家を出ている。段ボールの山を横目に、あのアパートから、静かな足音で出ていった。最後に、何か言いたいことがあったはずなのに、夜明けの光が部屋に差し込むまで、二人ともそれを口にしないままだった。
夕方、待ち合わせは川沿いの橋の上だった。福留が選んだわけでもなく、私が言い出したわけでもない。電話の中で「指輪、渡したいの」と切り出すと、彼は数秒黙ってから「橋のところでいいか」とだけ応じた。橋のたもとまで歩いていくと、彼はすでに欄干にもたれていた。グレーのカーディガンに白いシャツ、チノパン。あの日の服装と、何も変わらない。変われないのは、私たちの方だ。
「ごめん、待たせた」
私が言うと、福留は首を振った。
「今、来たとこだ」
風が川面を渡って、生ぬるい水の匂いを橋の上まで運んでくる。車の通る音が絶えずあって、その下を電車が走る音が重なった。夕日が沈みかけて、向こう岸の建物の窓ガラスを橙に染めている。川の流れは遅く、光の帯が岸から岸へ細かく震えていた。橋の欄干に置いた二人の手が、触れそうで触れない。私の小指と彼の小指の距離は、あの日からずっと、埋まらないままだった。
「これ、返すね」
紙袋から小箱を取り出して、私は彼へ差し出した。福留の手が、箱を受け取る。彼の指先が、一瞬だけ私の指の背に触れた。氷みたいに冷たい。夕陽の熱で温まったはずの空気の中で、彼の手だけが、川底の石みたいにひんやりとしていた。
「指輪、受け取ってきた」
私がそう続けると、福留は箱を開けた。蓋が開く。白い内張りの上で、指輪が一本の銀色の畝を作って横たわっていた。彼は黙って、刻印の内側を確認するように、箱を少しだけ傾けた。夕日がイニシャルの溝をよぎり、細い光が走る。彼の深い茶色の瞳が、その光をじっと追った。
「……直ってたんだな。よかった」
彼の声は、橋を渡る風より小さかった。よかった。何がよかったのだろう。指輪のサイズが合ったことか。それとも、こうして別れのけじめがつくことか。聞けなかった。聞く勇気の代わりに、私は欄干に両手を置いて、川下のほうを眺めた。水面を斜めに切る影が、ゆっくりと流れていく。夕暮れの空気は生ぬるくて、なのに背筋だけが水に浸かったように冷える。
福留が、閉じた箱を掌の中で静かに持ち直した。夕陽の沈む気配が、彼の横顔の輪郭を薄橙に縁取って、まつ毛の先を金色に梳いていく。しばらく、どちらも口を開かなかった。欄干の鉄の手すりに触れている私の指先は、すっかり冷えきって、感覚だけが遠くに浮いていた。ふと、私はスカートのポケットに手を差し入れた。預かり証と一緒に、あの革張りの小箱から外れた留め金がころんと転がっている。あの夜、玲香の家で引きちぎられるようにして外れ、私のポケットの底に潜り込んだままになっていた、真鍮色の小さな金具。指輪を受け取りに行く前、店で箱を検めたとき、留め金だけが失われていることに、店員も私も気づかないふりをしていたようだった。けれど、私はあの夜からずっと、この留め金を捨てられずにいた。壊れてしまったものを、なかったことにできない質だからだ。私はそれを掌に載せて、川面に透かした。夕陽を受けて、留め金が錆びた金色に光る。これはもう、何も留めることのできない、ただの幸福の残骸だった。
「これ……この箱の、留め金なの」
私がそう言うと、福留は黙って私の掌を見た。夕風が、私の手のひらの上で留め金を冷やしていく。彼はひと呼吸おいて、低い声で言った。
「ずっと、持ってたのか」
「返さなきゃって思ってたの。でも、壊れた金具をあなたに返すのも、なんだか」
私は語尾を濁した。言い訳にしかならないから、これ以上は言えなかった。福留は指輪の箱を開いたままの状態で私に差し出した。彼の手首が夕日の中でゆっくり動いて、白い内張りの上に、私の留め金を置いた。
「ここへ入れておくよ。別々にしておくより、きっといい」
彼はそう言って、留め金と指輪が隣り合うようにして箱を閉めた。幸福の残骸は、指輪の傍らに、静かに収まった。箱をポケットへ入れる寸前、福留が、蓋の上をそっと指で押さえた。彼の骨ばった指先が、夕陽の赤を弾いて、影を作る。その仕草を見た瞬間、私の胸の一番深い場所が、ひどく静かな音を立てて崩れていった。これで、本当に、何もかも彼の手の中へ戻っていくのだ。
「なあ、紗季」
福留が、川を見たまま低く言った。私は、その声にだけ、はっきりと鼓動を引き寄せられるのを感じた。
「あの日、指輪を選んだときのこと、覚えてるか」
川風が、彼の言葉を柔らかく攫って、私の耳元へ運んでくる。私は黙ったまま、小さく二度、うなずいた。喉の奥がぎゅうと絞まって、息の形にならない。覚えている。覚えていないはずがない。あの日、彼はショーケースの前に立ったまま、とても長い時間、黙っていた。私は隣で、彼の横顔のまつ毛の動きばかり数えていた。
「あなた、あのとき、すごく真剣な顔で眺めてたよ」
私は、かすれた声で返した。語尾が、風に混じってうまく伸びない。それでも、この記憶を渡したくて、私は唇を湿らせる。
「私、あんなふうに物を見る人なんだって、あの日初めて知ったの。店員さんに声をかけられても、全然気づいてないみたいで」
福留は、微かに目を細めた。笑っているのか、眩しいのか、私にはわからなかった。夕日の光が、橋の鉄骨の間を抜けて、彼の瞳の縁を琥珀色に滲ませる。
「あの店で、ずっと迷ってたよ」
彼が言う。声は低いのに、たまらなく近い。まるで夕日の底から、じかに私の内側へ届くみたいに。
「お前が選ぶと思ってたやつと、俺の好みが全然違ってて、どう言い出そうか迷ってた。結局、隣でお前が指差したやつを、このままかって思ってた」
私は、ぎこちなく笑みをつくった。口の端が引きつって、うまく笑えていないのが自分でもわかった。
「あの指輪、私が最初にいいなって言ったの、覚えてるけど、あなたがうなずいたとき、静かな顔して胸の前で腕組んだの。あれ、なんだか、写真見てるみたいだった」
「そう見えたか」
福留が、短く相づちを挟む。その声の下で、橋桁をくぐる風が、うぅ、と低く鳴った。水面が、溶けた夕日をひとかたまりに集めて、くすんだ金いろに波紋を揺らしている。彼が掌の中の箱を、そっと指で回す音だけが、妙にはっきりと耳へ届いた。
「選んで帰って、飯食いながら話したよな。式のあと、何年この指輪を磨くことになるんだろうなって」
福留が、かすかに笑った。
「俺は、十年とか言ってなかったか」
「言ってたよ」
私は、笑いながら返そうとして、鼻の奥がつんと灼けるのを感じた。
「私、二十年だと思ったの。毎日おそるおそる磨いて、傷つけそうで嫌だなって、一人で真面目に考えてた」
「らしいな」
福留の短い言葉の端に、優しさが滲んでいる。茶色い瞳が、夕日の中でも揺れずに私を捉えていた。その視線をまともに受け止めると、胸の奥に沈んでいた何かが、音もなく剥がれていく。
「指輪、内側の刻印、二人で決めたときも、あなたがずっとカタログの隅を押さえてた。あんなに丁寧に扱う人なら、二十年どころか、一生、磨き続けるんだろうなって、勝手に想像してたの」
私の声は、思っていたより長く続いた。彼の前だと、言葉はいつも余計なところまで溢れてしまう。動揺するほど、説明が長くなる。昔から、そうだった。
「そうやって、俺のほうを信用しすぎるんだよ、お前は」
福留が、かすかに息をつく。叱るような響きはない。縁石に置いた私の手へ、彼の視線が一瞬だけ落ちる。触れたい。けれど、もう、中途半端な触れ方だけはしないほうがいい。どちらかがそう思ったのか、二人の指先は、また数センチの距離へ戻っていった。
「信用してたんじゃなくて、信じるほうが楽だったの」
私がそう言うと、福留は黙って私を見た。彼は深いことは聞き返さない。けれど、その沈黙があまりにも深くて、私のほうがたまらなくなった。
「あなたが選んでくれた時間を、無駄にしたくなかった。それだけ」
福留が、箱をポケットへ入れずに、手の中へ置いたまま、欄干へ背中を預けた。川を渡ってきた風が、彼の前髪を揺らす。夕日はもう、橋の欄干の水平線を越えて、私たちの足元だけに橙色の名残を落としていた。
「無駄になんかなってないよ」
彼が静かに言った。
「指輪を選んだ日も、刻印を決めた日も、無駄じゃない。お前さえよければ、そう思いたい」
私の視界が、一息で滲んだ。川面が大きく歪んで、夕日の帯が朱い縄のように揺れる。風が、濡れた瞳の縁へ冬の匂いを吹きつけた。
「うん。そう思いたい。私も」
声が、涙で歪んで、まともに出なかった。福留は何も言わず、隣でゆっくりと息を吸った。彼の呼吸が、私の耳の奥で、夜が来る前の静けさみたいに響く。私たちの間に、沈黙だけが広がった。沈黙が広がるほど、川風の音が近くなって、水面の擦れる響きまではっきりと、骨の中へ沁みわたっていく。
夕日が沈みきるまで、二人で橋の上にいた。福留は時折、ポケットの中の箱へ指を触れて、私のほうを向かないまま、何かを飲み込もうとしていた。私も、その横顔の輪郭を指先の代わりに強く見つめて、彼の呼吸と、風の音と、遠ざかっていく夕日の翳りを、胸のどこかへ無理に刻みつけた。
「福留、あのね」
私が切り出すと、彼は箱から指先を離した。その指の動きが、やけに丁寧で、骨ばった節が順番に動いていくのが見えた。
「わたし、あなたといられて、よかったって。今も思ってる」
喉が痛んだ。言葉がぎこちなく口から出て、風にさらわれていく。福留は私のほうを向いた。前髪が額にかかって、影になった目元の奥で、茶色の瞳がぬれたように光っている。
「僕もだ」
彼が言った。短い。でも、この人の言葉はいつも、短いからこそ全部だった。熱いものがまぶたの内側へせり上がってくる。視界の端で川面が滲み、夕日の橙色がにじんで、橋の鉄骨が黒い絵の具を流したように揺れた。
「幸せに、なってくれ」
福留の声が、耳のすぐ横で小さく砕ける。私は唇を引き結んで、首を縦に振った。振りながら、涙が一筋、顎の先から落ちた。拭う手すら上がらなくて、夕風が濡れた頬を冷やしていく。まだ夏の名残の空気は、汗と、どこか甘い残り香をかき混ぜて、二人の襟元を揺らしていた。
「あなたも」
やっとのことで絞り出した声は、語尾が裏返って、笑うみたいに割れた。福留は指輪の箱をポケットへ入れ、欄干から背を離した。彼の足が、橋の上で小さく二歩動く。私も一歩、反対側へ動いた。靴底が砂を噛んで、ざり、と音を立てる。これで、最後のさよならだ。互いの顔をもう一度だけ見て、どちらからともなく背を向ける。振り返ってはいけない。振り返ってしまったら、川沿いの道を二度と歩けなくなる。背中と背中の間を、オレンジ色の夕風が吹き抜けていった。
夜、アパートに一人で戻った。鍵を回す音が、がらんと空洞の部屋に響く。靴を脱いで、カーテンを閉めた。電気は点けなかった。スマホだけが手のひらの中で仄かに光って、暗い居間へ四角い明かりを落とす。動画フォルダを開く指が、自分の指ではないみたいに冷たく震えていた。ロックがかかった画面の向こうに、あの夜の自分がいる。指先でフォルダを拭うと、サムネイルの小さな赤い点が、瞬きするように明滅して見える。風呂場の換気扇だけが、低い音を立てて回っていた。
橋の上での、あの静かな時間が、まだまぶたの裏に焼きついている。夕日が沈みきったあとの川面の暗さ。風が欄干の下をくぐるときの、湿ったかすかな唸り。福留が掌の上で、私の返した指輪の箱を何度も回していた。その小さな仕草ばかりが、体のどこか遠い場所で反響している。彼の低い声が、耳の奥で「無駄になんかなってないよ」と繰り返すたび、私は一人の部屋の暗がりの中で、息の形だけを変えていく。自分の中にある幸福の記憶が、夕日の色をまとったまま、胸の内側で静かに冷えて、沈んでいった。留め金と指輪は、今ごろあの箱の中で寄り添っている。どちらも彼のポケットの奥で、夕陽の名残をしまい込んだまま。幸福の残骸は、確かに彼の手へ渡したのだ。渡してしまった。それなのに、掌のくぼみだけがまだ、真鍮の冷たさを覚えている。閉じた指先を開くと、そこには何も載っていなかった。
開いてはいけない。再生してはいけない。そう思いながら、親指が画面を何度もなぞる。体内の奥に、まだ何か異物が残っているような生々しい感覚があった。シリコンボールが内壁を擦った記憶。重量みたいに腰の底をつかむ鈍い痛み。風呂で洗っても、爪の先まで入り込んだ男たちの匂いは消えないままだ。蛇口をひねって、給湯室の水道で手を洗ったあの日と同じ、消えない匂いが、空っぽの部屋の空気に沈んでいる。それでも、もう一方の手で反対の記憶を探している自分もいた。川沿いの道を、指輪のことで笑い合いながら歩いた午後。彼の小指が、歩くたび私の手の甲へ、触れそうで触れない距離を揺れていたこと。あの頃の私は、その距離の中にいちいち意味を探して、それでも幸せでいられた。その幸福のかけらが、今は暗がりの底から、薄い光の筋のように浮かんでは消えていく。
スマホのスピーカーから、微かに自分の声が漏れた。再生していない。ただ、ロック画面の向こうから、記憶の声が聞こえるだけだ。あの甘ったるい声。嘘みたいに乱れて、男を求めて、福留の名前を呼ぶ。赤いランプの明かりが、まぶたの裏でちかちかと明滅する。あの光に照らされた自分の肌が、液晶の中に眠り続けている。消せない。消しても、彼女の手元に同じ映像が残っている。私たちが壊したものは、もう、誰にも消せない。橋の上で「幸せになってくれ」と送り出してくれた人の顔を思い浮かべるだけで、この手の中の液晶が、私のすべてを映しているように思えた。あの夕日も、あの頃の指輪も、この動画の中では何も守ってはくれない。
私は床に座ったまま、動画フォルダを閉じた。小さく「ごめんね」と呟く。誰へ向けた言葉かは、自分でもわからない。福留へ、私自身へ、それから明日を迎えるこの部屋へ。冷たいリノリウムの床に手をついて、立ち上がる。明日は日曜日だ。市民センターの安いワンルームでは、窓の外から朝の光が差し込んで、花のない静かな一日が始まる。二度と二人で歩くことのない朝だ。それでも、夜は明けるのだ。当たり前みたいに、空の色を薄めて、電線の影を壁の上へ伸ばしていく。私は冷蔵庫から水を出して、一口だけ飲んだ。喉の奥で、微かに甘ったるい味が甦る。あれは、どこから来た匂いだったか。玲香の香水か、ビールの苦みか、それとも私自身の中に残った、消えない夜のかけらか。確かめる気にはならなかった。
カーテンの向こうで、風が小さく鳴く。私は真っ暗な部屋の中で、それでも静かに、明日の朝を待つ。指輪のことを、その重みだけを、もう少しだけ覚えていたい。だめだとわかっていながら、カーテンの裾を握った指先は、祈るように細かく震えていた。幸福は、ここにはもう残っていない。残っていないのに、夜のしじまが優しくて、どうしようもなく息が詰まる。明日もきっと、同じだ。目を覚まして、冷たい床に足を下ろして、湯を沸かして、それから誰もいない部屋の中で、一度だけ、深く息をする。たったそれだけの朝が、どこまでも私を待っている。
外で、風が止んだ。街の音が、遠く、水面の底に沈むように消えていく。部屋の静けさが、鼓動の数を増やしていく。指先に、橋の欄干の冷たさがまだ残っているようだった。福留と選んだ指輪の輝きが、川面の揺らぎが、私の薬指を探して暗い水底を漂流している。私は目を閉じて、そっと、掌の上で香りを探した。もう戻らない、二人ぶんの温度を。それでも夜は、こうして静かに、私一人の呼吸の音を拾いながら、どこまでも深く、続いていく。
登場人物
-
三田紗季 みた さき女性 ・ 29
外見: 鎖骨で揃えた黒髪、暗い琥珀色の瞳、華奢だが腰と太ももに柔らかさのある体格、身長158cm。服装: 職場では淡いベージュのブラウスに紺のプリーツスカート、休日は白いカットソーとロングスカート。穏やかで真面目、違和感を飲み込みがちな性格。
-
福留光 ふくとめ ひかる男性 ・ 31
外見: 清潔な短い黒髪、深い茶色の瞳、均整の取れた痩せ型だが肩幅はしっかりある、身長176cm。服装: グレーのカーディガンに白いシャツ、チノパン。無口だが誠実で、紗季を静かに案じる性格。
-
水島玲香 みずしま れいか女性 ・ 24
外見: 胸下まである茶色い巻き髪、色素の薄い茶色の瞳、小柄で豊満な体つき、身長152cm。服装: オフショルダーのニットにタイトミニスカート、甘い香水。笑顔と冷たい視線を使い分ける計算高い性格。
-
高遠誠二 たかとお せいじ男性 ・ 30
外見: 短く刈った黒髪、黒い瞳、鍛えた肩幅と太い腕、身長182cm。左腕に和彫りの入れ墨。服装: 黒いTシャツにダメージジーンズ。沈黙で威圧するが動きは落ち着いている性格。
-
大崎純 おおさき じゅん男性 ・ 29
外見: 無造作に伸びた金茶の髪、細い黒い瞳、引き締まった胸板と血管の浮く腕、身長178cm。右首に小さな蛇の入れ墨。服装: 白い半袖シャツに黒いスラックス。軽薄な笑みが多いが口数は少ない性格。





